人間は、鏡をもって生まれてくるのではなく、また、われはわれなりというフィヒテ的哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。――カール・マルクス
*哲学が滴る「資本論」
私は九州の田舎から上京し、大学では志があるわけではなく経済学を専攻した。そこで、私の思想や人生に最も影響を与えた男である、同じクラスの井上雅雄に出会った。
井上の映画好きに私も影響を受け、私たちは多くの映画を観た。彼は学生時代演劇の世界に身を置いたことがあるが、卒業後は経済学の学者の道に進んだ。しかし、執筆中の映画界の本の完結を待たず、昨年病気で他界した。
学生時代、彼がしばしば口にしたのが、冒頭にあげた言葉(文)だった。久しぶりに、この言葉を思い出した。
この有名なマルクスの言葉は、「資本論」の第1部第1章に出てくる商品の価値論のなかでの言葉であるが、人間の本質的あり様として、私たちの会話のなかに時折登場したのだった。
専攻が経済学であったので、当時は経済学のバイブルのような「資本論」を学生は一応は手にするのだが、その膨大な量と濃密な内容ゆえに、ほとんどの学生は読了できずに積読(つんどく)となる。私も例にもれず、第1部でもって本棚の奥にしまったままにしてしまったのだが、この文だけは学生時代の初々しい思い出とともにいつまでも脳裏に残った。
人間は自分だけでは自分を知ることができない。他人という鏡を通して、自分を知りうるのだ……
*鏡を見ない犬
世田谷に住んでいた頃の話だ。
私の知人である音楽家の家で犬を飼っていた。
そこの家族構成は知人夫婦に娘が3人いた。知人が言うには、生まれたすぐからこの家で飼われていたこの犬は家族をよく見ている。この犬は、誰がこの家の主(あるじ)であるかを知っていて、誰に愛想を使えばいいかをわきまえている。娘たちに対しても、長女の言うことは聞くが末っ子の言うことは聞かないんだ。わが家のなかのヒエラルヒーを確立していて、自分の位置は末っ子より上だと思っている。
その知人の家の玄関口には、床から全身が映る鏡があった。私が家に伺うと、玄関に出向いた知人に付いてくるように、飼い犬(名前は忘れたが)が尻尾を振ってやってくることもよくあった。
玄関口に取り付けられた大きな鏡には、当然その犬も映っている。
私は、人間と暮らしているこの犬は、映っている自分を見て、どう思っているのだろうかと疑問に思った。 家族の他の人(人間)と、自分は違うなあ、と不思議に思っていないのだろうか、そもそも自分は人間とは違う種類の動物(犬)だと分かっているのだろうか、と。
あるとき、私は長年その犬と暮らしている知人に、そのことを訊いてみた。
知人は、どうだろうね、私にもわからないと言った。
玄関口に来ると鏡があるから、その犬も自分の顔や姿を見ることもあるんでしょう?と私が尋ねると、(犬は)鏡に映った自分の顔からはすっと目をそらして、見て見ぬ振りをするんだよね、と知人は言った。
犬や猫は自分の顔や姿を知っているのだろうか? 鏡で自分の顔や姿を見たことのないもの(動物)と見たことのあるもの(動物)では、自分に対する認識・自覚が違うのだろうか? 犬が他の犬と、猫が他の猫に出合ったとき、自分もあのような顔と姿をしていると認識するのだろうか? といった疑問が私に残った。
そもそも、仲間や群れと暮らす牛や馬やライオンなどは、自分の顔や姿をどのように認識しているのだろうか?
*チンパンジーにおける、鏡に映った自己像の認識度は?
