かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 狂った果実

2007-07-31 02:43:03 | 映画:日本映画
 中平康監督 石原慎太郎原作・脚本 峰重義撮影 石原裕次郎 津川雅彦 北原三枝 岡田真澄 1956年日活

 フランスのヌーヴェル・ヴァーグは世界の映画界に大きな影響を与えた。もちろん、日本にもその波は押し寄せてきて、大島渚、吉田喜重、篠田正浩などによって松竹ヌーヴェル・ヴァーグという一大エポックを作りあげた。
 フランスのヌーヴェル・ヴァーグの代表作であるJ・R・ゴダールの「勝手にしやがれ」、アラン・レネの「二十四時間の情事」が1959年作である。フランソア・トリュフォーの「突然炎のごとく」は1961年作。
 日本の大島渚の「青春残酷物語」、篠田正浩の「乾いた湖」が1960年である。

 この中平康の「狂った果実」は、1956年作。
 日本のヌーヴェル・ヴァーグはおろか本家のフランスよりも3年も早い封切りである。ここに、こうして比較したのは、この映画を見てこの映画こそヌーヴェル・ヴァーグの嚆矢と思ったからである。
 この映画は、石原裕次郎の最初の主演作という話題だけで、作品の評価には恵まれていない。しかし、この映画には、後のヌーヴェル・ヴァーグの映像の数々、スピリットを随所に見いだすことができる。当初、まずF・トリュフォーが絶賛したと言われているのもむべなるかなである。
 
 話は、湘南で退屈紛れに遊んでいる金持ちの若者たちの生態を描いたものである。石原慎太郎がまだ瑞々しい感性を持っていたときの原作である。
 遊び人の兄(石原裕次郎)に比べて純真な弟(津川雅彦)が、街で見かけた魅力的な女(北原三枝)に恋をする。その女は米人の愛人であることを知った兄は、弟を嫉妬しながら女を口説き、ものにする。しかし、次第に女に本気で惹かれていく。そして、ある日、弟に黙って女を遠く海へヨットで連れ出してしまう。それを知った弟は、ボートで兄を追う。そして、ついに、兄と女が乗っているヨットを見つけ、悲劇が起きる。

 ここには、後にトリュフォーがしばしばテーマにする3人の男女の絡み合いがある。
 若者の愛と嫉妬があり、悲劇が待っている。
 海とヨットの犯罪は、ルイ・マルの「太陽がいっぱい」を想起させる。
 反射するきらめく波のもたらす死の予感は、J・R・ゴダールの「気狂いピエロ」に繋がる。
 
 なにより、海の撮影が素晴らしい。
 海岸に置き忘れられたトランジスタ・ラジオが、遠くボートが去っていくのを映しながらも、音楽を流し続けている。
 夜の月の光が作り出す波のきらめきの手前で、抱擁する若者の影姿。
 兄と女の乗っているヨットの周りを威嚇するように、黙って弟がぐるぐると乗り回るボートを、空から映しだすポエジー。

 現代日本映画史上の第一頁を飾る映画と言えるだろう。
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◇ 危険がいっぱい

2007-07-27 01:08:08 | 映画:フランス映画
 ルネ・クレマン監督 アラン・ドロン ジェーン・フォンダ ローラ・オルブライト 1964年仏

 女性が美人に生まれたいと思うのと同じように、男性だってハンサムであったらと思うのは当然である。しかも、アラン・ドロンのような男前に生まれたら、人生も変わっただろうと思うし、様々な妄想を湧きたててくれる。
 ここまで美男子だと、望むものはたいてい手にはいるのではないかと思ってしまう。
 しかし、古今東西、美貌を手段に生きていく男の行く末は、悲惨か哀れな場合が多い。どのような場合でも、栄華は永遠に続かないものなのか。

