かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

桜の花咲く前に、高尾の梅郷

2014-03-26 02:43:59 | * 東京とその周辺の散策
 春分の日も過ぎ、近くの公園では梅が満開だ。(写真)
 この季節、梅、桃、桜と、春の樹の花が続く。
 多摩の桜はまだ蕾が付いたところだが、3月25日の午後、東京都心も開花宣言をしたようだ。桜が咲きほころぶのも近い。
 桜の花弁は、小学校の頃の学生帽の校章や学生服のボタンに刻まれていたように、花弁の先に割れ目が入っている。それに、何といっても桜は見慣れているし、花柄が長いのでわかりやすいのだが、梅と桃の区別は注意深く見ないとむつかしい。梅の花弁は丸く、桃は梅に比べて花弁がやや細長く先が尖っているのだ。
 今日、日本で花あるいは花見といえば桜だが、そもそも、古代奈良時代ぐらいまでは宮廷で花といえば、中国に倣って梅であった。「万葉集」でも圧倒的に梅を歌ったものが多い(しかし数でいえば「萩」が最も多い)。
 当時の桜は山桜で、今のソメイヨシノほど派手ではなかったのだ。

  風運ぶ 花の香りを 頬に受けて
      君がくちびる 思いおこすや
                    沖宿

 *

 先週春一番が吹いた3月18日、高尾に梅を見に行った。
 正確に言うと、高尾に行ったので、梅を見てきたのだ。
 実は、その前週末に、知人が出演した芝居「冬の夜ばなし」(座シェイクスピア公演)を青山に観に行った。見終ったあと曙橋で食事をした帰りに、四ツ谷駅から中央線の快速電車に乗り、新宿で降りた際、その電車の吊り棚に本を置き忘れてしまったのだ。本はもう在庫がなくなった自分の本「かりそめの旅」の新本で、個人的には貴重なのだ。
 すぐに翌日、JRに電話で問い合わせたが、届いていないという。また、後日かけなおしてください、遅れて届く場合もありますからと言われたが、残念だが、僕の失態だから仕方がないと半分諦めた。再度その翌日電話してみた。すると、何と届いていた。忘れた当日ではなく、約1日後の翌日届けられたようだ。
 それで、直接受け取る場合は、保管してあるJR高尾駅に来てくれとのことなので、中央線の終点、高尾駅まで出向くことになったのだ。

 気象庁によると、この日春一番が吹いた。高尾にも暖かい風が吹いたのだった。
 高尾には、高尾山以外に梅郷があった。青梅の吉野梅郷は以前行ったことがあるが、高尾梅郷は知らなかったので、ちょうどその季節だったので高尾を歩いてみることにした。
 高尾梅郷とは、街道沿いにあるいくつかの梅林を総称して言っているらしい。
 JR高尾駅から甲州街道を西に歩く。東京とはいえ道沿いに団子屋などがあり、田舎の風情が漂っている。
 途中梅が散らばって咲いている土手のようなところがあったが、そこを通り過ぎて、梅林を探して歩き続けた。なかなか梅林に出くわさないなあと思っているうちに、京王線の高尾山口駅に出てしまった。梅林があるのは、甲州街道でも旧甲州街道沿いだったのを思い出した。
 そういえば西浅川の交差点を過ぎたところで、梅の集まりがあったのを思い起こして、戻ることにした。そこは遊歩道梅林であった。まだ全開とはいかないが梅が土手沿いに咲いていた。そこから、北の方の旧甲州街道に入って、西に向かった。
 しばらく行くと、小仏関跡があり公園になっていて、そこも梅林となっていた。
 さらに西に向かって歩いた。道に沿って並ぶ家々の庭にも、ちらほらと梅が目につく。いや、脳や目が必死で梅を探し求めているのだ、と思った。
 梅の集まりがあったので表示を見ると、荒井梅林だった。写真で見た通りで、それ以上の広がりはなく、箱型に閉じ込めたような梅林だ。
 地図によるとさらにこの先西の方にもまだ梅林があるのだが、梅林散策はもうこの辺でいいだろうと思い、バス停にあった地図を見た。すると近くに天満宮があり、そこも天神梅林となっているので、そこを見てから帰ろうと思いついた。
 街道に沿って流れている小仏川に掲げてある梅郷橋を渡ると、丘になっていて梅の林があった。それまでの小さな箱庭のような梅林ではなく、この梅の丘は野性味溢れている。丘の中腹には、新しい造りだが鳥居がある天満宮もちゃんとあった。あと何十年かしたら、枯れた味を醸し出すだろう。
 高尾梅郷は吉野梅郷に比べて、散在する梅林がどれも小ぢんまりとしていて少しがっかりしたのだが、最後に行った天満宮の梅で、満足することができた。満開の時に、弁当とビールでも持ってきたら、その野趣を楽しめるだろう。
 帰りは、またゆっくりとJRの高尾駅まで歩いた。
 駅に着いたころに、日が暮れた。駅前で、食堂を探した。

