涙と雨にぬれて
泣いて別れた二人……
それまでシャンソンの訳詞をしていたなかにし礼の、歌謡界でのデビュー曲「涙と雨にぬれて」の歌の出だしである。曲も自分で作り、作詞・作曲のデビューだった。
1966年のことで、歌ったのは石原裕次郎のプロデュースによってデビューしていた裕圭子とロス・インディオス(ポリドール)、およびシャンソン喫茶「銀巴里」時代の友人の田代美代子とマヒナ・スターズ(ビクター)の競作だった。
僕は、このセンチメンタルな歌が好きだった。まだ学生で、本当の恋なんて知らなかった頃だ。
なかにし礼の歌謡曲の実質的処女作であるこの歌には、瑞々しさが滴っている。
この曲がヒットした頃、なかにしは最初の妻と別居している。
ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない……
翌1967年、デビューしてもヒット曲がなかった渡辺順子が黛ジュンと改名して再デビューした曲「恋のハレルヤ」(作曲:鈴木邦彦)の大ヒットで、なかにし礼はヒットメーカーの名を得た作詞家となる。
続いてなかにしと鈴木のコンビによる黛ジュンによる歌は、この年「霧のかなたに」、翌1968年には「乙女の祈り」とヒットを続け、「天使の誘惑」でその年の第10回日本レコード大賞を受賞する。
しかし「恋のハレルヤ」の、いきなり「ハレルヤ~」という出だしは何と言っていいだろう。この言葉は聖書の祈りの言葉で、日本人には馴染みのある言葉ではない。
ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤコーラス」を思い出すぐらいで、いいも悪いも判断の下しようがない。ゴスペルソングでもないのに、よく若い女の子の歌謡曲で、この突拍子もない投げかけの歌詞を持ってきたものだ、と思わずにはいられなかった。
ところが、のちになかにし礼によると、これは彼の満州での体験を想って書いた歌だというのを知って、僕は二度驚いた。
満州国、それは今はなき幻の国である。「恋のハレルヤ」と満州国……
*
あの日からハルピンは消えた
あの日から満州も消えた……
僕は、ずっとなかにし礼を見つめていた。
「天使の誘惑」がヒットした年、大学を卒業し出版社の編集者として勤め始めた僕は、その雑誌「ドレスメーキング」に、新進気鋭の作詞家なかにし礼とやはり新進若手デザイナーであった鳥居ユキの対談が掲載されたのを嬉しく何度も読み返した。
作家では五木寛之、作詞家ではなかにし礼を、僕は秘かに憧れと羨望を持って見ていた。
二人の共通点は、外地引揚者という点である。第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本の敗戦により、五木は朝鮮から、なかにしは満州から子どものころ帰国している。
この二人を好きなのは、強く意識していたわけではないが、僕のなかにも満州という幻の祖国がワインの底の澱のように静かに沈殿しているからかもしれない。
「恋のハレルヤ」への思いをなかにし礼はこう語る。
満州の牡丹江(中国黒龍江省)に住んでいたなかにし礼は、1945年の日本の敗戦のあと、死ぬような体験を経て、1年2か月後にかろうじて引揚げ船を出航する港にたどり着く。
途中、なかにしの父をはじめ、多くの人が亡くなった。なかにしがまだ7歳のときである。
日本への引き揚げ船が出航する場所は、遼東湾に面する葫蘆島。
そこには、満州の各地からやっとの思いでたどり着いた、日本に帰る人たちが集まっていた。葫蘆島の駅に着き列車を降りて、その先にある海と青い空を見て、やっと日本に帰れるとなかにしは思った。
1946年10月のことだった。
この歌は、その港にたどり着いたとき見た景色と想いであるところの、滅びゆく日本、沈みゆく満州、その国を愛した国民の感情を恋心に託して作った、となかにしは後で述べている。
幻のごとくに消えていった満州国への未練と諦めを散りゆく花に託し、その想いを込めた叫びが「ハレルヤ~」だった。
