かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

石坂敬一がいた時代① 突然の別れ

2017-01-29 02:12:45 | 人生は記憶
 去年(2016年)の暮れの12月21日に石坂敬一氏より電話があり、翌22日の電話で久しぶりに会おうよということになった。それで、12月29日に、以前、彼と彼の奥さんとの3人で食事したことのある、麻布十番の和食屋で会うことにした。
 電話で、共通の友人のノブこと吉成伸幸氏も呼ぼうということになり、久しぶりに3人が顔をそろえることになった。(このあと、文中敬称略)

 *

 僕が出版社に勤めていたころ、男性雑誌の編集者時代にレコード会社東芝EMIの石坂敬一と知りあい、その縁で同じ音楽業界にいた吉成伸幸とも知りあった。
 その頃、石坂敬一はビートルズやピンク・フロイドなどの人気ロックバンドの担当ディレクターだった。
 僕らがノブと呼んでいた吉成伸幸は、サンフランシスコ留学後、当時音楽出版社に籍を置きながらビートルズなどの訳詞や音楽評論などもやっていた。
 初めて会った時からこの2人とは気が合い、僕らはしばしば会って、話したり飲んだりした。3人で会うときもあったし、別々に2人で会うときもあった。
 僕が雑誌から離れて仕事での接触がなくなったあとも、2人とは時々会って近況を語りあったり飲んだりして関係は続いた。
 ふり返れば、お互い知りあってから40年の月日が流れていた。

 *

 12月29日夜、会うことになっている麻布の料理屋に、予定の時間になっても石坂敬一の姿はなかった。
 どうしたことかと電話したところ、待ち合わせの時間を間違えていたとのことで、時間に遅れることのない石坂にしては珍しいことだった。それに、最近病気を抱えていたと聞いていたので、席で待っていた僕と吉成伸幸は心配したのだった。
 脚がおぼつかなくなっていた石坂は、杖を突きながらもしっかりと歩いてやってきた。
 僕らは久しぶりの3人での会合を祝い、いく種類かの肴と日本酒を熱燗で頼んだ。日本酒を飲むのは珍しかったが、和食にはこれでいい。
 僕らは、いつものように、とりとめもなくいろんなことを話した。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランや様変わりした近年の音楽のことなども話した。
 僕が、音楽業界では充分やり尽したんじゃないの? と石坂に問うと、日本のロッカーを世界に送り出すことが心残りだ、そのための準備は周到にやっていたのにと、彼は答えた。
 自分の思い描いた領域まで行かなかったことへの口惜しさと、やるべきことはやったという矜持を言葉に滲ませた。
 音楽業界を牽引してきた彼のことだ、誰よりもやったと思う。
 
 事実、石坂敬一は自分流のやり方で音楽業界を突進していった。若いときから、誰にもできないやり方で、彼はやり通してきた。彼の後ろ姿を見て、彼に追いつこうと、あるいは追い抜こうと走る者もいたが、彼はいつも平然と先にいた。
 僕は、ある種の天才だと思って見ていた。
 
 ほどほど飲んだところで、最後に店の名物であるソバかうどんを食べて、切り上げることにした。石坂は、僕はいいやと言ってソバは頼まなかった。
 お互い、酒量は若いときほどはないが、旨い酒だった。
 僕らは、また会おうと言って別れた。

 *

 翌々日の12月31日の午後、吉成伸幸から電話が入った。
 それは、石坂敬一が亡くなったという思いもよらない知らせだった。30日の夜倒れて、31日の朝死亡したとのことだった。
 何ということだ。言葉が出なかった。
 家人によると、30日は外へは出かけていないというので、29日に飲んだ僕らが最後の宴席となったことになる。

 *

 2017年1月1日、朝日新聞には次のような死亡記事が載った。
 「石坂敬一さん(元社団法人日本レコード協会会長、オリコン社外取締役)31日死去、71歳。葬儀の日取りは未定。
 東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)時代にビートルズ担当ディレクターを務め、ユニバーサルミュージック代表取締役会長兼最高経営責任者(CED)、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長兼CEDなどを歴任した。」