なぜこのような前文が長くなったかというと、先にこのブログで掲げた大澤真幸、國分功一郎による「コロナ時代の哲学」(左右社)に、私の長年の疑問に答えるかのようなテーマが書かれていたからである。
國分功一郎が、大澤真幸が別誌連載の「社会性の起源」で引用していたチンパンジーの鏡像認知の実験を、対談の俎上にあげた。それを受けて、大澤が詳しく解説していた。下記に大まかに要約した。
人間は、一般に鏡に映っている自分の顔を見て自分の顔だと理解できる。人間の赤ちゃんは、だいたい1歳半から2歳にかけての時期にそれが理解できるようになるという。
しかし、ほとんどの動物は、鏡に映っている自分の姿を自分自身であるとは認識できない。鏡像の自己認知ができる動物は、人と大型類人猿のごくわずかで、チンパンジーはできるが霊長類であるニホンザルやテナガザルなどはできないそうである。
鏡像を見たときに鏡像が自分であるかどうかを試した、顔かどこかに印をつけてそれを自己確認の手だてとする<マークテスト>と呼ばれる実験がある。
一般にチンパンジーはこのテストに合格する。鏡に映った像を自分と認知する。
では、普通の動物は、例えばサルたちは鏡像をどう見ているのか。
サルたちは、鏡に映った自分の像を見て、他個体(同種類の)として認知するというのである。
さらに、マークテストを考案したゴードン・G・ギャラップによる、この実験を深めた次段階の実験を紹介している。
まず鏡像を見たチンパンジーは、それを他個体と見なすが、やがて(3日ほどたつと)他個体ではなく自分自身と見なすようになる。
とすると、少なくとも他個体を見たことがあるということが不可欠条件である。
<第2の実験>
生後すぐに母親から隔離して育てられたチンパンジーでの、マークテストの実験である。
このチンパンジーは、いくら時間がたっても鏡像による自己認識に到らなかった。そして、鏡像にもあまり興味を示さなかった。鏡像が自分に似ている、他個体に似ているということもないからだ。つまり、仲間のチンパンジーを見たことがないからだ。
<第3の実験>
生まれてすぐに隔離されて育てられた1歳半のチンパンジー3個体を、1個体と2個体の2組に分ける。2個体は同じ部屋に同居で、1個体は別の部屋で孤立したままの状態とする。2つの部屋は隣接していて仕切りの壁は透明なので、お互いを見ることができる。つまり、3個体とも仲間のチンパンジーを見ることができるのだ。
一定の期間の後に、これら3個体にマークテストを行ったところ、一緒に育てられた2個体はテストに合格し、隔離されたままの1個体はどうしても合格しなかった。
このことから言えるのは、鏡に映っている自分の姿を自分の像だと認識するには、他者の姿を見たことがあるというだけでは足りないということである。
ということは、他者経験、触ったり引っ掻いたりといった、他者との相互の接触があってこそ、鏡像の自己認識が可能となる、というである。
*
この実験は、チンパンジーに留まらず、人間にも当てはまるかもしれない。
自分が自分であると認識するには、他人との接触が重要なカギとなる。とするならば、他人を通して自分を知るというマルクスの言葉も、人間の本質を言い表した経済学から溢れ出た哲学といえよう。
人間の自己認識、本質は、他者との経験、他者との接触に多く基因しているとしたなら、コロナ禍によって他者との接触にバリアもしくはバイアスがかかった現在の状況は、人間にとってなんと不幸なことかと言わざるをえない。
*哲学が滴る「資本論」
私は九州の田舎から上京し、大学では志があるわけではなく経済学を専攻した。そこで、私の思想や人生に最も影響を与えた男である、同じクラスの井上雅雄に出会った。
井上の映画好きに私も影響を受け、私たちは多くの映画を観た。彼は学生時代演劇の世界に身を置いたことがあるが、卒業後は経済学の学者の道に進んだ。しかし、執筆中の映画界の本の完結を待たず、昨年病気で他界した。
学生時代、彼がしばしば口にしたのが、冒頭にあげた言葉(文)だった。久しぶりに、この言葉を思い出した。
この有名なマルクスの言葉は、「資本論」の第1部第1章に出てくる商品の価値論のなかでの言葉であるが、人間の本質的あり様として、私たちの会話のなかに時折登場したのだった。
専攻が経済学であったので、当時は経済学のバイブルのような「資本論」を学生は一応は手にするのだが、その膨大な量と濃密な内容ゆえに、ほとんどの学生は読了できずに積読(つんどく)となる。私も例にもれず、第1部でもって本棚の奥にしまったままにしてしまったのだが、この文だけは学生時代の初々しい思い出とともにいつまでも脳裏に残った。
人間は自分だけでは自分を知ることができない。他人という鏡を通して、自分を知りうるのだ……
*鏡を見ない犬
世田谷に住んでいた頃の話だ。
私の知人である音楽家の家で犬を飼っていた。
そこの家族構成は知人夫婦に娘が3人いた。知人が言うには、生まれたすぐからこの家で飼われていたこの犬は家族をよく見ている。この犬は、誰がこの家の主(あるじ)であるかを知っていて、誰に愛想を使えばいいかをわきまえている。娘たちに対しても、長女の言うことは聞くが末っ子の言うことは聞かないんだ。わが家のなかのヒエラルヒーを確立していて、自分の位置は末っ子より上だと思っている。
その知人の家の玄関口には、床から全身が映る鏡があった。私が家に伺うと、玄関に出向いた知人に付いてくるように、飼い犬(名前は忘れたが)が尻尾を振ってやってくることもよくあった。
玄関口に取り付けられた大きな鏡には、当然その犬も映っている。
私は、人間と暮らしているこの犬は、映っている自分を見て、どう思っているのだろうかと疑問に思った。 家族の他の人(人間)と、自分は違うなあ、と不思議に思っていないのだろうか、そもそも自分は人間とは違う種類の動物(犬)だと分かっているのだろうか、と。
あるとき、私は長年その犬と暮らしている知人に、そのことを訊いてみた。
知人は、どうだろうね、私にもわからないと言った。
玄関口に来ると鏡があるから、その犬も自分の顔や姿を見ることもあるんでしょう?と私が尋ねると、(犬は)鏡に映った自分の顔からはすっと目をそらして、見て見ぬ振りをするんだよね、と知人は言った。
犬や猫は自分の顔や姿を知っているのだろうか? 鏡で自分の顔や姿を見たことのないもの(動物)と見たことのあるもの(動物)では、自分に対する認識・自覚が違うのだろうか? 犬が他の犬と、猫が他の猫に出合ったとき、自分もあのような顔と姿をしていると認識するのだろうか? といった疑問が私に残った。
そもそも、仲間や群れと暮らす牛や馬やライオンなどは、自分の顔や姿をどのように認識しているのだろうか?
