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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

新幹線の変容と、太平洋側に現れた富士山

2012-12-28 03:29:52 | ゆきずりの*旅
 12月26日、佐賀に帰るために東京を出発した。
 今回は寄り道をせずにまっすぐ博多に行くのだけれど、新幹線の特急「のぞみ」ではなく、東京発13時03分発岡山行きの「ひかり」に乗った。

 東海道・山陽新幹線の時刻表をよくよく見ると、新幹線が登場した頃脚光を浴びた「こだま」や「ひかり」はいつの間にかめっきり本数が減っていて、すっかり影が薄くなっていた。ダイヤの主流は「のぞみ」で、「こだま」や「ひかり」はプロ野球でいえば、かつては4番を打ったスター・プレーヤーが今では下位打線に置かれている、ピークを過ぎた引退間際の選手の感である。
 なかでも「こだま」の退潮は著しい。
 東京発の「こだま」は大阪以西まで行く列車はなく、それも大阪止まりと名古屋止まりが半々というのだから、もう長距離は無理と烙印を押されたかのようだ。
 しかし、早朝の時間帯を見ると「こだま」が主役である。といっても、新山口発博多行き(4区間)、広島発博多行き(7区間)、岡山発広島行き(6区間)などであり、新下関発博多行きというたった2区間のもある。これでも栄光の新幹線である。
 かつてホームランを打っていたバッターが、チームのためにランナーを進めるゴロの右打ちやバントをやっているようだ。
 あの「ひかり」にしても、いつの間にか博多まで行くのはなくなっている。新大阪止まりと岡山止まりが半々である。そのうち「こだま」のように、大阪までしか行かなくなるのではないかと、余計な心配をしてしまう。

 つまり、いつしか東京~博多間はすべて「のぞみ」に占められていて、「こだま」や「ひかり」は、脇役になっていたのだ。
 九州行きの寝台夜行列車もすべてなくなってしまったし。
 東京から新大阪間で新幹線が開通した後、岡山へ、さらに博多へと延びていって、「ひかりは西へ」と言っていた日の出の勢いの時代があった。今、「ひかり」は、Uターン現象を起こしているし、「こだま」は縮小、ローカル線化しているのだった。
 それに、大阪以西では、新加入の「さくら」が台頭している。「さくら」は、かつて九州と東京間を走る寝台特急だった。
 現在の「さくら」は、鹿児島中央行きの九州新幹線に繋ぐ新大阪発以外に、博多発がある。
 九州新幹線を見れば、博多から熊本間は「つばめ」が走っている。同じ博多、熊本間は少し駅を飛ばす「さくら」もあり、「つばめ」と「さくら」の関係は、「こだま」と「ひかり」の関係に似ている。

 ここで分かったことは、東海道・山陽新幹線でいえば、格差が出来あがっているということである。デノミの論理で再呼称すれば、「こだま」は、各駅停車の普通、「ひかり」が急行、「のぞみ」が特急ということになる。「さくら」は急行、「つばめ」は普通扱いか。

 *

 この日、東京発岡山行き「ひかり」で、進行方向左の座席に座った。つまり、太平洋の海側である。
 右側が2人席で、左側が3人席なので、空いている場合は普通、まず右側の2人席の窓際に座る。右側の内陸部側には、静岡県に入ったあたりから晴れた日は雄大な富士山が見える。
 あるとき、新幹線で、富士山が東京から大阪に向かう左側の座席からも見える場所があると聞いた。太平洋側である。
 最初そのことを聞いたときは都市伝説のように思っていたが、本当のことらしい。それ以来、新幹線に乗ると、注意して右側を見るようにしていた。
 見えるのは、富士山の手前から列車が急角度で北のほうに向かったときに、富士山が右から左に変わるのだと推測した。地図を見て、それは沼津から富士市に向かったところのあたりだと推測した。
 要するに、富士山が真横か後ろに遠ざかったら、左側に見える可能性はないと思った。そう思い、富士山が見える手前の熱海あたりから待ち伏せして、そのあたりに差しかかると、いつ富士山が姿を現わすかと注意深く窓の外の先の方を見ていたのだが、いつも見えなかった。

