1960(昭和35)年、「潮来笠」橋幸夫、1963(昭和38)年、「高校三年生」舟木一夫、1964(昭和39)年、「君だけを」西郷輝彦、デビュー。
橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって新しい広がりを見せた青春歌謡は、「御三家」という代名詞のなかで大きく花開いたのだった。
*御三家、誕生の背景となった三田明、梶光夫、安達明、久保浩…
舟木一夫の学園ソングのブームのなか、舟木に続く青春歌手が雨後の筍のように生まれた。その第一人者は、その年の1963年11月に「美しい十代」(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正)でビクターからデビューした「三田明」だった。
甘いルックスで、男性アイドル歌手の先駆けといえよう。
三田は、翌1964年には、橋幸夫とのデュエットによる「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞した、吉永さゆりとのデュエット曲「若い二人の心斎橋」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)を、1965年には「明日は咲こう花咲こう」(作詞:西沢爽、作曲:吉田正)を出し、ヒットさせている。
吉永は三田より年上であるが、橋に続いて三田を、当時、映画や歌で青春女優のトップを走っていた吉永小百合と組ませたあたりに、ビクターの力の入れ方がわかる。
数多く誕生した青春歌手のなかで、この他に時代を彩った歌手をあげると、
1963年12月「黒髪」でデビューし、翌1964年「青春の城下町」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)がヒットした「梶光夫」。
同年「潮風を待つ少女」(作詞:松田ルミ、補詞:吉岡治、作曲:遠藤実)でデビューした「安達明」。青春歌謡に残る「女学生」(作詞:北村公一、作曲:越部信義)では学生服姿で歌った。
そして、「霧の中の少女」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)の甘いヴォイスの「久保浩」、をあげることができる。
その他、「叶修二」、「川地英夫」、「望月浩」、「有田弘二」、「太田博之」とルックス先行のアイドル歌手路線が続いたが、大ヒットとはいかなかった。
そうした青春の甘い歌の流れのなかで、それに逆らうかのように、子役から活動していた目方誠が「美樹克彦」として、「俺の涙は俺がふく」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)で個性派歌手として再デビューしたのは特筆に値するだろう。
「新聞少年」(作詞:八反ふじお、作曲:島津伸男)の「山田太郎」も、このジャンルに入れていいかもしれない。
※青春歌謡も落ち着きだしたころ、当時珍しい大学生の歌手が記憶に残った。
1965年、大島渚の映画「悦楽」の主題歌「悦楽のブルース」(作詞:吉岡治、作曲:船村徹、コロムビア)でデビューした、法政大生、島和彦。この歌の歌詞は何てことはないのだけど大島映画だということか、放送禁止になった。しかし翌年、「雨の夜あなたは帰る」がヒットし紅白にも出場した。
もう一人は、「京都の夜」(作詞:和田圭、作曲:中島安敏、ポリドール)を歌った、日本大生、愛田健二。
二人とも、すでに青春歌謡を卒業した大人の歌を歌っていた。
学園ソングを織り交ぜた青春歌謡が花開いたそのなかで、ポップ調のリズム感を持った青春歌謡で躍り出たのが、先にあげた1964年2月に「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でデビューした西郷輝彦であった。
そして、彼の登場によって、「御三家」が誕生した。(「青春歌謡、御三家の時代①」参照)
*
この青春歌謡のブームを受けて、御三家が生まれたエピソードがいろいろ語られてきた。そのなかの説をあげてみる。
当初、御三家には、橋幸夫、舟木一夫、三田明があげられていた。ところがレコード会社は、舟木がコロムビアだが、橋、三田はビクターである。これではレコード会社のバランスがとれないというので、新興のクラウンの西郷輝彦となったという説である。