 本を電車の中に忘れたことで、高尾の梅を見ることができた。
 ものごと、何かが何かに繋がっている。
 「因果応報」よりも、「禍福はあざなえる縄のごとし」あるいは「人間万事塞翁が馬」とも言った方がいい。良いことも悪いことも、コインの裏表のようなものである。
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グループ・サウンズ、GSの曲について思ったいくつかのこと

2014-03-08 03:50:42 | 歌/音楽
 1960年代後半、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を頂点とする青春歌謡が黄昏期に向かうのと交差するように、グループ・サウンズ、GSが台頭する。
 ザ・スパイダースやブルー・コメッツなどロカビリーの流れを組むグループが先駆けとしてあったが、1967年2月にザ・タイガースが「僕のマリー」でデビューするや、GSはメルヘンチックな衣装と甘いメロディーをスタイルの原型として、多くのグループが登場し、一気に花開く。そして、振り返ってみれば、そこから数多くの名曲が生まれた。
 当時は少女趣味的だと思って距離をおいて聴いていたせいか、僕が持っているレコードは、ザ・タイガースのデビュー盤の「僕のマリー」だけだが、遅れてやって来たロックバンド宇崎竜童とダウン・タウン・ブギウギ・バンドが1976年に出した、GSのヒット曲を収めたオムニバス・アルバム「GS」がある。(写真)
 このなかには、ザ・スパイダースやブルー・コメッツの曲のほか、ザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」、ザ・テンプターズの「神様お願い」、ザ・ワイルドワンズの「白いサンゴ礁」、オックスの「スワンの涙」など15曲が入っている。

 前回のブログ「GS「ザ・タイガース」、彼らはなぜ解散したのか?」の項の最後に、以下の個人的に記憶に残る10曲を挙げた。

 ○「ブルー・シャトウ」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ  作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫 
 ○「君だけに愛を」 ザ・タイガース  作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち
 ○「花の首飾り」 ザ・タイガース  作詞:菅原房子、なかにし礼、作曲:すぎやまこういち
 ○「エメラルドの伝説」 ザ・テンプターズ  作詞:なかにし礼、作曲:村井邦彦
 ○「君に会いたい」 ザ・ジャガーズ  作詞、作曲:清川正一
 ○「長い髪の少女」 ザ・ゴールデン・カップス  作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦
 ○「パラ色の雲」 ヴィレッジ・シンガーズ  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「ガール・フレンド」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「スワンの涙」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「小さなスナック」 パープル・シャドウズ  作詞:牧ミエコ、作曲:今井久

 *

 上記の私的GS10作品について、振り返って、思いを付け加えてみた。

 ○「ブルー・シャトウ」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ  作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫
 * 「青い瞳」「青い渚」に続き、1967年に大ヒットさせたGSの先駆的な曲。橋本淳の異国情緒あふれるファンタジーな詞と日本人好みのマイナーなメロディーは、このあとのGSの基本形を作ったように思う。
 「森と泉に囲まれて、静かに眠るブルー・シャトウ…」である。
 今でこそシャトーといえばボルドーのワインを思い浮かべるほど馴染みがある語であるが、シャトーはメルヘンの世界だった。それまで城といえば、「古城」(三橋美智也)や「青春の城下町」(梶光夫)などを思い浮かべることができるが、西洋の城(シャトー)が舞台の歌などなかったのではないだろうか。この後70年に大ヒットした小柳ルミ子の「わたしの城下町」も、当然日本の城が背景である。
 思えば、その頃、日本の集合住宅の名前がアパートからマンション(豪邸)に、そしてシャトー(城、大邸宅)へとグレードアップしていった時代だ。シャトーを冠に付けたマンションが赤坂や青山に出始めた。
 しかし、「ブルー・シャトウ」(Blue Chateau)は、英語とフランス語のミックス語である。フランス語は基本的には形容詞は名詞のあとに来るので、「シャトウ・ブルー」となろう。まあ、造語の国だから意に介さないが。

