かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「コロナ時代の哲学」を考える② 鏡に見る人間の証明

2020-10-24 00:42:49 | 気まぐれな日々
 人間は、鏡をもって生まれてくるのではなく、また、われはわれなりというフィヒテ的哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。――カール・マルクス

 *哲学が滴る「資本論」

 私は九州の田舎から上京し、大学では志があるわけではなく経済学を専攻した。そこで、私の思想や人生に最も影響を与えた男である、同じクラスの井上雅雄に出会った。
 井上の映画好きに私も影響を受け、私たちは多くの映画を観た。彼は学生時代演劇の世界に身を置いたことがあるが、卒業後は経済学の学者の道に進んだ。しかし、執筆中の映画界の本の完結を待たず、昨年病気で他界した。
 学生時代、彼がしばしば口にしたのが、冒頭にあげた言葉(文)だった。久しぶりに、この言葉を思い出した。
 この有名なマルクスの言葉は、「資本論」の第1部第1章に出てくる商品の価値論のなかでの言葉であるが、人間の本質的あり様として、私たちの会話のなかに時折登場したのだった。
 専攻が経済学であったので、当時は経済学のバイブルのような「資本論」を学生は一応は手にするのだが、その膨大な量と濃密な内容ゆえに、ほとんどの学生は読了できずに積読(つんどく)となる。私も例にもれず、第1部でもって本棚の奥にしまったままにしてしまったのだが、この文だけは学生時代の初々しい思い出とともにいつまでも脳裏に残った。
 人間は自分だけでは自分を知ることができない。他人という鏡を通して、自分を知りうるのだ……

 *鏡を見ない犬

 世田谷に住んでいた頃の話だ。
 私の知人である音楽家の家で犬を飼っていた。
 そこの家族構成は知人夫婦に娘が3人いた。知人が言うには、生まれたすぐからこの家で飼われていたこの犬は家族をよく見ている。この犬は、誰がこの家の主(あるじ)であるかを知っていて、誰に愛想を使えばいいかをわきまえている。娘たちに対しても、長女の言うことは聞くが末っ子の言うことは聞かないんだ。わが家のなかのヒエラルヒーを確立していて、自分の位置は末っ子より上だと思っている。
 その知人の家の玄関口には、床から全身が映る鏡があった。私が家に伺うと、玄関に出向いた知人に付いてくるように、飼い犬(名前は忘れたが)が尻尾を振ってやってくることもよくあった。
 玄関口に取り付けられた大きな鏡には、当然その犬も映っている。
 私は、人間と暮らしているこの犬は、映っている自分を見て、どう思っているのだろうかと疑問に思った。 家族の他の人(人間)と、自分は違うなあ、と不思議に思っていないのだろうか、そもそも自分は人間とは違う種類の動物(犬)だと分かっているのだろうか、と。
 あるとき、私は長年その犬と暮らしている知人に、そのことを訊いてみた。
 知人は、どうだろうね、私にもわからないと言った。
 玄関口に来ると鏡があるから、その犬も自分の顔や姿を見ることもあるんでしょう?と私が尋ねると、(犬は)鏡に映った自分の顔からはすっと目をそらして、見て見ぬ振りをするんだよね、と知人は言った。

 犬や猫は自分の顔や姿を知っているのだろうか? 鏡で自分の顔や姿を見たことのないもの(動物)と見たことのあるもの(動物)では、自分に対する認識・自覚が違うのだろうか? 犬が他の犬と、猫が他の猫に出合ったとき、自分もあのような顔と姿をしていると認識するのだろうか? といった疑問が私に残った。
 そもそも、仲間や群れと暮らす牛や馬やライオンなどは、自分の顔や姿をどのように認識しているのだろうか?

 *チンパンジーにおける、鏡に映った自己像の認識度は?

 なぜこのような前文が長くなったかというと、先にこのブログで掲げた大澤真幸、國分功一郎による「コロナ時代の哲学」(左右社)に、私の長年の疑問に答えるかのようなテーマが書かれていたからである。
 國分功一郎が、大澤真幸が別誌連載の「社会性の起源」で引用していたチンパンジーの鏡像認知の実験を、対談の俎上にあげた。それを受けて、大澤が詳しく解説していた。下記に大まかに要約した。

