かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

恋する文学者たち、「華の乱」

2012-04-30 04:05:53 | 映画:日本映画
 「詩人が恋の味を知るは、虎の子が血の味を知ったにひとしい」(有島武郎)

 詩人や小説家たちは、恋をエネルギーに変えて生きてきた。
 特に、明治以降新しい時代に目覚めた女性たちは、それまでの自己主張を抑制された立場と損なわれた時間を取り戻すかのように、恋に目覚めていく。それは、「元始、女性は太陽であった」と謳った平塚らいてうの詩に象徴的だ。
 この時代、自由な恋を自らの手で得ることができると知った女性は、生きいきと男たちと対峙し、そして自己表現していく。

 「華の乱」(原作:永畑道子、監督:深作欣二、1988年東映)は、歌人、与謝野晶子の鉄幹と有島武郎との恋をたどりながら、明治から大正、そして昭和に至る時代を描いたものである。
 
 「春みじかし 何の不滅のいのちぞと ちからある乳を 手にたぐらせぬ」
 与謝野晶子は、山川登美子という歌仲間をだしぬき鉄幹と恋におぼれ、官能的な歌を謳いあげる。
 そして、晶子は作家有島武郎との束の間の恋を味わい、その有島と恋仲にあった雑誌「婦人公論」編集者の波多野秋子は、有島と心中する。
 芝居「復活」(トルストイ原作)とともに「カチューシャの唄」が大ヒットし、人気女優となった松井須磨子は、不倫関係にあった作家島村抱月の死を追って自殺する。
 アナキストの大杉栄と絡み合った恋愛関係になった婦人解放運動家の伊藤野枝は、大杉とともに甘粕事件(大杉事件)によって殺害される。

 このような与謝野晶子の生きた時代の、恋する女性たちを描いた映画「華の乱」は、「輪舞」のように色とりどりで、大正時代のロマンチシズムがあたかも印象派の絵画のように美しい。あるいは、明治以降の日本が西洋に憧憬を抱いたように、かつてのフランス映画を意識した映像があちこちに見てとれる。
 与謝野晶子にまつわる恋の物語は、恋物語でありつつも深作作品に見られるスケールの大きさを繰り拡げてくれる。しかし、どれもこれもコラージュのように、あるいはパッチワークのように繫ぎあわされていて、それゆえに深みに乏しく、映画としては虚しい華々しさが残る。

 それでも、時代を走り抜けた女性を演じる女優陣が、それぞれに印象に残る。この映画は、ただただ恋する女優たちを見つめるのがいい。
 主人公の与謝野晶子を吉永小百合が、鉄幹を奪い合った歌仲間の山川登美子を中田喜子が、有島武郎と心中する雑誌編集者の波多野秋子を池上季実子が、大杉栄と活動を共にする伊藤野枝を石田えりが演じている。そして、当時の人気女優の松井須磨子を松坂慶子が演じる。
 与謝野鉄幹を緒形拳が、有島武郎を松田優作が演じている。

 吉永小百合が最も輝いていたのは日活時代の「キューポラのある街」を含めた青春映画だと思っている僕は、その後の吉永の映画を積極的には見ないようにしていた。しかし、この映画では吉永はとっくに青春時代の輝きを失っている年齢なのに、驚くことにその残像は強く残っていた。

 「二十歳。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい」(ポール・ニザン)

 映画公開が1988年であるから、晶子役の吉永小百合は当時43歳であるのに、年齢を感じさせない目の輝きや表情の若々しさが感じとれた。そのことが、かえって残念なことに、子どもを11人産んで不倫に走る与謝野晶子のしたたかさを与えないでいた。
 吉永小百合にとって、ひたむきさとしたたかさは同居しない。吉永は、いつしか遠くを見つめている。吉永が放つのは、ひたむきさと儚さだ。

 与謝野晶子と鉄幹をめぐって争う山川登美子役の中田喜子は、一時テレビドラマの人気女優だった。この病弱の歌人、登美子に中田喜子はよく似合った。この人は、竹久夢二の絵にも似合うかもしれない。