 ○「君だけに愛を」 ザ・タイガース  作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち
 * イントロの金属音に似た、弾けるようなエレキの音から一転して、「オー、プリーズ…」とジュリーの甘いささやきが流れる、タイガースらしさが最も発揮された傑作といえる。

 ○「花の首飾り」 ザ・タイガース  作詞:菅原房子、なかにし礼、作曲:すぎやまこういち
 * 加橋かつみ初のボーカルによるヒット作。詞は雑誌「明星」で募集して、当時高校生による当選作をなかにし礼が補作詞した。
 しかし、この「花咲く娘たちは、花咲く野辺で…」と歌う詞は、誰が主人公で誰に向かって歌ったのだろうと、この歌を聴くたびに思っていた。甘く美しいメロディーは、のちのアイドルのアグネス・チャンあたりが舌っ足らずで歌ったら似合いそう…。

 ○「エメラルドの伝説」 ザ・テンプターズ  作詞:なかにし礼、作曲:村井邦彦
 * ボーカルのショーケンこと萩原健一をスターにしたヒット曲。
 GSの名前は動物が多いが、日本語にすれば、なかには笑ってしまうような滑稽なものもあった。そのなかで最高のネーミングと思っているのが、このテンプターズ(Tempters)、誘惑者(たち)である。
 誘惑者による、エメラルドの伝説。これだけで、何やらヴィーナスに捧げられたギリシャ神話のようではないか。少女趣味的だが、なかにし礼の文学的片鱗が漂う詞だ。
 萩原健一はのちに役者になって、いい味を出していた。岸恵子と共演した「約束」(監督:斎藤耕一)は、彼の瑞々しい感性が滲んでいた。

 ○「君に会いたい」 ザ・ジャガーズ  作詞、作曲:清川正一
 * 「若さゆえ苦しみ、若さゆえ悩み…」
 若かった僕らは、この出だしの文句だけでこの歌に溺れることができた。

 ○「長い髪の少女」 ザ・ゴールデン・カップス  作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦
 * 横浜から出てきて、メンバーにハーフが多く(当初は全員ハーフと言っていた)、いかにも洋楽ポップスが似合いそうだった。このころ、長い髪の少女がモテた。

 ○「パラ色の雲」 ヴィレッジ・シンガーズ  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 * グループのボーカルに清水道夫を入れて再デビューして、ヒットさせた曲。ヴィレッジ・シンガーズといえば「亜麻色の髪の乙女」が有名だが、筒美京平最初のヒット曲となった「バラ色の雲と、思い出をだいて…」と歌う、この曲が好きだ。

 ○「ガール・フレンド」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 * GSのなかでは遅いデビューであったが、あっという間に少女たちの人気者になった。ステージを観ている観客のファンのなかから失神者が続出、といわれたグループである。ボーカルは野口ヒデトであったが、失神させたのはもう一人の人気者オルガンの赤松愛だったようだ。
 いかにも少女漫画風、宝塚風とはいえ、ボーカルの途中に「マイ・ガール、マイ・ガール」とギター奏者の歌が入る、この曲のメロディーは出色だ。
 雑誌社に入り新入社員だった僕は、やはり同期で入った新人カメラマンと一緒に、当時社会現象になっていたGSの写真を撮りに行ったのが、このオックスのステージだった。やはり会場は若い女性でいっぱいで、歌を堪能する雰囲気ではなかった。
 のちに、「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き、1975年、作詞家山口洋子の肩入れで「夢よもういちど」で再デビューした真木ひでとが、オックスの野口ヒデトと知ったときは驚いた。

 ○「スワンの涙」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 * 「ガール・フレンド」のヒットを受け、人気急上昇のオックスのシングル第3作目。
 「君の素敵なブラック・コート、二人で歩いた坂道に、こぼれるような鐘の音…」といった涼しげな詞と洒落たメロディーは、のちの筒美京平のアイドル路線を垣間見せている。

