かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

未来に残したい「佐賀遺産」ベスト70とは?

2011-12-31 04:16:23 | 気まぐれな日々
 やはり、地方には地方の特色がある。
 佐賀に帰ってきて、12月28日朝、テレビをつけたら、NHKで「今日は一日佐賀城から公開生放送」と銘打って、佐賀の特番をやっていた。
 もちろん全国放送ではない。NHK佐賀の開局70周年記念番組として企画されたもので、内容は、「未来に残したい佐賀遺産ベスト70」というもの。番組は朝10時に始まり、途中ニュースなどをはさみながら夜7時に終わる、正味延べ6時間に及ぶものだった(あまりにも長いので録画しておいた)。
 佐賀を知るには、いい企画だ。
 この日、他の地方や東京では、何を放送していたのだろう。東京ではまさか、「未来に残したい東京遺産ベスト70」ではあるまい。
 
 ゲストに、佐賀出身の女優中越典子と、「佐賀のがばいばあちゃん」の原作者で元B&Bの島田洋七を交えての、佐賀の魅力をランキング発表するものだった。
 佐賀城本丸の庭に面した障子の前で、進行係のアナウンサーとゲストが並んでのトークである。前庭には椅子が並べてあり、やって来た観客が座っている。
 のっけに、島田洋七が「70もあるのかいな、40ぐらいでいいんじゃないの」と茶々を入れると、地元の文化人(特に食に関して)である筒井ガンコ堂が、「いやいや、僕はその倍ぐらい150ほどリストアップしましたよ」と反撃する。
 筒井は、元雑誌「太陽」の編集者で、嵐山光三郎と一緒に机を並べて雑誌作りをやっていて、平凡社を辞めたあと佐賀に Uターンした人である。
 始終にこやかな中越は人の良さが窺えるし、洋七は相変わらず笑いをとる。
 余談だが、最近人気の武井咲は中越典子の柔和な目つきをきつくした感じだと、見るたびに思うのだが、まだ誰も言っていないようだ。

 *

 ちなみに、私の「佐賀遺産のベスト10」をあげると以下のようになった。
 1.有田・伊万里焼
 2.吉野ヶ里遺跡
 3.佐賀城
 4.唐津くんち
 5.名護屋城跡
 6.祐徳神社
 7.虹の松原
 8.築地反射炉、三重津海軍所跡などの幕末期の近代化産業遺産
 9.筑後川の昇降橋
 10.旧高取伊好邸

 この番組を見ていないのなら、各自が自分のランキング(例えばベスト10)を書いてみるのも面白い(これから以降に番組ランキングを列挙していくので)。

 *

 番組は、70位から漸次順位を上げて発表するというものであった。
 いきなり70位に出てきたのは、意表をつく「嘉瀬川」だった。う~ん、川が出てくるのは佐賀らしい。これだと私がいつも見る六角川も出てくるかなと、ちらと頭をよぎったが、それはないだろうと思いなおした。嘉瀬川の河川敷では、インターナショナル・バルーンフェスタもやっているし、県のほぼ中央を走っている。
 番組に沿って、佐賀遺産を70位からあげておこう。

 <70~51位>
 70.嘉瀬川
 69.浜野浦の棚田
 68.ヒシの実  (食) 
 67.ワラスボ  (食)
 66.鳥栖ジャンクション
 65.辰野金吾  (人)
 64.新鳥栖駅
 63.江崎利一  (人)
 62.太良みかん  (食)
 61.佐賀空港
 60.大興尊寺
 59.中里太郎右衛門   (人)
 58.武雄の大楠
 57.鹿島の面浮立
 56.佐賀錦
 55.ベストアメニティスタジアム
 54.シシリアンライス  (食)
 53.蕨野の棚田
 52.伊万里トンテントン祭り
 51.佐賀のり  (食)

