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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

上海への旅⑰ 現代の「上海ベイビー」

2010-01-12 03:07:32 | * 上海への旅
 成長する都市は人をひきつけ、多彩な才能を生み出す。
 アヘン戦争以後、上海は西洋の租界地となり、今日の上海の元になる街となる。約150年前、小さな平凡な街であった上海は、西洋への開港と同時に大きな変化をとげていったのだ。
 幸か不幸か東洋の真ん中に、西洋のような都市が出現したのである。街には当時西洋の先端の建築スタイルが出現し、夜ともなればナイトクラブでは華やかなショーや音楽が演奏された。
 この東洋とも西洋ともつかない港町の魅力に惹かれ、様々な人間が入り込むようになる。
 そして、上海はいつしか「魔都」と呼ばれるようになる。
 詩人、金子光晴が最初に上海に行ったのは、今の外灘(バンド)に高層建築群が並び立った頃の1926(大正15)年のことである。その後、妻森美千代の不倫による三角関係を清算するために、2人はアジアへ、そしてパリへとあてのない旅に出発する。その旅はかれこれ7年にも及んだのだが、まず初めに上陸したのが、魔都・上海であった。

 「いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスが違って、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった」
 「このときの上海ゆきは、また、私にとって、ふさがれていた前面の壁が崩れて、ぽっかりと穴が開き、外の風がどっとふきこんできたような、すばらしい解放感であった。狭いところへ迷いこんで身動きがならなくなっていた日本での生活を、一夜の行程でも離れた場所から眺めて反省する余裕をもつことができたことは、それからの私の人生の、表情を変えるほどの大きな出来事である。青かった海のいろが、朝目をさまして、洪水の濁流のような、黄濁いろに変わって水平線まで盛りあがっているのを見たとき、咄嗟に私は、「遁れる路がない」とおもった」――「どくろ杯」金子光晴

 (写真は、現在の旧租界地、外灘の夜景)

 *

 上海最後の夜となった。
 10月22日の夕、南京東路の散策から宿泊している旅舎へ戻った。
 2階の奥の僕の部屋に戻るために廊下を曲がると、僕の前の部屋のドアが昼出かけるときと同じように開いているのが見えた。
 開いたドアの部屋の中では、やはり朝いた女性が立っていた。部屋の奥には、クローゼット風のバッグが3つ、きちんと閉まって立ててあった。朝の放り出された衣装の混乱は収まっていた。
 彼女は、壁の前にあるポットの中を何やら箸でかき混ぜていた。
 僕は、やあと声をかけて、何をしているか覗き込んだ。彼女は、にっこり笑って、クッキング中だと言った。彼女はお湯を沸かすポットの中に、麺のようなものを入れて煮ていた。
 旅舎(ホテル)でクッキング中とは変わっているなと思った。まるで長逗留の湯治場のようだ。いや、まるで自分のアパートのようだ。
 僕は部屋に戻って、昨晩買ってきて大きすぎて手に余っていたザボンと葡萄を、デザートにどうぞと持っていった。彼女はありがとうと言って、笑顔がはじけた。人なつこいのは、昼最初に会ったときから知っていた。
 彼女が、あなたは何をしているの?と言うから、しがない物書きだと言ったら、えっとビックリした顔をした。
 そのとき、部屋の電気のヒューズが飛んで電気が消えた。おそらくポットの電熱消費量が多いのだ。
 彼女が誰かに電話すると、若い男がすぐにやって来た。そして、バッテリーのヒューズのスイッチを上げると電気はついた。だが、ポットのコンセントを差し込むとしばらくすると、またヒューズが飛んだ。僕が、コンピューターの電源を抜いたらと言って抜いたが、やはりだめだった。
 男は、どうしたらいいのかなぁといった表情をしていたが、その状況を楽しんでいるかのように見えた。何だか彼女ととても砕けた感じだったので、僕が彼に、彼女の恋人なのと言ってみた。すると、彼はにやりと笑って、それだと僕はとても幸せだと、さらににやけた顔になった。
 彼女は、彼はこの旅舎のスタッフなのと言った。
 そうか、男はスタッフなのか、それにしては彼女と馴れ馴れしいなと思った。まるでずっと以前からの恋人か友だちのような態度ではないか。
 彼女は、ポットを使うのを諦めることに落ち着いたようだ。
 男が未練がましく出ていったあと、僕はこれから夕食に行くつもりだが、君も食べていないようだったら、一緒に行かないかと誘った。この近くにとてもフレンドリーにしている食堂があり、小さくてきれいな店ではないが、そこへ行かないか、と。
 すると、彼女は「私はシャイだから」と、思わぬ返事をした。
 「君は、中国語を話せるじゃないか」と言うと、彼女はすぐに、ちょっと待ってと言ってクローゼットの役割をしているバッグを開いて、中から服を選び出した。
 それまで彼女は丸首のTシャツで、下を向くとふくよかな胸がいやでも目立ったのだった。
 彼女はTシャツの上にジーンズのブルゾンを着て、首にシルクの柔らかいスカーフを巻き、チェックのハンティングハットを被った。
 この上海娘は、とても粋だ。

 *
 
 2人で、例の西安食堂へ行った。
 彼女は、へえ、この食堂なのといった表情で、珍しげに店の中を見渡した。
 1人旅であるはずの僕が女性の人と来たので、店の人たちは、おや、今日はいつもと違うわねという顔をしたが、いつものようにニコニコと迎えてくれた。
 僕は、店の主人と店の人たちに、僕の泊まっている旅舎の前の部屋の人と紹介した。詰問されたわけではないのに、まるで言い訳をしているみたいに、早口でメモ用紙に部屋の図を書いてまで、説明してしまった。
 彼女も、店には好意を寄せたようだった。
 2人で、注文したのは以下の料理。
 魚香肉絲。肉の細切り炒め、10元。
 蚌(?)油双茄。野菜、茸のトロリ煮、6元。
 酸辣土豆絲。ジャガイモの細切り炒め、6元。
 睥(似字)酒。雪花ビール、4元。2本。
 ご飯。
 計35元。

