かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「忘れえぬ女」は、ウクライナの「女鉱夫」

2022-03-30 01:52:55 | 気まぐれな日々
 過ぎ去った時は帰ってはこない。
 失ったものは戻ってはこない。
 私の身のまわりで起こったことも、世界で起こっていることも……

 あれは、2009(平成21)年の春だった。
 その頃、一人暮らしの高齢の母は実家近くの病院付設の施設に入って、私は東京と佐賀を行き来していた。実家から自転車で走る佐賀平野の青い麦畑は、風にそよいであたかも「草原の輝き」を思わせ、佐賀も東京も穏やかで平和だった。

 思えば、私はいつも誘惑されていた。
 その頃は、ロシアの女に魅せられていた。その言葉通り、「忘れえぬ女(ひと)」である。
 私は移り気な性であるから、その前はイタリアの女の「ウルビーノのヴィーナス」に恋心を抱いていたし、さらにその前はトルコの女の「オダリスク」に下心充分であった。
 しかし、その頃はなぜかロシアの「忘れえぬ女」に心とらわれていた。
 その女が日本にやって来たので、私は勇んで会いに行った。場所は、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムであった。
 国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア」と銘うたれていた。謳い文句も表紙も「忘れえぬ女」の主役であった。いや、ひとり舞台とも思えた。
 やっと会えた彼女は、厳かな雰囲気を醸し出していていて、少し気後れした。

 「忘れえぬ女」イワン・クラムスコイ作、1883年制作。
 彼女の、馬車の上からこっちをじっと見つめる眼差しは、何を思っているのか計りかねた。こちらを蔑んだ目にも思えたし、誰にも話せぬ憂いを抱えているようにも見えた。
 華やかな衣裳からすると高貴な貴婦人に見えるが、実は椿姫、つまり高級娼婦だと囁く人もいる。
 また、トルストイの「アンナ・カレーニナ」に、ドフトエフスキーの「白痴」のナスターシャにイメージを重ねる人もいる。
 謎の女なのである。もともとこの女性の原題は「見知らぬ女(ひと)」であるが、いつしか「忘れえぬ女(ひと)」となった。

 *

 彼女を記憶に残し、会場を見まわった。
 会場には、19世紀から20世紀初頭の帝政ロシア時代の「リアリズムから印象主義へ」というテーマで集められた絵画が並んでいた。そこには、一昔前のロシアの静かな風景や人物がある。
 ふと、一人の女の前で足が止まった。
 その女(ひと)は、「女鉱夫」。
 うっすらとほほ笑んでこちらを見ているようであった。作業着であろうか普段着であろうかラフに着た衣服が、彼女の生活感を感じさせる。右手に持って肩に掲げている布地のようなものは何であろうか。
 彼女は、内面の温かさと大らかなエネルギーを発散させていた。こちらが失敗しても、何とかなるわよと勇気づけてくれる前向きな生命力を持っているように思えた。
 私は、この女に釘付けになった。

 「女鉱夫」ニコライ・カサトキン作、1894年制作。
 作者のカサトキンは、1892年よりドネツク炭田に通って「炭鉱夫」シリーズを描き、その1枚がこの絵だと図解説書にはある。日本でいえば明治の初頭で、「忘れえぬ女」とほぼ同時代である。
 ドネツク炭田は、現在ウクライナの南東部にあり、世界有数の炭田地帯である。
 ということは、おそらく「女鉱夫」はウクライナ女性と思われる。そして、彼女の後ろには炭鉱の住宅(炭住)が見える。
 あゝ、彼女は、名も知らぬ女鉱夫!

 この日、「忘れえぬ女」に会いに行ったのに、またたく間にまったく違った魅力を持つ「女鉱夫」へ気持ちが揺らいだのだった。「女鉱夫」が、忘れえぬ女となった。
 移り気な男だ。
 (写真:左は、国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア」のチラシの「忘れえぬ女」。右は、図解説書のなかの「女鉱夫」)

 *

 あれから10余年、年月は流れた。時はとどまってはくれない。
 あの頃から、1年後に母はなくなり、古くなった佐賀の家も今はない。
 私たちの身のまわりはおろか世界も、天災も人災も絶え間なく続いている。


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