かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 菊次郎の夏

2008-08-30 16:05:57 | 映画:日本映画
 北野武監督・脚本 ビートたけし 関口雄介 岸本加代子 吉行和子 細川ふみえ グレート義太夫 井出らっきょ 1999年

 母ものと言えば、「母をたずねて三千里」のごとく、遠く別れた母をたずねて旅する話が典型だ。この典型的な話を土台に、北野武が子どもを主役に作った映画である。
 「その男、凶暴につき」(1989年)で、一躍映画界の寵児となったビートたけしが、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝いた「HANA-BI」(1997年)に続く作品である。

 小学生の正男(関口雄介)は、夏休みになり、遊び相手もいなくて、やることがない。両親はいなく、育ててくれている祖母(吉行和子)は働きに出て、家には正男だけなのだ。そこで、写真でしか見たことがない母に会いに行こうと決心する。
 そんな正男を見た、お節介で人のいい近所のおばさん(岸本加代子)は、ぶらぶらしている自分の夫の菊次郎(ビートたけし)を、正男と一緒に旅に行かせることにする。
 こうして、正男と菊次郎の母を探す旅が始まる。
 旅行代を手にした菊次郎は、正男を連れてまず競輪場に行く。やみくもに言った正男の数字が大穴を当てることになって、思わぬ大金を手にし有頂天になった菊次郎だが、次の日は、当たるはずもなく結局スカンピンになってしまう。
 仕方なく二人は、ヒッチハイクの旅をすることになる。
 がらっぱちな菊次郎は、思うままに生きてきた子どもみたいな男だった。子どもみたいな大人と子どもの旅が始まった。
 
 旅先での風景や出来事に、日本らしさがよく描かれている。
 菊次郎が盗みに入ったトウモロコシ畑、村の祭り、村のバス停など、温かみのある風景が続く。そして、菊次郎が出会う人間も、社会から逸脱しているが人間味のある男たちである。
 北野武が映画で一貫して描いてきた、人間の内面の暴力性や死生観はこの映画では避けられていて、失われた子供の情緒が、大人の世界に紛れて描かれている。
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□ 切羽へ

2008-08-27 16:56:48 | 本/小説:日本
 井上荒野著 新潮社

 「切羽」とは、坑道の最先端の部分である。穴を掘り進む先頭のところで、ここを担う人間は、ある意味では最も危険な役割といえるし、それだけに自負心も持ち得るだろう。
 「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」

 そして、切羽とは、この本の著者の井上荒野の妹の名前でもある。
 井上荒野は本名で、あの「全身小説家」の井上光晴の娘である。井上光晴は、毀誉褒貶の人であった。
 井上光晴は、長崎の崎戸の島に4年ほど住んでいた。

 崎戸とは、佐世保の沖の小さな島で、かつて炭鉱町として栄えたところである。現在は、観光に力を入れていて、その歴史民族資料館の一角に、井上光晴のコーナーがある。彼は、この地で文学講習会を開いていた。
 崎戸には、炭住(炭鉱住宅)の跡がある。
 炭住といえば、平屋の長屋形式がほとんどであるが、ここは鉄筋の4、5階建てであった。長崎の離島には、鉄筋の炭住が多い。風が強いので強固な建物が必要だったのだろう。
 崎戸の炭住は、窓がくりぬかれ、骨格だけが島の高台に聳えていた。廃墟となったそれは、取り残された建物というより、遠いギリシャやローマの神殿のように厳かに見える。

 本書は、今年前半の139回直木賞受賞作である。
 そして、崎戸(と思われる島)が舞台の小説である。
 主人公は、この島の養護教諭をしているさほど若くはない女性である。絵描きの夫がいる。二人ともこの島で育って、いったん本土へ行って戻ってきた人間である。
 やはり教師である彼女の友だちである色っぽい女性は、本土の妻子ある男と愛人関係にある。
 そこへ、本土(東京)から独身の男の教師が転勤してくる。
 そこで繰り広げられる、小さな波風、小さな嵐の物語である。
 愛の物語であるけれど、生々しい情景が描かれるのではない。淡々と、それは四季の移り変わりのように描かれる。そう、1年の間に起こったことなのである。