また、当時、歌の内容と流れから、舟木一夫、三田明、西郷輝彦と3人並べると、青春歌謡の顔としてぴたりと当てはまるという空気があった。3人の年齢差も近いし、レコード会社も分かれている。しかし、ビクターとしては、当時エース格だった橋幸夫を外すわけにはいかなかったという説である。
業界内の思惑がいろいろあったのだろう。
*吉永小百合に続く…女性青春歌手、本間千代子、高石かつ枝、高田美和…
この時期、女性も青春歌謡に参入した。
先にあげた日活の女優であった「吉永小百合」は、1962(昭和37)年、高校生の時に主演した映画「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)で、人気・実力ともに同時代のトップスターとなった。
同年4月、映画「赤い蕾と白い花」の主題歌「寒い朝」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターから歌手デビュー。これは、石坂洋次郎の小説の原作が歌と同じ「寒い朝」で、日活の映画のタイトルが「赤い蕾と白い花」である。
「北風吹きぬく寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……」
この吉永小百合の「寒い朝」が、女性の青春歌謡の先駆けだと思う。
そもそも、日活には石原裕次郎や小林旭など、「歌う映画スター」と呼ばれる俳優が活躍していたように、吉永小百合がレコードを出す土壌は整っていたのである。
その後、吉永は橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」「若い東京の屋根の下」や「泥だらけの純情」「光る海」などヒットを重ねた。
同じ日活の若手女優だった「松原智恵子」も、ヒットには至らなかったがレコードを出したし、「和泉雅子」は山内賢とのデュエットで、ベンチャーズの曲「二人の銀座」をヒットさせた。
「本間千代子」は、舟木一夫との共演「君たちがいて僕がいた」や西郷輝彦との共演「十七才のこの胸に」の青春歌謡映画に出ているように、東映の人気の清純女優だった。
青春歌謡でも、1963年、「若草の丘」(作詞:北里有紀生、作曲:米山正夫)でコロムビアからデビュー。その後、「純愛の白い砂」(作詞作曲:米山正夫)や、映画「君たちがいて僕がいた」の挿入歌「愛しあうには早すぎて」(作詞:丘灯至夫、作曲:山路進一).など、傑作を多く出している。
清純さと愛嬌のある顔の本間千代子は、当時やくざ映画に力を入れていた東映ではなくて日活だったら、もっと輝いていたに違いない。
「高石かつ枝」は、1962(昭和37)年、松竹「愛染かつら」の再映画化に際して、ヒロイン名「高石かつ枝」の歌手募集に合格し、同映画の主題歌「旅の夜風」(作詞:西條八十、作曲:万城目正)でコロムビアからデビュー(のちにクラウンに移籍)。
1963年、彼女が歌った、映画「林檎の花咲く町」(監督:岩内克己、東宝)の主題曲「林檎の花咲く町」(作詞:西條八十、作曲:上原げんと)は、名曲である。
「高田美和」は、往年の時代劇スター高田浩吉の娘で、姿美千子とともに大映の清純派スターであった。
時代劇の娘役のほか、「高校三年生」(監督:井上芳夫、大映)などの青春映画にも出演し、1964年、石坂洋次郎原作の「十七才は一度だけ」(監督:井上芳夫)に主演する。彼女がコロムビアから出した、この映画の主題曲「十七才は一度だけ」(作詞:川井ちどり、作曲:遠藤実)は、青春歌謡の代表曲となった。
ほかに、「アロンスイー雨の街」(作詞:木村葉子、作曲:宮川泰)や梶光夫とのデュエット「わが愛を星に祈りて」(作詞:岩谷時子、作曲:土田啓四郎)などのヒット曲がある。
のちに日活ロマンポルノ「軽井沢夫人」(監督:小沼勝)に出演して話題となった。
*青春歌謡の先駆け、松島アキラ……
青春歌謡は、いつから、どの曲から始まったというのはない。
御三家生成のなかであえて言えば、核となった1963年、舟木一夫の「高校三年生」の学園ソングから遡って、1962年、橋幸夫の「江梨子」からではなかろうか、と先に書いた。
橋幸夫がデビューした1960年頃、大きな歌謡曲の流れのなかにも青春歌謡の兆しはあった。