 シャイだと言った彼女は、主人と中国語でよく喋った。僕は、まったく分からないから置いてきぼりにされた思いになったほどだ。
 朋友である店の主人と、再見と言って別れた。お互い、言葉が通じないもどかしさと寂しさを確認した夜となり、言葉少ない別れとなった。もう、会うこともないに違いないと思った。

 *

 食事を終えて、2人で旅舎に戻った。
 彼女は部屋に戻ると、着ていたブルゾンを脱いで、またTシャツとジーンズのパンツ姿になった。長い手足が印象的だ。
 彼女の部屋で、食事に行く前の話の続きで、ところで君は何をやっているの?と訊いた。彼女は、意外なことに映画の脚本家と言った。そして、出身は北京と言った。
 名前を聞いたら、紙に「風剪清詞」と書いた。中国人の名前にしては奇妙な名前なので、僕が不思議な顔をして、これが名前?とさらに訊いたら、彼女はペンネームだと言って、本名をその下に書いた。
 僕は、では映画のロケか何かで上海に来ているの?と訊いたが、それは不確かだった。今は、この旅舎に宿泊しているのだった。
 僕たちは、中国で巨匠の名をほしいままにしている、北京五輪のイルミネーション演出をした監督のチャン・イーモウはあまり好きでないという話をした。初期の作品である「初恋のきた道」はよかったが。
 好きな監督は誰かと言う僕の質問に、僕の知らない中国人の監督の名を上げた。
 映画にもなった「上海ベイビー」を知っているかと訊いたが、彼女は知らなかった。中国では発禁になった本だから、出回ってはいないのだろう。それに、スノッブな内容の本だし。
 彼女の部屋に若い女性が顔を出したが、お互い「は~い」と言っただけで、また戻っていった。彼女は、この旅舎にいる友だちなのと言った。

 僕が、明日は上海を発って、日本に帰ると言うと、彼女は急に、では2人で写真を撮りましょうと言って、僕の横にすべるように座った。そして、その長い手を伸ばして、僕たち2人に向かってデジカメを向けた。僕たちは、あの高校生がよく並んで撮るようなポーズでにっこり笑ってみた(Vサインまではしないが)。
 恋人は?と訊いてみると、台湾にいると答えた。遠距離恋愛だねと僕は笑った。
彼女は、ここへ何か書いてとノートを取り出してきて、僕の前に開いた。
 そのノートの表紙には、彼女の大人げな雰囲気とは違って、可愛いイラストが描かれていた。ぱらぱらとめくると、ページごとに何やら文字や、主に中国語で英語も交じっていたが、住所やイラストが書かれていた。どうも、彼女の出会いノートのようであった。
 これが、台湾の彼で、これがアメリカにいるボーイフレンドなどと、彼女はページをめくりながら話した。台北にいるという台湾の恋人は中国語で書かれていたので、台湾人らしかった。このリストの中に、日本人はいなかった。
 僕は、このノートの中で、東京のボーイフレンドになるのだろうか。
 台湾の彼と別れたら、東京の男を第1の恋人に昇格させてくれと言って、2人でふざけあった。
 私は何歳に見える?と彼女が訊いたので、僕が24、25歳かなと答えると、そんなに見えるの? 23歳よと、若さを強調したいような顔をした。
 君が脚本家だから、人生を経験していると思ったのでと、少し年を上に言った言い訳をした格好になった。
 君の住所はどこなのと訊くと、住所はここかしら、と言った。そして、この旅舎にすでに3か月いる、北京には住所はないの、と話を続けた。
 そうか、彼女はここに住んでいるに等しいのだ。だから、バッグには大量の衣服が詰め込まれていたし、ポットで自炊のようなことをしていたわけだ。それに、旅舎のスタッフとも顔馴染みなのも道理だ。
 カポーティーの「ティファニーで朝食を」の主人公は、「旅行中traveling」と書いた名刺を持っている、根無し草の魅力的な女性だった。
 彼女は、自由な根無し草なのだ。それに、脚本家もしくは脚本家志望なのだ。
 僕は、小説「上海ベイビー」の主人公(25歳の作家)を思い出した。

 「上海は、1日中どんより靄がかかって、うっとうしいデマといっしょに、租界時代から続く優越感に満ち満ちている。それが、私みたいに敏感でうぬぼれやすい女の子をいつも刺激する。優越感を感じること、そのことに私は愛憎半ばする思いがある」――「上海ベイビー」衛慧

 夜も遅くなったので、僕が再見と言って彼女の部屋を出ると、私はもう少し…と彼女は言って、部屋から小鳥のように出て行った。旅舎のロビーか友人の部屋で、お喋りか何かをして夜更かしするのに違いない。それが、若さというものだ。そして、上海の自由というものだろう。
 彼女は、今という時間と手に入れた自由を、若さの中で堪能しつくそうとしているように見えた。若さというものが、いつか必ず自分から去っていくのを知っていて、だから今にのみ時間を消費し、味わっているようだった。
 僕は1人部屋のベッドに寝転んで、旅舎の上海ベイビーは10年後にはどうしているだろうと思った。脚本を書いているのだろうか?

 *

 翌10月23日、中国国際空港CA915便、11時55分発の飛行機で上海を発った。福岡14時25分着である。

 旅の終わりに感じることは、短い旅でも長い旅でも、辛い旅でも楽しい旅でも、いつの間にか終わってしまった、という惜別の感慨だ。旅はいつも、あっという間の出来事であったように思える。
 まるで、邯鄲の夢のようだ。
 日常は果てしなく続くが、物語に終わりがあるように、旅にも終わりがある。それが、旅の宿命でもある。
 そして、いつしかその記憶も、遠ざかる時間とともに薄くなっていく。
 そんなことがあったかどうかも、誰もが実証し難くなっていくのだ。
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上海への旅⑯ 南京東路の裏の顔

2010-01-07 03:09:39 | * 上海への旅
 上海への旅も終わりに近づいた。
 明日はここを発つ予定だ。
 10月22日、朝旅舎で目をさますと喉が痛い。旅に出る前痛かったのだが、旅の間中、治まっていたのだから幸運だった。
 旅は、密かにアドレナリンを出して、新鮮なエネルギーを体内に与えてくれるのかもしれない。

