かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜① 山下公園から日本大通りへ

2022-05-28 02:08:13 | * 東京とその周辺の散策
 ことの始まりは、こうだった。
 去年の末、横浜の港を散策した。山下公園から埠頭の赤レンガ倉庫、汽車道、エア・キャビンに乗るなど港の周辺を歩いた。そのことは、当ブログ「ブルーライト・ヨコハマ」①~④に書いた。
 そのとき、みなとみらい線、元町・中華街駅を出発してホテルニューグランドに向かおうとした矢先に、通りの脇に「日本洋裁業発祥記念碑」を見つけた。こんなところに、日本洋裁の発祥の地があったのかと、思いもよらない発見に嬉しくなった。
 横浜には、日本発祥とされるものや出来事が多いようだ。
 それをきっかけに、湘南の士が調べてくれた横浜発祥地の跡地・記念碑を巡り、4月28日に横浜を歩いた。
 記念碑の多くには、それについての解説文が付いている。発祥地の散策に基づく案内とともに、その解説文をもとに概略を記した。

 *「日本洋裁業発祥記念碑」から、「電信創業の地」まで

 13時30分、みなとみらい線「元町・中華街駅」を出発する。
 ➀「日本洋裁業発祥記念碑」(メトロタワー山下町前)
 元町・中華街駅の山下公園寄りの出口を出たら、すぐにある。ビルの前に植えられた木に紛れて婦人の銅像と記念の小塔が立っている。これが日本洋裁業発祥の記念碑である。(写真)
 碑文によると、「1863年 (文久3年) 英国人ミセス・ピアソンが 横浜居留地97番にドレス ・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである」とある。
 明治の西洋開花ブームになっても、日本では和服の慣習が長く続いた。洋裁業の普及とあいまって、一般大衆に洋服が急速に普及したのは戦後のことである。戦後、ミシンの普及とともに女性のファッションは花開く。

 ここから「ホテルニューグランド」に出る。古い建物が残る横浜だが、このホテルは威厳がある。
 「スパゲッティ・ナポリタンの発祥」とされるホテルで、予約が取れなかったが寄ってみる。やはり1階カフェの前では並んで待っている人がいるので、この日もナポリタンを食するのは諦める。いずれ、一度は食しないといけない。
 ホテルニューグランドを出ると、前はもう「山下公園」である。
 山下公園には、横浜市と姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市から贈られた「水の守護神像」、北原白秋詩の童謡で有名な「赤い靴はいてた女の子像」、在日インド人協会から寄贈された「インド水塔」など、多くの記念碑や建造物がある。

 ②「西洋理髪発祥の地」(山下公園)
 山下公園のなかに、白い円形の像がある。よく見ると、髪を真ん中から分けた男の頭で、これが「西洋理髪発祥の地」の記念碑である。
 日本の明治政府によって、一般に言われる「断髪令」である「散髪脱刀令」が発せられたのは1871(明治4)年。これによりちょん髷(まげ)からザンギリ頭の西洋開花へ加速度が増すことになる。
 それより先駆けること2年前の1869(明治2)年、横浜にわが国初の「西洋理髪店」が開業した。しかし、この山下公園の地で開業されたということではなく、ここに記念碑が建てられたということである。
 *2022(令和4)年2月21日、「西洋理髪発祥の地」を伝えるモニュメントの除幕式が、横浜市の横浜中華街で行われた。この地で、明治初期に日本人が経営する初めての西洋理髪店が開業したことを記念して、中華街大通りの中ほどに新たに碑が建てられた。

 山下公園を出てすぐのシルクセンターの前に、石碑と柵の奥に女性の裸像がある。
 〇「英一番館跡碑」(山下町)
 幕末、横浜が開港した時に、来日したイギリス人のウイリアム・ケズウィックが居留地一番館で貿易を始めた。当時、そこに建てられた英一番館と呼ばれた建物の碑で、碑には、当時の建物の様子も描かれている。
 明治の中頃、東京・丸の内にできた「三菱一号館」を始めとした赤煉瓦のオフィス街の「一丁倫敦(ロンドン)」は、ここ横浜の英一番館を意識して創られたのかもしれない。

