かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大師線で行く、川崎大師

2020-01-15 04:26:50 | * 東京とその周辺の散策
 *初詣の人気の寺社

 すでに、いつしか松の内も過ぎてしまったではないか。
 ぼうっとしていると、誰かに叱られそうだ。一応、正月を振り返っておこうと思う。

 1月1日の地元多摩市の白山神社に次いで、3日、初詣に川崎大師(平間寺)に行った。
 川崎大師(神奈川)は、明治神宮(東京)、成田山新勝寺(千葉)に次いで初詣参拝者数300万人超えの人気神社である。
 正月3が日の初詣参拝者数は主催者側の発表もあるが、正確性となると判断が困難なためか2009年以降、警視庁は発表をやめている。
 人数や順位は主催者発表以外にも調査機関や報道機関によって多少の差異があるが、上記のベスト3は、近年ほゞ不動だ。
 年によって多少順位の変動はあるが、全国初詣人出ランキングを概略的に見た4位以下の順位を参考までにあげてみよう。
 4位.浅草寺(東京)、5位.伏見稲荷大社(京都)、6位.鶴岡八幡宮(神奈川)、7位.住吉大社(大阪)、8位.熱田神宮(愛知)と、上位には有名な寺社が並ぶ。

 そもそも「初詣」という呼び名と習慣が生まれたのは、明治に入り鉄道の発達、東海道線の開通により、寺社に行くのが便利になったのが大きな要因で、それも川崎大師によって広く普及したといわれている。
 それにより、初詣に行くための鉄道の路線も生まれたのだ。

 *もう一つの大師線

 多摩から小田急線で登戸へ出て、JR南武線で午後2時過ぎに川崎駅へ。
 ここで湘南の士と落ちあって、京急川崎駅より川崎大師へ行くため「大師線」に乗り換えた。京急「大師線」は、京急川崎駅より小島新田までの4.5キロで、川崎大師駅は、その中ほどにある。

 若いとき、2年間東武伊勢崎線の西新井(東京都足立区)に住んだことがある。都心(日比谷線連結)から北へ向かった電車は、西新井の次が竹ノ塚でその先はもう埼玉県の草加市である。
 その西新井から盲腸のようにポツンと伸びた電車の路線があった。それが、同じ「大師線」であった。それは、西新井から西新井大師までたった1駅、約1キロの、東武「大師線」である。
 西新井大師(總持寺)は、初詣のときは混みあうが、普段は参拝者もめったに見うけない静かな寺だった。僕は休みのときなど、その地方の田舎にあるような西新井大師にふらりと散歩に出向いたりしたものだ。
 川崎大師と西新井大師、この2つの大師は、弘法大師(空海)に因んだ寺である。そして、ともに大師線で行く寺である。いや、大師線を作った寺といっていい。

 *想像をかきたてる「大師線」の駅

 初詣で有名な川崎大師であるけど、行くのは初めてである。
 京急川崎駅から、京急「大師線」に乗って川崎大師に向かう。やはり、初詣客で人がいっぱいだ。
 混雑した車内で立って、ドア上に掲げてある路線図を眺めていた。初めて乗る路線は、駅名すら新鮮だ。
 「京急川崎」の次は「港町」である。
 「港町」とは、歌に出てくるような名前である。かつてはこの辺りまで、海がきていたのだろう。僕などは、美空ひばりの「港町十三番地」や森進一の「港町ブルース」の歌を思い出してしまう。
 と思って、「日本鉄道旅行地図帳」(関東2)を見たら、港町になる前の駅名は「コロムビア前」である。レコード会社の日本コロムビアは、もともとは明治期に川崎で設立され、その後この地に工場があったのだ。
 次の駅は「鈴木町」である。
 人の名字のような駅だなあ、と言うと、士が、確かこの辺りに味の素の会社があったはずです、と言った。
 ん! 味の素と関係がある? となると、味の素の創業者が鈴木さんだったのだろうか。
 「日本鉄道旅行地図帳」を見ると、なんとこの名前になる前の駅名は「味の素前」である。そして、味の素創業者は鈴木三郎助で、かつて鈴木商店といった。確かに、この辺り一帯が味の素の街なのだ。
 次が「川崎大師」であるが、「東門」の次は「産業道路」である。
 産業道路という鉄道の駅名は珍しい。と、良いのか悪いのか分からないネーミングに、多分こうだったんじゃないだろうかと駅名決定の瞬間を想像していたら、この3月に「大師橋」駅に改名するそうだ。
 それにしても、京急はよく改名するものだ。
 短い路線だが、川崎大師と産業道路が結ぶ工業地帯ということを物語っている、川崎の象徴のような名前が並ぶ「大師線」である。