1946年10月、僕はまだ1歳にもなっていなかったが、ちょうどその頃、その地、葫蘆島に母と一緒にいたはずだ。「大地の子」にもならず、かろうじて生きてその地にたどり着いた。
記憶にはないが、僕はおそらく最後の世代の満州からの引揚げ体験者だ。満州と聞いただけで、胸の奥に言葉にできない哀歓が滲むのだ。
*
なかにし礼は、その後ヒット曲を連発し人気の作詞家になったころの1971年、「哀愁のパリ」の翻訳書を角川文庫から出す。
原作はフランスの作家、アルフォンス・ドーデで、原題は「サフォー」(Sapho)。
「哀愁のパリ」は、1968年公開の「個人教授」(La leçon particulière)で、アイドル並みのスターになったルノー・ベルレーと、「彼女について私が知っている二三の事柄」(監督:J・R・ゴダール)のマリナ・ヴラディの共演の映画である。
当時、僕はパリに酔いはじめた頃なので、映画はもちろん観たが、すぐに本を買った。そして、彼の文才の幅に改めて感心したのだった。「哀愁のパリ」は、今でも僕の本棚の片隅に、青春時代を偲ぶように人知れず並べられている。
同じ頃、なかにし礼は女性週刊誌に様々な花に託した恋物語を連載していた。なかにしの初めての小説は短編小説集の「花物語」(新書館)だが、僕の記憶が正しければ女性週刊誌に連載されたものをまとめたものだろう。
このころから、小説を書く萌芽はあったし、彼のなかでもいつかは確たる小説を書こうと思っていたと思う。
1977年、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌った曲のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を出した。これは、僕が最も好きなアルバムだ。
自身で歌った「時には娼婦のように」は、もちろん黒沢年男よりずっと情感がある。それよりも特筆すべきは、このアルバムの最後で歌われている「ハルピン1945年」である。ここで歌われているのは、何と彼の満州体験の甘酸っぱい面影である。
前の項で、ハルピンに託した失われた満州への哀惜を歌った歌詞の冒頭をあげたが、戦後、満州をこんな甘く切なく歌った歌はないだろう。
さらに翌1978年には、映画「時には娼婦のように」」(小沼勝監督、日活)にて、原作・脚本・音楽・主演を果たしている。相手役は鹿沼えり。
内容も哀切な情感が滲む感性溢れるカミソリのような映画で、彼の演技も余技ではなく本物の役者と見まがうものであった。
この頃のなかにし礼は多才という平凡な表現を通り越して、持て余すかのような才能のエネルギーがあちこちで溢れ出ていた。
僕がなかにし礼に会ったのは、ずっと後の1991年、婦人雑誌でモーツァルト没後200年「モーツァルトの快楽」という企画をたて、モーツァルトについてのインタビューであった。
彼はすでにミュージカルやクラシック音楽への仕事も着手していたし、クラシック音楽に造詣が深いことは「音楽への恋文」(共同通信社)のエッセイで知っていた。
赤坂プリンスホテル旧館のバーでのインタビューでは、「善もあれば悪もあり、涙もあれば微笑みもある。モーツァルトは、僕の帰りつくところ」と語った。
彼は、人懐こい予想通りの「本音の人」であった。
*
2016年12月に出版された「夜の歌」(毎日新聞出版)は、癌との闘病中の最中に書かれたなかにし礼の最も新しい自伝的小説である。
生きている間にこれだけは書いておきたいという思いで書かれたもので、その切実な思いが伝わってくる。
なかにし礼の人生を語るに、大きくは以下の3つに分けられよう。
彼に最も大きな影響を与えた、少年時代の戦争が及ぼした満州引揚げによる故郷喪失体験。
その後長じて、時代の寵児となった作詞家生活から作家(小説家)への華やかな人生行路。
成功した彼の生活に入り込んで、金をむしり取り続けた愛憎半ばする実兄の存在。
