かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎は、今日は晴れだった

2018-11-22 01:56:41 | * 四国~九州への旅
 肥前 長崎 港町
 異人屋敷のたそがれは
 何故かさびしい振袖人形
   「長崎の蝶々さん」(作詞・作曲:米山正夫)

 長崎をうたった歌は多い。
 「長崎は今日も雨だった」(内山田洋とクール・ファイブ)や、「長崎の鐘」(藤山一郎)、「長崎の女(ひと)」(春日八郎)、「長崎ブルース」(青江三奈)などはよく知られた歌だが、ここにあげたのは美空ひばりが1957(昭和32)年に歌った「長崎の蝶々さん」。
 プッチーニのオペラ「蝶々夫人」(Madama Butterfly)の舞台となっているのが長崎である。おそらく、蝶々さんが夫ピンカートンの帰りを信じて港を眺め続けたところは、丘の上の外人居留地、グラバー邸のあたりだったのだろう。
 プッチーニの「ある晴れた日に」の軽快な歌とは異なり、ひばりは少し哀愁を滲ませながらもコケティッシュに蝶々さんを歌っている。

 *再び長崎をさるく

 11月10日、長崎にやって来た。
 長崎に住む、佐賀の中学時代の同級生と長崎の街を歩いた。
 「この年になったら、今度というのは来るかどうかわからない。だから、会えるときに会っておこう」との標榜のもと、長崎在住の女性4人と男性は僕1人による、2017年3月以来、同じメンバーによる1年8か月ぶりの長崎散策である。
  →blog「長崎は、今日も雨だった」(2017-4-13)
 その1週間前、古くなった実家の整理のため佐賀に帰っていた。(このことは後で書くことにしよう)

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたからというわけではないが、大浦天主堂とその近辺のグラバー邸を、もう一度改めて見てみようというのが一つの目的であった。

 佐世保線在来線で肥前山口駅へ。肥前山口駅から特急「白いかもめ」で、有明海をなぞるように走ること約1時間余、昼頃長崎駅に着いた。
 駅を出ると、外はうっすらと絵の具を溶かしたような青空が雲一つなく広がっていた。

 *「出島」から「大浦天主堂」へ

 長崎駅から港に沿うように南下し、まず大波止の先の「出島」に行った。
 出島は、新しくシンプルだが流線形の表門橋が架けられており、島の構内は再現された街並みがきれいに整備されて、逆に情緒を消し去ったようだった。

 出島を出たあと、さらに南の方へ向かい、本命の「大浦天主堂」へ。坂の上に姿を現した尖頭アーチを持ったゴシック調の白い大浦天主堂は、絵のように美しい。現存する、日本最古のキリスト教関係建築物である。
 (写真)
 最初の天主堂は、江戸時代末期の1864(元治元)年末に完成している。そして、翌年の1865(元治2)年、250年に到る弾圧下、潜伏していた隠れキリシタンの出現である「信徒発見」がなされた。
 その後信徒の増加に伴い、大浦天主堂は1879(明治12)年に現在の形に増改築された。

 ゆっくりと階段を登り天主堂に行きつくと、堂内ではちょうど結婚式が行われようとしていて、白いウェディングドレスの花嫁とタキシード姿の花婿がいた。最初はドラマか雑誌の撮影かと思ったが、そうではないようだ。
 とりあえず、堂内に並べてあった長椅子の式関係者の後ろに座った。ところがしばらくすると、これから式が行われるというので、奥のステンドグラスのところへは行けないまま、早々に退去せざるを得なかった。
 やれやれ、珍しい結婚式というめぐりあわせが、良かったのか悪かったのか。

 ちなみに、前回の長崎散策のときに行った平和公園近くの「浦上天主堂」は、1879(明治12)年に最初の聖堂が、1914(大正3)年に大聖堂が完成した。しかし、1945(昭和20)年の原爆投下によって爆心地にあった浦上天主堂は倒壊し、1959(昭和34)年に新しく建て直された。

 *「グラバー邸」から長崎の港へ

 大浦天主堂を出ると、道は「グラバー邸」に繋がっている。
 なだらかな坂に沿った丘の上には、グラバー邸をはじめいくつかの居留外人用の建物が散在していて、その一帯がグラバー園となっている。1863(文久3)年に建てられたグラバー邸は、現存する日本最古の木造洋風建築である。
 園の全体が坂になっているのだが、敷地内には、動く歩道があるから疲れる心配はない。
 ここからは、長崎港がよく見える。
 港の前に、巨大なホテルかマンションが横たわっていると思ったら、停泊している大型クルーズ客船だった。 いつの間に、客船はこんなに大型化したのだろう。

 グラバー邸をあとにして、長崎港内につくられた「水辺の森公園」へ行き、ちょっと一息つくことにした。
 グラバー邸から見えた巨大客船が目の前にある。建物として見ても大きい。それが、海の上に浮いているのだ。船体に「Quantum of the Seas」(クアンタム・オブ・ザ・シーズ)とあった。
 ※後で調べてみたら、総トン数:167,800トン、全長:348m、全幅:41mという大きさである。それで人間の数はというと、旅客定員4,180人、乗組員1,500人。合計5千数百人ということは、小さな町の人口に値する。

 「港には、大体いつも、こんな大きな船が泊まっているわね」ということだった。
 長崎は、歌のなかだけでなく、紛(まご)うことなき港町なのだ。

 *「新地中華街」で夕食を

 ようやく日も黄昏てきて、お腹がすいてきた頃だ。
 港の「水辺の森公園」を出て、「新地中華街」に夕食を食べに行くことに。
 長崎の中華街は、横浜中華街に規模は及ばないものの、チャンポン、皿うどんなどこの地特有の美味しいものがある。この新地の隣に、銀座ならぬ銅座町があるのも粋な感じだ。
 近くの小さな通りに、知る人ぞ知るといった雰囲気の小さな店を見つけた。ふと入りたい誘惑にかられたのだが、今回は5人ということもあり、中華街で最も有名な「江山楼」に行くことで全員一致。
 長崎の中華街にも、中華街特有の中華門(牌楼)がある。門に「長崎新地中華街」と書かれた文字が、左からの横書きなのが、建てられた時代が比較的新しいと知ることができる。
 江山楼・中華街本店は、老舗らしい雰囲気を持っている。ここ江山楼には、「くんち」を見に来たときに何度か入って、フカヒレの入った特上チャンポンを食べたが、この日は全員でシェアできる中華料理の特性を活かして、一品料理を頼むことにする。
 注文した料理は、中華料理の定番といえる以下のもの。
 青椒牛肉絲、海老のチリソース炒め、麻婆豆腐、焼売、春巻き、ビーフン、炒飯である。
 すべてが洗練された味だ。

 いつしか、長崎の夜は更けていく……時はいつでも、どこででも、誰にでも、律義に過ぎていくのだ。
 夜のとばりの下りるなか、帰りの特急「白いかもめ」に乗り、再び佐賀に向かった。
 また、いつ長崎に来ることになるのだろうか? という思いが、走る列車とともに胸に去来した。

コメント
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