 東京で生活したことのある人間は、地方の田舎に帰ってくると、その土地の言葉と標準語を使い分ける。その使い分けが、自分の精神情況を表していて、なんとも象徴的だ。
 標準語で話すときと地元の方言で話すとき、そこに見えないボーダーを引いている。

 主人公の女友だちが、長年続いた愛人との生活を捨て、新しい男と結婚すると言った。しかし、新しい男と別れてしまう。そして、また元の愛人との生活に戻ったあと、主人公に言う。
 「あの人(注:愛人の男のこと)の奥さんのことを、化け物みたいって思っていたけれど、あなたも妖怪ね。妻って人種はきっとみんな妖怪なのね。やっぱり(注:妻になることを)遠慮してよかったわ」
 「妻だからじゃないわ」
 「あらそう? じゃ、何?」、「島の女だから?」
 私(注:主人公の女)は苦笑した。
 「妖怪でも、別にいいわ」

 島でなくとも、小さな町でありそうな、男と女の物語である。男と女の、ふと行き交う情愛の話である。しかし、島であるところが、物語を拡散させずに深みを持たせていると言える。

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□ RURIKO

2008-08-22 19:49:12 | 本/小説:日本
 林真理子著 角川書店

 「RURIKO」とは、女優、浅丘ルリ子のことである。
 浅丘ルリ子は、1950年代後半から60年代、小林旭、石原裕次郎などの相手役として日活で活躍。その後も映画、ドラマ、舞台で活動している、いわゆる大女優である。
 当時日活では、裕次郎、旭、赤木圭一郎などのアクション・ダイヤモンド・ラインに対して、裕次郎と結婚した北原三枝、芦川いづみ、笹森礼子、浅丘ルリ子などの女優陣はパール・ラインと呼ばれていた。
 その後、青春映画路線における吉永小百合、松原知恵子、和泉雅子などの女優陣は、グリーン・ラインと称された。
 浅丘ルリ子は、アクション、文芸映画と日活の全盛期を支えてきた女優である。特にデビュー後、大ヒットした小林旭の「渡り鳥」「流れ者」シリーズのヒロインとして人気を博した。

 彼女と旭に決定的な映画となったのは、小林旭が「渡り鳥」としてアクション・スターとしての地位を確立する前夜の、「絶唱」での共演である。
 旭もルリ子もまだキャラクターが確立しない、会社も二人も暗中模索のときの文芸作品であった。しかし、この映画を期に、二人は映画の上でも個人的にも恋人となる。
 そして、さらに二人の関係を決定づけるのは、「南国土佐をあとにして」である(この映画のロケ先で、二人は初めて結ばれたと記されている)。特に小林旭にとってはこの映画は特筆するべきもので、この映画の大ヒットが、このあとの「渡り鳥」シリーズとなった。
 旭とルリ子の蜜月は、突然とも思える旭と美空ひばりの結婚(のち離婚)によって打ち切られる。
 その後、浅丘ルリ子は俳優石坂浩二と結婚するが、のちに離婚する。

 本書は、浅丘ルリ子の半生である。生存中の有名人の半生というか伝記を、著名な作家が書くのは珍しい。
 芸能人や有名タレントの自伝風の本は、ほとんどがゴーストライターが書いたものである。つまり、本人が書いたことになっているが、実際は本人は一行も書いていなくて、名前の出ないライターが書いているのである。
 元アイドル・タレントの松本伊代がアイドル時代、本を出した。その本について「どういう本ですか?」とインタビューを受けたときだ。「私もまだ読んでいないんです」と答えたという、嘘のようなエピソードがある。
 
 この本の著者の林真理子は直木賞作家で、現在は同賞選考委員でもあり、もう大御所といっていいかもしれない。
 若いときは、恋愛と結婚に憧れる持てない女心を描いて、女性に人気があった。彼女の三高(高学歴、高収入、高身長)に憧れる率直な発言が、若い女性には代弁者に見え、共感を浴びた。
 しかし、地位も名誉も得て、結婚もした彼女は、現在何を書きたいのであろうか? この本で書きたかったのは、何であろうか?