満州時代のことは小説「赤い月」(2001年)に書かれているし、兄のことは小説「兄弟」(1998年)に詳しい。
「夜の歌」は、その集大成として書いたのだろう。本書では、彼の今まで生きてきたことの真実、本音が、物語として絡めるように描かれている。
*
なかにし礼は、本音の人である。
「夜の歌」で、週刊誌的観点で興味をひいたのは、作詞家として成功していく最中に、彼を彩った実在の女性の登場である。
一人は、銀座のクラブ「順子」のママ。
この店は、山口洋子の「姫」のナンバーワンだった田村順子が独立して開いた店で、なかにしは28歳の時、川内康範に連れられて初めて銀座のこのクラブに行く。そこで二人は、恋というか彼が言うところの疑似恋愛に陥る。
当時、数ある銀座のクラブのなかでも、「姫」も「順子」も有名人が通う店として名前は知れ渡っていたし、田村順子もしばしば週刊誌で見る顔だった。彼女はのちに、日活の俳優、和田浩治と結婚している。
もう一人は、当時歌謡界で同じ作詞家として華やかに活躍していた安井かずみ。
安井かずみも僕の好きな作詞家で、彼女との関係は初耳だったので新鮮な驚きだった。彼女はのちにミュージシャンの加藤和彦と結婚(再婚)するのだが、すでに故人となったからここまで書いたのであろう。
なかにしと安井の出会いの場面は、この二人だったらと想像させるがごとくの出会いと進行であったから、あまりにも出来すぎた物語のようであった。
なかにしが安井かずみと初めて会ったのは日比谷有楽座前の三信ビルにある渡辺プロダクションでだった、と書いている。
日比谷の三信ビルは懐かしい。
今はない三信ビルは、昭和初期建造の古い洋風のビルで、1階の通路には左右に様々なテナントが入っていて、そのなかに老舗のフレンチ・レストランがあった。その中央通路部は1、2階が吹き抜けになっていて、2階のコーナーにはアールデコ風に彫刻が施してあった。通路の中央部にはまるでパティオのようなゆったりとした半円形のエレベーター部分があり、その半円形に沿って古風なエレベーターの扉がずらりと並んでいた。
外から見る表面は平凡なビルのようだったが、中に入ると古いパリ風の雰囲気が漂っていて、歩くだけで楽しい僕の好きな一角だった。そのビルに渡辺プロが入っていたとは知らなかった。
ことの本題は三信ビルのことではなく、次の件だ。
なかにしは初めて会ったその日のうちに、その三信ビルから安井のマンションに、彼女のスポーツタイプのクラシック・カー、62年のロータス・エランで行くことになる。
安井のマンションは僕も名前だけは知っていた川口浩が経営する川口アパートで、そこでレオ・フェレの「悪の華」(ボードレール)を聴く。そして、二人は前からそのような関係であったかのように愛しあう。いとも自然に、いとも当然のごとく。
何とも安井かずみらしいし、なかにし礼らしい。
レオ・フェレの「悪の華」は、僕もこのレコードを持っているので、何となく嬉しくなった。そんな時代だったのだ。
そして、二人は赤坂にあった「ムゲン」に行く。
「ムゲン」は藤本晴美によるサイケデリックな映像を使った、当時「ビブロス」と並んで最先端のディスコだった。僕も「ムゲン」には当時行ったことはあるし、ファッション雑誌でカメラマン立木義浩撮影で使わせてもらったことがある。
ここで、コシノジュンコなどの新しい才能と出会い、交友が広がる。
しかし、なかにし礼と安井かずみの二人の作詞家が親密な関係にあったことは、ずっと秘かに隠されたままにしておいた方が良かったように思えた。
※参照:「加藤和彦もいた、「安井かずみがいた時代」」→ブログ、2013.5.12
「夜の歌」には、なかにし礼の満州引揚げ体験から今日までの波乱に富んだ人生がパノラマのように描かれている。
そして、彼は今も戦争反対、憲法問題など、文化人として本音を発信、発言し続けている。
※写真は、ハルピン(哈爾濱)から長春(新京)の間に広がる旧満州の風景(2015年5月列車から撮影)