 すぐ近くの横浜開港資料館に隣接して、開港広場公園がある。
 〇「日米和親条約調印の地」(開港広場内)
 開港広場公園に、1854(安政元)年の「日米和親条約」を締結(調印)した記念の碑がある。
よく見ると、記念碑は二つある。見過ごしそうな細い立柱には「日米和親条約締結の地」とあり、目立つ丸い球の碑には「日米和親条約調印の地」と記されている。

 この先の日本大通りに、パンの写真の付いた碑がある。
 ③「近代のパン発祥の地」(日本大通)
 幕末、横浜開港とともに外国との貿易が増大するに伴い、幕府はこの地に日用食品街を設けた。1860(万延元)年、その一角でフランス人にパンの製法を習った内海兵吉がパン屋を始めたのが近代のパンの発祥とされ、パンの元祖「富田屋」として知られた。

 日本大通り交差点近くの、駐車場前の道路に沿って、何気なく建てられたような碑がある。
 ④「消防救急発祥之地」(日本大通)
 この地に、1968(明治初)年から旧外国人居留地の消防隊が置かれていた。この「消防救急発祥之地」の碑の奥には、「旧居留地消防隊地下貯水槽」の遺構が公開されている。そこで、ガラス越しに地下水槽を覗くことができる。
 この碑の前で、6、7人の若者の集団がいた。彼らも何やらリストの用紙を見つめ、写真を撮っている。訊くと、横浜市内の高校生で、やはり横浜発祥地を巡っているとのことだった。
 この日は、周った碑のあちこちで、何度かこのような中学生、高校生の調査グループに出くわした。ゴールデンウイークに向けて、学校で課題としてレポート提出でも課されているのだろうか。でも、誰もが修学旅行のノリだ。
 この碑の近くに、日本新聞博物館が入る「横浜情報文化センター」がある。
 このビルの前に、「新聞少年の像」がある。

 日本大通りに面した、横浜地方検察庁の前に碑がある。
 ⑤「電信創業の地」(日本大通)
 1869(明治2)年に、この場所での横浜電信局と東京電信局間の、初めての電報による通信が始まった。
 東京側にも、同名の碑が東京都中央区明石町に建っている。

 さて次は、日本大通りから馬車道の方に向かってみよう。

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薄紫の藤を見に、足利へ

2022-05-10 00:51:08 | * 東京とその周辺の散策
 薄紫の藤棚の
 下で歌ったアヴェ・マリア……

 1960年代半ば、青春歌謡の全盛期に、舟木一夫に続く青春・学園ソングの歌手があまた登場したなかで、安達明はひときわ清々しかった。デビュー曲の「潮風を待つ少女」に続く、学生服(舟木一夫とは違ったデザインの服)で歌う安達明の「女学生」(作詞:北村 公一、作曲:越部信義)は、当時の若者、学生の胸をキュンとさせた。
 藤と言えば、今でもこの冒頭に挙げた「薄紫の藤棚の…」という「女学生」を口ずさみたくなる。
 「澄んだ瞳が美しく、なぜか心に残ってる」そして、「君はやさしい、君はやさしい女学生」と流れる。
 藤、そして藤棚と言えば、女学生なのである。
 九州の片田舎のわが高校にも、図書館の脇に藤棚があった。あの日、私はその藤棚の陰で、彼女が現れるのを秘かに待っていた。
 おいおい、何を書いているのだ。図書館脇に藤棚はあったか?金木犀はあったけど。この藤棚は幻想かもしれないし、妄想が創りだしたものかもしれない。

 薄紫の藤棚を求めて、5月2日、足利へ向かった。
 小田急線で新宿に行き、そこからJR湘南新宿ラインで久喜へ出て、東武伊勢崎線に乗り換え、「特急りょうもう」で「足利市」駅へ。
 足利市に住む高校時代の同級生の案内で、藤の名所のある足利市を巡った。