 著者が、この本で柱にしているのは、満映の理事長の甘粕正彦の言葉と、石原裕次郎である。
 甘粕の言葉とは、ルリ子の幼年時代、つまり満州(中国東北部)にいた頃、満映の理事長の甘粕正彦がルリ子の父親に言った「この子は近い将来、とてつもない美女になるはずです。そうしたらぜひ女優にしてください」である。この言葉が、決定的な場面と思わせるところで、しばしば登場する。
 それと、ルリ子の男性遍歴として、小林旭をはじめ何人かが登場するが、結局石原裕次郎が心の奥底に横たわっているというようなことを言おうとしている。
 甘粕も石原も、二人とも超大物である。
 この時代も活躍した舞台も違う、超大物で故人でもある二人を柱に、この浅丘ルリ子という本を組み立てようと著者は考えた、と想像するに難くない。初めての相手小林旭、結婚相手石坂浩二は生々しすぎるし、生存しているうえに別の女性と結婚しているので差し障りもあるだろう。
 さらに、この本では、旭と離婚した美空ひばりも彼女のよき話し相手として登場するのだ。
 この本は、超大物によって構成されているのである。
 話は浅丘ルリ子の幼年時代から、日活時代、そして映画からテレビの時代への変遷と、ルリ子の本名である信子の語りとして、分かりやすく描かれている。
 そして、有名人の自伝のきれい事に終わらず、彼女の恋人のことも時には生々しく書かれている。
 それでも、彼女の実態が浮かんでこないのである。そんな人物なのかもしれないが、なにせ大御所林真理子の筆なのである。
 やはり、自伝は本人が書いたものが最も胸を打つ。もっとも、芸能人、タレントの本にそれを求めるのは至難のことではあるが。
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ほぼ満月の夜の、佐賀の精霊流し

2008-08-16 20:36:34 | * 九州の祭りを追って
 8月15日は、佐賀では精霊流しの日である。
 盆の終わりに、家に迎えた精霊を送り返すのである。提灯をともし、お供え物を携えた飾り舟を川に流す。舟の前方には、どの舟も「西方丸」と書かれている。西の方に極楽浄土があるという言い伝えなのだ。
 わが故里では、有明海に流れる六角川で行われている。この川の川縁は沼のようになった潟で、葦が生い茂っているので、薄暗闇の中、灯りをともした舟が流れると侘しさを漂わせる。
 同じ有明海に流れる嘉瀬川では、久保田町の精霊流しが行われている。それに、この精霊流しに合わせて、この日に花火大会もあるという。
 ほかの町の精霊流しは見たことがなかったので、この日、嘉瀬川に行ってみた。

 嘉瀬川の河川では、バルーンの世界大会も行われているだけあって、川は大きく、すぐ近くに大きな橋も見える。
 薄暮から、精霊舟の流しは行われた。
 日も落ちて、暗闇の中を流れる灯は幽玄の世界である。しかし、今でも自然なままの川である六角川の方が情緒はある。
 とはいえ、この日は、空の上には、雲間にほぼ満月の月が見える。
 空には月の明かり、川には舟の灯りである。

 しかし、何と言ってもこの日の特筆ものは、精霊流しのすぐ後に行われた花火である。
 ド、ドーンと音がして、橋の向こうに花火が上がった。
 その花火を目で追うと、すぐ近くに丸い月が浮かんでいた。火花が四方に舞い落ちた。
 次々と花火は打ち上げられた。まるで、丸い月に向かって打ち上げられたようであった。
 月は、何度も火の粉を浴びた。そして、何度も火の花の中に入った。月の近くに流れる、にわか流星群も出現した。