リバイバルを歌った「無情の雨」の佐川満男、「雨に咲く花」の井上ひろしなどは、その雰囲気を持っていた。
井上ひろしは、その後ロシア民謡の「山のロザリア」がヒットした。この曲は女性3人組コーラス・グループのスリー・グレイセスも歌ったし、当時歌声喫茶でもよく歌われた。
佐川満男は、その後忘れられた頃の1968年に、髭面で歌った「今は幸せかい」(作詞・作曲:中村泰士 )をヒットさせた。
そして、1961(昭和36)年9月、「松島アキラ」が「湖愁」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)でビクターからデビューする。橋の「江梨子」発売の前年である。松島アキラ、17歳。
「悲しい恋のなきがらは、そっと流そう泣かないで……」で始まるこの歌は、自分の心を顧みる失恋の心情が、内省的な絵画のように歌われている。
この歌が流れた当時、私は恋を知り始めた年頃の中学3年生で、今までにない自分に近い歌謡曲だと感じたものだった。つまり、思春期の観念的な恋心に響いたのだった。
この歌とほゞ同時期に発売された、仲宗根美樹の「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)に通じるものがある。「川は流れる」も失恋の歌で、印象派の絵画を思わせる。
「病葉を、今日も浮かべて、街の谷、川は流れる、ささやかな、望み破れて……」
出だしの「病葉」を「わくらば」と歌わせるところに、この歌の妙がある。これが「枯葉」か「落葉」だったら、歌の持つ味わいは薄れていただろう。
そして、この「川は流れる」は、翌年発売の吉永小百合の「寒い朝」より早い時期であったのをみると、女性の青春歌謡の先駆けといえるかもしれない。
翌1962年、「湖愁」は映画化もされている。「湖愁」(監督:田畠恒男、出演:瑳峨三智子、鰐淵晴子、松島アキラ、松竹)。記憶にないところをみると、青春映画が得意ではない松竹だったからか。あるいは、佐賀の田舎の映画館には配給されなかったのかもしれない。
「湖愁」のあとの松島のヒット曲、「あゝ青春に花よ咲け」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)は、まさに青春を真っ向から歌ったものである。
松島アキラは、デビューするやすぐさまアイドル的人気になって、その当時ペットとして人気の高かった白い犬の「スピッツ」の愛称で親しまれた。
この松島アキラの登場によって、同じビクターの橋幸夫および橋の作詞・作曲を担っていた佐伯孝夫、吉田正が青春歌謡を意識し、「江梨子」の誕生に繋がったのではと、勝手に深読みするのである。
*忘れないさ、北原謙二
当時、もう一人青春歌謡の匂いがする歌手がいた。
1961年デビューした北原謙二で、「忘れないさ」(作詞:三浦康照、作曲:山路進一)を歌っていた。鼻に抜けた高い声が、清々しい印象を与えた。
1962年5月、北原が歌った「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤実)は、もう青春歌謡の王道である。
「君には君の夢があり、僕には僕の夢がある、ふたりの夢をよせあえば、そよ風甘い春の丘……」
北原の「若い二人」は、橋幸夫の「江梨子」、吉永小百合の「寒い朝」と、ほぼ同時期に流れていた。私の高校1年生から2年生になった頃だった。
それから約1年後、舟木一夫の「高校三年生」が登場したのだった。
北原謙二はその後、「初恋は美しくまた悲し」(作詞:三浦康照、作曲:市川昭介)や「ふるさとのはなしをしよう」(作詞:伊野上のぼる、作曲:キダ・タロー)などの、清々しい曲を出している。
北原謙二も、忘れはしないさ。
*
このように、1960年代、青春歌謡は花開いていった。
こうして振り返ってみれば、当時は作曲家はレコード会社と専属契約であった。そのことからも、御三家である、ビクターの橋幸夫は吉田正門下、コロムビアの舟木一夫は遠藤実門下、クラウンの西郷輝彦は北原じゅん門下であった。
このことからも、青春歌謡は吉田正、遠藤実、北原じゅん、それに米山正夫などが牽引していったことがわかる。
そして、次の来たる歌謡曲の黄金時代を担う、すぎやまこういち、筒美京平、鈴木邦彦、川口真、都倉俊一などへと繋がっていくのであった。