泣いて別れた二人……
それまでシャンソンの訳詞をしていたなかにし礼の、歌謡界でのデビュー曲「涙と雨にぬれて」の歌の出だしである。曲も自分で作り、作詞・作曲のデビューだった。
1966年のことで、歌ったのは石原裕次郎のプロデュースによってデビューしていた裕圭子とロス・インディオス(ポリドール)、およびシャンソン喫茶「銀巴里」時代の友人の田代美代子とマヒナ・スターズ(ビクター)の競作だった。
僕は、このセンチメンタルな歌が好きだった。まだ学生で、本当の恋なんて知らなかった頃だ。
なかにし礼の歌謡曲の実質的処女作であるこの歌には、瑞々しさが滴っている。
この曲がヒットした頃、なかにしは最初の妻と別居している。
ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない……
翌1967年、デビューしてもヒット曲がなかった渡辺順子が黛ジュンと改名して再デビューした曲「恋のハレルヤ」(作曲:鈴木邦彦)の大ヒットで、なかにし礼はヒットメーカーの名を得た作詞家となる。
続いてなかにしと鈴木のコンビによる黛ジュンによる歌は、この年「霧のかなたに」、翌1968年には「乙女の祈り」とヒットを続け、「天使の誘惑」でその年の第10回日本レコード大賞を受賞する。
しかし「恋のハレルヤ」の、いきなり「ハレルヤ~」という出だしは何と言っていいだろう。この言葉は聖書の祈りの言葉で、日本人には馴染みのある言葉ではない。
ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤコーラス」を思い出すぐらいで、いいも悪いも判断の下しようがない。ゴスペルソングでもないのに、よく若い女の子の歌謡曲で、この突拍子もない投げかけの歌詞を持ってきたものだ、と思わずにはいられなかった。
ところが、のちになかにし礼によると、これは彼の満州での体験を想って書いた歌だというのを知って、僕は二度驚いた。
満州国、それは今はなき幻の国である。「恋のハレルヤ」と満州国……
*
あの日からハルピンは消えた
あの日から満州も消えた……
僕は、ずっとなかにし礼を見つめていた。
「天使の誘惑」がヒットした年、大学を卒業し出版社の編集者として勤め始めた僕は、その雑誌「ドレスメーキング」に、新進気鋭の作詞家なかにし礼とやはり新進若手デザイナーであった鳥居ユキの対談が掲載されたのを嬉しく何度も読み返した。
作家では五木寛之、作詞家ではなかにし礼を、僕は秘かに憧れと羨望を持って見ていた。
二人の共通点は、外地引揚者という点である。第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本の敗戦により、五木は朝鮮から、なかにしは満州から子どものころ帰国している。
この二人を好きなのは、強く意識していたわけではないが、僕のなかにも満州という幻の祖国がワインの底の澱のように静かに沈殿しているからかもしれない。
「恋のハレルヤ」への思いをなかにし礼はこう語る。
満州の牡丹江(中国黒龍江省)に住んでいたなかにし礼は、1945年の日本の敗戦のあと、死ぬような体験を経て、1年2か月後にかろうじて引揚げ船を出航する港にたどり着く。
途中、なかにしの父をはじめ、多くの人が亡くなった。なかにしがまだ7歳のときである。
日本への引き揚げ船が出航する場所は、遼東湾に面する葫蘆島。
そこには、満州の各地からやっとの思いでたどり着いた、日本に帰る人たちが集まっていた。葫蘆島の駅に着き列車を降りて、その先にある海と青い空を見て、やっと日本に帰れるとなかにしは思った。
1946年10月のことだった。
この歌は、その港にたどり着いたとき見た景色と想いであるところの、滅びゆく日本、沈みゆく満州、その国を愛した国民の感情を恋心に託して作った、となかにしは後で述べている。
幻のごとくに消えていった満州国への未練と諦めを散りゆく花に託し、その想いを込めた叫びが「ハレルヤ~」だった。
