かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 夜市

2006-08-31 01:17:52 | 本/小説:日本
 恒川光太郎著 角川書店

 僕の記憶が確かなら、香港の弥敦道(ネイザン・ロード)を北に行った旺角(ウォンコツ)の東に女人市があった。
 ここでは、あらゆる女性を売っていった。もう随分前の話だが、僕はそこでアングルの「オダリスク」の女を見つけた。サラセンの柔らかい布地を頭に巻いて、手には孔雀の羽を束ねて扇のようにした手箒を持っていた。くびれた腰と柔らかそうな豊満な肉体は、ほかのどの女をも見劣りさせた。
 ふと、その吸い込まれそうな目に出くわした。僕は「運命の女」と思った。いや、僕でなくとも、心ある男はそう思っただろう。
 しかし、その女がいくらで買えるのか見当もつかなかったし、僕の財布の中身ではとうてい及びもつかないと分かっていたので、その日はすごすごと帰ってきた。
 次の日、僕は澳門に行った。なげなしの金を持ってまっすぐカジノへ行った僕は、そこでツキにつきまくって、大金を手にした。その金を手に、再び女人市に向かった。もちろん、目的は「オダリスク」の女だった。
 ところが、旺角のどこを歩いても女人市は見つからなかった。女人市は、女人街と名前を変えていて、女性ものの衣服や雑貨を中心に売っている通りになっていた。

  *

 夜市は、前触れもなく開かれる。その場所は森の奥だったり、岬の先だったりする。今宵開かれると、風や虫や鳥が教えてくれる。夜市では、いろいろなものを売っている。
 しかし、誰もが夜市に行けるのではない。そこは、ある空間と別の空間が折り重なった複雑な空間に、前触れもなく開かれる市だからだ。
 ある夜、夜市に紛れこんだ幼い兄弟の2人。そこで、兄は野球の才能を買う。弟と引き換えに。
 野球がうまくなった兄は、しかし、そのことが頭から離れない。夜市は本当にあったのか?
 男(兄)は相応に野球がうまくなって成長した。ある時、男(兄)の恋人が、男にこう言った。「私の友だち、野球の選手としたことがあるのよ」と。自慢そうに、ふふふと笑いながら。それから、男(兄)は何もかもが嫌になる。何もかもが虚しくなる。
 男(兄)は、野球をやめる。そして、弟を探しにまた夜市に出かける。
 
 僕がSFやホラーをあまり好きではないのは、現実離れした話の中で、矛盾や綻びが随所に見いだされ、それが嫌になるからだ。物語の辻褄を合わせるための、見え透いた屁理屈を並べられると、もう本を投げ出したくなる。
 しかし、この本には、小説の楽しさが詰まっている。しかも、物語の究極の醍醐味ともいうべき、空想の持つ快楽というものを読むものに与えてくれる。そして、空想という快楽の中に、人間の持つ哀しみを滲ましている。

 人間には欲望がある。その欲望は人によって違うし、それを手に入れるには何らかの犠牲を伴う。人間は、自分の欲望を満たすために、言葉を換えて言えば、好きなものを手に入れるために生きているのだろうか。
 そして、そのことにどんな意味があるのだろうか。
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旅の道づれ

2006-08-26 00:28:35 | ゆきずりの*旅
 以前にも書いたが、僕は、旅はというより移動は、飛行機より列車が好きだ。海外以外は、ほとんど列車を選択する。
例えば東京から九州に帰るなど、少し長い旅(移動)をするとき、バッグに文庫本を突っ込む。
 読み終えるには十分な時間なのだが、1冊とて読み終わったためしがない。それどころか、最初の何ページか何十ページで終わってしまうことがほとんどである。
 これらの読みかけの本は、次の旅とかいつかの旅にまた持っていくことが多い。そして、また初めから読み始めるので、途中まで何度も読む羽目になる。つまり、旅に持っていく本の顔ぶれは、ほとんど同じものが多いのだ。
 今度こそ読みきろうと思って持ってきた本だが、列車が終点に着く頃には、ほとんど本を読んでいない自分に落胆した。休みの後の受験勉強の計画表を見るのに似ている。
 なぜか? 僕が怠け者であることもあるが、それがすべてではないようだ?
 