 この日ばかりは、月は、川に浮かぶ舟の灯りと、空に舞う花の火の介添え役のようであった。

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長崎の魔術師

2008-08-08 15:37:41 | ゆきずりの*旅
 映画「コレクター」の原作で有名なジョン・ファウルズの小説に「魔術師」というのがある。ここで魔術師は、魅力的ではあるが策をめぐらした、いかがわしさを持った人物として描かれている。
 魔術師のめぐらした劇に入り込んだ主人公は、どこまでが現実でどこからが虚構か分からなくなっていく。
 「あれはどの程度まで真実ですか」
 「真実ってなあに」
 「あれは実際にあったことですか」
 「なかったとすると問題なの?」
 「ええ。ぼくにはね」
 「じゃ、そんな不親切なこと、私には言えないわ」

 *

 ミスター・マリックが、最初に登場したときは驚いた。
 いかがわしい印象はあるが、この超能力は本物だと思った。超能力だということを本人も否定しないし、明らかに従来のマジック、手品とは一線を画すものであった。また、かつて超能力者として一世を風靡したユリ・ゲラーのスプーン曲げのレベルとは違ったものであった。
 透視と言って、目隠しをして見ないカードを当てるとか、ハンドパワーと称して、かざした手で物に触れずにそれを動かすなどは、ほんの入り口だった。
 徐々にその能力はアップして、見物者にその場でサインさせたカードもしくはメモ用紙を、まったく別の位置においてあった別のもの(例えば、財布の中とかレモンの中とか)から取り出したり、手の中のコインを瓶の底を突き抜けて中に入れたりして、見るものを驚嘆させた。
 僕は当時、彼の出演した番組をヴィデオで録画して、興奮して家に集まった友人たち3人に見せた。
 僕の興奮をよそに、彼らは意外に冷静で「ハ、ハ、ハ、そんなの実際にはあるわけないでしょ。何かタネがあるんですよ。ほら見てごらん。マリックのこっちの手の動きおかしいでしょう、不自然でしょう。それより、早くマージャンやりましょうよ」と言って、はなから超能力を否定していたのだった。
 そう言われても、僕は納得いかないままであったし、第2次超能力ブーム(超能力ブームは、千里眼と言われた昔からあったが、現代のユリ・ゲラーから数えて)は続いた。ミスター・マリックのトリックを見抜くといった手品師の本も出版され、物議をかもした。
 その後、ミスター・マリックまがいの若手の超能力者もどきが次々に出現して、あまりにも何人もの人間が簡単に超能力的行為をやってのけるので、これらは超能力ではなくマジックなのだと分かってきた。
 ミスター・マリックも自分のやっていることを、次第に超魔術という表現をしだした。
 「魔術」を辞書で引いてみると、人の心を惑わす術のほかに、大きな道具を使ってする手品、とある。
 ミスター・マリックはじめこれら施術者が行う非物理的行為は、超能力ではなく、やはり仕掛けがある魔術、つまりマジック(手品)だったということに、世間の評価も落ち着いた。それでも、謎はそのまま継続されていった。

 現代のブームは、多くがテレビが主導して作られる。
 ありきたりのマジックでは見飽きた視聴者の欲求を察して、マジックの技術はとめどもなく進歩していった。鉄板の車体や、水槽のガラスに無造作に手をねじ込んで、その中の物を取り出したり、ポスターの画面からハンバーグを取り出し食べてみたりと、もはや物理的には起こり得ないことを平気で行うマジシャンも出てきた。
 テレビカメラは前後、横から撮影して、誤魔化しではありませんよとアピールするのだが、そうすればするほど、非現実的であればあるほど、見るものは謎解きを諦めて、逆に少しずつ白けるのだった。
 次々と繰り広げられる物理に反する現象行為は、例えばCMや映画で、かわいい美女が屋根から屋根を飛び跳ねたり、ロボットやアニメのようにくるくる回転したり、何でもコンピュータで自在に創作することができる、CGによる真実味を奪い取った画面操作を想起させた。