 70位から51位まであげたのを見ると、遺産とは言いえない人物や食べ物も入っているし、ナニコレと首をかしげるものもある。遺産にこだわらず、佐賀といえば浮かんでくるものをあげたとしか思えない。ここでは、人物には(人)、食べ物には(食)と付加した。
 辰野金吾は、東京駅や日本銀行を設計した、明治・大正期に活躍した建築家。江崎利一は、製菓会社グリコの創立者。中里太郎右衛門は、唐津焼の有名な名跡(人)。
 食べ物で、有明海にしかいない怪魚のワラスボはいいとしても、最近できたB級グルメのシシリアンライス(テレビ「ケンミンショー」でこれは何の料理?と紹介されていた)は遺産とは言えないだろう。
 鳥栖ジャンクションやできたばかりの新鳥栖駅は、何と言ったらいいのだろう。佐賀にも高速道路や新幹線が通っていますよ、と言っているのか。これでは、水増しだと言われても仕方ないだろう。
 次の50位以内に期待しよう。

 *

 <50~31位>
 50.三瀬そば  (食)
 49.丸ぼうろ  (食)
 48.佐賀の定番アイス  (食)
 47.多久聖廟
 46.唐津のご当地バーガー  (食)
 45.下村湖人  (人)
 44.副島種臣  (人)
 43.今泉今右衛門  (人)
 42.七つ釜
 41.三瀬生まれのブランド鶏  (食)
 40.中島潔  (人)
 39.天山
 38.竹崎ガニ  (食)
 37.鍋島直茂  (人)
 36.佐賀県立宇宙博物館
 35.名護屋城跡
 34.嬉野茶  (食)
 33.佐野常民  (人)
 32.鍋島直正  (人)
 31.佐嘉神社

 50位から31位まであがったのを見ると、ほとんどが食べ物と人物である。これでは、「佐賀といって思い浮かべるのは何?」である。他に佐賀遺産と呼ばれるものはないとでも言うのだろうか。
 私が5位にあげた名護屋城跡が35位にランクアップしている。

 *

 次に30位以内にいってみよう。

 <30~11位>
 30.呼子の朝市
 29.酒井田柿右衛門  (人)
 28.佐賀城下の栄の国まつり
 27.佐賀城下ひなまつり
 26.唐津焼
 25.伊万里牛  (食)
 24.有明海
 23.江藤新平  (人)
 22.シチメンソウ
 21.古湯温泉
 20.祐徳神社
 19.唐津焼
 18.ガタリンピック
 17.九年庵
 16.虹の松原
 15.小城羊羹  (食)
 14.武雄温泉
 13.佐賀城
 12.有田陶器市
 11.カチガラス

 20位まで来ると、佐賀遺産らしくなってきた。小城羊羹は食べ物といっても、そのシュガーロード(長崎街道)の歴史から佐賀遺産と言っていいだろう。
 私がベスト10にあげた、佐賀城、祐徳神社、虹の松原が出てきた。
 カチガラスは豊臣秀吉の朝鮮出征の際連れてきた鳥で、佐賀特有の呼び名である。一般名はカササギで、今は佐賀の県鳥である。
 ガタリンピックは、潟(がた)の汚いイメージを変えてくれたアイディアの勝利である。

 *

 いよいよ最後に、NHK佐賀がリストアップした、「未来に残したい佐賀遺産ベスト10」を見てみよう。

 <10~1位>
 10.サガン鳥栖
 9.伊万里・有田焼
 8.呼子のイカ  (食)
 7.大隈重信  (人)
 6.吉野ヶ里遺跡
 5.嬉野温泉
 4.ムツゴロウ  (食)
 3.佐賀牛  (食)
 2.唐津くんち
 1.佐賀インターナショナル・バルーンフェスタ