 朝起きて、昨晩買ったザボンを剥いた。いくら柑橘類好きの僕でも、このボウリングの玉のような大きさでは太刀打ちできそうにない。口にしてみると、酸味も少なくジューシーな水分も少ないので、そう多く食べられない。あとは夜にでも食べようということにして、外へ出ることにした。
 ドアを開けて部屋を出ると、前の部屋のドアが開いていて、中にいる振り向いた女性と目が合った。その若い女性はビックリしたような目を僕に向け、慌てて周りを取り繕おうとした。
 彼女の傍には、腰の高さまである大きなトランクのようなバッグが3個、蓋が大きく開いたまま無造作に立ち置かれていた。バッグは軽いビニール製のようで、派手なデザインだ。そのバッグの周りには、大量の衣服が散乱していた。
 僕は彼女が衣料品の輸入関係の仕事をしていて、仕入れた衣服の整理をしているのだと思った。そういう関係の女性を知っていたからだ。
 ファッション関係のビジネスですか?と英語で訊いた。
 彼女は、いやそうじゃないというようなことを言ったが、よく分からなった。途中まで進んだゲームを、またスタートからやり直しのリセットをされて、途方に暮れているように見えた。
 眼鏡をかけ、後ろで留めた長い髪を背中まで流していた。モデルのように背が高いし、美人だった。
 しかし残念なことに、僕が手伝ってやることはなさそうなので、再見と言って別れた。

 カウンターで、この旅舎を予約してくれたマリさんに、今日で上海の旅は終わりなので電話したが、電話が通じない。昨晩から何度か電話したが連絡が取れないので、諦めて旅舎を出た。もう、昼だ。

 *

 どこへ行くというあてもないので、再び外灘(バンド)へ行くことにした。
 外灘は旧外国人租界地で、古い西洋建築群を見て歩くだけでも飽きない。
 外灘の建築群の通りを歩いたあと、もう昼も大分過ぎたので食堂を探しに歩いた。しかし、この辺りはビル街で食堂がなかなか見つからない。やっと、外見は立派だが中は大衆的な、アンバランスな1軒の食堂を見つけたので入った。
 中では奥のテーブルで、おそらく家族であろうか、店の人がカードをやっていた。昼食時を過ぎた中途半端な時間だから、仕方ない。客は僕以外に1人だけで、うらびれた中年の男客が、窓際で黙ってスープのようなものを飲んでいた。
 僕は、無難に炒飯を頼んだ。値段もごく普通の15元。窓際の訳ありそうな客は、スープを飲み終わったあと、黙って店を出た。料金を払わなかったようだが、店の人もなぜか黙っていた。

 食堂を出たあと、また南京東路へ足が向いた。(写真)
 南京東路は、銀座と新宿が一緒になったような繁華街だ。有名ブランドの看板や電光掲示も目につく。オメガのロゴの横にユニクロまである。きらびやかなウインドウが消費の欲望を誘っている。毛沢東がこの光景を見たら、何と言うだろうか? 経済は政治までも飲み込んでいくのである。
 この通りを歩いていると、いろんな人が声をかけてくる。最も多いのは、トケイ、バッグ、要らない?ロレックスあるよ、の類である。
 こういうのは無視するに限る。

 トイレに行きたくなったので、観光客でなさそうな男性に訊いてみた。彼は考えていたが、あっちと指差した。その方向へ行ってみたが、トイレらしいのはどこにもない。
 さっきトケイは?と言ってきた若い女性が、まだ僕の周りをうろうろして獲物を探していたので、彼女はこの辺りのことは詳しいだろうと思い、トイレを知らないかと訊いてみた。
 彼女は即座に、大通りの路地を入った建物の方を指差し、あのビルの中にあるよと言った。僕がサンキューと言って、その雑居ビルの方に歩いていくと、彼女は走ってきて私が案内すると言って、僕の前をそそくさと歩き出した。僕がいいよと言っても、無視して歩いた。
 そのビルに着くと、すぐにエレベーターがあり、それに乗って12階だと言った。公衆トイレが12階というのも変だと思ったが、ここまで来たら仕方がない。
 エレベーターを降りて、ここだと案内された扉を開けると、なんだ、ピカピカの部屋ではないか。
 入口で黒服の若い男が2人、仰々しく挨拶した。僕を案内したというか誘導した女性が、黒服の男に何やら話している。僕が、トイレは?と申し訳なさそうな小声で言うと、黒服の男があちらですと指差した。そこへ歩いていくと、ずらりと数人の黒服の男が並んで僕に挨拶する。
 おい、おい。僕はトイレを借りに来ただけだぞ。まさか、この前のキャッチ茶館(上海への旅③)のように、キャッチ・トイレじゃあるまいし。
 用を足しトイレを出ると、今度は若い女性が、奥の部屋から数人出てきて、僕を迎えた。女性たちはドレッシーな服を着ていて、一様に美人だ。飛び切り美人だ。
 僕は、女性たちに愛想を振りまくでなく、いやそんなことをしている場合ではないと思い、彼女たちの笑顔を振り切って、急いで出口(入口でもあるが)のところへ行った。
 どう見ても、長居は無用だ。トイレを借りに来ただけの男に、この厚遇は異常だ。
 僕は、黒服たちに、謝々とお礼を言って、すぐに部屋を出た。
 別に黒服たちは、追っては来なかった。しかし、あの部屋は何だったのだろう、とエレベーターを降りながら思った。
 奥の女性たちが出てきた部屋は、各々個室のように区切られていた。部屋にはソファのようなものが見えた。
 あのレベルの美女を揃えているのは高級クラブのようであるが、まだ日も落ちていない夕方である。ちらと見えたソファは足浴屋にある長いソファで、足浴マッサージを謳った高級お水系サービス業か。あるいは、あのちらと見えたソファのようなものは、ベッドだったかもしれないと、妄想をかきたたせた。

 *
 
 再び南京東路に戻り、普通の観光客に戻った。
 普通の観光客らしく、中国茶を売っている店を見つけて入った。様々な茶を並べてある中で目をひいたのが白菊の花の茶で、その菊茶の効用に「情熱解毒」と書いてある。単なる熱でなく情熱である。僕のような男に、少し熱を冷ませというのだろうか。
 買ってみた。
 「情熱解毒」は、正しくは「清熱解毒」とのことであった。