 人間は、一般に鏡に映っている自分の顔を見て自分の顔だと理解できる。人間の赤ちゃんは、だいたい1歳半から2歳にかけての時期にそれが理解できるようになるという。
 しかし、ほとんどの動物は、鏡に映っている自分の姿を自分自身であるとは認識できない。鏡像の自己認知ができる動物は、人と大型類人猿のごくわずかで、チンパンジーはできるが霊長類であるニホンザルやテナガザルなどはできないそうである。
 鏡像を見たときに鏡像が自分であるかどうかを試した、顔かどこかに印をつけてそれを自己確認の手だてとする<マークテスト>と呼ばれる実験がある。
 一般にチンパンジーはこのテストに合格する。鏡に映った像を自分と認知する。
 では、普通の動物は、例えばサルたちは鏡像をどう見ているのか。
 サルたちは、鏡に映った自分の像を見て、他個体(同種類の)として認知するというのである。
 さらに、マークテストを考案したゴードン・G・ギャラップによる、この実験を深めた次段階の実験を紹介している。
 まず鏡像を見たチンパンジーは、それを他個体と見なすが、やがて(3日ほどたつと)他個体ではなく自分自身と見なすようになる。
 とすると、少なくとも他個体を見たことがあるということが不可欠条件である。

 <第2の実験>
 生後すぐに母親から隔離して育てられたチンパンジーでの、マークテストの実験である。
 このチンパンジーは、いくら時間がたっても鏡像による自己認識に到らなかった。そして、鏡像にもあまり興味を示さなかった。鏡像が自分に似ている、他個体に似ているということもないからだ。つまり、仲間のチンパンジーを見たことがないからだ。
 <第3の実験>
 生まれてすぐに隔離されて育てられた1歳半のチンパンジー3個体を、1個体と2個体の2組に分ける。2個体は同じ部屋に同居で、1個体は別の部屋で孤立したままの状態とする。2つの部屋は隣接していて仕切りの壁は透明なので、お互いを見ることができる。つまり、3個体とも仲間のチンパンジーを見ることができるのだ。
 一定の期間の後に、これら3個体にマークテストを行ったところ、一緒に育てられた2個体はテストに合格し、隔離されたままの1個体はどうしても合格しなかった。
 このことから言えるのは、鏡に映っている自分の姿を自分の像だと認識するには、他者の姿を見たことがあるというだけでは足りないということである。
 ということは、他者経験、触ったり引っ掻いたりといった、他者との相互の接触があってこそ、鏡像の自己認識が可能となる、というである。

 *

 この実験は、チンパンジーに留まらず、人間にも当てはまるかもしれない。
 自分が自分であると認識するには、他人との接触が重要なカギとなる。とするならば、他人を通して自分を知るというマルクスの言葉も、人間の本質を言い表した経済学から溢れ出た哲学といえよう。
 人間の自己認識、本質は、他者との経験、他者との接触に多く基因しているとしたなら、コロナ禍によって他者との接触にバリアもしくはバイアスがかかった現在の状況は、人間にとってなんと不幸なことかと言わざるをえない。
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「コロナ時代の哲学」を考える① 哲学者Aが導くもの

2020-10-11 02:16:14 | 気まぐれな日々
 いまだ鎮まりそうもない新型コロナウイルスに対する、やるせなさが纏わりついたような気持ちを抱いたまま、いつしか月日が過ぎていく。
 季節も、コロナを耳にした今年(2020年)が始まった1月から、予期せぬパンデミック到来への疑惑と不安の冬を経て、余儀なくされた初の緊急事態宣言の春が過ぎ、自粛を甘受した夏が去って、それでも事態は一向に変わらないと感じながら、金木犀が匂いたつ秋になってしまった。
 時は無情に淡々と過ぎていくようでいて、先の9月には7年8か月続いた安倍政権に替わって新しく菅政権が誕生したように、世の中は動いてはいるのだ。

 この年、コロナ禍のもと世界は大きく変わった。長年生きてきて、こんな体験は初めてのことだ。
 都市封鎖のロックダウンに見た戒厳令下のような閑散とした街角に象徴されるように、人の混雑や密集が見られなくなったことや、会社や学校に行かないリモート・テレワークやオンライン授業、外出にマスクが欠かせなくなったことや、隣の人とある程度の物理的距離をとる必要が生じたこと等々、今まで普通にあって見られた多くのことがなくなり消えて、代わりに新しい情景や習慣が生まれた。
 変わったのは外見や行動がもたらす風景だけではない。最も大きいのは、人の気持ち、心にあり方だろう。気軽に友人に会ったり、普通に食事や飲みにいったり、気晴らしに旅に出る、といった、今まで何ら問題も抵抗も持たなかった行動を控える、もしくはできなくなっている。
 誰かと会う、会話をする、触れ合うといった人本来の社会行動に抑制がかかっているのだ。つまり、人との接触に、目に見えないバリア(障害)が生まれている。
 外に流れる空気さえも実際は変わっていないはずなのに、去年までと違って感じられるのだ。今まで経験・体感したことのない感情だ。