 先ほどといっても大分前だが、テレビ「笑っていいとも」の「テレフォン・ショッキング」で、タモリと元宝塚の女優(たぶん真矢みき)が話していたのを見て、僕もひどく頷いてしまった。
 女優は、「地理に凝っている」という話をした。
 「私も好きですよ」と、タモリが相槌を打つ。
 「私、地図マニアで、地図を見るのが好きなんですよ」
 「私も、暇なときは地図を見てますよ」
 「そうですかー。地図は面白いですよね」
 「地図もいろいろ変わりますしね。道ができたり橋ができたりすると」
 「最近は、地形が気になって、地形図も見ているんです」
 「そこまで行きましたか。女性としては珍しいですね」
 「ですから、移動にも飛行機はあまり使いません。列車です」
 「私も列車です。列車マニアです。汽車マニアというのとは少し違うんですがね」
 「列車で走っていると、ここがこの前と違ったと分かるんですよね」
 「そうなんです。博多まで列車・新幹線で行くというと、そんな長い時間退屈しませんかと言う人がいるんですが、退屈なんかしませんよ。あちこち見なくちゃいけないんで、忙しいんです」
 「そうです。いろいろ見なければいけないんで忙しいですよね。この前、地形を見るために、どこそこ(場所は忘れた)へ行ってきました」
 「そこへ行きましたか。そこは面白いところでしょう」
 「ええ、暇があったら地図を見て行き先を決めているんですよ」
 「私も、時間があればねぇ~、列車の旅をしたいんですが。この前は、用事で、博多まで日帰りをしましたよ。列車で」
 「それは、すごい!」
 といった話が、いつ終わるともなく続くのだった。いや、残念ながら、話は時間制限のため10余分で終わったのだった。

 僕は、タモリや元宝塚女優のように、地図や地形マニアではないので、車窓の景色を見るのに忙しいと思ったことはなく、ただぼんやりと見ているのが心地いいのである。それで、今度こそ読書をと思いながら、いつもそれを果たせず列車は終着駅に着く。

 僕が、旅に出るとき持って出る本は大体が決まっている。若いとき読みそこなった本である。本棚に積んだままになった本で、それでいて気にかかっている本である。
 それらは、「サフォー(哀愁のパリ)」(アルフォンス・ドーデ)、「愛人(ラ・マン)」(M・デュラス)、「北回帰線」(ヘンリー・ミラー)、「キャンディ」(デリイ・サザーン)、「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」(金子光晴)などで、その時の気分に応じてあわててバッグに入れることになる。大体が出発前はばたばたで、熟考している暇はない。この中で、金子光晴の旅の3部作はすでに読んでいるのだが、旅というとつい手が伸びる本である。
 時たま、新刊ですぐ読みたいというのが入るときがあるが、旅には古典がいい。僕の横にいて一緒に旅しているという安心感のある本、何度読んでも初めてのような色褪せない文体を持った本がいい。

 また、佐賀から東京へ列車で帰る。今度はどこまで読めるかな、「哀愁のパリ」を。
 そのうち、この旅の道づれに、プルーストの「失われた時を求めて」が加わるかもしれない。これだと、いつ終わるとも知れないので、僕のような旅には相応しいように思える。
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波佐見から、大村湾へ

2006-08-17 16:52:12 | ゆきずりの*旅
 磁器の町、佐賀・有田の西に波佐見町がある。波佐見もまた磁器の町だが、ここは長崎県である。以前はここで製作される磁器も、有田焼といって売り出されていた。有田の全国区の名前を拝借していたのだが、最近は波佐見焼きで出回っている。
 波佐見焼きの歴史も、有田に準ずるように江戸初期と古い。やはり有田と同じく、朝鮮の陶工によるものであろう。有田が肥前・鍋島藩の管理によって生産・輸出されたのに対し、こちらは大村藩によってなされた。
 