 今年の10月に博多から東京行きの新幹線の車内で、その日は曇っていて山側からも富士山は見えなかったが、通りがかりの車掌に何気なく「右側の車窓からも富士山が見えるそうですね」と訊いてみた。すると、車掌は「ええ、掛川を過ぎて安倍川あたりの、静岡の少し手前で見えますよ。あのあたりカーブになっていますから」と答えた。
 僕は、そもそも見える場所を間違って推測していたのだ。

 この日12月26日、雲はあるが空は晴れていた。富士山は見えるかもしれない。
 特急「ひかり」の左側の窓から、熱海あたりからずっと左の景色を、つまり太平洋側を見ていたが、やはり富士山は見えなかった。
 静岡に列車が近づいた頃を見計らって、車両と車両の間にあるガラスの大窓の扉のところに行って待っていた。そこに、車内販売の売り子さんがいたので、もしやこの人も知っているだろうかと思い、「富士山は右側からも見えるところがあるそうですね」と訊いてみた。すると「ええ、静岡を過ぎたらすぐのところですよ。今日は、晴れていたので朝見えましたよ」と、やはり知っていた。
 「静岡を過ぎて高架橋のようなところを過ぎるところまでですから。1分ぐらいですから、あっという間に見えなくなりますよ」と、さらに親切に教えてくれた。
 僕はカメラを持って、窓の外の列車の進行方向の先の方を指差し、「あっちの方にチラッと見えるんですね」と訊いたら、ベテランらしい販売員さんは、「いえ、あっちの方に見えますよ」と、窓の真横を指差した。えっと、意外だった。僕は前方にチラッと見えるので見逃す場合があると思っていたのだが、真横に見えるのだったら、晴れて見える日であれば、見逃すはずがない。
 「そうですか。そして、前の方に消えていくのですね」と僕が言うと、彼女は「いいえ、後ろの方に消えていきますから」と、さらに意外なことを言った。僕は前の方に出て、前の方に消えていくと思っていたのだ。
 僕はすっかり先入観にとらわれていたのだ。
 富士山は後ろから現れ後ろに消えていくのだ。そうだ、静岡では富士山はすでに通り過ぎている。列車は、北の方でなく南の方にカーブする、そのときに富士山は現れるのだ。

 僕は窓の外を、目を皿のようにして見つめていたはずだ。確かに、静岡を過ぎたときだった。とつぜん、富士山が横に現れた。
 僕は、「あっ、見えた」と声をあげた。思ったよりも大きく、もったいなげに物陰からチラとではなく、はっきりと姿を見せていた。
 売り子さんが「見えましたか」と気にかけてくれた。僕は、「ええ、はっきりと」と、おそらく嬉しそうな声で答えた。
 初めて、新幹線の太平洋側に現れた富士山を見たのだった。
 デジカメのシャッターを3回押したが、標準で撮ったのであまりにも小さく、判明するのは難しいだろう。(写真)
 走る列車の上に通っているのは東名高速道路だろう。左の青い屋根の先の白い2本の高圧線の間の、白い三角形の雲のような形が富士山なのだが。
 次の機会は、ズームで拡大して撮らないと。

 確かに、太平洋側に富士山は現れたのだった。

 新大阪で、15時22分発鹿児島中央行きの「さくら」に乗り換える。
 新しい「さくら」は初めての乗車だ。「昔の名前で出ています」とも言える「さくら」は、昔の寝台特急時代とは違って、鼻の長いアリクイのような流線型N700系の、すっかり時代の先端の容貌をしていた。
 博多18時06分着。

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ストリッパーが主役の、日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」