(写真は、松島アキラ、デビュー盤「湖愁」、吉永小百合、デビュー盤「寒い朝」)
橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって新しい広がりを見せた青春歌謡は、「御三家」という代名詞のなかで大きく花開いたのだった。
*御三家、誕生の背景となった三田明、梶光夫、安達明、久保浩…
舟木一夫の学園ソングのブームのなか、舟木に続く青春歌手が雨後の筍のように生まれた。その第一人者は、その年の1963年11月に「美しい十代」(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正)でビクターからデビューした「三田明」だった。
甘いルックスで、男性アイドル歌手の先駆けといえよう。
三田は、翌1964年には、橋幸夫とのデュエットによる「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞した、吉永さゆりとのデュエット曲「若い二人の心斎橋」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)を、1965年には「明日は咲こう花咲こう」(作詞:西沢爽、作曲:吉田正)を出し、ヒットさせている。
吉永は三田より年上であるが、橋に続いて三田を、当時、映画や歌で青春女優のトップを走っていた吉永小百合と組ませたあたりに、ビクターの力の入れ方がわかる。
数多く誕生した青春歌手のなかで、この他に時代を彩った歌手をあげると、
1963年12月「黒髪」でデビューし、翌1964年「青春の城下町」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)がヒットした「梶光夫」。
同年「潮風を待つ少女」(作詞:松田ルミ、補詞:吉岡治、作曲:遠藤実)でデビューした「安達明」。青春歌謡に残る「女学生」(作詞:北村公一、作曲:越部信義)では学生服姿で歌った。
そして、「霧の中の少女」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)の甘いヴォイスの「久保浩」、をあげることができる。
その他、「叶修二」、「川地英夫」、「望月浩」、「有田弘二」、「太田博之」とルックス先行のアイドル歌手路線が続いたが、大ヒットとはいかなかった。
そうした青春の甘い歌の流れのなかで、それに逆らうかのように、子役から活動していた目方誠が「美樹克彦」として、「俺の涙は俺がふく」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)で個性派歌手として再デビューしたのは特筆に値するだろう。
「新聞少年」(作詞:八反ふじお、作曲:島津伸男)の「山田太郎」も、このジャンルに入れていいかもしれない。
※青春歌謡も落ち着きだしたころ、当時珍しい大学生の歌手が記憶に残った。
1965年、大島渚の映画「悦楽」の主題歌「悦楽のブルース」(作詞:吉岡治、作曲:船村徹、コロムビア)でデビューした、法政大生、島和彦。この歌の歌詞は何てことはないのだけど大島映画だということか、放送禁止になった。しかし翌年、「雨の夜あなたは帰る」がヒットし紅白にも出場した。
もう一人は、「京都の夜」(作詞:和田圭、作曲:中島安敏、ポリドール)を歌った、日本大生、愛田健二。
二人とも、すでに青春歌謡を卒業した大人の歌を歌っていた。
学園ソングを織り交ぜた青春歌謡が花開いたそのなかで、ポップ調のリズム感を持った青春歌謡で躍り出たのが、先にあげた1964年2月に「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でデビューした西郷輝彦であった。
そして、彼の登場によって、「御三家」が誕生した。(「青春歌謡、御三家の時代①」参照)
*
この青春歌謡のブームを受けて、御三家が生まれたエピソードがいろいろ語られてきた。そのなかの説をあげてみる。
当初、御三家には、橋幸夫、舟木一夫、三田明があげられていた。ところがレコード会社は、舟木がコロムビアだが、橋、三田はビクターである。これではレコード会社のバランスがとれないというので、新興のクラウンの西郷輝彦となったという説である。