 10位のサッカーチーム、サガン鳥栖は、J1に昇格したばかりのご祝儀ランクインであろうが、遺産と言えるだろうかという疑問はぬぐえない。
 ムツゴロウは食べ物とはいえ、有明海特有のハゼ科の魚で、絶滅は避けたいので遺産としたのはいいアイディアだ。しかし、呼子のイカと佐賀牛は美味いもの(人気グルメ)でしょう。
 1位のバルーンフェスタは、意外で思いつかなかった。唐津くんちを抜いて、佐賀が最も誇れる祭りに成長したのだろうか。佐賀では珍しいインターナショナル(国際的)な祭りではあるので、期待を込めての1位だろう。それにしても、私があげた世界に誇る有田・伊万里焼を抜いて未来に残したい佐賀遺産1位とは。
 インターナショナルといえば、今年2011年から始まった鳥栖のクラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」が遺産に育ってくれればいいが。

 私のベスト10と重なったのは、伊万里・有田焼、吉野ヶ里遺跡、唐津くんちの3つである。20位以内の祐徳神社、虹の松原、佐賀城、さらに35位の名護屋城跡を加えると、7つが番組70位内に入っていたが、残りの3つはどこへ行ったのだろうか。

 私が8位にあげた、「築地反射炉、三重津海軍所跡などの幕末期の近代化産業遺産」は、本当は最も残しておきたい遺産群である。
 近年、世界遺産の暫定リスト入りが決まった、幕末から明治にかけての製鉄や石炭採掘など日本の近代化を担った「九州・山口の近代化産業遺産群」の中に、幕末佐賀藩の最先端の近代技術の足跡が抜けているのである。
 であるから、築地反射炉、多布施反射炉、三重津海軍所、佐賀藩精錬方跡などの佐賀藩近代化産業遺産群の世界遺産暫定リスト入りのために、佐賀県は開発・研究・PRに最も力を入れないといけないはずなのに、70位以内に影も形もないのはどういうことだろう。誰も関係者や審査員は、これを入れようと言い出さなかったのだろうか?

 9位にあげた筑後川の昇降橋は、旧国鉄佐賀線(今は廃線)の筑後川の諸富から大川にかかる鉄橋で、高い船が通ると(時間によって)橋の中央部が一部上る珍しい昇降橋である。昭和10年にできた日本唯一の昇降橋で、これは貴重な建築遺産であり産業遺産でもある。
 しかし、筑後川が福岡県との県境であるので、佐賀県だけとは言えないかもしれない。とは言え、静岡県と山梨県にまたがる富士山は、どちらも自分の県だと言い張るのも面白い。

 10位にあげた旧高取伊好邸は、邸内に能舞台をも持つ近代和風建築で、唐津市にある国指定の重要文化財である。建てた高取伊好は、唐津、多久、大町などの杵島炭鉱の基を築いた明治から昭和初期まで活躍した、佐賀の炭鉱王と呼ばれた人物ある。
 この邸宅は、「九州・山口の近代化産業遺産群」の中に当初リストアップされた県内で秀逸の建築物である。現在は、観光客用に公開されている。

 *

 放送のあった翌日12月29日に酒席で、番組を見ていないという今は隣の長崎県在住で有田出身の友人に、佐賀遺産のベスト10をあげてもらった。
 佐賀城・鯱の門、武雄温泉・楼門(辰野金吾設計)、多久聖廟、祐徳神社、鹿島の江戸時代の赤門などの建築群をあげた。さらに、私と同じく筑後川の昇降橋、佐賀藩の近代産業遺産としてカノン砲も入れた。
 私が知らない「石井桶」とあったので、これは何だと訊いた。
 石井桶は佐賀市にある、“治水の神様”と言われた佐賀藩の成富兵庫茂安が築いた灌漑用の石の水門である。
 さらに、「神籠石」(こうごいし)をあげた。これは、あまり知られていないが、武雄市の南のおつぼ山にある、1300年前ぐらいに造られたといわれる朝鮮式山城である。
 これらも番組ではランク(70位)外であった。