2012-12-23 05:18:31 | 映画:日本映画
 「カルメン故郷に帰る」は、映画史を語るに記録に留めておかねばならない作品である。
 というのは、日本初の国産カラー映画だからである。
 戦後、映画は終戦の年の1945(昭和20)年から作られ、外国映画の輸入公開も翌1946年から始まった。廃墟と闇市の中でも、映画は作られ上映されていたのだから驚きである。
 まだ映画会社は、松竹、東宝、大映の3社だけであった。

 戦後国産映画の第1作は、1945年10月公開の、松竹の「そよ風」(監督:佐々木康)である。並木路子が歌うこの映画の主題歌の「りんごの歌」は大ヒットし、戦後の復興の象徴のように、その後も歌われ続けた。
 終戦の翌年の1946年には、国産映画は徐々に数を増やして作られていくが、やはりそれまでしばらく見ることのなかった輸入公開された海外映画に人々の関心は集まり、なかでもハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン主演の「カサブランカ」が大ヒットした。
 面白いことに、それまで軍事一色だった日本を文化の面からでも自由化、民主化しようと思ったのか、GHQは接吻映画も作れと指示したそうで、それに基づいてかどうか知らないが、この年松竹で作られた「はたちの青春」(監督:佐々木康)で大坂志郎と幾野道子による接吻画面が実現している。といっても、ちょっと口を合わせる程度だったが大きな反響だった。
 この映画が日本初のキスシーンの映画となっていて、のちに、この映画の公開日の5月23日をキスの日としている。
 しかしその年すでに、ガラス越しや口にセロファンをあてたキスシーンの映画はあったようで、実際のキスシーンも、この年作られた川島雄三監督の「追いつ追われつ」が、話題にならなかったが早かった。
 ガラス越しのキスシーンは、1950(昭和25)年の岡田英次と久我美子の「また逢う日まで」(監督:今井正)があまりにも有名だが、キスシーンの映画はすでに終戦直後に作られていたのだ。

 初めてのキスシーン映画公開の翌年の1947年には、初めてのストリップショーが東京新宿の帝都座で行われている。いわゆる「額縁ショー」と呼ばれるもので、大きな額縁の前で、乳房と上半身露出のモデル女性が静止したままで立っているというものだ。その後規制緩和とともに、ストリップはショー化して、大衆の淫靡な娯楽となっていった。

 *

 「カルメン故郷に帰る」は、1951(昭和26)年公開というから、まだ戦後6年しかたっていない貧しさの残っていた時代であるが、映画は急成長していた。
 前年日本で公開された「羅生門」(監督:黒沢明)が、ベネティア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞したのがこの年である。日本の映画が国際的に認められたとして、映画界は沸いた。
 そして、世界に遅れじとばかりに、国産のフィルムでもって作られた初のカラー映画が木下恵介監督による「カルメン故郷に帰る」である。

 「カルメン故郷に帰る」は、冒頭、子どもたちが歌う抒情的な主題歌が流れるなか、画面に絵本のような絵が映し出される。素朴でカラフルな絵である。絵を背景に、「カルメン故郷に帰る」とタイトルが出てくる。
 そして、「松竹映画30周年記念」、さらに「日本映画監督協会企画」と映し出され、「総指揮、高村潔」、それに続き、「富士写真フィルム株式会社、フジカラーフィルム使用」と大きな文字で映し出される。
 要するに、松竹の会社および日本映画界の期待を背負って、富士フィルムの多大な協力を得て撮影した、という主張が大きく出ているのである。
 物語の始まりは、牛が草をはみ、馬がいななく牧歌的な高原が映し出される。草原の先には白い煙を漂わせる緑の浅間山がそびえ、青空が広がる。空には白い雲が浮かんでいる。
 この風光明媚な村に、村を出て東京でストリッパーをやっている女性(高峰秀子)が、友だち(小林トシ子)を連れて久々に帰ってくる。
 1947年に東京新宿で「額縁ショー」として始まった日本のストリップは、4年後のこの映画が公開された頃には、全国に知られる存在になっていたのである。もちろん、都会にはその劇場があっても、地方の田舎ではまだ噂の段階でしかなかったであろう。
 この2人の女性が村に来たことで、村は色めきたつ。
 女はリリィ・カルメン、友だちはマヤ朱美と称して、ストリッパーであるが彼女たちは自分たちを素直に芸術家と思い込んでいる。この二人が、村に騒動を起こすのである。