 波多野秋子役の池上季実子は、ひたむきといっても少し狂気をおびた性格には格好だ。彼女と恋をするには、命がけである。その情念が、有島武郎に「惜みなく愛は奪ふ」を書かせたのか。

 人気女優の松井須磨子を松坂慶子が演じる。松坂が最も美しかったのは、「事件」(監督:野村芳太郎、1978年松竹)、「蒲田行進曲」(監督:深作欣二、1982年松竹=角川)の頃であろうか。当時、悪女をやらしたら敵う者はいない色気があった。監督の深作欣二が女優としても女としても開花させたといえよう。

 与謝野晶子(吉永)が有島武郎(松田)のいる北海道の屋敷を訪れ、そこで愛を交わすシーンに流れる曲、シューベルトの歌曲「水の上で歌う」(歌:エリー・アーメリング)が印象的だ。晶子にこの歌の意味を訊かれて、有島はドイツ語なので意訳だがといって答える。
 「夕映えにきらめく波の上を、今日も時が流れて……このかけがえのない時の流れに、明日もまた止まってはくれないだろう。私自身がこの世に別れを告げる時まで」
 「さびしい歌ですね。旋律は美しいのに」という晶子に、有島はこう言う。
 「美しいものは、すべてさびしいものです」

 晶子をとりまく恋する者たちは、志半ばでいつしか死んでゆく。しかし、晶子はしたたかに生きてゆく。

 「その子二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の おごりの春の うつくしきかな」(与謝野晶子)
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輝きだす「日活」の片鱗を見る、「幕末太陽伝」

2012-04-27 03:34:47 | 映画:日本映画
 昭和30年代前半に起きた若者の「太陽族」ブームは、当時の一般的な大人には眉にしわを寄せさせた。つまり、このときの若者の風潮・風俗は決して健全とは思われず、不良がかったものと見られていた。
 いつの時代でも、健全な若者はつまらないのだが。

 映画「幕末太陽伝」(監督:川島雄三、日活)は、1956(昭和31)年、「太陽の季節」(監督:古川卓巳、日活)で石原裕次郎がスターに躍り出た、翌1957年の作品である。題名からして、世相を映し出していた太陽族を意識したものと思われる。
 映画の冒頭に「日活製作再開三周年記念」という文字が出てくる。つまり、日活が1953年、東京・調布に撮影所を建設し、映画製作を再開してまだ3年目ということである。
 当時映画界は、大手である松竹、東宝、大映、東映、新東宝で5社協定を結んでいて、監督、俳優の引き抜き防衛を図っていた。それでも、鈴木清順、斉藤武市、中平康、今村昌平、蔵原惟繕、神代辰巳など若い監督、助監督はじめスタッフが日活に移ってきて、活路を見出そうとした。
 つまり、新しく日活に入ってきた映画人は、それまでの会社では採用されないものを描こうとしたし、新しい映画を模索していったのである。
 こうして生まれた日活は、必然的に体制に反抗する映画を作るようになる。そうした日活の土壌のなかで、不良がかった主人公の石原裕次郎が出てきたのである。
 不良少年はさらに枠を逸脱し、無国籍的なアウトローとなってスクリーンを駆け巡り、日本の若者の心をつかんでいく。石原裕次郎に続いて、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治といった不良がかったヒーローが誕生し、アクション・ダイヤモンドラインが生まれる。

 不良少年(青年)の誕生は、不良だけでは終わらない。その対極に清純があり、不良と清純は拮抗を重ねながら、その質を高めていく。
 こうして、清純・純愛を追求した青春映画が、アクション映画から派生し誕生する。それを支えたのが、アクション映画のヒーローである男優たちの添え物的だったヒロインを演じながら成長していった、吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子などの女優陣であった。
 青春映画では、彼女たちは今度は逆に、浜田光夫、高橋英樹、山内賢、そして渡哲也などを引き立て役にするほど輝いていくのである。また、歌謡曲の世界から、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦などを映画の中に青春歌謡映画として引き込んでくる。