 *

 いささか不満が残った「未来に残したい佐賀遺産ベスト70」であったが、何も世界遺産ブーム(特にNHKは世界遺産が大好きだ)に絡んで「佐賀遺産」と銘うたずに、「私の好きな佐賀=ベスト70」とでも題すれば、今回のように何を入れてもよかったと思うのだが。
 また改めて、純粋な「佐賀遺産=ベスト40」(番組の初めに島田洋七が言っていた40ぐらいで)をやってもらいたい。
 佐賀を知り、佐賀をアピールするには、格好の企画と思う。

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鈴木紀夫の幻影を追った「雪男は向こうからやって来た」

2011-12-16 01:58:55 | 本/小説:日本
 若いとき、オカルト的なものに興味惹かれた。糸井重里風に言えば、「不思議大好き」だった。
 UFO、ネッシー、バミューダ三角海域(トライアングル)、イースター島、ナスカの地上絵、ストーン・ヘンジやストーン・サークル。少し後になって出てきたミステリー・サークル。
 ユリ・ゲラーの超能力以来、日本にオカルトブームが蔓延した時期でもあった。実は当時、僕もメンズマガジン編集者の時代、UFOを追った時があった。もちろん、真剣にである。
 当時は古代遺跡を含めてまだ答えが見つからない不思議なものは、宇宙人によるもの、過去に宇宙人がやって来た足跡・痕跡に違いないという、曖昧さを一気に解決するうまい逃げ道も用意されていた。
 しかし後に、巨大な水中生物のネッシー(宇宙人ではないが)も、麦畑に一夜にしてできる幾何学模様のミステリー・サークルも、人為的な作り事というのが判明した。
 イースター島のモアイ像もナスカの地上絵もストーン・サークルも、科学的な分析が進み、その制作過程も解明されつつある。これらが宇宙人の手によるものとは誰も言わなくなったし、今やバミューダ三角海域は話題にものぼらない。
 一時期、宇宙人の乗り物というUFO、特にアダムスキー型円盤といわれているフライイング・ソーサーの目撃談や写真が雑誌やテレビで数多く出回った。
 そもそも、アダムスキーという人物は、自分の著書(僕も当時読んだのだが)で、主に金星人だが宇宙人とコンタクトをしたと言って円盤の写真を公開し、宇宙船に乗って月を一周し、月の裏側の都市を見たり、金星にも行ったと主張していた。
 今では、月はアメリカのアポロ計画などによって人間が土を踏んでいるし、その裏側の写真も撮られている。金星は、人間のような生物が住んではいないという科学的調査も行われている。
 このように、時代の進展とともに、今はテレビやマスコミでUFOや宇宙人を本気で取り扱うこともない。このことは、科学的知識が広く浸透したということもあるが、僕は映画「E.T」の影響も大きいとみている。
 1982年、スピルバーグ監督による、大ヒットした映画「E.T」によって、あまりにもリアルな円盤(宇宙船)や宇宙人(E.T)の映像が、世界中の人々の前に提出された。それまで出回っていた、少しぼやけていたり曖昧なUFO、宇宙人の写真や映像に比べて(それだからこそ本当らしかったのだが)、宇宙人(異星人)はあまりにも身近で、しかも優しく、決して恐ろしい生き物ではなかった。
 僕が思うに、この映画によって、宇宙人は怖くない、それに想像による創作物だという心理が広く人々に浸透してしまったのではなかろうか。
 それ以来、UFO、宇宙人から神秘性、想像性をなくさせたのではないかと思う。それ以後、曖昧な写真や何とも言えない映像は意味を持たなくなって、UFOブームは衰退し、宇宙人、異星人は全く想像の産物となった。