 ○「小さなスナック」 パープル・シャドウズ  作詞:牧ミエコ、作曲:今井久
 * スナックが流行りだした頃で、当時住んでいた高田馬場の小さな店でよく飲んだものだ。私小説風な内容と寂しさを漂わせたメロディーは、GSというよりフォークに近いかもしれない。
 この歌と、「小さな日記」(フォー・セインツ)は、青春の切なさを甦らせる。

 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「GS」のなかに、誰が歌ったかもすっかり忘れていたザ・ダイナマイツの「恋はもうたくさん」(作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦)があった。「トンネル天国」のB面だが、この出だしの歌の文句がいい。
 「キザなセリフで、恋におぼれた、お前の好きな、俺のくちびる…」
 さらに、「赤いドレスが、涙こぼした、俺のからだに、すがりつく恋…」と続く。
 こんなキザなセリフも、GSには似合っていた。いや、そんな時代だったのだ。

 ヒッピー、アンダーグラウンド、サイケデリック、学生運動……混沌とした時代のなかで見せた一幕のファンタジー(幻想曲)、それがGSか。



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GS「ザ・タイガース」、彼らはなぜ解散したのか?

2014-03-04 03:25:38 | 歌/音楽
 昨年(2013年)末、グループ・サウンズ(GS)の代名詞ともいえる人気グループだったザ・タイガース(The Tigers)が復活を遂げた。
 復活コンサートの最後の会場も、1971年1月24日にグループの解散コンサートを行った武道館であった。

 グループ・サウンズ、GSといえば、1960年代後半に一世を風靡したかと思うと、流星群のようにあっという間に消えてしまった、まるで日本の歌謡音楽史上に現われた蜃気楼のような忘れがたいミュージック・ムーブメントであった。
 当時新しく登場していたエレクトリックギター(エレキギター)を爪弾きながらの、ロマンチックな詞と甘いメロディーは、きらびやかな衣装と相まって、多くの女性たちを虜にした。いや、女性ばかりでなく男たちもその酔いの中にいた。
 GSブームが過ぎ去って40余年がたったが、少し前の資料になるが2012年7月朝日新聞b面に掲載された「永遠のグループ・サウンズ」と称した、アンケートによる人気投票の結果が次の通りである。
 1位 ザ・タイガース
 2位 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
 3位 ザ・ワイルド・ワンズ
 4位 ザ・フォーク・クルセダーズ
 5位 ザ・スパイダース
 6位 ヴィレッジ・シンガーズ 
 7位 ザ・テンプターズ
 8位 パープル・シャドウズ
 9位 ザ・ゴールデン・カップス
 10位 ザ・サベージ
 *10位以下では、13位、寺内タケシとブルー・ジーンズ、14位、ジャガーズ、15位、オックス、16位、カーナビーツなどは特筆すべきであろう。

 *

 昨年(2013年)末、グループ・サウンズ(GS)で最も人気のあったザ・タイガースが復活を遂げた。オリジナル・メンバーでの復活は、1969年の加橋かつみの脱退以来、何と44年ぶりとなる。
 オリジナル・メンバー5人をあげてみる。
 沢田研二(ジュリー)、ボーカル
 岸部修三(現在は一徳、サリー)、ベース、コーラス
 加橋かつみ(トッポ)、リードギター、コーラス、ボーカル
 森本太郎(タロー)、ギター、コーラス
 瞳みのる(ピー)、ドラムス
 1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加したのは、岸部修三の実弟岸部シロー(シロー)。

 今年(2014年)の1月に、ザ・タイガースの復活コンサートの録画放送を見た。
 現在も音楽活動を続けていている沢田研二と、役者として活動している岸部修三については、誰にもよく知られるところである。瞳みのるは大学に入り教師生活をしたというニュースは伝わっていた。加橋かつみと森本太郎に関しての現状は、何も知らなかった。
 ボーカルだった沢田研二は、ソロ・シンガーとなった後もヒット曲を放ち続け、日本の歌謡ポップス界を代表するシンガーとなり、今も現役で歌っている。彼抜きではザ・タイガースは存在しないと言える。
 そして、岸部修三は俳優の道に進み、元タイガースのメンバーとは想像もできない渋い演技で、ドラマや映画で活躍している。
 もともと地味で実直そうな印象だった森本太郎は、その後も目立つことはなかったが地道に音楽活動を続けていたようだ。
 脱退した加橋かつみは、脱退後一時マスコミを騒がせたが、名前を聞かなくなったその後も独自の音楽活動を続けてきたようだ。
 瞳みのるは、解散後はすっぱり芸能活動をやめ、中退した高校(夜間部)に戻り、受験勉強の末慶応大学文学部に入り、卒業後教師生活を続けた。