 ギャングのボスの女に手を出したせいでニューヨークからフランスへ逃げ出した男(A・ドロン)の行き着いた先は、ニースの古いシャトーの豪邸。そこに住んでいるのは、女主人(ローラ・オルブライト)とその従姉妹(ジェーン・フォンダ)の女性。二人とも美女である。そこで、男は住み込みで運転手兼雑用係となる。
 追っ手が男を探して身元に近づいているが、その館もミステリアスであった。女主人の愛人が隠れ部屋に隠住していた。そして、男は女の企みに巻き込まれる。
 しかし、当時28歳のアラン・ドロンは、ハンサムざかりである。この男の湖のような目で見つめられたら、どんな女も拒否できないであろうと思わせる。
 予想通り、二人の女もドロンの魅力に負けることになる。
 しかし、それ以上にしたたかなのが女性という結末である。

 そのしたたかな女を、ハリウッドから逆にヨーロッパ映画に渡ってきたヘンリー・フォンダの娘、ジェーン・フォンダが演じている。
 しかし、男を手玉に取る女を演じるにはJ・フォンダはまだキャリア不足を感じるし、第一アメリカ人はどうしても情緒の面でヨーロッパ人にかなわないと思ってしまうのは、あながちヨーロッパ贔屓の目で見ているからばかりとは言えまい。

 「生きる歓び」(1960年)でアラン・ドロンを見いだしたルネ・クレマンは、同年発表の「太陽がいっぱい」で大スターに仕立てあげた。「危険がいっぱい」は、同監督の4年ぶりのドロン主演作である。
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◇ 秋たちぬ

2007-07-26 01:46:21 | 映画:日本映画
 成瀬巳喜男監督 笠原良三脚本 乙羽信子 藤間紫 藤原鎌足 夏木陽介 賀原夏子 菅井きん 大原健三郎 一木双葉 1960年東宝

 神田の神保町の映画館で「子どもたちのいた風景」と銘打って、昭和30年代の映画を上映しているとの記事が目に入り、見に行った。
 実は、「にあんちゃん」(今村昌平監督、1959年)を見るつもりで行ったら、既に終わっていて「秋たちぬ」が上映されていた。
 成瀬巳喜男監督作品である。この人の作品では、林芙美子原作の「浮雲」が有名で、そのほかにも林原作を何本か映画化している。その人の少年が主役の映画である。

 長野から、母(乙羽信子)に連れられた小学6年の男の子(大原健三郎)が東京の伯父さんの家にやって来て、そこで住むことになる。父が亡くなり、長野で住めなくなったのだ。母は、近くの旅館で住み込みで働くことになる。
 伯父さん(藤原鎌足)の家は、築地あたりの八百屋で、その店で働いているいなせな息子(夏木陽介)と、銀座のデパートに勤めているちゃきちゃきな娘(賀原夏子)がいる。
 少年にとって、東京は何もかも珍しくもあり、母と別れて暮らす生活は寂しくもある。そんな時、母が働いている旅館の小学4年の娘(一木双葉)と知り合いになる。旅館業を営んでいる少女の母(藤間紫)は、金持ちの男の妾で、彼女は妾の子だった。
 少年と少女は、兄妹のように仲良くなる。そして、よく一緒に遊ぶようになる。
 少女と仲良くなった少年は、少しずつ東京の生活に慣れていく。しかし、それも束の間、母が旅館の馴染みの客(加東大介)と駆け落ちしていなくなる。そして、少女も急に引っ越してしまった。

 1960年(昭和35年)頃の銀座が頻繁に映しだされる。
 銀座通りには、既に多くの車が行き交う。それに交ざってオート三輪が走っている。
 車の飛び交う信号のない道路では、子どもたちが車の走る合間を縫って道路を横切るが、田舎から出てきたばかりの少年はなかなか渡れない。
 デパートの屋上(おそらく高島屋)からは晴海の海が見える。
 二人は、海を見に行こうと晴海へ行く。海を見たことがない少年は、「もっと青い海が見たい」と言う。
 晴海の先には、荒野のような埋め立て地が広がっている。「もうすぐ、ここにビルが建つのよ」と話す少女。
 この映画で、変わりゆく寸前の東京に出合うことができる。
 夢の島の埋め立て地でさえ懐かしい風景である。