 旅舎に戻ろうかと思って、地下鉄駅に向かって歩き始めた。
 また、若い女性が声をかけてきた。物売りではないようだ。
 彼女が何か言ったが、中国語だから分からない。中国語は話せないと英語で言うと、英語で話しかけてきた。
 若いときの多岐川裕美のような美人で、私たちは二人で旅行しているの、と隣のやはり若い子の方を向いた。隣の女の子もにっこり笑って、二人で頷いた。もう1人の女性も美人で背が高く、2人とも「CanCam」や「JJ」から抜け出たモデルのようだ。
 最初に声をかけてきた積極的な女性が、話を続けてきた。
 「あなたはどこから?」、「トーキョー」
 「私たちは北京から上海に観光に来たの。あなたは?」、「僕も、観光」
 「私たち、日本語を勉強しているところなの」、「そりゃあ、いいね」
 「あなたは1人?」、「そうだよ」
 「だったら、これからお茶飲まない?」
 う~ん、どこかで聞いたような会話だ。これから茶館に連れて行かれるという粗筋かな(上海への旅③)。もう、その手は食わないからね。
 「お茶でなくコーヒーの方がいいね」と、僕はとぼけてみた。
 すると、彼女たちは、「コーヒーでもいいわよ」と言った。
 話が違うな。敵もさるもの、喫茶店がないから茶館にしましょうとか何とか言って、茶館に連れて行かれるのがオチかもと思い、僕は一呼吸おいて答えた。
 「申し訳ない。今日は、あまり時間がないのでやめとくよ」
 上海初日のあのキャッチ茶館の出来事がなかったら、僕は一緒について行っただろう。すると、もっと手ひどい目にあったかもしれない。
 彼女たちと別れて歩きながら、あのまま彼女たちと一緒にお茶を飲みに行って、喫茶店以外のところ、例えば茶館などに行こうとしたら、コーヒーでないとだめだと言い張って、彼女たちの正体を見届ければよかったと、少し後悔した。
 少し、弱気になっている。

 *

 旅舎に戻るため、南京東路から地下鉄2号線に乗った。
 電車に飛び乗り車内の路線図を見ると、旅舎とは逆の方向に行く電車だった。路線図を見ていると、南京西路の先に「静安寺」がある。有名な寺だ。その駅で降りてみた。
 駅から出たすぐのところに、静安寺はあった。もう閉館の時間が過ぎているようで受付の入場券売り場は閉まっていたが、出入り口の扉は半開きになっている。仕方がない。中をのぞき見るだけにした。蘇州の留園と同じだ。
 静安寺は、見た目は堅牢な寺だった。暗くなった静安寺の周りの商店街を歩いて、再び旅舎に戻るために地下鉄に乗った。
 そして、大連路の旅舎に戻った。

 旅舎に戻ると、カウンターで、「若い女性が尋ねてきた」というメッセージが渡された。この旅舎を紹介してくれたが、その後連絡がつかなかったマリさんだ。
 カウンターからマリさんに電話すると、やっと繋がった。彼女は忙しい中やっと時間を見つけ、昼ごろこの旅舎に来て、カウンター受付のスタッフの人から聞いた僕の部屋である50号室まで行ったが、留守だったと言った。
 僕の部屋は40号室である。僕がカウンターのスタッフにそのことを質すと、スタッフはパソコンで照合していたが、すぐにミステークでしたとあっさり詫びた。
 やれ、やれだ。


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上海への旅⑮ 再び上海へ

2010-01-04 19:57:28 | * 上海への旅
 列車の旅は、どこの国でも楽しい。
 座席指定の特急より、様々な人たちが乗ってくる各駅停車の方が、車窓に加えて人をも楽しめるので面白い。
 中国では、偶然だが様々な列車に乗った。
 福岡から上海に着いた日、10月15日は、空港から上海都心の地下鉄駅まで磁浮、つまりリニアモーターカーに乗った。初めての体験で、現在世界で一番速い列車(広義の)だ。
 上海から杭州への列車は、買った切符が気がつけば「和諧号」という一等座の、いわゆる新幹線特急であった。
 杭州から蘇州へのそれは、硬座特快とあった。杭州発で翌朝天津着の、いわゆる深夜特急(急行)であったろうか。
 そして、この日、10月21日15時54分、蘇州発上海行きは、天座の硬座快速である。快速とあるが、長距離の自由席各駅停車のようであった。
 僕はどの列車にするかは、時刻表一覧を見て、発車時刻で決めていたので、それが新幹線なのか各駅停車なのか分からなかった。窓口で手渡された切符を見れば、その列車についての情報は書いてあるのだが、最初は理解していなかった。だから、駅のホームに行ってその列車を見て、初めてその列車が何たるかを知るのだった。
 ワインのラベルにそのワインについての情報(葡萄産地や生産年度や階級等)が記載されているのだが、それを理解していないと読みとることができないのと同じである。

 *

 僕の切符には、乗る列車は「K187次」号で、座席記載のところには3号車とだけ書いてあり、天座なので自由席のようだ。
 3号車の車両の中に入ると、左右2人席の向かい合わせで、もう大分席は埋まっていた。
 賑やかなグループの中の、空いている席があるので座ろうとすると、やんちゃそうな男がもっと奥へ行けと目で合図する。小学生から20歳ぐらいまでの、年齢に幅のある兄弟姉妹のようだ。ここは私たちのグループの席だといわんばかりだが、後から客が来ているのですぐに埋まるだろう。
 座った僕の前は、スーツ姿の見るからに新米サラリーマンの2人組である。いつもぼそぼそと2人で話しているとも呟いているともいえる、お喋りをしている。僕の横には若いカップルの女性が座り、男は健気に立っている。周りを見ると、もう席はいっぱいで、若い人が多く、そのうち立っている人も出てきた。
 やはり、蘇州~上海、15元という、安い天座は混むようだ。