 *

 日活の黎明期に作られた「幕末太陽伝」は、日活にしては珍しい時代劇である。
 しかし、幕開きのキャストの字幕の背景には、撮影当時の昭和30年頃の東京・品川の街が映し出される。
 それと同時に、「ここ品川、かつての品川宿には、北の吉原と比べ称されるほどの規模の遊郭があって、100件以上の遊女屋に1000人にも上る遊女がいた。350年の歴史があり、今でも特飲街、つまり赤線があるが、その赤線も売春禁止法によって消える運命にある」といったナレーションが流れる。
 これから消えるであろう現代(撮影当時の昭和30年頃)の品川の街のさがみホテルが、すでに消え去った幕末の遊郭(置屋)の相模屋に変わる。
 物語の舞台は、江戸時代末の文久2年(1862年)、あと6年で明治になる年のことである。

 お大尽ぶった主人公の佐平次(フランキー堺)が遊郭の相模屋に仲間を連れてやってきて、飲みや歌えの大判ふるまいをやる。その相模屋では、長州の武士たちが集まって、イギリス公使館の焼き討ちを謀っていた。
 翌日、友人を帰し一人になった佐平次は、店に勘定をと催促されるが、一文も無いとあっけらかんと答える。実際、一文無しなのである。
 こうして、佐平次は相模屋に残って働くことになり、下働きから、その調子の良さで娼婦の相談役やいざこざの解決など大活躍をする。
 このあたりは、のちの植木等(クレージーキャッツ)の無責任野郎の先駆けである。

 ラストは、佐平次が、結核を患っているらしく咳をしながらも、娼婦に入れ込んだ男を騙したまま、「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ」と言い放って、品川の海沿いの道を逃げていくのである。

 この映画で特筆すべきは、石原裕次郎、小林旭、二谷英明という、その後の日活を背負うスターが脇役(長州藩士)として出演していることである。主役はあくまでもフランキー堺である。裕次郎は、すでに「太陽の季節」でスターになっていたにもかかわらず、である。
 当時のポスターを見ると、小林旭、二谷英明は名前すらない。
 女優では、競り合う売れっ子遊女に南田洋子、左幸子。遊郭の奉公女に芦川いづみが出演している。
 日活を支えた金子信雄、西村晃、小沢昭一が、脇を渋く固めている。相模屋の若衆役の岡田真澄が細く痩せていて、若いときの美輪明宏みたいで初々しい。
 今村昌平が脚本スタッフとして、のちに「キューポラのある街」(主演:吉永小百合、1962年日活)を撮る浦山桐郎が監督助手として、名を連ねている。

 日活が爆発的な輝きを放つ直前の、その片鱗を見出させる不思議な魅力を持った映画である。

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列車の旅と、駅弁で味わう「九州の味」

2012-04-19 00:39:00 | 気まぐれな日々
 僕は、東京と九州の佐賀を往来するときは、いつも列車である。いや、国内の旅はどんなに遠くても、ほとんどが列車である。飛行機に乗ったのは何年前だろうかと思うほど、飛行機に乗らない。
 別に高所恐怖症でも、鉄の塊のような物体がなぜ空を飛ぶのか不安なので乗らないというのでもない。目的地にただただ速く運ぶという、マキャベリズム的な機能目的が好きではないのだ。飛行機では、移動感覚が味わえない。

 人は、移動するのを速めるために、次のように変化させた(と思う)。
 歩く→動物を利用する→道具を使う→機械を使う*船に乗る*車に乗る→飛行機で空を飛ぶ
 本来、人も他の動物と同じように歩くことでのみ(時として泳ぐこともあっただろうが)移動していたのが、飼いならした馬やロバやラクダに乗って遠距離を移動することを覚えた。すぐに、川や海では筏や舟(おそらく丸木舟)の道具を使うことの便利さを知ったはずだ。
 道具としては、車輪の発見は画期的だったかもしれない。馬車や牛車で、人間も含めて大きな荷物が運べるようになった。
 産業革命による蒸気機関の発明は、移動を一変させた。それまでの道具から機械への変化は、手動から燃料を使うことによって、車も船も根本的に変わった。
 地上には、網の目のように道路と鉄道が敷かれ、道路には自動車が往来し、鉄道線路には列車が走るようになった。川や海を渡る船からは櫓や帆はなくなり、急速に大型化した。
 地上と川や海をある程度自由に移動できるように工夫した人は、目の前にそびえる山々や広い海原を見て、一気に飛び越えられたらと、鳥を見て夢想したに違いない。
 そして、空を飛ぶ飛行機を造った。その延長として、ロケットも。