 そして、「雪男」も、その不思議な世界の一つだった。
 「雪男」に関しては、目撃談や足跡の写真はあるものの、なかなかその確たる写真や映像が出てこないので、ちょっとネッシーと同じ次元で扱われていたと言っていい。
 僕もいくら「不思議大好き」といっても、ヒマラヤで探検隊によって撮られた足跡の写真や雪男の頭皮と言われる写真を見ても、雪男の存在を信じるほどのものではなかった。
 写真が出回らないのは、UFOのように、いつどこででも出没するというものでないからだろう。たとえば雪男の写真を撮ったという人間が出てきたら、当然、いつ、どこでということになる。裏山でとか日本の何とか山でと言っても、すぐに捜索されればその真偽がばれるので、偽造写真が作れないのだ。
 雪男らしい類人伝説は、北アメリカのロッキー山脈のビッグフットなど世界の各地にいくつかあるが、足跡を含めて実際に見たという確かな証言は、ほとんどがヒマラヤである。しかし、今まではっきりとした雪男を撮った写真や映像はない。
 これだけ秘境や未開の山奥までカメラが進出するような時代になっても、ヒマラヤとはいえ実像の写真1枚出てこないのは、伝説の動物に過ぎないと思っていたし、今も思っている。
 とはいえ、実際に見た人は何人もいるのだ。

 *

 「雪男は向こうからやって来た」(集英社)の著者角幡唯介は、2008年の高橋好輝率いるネパール雪男捜索隊に参加した人物である。
 著者の角幡は、雪男に関しては誰もが思っているように半信半疑だったが、朝日新聞社を辞めて事の成り行きで雪男捜索隊に参加することになる。そこから、彼は雪男に関係するあらゆる人間に話を聞いて回る。
 そのなかで、意外な人物が雪男、もしくはそれらしきものを見たという証言を得る。
 ヨーロッパアルプス3大北壁の一つマッターホルン北壁を日本人として初めて登った芳野満彦。
 女性として初めてエベレストに登頂した田部井淳子。
 ヒマラヤの8000メートル峰6座に無酸素登頂を果たした小西浩文。
 そして、角幡が最も気にとめたのは、鈴木紀夫が雪男を見たという話を聞いた時である。

 鈴木紀夫という男を覚えているだろうか。そう、1974年、ルバング島山中にいた残留日本兵の小野田寛郎さんを発見し、一緒に日本に連れ戻した冒険家である。
 角幡は鈴木の著書「大放浪」を読んでいたし、鈴木が雪男を探しに行ってヒマラヤで死んだということも知っていた。しかし、鈴木に対してさほどいい印象を持ってはいなかった。誰もが抱いていたように、軽い気持ちで雪男を探しに行って、遭難したのではないかと。
 角幡は、鈴木の妻や関係者の話を聞いているうちに、彼に対する認識が変わってくる。鈴木は、人に公言せず、いやむしろ隠すように6度もヒマラヤの同じところに雪男を捜索に行っていた。そして、最後の捜索中に雪崩にあって死亡している。まだ38歳の若さだった。
 一人の人間が、これほどの回数で雪男を探しに行った例はない。何が、鈴木をここまで駆り立てたのか。角幡は思う。鈴木は雪男を見たにちがいない。
 鈴木が雪男を撮った写真があるというので、角幡は鈴木の妻に見せてもらう。しかし、それはあまりにも豆粒みたいに小さすぎて、誰が見ても雪男と断定できる代物ではなかった。だから、当時もその写真は問題にもされなかった。そのことが、かえって鈴木の心に火をつけた。