 上海駅にはあっけなく着いた。
 駅の郊外に出て、上海駅を仰ぎ見た。
 駅中央には、高々と大きく電光掲示板で、列車の発着時刻が流されているのだった。
 その下に、「熱烈慶祝中華人民共和国成立60周年」と書いた赤い垂れ幕が張られていて、この国がいまだ社会主義国を継続しているということを思い起こさせた。(写真)
 1949年、毛沢東、周恩来等によって社会主義国が建国されてはや60年が経ったのだ。今では、社会主義を標榜している主な国は、中国とキューバぐらいか。
 ところが、この国を歩き回っていて、それを意識させられたことがない。自由主義に育った僕は、それを感じとりたいと思ったのだが、いまだどこにもその残存を見出せないのだ。おそらく組織の奥深くにしまってあるのだろう。
 上海の豫園に行く途中の家で、玄関口に2人の男性の対になった、少し古くなった写真が投げかけてあった。それは、家の床の間とか上座のどこかに御真影のごとく飾られていたものだろう。
 片方は毛沢東とすぐに分かり、もう一方は若い男性だった。僕が不思議そうに、そして懐かしいものに出合ったようにその写真を眺めていると、家の男が、華国鋒だよと言った。
 そうだった、毛沢東の死後、彼が党主席の時代があったと思い出した。すぐに実権は小平に移ったが。

 火車(列車)の上海駅から、地下鉄に乗り換えて、再び那宅青年旅舎に行こうと地下鉄の駅を探したが見つからない。歩いているスーツ姿のビジネスマン風の男に訊いたら、地下鉄の駅ですか、と日本語が戻ってきた。外見だけでは、日本人か中国人か分からない。
 彼は辺りを見回ししばらく考えていたが、こちらですから僕についてきてくださいと言って歩き出した。僕が、仕事ですかと言うと、彼は、ええ、こちらにある日本の製造会社に勤めていて、南京から戻ってきたところですと答えた。
 地下鉄の文字が見えたところで、ここから先は分かりますからと、礼を言って別れた。中国で活動している日本のビジネスマンの姿を、僕は頼りげに思った。

 *

 地下鉄4号線の大連路駅で降りて旅舎に向かった。外はすっかり暗くなっていた。歩いていくと、ビルの向こうに三日月が見えた。僕は、久しぶりの月にしばらく見とれていた。上海の空はくっきりしていないので、今まで星はおろか月すらも見なかった。
 旅舎に着いたら荷物を置いて、食事をしに外へ出た。まっすぐ例の西安食堂へ行った。3日ぶりだ。僕が店に顔を出すと、ほっぺを膨らませた笑顔が返ってきた。主人も奥さんも顔を出して、また来たねという顔をした。
 テーブルに座ると、また相変わらずメニューとにらめっこだ。
 麻婆豆腐。昨日蘇州の食堂で食べた味が忘れられなかったので、今日もまずそれを注文した。6元。
 蒜苗肉絲。ニンニクの茎と肉の細切り炒め、10元。
 西紅柿炒蚕。トマトと卵のスクランブル、7元。珍しい柿を使った料理かと思って訊いたら、西紅柿はトマトだった。
 睥(似字)酒。三徳利(サントリー)ビール、4元。
 ご飯、1膳(杯)。
 勘定を訊いたら、店のほっぺのふっくらとした女性が27元と言う。僕がご飯の料金が入っていないというと、彼女はいいの、いいのと言った。本当に、この店の人は親切だ。金儲けをしているとは思えない料金なのに。
 僕は、バッグに忍ばせておいた板チョコを渡して、店を出た。

 *

 帰りに、旅舎のすぐ近くの足浴屋に入った。
 先の17日に全身マッサージをやってもらった店だ。今日は、足浴だと言ったら、 愛想のいい主人は、1階の4席ある席の中で、空いている奥の席に僕を案内した。そして、1人の女性に君が担当だという指示を出した。
 この前僕に全身マッサージした感じのいい女性は、すでに僕の隣りの男の脚をマッサージしている。僕と視線が合うと、秘密を分かち合うかのように目で微笑んだ。
 長い縦長のソファのような席に座ると、まず、お茶が出される。それを飲み終えたら、体1つが収まる程度の長いソファのような席(ベッド)に横になって、脚を伸ばす。
 係りの女性がお湯を張ったタライを持ってきて、足を丹念に洗いほぐす。そして、指の1本1本を摘まんで、揉んで、引っ張る。
 僕の横の、客の中年男はおしゃべりだ。常連客のようで、ずっと喋っている。それも、僕の係りの女と喋っている。僕は中国語を喋れるわけではないので、まあいいやと黙って脚を放り出して、足だけがなされるままになっている。
 係りの女性が何か僕に言った。すると、隣りの男は僕に日本語で言った。オイルを塗るかどうか、どうしますか?と。僕は、料金はどうなります?と訊くと、料金は高くなりますと言うので、それではオイルは要らない通常の料金でいいですと答えた。
 あまりに流暢な日本語だったので僕は男に、あなたは日本人ですかと訊いた。彼は、中国人ですが、長い間日本の企業に働いていたと答えた。
 彼はお喋りだったので、僕が頼まないのにすべて通訳をしてくれた。おかげで助かった。男はのべつ幕なし店の女性に中国語で喋り続けていて、時々僕に日本語で喋ったので、絶え間なく喋っていた。
 足先が終わると、脚部のマッサージが行われた。
 足の指先から大腿部まで、いわゆる足・脚全体のマッサージを1時間かけてやってくれるから、贅沢な大名気分である。
 これで20元とは安い。上海の中心部ではこんな値段ではないだろうが。

 通りの角の果物屋のお兄さんから、葡萄とミカンを買った。そして、大きなザボンを買った。長崎のザボンは買ったことがあるが、これはそれより大きい。
 それに、珍しくマンゴスチンがある。こんなところで見つけることができるとは。すぐに1個買った。
 マンゴスチンは、葡萄色の硬い円い皮で覆われた東南アジアの果実である。硬い皮の中には、ミカンのようにいくつかに分かれた、プリンプリンとした白いレイシのような実が入っている。果肉は、スイーツ菓子のようで甘くジューシーだ。
 バリ島で食べて以来、熱帯の果実では僕の中ではナンバーワンと思えるものだ。実際、果実の女王と呼ばれている。
 ちなみに、果実の王はドリアンということだ。
 今日の屋台の果物屋は、珍しい果物が並んでいた。