また、当時、歌の内容と流れから、舟木一夫、三田明、西郷輝彦と3人並べると、青春歌謡の顔としてぴたりと当てはまるという空気があった。3人の年齢差も近いし、レコード会社も分かれている。しかし、ビクターとしては、当時エース格だった橋幸夫を外すわけにはいかなかったという説である。
業界内の思惑がいろいろあったのだろう。
*吉永小百合に続く…女性青春歌手、本間千代子、高石かつ枝、高田美和…
この時期、女性も青春歌謡に参入した。
先にあげた日活の女優であった「吉永小百合」は、1962(昭和37)年、高校生の時に主演した映画「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)で、人気・実力ともに同時代のトップスターとなった。
同年4月、映画「赤い蕾と白い花」の主題歌「寒い朝」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターから歌手デビュー。これは、石坂洋次郎の小説の原作が歌と同じ「寒い朝」で、日活の映画のタイトルが「赤い蕾と白い花」である。
「北風吹きぬく寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……」
この吉永小百合の「寒い朝」が、女性の青春歌謡の先駆けだと思う。
そもそも、日活には石原裕次郎や小林旭など、「歌う映画スター」と呼ばれる俳優が活躍していたように、吉永小百合がレコードを出す土壌は整っていたのである。
その後、吉永は橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」「若い東京の屋根の下」や「泥だらけの純情」「光る海」などヒットを重ねた。
同じ日活の若手女優だった「松原智恵子」も、ヒットには至らなかったがレコードを出したし、「和泉雅子」は山内賢とのデュエットで、ベンチャーズの曲「二人の銀座」をヒットさせた。
「本間千代子」は、舟木一夫との共演「君たちがいて僕がいた」や西郷輝彦との共演「十七才のこの胸に」の青春歌謡映画に出ているように、東映の人気の清純女優だった。
青春歌謡でも、1963年、「若草の丘」(作詞:北里有紀生、作曲:米山正夫)でコロムビアからデビュー。その後、「純愛の白い砂」(作詞作曲:米山正夫)や、映画「君たちがいて僕がいた」の挿入歌「愛しあうには早すぎて」(作詞:丘灯至夫、作曲:山路進一).など、傑作を多く出している。
清純さと愛嬌のある顔の本間千代子は、当時やくざ映画に力を入れていた東映ではなくて日活だったら、もっと輝いていたに違いない。
「高石かつ枝」は、1962(昭和37)年、松竹「愛染かつら」の再映画化に際して、ヒロイン名「高石かつ枝」の歌手募集に合格し、同映画の主題歌「旅の夜風」(作詞:西條八十、作曲:万城目正)でコロムビアからデビュー(のちにクラウンに移籍)。
1963年、彼女が歌った、映画「林檎の花咲く町」(監督:岩内克己、東宝)の主題曲「林檎の花咲く町」(作詞:西條八十、作曲:上原げんと)は、名曲である。
「高田美和」は、往年の時代劇スター高田浩吉の娘で、姿美千子とともに大映の清純派スターであった。
時代劇の娘役のほか、「高校三年生」(監督:井上芳夫、大映)などの青春映画にも出演し、1964年、石坂洋次郎原作の「十七才は一度だけ」(監督:井上芳夫)に主演する。彼女がコロムビアから出した、この映画の主題曲「十七才は一度だけ」(作詞:川井ちどり、作曲:遠藤実)は、青春歌謡の代表曲となった。
ほかに、「アロンスイー雨の街」(作詞:木村葉子、作曲:宮川泰)や梶光夫とのデュエット「わが愛を星に祈りて」(作詞:岩谷時子、作曲:土田啓四郎)などのヒット曲がある。
のちに日活ロマンポルノ「軽井沢夫人」(監督:小沼勝)に出演して話題となった。
*青春歌謡の先駆け、松島アキラ……
青春歌謡は、いつから、どの曲から始まったというのはない。
御三家生成のなかであえて言えば、核となった1963年、舟木一夫の「高校三年生」の学園ソングから遡って、1962年、橋幸夫の「江梨子」からではなかろうか、と先に書いた。
橋幸夫がデビューした1960年頃、大きな歌謡曲の流れのなかにも青春歌謡の兆しはあった。
リバイバルを歌った「無情の雨」の佐川満男、「雨に咲く花」の井上ひろしなどは、その雰囲気を持っていた。