 旧友が波佐見町に住んでいるので、彼の案内で街を歩いた。磁器を見ても、豪華で華美なものはないが、並べてあるのも見ても、有田と変わらない。主なものは、一般に使用する食器や湯飲み、コーヒーカップなどだ。
 目立ってはいないが、ここは普段日常的に使用する食器類を中心に、磁器を昔から地道に生産してきた町なのだ。その中には、「くわらんか碗」と呼ばれたものもある。
 波佐見は有田の町より小さいが、その中で良質な生産工房が集まっているという中尾山に行ってみた。少し小高い丘の川に沿って寄り集まっている陶房の数々。川に架かる石橋には、磁器がタイルのように敷いてあり、橋に大きな磁器の大花瓶が装飾として立っている。伊万里の鍋島藩の御用窯が築かれた磁器の里、大川内山を想起させた。
 この中尾山の中腹にある「陶房、青」を見せてもらった。白磁に青をあしらった食器や花瓶は、落ち着いた感触を備えている。円さは小ぶりだがすっと丈の高いコップは、ビールを飲むのにも向いている。水差し口が少し傾いた真っ白な一輪挿しは、ユーモアも含んでいて洒落ている。
 今では、窯で焼くのは、人間の勘に頼っていた薪ではなく、ほとんどがガスである。出来不出来のむらが少なく、温度調節もできる。
 波佐見は、今では有田の名を借りることなく、自分の名前でしっかり歩いている。

 波佐見をさらに西に行くと、大村湾に面して川棚町がある。大村湾に出てみた。夕焼けが海を照らして美しい。ここは、第2次世界大戦中、人間魚雷の特訓基地だったところだ。
 大村湾にイボのように出ている大崎半島公園から、海の向こうの陸地に3本の鉄塔が立っているのが見える。ただただ高く伸びた、遠くから見ると線香のような感じの塔だ。見たものは誰でも、何だろうと不思議に思うだろう。高さ137メートルの旧海軍の針尾の無線塔だ。密かに、不気味に立っている戦争遺産だ。

 この近くに、ハウステンボスがある。遠くからでも、広大に敷地の中に、いくつかの豪華な建物が見える。敷地に近づくと、すぐに目につくのが、アムステルダム中央駅を模倣した威容堂々とした建物だ。さらに、いくつかのヨーロッパ風の華美な建物が建っているのが見える。これらは、ほとんどがホテルだという。施設内を見て周るだけでも疲れそうだ。
 オランダ村はどうなったのだろうと思っているうちに、広大なハウステンボスがいつの間にか出来あがった。この周辺の道路の整備を見れば、大変な力の入れようである。長崎は、佐賀と違って観光立県だ。
 しかも、ハウステンボスという駅までできている。博多から、ここまで「ハウステンボス号」というネーミングの特急列車も走っている。
 中に入ることなく、敷地を一周し、外観を展望しただけで通り過ぎた。閑散とした地に、突然現れたオランダ町で、オランダを味わうことができるのだろうか。
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虹の松原

2006-08-14 13:08:27 | ゆきずりの*旅
 夏になると、一度は海に行きたくなる。行かないと、夏を味わうことなく過ごしたと思えて、最近ではもう海に入るのは無理かなといった8月も終わろうという頃になっても行っていた。
 大体が8月の盆の季節は、佐賀に帰ってきているので、行くのは唐津の海である。それも、虹の松原である。
 虹の松原に行くには、最寄りの駅から佐世保線で肥前山口駅を経由し(しばしばここで電車を乗り換える)、久保田駅で西唐津行きの唐津線に乗り換え、唐津駅に出る。唐津駅から博多方面に向かう筑肥線で虹の松原駅下車という、なんとももどかしい1時間40分から2時間であるが、僕は列車の旅と思っているので、乗っているだけで楽しい。
 佐世保線沿線は、主に田んぼが広がる平野である。唐津線になると、途中多久、厳木(きゅうらぎ)あたりから列車は山林を分け入るような風景に変わる。そして、旧唐津市内に入ると、ゆっくりと流れる松浦川が現れ、列車はそれに沿って走り、遠く唐津湾の海が見えてくる。
 