 「ふとしたささいな出来事がきっかけで、それまでの人生ががらりと変わってしまうことがある」
 ふと出会った雪男は、鈴木に思わぬ方向を向けさせた。
 雪男を信じていてもいなくてもこの本は、読む者を自然に雪男のなかに入っていかせる筆力がある。
 雪男に出会ったら、そこからもう後戻りできる人間はいない、と角幡は思う。だから、彼は雪男に出会いたいとは思うものの、出会いたくないという気持ちも横切る、といった複雑な心理を吐露している。
 雪男は、ヒマラヤの現地の言葉では様々な表現があるが、一般的にはイエティと呼ぶ。
 角幡ら捜索隊は、ヒマラヤのダウラギリⅣ峰麓のコーナボン谷周辺で雪男、イエティの捜索を行い、鈴木が雪男を見たと思われる地点にも行く。そして、捜索が終わったあと一人でその地点に戻り、鈴木を知り、彼の遺体を発見したという地元の住民とも会い、彼の案内で鈴木が行ったであろうところでキャンプを張って、鈴木のように一人で雪男を待つ。
 角幡は、鈴木の足跡を追って追体験する。鈴木がなぜここにやってきて、ここで命を落としたかを自分のなかで確認するために。角幡のなかでは、この作業をしないと雪男捜索は終わって帰れないという気持ちになっていた。
 そして、角幡は山を下りる。肩の荷を下ろしたように。
 この本によって、雪男より鈴木紀夫という人物の幻影が胸に残った。鈴木紀夫は、いわゆる雪男という生物を見たに違いない。この本によって、鈴木紀夫という人物がおぼろげながら浮かんできた。
 鈴木紀夫の「大放浪 小野田少尉発見の旅」(朝日文庫)も読まないといけない。

 *

 12月14日の朝日新聞(夕刊)のスポーツ欄に、「北極探検史の謎追う旅 評価」と称して、「角幡、荻田さん2人に冒険家賞」という記事が載っていた。
 19世紀半ば、北極海を運航していたイギリスのフランクリン隊の全員129名が行方不明となった。その消息をたどった2人の北極の旅が評価され、冒険家に贈られる「第3回ファウストA・G・アワード」の賞を受けたというものだ。
 角幡は、この体験を作品にしたいと語っている。冒険家と言ってもいい、行動的な興味深いノンフィクション作家が出てきた。
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「月全食」より「皆既月食」

2011-12-13 02:47:12 | 気まぐれな日々
 11年ぶりと聞けば記録しておくべきだろう。
 去る12月10日(土)の「皆既月食」である。日本全国で、皆既月食が始めから終わりまで起きたのは2000年7月16日以来という。
 月食(一部が欠ける部分月食)は、起こらない年もあれば年に3回も起こる年もあるらしい。しかし、月に地球の影がすっぽり入る皆既月食はそうそうないのである。たとえその年起こったとしても、天候次第で見えるとは限らない。
 月食は、満月の日に起こる。皆既月食は、まん丸い月が次第に欠けていって三日月になり、やがて痩せ細って全部がなくなってしまう。すると、次に反対側から細い弓のような光が出てきて、やがて三日月になり、次第に太ってきて、再びまん丸の満月に戻る。
 満月から新月、そして再び満月という、普通は1か月かけて見せてくれる月の1周期をその日の2、3時間のうちに見せてくれるのである。

 「月食」は、「月蝕」とも書く。月を食うより、月を蝕(むしば)むの方があっているように思う。少しずつ、それでいていつの間にか浸食されていくのだから。
 皆既月食と書くと、普通の月食よりも、何だか一筋縄ではいかない神秘的な雰囲気を醸し出す。怪奇月食と書いてもよさそうだ。
 古代は、いやそう古くない時代まで、月食や日食はオカルト現象として、祀りや占いの手段として利用されていた。月や太陽の運行による暦を把握している者は、祀りごと、すなわち政(まつりごと)をそれによって操り、権力をも握っていたのだ。
 それが証拠に、今日の西暦であるグレゴリオ暦は、ローマ教皇グレゴリウス13世の名に依っているし、グレゴリオ暦の前のユリウス暦は、ローマ皇帝の礎をつくったユリウス・カエサルに由来している。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、暦の月にも自分の名前も入れてしまった。7月のJulyジュライがそうである。