 *縁日のような「川崎大師」の初詣

 「川崎大師」駅を出ると、すぐに大師への表参道のアーチが目に入る。横浜中華街の「牌楼」を簡略化したような門である。
 参道の左右には、まるで縁日のように様々な店や屋台が並ぶ。まあ、初詣の3が日も縁日のようなものだ。
 焼きそば、お好み焼き、唐揚げ、イカ焼き、今川焼、串焼きなどの屋台定番から、菓子やスイート類、はたまた神戸牛や佐賀牛などのブランド牛の焼肉、ケバブなども目につく。
 つまり、ありとあらゆる店が並んでいる。
 そのなかで、「厄除 揚げまん」の旗をあげて売っていたマンジュウ屋が、気になった。厄除か、う~ん、大胆でストレートだ。といっても、気にしている人はいないようだったが。いや、声を出して言ってはいけないと思っていたのかもしれない。
 出店が並ぶ表参道を右折する。この日は交通規制で一方通行となっていて、仲見世通りを過ぎて、通りの先の道から境内に向かう。
 予想していた以上の大渋滞で、なかなか進まない。初詣全国3位の人出だけのことはあると、妙に感心した。
やっと大山門のところに来たが、ここでも待機させられる。
 大山門をくぐると、正面の煙がたちこめている献香所の先に本殿がでんと構えている。やっと、本殿までたどり着いたという感じだ。表参道に入ってから約1時間である。普段なら10分もかからなく着くだろう。
 本殿で何とか参拝したあと、境内の八角五重塔と弘法大師像を見て、再び大山門に戻る。そこから、帰りは仲見世通りを歩くことに。

 「仲見世」通りといえば浅草が有名だが、この通りも、いろいろな店が並んで楽しい。(写真)
 歩いていると、トントントンとリズミカルな音がする。近くまで行くと、調子をとるようにまな板を包丁で叩いているのだった。その前では、実際に長く延ばした飴を、トントンと包丁で細かく一定の大きさに切っている。
 のど飴だ。のど飴の店が何軒も軒を並べているのだから、ここの名物なのだろう。音を出しているエア飴切りは、客呼び込みのパフォーマンスによる効果音なのだ。

 *横浜・中華街の東北料理

 仲見世通りを出て、再び表参道を歩いて川崎大師駅に戻った。
 そこから川崎駅に行って、JRで横浜・石川町に行った。
 石川町の駅を出ると、すっかり暗い。歩いたおかげで腹もすいたので、この日のもう一つの大きな目的地である横浜・中華街へ。
 中華街といえば、士と行く恒例の東北料理店である。つまり、味わい深い満州料理なのだ。
 他店にはあまりない蛙や蜂の巣料理も前に食べたし、羊の肉や水餃子も美味い。味が濃いきらいはあるが、寒い冬には格好の料理が揃っている。
 中華料理は、つい食べ過ぎるようだ。次は今回食べそこねた鍋料理をと、胃袋は言っている。
 他人が食べているのを見ると、食べたくなるものだ。

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令和初のお節料理

2020-01-03 02:38:48 | 気まぐれな日々
 残り香に ゆくえ問えども 憂き身にて
      風に悩める 花も散りしや
              ――沖宿

 *雨に悩める海棠

 去年(2019年)の晩秋、小津安二郎監督の「秋日和」(1960年作)という映画(録画)を見ていたとき、ふとした台詞に引っかかった。
 この作品も、後期小津作品に欠かせない戦後を代表する原節子主演の映画である。
 僕は小津の映画にはまったく興味をもてなかった。若いときは、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、アラン・レネなどのフランス・ヌーヴェルヴァーグに酔っていたし、日本人の作品にしても大島渚、吉田喜重、篠田正浩などの映画が好きだった。
 小津作品に対しては、どうしてたいした事件も事故も起きないあんな映画がいいのだろうと思っていた。だいたいにして、タイトルからして「青春残酷物語」や「涙を、獅子のたて髪に」などの血が沸きたつようなのに比べて、何とも穏やかなものばかりだ。
 ところが、年をとると嗜好も少し変わるものである。血の滴るようなビフテキもいいが、秋刀魚の味もいいものである。そのうち、お茶漬の味もよくなるかもしれない。