 虹の松原は、玄界灘の唐津湾に沿って、東西5キロに伸びるクロマツの林だ。
 日本人は、御三家をはじめ三大何々という列挙といおうか格付け言葉が好きだが、この唐津の虹の松原も日本三大松原と呼ばれている。あとの二つは、三保の松原と天橋立である。
 最近の松原の松は、まっすぐに伸びているのが多いように感じる。かつては、お年寄りの背のようによく曲がっていた。その松の謂れというのが面白い。
 豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、唐津の先の名護屋に城を建て、陣をひいた。そのとき、唐津の松原がまっすぐ伸びているのを秀吉が見て、「頭が高い」と言って睨んで以来、曲がったのだという。
 最近では、太閤の威厳も遠のいたのかもしれない。

 スペインからポルトガルを旅したとき、まっすぐに伸びた木の林をバスで通った。それが、松林だと聞いて、驚いた記憶がある。まるで杉林のようだったからだ。それに、檀一雄が住んでいたポルトガルのサンタ・クルーズ村の松林の松ぽっくりは、日本のそれの10個分ぐらいはあろうかという大きなものであった。鶏の卵とダチョウの卵ぐらいの違いがあったろう。
 
 海は、ウインドサーフィンやジェットボートで楽しむ若者がいて、夏の華やぎを漂わせていた。そして、初めてのことだが、浜辺でビーチサッカーの試合が行われていた。

 海のあとは、唐津の街に出て、「イカの活き造り」を探した。
 地元の人に聞いて入った唐津駅前近くの「山茂」は、店内にイカの生簀がある。泳いでいるイカを掬って、その場で調理をしてくれた。皿にのせられたイカは、切り刻まれているのに、足が動いている。どんよりとした思いもよらない大きな目が、こっちを見つめているようだ。「ご免! 許せ」。
 
 この夜、唐津の空に花火が上がった。ほろ酔い気分で眺めた。盆なのだ。
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落雷

2006-08-13 11:48:59 | 気まぐれな日々
 地方の町の田舎で車がないということは、亀のような生活を余儀なくされるということだ。特急の停まらない在来線の電車は、1時間半か2時間に1本の割合でしかない。それに終電が夜10時台である。バスは、もっとひどい。地方の公共運送車は、通学電車の役目でしかないと言っていい。
 僕の田舎の実家には、50ccバイクがあったのだが、母も乗れなくなり、たまに僕が帰ってきた時に乗ってはいた。しかし、3か月も間を置くとバッテリーがあがって、その度にバッテリーを買い換えるようでは問題にならない。そこで、とうとうバイクを売って自転車のマウンテンバイクを買った。町の小さな自転車屋に置いてあった中で、一番目立っていたものだ。
 自転車だと長い間放置しておいてもバッテリーがあがる心配もないし、ただ置いているだけで税金を払わなければいけないということもない。
 車に比べれば自転車は速度は遅いし労力がいるけれど、隣町までこれで買い物にいける。亀より少し行動半径は延びて、グラスホッパー(バッタ)ぐらいにはなった気分だ。
 
 九州の片田舎。うだるような暑さが続く中、午前中、突然バリバリゴロゴロと音がした。雷だと思ったと同時に、バサバサと音がして、大粒の雨が降り出した。さっきまで青空に入道雲が出ていたのに、空は薄墨を塗ったように変わっている。庭では水がはねている。にわか雨という情緒的言葉なんかより、スコールと言った方がいいだろう。
 最近の日本の暑さは亜熱帯だと言われているが、このスコールはまさにそれを証明するかのようだった。