 *大澤真幸、國分功一郎と考える、哲学者アガンベン論争

 この新型コロナウイルス下の情勢に関してポストコロナを含めて、「サピエンス全史」の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリや「欲望の時代の哲学」の哲学者マルクス・ガブリエルなど、多くの学者や専門家が発言している。
 日本人では、私が今最も関心をもっている社会学者の大澤真幸と哲学者の國分功一郎が、対談形式の本「コロナ時代の哲学」(左右社)を出版したので、開いてみた。

 大澤真幸は、新しい生活様式とその後にやってくる監視国家、監視資本主義はディストピア(反理想郷)だが、コロナ禍は「世界共和国」への第一歩になりうるという希望的提案も唱えている。
 大澤真幸と國分功一郎との対談は、國分がとりあげた現代を代表するイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベン論争が中心である。

 イタリアでは、早い段階から新型コロナウイルスが拡散し多大な被害者が出た。そのとき政府のとったいち早い緊急事態宣言や対応に対して、アガンベンは2月26日、「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態」という短い論考を寄稿する。
 その概要は、現在コロナ禍のもとで、自由の制限、莫大な権利侵害が行われている。かつては権利侵害の口実として使われていたテロリズムが利用できなくなった今、権利侵害の口実として「伝染病の発明」が行われたのだ、といった論旨である。
 このアガンベンの発言に対し、すぐさま多くの反論や非難が噴出した。

 世界中に拡散したコロナウイルスに対して、各国の緊急事態宣言や都市のロックダウンはやむを得ない対策だ、と思った。一般人も知識人も多くの人が同じ思いだろう、と思われた。
 アガンベンは、批判された第一稿の後、3、4月と、補足説明と称する論考を発表する。より論点を集約し、「死者の権利」と「移動の自由」を問題だとした。
 今、死者たちが葬式もされないまま埋葬されていて、教会もそのことに何も言わない。生存だけを価値として認める社会とは何なのだろう。
 また、数ある自由のなかでも移動の自由の重要性を説いてきた彼は、過去にもあった伝染病のときや戦争中ですら行われなかった今回の移動の制限を問題だとした。

 死者の権利を守るべき、移動の自由を奪われてはならない、というアガンベンの主張に、國分は反応する。
 私はこのアガンベン論考に対する炎上論争なるものを知らなかったが、非難にさらされたアガンベンに、待てよ、彼が言おうとしていることは人間であることの本質に触れているのでは、と見直している哲学者によって、日本でも行われた(終わったことではない)今日の新しい問題点を気づかされたのだった。

 京都大学前総長の霊長類学者、山極寿一も、「仕事力」(朝日新聞)で、次のように述べている。
 コロナの影響で最も大変なことは、人間が生きる上での、社会を作る上での三つの自由が奪われたことだと思います。それは、移動する自由、集まる自由、対話する自由です。

 また、大澤と國分は、今回のコロナ禍での緊急事態宣言における現象について次のように語っている。
 多くのリベラルや左派は、テロを口実に緊急事態宣言して人権まで侵害することには批判的だった。しかし、今回、緊急事態宣言を要求していたのはリベラルや左派で、右派的な保守的権力層の方が、早く緊急事態を解除して日常に戻りたがっている。
 一般的な右と左の立場が反転している現象だが、かといって、ウイルスとテロリストを同列に扱うことはできない。
 このことに國分は、どこかに悪人がいるわけではない。むしろ、我々が今、進んで民主主義を捨てようとしていることへの警鐘と捉えるべきかと思う、と述べている。
 このことは、複雑で深い問題だ。
 人が人と接触することを怖れる感情、生存が最重要だとする感覚、迫りくる近監視社会……今までにはない世界が生まれつつある。

 *

 マルクス・ガブリエルは言う。
 このパンデミックは歴史的瞬間です。
 私たちは革命期にいると思います。
 ……
 このパンデミックの問題は、科学だけでも、政治だけでも解決できない。
 精神のワクチン=哲学が必要…?
 パンデミックは、私たちを認識の眠りから呼び起こした。

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