1946年10月、僕はまだ1歳にもなっていなかったが、ちょうどその頃、その地、葫蘆島に母と一緒にいたはずだ。「大地の子」にもならず、かろうじて生きてその地にたどり着いた。
記憶にはないが、僕はおそらく最後の世代の満州からの引揚げ体験者だ。満州と聞いただけで、胸の奥に言葉にできない哀歓が滲むのだ。
*
なかにし礼は、その後ヒット曲を連発し人気の作詞家になったころの1971年、「哀愁のパリ」の翻訳書を角川文庫から出す。
原作はフランスの作家、アルフォンス・ドーデで、原題は「サフォー」(Sapho)。
「哀愁のパリ」は、1968年公開の「個人教授」(La leçon particulière)で、アイドル並みのスターになったルノー・ベルレーと、「彼女について私が知っている二三の事柄」(監督:J・R・ゴダール)のマリナ・ヴラディの共演の映画である。
当時、僕はパリに酔いはじめた頃なので、映画はもちろん観たが、すぐに本を買った。そして、彼の文才の幅に改めて感心したのだった。「哀愁のパリ」は、今でも僕の本棚の片隅に、青春時代を偲ぶように人知れず並べられている。
同じ頃、なかにし礼は女性週刊誌に様々な花に託した恋物語を連載していた。なかにしの初めての小説は短編小説集の「花物語」(新書館)だが、僕の記憶が正しければ女性週刊誌に連載されたものをまとめたものだろう。
このころから、小説を書く萌芽はあったし、彼のなかでもいつかは確たる小説を書こうと思っていたと思う。
1977年、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌った曲のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を出した。これは、僕が最も好きなアルバムだ。
自身で歌った「時には娼婦のように」は、もちろん黒沢年男よりずっと情感がある。それよりも特筆すべきは、このアルバムの最後で歌われている「ハルピン1945年」である。ここで歌われているのは、何と彼の満州体験の甘酸っぱい面影である。
前の項で、ハルピンに託した失われた満州への哀惜を歌った歌詞の冒頭をあげたが、戦後、満州をこんな甘く切なく歌った歌はないだろう。
さらに翌1978年には、映画「時には娼婦のように」」(小沼勝監督、日活)にて、原作・脚本・音楽・主演を果たしている。相手役は鹿沼えり。
内容も哀切な情感が滲む感性溢れるカミソリのような映画で、彼の演技も余技ではなく本物の役者と見まがうものであった。
この頃のなかにし礼は多才という平凡な表現を通り越して、持て余すかのような才能のエネルギーがあちこちで溢れ出ていた。
僕がなかにし礼に会ったのは、ずっと後の1991年、婦人雑誌でモーツァルト没後200年「モーツァルトの快楽」という企画をたて、モーツァルトについてのインタビューであった。
彼はすでにミュージカルやクラシック音楽への仕事も着手していたし、クラシック音楽に造詣が深いことは「音楽への恋文」(共同通信社)のエッセイで知っていた。
赤坂プリンスホテル旧館のバーでのインタビューでは、「善もあれば悪もあり、涙もあれば微笑みもある。モーツァルトは、僕の帰りつくところ」と語った。
彼は、人懐こい予想通りの「本音の人」であった。
*
2016年12月に出版された「夜の歌」(毎日新聞出版)は、癌との闘病中の最中に書かれたなかにし礼の最も新しい自伝的小説である。
生きている間にこれだけは書いておきたいという思いで書かれたもので、その切実な思いが伝わってくる。
なかにし礼の人生を語るに、大きくは以下の3つに分けられよう。
彼に最も大きな影響を与えた、少年時代の戦争が及ぼした満州引揚げによる故郷喪失体験。
その後長じて、時代の寵児となった作詞家生活から作家(小説家)への華やかな人生行路。
成功した彼の生活に入り込んで、金をむしり取り続けた愛憎半ばする実兄の存在。