 スコールが去ったあと、青空が戻っていた。午後、隣町まで自転車で買い物に行った。
 ここは、新聞によると、3日前に38度を記録した農業の町だ。佐賀平野の真ん中に当たる。この日、午前中にスコールがあったせいか、比較的暑くない。
 田んぼの中の道路を自転車は走る。一面に広がる田んぼの畑は、今は植えたばかりの若い緑の稲の葉だが、5月に来た時は多くは玉葱だった。見慣れた平凡な農村の風景だが、季節によって変わるのがいい。途中道端のイチジクの実が、緑から赤く変わろうとしている。もう少し待たなければならない。何に?
 
 買い物をして自転車を走らせて帰り始めたら、急に頭にぽつぽつと雨がきた。とっさに、午前中のあの凄まじいスコールを思い出したので、近くの大きな庇のある建物の軒下に入り込んだ。この町の農協の倉庫である。シャッターが下りていた。
 雨宿りだ。空を見上げると、いつの間にか真上の空は、黒い墨を垂れ流したようにじわじわと広がっていた。東の方を見ると、平坦な佐賀平野は青空で白い雲が渦巻いていた。西の方は灰色一色であった。180度空を見渡すと、それは奇妙な光景というより、いたずらに満ちた空の景色であった。

 その時、大型トラックが僕の前で停まった。このトラックも雨宿りかなと思っていると、僕の後ろの倉庫のシャッターが突然上り始めた。開かれたシャッターの中には、本当に広い空間が現れ、その中央に腰までぐらいの高さの大きな布袋が整然と並んで置かれていた。すぐに、それは米袋と分かった。袋には、佐賀産コシヒカリと書いた紙が添付してあった。
 ここでも、コシヒカリが人気かとがっかりした。今では、日本全国コシヒカリが生産されている。ここには、ヒノヒカリがあるではないか。
 去年、テレビで専門家を集めたご飯の目隠しテストで、新潟・魚沼産コシヒカリを抜いてトップになった、佐賀産ヒノヒカリだ(詳しく説明すると長くなるし、僕も専門家でないので簡単に言うと、精米過程で旨味を残すために米を削った精選されたヒノヒカリのこと)。

 トラックの運転手が、ゆっくりと下りて来た。すぐに倉庫の奥から、若い係員が出てきて、トラックの運転手と何やら話をし始めた。
 それから、運転手はトラックの側面の留めを外し、側面を開いた。トラックの荷台には、倉庫にあるのと同じ布袋が数個置かれていたが、空間は十分にあった。おそらく、このトラックに、いくつか布袋を積み込むのだろうと僕は想像した。
 僕の想像通り、係員とトラックの運転手は二人で手際よく、倉庫に積まれていた布袋をリフトで持ち上げて、トラックに積み込み始めた。数をかずえてみると布袋は11個あった。全部は積まないと思っていたら、トラックは一度向きを変えて、両サイド2列に組んで、全部乗せてしまった。
 僕は、感心して見ていた。そして、係員に、その袋には何キロ入っているのですかと訊いてみた。すると、彼はこともなげに600キロですと言った。僕は、その重量に驚いた。トラックには、全部で10数個、20個近くが積まれた。
 米袋を積みこまれたトラックは、雨の中を走り去った。

 係員もいなくなったあと、僕はまた一人きりになった。雨も小ぶりになり出した。ここにもぐりこんで、約1時間が過ぎていた。退屈しのぎには、いい雨宿りだった。
 僕が出ようかと思ったとき、今度は小さなトラックが来た。下りてきた運転手は、僕が農協の関係者と思ったのか、僕に挨拶した。僕も、挨拶を返した。そして、自転車に乗ってそこを去った。
 雨はやんだ。いや、雷を伴ったスコールは。
 8月12日は、落雷の影響で、東京では山手線が停まったようだ。長野の女子プロゴルフの試合は、途中中止されサスペンデッド・ゲームとなった。
 落雷は、ここ九州の片田舎だけでなく、日本全国で起こっていた。
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