 *藤の群がる「あしかがフラワーパーク」

 「あしかがフラワーパーク」は開園25周年とのことだが、その大藤棚とともに夜のライトアップもあって、今や国内有数の藤の名所となっている。
 ゲートから園に入ると、広がる花壇が目に入り、淡い花の香りが鼻に流れる。この「あしかがフラワーパーク」は紫だけでなく白、薄紅、黄色と多様な藤が見られるのが特長だが、藤以外にも様々な花が植えられている。
 赤い椿のようなバラの歩道の先に、まずは「白藤のトンネル」が迎えてくれた。白藤のアーチは80mも続き、上を見ると頭のすぐ近くまで花が垂れ、その花に蜂が舞っている。花に夢中で人を襲う気配はない。丸々太っているのでマルハナバチか。
 園内には、ところどころに池も配置されていて、水に映る花と緑も楽しめる趣向になっている。
 園内を周った最後にとっておきの「大藤」に行きついた。薄紫の藤花が四方に広がっている。何本もの藤で構成されていると思いきや、中央にあるのは1本の幹だけである。当地に移植したものだが樹齢160年という古木で、この大藤が2本並んでいる様は、繊細でありながら雄大な雰囲気を創りだしている。(写真)
 薄紫の藤棚の下に、女学生を探したが……

 *日本最古の学校、足利学校へ

 足利といえば、まずは日本最古の学校といわれている「足利学校」である。
 創建時は定かではないが室町時代中期の上杉憲実の時代には資料として残っていて、1549(天文18)年、宣教師のフランシスコ・ザビエルによって、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と紹介されている。「坂東」とは関東のことで、利根川や入道雲を「坂東太郎」と言ったりする。
 「あしかがフラワーパーク」から、「足利学校」へ行った。
 足利学校は、広い敷地にいくつかの建物で構成されている。正面から入って見れば、山門(学校門)があり、本堂(大成殿)があり、方丈、庫裏があり、中庭(庭園)があるという、大きな寺のようだ。
 孔子廟があるところを見ると、主に儒教を教えていたのだろう。
 建物はどれもきれいに整備されていて、江戸時代のままのものと平成に入って江戸時代の姿に復元された建物がある。
 このような学校は、のちに藩校、寺小屋として広く発展していったのだろう。

 *城のような寺、鑁阿寺

 足利学校から、近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)へ。
 鑁阿寺は、足利氏二代目の義兼が、1196(建久7)年に邸内に大日如来を祀ったのが始まりといわれていて、その後足利一門の氏寺となった。
 橋を渡った楼門の先に構える本堂は、入母屋造りの大きな屋根瓦を持った威風堂々とした建物だ。中央の唐破風の屋根の突端には鬼瓦がこちらを向いていて、屋根の上の両サイドには鯱が聳えている。
 中央の軒下に吊るされた鰐口とその前に垂れた紅白の布で編まれた綱がなかったら、城屋敷と思うだろう。
 それもそのはずだ。敷地の周りは堀で囲まれているので、寺なのに「日本100名城」に入っているのも頷ける。
 境内に聳える高さ30mはあろうという立派な銀杏(いちょう)は、樹齢推定550年という。佐賀県有田町の泉山弁財天神社境内にある樹齢1000年ともいわれている大銀杏を思い出した。

 それにしても気になるのは、鑁阿寺の「鑁」という字である。
 この字を単独で読める人はほとんどいないだろう。調べても、「ばん」つまり「鑁」だけでは出てこない。「ばんなじ」と引いて「鑁阿寺」と出てくる。
 ちなみに、「鑁」という字であるが、本棚にある「漢和中辞典」(角川書店、昭和59年149版)にも載っていない。
 わが国では、「鑁」という字は、鑁阿寺にのみ使用される字なのである。漢字の本元である中国での使用は知らないけど。

 ※「鑁阿寺の「鑁」には、どんな意味があるのか。」<栃木県立図書館 (2110002)>によると、以下のように記されている。
 『足利の鑁阿寺』(山越忍済/著 足利 鑁阿寺 1970 ※昭和40年5月初版発行)によれば次のように記載されています。
 「鑁阿寺は正式にはvana寺で、バンナ寺でもよく、鑁や阿という漢字の発音を梵語(サンスクリット)に代って当てはめたに過ぎない。したがって鑁や阿に漢字的乃至日本文的意味が含まれているのではない。単なる当て字である。すなわちバンナ寺とは大日如来の寺、大日寺のことである。」

 *

 夕暮れ時、「足利織姫神社」を横目で見ながら足利公園方面へ。園内にある老舗料亭「蓮岱館」で、ゆっくりと夕食をすまして、再び東武伊勢崎線足利市駅から東京方面へ向かったのだった。
 窓の外はもう暗い。
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