かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

桜散るなん、皇居内に初めて入って見る「乾通り」の花見

2014-04-09 02:32:10 | * 東京とその周辺の散策
 桜の季節、東京での桜といえば千鳥ヶ淵に勝るものはないと、いつもここに花見に行っていた。桜が咲き誇る千鳥ヶ淵の堀を挟んだ皇居の土手にも競うかのように桜が咲き誇り、桜花と堀の水と空の青の織りなすその様は、まさに桜の絶景といえる。
 今年も、4月1日、古い友人たちと靖国神社から千鳥ヶ淵への花見散策を行い、皇居沿いに歩いて日比谷に出た。その日、桜は満開であった。

 今年、天皇陛下の傘寿を記念して、初めて皇居内の乾通りの桜を4月4日から8日まで一般に公開するというので、この機会を逃してはならないと思い、行くことにした。
 二重橋の隣の坂下門から入り、約650メートルの乾通りの約80本の桜が植えてある道を歩き、乾門に出るという皇居内を南北に縦断するものである。開門時間は午前10時から午後4時までで、3時が入門締め切りである。
 初日の4月4日(金)は、開門時間前から入口の坂下門には行列ができ、予想以上の訪問者で入門の締切り約1時間前に、門を閉めたと報道された。翌日の新聞報道では約5万4千人が訪れたとあり、テレビ・ニュースでの紹介や新聞報道もあって、翌日以降の週末の土、日曜日はさらなる大勢の人の来訪が予想された。

 *

 4月7日(月)は、平日であるから少しは混雑は緩和しているだろうと思い、この日出かけた。
 地下鉄の二重橋駅に着いたのが午後1時50分、出口を出て皇居の方を見るとすでに人垣が見え、あちこちに警察官が立っていた。二重橋の前にも人が並んでいる。見渡すと、地下鉄の出口からずっと坂下門まで続いているのだった。
 坂下門の前では、二重橋方面からと反対側の大手町側からの行列の一本化が行われ、先の門の前は細くなっているので入場調整が行われていているようで、少し待たされた。
 このような体験を最近したなあと思ったら、去年の夏、隅田川花火大会の時に浅草の吾妻橋で並んだことを思い出した。あの時は、途中から大雨が降って大変だった。
 また、一昨年夏の国会議事堂前の脱原発のデモ集会でも、熱い人の波の混雑状況だった。
 知らぬ間に、いくつもの季節が通り過ぎている。時が過ぎるのは速いものだ。

 坂下門の前で、簡単だが手荷物の検査を行っていた。まるで、飛行機に搭乗する時のようだ。
 坂下門内に入ったときは、2時半だった。人は多いが、予想していたよりも待ったわけではない。来ている人を見ると、平日ということもあってやはり中高年が多いが、若いカップルや外国人もかなり見受けられる。
 坂下門を入ると、すぐに頑強そうな建物の宮内庁庁舎があり、そのまま乾通りに連なっていた。道りは、すでに人でいっぱいだ。
 人混みは、亀のようにゆっくり進んでいく。みんな写真を撮りながら進むので、止まったり歩いたりである。婦警を含めた係官が、止まらないで進んでください。後ろからまだたくさん人が来ていますから、と叫ぶ。無理な話だ。
 通りの両サイドには松や様々な種類の木に紛れて桜が花を咲かせていて、まだ散るのは控えてくれていた。
 通りの右手には木々の奥の蓮池濠の先に東御苑の石垣が続いていて、ここがかつて江戸城内だったのだと改めて教えてくれる。
 
 乾通りをほどほど進むと、左手に道灌濠(どうかんぼり)があり、その周辺はいまだ手つかずの自然の風景のようだ。見事な桜も今が盛りのように咲いている。ここが、最も見どころの場所なのだ。(写真)
 ここでは、警備の中年の警官が「私が司令長官です。ここで写真を撮ってください。記念の写真は1枚で、10秒間です。10秒たったら後ろの人と交代しましょう。あとは心の写真を撮りましょう」などと、隅田川花火大会の時のDJポリスのように、マイクで話している。