 *

 1月9日、港区高輪の高野山東京別院にて親族・近親者による、石坂敬一の通夜が行われた。
 その夜、寺院の上には大きな月が輝いていた。
 翌1月10日、同高野山東京別院にて告別式が行われた。
 僕も吉成伸幸も両方出席した。

 お別れの会は、後日2月8日、青山葬儀所にて行われる。

 *

 あれは、石坂敬一がユニバーサルミュージックの代表取締役を実質的に辞めるといった頃のことである。
 辞めた後どうするの? と訊くと、船で世界一周でもしようかな、と本気なのかどうかわからない顔で言ったことがあった。
 僕は、それは君らしくないね、君は倒れるまでビジネスに関わっているのが本分だと思うが、と言ったら、彼は黙って笑っていた。
 普通のサラリーマンのように仕事をリタイアした後、気休めに海外旅行で世界遺産を周る老後なんて彼らしくないと思ったのだ。
 案の定そのあとすぐに、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長になったので、周りを驚かせた。

 そして、石坂敬一がワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長の職を辞し、実務から本格的に離れたときだから2年ぐらい前の頃である。
 彼は、ピアノをやろうと思っているんだ、と言った。それは、唐突のようにも思えたし、前から温めていたことのようにも思われた。
 生活のほとんどをビジネスに取り込んで生きてきた彼が、仕事から離れた後どうするのかと思っていた僕はその言葉を聞いて、何となく彼の人間的な側面を浮かびあがらせたようで、ほのぼのとした気持ちになった。
 そして彼は、ショパンの幻想即興曲を弾くんだと、今まで見せたことのないような無邪気な笑顔で付け加えた。
 それからすぐに、僕は新聞広告で「ショパンを弾く哲学者」というタイトルの本を見つけたので、彼にこのタイトルを何の説明も加えずにメールで書き送った。
 すると、僕のことではないよね、どうとりゃいいの、と返事のメールがきた。
 電話で、サルトルやニーチェ、ロラン・バルトもショパンを弾いていたらしいよ、と僕が言うと、彼はどうにも腑に落ちないという声で、(こんなメールをよこすなんて)君は変わっているねと言った。僕は僕なんだ、サルトルでもニーチェでもないと言いたかったのかもしれない。
 その後、ピアノはどう? と訊くと、うん、やっているよと、さりげなく答えるだけだった。
 しかし、あとで聞いたのだが、彼はものすごく熱心にピアノの練習に励んでいた。もう体力的に大変だからやめましょうと言うまで集中してやっていた、と彼にピアノを教えていた知人は教えてくれた。
 彼のことだ、人並み外れた熱中力でピアノに向かっていたのだと思う。そして、さらりとショパンを弾く姿を見せたかったのかもしれない。あくまでも格好よく。
 
 2016年の最末日、石坂敬一は脱兎のごとく人生を走り切った。もう、誰も追い着くことはできない。

 彼のショパンを聴くことも、決して叶わなくなった。

 *

 うつし世は はかなきことと 知りせども
       楽しきことも 哀しく染むとは
                    沖宿

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日枝神社への初詣は、演奏会のあとで

2017-01-09 03:04:35 | * 東京とその周辺の散策
 1月7日、赤坂サントリーホールでの演奏会に行った。
CD制作と連携するスタイルで昨年2月から始められた、国際的に活動している吉野直子のハープ・リサイタルである。ブルーローズ(小ホール)とはいえチケットはすぐに満席になり、臨時の補助席が設けられるほどの人気である。
 プログラムは、ハープだけのために書かれたブリテン作曲の組曲、ヒンデミットおよびクシュネクのソナタ、そして後半が、ハーピストであるサルツェードの3曲であった。
 吉野直子さんの夫と親しいこともあって彼女の演奏はもう何度も聴いているが、これだけハープだけのソロで聴かせてくれる演奏家は、日本では彼女の右の出る者はいないのではなかろうか。

 *

 演奏会が終わったときは、まだ日も暮れていない夕暮れ時だ。
 7日といえばまだ松の内だ。演奏会を聴きにいった学生時代の同窓友人たちと、日枝神社に初詣に行くことにした。
 日枝神社は、サントリーホールのあるアークヒルズの前の六本木通りを溜息に向かい、ぶつかった外堀通りを左に赤坂見附の方に行ったすぐの山王下にある。
 通りに面して鳥居があり、階段の参道を登った先に社殿がある。菊の御紋が目についたと思ったら、ここはかつて官幣大社だった格式上位の神社なのである。
 そして、明治に定められた東京10社に指定されている。