 移動時間の短縮による便利さで失ったものは、移動感覚である。人が感じる、たどり着くという感覚である。
 端的に言えば、僕は山登りの愛好家ではないが、山の頂上に行くのに、飛行機で頂上に運ばれるのと歩いて登ったときの違いといおうか。
 移動時間短縮で失われたものは、「旅」の感覚であろう。

 *

 さて、列車の旅に話を戻すと、列車の旅の楽しみの一つは、車内で食べる駅弁である。年をとるにしたがって、そうなってきた。若いときは、食べ物は二の次だったはずなのに。
 駅弁で有名なのは、信越本線・横川駅の「峠の釜めし」、函館本線・森駅の「いかめし」、北陸本線・富山駅の「ますのすし」、高崎線・高崎駅の「だるま弁当」などがすぐ浮かぶ。

 駅弁では、どうしても幕の内弁当を選んでしまう。具(おかず)の種類が豊富なのがいい。その幕の内弁当も、最近は各駅で地方色を出している。
 東京から九州に行くときは、最近は東京駅の中央口新幹線改札口構内の売店で、包み紙に東京タワーが描かれている「特選弁当・東京」を買っていた。穴子てんぷら、海老握り寿司、アサリ煮付け、炊き込みあさりご飯(深川めし)などの中身で、1,000円である。
 今回先ほどの佐賀に帰る際は、東京駅構内の弁当屋にあった「老舗の味 東京弁当」というのを、1,600円と少し高いが買ってみた。牛肉たけのこ(浅草・今半)、キングサーモンの粕漬け(人形町・魚久)、玉子焼き(築地・すし玉青木)などと銘打ってある。
 これらの老舗店には行ったことがないので、駅弁で行った気になるのもいいだろう。

 佐賀から東京に戻るときは、鳥栖駅の売店を見まわした。
 鳥栖駅は鹿児島本線と長崎本線の分岐点で、1889(明治22)年開業で九州初の鉄道駅の一つという古い駅である。駅のホームには、うどんの立ち食いの店「中央軒」が今も営業している。名物はかしわうどんで、安くてうまい。
 東京から田舎の実家に帰るとき、日も暮れた頃この駅のホームでうどんをすすると、佐賀に帰ってきたと実感したものだ。
 今は駅から、J1に昇格したサッカーのサガン鳥栖のホーム・スタジアムがすぐ近くに見える。
 駅の売店に、「かしわめし」と「長崎街道焼麦(シュウマイ)弁当」はあるが、幕の内弁当である「肥前路弁当」がなかったので、鳥栖駅で買うのは諦めて、博多駅で買うことにした。

 博多駅構内にある、北九州の駅弁会社が作っている「九州物語」は、九州各県の名産を並べてある幕の内弁当である。値段も1,100円と手ごろであるので、これを買ってみた。内容を列挙してみる。
 福岡から、とり飯、明太子、鯖の明太子煮、鶏肉と胡瓜の甘酢和え、北九州の合馬の筍煮。
 大分の椎茸煮と栗の甘煮。
 熊本の高菜漬。
 鹿児島の薩摩芋の甘煮。
 佐賀の蓮根煮。
 長崎の豚の角煮。
 沖縄のゴーヤ揚げ。

 車窓を楽しみながらの、安上がりの九州の味めぐりである。

コメント (2)
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佐賀の桜と三回忌

2012-04-10 01:28:10 | 気まぐれな日々
 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり
                               (西行)
 桜の花は時の流れにそむかずに、既に散り始めていた。
 佐賀市の桜の名所となっている神野公園は週末とあって、昼間から花見の客で賑わっていた。この公園は、池を囲むように樹木が植えられ、茶屋の古家が佇む。(写真)
 池の中に浮かぶ古い藁葺き屋根の古家である隔林亭は、水と木々と遠くの山と空を仰ぎ見る茶屋である。幕末の佐賀藩主である鍋島直正(閑叟)が造ったこの茶屋は、当時藩の迎賓館的役割を果たしたというが、戦後古くなり取り壊されたあと、平成元年に復元されたものだ。
 庭園を見ながら、隔林亭で抹茶を頂く。座っている茶席に、風に乗った桜の花びらが迷いこんでくる。