 村にやってきた彼女たちのいでたちがハデハデしい。カルメンが真っ赤なワンピースに白いスカーフ、黒い手袋。それに、色とりどりの極楽鳥のような羽のついた帽子を被っている。連れのマヤは、黄色に黒の太いストライプのワンピース。まるで、虎かシマウマのような模様である。
 そして、2人が着替えてきた次のシーンでは、紺地に大きな白い水玉と、赤地に大きな白い水玉模様のワンピースである。さながら芸術家、草間彌生の世界だ。
 彼女たちは自然な風景と素朴な村人たちの中で、とりわけ目立ってハデハデしいが、かといって決してケバケバしいとは感じさせない。
 監督の木下恵介は、色彩をどう映すか、どう映るのかを意識したのであろう。
 当時のポスターを見ると、その力の入れようがわかる。(写真)
 「大松竹の壮挙!日本最初の総天然色映画」と銘打っている。そして、タイトルの「カルメン故郷に帰る」の文字は、すべて色を変えるという、まさに総天然色というカラーを意識した色使いだ。
 興味深いことは、2人の衣装の色である。映画の中での高峰秀子の赤いドレスが紺色に、小林トシ子の黄色地に黒のストライプが白地に赤のストライプに変えてあるということだ。タイトルを目立たせるため、少し落ち着いた色調にしたのだろう。
 撮影は、ほぼ全編が浅間山麓の高原ロケである。青い空と白い雲が、物語の展開にかかわらず、全体を清々しい雰囲気に演出している。

 主演の高峰秀子は、このあと「二十四の瞳」、「浮雲」、「喜びも悲しみも幾歳月」など多くの名作に主演し、名女優となった。
 校長先生役の笠智衆が、その後の「男はつらいよ」シリーズの御前様のキャラクターを先駆けている。
 「君の名は」の二枚目、佐田啓二が、田舎の純情な先生役として初々しい。
 学校でオルガンの伴奏により、しばしば子供たちに歌われる主題歌の「わがふるさと」は、抒情的なメロディーで、浅間山の高原に溶け込むように流れる。
 翌1952年、同じく木下恵介監督、主演高峰秀子によって、「カルメン故郷に帰る」の続編「カルメン純情す」が作られた。

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戦後昭和を疾走した美空ひばりの、「ひばりの森の石松」

2012-12-10 03:55:58 | 人生は記憶
 ふと聴いた曲が、一瞬のうちに遠い過去に連れていくことがある。
 それは、偶然に図書館で手にしたCDであった。「NHK紅白歌合戦 トリを飾った昭和の名曲」というもので、こういう切り口もあるのかと聴いてみようと思った。
 「紅白歌合戦のトリを飾った名曲」といっても、全曲収録ではない。CDの発売元が日本コロムビアなので、コロムビアの歌手限定のものだった。それでも、かつての歌謡曲全盛時代ではトップ歌手を揃えていた老舗である。
 1951(昭和26)年の第1回の藤山一郎の「.長崎の鐘」から、1988(昭和63)年第39回の小林幸子の「雪椿」まで、35曲が2枚のCDに収められていた。
 そのうちの3分の1が、さすが歌謡界の女王と言われた美空ひばりで12曲ある。