 道灌濠の道灌は、言わずと知れたこの江戸城を築いた太田道灌に因んだ名である。
 ある日、道灌が出先で雨にあった。蓑を借りようと農家に立ち寄ったところ、そこの娘から山吹の花を渡されたという話の、「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」の歌のごとく、ここ道灌濠にも何と黄色い山吹が咲いているではないか。

 道灌濠を過ぎると、右手に東御苑に続く西桔橋が見える。橋を渡り、そのまま東御苑に出ることもできるが、普段は通ることができない乾門から出ることにした。
 乾門を出て、東御苑に入った。ここに入るのも初めてだ。
 すぐに、オーストラリアのエアーズロックのように、でんと構えた天守台の石垣に出くわしたので、そこに登った。こんなところに、江戸城の天守閣はあったのか。ここから、大手町や日比谷が見える。
 その東御苑から大手門に出て、皇居をあとにした。
 東京駅はすぐだ。
 今年の東京の桜は、そろそろ終わりだ。
 もう散っているかと思った皇居の桜も、開門期間中の4月8日までは散らずに待っていてくれそうだ。

 翌8日のニュースによれば、この日の7日の皇居乾通りの参訪者は約9万人で、開門期間の5日間の合計は38万5千人とのことであった。
 皇居乾通りは、今秋の紅葉の季節にも一般公開する予定だという。

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メジャー前夜の「タモリ」

2014-04-01 02:22:31 | 気まぐれな日々
 「笑っていいとも!」が今年2014年3月31日でもってフィナーレを飾った。番組が始まったのが1982年で、その間32年余8054回を数え、タモリが司会をし続けてきた。
 黒柳徹子の「徹子の部屋」も、1976年開始という長寿番組だが、こちらは週1回で録画放映であるのに対し、「森田一義アワー 笑っていいとも!」は、月曜日から金曜日までのウィークデー毎日で、しかも生放送であるということからして、タモリの司会出演は異例のことといえよう。
 生放送バラエティ番組における、「笑っていいとも!」は放送回数最多記録で、タモリ(森田一義)は単独司会最多記録でギネス認定となった。
 
 表舞台に出てきた当初のタモリは、あやしい外国語もどきのハナモゲラ語や下着1枚でのイグアナ芸などによってマニア受けする、少し異端の夜の顔であった。そのタモリが昼間の帯番組の司会者として出てきたことに、のちに本人が「江頭2:50」が出てきたような感じだったと語っているように、当初は本人にも周囲にも戸惑いの雰囲気があった。
 僕も当時、昼の「笑っていいとも!」の司会者として登場した時は、タモリもついに牙を抜かれ、普通の芸人になったか、と少しがっかりした感じを持ったものだ。そんなに長くは続かないだろうと当初は思われていたものが、安倍晋三現首相から国民的番組といわれるまでの人気で長寿の番組となっていったのだ。
 自他ともに異端と思われていたものが、いつの間にか社会の風潮に溶け込んでいき、見る者をそこに馴染ませていったタモリ。しかし、「笑っていいとも!」がこんなに長く続くとは、本人も予想しなかったことに違いない。
 継続は力なり、である。そのことだけでも非凡である。
 
 タモリの偉大さは、ゲストに迎える人間に対して、子役から外国人の大物や政治家にいたるまで、同じスタンスで接していたことである。誰に対しても、タモリらしさを持っていた。
 新宿アルタの会場に集まった100余人を相手にしゃべっている番組仕立ては、実はカメラ(テレビ)の向こう側のすべての人間に向かっているかのようになっていて、それだからテレビを見ている人間は、自分に話しかけられているかのように思っていたのだ。
 こうして、昼の12時から1時まで「笑っていいとも!」は、いつも昼にあるものとして存在してきた。長く続くあいだに、いつしかタモリはその人間性とともに、すっかり親しみのある人間となっていった。