 桜の散る先日、母の三回忌を行った。早いものだ、あの日から2年が過ぎ去ったのだ。母が逝ったあの日も、桜吹雪の折だった。

 人には、それぞれ桜の思いがあるに違いない。僕の中の忘れえない桜はどれだろう。
 東京・千鳥が渕の、皇居の堀にしなだれかかるように伸びる桜は絶品(絶景)だ。堀や川の水と桜は相性がいい。
 数年前、千鳥が渕の桜に、月と太陽が同居した。黄昏れた赤く染まった太陽が堀の向こうのビルの谷間に沈む頃、青い空に白い月が出ていたのだ。水と花と、月と太陽。
 東京・外堀通りの桜も印象深い。もう何年前になるのだろう。4月のその日の朝、珍しく東京に雪が降った。当時勤めていた市谷の会社に向かう外堀通りの満開の桜に、淡雪がうっすらと積もった。昼にはもう雪は溶けていた、儚い雪と桜の邂逅であった。滅多に出あわない花と雪。
 
 *4月15日の夜、テレビをたまたま見ていたら、1988年4月8日、桜の咲く東京に雪が積もったと報道した。だとすると、22年前の母の命日ということになる。僕が見た外堀通りの桜は、この日だったのだ。

 奈良・吉野山の桜は遠くから美しい。里の桜が散った頃に行くと、奥の山桜が霞のように咲いている。山間の西行庵まで歩くと、さらに吉野に来たかいがあるというものだ。

 これらの桜に、佐賀の桜吹雪が加わった。
 あの日、葬儀場から霊柩車とともに火葬場に出発した車の窓に、行く手を拒むように、はたまたさよならを言うかのように、はらはらと桜が散ったのだった。あの年から、桜が散るのと母の死が重なるようになった。
 そして、家の近くの池のほとりに立つ1本の桜。その桜の花弁を千切って、もう命いくばくもない入院している母のベッドの頭の上に、ビニール袋に入れて吊るした。願わくば、花の下にて…を叶えさせようと思って。
 その木は、今年もいつものように、腕を大きく広げたように桜の花を咲かせた。

 桜は、いつの時代から日本人には特別な花になったのだろう。桜を見ながら宴を楽しむようになったのだろう。
 散るのが武士の潔さに通じるものがあるというし、戦時中は戦士を送るに相応しい決意と儚さが込められていた。
 北面の武士、佐藤義清こと西行は、桜と月を愛した。

 世の中を 思えばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ
                                 (西行)
 同じ北面の武士だった平清盛の平家の栄華と滅亡を西行は静かに見ていたが、桜に限らず、何をも、誰をも、いずれ散っていく。このことを暗黙のうちに知らしめているのが、桜の魅力なのかもしれない。
 誰もがいずれ散る。だから、現在を楽しまなくてはならない。
 これは、遊び人の言い訳かもしれないが。

 桜の花は華やかだけど、寂寥を含んでいる。

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秘境なのか、「さいごの色街 飛田」

2012-04-01 01:01:20 | 本/小説:日本
 色街は、世界中どこにでもある。
 女性の春を売る仕事は、人類最初のビジネスだという説もあるほどだ。
 「さいごの色街 飛田」(井上理津子著、筑摩書房刊)は、いまだ残っている色街である遊郭地帯の飛田を取材した本である。飛田とは大阪西成区の天王寺の近くの地名で、今も約160軒の店が軒を連ねているという。最近の週刊誌では「日本の秘境」として紹介していた。
 この本の著者は女性だが、最初にここを訪れて以来胸騒ぎがして、この地へ通い関係者から話を聞き出して本にまとめた。
 樋口一葉の「にごりえ」や永井荷風の「墨東奇譚」のような世界があるというのだろうか。あるいは、吉行淳之介の「原色の街」のような物語があるというのだろうか。