 人は、子どものころ聴いた曲は覚えているものだ。家のラジオから流れる歌は耳に浸みこみ、脳の奥深いところで記憶されている。
 かつて、歌は大人の歌も子どもの歌もなく、家族全員が共有していた。大人向けの流行歌であれ、子どもは意味を理解しなくとも自然と耳にするので、憶えるのだった。「粋な黒塀、見越しの松に…」(春日八郎「お富さん」)とか、「お暇なら来てよね…」(五月みどり)などと子どもが口ずさんでも、厭な子供だなどとは誰も不審がったりはしなかった。
 そんなわけで、僕はとりわけ美空ひばりのファンでもなかったが、彼女の歌は常に流れていたので知っていた。美空ひばりを抜きにして、昭和の戦後の流行歌は語れないだろう。その意味でも、彼女の古い歌を中心にしたアルバムも手元に持ってもいた。

 美空ひばりの「白いランチで十四ノット」を聴いたとき、古い記憶のドアを叩かれたような気がした。 NHK紅白歌合戦の第9回(昭和33年) のトリの歌だった。
 美空ひばりの歌は、古い歌でも彼女は生前繰り返し歌っていたし、懐メロの番組などで歌われてきた。しかし、生前美空ひばりがこの歌を歌ったのをテレビなどで見た覚えがない。ベストアルバムにも入っていなかった。紅白で、トリで歌った歌なのにである。
 しかし、僕の脳は覚えていた。いつの頃か、聴いた歌だ。だが、聴いたのはいつの頃か思い出せない。最初に聴いた頃からの長いブランクだということは分かった。
 
 「白いランチで十四ノット」(作詞:石本美由起、作曲:万城目正)は、今聴いても新鮮な曲だ。
 マンボ調のリズミカルなイントロの伴奏に続いて、「若い笑顔に潮風うけて、港のカモメよ、こんにちは……」と軽快な歌詞が流れる。一瞬、あたりに潮風が吹きぬけたかのようだ。
 最後に、「……海に咲くのはしぶきの花よ、ちょいとイカスぜ、マドロス娘」と、「ちょいと」で高音の裏声に変調して、「マドロス娘」で結ぶ。
 ひばり20歳ごろの曲で、はじけるような笑顔が浮かんでくる。ここには、ひばりの屈託ない青春を垣間見ることができる。人生を絶え間なく疾走してきたひばりであるが、想像するに、おそらく夢見る青春もあったであろう。

 *

 一世を風靡するほど人気だった人やグループでも、死んだ後、日々忘れ去られるのがほとんどだ。しかし、死んだあと逆にその偉大さが増す人がいる。時の流れ、つまり歴史が、それを評価するのだ。
 美空ひばりが死んでから20年以上が過ぎた。それなのに、その存在は大きく、確固たるものになっているように感じられる。
 
 美空ひばりは1937(昭和12)年、横浜生まれで、子どもの頃から、天才少女として歌手デビューした。
 子どもの頃の初期の作品には、名曲が多い。
 「悲しき口笛」(1949年)、「東京キッド」(1950年)、「越後獅子の唄」(1950年)、「私は街の子」(1950年)、「ひばりの花売り娘」(1951年)、「リンゴ追分」(1952年)、「お祭りマンボ」(1952年)、「津軽のふるさと」(1952年)と、戦後の歌謡史に足跡を刻んだ名曲が並ぶ。
 映画「ジャンケン娘」(1955年、東宝)に共演したことを機に、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」としても人気になる。
 ヒット曲を見てみると、1957年から58年にかけて、「三味線マドロス」(1957年)、「港町十三番地」(1957年)、となぜかマドロスものが続く。
 1957年のNHK紅白では、「長崎の蝶々さん」を歌って、初めてトリを務めた。まだ、10代だというのに、すでに誰もが認める人気と実力を持っていた。
 そして、翌年(1958年)の「白いランチで十四ノット」である。
 この曲の中で、ひばりの曲には珍しく恋への憧れを歌っている。
 「……海で暮らせば、男のような夢を持っている、楽しい夢を……」
 「……好きなあの人、ランチに乗せて、飛ばしたいな、14ノット……」