 「月」は、中国語では「月亮」あるいは「月球」。
 台湾を旅していたとき、台南市をぶらぶら歩いていて「月球大飯店」というホテルを見つけた。小さくて、むしろうらぶれた感じだったが、名前が気に入ったのですぐにドアを開けて、そこに泊まったことがある。
 月食は、中国語でも月食である。皆既月食を中国語でなんというか調べてみると、「月全食」とあった。ならば、部分月食はというと、「月偏食」である。何だか食い物のイメージがする。
 月餅を全部たいらげたのが月全食(皆既月食)で、えり好みで食べたり食べなかったり、あるいは残したりしたのが月偏食(部分月食)のようだ。
 漢字の本元は中国とはいえ、月全食より皆既月食の方が言葉に深遠さがある。

 *

 その日、12月10日、新宿に行くために夕方5時過ぎに家を出た。
 多摩の公園に出たところで、ビルの向こうに大きな月が見えた。オレンジ色でそれは夕日ではないかと思うほど、とても大きかった。地表に近い月は実際よりも大きき見える目の錯覚だということは知っていたが、それにしても今日の月は大き過ぎるなと思ってデジカメに収めた。
 新宿で買い物を済ませて、所用で小田急線の世田谷・経堂に出た。経堂は多摩の前に住んでいたところで懐かしい街だ。すぐに所用を済ませ、経堂に行ったときはいつも寄る、駅の近くの路地にある鰻屋(ここのは美味い)で鰻を食べて、飲みに行った。
 飲み屋を出たのは夜の10時半ぐらいだった。
 経堂駅に着いたら、何人かが上空を見ていた。なかには携帯で写真を撮っているような人もいる。僕も、みんなが見ている方を見上げてみると、そこには三日月が浮かんでいた。
 うん? 今日、出かけるとき多摩で見たのは、忘れもしない丸い満月だったはずだ。
 僕はその日、うっかり月食だということを失念していたのだった。
 それから、僕はずっと月を見た。時々、デジカメのシャッターを押した。
 駅の改札口を出てきた人は、そこで何人もが空を見ているので、止まって空を見上げる人が絶えない。すぐに携帯やデジカメを出す人もいる。
 月は、だんだん欠けていった。月は欠けていくにしたがってオレンジ色が赤みを帯びてくる。月の明かりが薄くなり肉眼で見えにくくなっていく。ところが、デジカメでは目に見えない丸く月の輪郭までがおぼろげに見えるのだ。表面がデコボコしたクレーターとおぼしきあばたも見える。カメラの方が、肉眼よりずっと性能がいい。(写真)
 こうなれば、月が消えるまで見ていないと落ち着かない。月が消えたころ、もう零時近いし、終電が近いので、仕方なく見るのを諦めることにした。経堂駅前で、1時間半も月を見ていたことになる。こんなに長く駅前で、月を見ていた人はいないようだった。
 零時40分ごろ、多摩の駅で空を見た。反対側が欠けた三日月だった。見ていると、今度はだんだん三日月が太くなっていく。
 午前1時20分ぐらいには、もとの丸い満月に戻った。
 月は、それからは何事もなかったように太平とばかり、盆のように浮かんでいた。

 次の日本全国での皆既月食は、2018年1月31日の大晦日だという。
 また、見られるだろうか?
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石坂敬一の「出世の流儀」

2011-12-09 02:39:54 | 本/小説:日本
 彼に初めて会ったのは1974年の秋だった。
 2人ともまだ20代で、若かった。
 僕はその年の冬創刊されるメンズマガジンの編集者として、どのような雑誌にするか五里霧中のなかアンテナを張り巡らして奔走していた。映画や音楽も僕の担当であった。
 そんなとき、市ヶ谷にあった会社に彼が現れた。
 ロビーで会った彼は、裾の広がったパンタロンのベルボトムに、高いヒールのロンドンブーツをはいていて、ロックシンガーのようであった。
 髪は、僕もその当時そうであったが、少しウェーブをかけた風になびくような長髪であった。
 「東芝EMIの石坂です」と、彼は静かに丁寧に名乗った。
 そのとき彼は東芝EMIの洋楽のディレクターで、ビートルズなど有名なアーティストを担当していて、すでに業界では名が知れていた。僕がやろうとしている雑誌はまだ発刊されていなかったが、新しいアルバムを持ってきていた。僕は、情報も早く行動も早いと、内心さすがだと思った。