 また、近年登場し、新鮮な驚きを与えたのが、舞台の上ではなく、参加者の目の前で行われるテーブル・マジックである。
 至近距離で見ているにもかかわらず、理解不可能なことを平然とやってのけるテーブル・マジックの人気に貢献したのは、普通の格好で普通の容貌をした前田知洋だろう。彼の絶妙な指さばきに加え、これは超能力ではなくマジックですよと宣言しているのも潔い。

 *

 長崎に、有名人も心酔する超能力というか超魔術のようなことをやる人がいると知ったのは、福岡に帰っている知人からであった。
 その話を長崎の波佐見町に住んでいる友人にしたら、彼も見たことはないが知っていて、地元でも有名らしい。彼の話によると、いつもその店の前は人が並んでいて、入るのを待っているとのことだった。
 それで、その友人を誘って見に行くことにした。もちろん、予約を入れてである。
 そこは、佐世保市の南にある川棚駅のすぐ近くの、レストラン喫茶で行われていた。店の入り口の垂れ屋根には、四次元パーラーと書かれている。
 僕たちの予約した夕方4時からの客は、子どもも含めて全部で20人近くであった。地元の人もいたし、福岡から来た人もいた。
 店の中は普通のレストラン喫茶で、カウンターとテーブルの座席数がちょうど定員のようだ。
 超能力というかマジックは、カウンターで行われ、客はそれを囲んで見ることになる。僕たちは、運良くカウンター席のかぶりつきで、施術者の目の前であった。

 最初は、カードや透視に使われる絵カードの、よくテレビでも披露するマジックである(といっても、タネは分からないが)。
 次第に複雑なものになっていった。
 圧巻だったのは、次のコインと瓶の変形である。
 札紙幣(1万円、千円札)とコイン(500円、50円、10円玉)を客から出してもらった。彼が予め用意したものではないという意味で。
 ○500円玉を歯に当て噛んだ。コインは3分の1ほど欠けて、ギザギザに噛まれたコインが手に、欠けた方は口の中に入った。そのコインを触ると、確かにガリガリと欠けている。そして、欠けた2つのコインを合わせて、見る見る口の先でコインを復元した。
 ○平らに伸ばした紙幣に50円玉コインを垂直に当て、コインを押しやると、紙幣の中へ入り込んでいく。びりびりと破けるのではなく、コインが紙幣をカッターのように切り進む。しばらくして、コインを紙幣から抜き取ると、元の切り跡はすっと消えて、元の紙幣に戻っている。
 ○10円玉の平らなところを、指で押した。すると粘土のように押されて少し平たくなった。普通の10円玉と重ねてみると、やはり少し大きくなっている。
 触ってみると、確かに硬く平たい。絵柄も裏表とも、先ほどの10円玉だ。このままではよくないと彼は言って、伸びた10円玉を押さえて、普通の大きさに戻した。

 ○オロナミンCの空き瓶を二つカウンターに並べた。
1つの瓶の首を引っ張ると、首が伸びた。まるでゴムのようだ。並べてあるから、普通の瓶より2センチほど伸びているのが分かる。伸びた瓶に触ってみると、ガラスの瓶で硬い。もう、伸びも縮みもしない。

 これらは、僕の目の前30センチのところで行われた。それに、コインで切った紙幣、伸びたコイン、伸びた瓶に自分で触っても見た。
 カウンターの上には、「スーパー・マジックをお楽しみください」と書かれているので、超能力ではなくマジックなのであろう。
 しかし、まったくその仕掛けは分からない。
 最後は、超能力の定番で原点であるスプーン曲げであった。
 夕方4時に店に入り、食事をし、ショーが始まったのが6時半で終わったのは8時半であった。しかし、ショーが始まったら、あっという間であった。

 何の知識も情報もないときにこれを見たら、超能力と誰もが思うだろう。千年前だったら、これをやる人は神と崇められたかもしれない。
 帰り、友人と二人であれこれ謎解きの推理を働かしたが、その糸口も見つかっていない。
 自分の目で見ないと信じない、自分の目で見たら信じる、という言い方を人はよくする。しかし、現代のマジックは自分の目で見たからといって分かる領域を超えている。
 見たままが真実である、と信じる時代は過ぎ去ったようだ。

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