 色街地帯として世界的に有名なのは、アムステルダムの「飾り窓」だろう。この「飾り窓」と称されるガラス張りの売春地帯は、ドイツから、ベルギー、オランダと北海沿岸の港町には、いまだ多く残っている。
 もっとも有名なアムステルダムの飾り窓は市の中心街のすぐ近くにあり、今では観光地帯である。運河に沿って飾り窓が並んで、窓の中では服を着た女性や下着の女性が佇んでいる。時に、歩いている男たちに秋波を送る。この飾り窓の並ぶ道を、女性の観光客も歩いている。
 アムステルダムを旅したときに、最初この地帯に入ったときは、やはり胸が高鳴った。観光地とはいえ、妖しげな雰囲気は消しようがない。僕も観光客として、散策したにすぎない。
 しかし何といってもこのアムステルダムの飾り窓といえば、映画「飾り窓の女」(La fille dans la vitrine、監督:ルチアーノ・エンメル、1961年仏・伊)で主演したマリナ・ヴラディの印象が強いから、悪いイメージがない。
 ベルギーの港町アントウェルペン(アントワープ)にも、海に続く川の近くに飾り窓の一角があった。
 これらの地帯はガイドブックには載っていないが、その近くに来ると妖しげな空気が漂っているのだ。

 僕が、初めて色街に出合ったのは、1985年、韓国への旅での釜山でだった。ホテルを探している途中、日本語で話しかけてきた中年のおっさんがいた。彼は戦前日本にいて、終戦の時に母国の韓国釜山に戻ってきたということだった。
 彼が、黙って僕を案内したところが不思議なところだった。そこは、映画のセットのような色街だった。薄明りの家の中にいる女性はチョマ・チョゴリの朝鮮の服だが、江戸時代の遊郭のようであった。
 そこは、今はもうないのかもしれない。
 
 *
 
 男は、思わぬ刺身のご馳走にありついたお礼のつもりか、私を案内すると言ってまた歩き始めた。男はどこへ行くかも言わないし、私はどこを歩いているかも分からなかった。どのくらい歩いただろうか。既に日も暮れて、あたり一面夜が忍び込んでいた。
 ある角を曲がったとき、ふと男は立ち止まり、私に諭すように言った。
 「あの角から先は、日本語を話してはいけません。カメラも隠してください。日本人だと分かったら付きまとわれ、厄介なことになります。私が朝鮮語で話しますから、あなたはただ頷いてください」
 男が言ったその角に入った瞬間、異様な空気が流れた。薄暗い道の両側に、ぼうっと明かりが灯った家が並んでいた。家の端の小さな出入り口には、まるで番人のように老婆がじっと坐っていた。建物の四角い部屋はガラス張りの素通しで、色とりどりのチョマ・チョゴリを着た女性が赤い絨毯の上に坐っていた。私たちが通るのを見てちらと目を向けた女性もいたが、女性たちはほとんどがじっと坐ったままであった。どの店もどの店も、妖しく艶かしい。
 そこは遊郭だった。まるで此の世でないような不思議な一角に入り込んだ私は、その妖しい空気に心臓が高鳴った。男は歩きながら、時々韓国語を誰に話すともなく口に出した。私は、言われたように頷きながら、なるべく悟られないように店の中をちらちらと覗いて歩いた。まるで、異空間にさ迷いこんだようであった。
 その一画を通り過ぎても心臓の高鳴りは止まらなかった。誰とも、すれ違わなかった。私たちの声以外、誰の声も聞くことはなかった。そこを過ぎても、男と黙ったまま歩いた。しばらくして振り返ると、あたりはもう普通の薄暗い街並みに戻っていた。まるで、『雨月物語』の一幕のようであった。
 私は歩きながら、そこがどこか住所の手がかりを探したが住所表示は見つからなかった。男にここはどこだと訊くと、そこは玩月洞と言い、かつて日本語で緑町と呼んだと言った。
 *「かりそめの旅」――ゆきずりの海外ひとり旅――(岡戸一夫著)第2章「釜山港へ帰れ、韓国」より。
 *この本の問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
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