 田舎から来た転校生の方言をからかったり、すぐに喧嘩したりする少年たち。それでも、またすぐに仲良くなる。
 少年たちは、少しの空き地を見つけては三角野球をする。そして、空き地の管理の小父さんにしかられ、蜘蛛の子を散らすように逃げまとう。
 東京にもカブトムシがいるはずと探しにやって来たのは多摩川べり。川では青年たちが泳いでいる。まだ多摩川では泳げたのだ。

 東京と田舎は風景は違えども、少年たちの心は同じだ。
 田舎の子が野や山を走るように、都会の子も路地やビルの裏通りを走っていた。
 そして、大人の世界に揉まれながら、いや、大人の世界の犠牲になりながら、少年も少女も成長を余儀なくされ、大人になっていく。
 清々しさと哀しさの混じった余韻が残る映画である。

 「にあんちゃん」は見逃したけど、この映画を見たことはよかった。少年の世界を描きながら、大人の世界をも描ききった秀作である。
 この映画の中の伯父の娘役の賀原夏子が、当時の活きいきとした若い女性を演じて印象深い。
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◇ いちご白書

2007-07-19 00:57:02 | 映画:外国映画
 スチュアート・ハグマン監督 ジェームス・グーネン原作 ブルース・デイビソン キム・ダービー 1970年米

 日本人なら「いちご白書」は知らなくても、「「いちご白書」をもう一度」の歌なら知っているだろう。荒井(松任谷)由実が作詞・作曲し「ばんばん」が歌って1975年に大ヒットした曲(荒井由実最初のオリコン第1位の曲)だ。
 荒井由実は、ここで、君(恋人と思われる)と見た「いちご白書」の映画を思い出しながら、過ぎた青春を歌っている。
 とりわけ印象深い詞は、二番である。
 「僕は、無精髭と髪を伸ばし、学生集会へも時々出かけた」と、当時の学生の情景を歌う。過激派学生ならずとも普通の学生でも、髪を無造作に伸ばし、学生集会やデモには参加していたと歌う。70年の東大安田講堂陥落以降、急速に日本の学生運動は衰退していったので、ここでいうのはそれ以前の情景と言っていい。
 このあと「就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くはないさと君に言い訳したね」と続く。この台詞が、若者の心をとらえた。学生運動に参加した人間にもしなかった人間にも、その心に触れたと思われる。
 つまり、学生時代には少しは過激なことを言ったり行動したりしたが、就職するためには社会への妥協は仕方ないんだと、ネクタイをした元学生は、自分の口で言えないので、荒井由実(ばんばん)の歌で歌ったのだった。
 学生運動に参加した人間は、今はこうして穏健だがかつてはそうではなかったんだよと自己弁護の代弁として、参加しなかった人間は、ノンポリに見えるだろうが実は僕だって学生時代は一応前衛の空気は吸っていたんだよという背伸びのつもりで……。
 荒井由実が大学(多摩美大)に入ったのが72年で、作曲家としてデビューしたのがその前年の高校生の時である。だから、荒井が直接学生運動を体験したというのではなく、八王子出身の早熟の少女は60年代のアメリカ、イギリスの音楽の影響を強く受けたと同時に、日本の若者の感受性を感じとる感性を強く持っていた証左ととるべきであろう。

 ここで歌われた「いちご白書」は、1960年代後半のアメリカの学生運動が舞台の映画である。詳しくは、68年コロンビア大学の学園紛争をモデルにした小説の映画化である。
 映画は、政治にも学生運動にも興味のないボート部の学生が、スト中の学校の中で活動をしている可愛い女子学生を好きになり、紛争のただ中に入っていくという単純なストーリーだ。
 最後、大学側の要請で警官隊が催涙弾を噴射して学内に乱入して学生を学外へ強制退去する。このシーンは、東大安田講堂の陥落を見るようであったが、東大闘争は70年だから、アメリカの方が早いということになる。
 映画の中で歌われる歌は、バティー・セイントメリーの「サークル・ゲーム」。
ここでも、回転木馬に喩えて、帰り来ぬ青春を歌っている。
 「みんな時の回転木馬の捕らわれ人。戻れない過去を人は振り返るだけ」

