濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」の原作ということで読んだ、村上春樹の短編小説集。
村上春樹の長編小説は好きだが、今まで短編小説には手を伸ばしたことがない。映画が話題になったので、2014年発売のこの小説も映画に絡めて宣伝されていて、相乗効果で売れているようだ。
この短編集には、「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」、「独立器官」、「シェエラザード」、「木野」、そして表題作の「女のいない男たち」の6遍で構成されている。
共通しているのは、表題の〝女のいない男゛ということであろうが、まったく女がいないというわけではない。いや、むしろ全ての男に女がいる、もしくはいたのである。
*6つの短編小説の概略
「ドライブ・マイ・カー」は、映画の根幹となった物語である。
舞台俳優の男は、亡くなった妻の不倫相手の男と酒を飲みながら妻のことを話しあう仲となる。そのことを、彼の専属ドライバーになった若い女性に語り始める。
それにしても、妻の不倫相手の男が一途に妻への賛美を語る話に、知らぬ素振りで聞いてあげるという主人公の男はいかがなものか?
「イエスタデイ」は、ビートルズの歌からきているが内容に関連性はない。
大学生の主人公の男は関西・芦屋出身で上京してすぐに標準語(共通語)を話したが、同級生の女の子から紹介され親しくなった男は東京・田園調布出身なのにネイティブのような関西弁を話す。「イエスタデイ」に関西弁の歌詞を付けたという、この一風変わった男の話である。
しかし、著者(村上春樹)の出身校でもある早稲田大を目指して浪人中の男が、勉強そっちのけで関西弁習得のために関西に一時住むことまでする熱の入れ方というのは、どういう目的意識なのか?
「独立器官」は、金もあり女にも不自由なく遊んでいる独身中年の美容整形外科医が、突然人妻に恋をし、拒食症になり死んでいった話である。
う~ん、若きウェルテルならいざ知らず、遊びなれた男が陥る穴としては状況描写も意外性を裏付ける物語性も足りていない。
「シェエラザード」は、元は「千夜一夜物語」の登場人物で語り手である。
ハウスに隠れるように住んでいる得体のしれない男のところに、不定期に身の回りの世話とセックスをしに中年の女性が訪れる。その女性はセックスをした後、決まってとりとめもない物語をして帰っていく。
映画「ドライブ・マイ・カー」では、主人公の妻がセックスのあとに物語を語るという、「シェエラザード」の役目を付加している。
「木野」は、主人公の男の名前で、妻に不倫されたことで会社を辞めたあと、その名のジャズバーを開く。
店には、黙って一人酒を飲む男、いわくありげなカップル、やくざ風な二人組の男などがやってくる。ところが、ある日、主人公の男は店を閉めて遠いところに旅に出なくてはならなくなる。
この小説が最も村上文学らしいパラレルワールドを感じさせるが、いかんせんショートストーリーのためか、長編小説に見る深淵の向こう側を想起・彷徨させるに至らず物語を終わらせている印象だ。
「女のいない男たち」は、表題作のために書いたという作。つまり、あとがきのような小説だ。
主人公の男は真夜中の電話のベルで起こされ、知らない男性から、「妻は先週の水曜日に自殺をしました、なにはともあれお知らせしておかなくてはと思って」と言われる。自殺した女性は主人公のかつての恋人で、ずっと昔別れた彼女との恋に男は想いを馳せる。
物語のようなものはなく、ここでは、女のいない男、つまり、著者による女と別れた男のあり方が語られる。
著者が言いたかったことは、
「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」
「……そして、ひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように」
*
女のいない男たちとは、私のことか?
いやいや、遠い昔のことだ。絨毯に赤い染みはいくつもある。
こんな夜は、リムスキー・コルサコフの交響組曲「シェラザード」(CD表記)を聴いて寝るとしようか。
村上春樹の長編小説は好きだが、今まで短編小説には手を伸ばしたことがない。映画が話題になったので、2014年発売のこの小説も映画に絡めて宣伝されていて、相乗効果で売れているようだ。
この短編集には、「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」、「独立器官」、「シェエラザード」、「木野」、そして表題作の「女のいない男たち」の6遍で構成されている。
共通しているのは、表題の〝女のいない男゛ということであろうが、まったく女がいないというわけではない。いや、むしろ全ての男に女がいる、もしくはいたのである。
*6つの短編小説の概略
「ドライブ・マイ・カー」は、映画の根幹となった物語である。
舞台俳優の男は、亡くなった妻の不倫相手の男と酒を飲みながら妻のことを話しあう仲となる。そのことを、彼の専属ドライバーになった若い女性に語り始める。
それにしても、妻の不倫相手の男が一途に妻への賛美を語る話に、知らぬ素振りで聞いてあげるという主人公の男はいかがなものか?
「イエスタデイ」は、ビートルズの歌からきているが内容に関連性はない。
大学生の主人公の男は関西・芦屋出身で上京してすぐに標準語(共通語)を話したが、同級生の女の子から紹介され親しくなった男は東京・田園調布出身なのにネイティブのような関西弁を話す。「イエスタデイ」に関西弁の歌詞を付けたという、この一風変わった男の話である。
しかし、著者(村上春樹)の出身校でもある早稲田大を目指して浪人中の男が、勉強そっちのけで関西弁習得のために関西に一時住むことまでする熱の入れ方というのは、どういう目的意識なのか?
「独立器官」は、金もあり女にも不自由なく遊んでいる独身中年の美容整形外科医が、突然人妻に恋をし、拒食症になり死んでいった話である。
う~ん、若きウェルテルならいざ知らず、遊びなれた男が陥る穴としては状況描写も意外性を裏付ける物語性も足りていない。
「シェエラザード」は、元は「千夜一夜物語」の登場人物で語り手である。
ハウスに隠れるように住んでいる得体のしれない男のところに、不定期に身の回りの世話とセックスをしに中年の女性が訪れる。その女性はセックスをした後、決まってとりとめもない物語をして帰っていく。
映画「ドライブ・マイ・カー」では、主人公の妻がセックスのあとに物語を語るという、「シェエラザード」の役目を付加している。
「木野」は、主人公の男の名前で、妻に不倫されたことで会社を辞めたあと、その名のジャズバーを開く。
店には、黙って一人酒を飲む男、いわくありげなカップル、やくざ風な二人組の男などがやってくる。ところが、ある日、主人公の男は店を閉めて遠いところに旅に出なくてはならなくなる。
この小説が最も村上文学らしいパラレルワールドを感じさせるが、いかんせんショートストーリーのためか、長編小説に見る深淵の向こう側を想起・彷徨させるに至らず物語を終わらせている印象だ。
「女のいない男たち」は、表題作のために書いたという作。つまり、あとがきのような小説だ。
主人公の男は真夜中の電話のベルで起こされ、知らない男性から、「妻は先週の水曜日に自殺をしました、なにはともあれお知らせしておかなくてはと思って」と言われる。自殺した女性は主人公のかつての恋人で、ずっと昔別れた彼女との恋に男は想いを馳せる。
物語のようなものはなく、ここでは、女のいない男、つまり、著者による女と別れた男のあり方が語られる。
著者が言いたかったことは、
「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」
「……そして、ひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように」
*
女のいない男たちとは、私のことか?
いやいや、遠い昔のことだ。絨毯に赤い染みはいくつもある。
こんな夜は、リムスキー・コルサコフの交響組曲「シェラザード」(CD表記)を聴いて寝るとしようか。