 *

 それまで密室芸として山下洋輔や赤塚不二夫などの周辺にしか知られていなかったタモリが、マスメディアの表舞台に現われたのは1976年のことである。それでもまだ、知る人ぞ知る存在だった。
 1976年末のことだったと思う。その頃、僕は今はない男性雑誌(メンズ・マガジン)の編集者だった。音楽欄も担当していたので、レコード会社の人間とは接触が多かった。
 ある日、東芝EMIの宣伝部の人が、面白い人間がいるんです。このレコードを聴いてくださいよ、と言って、1枚の試聴盤アルバムを持ってきて、男性を紹介した。
 その男がタモリだった。タモリ、30歳ちょっとの頃だ。
 僕がタモリに会ったのは、その1度きりだ。新宿の喫茶店だったと思うが、詳しいところは忘れてしまった。
 僕も人見知りはあまりしない方だが、彼は初対面だがとてもくだけていたし、親しみ感があった。
 出身は福岡ですか、僕はその隣の佐賀です、と、僕は言ったのだろう。
 いや~、そうですか。同じ九州出身のよしみでタバコを一本いいですか、と言ったタモリの人懐っこい声が忘れられない。
 ああ、どうぞ、どうぞ、と僕は言って、二人でタバコを吸った。
 当時は、今みたいに健康云々という風潮はなく、タバコはほとんどの成人男性は吸っていたし、友人同士のタバコの貰い吸いは当たり前のことだった。

 アルバムは男の芸名と同じ「TAMORI」で、一般的に言うところの音楽のレコードアルバムではなく、パロディーやお笑いの語りで、今までにない新鮮なものだった。
 アルバム発売が77年3月で、その前に雑誌(「サンジャック」77年3月号・1月25日発売)にジャケット写真の紹介記事を載せたのが、ここにあげた写真である。レコード会社の話によると、いろいろクレームがついているので発売日もまだ決定していないといった感じだった。
 それでだろう、記事のタイトルは「噂のタモリ、幻のレコードか?」というタイトルとしている。
 記事内容も、「タモリといえば、一人で何役もこなす噂の伊達男だ。その彼の語りがレコード化されたが、あの有名な「北京放送」が中国大使館よりクレームがついた。歪んだ中国観を伝えるというもので、米中韓ベトナム人による「四ヶ国親善麻雀」もあぶないというから発売はどうなるか?」となっている。
 マスメディアに出たときのタモリは、当初はジャケット写真のように、油を付けた髪を真中から分け、眼帯のアイパッチを付けていた。 
 「四ヶ国親善麻雀」が米中韓ベトナム人となっているが、今はこのアルバムがどこへ行ったのか手元にないので確認しようがない。
 このアルバム「TAMORI」はシリーズで3まであったようだが、残念なことにどのアルバムも手元にはない。

 *

 タモリの発言で、僕もそうだそうだと頷くことはよくある。
 *彼が自分を妄想族と言うように、僕にも妄想性があること。
 妄想、それはどんどん広がっていく。ここに、僕の文が長くなる原因が潜んでいると自覚しているのだが、自重しないと書き出した文も妄想のごとく、どんどん枝葉が伸びて長くなり、止まらなくなっていく。
 *彼が旅が好きで(実際に旅に行くかどうかは別として)、特に列車の旅、鉄道を愛すること。
 僕も、海外は別として国内の旅はほとんどが列車だ。窓の外の景色は飽きることがない。
 また、東京と九州の佐賀間は、大学入学以来もう百数十回は往復していると思うが、飛行機に乗ったのは4、5回あるかどうかである。
 *彼が知らない街歩き、路地、坂道が好きなこと。
 僕も知らない街を散策することが好きだ。それが旅好きの表れであろう。そこに、思わぬ発見がある。
 *彼が地図を見るのが好きなこと。
 彼は楽屋に地図や時刻表を積んでいて、余暇にはいつもそれらを見ているという。僕も、知らない地名が出てくると、すぐに地図を広げて確かめないといられない。トイレには、大手電気量販店の大きな日本地図のカレンダーを貼っている。しかも、これは日毎の月の形の推移付きだ。
 *彼が料理を作ること。
 僕は彼ほど凝った料理ではないが、料理はほゞ毎日作っている。そして、彼ほどグルメではないが美味い店を探すのが好きだ。僕の場合は、高級店ではなく、大衆的で美味い店を、というのだが。
 *彼が、有意義であるとか、人間は進歩しなければならないとかという考えに反発を覚えていると言っていること(週刊誌「アエラ」で読んだのだが)。
 これは、彼が「やる気のある者は去れ」と言っていることに低通していることだろう。これは、哲学的で深い。人間、そんなに頑張らなくて、自然でいいと言っているのだろう。

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