 今日の平穏なキャンパスからは想像もできないが、このような学生生活、学園闘争が、アメリカにも日本にもあったということである(もちろん、フランスにもあった)。
 そして、このようなシチュエーションを題材とした歌が、若者の心をとらえヒットしたということである。
 映画の中での「サークル・ゲーム」は歌う。
 「今を楽しめ、残り時間も長くはない。回転木馬もじきに速度が鈍る」と。
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□ 淳之介流 やわらかな約束

2007-07-15 02:19:34 | 本/小説:日本
 村松友視著 河出書房新社

 *

 作家でも芸能人でも死んでしまうといつの間にか忘れられてしまう人もいれば、いつまでも忘れられない人もいる。
 作家、吉行淳之介が死んで13年がたった。しかし、ここのところ雑誌で特集されたり、こうして評伝らしいものが出たりと、廃れぬ存在感、途切れぬ隠れた人気を見せている。
 村松友視は作家である。評論家やノンフィクション作家でない小説家(作家)が、他の作家について書くのは珍しい。もちろん、村松が編集者時代に吉行の担当者だったという前提があるのだが、今では押しも押されもせぬ直木賞作家である。
 その作家が、吉行淳之介について書いた。
 ここでは、村松は作家と言うよりすっかり担当編集者の目になっている。一線が引かれていて、その先には行こうとも行けない見えない線の先に存在する吉行を見ているといった感がある。だから、全体を通して意外なほど客観的で、意識的かどうか知れないが拍子抜けと思えるほど二人の個人的な触れあいの描写は少ない。

 吉行が既に作家としての位置を確保していた時に、村松は担当編集者になった。
 吉行が「驟雨」で芥川賞を受賞した時が昭和29年で、彼の作家としての地位を確立したとも言える昭和45年発刊「暗室」で谷崎潤一郎賞を受賞した時以後に村松は吉行の担当編集者になった。講談社や新潮社の担当者より相当遅れてきた担当者だと自分も述べている。
 この時村松30歳で、吉行の担当としては若すぎたのであろう。吉行を理解するには、相当の年期を必要としたのだと思う。いや、理解したとは村松も言っていないし、そう言いきるのは早計であろう。
 吉行は、この遅れてきた若い編集者の原稿依頼に対して、すぐにはうんと言わない(大体において大作家や流行作家はそうである)。これには、作家のその時点での原稿の進行状態や健康状態など、様々な理由がある。それで、担当編集者は、いつか書いていただければという「お願い」を常に持参して対応するという状態を保ち続けることになる。それでも、吉行は書かないと言っているのではない。何とか、折り合いはつけようと心の中では思っているのだ。
 村松は、健康にすぐれない吉行を見て、日にちと体力を要する原稿執筆が無理なら、その当時若手作家として人気が出てきていた野坂昭如との対談はどうだろうかと持ち出す。
 吉行は、「う~ん」と唸って、次に出てきた言葉が、「その話、やわらかい約束にしておこうか」である。
 つまり、「固い約束」ではない約束である。期限があるわけではないが、何とかしようという約束である。
 この約束は、された方は嬉しくもあるが、かといって飛んで帰って(上司に)報告するほどの形ある成果でもなく、宙に浮いた状態の中途半端な嬉しさである。
 実際このやわらかい約束は果たされるが、それは約2年以上たったあとのことである。
 しかし、「やわらかい約束」とは実にいい表現である。
 「今度」とか、「いつか」とか簡単に使う半ば慣習化された儀礼上の約束以上の優しいニュアンスが込められている。