 ちなみに、東京10社とは以下の通りである。
 ・根津神社
 ・神田明神
 ・亀戸天神社
 ・白山神社
 ・王子神社
 ・芝大神宮
 ・日枝神社
 ・品川神社
 ・富岡八幡宮
 ・赤坂氷川神社
 ※白山神社は、多摩市にある神社ではなく文京区白山にある神社である。

 三が日を過ぎたとはいえ、都心の真ん中にある神社だけあって参拝者はまだ多い。賽銭をあげるのに、並ばないといけないほどである。(写真)
 杯にお神酒をいただいた。
 日枝神社といえば、昨年9月におわら風の盆の踊りを見に富山に行ったおり、富山市内を散策しているとき日枝神社に行きついたことを思い出した。そのとき、東京にもあるしどこが本家なのだろうと思ったが、調べたら埼玉県川越市の日枝神社が最も古いようだ。
 しかし、今ではこの東京赤坂の日枝神社が最も有名だろう。東京にあるということは、そういうことなのである。とはいえ、東京の日枝神社がこれだけ人気があるのなら、歴史ある川越市の日枝神社にはもっと注目を浴びてほしいし、敬意が払われないと腑に落ちない。

 *

 日枝神社の裏参道を出て通りに向かって歩いていると、情緒ある少し云われのありそうな塀が目に入った。そこが都立日比谷高校だった。
 僕が受験生の頃、全国高校生の間で燦然と輝いていた超名門高校だ。旧制の府立1中で、ずっと東大合格者は断トツ1位だった。しかし、学校群制度の導入により東大合格者は急激に減少したが、近年復活しつつある。

 日比谷高校と聞いて思い出すのは、「赤ずきんちゃん気をつけて」で1969年の芥川賞作家となった庄司薫だ。庄司は日比谷高校・東大法学部卒の絵に描いたような当時のエリートコースの経歴で、ベストセラーになった一連の薫君シリーズの小説の主人公も著者と同じく日比谷高生である。
 彼は当時人気の美人ピアニストの中村紘子の名を小説の中に登場させ、のちにちゃっかり彼女と結婚してしまった。
 僕は作意的に饒舌で軽薄な文体とした庄司薫の小説はまったく好きになれなかったが(読むのもいやになったぐらいであったが)、「赤ずきんちゃん気をつけて」より10年前の、彼がまだ20歳の時に本名の福田章二で書いた「喪失」は衝撃だった。この小説は、僕にとって20歳の感性の標本となり、その後いつまでも不遜と自己嫌悪の間で揺れ動く僕の前に立ちはだかった。
 庄司薫の本は世間受けするために計算ずくで書いたもので、僕の本質は福田章二だよ、と冷笑しているように思えたものだ。しかし、彼は作家福田章二に戻ることなく、庄司薫を続けることもなく、中村紘子の夫になってしまった。

 日比谷高校の先には議員会館や自民党本部があり、ビルの間から国会議事堂が見える。
 日比谷高校の門が開いていたので入ってみた。この日は土曜日だし、それにまだ冬休みなのか授業は休みのようだ。
 門を入った正面の建物の中央頭部には時計があり、やはり風格が漂っている。その時計は大きさこそそう大きくはないが、東大の安田講堂の時計を想起させるものだ。生徒に、このまま東大へ行きなさいよと囁いているかのようである。門を入ったときから、情操教育を行っているのだ。
 日比谷高生は、このような環境で勉強していたのか?
 僕の通った、素朴な佐賀の温泉町の高校とはずいぶん違うなあ。

 *

 日も暮れてきたので、赤坂に出て昨年の暮れに行って美味しかった鰻屋に行くことにした。新年会を兼ねて、鰻を肴に熱燗の日本酒を飲んだ。
 正月の松の内も明け、今年も始まった。


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風にまかせて、お節料理

2017-01-02 18:37:19 | 気まぐれな日々
  春にのみ 浮かれ惑ひし 来し方の
  惜しむやなかれ 咲き散る春を
                沖宿