井上ひろしは、その後ロシア民謡の「山のロザリア」がヒットした。この曲は女性3人組コーラス・グループのスリー・グレイセスも歌ったし、当時歌声喫茶でもよく歌われた。
佐川満男は、その後忘れられた頃の1968年に、髭面で歌った「今は幸せかい」(作詞・作曲:中村泰士 )をヒットさせた。
そして、1961(昭和36)年9月、「松島アキラ」が「湖愁」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)でビクターからデビューする。橋の「江梨子」発売の前年である。松島アキラ、17歳。
「悲しい恋のなきがらは、そっと流そう泣かないで……」で始まるこの歌は、自分の心を顧みる失恋の心情が、内省的な絵画のように歌われている。
この歌が流れた当時、私は恋を知り始めた年頃の中学3年生で、今までにない自分に近い歌謡曲だと感じたものだった。つまり、思春期の観念的な恋心に響いたのだった。
この歌とほゞ同時期に発売された、仲宗根美樹の「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)に通じるものがある。「川は流れる」も失恋の歌で、印象派の絵画を思わせる。
「病葉を、今日も浮かべて、街の谷、川は流れる、ささやかな、望み破れて……」
出だしの「病葉」を「わくらば」と歌わせるところに、この歌の妙がある。これが「枯葉」か「落葉」だったら、歌の持つ味わいは薄れていただろう。
そして、この「川は流れる」は、翌年発売の吉永小百合の「寒い朝」より早い時期であったのをみると、女性の青春歌謡の先駆けといえるかもしれない。
翌1962年、「湖愁」は映画化もされている。「湖愁」(監督:田畠恒男、出演:瑳峨三智子、鰐淵晴子、松島アキラ、松竹)。記憶にないところをみると、青春映画が得意ではない松竹だったからか。あるいは、佐賀の田舎の映画館には配給されなかったのかもしれない。
「湖愁」のあとの松島のヒット曲、「あゝ青春に花よ咲け」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)は、まさに青春を真っ向から歌ったものである。
松島アキラは、デビューするやすぐさまアイドル的人気になって、その当時ペットとして人気の高かった白い犬の「スピッツ」の愛称で親しまれた。
この松島アキラの登場によって、同じビクターの橋幸夫および橋の作詞・作曲を担っていた佐伯孝夫、吉田正が青春歌謡を意識し、「江梨子」の誕生に繋がったのではと、勝手に深読みするのである。
*忘れないさ、北原謙二
当時、もう一人青春歌謡の匂いがする歌手がいた。
1961年デビューした北原謙二で、「忘れないさ」(作詞:三浦康照、作曲:山路進一)を歌っていた。鼻に抜けた高い声が、清々しい印象を与えた。
1962年5月、北原が歌った「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤実)は、もう青春歌謡の王道である。
「君には君の夢があり、僕には僕の夢がある、ふたりの夢をよせあえば、そよ風甘い春の丘……」
北原の「若い二人」は、橋幸夫の「江梨子」、吉永小百合の「寒い朝」と、ほぼ同時期に流れていた。私の高校1年生から2年生になった頃だった。
それから約1年後、舟木一夫の「高校三年生」が登場したのだった。
北原謙二はその後、「初恋は美しくまた悲し」(作詞:三浦康照、作曲:市川昭介)や「ふるさとのはなしをしよう」(作詞:伊野上のぼる、作曲:キダ・タロー)などの、清々しい曲を出している。
北原謙二も、忘れはしないさ。
*
このように、1960年代、青春歌謡は花開いていった。
こうして振り返ってみれば、当時は作曲家はレコード会社と専属契約であった。そのことからも、御三家である、ビクターの橋幸夫は吉田正門下、コロムビアの舟木一夫は遠藤実門下、クラウンの西郷輝彦は北原じゅん門下であった。
このことからも、青春歌謡は吉田正、遠藤実、北原じゅん、それに米山正夫などが牽引していったことがわかる。
そして、次の来たる歌謡曲の黄金時代を担う、すぎやまこういち、筒美京平、鈴木邦彦、川口真、都倉俊一などへと繋がっていくのであった。
(写真は、松島アキラ、デビュー盤「湖愁」、吉永小百合、デビュー盤「寒い朝」)