満州時代のことは小説「赤い月」(2001年)に書かれているし、兄のことは小説「兄弟」(1998年)に詳しい。
「夜の歌」は、その集大成として書いたのだろう。本書では、彼の今まで生きてきたことの真実、本音が、物語として絡めるように描かれている。
*
なかにし礼は、本音の人である。
「夜の歌」で、週刊誌的観点で興味をひいたのは、作詞家として成功していく最中に、彼を彩った実在の女性の登場である。
一人は、銀座のクラブ「順子」のママ。
この店は、山口洋子の「姫」のナンバーワンだった田村順子が独立して開いた店で、なかにしは28歳の時、川内康範に連れられて初めて銀座のこのクラブに行く。そこで二人は、恋というか彼が言うところの疑似恋愛に陥る。
当時、数ある銀座のクラブのなかでも、「姫」も「順子」も有名人が通う店として名前は知れ渡っていたし、田村順子もしばしば週刊誌で見る顔だった。彼女はのちに、日活の俳優、和田浩治と結婚している。
もう一人は、当時歌謡界で同じ作詞家として華やかに活躍していた安井かずみ。
安井かずみも僕の好きな作詞家で、彼女との関係は初耳だったので新鮮な驚きだった。彼女はのちにミュージシャンの加藤和彦と結婚(再婚)するのだが、すでに故人となったからここまで書いたのであろう。
なかにしと安井の出会いの場面は、この二人だったらと想像させるがごとくの出会いと進行であったから、あまりにも出来すぎた物語のようであった。
なかにしが安井かずみと初めて会ったのは日比谷有楽座前の三信ビルにある渡辺プロダクションでだった、と書いている。
日比谷の三信ビルは懐かしい。
今はない三信ビルは、昭和初期建造の古い洋風のビルで、1階の通路には左右に様々なテナントが入っていて、そのなかに老舗のフレンチ・レストランがあった。その中央通路部は1、2階が吹き抜けになっていて、2階のコーナーにはアールデコ風に彫刻が施してあった。通路の中央部にはまるでパティオのようなゆったりとした半円形のエレベーター部分があり、その半円形に沿って古風なエレベーターの扉がずらりと並んでいた。
外から見る表面は平凡なビルのようだったが、中に入ると古いパリ風の雰囲気が漂っていて、歩くだけで楽しい僕の好きな一角だった。そのビルに渡辺プロが入っていたとは知らなかった。
ことの本題は三信ビルのことではなく、次の件だ。
なかにしは初めて会ったその日のうちに、その三信ビルから安井のマンションに、彼女のスポーツタイプのクラシック・カー、62年のロータス・エランで行くことになる。
安井のマンションは僕も名前だけは知っていた川口浩が経営する川口アパートで、そこでレオ・フェレの「悪の華」(ボードレール)を聴く。そして、二人は前からそのような関係であったかのように愛しあう。いとも自然に、いとも当然のごとく。
何とも安井かずみらしいし、なかにし礼らしい。
レオ・フェレの「悪の華」は、僕もこのレコードを持っているので、何となく嬉しくなった。そんな時代だったのだ。
そして、二人は赤坂にあった「ムゲン」に行く。
「ムゲン」は藤本晴美によるサイケデリックな映像を使った、当時「ビブロス」と並んで最先端のディスコだった。僕も「ムゲン」には当時行ったことはあるし、ファッション雑誌でカメラマン立木義浩撮影で使わせてもらったことがある。
ここで、コシノジュンコなどの新しい才能と出会い、交友が広がる。
しかし、なかにし礼と安井かずみの二人の作詞家が親密な関係にあったことは、ずっと秘かに隠されたままにしておいた方が良かったように思えた。
※参照:「加藤和彦もいた、「安井かずみがいた時代」」→ブログ、2013.5.12
「夜の歌」には、なかにし礼の満州引揚げ体験から今日までの波乱に富んだ人生がパノラマのように描かれている。
そして、彼は今も戦争反対、憲法問題など、文化人として本音を発信、発言し続けている。
※写真は、ハルピン(哈爾濱)から長春(新京)の間に広がる旧満州の風景(2015年5月列車から撮影)