*チンパンジーにおける、鏡に映った自己像の認識度は?
なぜこのような前文が長くなったかというと、先にこのブログで掲げた大澤真幸、國分功一郎による「コロナ時代の哲学」(左右社)に、私の長年の疑問に答えるかのようなテーマが書かれていたからである。
國分功一郎が、大澤真幸が別誌連載の「社会性の起源」で引用していたチンパンジーの鏡像認知の実験を、対談の俎上にあげた。それを受けて、大澤が詳しく解説していた。下記に大まかに要約した。
人間は、一般に鏡に映っている自分の顔を見て自分の顔だと理解できる。人間の赤ちゃんは、だいたい1歳半から2歳にかけての時期にそれが理解できるようになるという。
しかし、ほとんどの動物は、鏡に映っている自分の姿を自分自身であるとは認識できない。鏡像の自己認知ができる動物は、人と大型類人猿のごくわずかで、チンパンジーはできるが霊長類であるニホンザルやテナガザルなどはできないそうである。
鏡像を見たときに鏡像が自分であるかどうかを試した、顔かどこかに印をつけてそれを自己確認の手だてとする<マークテスト>と呼ばれる実験がある。
一般にチンパンジーはこのテストに合格する。鏡に映った像を自分と認知する。
では、普通の動物は、例えばサルたちは鏡像をどう見ているのか。
サルたちは、鏡に映った自分の像を見て、他個体(同種類の)として認知するというのである。
さらに、マークテストを考案したゴードン・G・ギャラップによる、この実験を深めた次段階の実験を紹介している。
まず鏡像を見たチンパンジーは、それを他個体と見なすが、やがて(3日ほどたつと)他個体ではなく自分自身と見なすようになる。
とすると、少なくとも他個体を見たことがあるということが不可欠条件である。
<第2の実験>
生後すぐに母親から隔離して育てられたチンパンジーでの、マークテストの実験である。
このチンパンジーは、いくら時間がたっても鏡像による自己認識に到らなかった。そして、鏡像にもあまり興味を示さなかった。鏡像が自分に似ている、他個体に似ているということもないからだ。つまり、仲間のチンパンジーを見たことがないからだ。
<第3の実験>
生まれてすぐに隔離されて育てられた1歳半のチンパンジー3個体を、1個体と2個体の2組に分ける。2個体は同じ部屋に同居で、1個体は別の部屋で孤立したままの状態とする。2つの部屋は隣接していて仕切りの壁は透明なので、お互いを見ることができる。つまり、3個体とも仲間のチンパンジーを見ることができるのだ。
一定の期間の後に、これら3個体にマークテストを行ったところ、一緒に育てられた2個体はテストに合格し、隔離されたままの1個体はどうしても合格しなかった。
このことから言えるのは、鏡に映っている自分の姿を自分の像だと認識するには、他者の姿を見たことがあるというだけでは足りないということである。
ということは、他者経験、触ったり引っ掻いたりといった、他者との相互の接触があってこそ、鏡像の自己認識が可能となる、というである。
*
この実験は、チンパンジーに留まらず、人間にも当てはまるかもしれない。
自分が自分であると認識するには、他人との接触が重要なカギとなる。とするならば、他人を通して自分を知るというマルクスの言葉も、人間の本質を言い表した経済学から溢れ出た哲学といえよう。
人間の自己認識、本質は、他者との経験、他者との接触に多く基因しているとしたなら、コロナ禍によって他者との接触にバリアもしくはバイアスがかかった現在の状況は、人間にとってなんと不幸なことかと言わざるをえない。