 十代の後半から二十代にかけての頃、日本中の人気者だった彼らは、今やすでに六十代半ばである。ここに来るまで、各々様々な軋轢と葛藤があったに違いない。それでも、長い年月がかかったが、それらを乗り越えてここまで来たという落ち着いた空気が、グループの周りには漂っている。
 グループ解散後、各人違った人生を歩いたが、それぞれ人生を刻んだ顔を備えていた。
 沢田研二は、少し太めになった身体と、白いものが目立つ髭を隠しはしない。かつてのアイドル、ジュリーは、痛々しくも若さを保とうとしているかつてのアイドル歌手やタレントたちのアンチエイジングの風潮に逆らうかのように、あるがままの俺を見てくれという潔さが窺われる。元アイドル歌手としては異例の、自らの詞による脱原発の歌も歌っている。本音で生きている人なのだ。
 久しぶりに公に顔を出した加橋かつみは、年をとって味のある風貌になっていた。もうトッポ・ジージョの顔ではない。
 瞳みのるは、再び取り戻した青春を精いっぱい謳歌しているように、いかにも嬉しそうで年齢を感じさせない。
 森本太郎は、変わらないもの静かな表情で、全体に安心感を与えている。
 岸部修三は、もとリーダーらしく、表にしゃしゃり出はしないが後ろから支えているといった感じだ。

 *

 「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた」(磯前順一著、集英社)は、ザ・タイガースの生い立ちから解散までを綴った書である。
 この本では、多くの資料とインタビューから、5人の当時の生々しい言葉を拾いながら、京都の高校生だった彼らがどのようにしてザ・タイガースになったか、そしてどのように成長し、壁にぶつかり、解散にまで至ったのかが、よくわかるように構成されてある。
 そこに、スターというよりも、誰もがぶつかる青春期の若者の葛藤と軋轢を見ることができる。

 1966年、ビートルズが来日し武道館で演奏公演をする。
 それを、当時大阪のジャズ喫茶で活動を始めていたのちのタイガースであるファニーズのメンバー(都合で森本はいけなかった)は、東京まで見に行っている。
 当時、日本の音楽シーンに大きな変化の潮流が来ていた。アメリカンポップスの影響から和製ポップスが生まれて、ビートルズやローリング・ストーンズの影響を受けた若者たちが新しい音楽活動を目指していた。それはすぐに、ベンチャーズに代表されるエレクトリックギター(エレキギター)の演奏グループと相まって、リード・ボーカルとエレクトリックギター編成のグループによる、日本の新しい音楽シーンの誕生となる。
 それが、のちに命名されるグループ・サウンズ、GSという波である。
 その頃、すでに活動をしていたジャッキー吉川とブルー・コメッツや田辺昭知とザ・スパイダースなどがいたが、ザ・タイガースは、1967年2月、「僕のマリー」(橋本淳作詞、すぎやまこういち作曲)でデビューするや、一躍人気者になる。
 僕の棚の中に、この記念すべきデビュー盤がある。当時はまだCDはなく、ドーナツ盤である。(写真)
 「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた」によると、沢田研二は、このレコード盤を合宿所のある千歳烏山駅前のレコード店で自費で購入し、盤の表に「記念すべきこの1枚!」とサインペンで書いて、今でも針を落とすことなく保存しているという。
 ここから、GS黄金期を迎えることになり、各社が競ってグループを発掘デビューさせる。実際、1968年には100を超えるグループがレコード・デビューしたといわれる。

 「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた」は、かなり細かいところまで取材を通して記載している。
 大阪で活動していたファニーズは、内田裕也の口利きもあって東京へと出てきて渡辺プロと契約を結び、世田谷区の烏山の一軒家で5人共同の合宿生活を送ることになる。
 内田はまず、彼らを原宿のフランセ、次いで新宿のACB、夜には麻布飯倉片町のカフェ・レストラン「キャンティ」に連れて行ったという。
 キャンティは、1960年に川添浩史、梶子夫婦が開店した、タレントや有名人が来ることで知られるイタリアン・レストランである。
 作詞家の安井かずみもよく行っていた店である。
 そのことは、ブログ「加藤和彦もいた「安井かずみがいた時代」」(2013.5.12)でも触れた。
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/01f0afbc3dad97c8e97007b9420497d0