 旅舎の部屋は、2階の一番奥の部屋に変わった。蘇州の旅舎と違ってトイレもシャワーもあり、前よりきれいだ。

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上海への旅⑭ 蘇州の庭園「滄浪亭」をあとにして

2009-12-31 02:00:14 | * 上海への旅
 蘇州の街は、一人歩きに向いている。
 賑やかな通りと古い庭園があちこちにある一方、街中を縦横に走る掘割には古い家並みが寄り添い、郷愁を誘う風景がある。
 「蘇州夜曲」の歌を想わせる掘割の細い夜道を、そっと忍び寄る木犀の香りを感じながら歩いていると、いつしか街の明かりが灯る大通りの十全街に出た。旅舎の近くの、湖北から来た女の子のいる食堂で遅い食事をとったあと、夜の十全街を歩いた。
 十全街は、今は観前街に蘇州の目抜き通りの地位は奪われてしまったが、かつての中心的繁華街の通りである。歩いてみると、日本の地方都市の商店街のような雰囲気がある。
 消費の主な部分はスーパーマーケットやファーストフードなどが集まる国道沿いに移り、街の古くからある商店街はそれに対する対応策をとることもなく、今までの店を今までどおりに守り通しているうちに、いつのまにか昔の栄華よ今いずこという雰囲気が漂い始めている、というのが日本の地方都市の典型である。
 それでも、中国は急激な経済成長の過程だから、新商店街の目覚しい近代化があっても、まだ旧商店街の衰退の兆しはない。商店街は、まだのどかな雰囲気がある。
 夜の十全街は、普通の店は閉まっていたが、ところどころに明かりが灯っていた。扉が開いていて、奥にカウンターが見え、椅子に何人かが座っている。扉の上を見ると、「Bar」と看板がある。
 日本でもよく見かけるバーだ。立ち止まってのぞいてみると、店の女性が何やら声をかけた。疲れていることもあって店には入らずに通り過ぎたけれど、通りには何軒かこのようなバーがあった。
 中国に、こういう普通の酒場があるのが嬉しい。普通かどうかは分からないが。
 中国では、食堂と果物屋と足浴屋が夜遅くまで開いている。それに盛り場では、酒場ももちろん夜の主役になる。上海のように都会だと、酒場はカラオケ店などと同じく、雑居ビルの中に潜んでいる場合が多い。

 *

 翌10月21日、蘇州青年之家旅舎で目が覚めた。
 西部の荒野にひっそりと建つ流れ者の宿屋のような簡素なこの旅舎とも、今日でおさらばである。
 昨晩、十全街の通りの果物屋で買ったバナナとミカンで朝の腹ごしらえをする。
 この日の夕方、蘇州を発って上海へ戻るのだが、その前に蘇州の庭をいくつか見る余裕はあるだろう。昨日は、留園も見逃したし。

 地図を見ていたら、蘇州四大園林の1つのである「滄浪亭」が、十全街の北西の方向にある。
 まずは、その庭園、滄浪亭に行くことにした。十全街から旅舎の前を通って南に行くと竹輝路にぶつかる。その竹輝路をまっすぐ西へ行くと滄浪亭の近くへ行くことになる。
 竹輝路のバス停からバスに乗って、工人文化宮の前で下りて滄浪亭に向かった。ゆったりとした堀に沿って病院があり、その先に庭園はあった。
 滄浪亭は、北宋の時代(11世紀)に造られた、蘇州で最も古い庭園である。堀に沿って造られ、屈源の詩、「滄浪の水」という魚歌から名づけられたという。
 日本の城の外堀を思わせる、水をふくよかに湛えた堀に架かる石橋を渡ると、庭園の入口に連なる。
 入場料は20元。昨日最初に行った拙政園が70元で高いと思ったら、次に行った獅子園が30元で、ここ滄浪亭が20元である。同じ四大園林でも格差がある。
 入口を入ると、目の前に築山が見え、道は左右に分かれて回廊になっている。その回廊から中庭を歩くと小高い築山に出た。その頂には四阿(あずまや)風の亭が設けられている。ここで、一服しながら四方の景色を見回すといった趣だ。
 さらに前方に建物や、ところどころ木々や花々の群生が見える。それらは白い塀の回廊で結ばれている。
 ここは、他の庭園と違って起伏に富んでいる。
 回廊を歩いているとき、ふと何かが足りないような気がした。バッグも心持ち軽い気がする。ふっと気づいた。さっきまで手に持っていたガイドブックはどこに置いたのだろう。と思って、バッグを底までひっくりかえして探したのだが、ない。
 園の入口に入ったときには、手にしていたガイドブックに入場券を挟み、バッグの中にしまわなければと思った。それがバッグに入れずに、そのあと、どこかの片隅に置いたままできたのかもしれない。
 今まで歩いた道を、辺りを見回しながら駆け足で戻った。見つからないので、園内を見学している人に、「日本語の旅行ガイドブックを見ませんでしたか?」と、訊いてみる。見学者はそう多くない。しかし、誰もが知らないと言う。
 僕は、また園内をくまなく歩いた。この滄浪亭は拙政園と違ってこぢんまりとした庭園なので、隅から隅まで歩き回ったところでそう時間はかからない。それでも見つからないので、入口の係りの人にも訊いてみるが、ないとの返事である。
 三たび、庭園を周ってみる。まるでとり逃がした犯人を追う刑事のように、執拗に周りの岩陰や茂みも見て回った。それでも、出てこなかった。
 受付で、再び落し物として出てこなかったかと訊いて、ないとの返事を受けて、諦めることにした。
 諦めたところで、何だかほっとした。ガイドブックは「上海・杭州・蘇州編」で、いつも持ち歩き、ガイドブックに頼りすぎていた。それに、あと2日で旅は終わるし、上海の中国語版地図はあるので、そう不便はないだろう。
 それにしても、短時間にこれほど密度の濃い、1箇所の庭園回りをした人間はいないだろう。おかげで滄浪亭の配置が頭に刻まれて、詳しくなった。
 滄浪亭は、白い壁の回廊が続き、その回廊には様々に装飾された通し窓が刻まれていた。その飾り窓は、季節の花々も描かれていて、その先には花々や木々が植えてあった。(写真)
 とことどころにある洒落た建物の中には、テーブルと椅子が置いてあり、団体の憩いの場となるであろうし、会議ができる威厳のある雰囲気も持っていた。
 中央の小高い築山からは、庭園を囲む堀の水を眺めることができたし、外からは水に浮かぶ庭園が楽しめた。