 今年の正月は、佐賀ではなく東京・多摩である。
 年をとり、田舎の冬が億劫になってきたのだ。

 毎年のお節料理も、年々簡素になる。豪華なお節料理のセットなど買うことはない。
 蒲鉾と黒豆と昆布巻きで、最低限のお節とする。伊達巻の代わりに茹で玉子。
 もともとカズノコは子だくさんを祝う必要もないので買うこともないし、栗きんとんは糖分節制のため略とする。今年は田作りもなしである。ゴマメよ、ごめん。
 野菜類としてホウレン草のおひたし、豆腐に小ネギをまぶして。
 刺身はカンパチ、エビ。それに握りの鮨で、おしまい。
 テーブルに普段にはない花をかざせば、正月らしい華やかさが出るというものだ。

 もともと日本酒は滅多に飲まないのだが、正月だけは日本酒の瓶を買ってお屠蘇として熱燗で飲んでいた。しかし、年末に少し酒を飲んだので今年はお屠蘇もなしに。とはいっても、酒が何もないのもつまらないので、作り置きしている梅酒を少々持ち出してごまかしてみる。

 今年から、普通の生活にと思っていたのだが、夜型のリズムがなかなか直らず、さあ、年の初めのお節を食べようとしたころには、窓から入る日差しが眩しい。(写真)
 相変わらず、風まかせの日々である。

 *

 正月といえば雑煮である。
 夜は雑煮にしようと台所に立ったが、どうしたらいいか迷いが出た。
 佐賀では、主にダシは鶏ガラで出すのだが、東京のスーパーにはなかったので、とりあえず鶏肉は買っておいた。
 仕方ないので、普通の味噌汁のように鰯の煮干しを使うことにする。鍋は、一人鍋用に使っている雑炊用の釉のある土鍋を使う。
 ダシが煮立ったら、数日前から日の当たる窓辺に置いていたシイタケが適度に干しシイタケになっているのを切って入れる。味にコクが出るだろうという魂胆だ。
 そこに、鶏肉、里芋、白菜、ネギ、蒲鉾、豆腐、ニラ、ワカメを入れ、煮だてる。要するに、あるものを適当に切って入れこんでいるにすぎない。
 これじゃ、雑煮でなく「ごった煮」だ。もう破れかぶれだと、酒粕と醬油を少々加えて味を操作する。僕がよくやる手だ。
 普段は豆板醤やカレー粉などを使うが、今回はいやしくも和の伝統料理の雑煮であるから、それはなしだ。
 最後に、レンジで膨らませた餅を入れておしまいだ。
 この餅は、パックに入っている切り餅で、実は去年の正月用に買ったものである。賞味期限が17年(今年)11月とあるので、残ったのを呑気に放置しておいたものだが、2年近くの賞味期限というのは深く考えると恐ろしい。
 さて、味はコクがあるが出し汁は少し甘い。そうだと、カボスを絞って汁をたらし、佐賀の友だちからもらった手作り柚子胡椒をほんのちょっぴりだが加えると、少し渋みと辛みが出る。
 まあ、雑煮は地域や各家庭でそれぞれ違うというし、「雑(ざつ)に煮る」と書くから、いいだろう。

 *

 去年の初詣は、初めて明治神宮に行き、東郷神社、乃木神社と、日露戦争の名残を周ったのだが、今年は期を見て高幡不動尊に行くつもりである。
 この一日は、まずふらりと地元の白山神社に行った。近いのに、こんな時にしか行かないのだが、本殿の神殿作りの建物の向こうにベネッセの高層ビルが見えるのが、多摩らしい風景を作り出す。

 *

 去年は、様々なことが起こった。
 年の最後の大晦日の日に、古い友人の元東芝EMIのディレクターでユニバーサルミュージックの社長を務めた石坂敬一氏が亡くなったという連絡が入った。
 驚いたのは言うまでもない。
 倒れる前日の12月29日の夜に、僕と彼と、それに二人の共通の友人の3人で、麻布十番の和食屋で、一緒に飲んだばかりだったのだ。そのとき、熱燗の日本酒を飲んだね。
 
 人生は儚い。一夜の夢のようだ。
 期を見て、彼のことは述懐しようと思う。

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