 彼は、僕に1枚のレコード・アルバムを差し出した。それは、ロッカーが狂気のような目で宙を見上げている、まるで宗教画のようなジャケット表紙のコック二ー・レベルのアルバムだった。
 彼はアルバムを見ながら、「いいタイトルでしょう」と、少し嬉しさを抑えるような人懐こい声で言った。タイトルは、「さかしま」だった。
 僕は小さな驚きを覚えた。
 というのは、僕はその新雑誌を担当する前は書籍の編集部にいた。そのとき、早稲田大でフランス語を教えていた田辺貞之助先生のところに原稿を受け取りに行った際、先生の訳したユイスマンスの本を頂き、それによって「さかしま」という本を知った。
 彼はさりげなく「ユイスマンスだよね」と、ユイスマンスに由来したタイトルだよねといったニュアンスで言って、何だか愛おしそうにそのタイトルの入ったアルバムを見た。このロックシンガーとフランスの耽美派作家の結びつきに僕は驚いたのだ。
 僕はレコード会社の人間でユイスマンスの話をする人間に初めて出会った。
 彼と僕の話は、それで充分だった。
 それ以来、同学年ということもあってか、僕たちは旧知の間柄のような、仕事とプライベートのミックスした友人関係となった。六本木のパブ・カーディナルなどでしばしば会って、ビールを飲みながら語った。ときには、業界の人間も一緒の時もあった。
 仕事の関係がなくなった後も、最近どうしている? と言って、時々酒を酌み交わした。

 彼はエネルギッシュだったし、いつも業界の同世代というより同時代のといってもいいが、先頭を走っていた。しかし、会うときは、そんなところはおくびにも出さず、いつも穏やかでにこやかだった。息を切らしながら一生懸命というのとは無縁でやってのけるというのが、彼の彼らしい流儀だった。
 彼は仕事でもプライベートでも次々にスケジュールを決め、手帳の日程を埋めていったが、やりたいこと、やらねばならないことで、「忙しい」を理由にそれらを躊躇、断念することはなかった。
 「今度会おう」という誘いでも、彼はどこからか時間を捻出した。忙しい人間なのに、「忙しい」というセリフは吐かなかった。
 これはビジネスでもプライベートでもいえることだが、すぐに「忙しい」「時間がない」を言い訳の材料に使う人がいるが、そういう人はいつも忙しがり屋の人で、そんな人に限って大したことはしていないものだ。
 時間は自分で作り出すものなのだ。

 大胆な行動力の端に、細かい気配りも見せた。石坂流スタイルで、彼は仕事をし続けた。
 彼の後ろ姿を見て追いかける若い音楽ディレクターは多かったが、多くが途中で息切れしていったように見えた。彼はビジネスマンとして出世の階段を確実に、それもかなりのスピードで登って行ったが、誰でも彼の流儀はまねできるものではなかった。

 その後彼は、東芝EMIの経営幹部からヘッドハンティングでポリグラム(のちのユニバーサル ミュージック)に移籍、代表取締役に就任。さらに社団法人日本レコード協会会長を務めた後、今年(2011年)11月にワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長に就任した。
 そんな彼の経験を披露し、業界の若い人間にサジェスチョンした本が「出世の流儀 究極のビジネスマンになる方法」(日本文芸社刊)である。
 ビートルズのメンバーのことや、彼の意外な本音が聞ける興味深い本である。

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