 *

 このあと、昨日その場へ行ったのだが見られなかった留園に行こうと思った。
 しかし、留園は遠く、また苦労してバスを探して行ったとしても、時間がない。もうとっくに昼を過ぎている。ガイドブック探しに時間をかけすぎたようだ。
 ひとまず旅舎に戻ることにした。
 竹輝路に出て、バス停を探した。なかなか見つからないので歩いている人に尋ねたが、ちゃんとした答えが出てこない。何人目かの若いカップルが真剣に思案してくれたので、地図を見せながら大通りを歩いていると、右に細い道が延びた三叉路に出た。いったん止まって、ゆっくり足を伸ばしたらゴツンと音がした。
 何が起こったのかと顔を上げると、目の前のバイクに乗った男と目が合った。男も、何が起こったのかという顔をした。一緒にバス停を探していたカップルも、何か起こったという顔をしている。
 バイクが僕の膝に当たったのだった。
 一瞬分からなかったのだが、僕の膝にバイクがぶつかった音だった。痛くなかったので、なんの音か分からなかったのだ。でも、事態はそうだった。
 僕が、何でもないというジェスチャーをしたので、みんなの緊張がほぐれ、何でもないのだという雰囲気になり、また元の状態に収まった。バイクの運転手も表情を崩し、事故でも何でもなかった、それでいいんだという顔をした。
 中国では、道路を横断するときは注意しないといけない。みんなの意識として、車が優先なのだ。だから、信号が青でも、注意しながら渡らないといけない。信号のないところでは、尚更である。
 アジアの国では、たいていの国で信号を信頼してはいけない。例外は日本である。日本人は、世界で最も信号を守る国民であろう。

 そして、何事もないように僕は歩き出した。
 結局、一つ先のバス停まで歩いて、旅舎に着いた。さっきは何ともなかった膝が押さえると少し痛いので、ズボンをたくして見てみると、そこが赤くなっている。やはり、衝撃があったのだ、と感じた。

 *

 駅に行く前に、遅い昼食をとるために、十全街の例の食堂に入った。相変わらず、主人は入口のカウンターにいたが、湖北から来たというウエイトレスの子猫のような少女はいなかった。
 夜だけの勤めだろうか。今頃、普通の女の子のように彼氏とデイトでもしているのだろうか。それだったら、いいのだが。
 しっかり者の奥さん(想像)は店内にいたし、厨房にいた男の人も顔を出した。
 それにしても、中国の食堂は店の人が多い。厨房や裏口から顔を出したり、店内を横切ったりするので、ああこの人も店の人かと思うのだが、何人いるのか正確には分からない。大して大きくもない食堂に、結構な人がいる。なかには、何の役割か分からない人もいる。
 上海の西安食堂は主人が厨房で鍋を握って料理を作っていたが、大体が店の主人は入口のカウンターの中で、愛想笑いをしながら金の計算をするだけだ。主人は、多くの時間を横に置いてあるテレビを見て過ごしている。主人の奥さん(らしい人)も、似たようなものである。年齢も幅が広く、子供も店内をうろついたりする。
 地方から来て都会で食堂を開いた人は、地方にいる同族を呼び寄せるようなので、みんな家族のようなものなのだ。
 日本のファーストフードの店のように、ぎりぎりの人数で効率よくとは考えていない。だから、店の雰囲気は何だか和やかだ。
 食事は麺にした。店のお姉さんに説明を聞き、6種類の食材の具が入った米麺というのを頼んだ。15元。細いうどんのような麺だ。うどん好きの僕としては、さっぱりした味でちょうどいい。

 *

 15時54分の列車で上海へ戻るので、旅舎を出て3時に大通りへ出た。
 バスは駅までは分かりづらいし、どのくらい時間がかかるか知れないので、タクシーに乗ることにした。ところが、空車がなかなか来ないではないか。
 すると、僕の待ち受けている道路の前方に、つまり車が来る方に1人の女性が現れてきて、彼女もタクシーをつかまえようとしているではないか。僕が先に通りに着たが、彼女が先にタクシーをつかまえる位置にいる。
 案の定、彼女が手を振ったところに、タクシーが着て停まった。すると、後ろから男が大きなキャリーバッグを持ってタクシーのところに走ってきた。どこか旅行にでも行くカップルだったのだ。彼らは荷物をトランクに入れると、僕に向かって手を振って招いた。
 驚く僕の前にタクシーを停めて、乗れとドアを開けた。僕がタクシーに乗ると、あなたも駅に行くと分かっていたよと言わんばかりに、当然のごとく「蘇州駅」と言った。
 そして、女性が僕に切符を見せた。それは、蘇州駅発15時15分発だった。もう15時10分であるから、かなり厳しい時間だ。急ぐのは当然だ。僕も自分の切符を見せた。僕のは15時54分発なので余裕である。
 駅に着いたところで、彼らは料金を運転手に払って、僕に18元払ってと言って、走りながら駅の中に消えた。時計を見ると、15時13分だ。間に合うといいのだが。
 僕が言われるまま運転手にお金を払うと、運転手は領収書をくれた。領収書は僕の払った18元より少しだけ多い額だった。しっかりしたカップルだ。
 僕はいつになく時間に余裕があるので、ゆっくりと駅に行き、大きな待合室で列車を待った。
 そして、蘇州発上海行きの列車に乗り、再び上海へ向かった。
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上海への旅⑬ 蘇州夜曲