 * *

 もう一つ、この本で村松の新しい視点(発見)と思ったのは、吉行淳之介と三島由紀夫の関係である。
 同年代の二人だが、三島は若くして「スター」(吉行表現)になった。吉行は、ある意味では紆余曲折の末、作家の地位を得る。しかも、吉行の場合は、娼婦から始まって、愛人と妻の間で戸惑う男の話など、自伝性の強い男と女のいわゆるインモラルの内容である。
 吉行は様々な人間と対談や座談を行っているように、考えが違うからといって毛嫌いするタイプではない。しかし、三島に対してはなぜか多くを語らず、近しく接することはなかった(ようだ)。例えば「ナマコ」を嫌いな人間がいるようにと、村松は述べている。
 吉行が意を決して書いたクラブの女性との恋愛関係の「暗室」が谷崎潤一郎賞を受賞した年に、三島は割腹自殺をする。
 その後、吉行は精力的に活動を始めると、村松はその偶然性への疑問を推測している。
 三島は、16歳の時に「花ざかりの森」を発表するなど、早熟な才能を遺憾なく発揮して、その後も小説、劇作家や映画の演出、楯の会を組織した政治的活動など、話題に事欠かない作家であり有名人であった。
 政治的発言を意図的に避けてきた吉行とその対極にあるとも思える三島が人間的に相容れないことは分かるが、きちんと彼らを対峙したことがなかったので、二人の関係と、吉行の三島に対する対応は新鮮な発見であった。
 吉行が、その後の文壇の中で、あるいはそれ以外での人間関係においても、いついかなる時でも、彼らしくさらりと通り過ぎてきたのは、三島の影が取り払われたからかも知れない。彼の中では、三島は最大の壁というか気になる(無視できない)棘のようなものだったのかも知れない。

 * * *

 吉行淳之介が死んでからしばらくたって、ある批評家が彼も文学史からいずれ消えるかもしれない、文学的には微妙な位置でしょうといった発言をした。僕は、この発言に少し驚き、そんなことはないだろうと、このことが気になっていた。
 数多くの本が出版され、数多くの作家が生まれる今日、書店の棚からかつての有名作家の本が次々と消え去っている。戦後長い間、青春小説で文庫の棚を独占していた石坂洋次郎はいつの間にか忘れ去られているし、三島由起夫や川端康成の本でさえ見つけるのが難しい。いや、置いていない書店がほとんどだ。いわんや、芥川賞や直木賞をとった作家とて、既に記憶からも書店からも消え去っている作家は多い。
 吉行に限らず、今日の作家の生命は加速度的に短くなっているのだろう。
 しかし、吉行が生き延びて、見直されているのは、彼の本が再評価されているのではない。彼の生き様であるスタイルだ。
 吉行は、多くの病気を抱え、本妻とは離婚できず(本妻が離婚を受託せず)にスターだった女性(宮城まり子)と同居し、夜の女と浮き名を流し、それらを不本意にも週刊誌にスキャンダルとして流される。
 しかし、彼は、言い訳をせず、修羅場を他人に見せず、辛さを覚らせず、(結果的に)さらりと通り過ごし、酒を飲み、ギャンブル(麻雀など)に耽り、その間にそれらの出来事を小説として練り上げてきた。
 女性にかける下ネタや猥談も、洒落た教養の一部に滲ませてあるかのように思わせる独特の雰囲気。風に吹かれる柳のような物腰。
 それら一様に、彼のスタイルが粋なのである。

 淳之介流には、業平、世之介と続く、時代を超えた「色男」の系譜を感じさせるのだ。

 * * * *

 村松は、吉行を八丁堀のダンナで自分を手下の目明かしと称している。
 吉行の死後十余年がたち、おそらく村松の心の中で吉行は徐々に大きな存在として膨れあがってきたのだろう。重くなって、それを払いのけるには書かずにはいられないと思って筆をとったに違いない。
 しかし、これで新しい吉行像が浮かび上がったかというとそうではない。多くは吉行の経歴・作品をなぞりながらの村松の思いをいくらか付加することに終始してしまったと思えるのだ。
 吉行の存在が大きすぎて村松がすべてを書くのを躊躇っているのか、はたまたそれほど吉行の人間性が複雑で捉えるのが難しいのか、吉行は未だふわふわと曖昧さを残したまま、私を書こうとしても無駄だよと笑っているように見えるのだ。

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