 「秋日和」は、原節子とまだ若い司葉子が共演するというので期待したのである。
 司葉子は、高校時代、当時の現代文と漢文の国語教師が「日本で最もきれいな女優は司葉子である」と、授業中も公言してはばからなかったので、僕らはその話題になると授業の内容も一時横に置いて、教室はざわめいたものである。
 戦後三四半世紀、幾多の美人女優が生まれては消えていったが、最近、演技は差し置いて、確かに司葉子は5本の指に入る美人ではなかろうかと、思うのである。

 この「秋日和」は、原節子は司葉子の母親という役である。映画公開時、原は40歳、司は26歳である。親子の年の差に無理があるが、原が落ち着いた雰囲気なので違和感はない。
 原節子は夫を亡くした未亡人で、会社勤めをしている年頃の娘が司葉子である。
 原の夫の七回忌に集まった、夫の学生時代からの友人、佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人は談笑するうちに、原の年頃の娘の結婚を何とかしようということになる。
 しかし、娘の司は彼らの薦める結婚話になかなか乗り気にならない。そこには、同居している母親の原の存在を気にしてのことだったことがわかる。
 その中年男3人の、会話のなかのことである。
 年頃になった娘は、確かにきれいだ。そうはいっても、かつて彼らの憧れのマドンナであった母親の原の美しさも一向に失われていない、と3人はついつい嘆息するのである。そして、そのなかの一人が呟く。
 「…あんなのを言うんだね、雨に悩める海棠って」

 海棠(かいどう)は瑞々しい花である。細長い茎をもった大きな桜のような花びらが、少しうな垂れているように揃って咲いているさまは、奥ゆかしく謙虚なのだが美しさを隠せない美人を思わせる。
 九州の田舎の、山里の木々の茂みの中で初めてそれを見たとき、僕は立ち止まってしばらく眺めていた。家に帰って、すぐに植物図鑑をめくったのだった。

 男の何気なく呟いた「雨に悩める海棠」という言葉が、僕の心の中に立ちどまった。
 それが、冒頭の新年の歌のなかに、「風に悩める花」という言葉として残った。
 前文が長くなったが、それを言おうとしただけのことである。

 *令和新年のお節料理

 元号は数え年の計算だから、令和になって初めての正月だが、またたく間に「令和2年」である。だから、令和元(1)年の正月は存在しなかった。
 新年、起きたらいい天気である。
 新年、最初にかけた音楽は、ベートーベンのヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」。まずは、明るい曲で始めよう。明るい年になるとは限らないから。

 さて、令和になっても、いつものように「一人お節」を始める。
 まずは、正月にしか買わない「蒲鉾」、「竹輪」と鮭の「昆布巻き」を切って並べる。それに、「田作り」として、どうせカタクチイワシと同類だからと大きめのウルメイワシで。
 これで、何となく新年のお節の基礎ができたような気がする。
 これに、雰囲気をつけるために「茹で卵」(2個)を切って並べる。野菜類は、ホウレン草の「おひたし」と「カボチャ煮」で済ます。それに、ついでに「湯豆腐」を加える。
 恒例の「刺身」は、本マグロとクジラ肉。
 う~ん、料理らしいものは何もない。今年は、さらに手抜き料理となった。有田の器と生け花で、正月らしさを粉飾した。
 酒は、やはり正月しか買わない日本酒で、これもここ最近恒例の「越乃寒梅」で。「屠蘇」(とそ)を入れるのも、正月特例だ。
 手抜きついでで、今年は雑煮も抜きにした。いかん、いかん!

 *初詣は、多摩の「白山神社」と、「川崎大師」へ

 日も暮れた頃になってしまったが、まずは多摩センターのサンリオ・ピューロランド近くの「白山神社」へ、地元の仁義として「初詣」へ出向いた。
 去年は明るいうちに行ったので、参道の階段下まで行列ができていたほどの人垣だったのだが、もう世間では夜なので、お御籤などを売っている神社の窓口も閉められていて、参拝客も寂しいほどいない。

 1月3日に(今日だが)、初詣という言葉が最初に使われたといわれている「川崎大師」に、参拝に行く予定である。初詣では関東では人気の寺で混んでいそうだが、初めて行く寺なので楽しみである。
 何か所行っても、初詣は初詣なのである。

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