 グループのなかで、加橋かつみはすぐにキャンティの常連となり、オーナーの川添氏と親しくなる。そこで受けた影響が、徐々にタイガースの置かれた現状に反発を抱くようになり、自分のやりたい音楽をやるんだという思いを強くし、のちの脱退へとつながっていくことになる。

 最近読んだ本には、よくこの「キャンティ」が登場する。
 この前読んだ「あっこちゃんの時代」(林真理子著、新潮社)は、バブル時代に地上げ屋の帝王と呼ばれた不動産会社社長の愛人を経て、キャンティ創業者の息子である音楽プロデューサーと不倫の末妊娠したあと結婚(のち離婚)する女を描いたものである。
 この本は後味の悪い思いが残った。金のある男は若いルックスのいい女を求め、金もしくはそれ相応の贅沢を求める女(まだ学生)がそれに応えるという、お互いの欲望の需要と供給の関係の肯定が全編を貫いていたからである。

 デビューするや、ザ・タイガースはあっという間に人気グループにのし上がっていく。それにつれて、徐々にグループ各人に考えの違いが顕著になってくる。そして、加橋かつみが脱退することになる。
 ザ・タイガースを脱退した加橋かつみは、公には失踪という形がとられたが、ロンドン経由で川添夫婦が準備を整えてくれていたパリへと出国する。
 当時ヒッピー文化に傾倒していた加橋は、川添象太郎(川添象郎)プロデュースによる、話題のミュージカル「ヘアー」上演という土産を持って帰国する。この川添象太郎が、「あっこちゃんの時代」に登場するのである。
 しかし、1970年2月、「ヘアー」の東京公演の終了翌日、加橋と川添は大麻取締法違反で逮捕されるという結果になる。
 同じく当時ヒッピー文化に傾倒していた瞳みのるは、芸能界と縁を切ることを決意し、京都へ帰る。

 この本は、ザ・タイガースの解散は、5人の様々な思いが錯綜していたことを掘り下げている。今自分がやっている音楽と、自分がやりたい音楽とのギャップ、それでも現在を見据えて“今”を生きていくという思いがあったことを。
 音楽に限らず、若い時に必ずぶつかる問題であろう。
 とはいえ、ザ・タイガースは数々のヒット曲を世に送り出した。いや、タイガースに限らず、このGSの時代は素晴らしい曲が百花繚乱と咲き乱れてしていた時代だと思う。
 振り返れば、GSの全盛期は概ね1966年から69、70年ぐらいまでのわずかな期間だが、日本の歌謡史上に燦然と、その時代に生きた者の記憶に鮮明に残る音楽となった。

 *

 個人的な思いも含めて、GSの記憶に残る10枚を挙げてみたい。

 ○「ブルー・シャトウ」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ  作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫
 ○「君だけに愛を」 ザ・タイガース  作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち
 ○「花の首飾り」 ザ・タイガース  作詞:菅原房子、なかにし礼、作曲:すぎやまこういち
 ○「エメラルドの伝説」 ザ・テンプターズ  作詞:なかにし礼、作曲:村井邦彦
 ○「君に会いたい」 ザ・ジャガーズ  作詞、作曲:清川正一
 ○「長い髪の少女」 ザ・ゴールデン・カップス  作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦
 ○「パラ色の雲」 ヴィレッジ・シンガーズ  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「ガール・フレンド」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「スワンの涙」 オックス  作詞:橋本淳、作曲:筒美京平
 ○「小さなスナック」 パープル・シャドウズ  作詞:牧ミエコ、作曲:今井久

 こうして見ると、作詞家では橋本淳、なかにし礼、作曲家ではすぎやまこういち、鈴木邦彦、村井邦彦、筒美京平など、当時レコード会社にとらわれない自由で新しい作詞、作曲家が羽ばたいたのがGSの時代だというのがわかる。
 特にその後の、作曲家筒美京平の活躍は目覚ましい。やがてやってくるアイドルたちに、様々な曲を提供し、ヒット曲を連発していく。
 作詞家なかにし礼も、新しい詞の世界を広げヒットメーカーとなる。今は、小説家としても直木賞作家となるなど、執筆活動の傍ら歯に衣着せぬコメントを発し続けている。

 
 


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