 ひばりは面食いだったと思う。彼女が兄のように慕った俳優の鶴田浩二、そして親しくしていたのは映画でも共演した、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、高倉健、一時婚約したベーシストでバンドマスターの小野満と、当代のいい男たちだ。中村錦之助は有馬稲子と、高倉健は江利チエミと結婚した。
 そして、当時人気絶頂だった小林旭との結婚(1962年)、2年後の離婚後は、美空ひばりはいよいよ歌謡界の女王としての道を歩き始める。
 東京オリンピックの年に、「柔」(1964年)が大ヒットし、古賀メロディーの「悲しい酒」(1966年)で頂点を迎えたかのように見える。その後、ミニスカートの「真赤な太陽」(1967年)あたりまでは、ひばりは豊かな様々な表情を見せた。
 その後は、酒を主題にしたものや孤独な情緒を重んじた曲が多くなっていく。
 ひばりには、フォークの歌手が何人か歌を提供しているが、個人的には、あまり知られていない岡林信康作詞・作曲の「月の夜汽車」(1975年)が、ふとした彼女の心の奥を歌っているようで好きだ。

 歌手としての美空ひばりはあまりにも有名だが、映画にも多くの出演作がある。
 彼女が子どもの頃の、「のど自慢狂時代」(1949年、大映)から、「悲しき口笛」(1949年、松竹)、「憧れのハワイ航路」(1950年、新東宝)、「東京キッド」(1950年、松竹)、「鞍馬天狗・角兵衛獅子」(1951年、松竹)、「リンゴ園の少女」(1952年、松竹)など、数多く主演している。
 また、その後、吉永小百合、山口百恵などの清純派の登竜門となった、初代田中絹代以来2代目となる「伊豆の踊子」(1954年、松竹)の踊子役を演じている。

 *

 美空ひばりの主演映画は、かつて1本だけ見たことがある。
 高校2年のとき、町の映画館に、島崎藤村原作の「破戒」(監督:市川崑、主演:市川雷蔵)を見に行った。そのとき、同時上映されたのが、「べらんめえ芸者と大阪娘」(監督:渡辺邦男、1962年、東映)で、美空ひばりと高倉健のシリーズ共演映画だった。
 今思えばすごいコンビだが、当時の高校生としては、目的は文芸作品「破戒」であって、レコードのB面のような娯楽作品としてしか見なかった。

 最近、「ひばりの森の石松」(監督:沢島忠、1960年、東映)を見た。
 場面は、富士の麓の茶畑で始まる。きれいに並んだ茶摘みの娘たちに交じって、やはり茶摘み娘の美空ひばりが「歌はちゃっきり節、男は次郎長……」と歌う。目を見張るような、茶摘み娘たちのコーラスライン。そして、ひばりがみんなに森の石松の話をし始める。
 ここから、舞台は江戸末期に移り、清水の次郎長の子分、森の石松の物語が始まるという洒落た展開になっている。
 ひばりが、歌手とは思えない、それにもまして女であることの違和感を抱かせない、可愛い石松を演じている。俳優としても、とても器用な演技派だと再認識させられる。
 清水の次郎長役に若山富三郎が、若々しい男衆に里見浩太朗が出演している。また、ひばりの実弟の花房錦一が出演しているのも愛嬌である。

 *

 1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった。その年の6月、昭和という時代に寄り添うように、美空ひばりは逝去した。まだ、52歳だった。
 つい最近、彼女の身長が147センチというのを知って、意外に思った。テレビや舞台では、大きく見える人だった。
 先日、上野に行ったとき、上野公園の西郷さんの銅像の下の方に、「蛙の噴水」がある憩いの場所があるのを見つけて、降りてみた。そこに、王貞治、監督の黒澤明、渥美清、九重親方(横綱千代の富士)などの国民栄誉賞受賞者をはじめとする、著名人の手形が飾られていた。なかにはサザエさんもある。漫画家の長谷川町子さんだが、死後受賞して手形がなかったのだろう、サザエさんの絵が飾られてある。
 その中に美空ひばりのもあった。(写真)
 僕の手を当ててみたら、やはり大分小さく可愛かった。
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