2009-12-24 01:10:12 | * 上海への旅
 君がみ胸に、抱かれて聞くは
  夢の船唄、鳥の歌…

 1931(昭和6)年、満州事変が起こり、日本兵は中国東北部の満州地方に進出する。東京では、浅草にオペラ座、新宿にムーランルージュが開場した年でもある。まだ、庶民の楽しみは息づいていた。
 翌1932年に中国東北部に満州国が建国されるや、一気に日本人の目は大陸に向くことになる。そして、日本は満州国という夢を抱きながら、暗い戦争の時代へと突入していく。
 1937(昭和12)年には、廬溝橋事件より日中戦争が始まり、日本と中国の間は抜き差しならないものとなっていく。
 一方、満州国では、満州映画協会により主に国策映画を中心に映画制作を行っていた。この満映より、38年デビューした女優の李香蘭は、エキゾチックなルックスも相まって、満州の中国でも日本でも大人気となっていた。彼女は中国人ということになっていたが、日本人であった。
 1940(昭和15)年、李香蘭と日本で人気の長谷川一夫との共演映画「支那の夜」の劇中歌として発表されたのが、「蘇州夜曲」(西條八十作詞、服部良一作曲)である。
 李香蘭の歌唱を前提に作られたが、当時は作曲家のレコード会社の歌手がレコード吹き込みすることになっていたので、渡辺はま子・霧島昇歌唱でコロムビアからレコード発売された。
 戦後の1953(昭和28)年には、李香蘭こと山口淑子によるレコードが、彼女の主演の映画「抱擁」の主題歌として発売されている。

 *

 先日、近くの駅構内のCDレコード店が店仕舞いのため安売りをやっていたので覗いてみたら、偶然にも当時の「蘇州夜曲」の入っているCDを見つけた。コロムビア発売の、「懐かしの歌声」(上)の中の1曲で、幸運にも李香蘭の「夜来春」も入っている。こちらは中国語で歌っているオリジナルである。

 「蘇州夜曲」は、渡辺はま子と霧島昇のデュエットの、ノスタルジックな曲である。
 「君がみ胸に 抱かれて聞くは…」と、千切れるような渡辺はま子の歌声で始まる歌は、「夢の船唄 鳥の歌」と続いていく。
 蘇州はやはり、庭園というよりは水の街なのだ。街に網の目のように流れる堀割の沿道には、柳が植えられている。街に流れる歌は、船唄である。
 そして歌は、「水の蘇州の 花散る春を 惜しむか 柳がすすり泣く」と結ぶのである。
 今のように自動車による交通が発達していない時代には、蘇州もヴェネツィアのように堀には船が活発に走っていたに違いない。
 この歌は、メロディーもせせらぎの水ように流れるが、心をとらえるのは何といっても出だしの「君がみ胸に」の言葉だろう。
 「君がみ胸に…」という呟きのような言葉が、いきなり入ってきて、急に胸を揺らすのである。
 古代から繋がる恋歌のような、あるいは雅な相聞歌のような言い回しは、すぐさま「…抱かれて聞くは」と繋がれる。優美な出だしから一転、その大胆とも思われる表現は、ためらいや抵抗を抱くいとまも与えないで、聴く者の耳から胸に入っていく。あたかも、聴いているあなたも同犯者でしょうというように、たちどころに入って来て、知らぬ素振りで心を揺らすのだ。

 「君がみ胸に、抱かれて聞くは」とは、冷静に考えれば決して優雅とはいえない表現であり、内容である。それなのに、そう思わせないのは、「君がみ胸に」という接頭の言葉である。
 「み胸」は、もはや日常では使わない、どこか遠く古い都に埋もれた言葉である。
 確かに、例えば、「君が胸に」「君の胸に」では、いっぺんに現実的となる。
 曲が最初、「君がみ胸に…」と流れると、歌っているのが渡辺はま子なので、女性が主体だろうと思う。しかし、すぐに、相手のことを「君」と言っているから抱かれているのは男性かと迷わせる。しかし、また歌っているのはか細い柳のような声の女性であるので、やはり抱かれているのは女性だと思い、安心する。
 この歌の主体は男なのか女なのか惑わせる。
 もともと李香蘭のための歌だったのなら、女性が主体なはずだ。それなのに、なぜあえて「君」と言ったのだろう。なぜ、「あなたの胸に」としなかったのだろう。

 この歌が歌われた昭和15年頃が古い時代とは思わないが、蘇州の街が古い都を連想させるので、作詞家の西條八十は一昔前の優美な言い回しを使ったのに違いない。  「あなた」ではなくて「君」に、助詞は「の」ではなくて「が」に。
 字合わせとして「み胸」と使ったとしても、「君がみ胸に」と繋がる「抱かれて聞くは」という言葉は、奇妙な感情を発生、孕ませたまま、胸に残る言葉となっている。
 出だしのこの言葉によって、この「蘇州夜曲」は、歌謡史上に残る歌になったと言っていい。
 2番の「花をうかべて 流れる水の…」と歌うのは、男性の霧島昇である。男性が歌っても、女性が歌ってもいい内容である。
 そして、3番の歌詞である「髪にかざろか 接吻(くちづけ)しよか 君が手折りし、桃の花…」は、渡辺はま子が歌っているが、明らかに男性の言葉、台詞である。
 つまり、ここでは、男性の心を女性が歌っていることになる。だとすると、やはり1番の「君がみ胸」も、男性の台詞と考えてもいい。
 いや、この歌は、デュエットで歌っても、女性だけが歌っても、男性の歌なのだ。

 現在では、「君」は男性が同等もしくは年下の者に使うことが多い。
 しかし、もともと「君」は位の高い人に使った。上代では女性が、男性に対し敬愛を込めて言ったし、万葉集などで、「…君が袖振る」などのように、多く歌われている。
 近代になると詩歌で、「君」はしばしば女性に対するほのかな敬語として使われている。島崎藤村は「君がさやけき目の色も…」とか、「…君が情けに汲みしかな」などと、頻繁に「君」を詠っている。
 この「蘇州夜曲」でも、「君」が女性への敬愛の対象表現として使われているのだ、と思う。

 「蘇州夜曲」は、現在でもカバー曲として数多くの歌手・アーチストが歌っている。やはり、その多くが女性によるものだ。
 李香蘭の面影が、どこか漂う歌なのである。
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