2022年から続くロシアのウクライナ侵攻、2023年から続くパレスチナ・イスラエル戦争、さらにアメリカ・トランプ大統領の新政策発布等によって、世界は新たなる混迷期を迎えている。
フランスの歴史・社会学者のエマニュエル・トッドの「西洋の敗北」は、アメリカ、ヨーロッパを中心とした現在の世界情勢を豊富な資料を土台に、冷静に分析・予感している書である。
この書について書こうとしたら、思索の内容はブーメランのように跳び出し、アメリカに関する私的散策となっている。跳んだ思索はどのみち戻ってくるし、地球は自転しながら公転している。
戦後(第2次世界大戦後)、アメリカの夢と栄光は「アメリカン・グラフィティ」の1962年までだったのか?
※ブログ「西洋の敗北③ アメリカン・グラフィティ」
1960年代後半、冷戦下でのベトナム戦争への介入、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺、黒人層による公民権運動などの余波で、アメリカは繁栄の陰が露わになっていた。
“夢のカリフォルニア”に象徴される、「愛と平和」を掲げるカウンター・カルチャの波。
1968年、揺れるアメリカは転換点だった。いや、世界は揺れていた。
「花のサンフランシスコ」は、ひと時の幻想だったのか?それで、「花はどこへ行った?」のか。
1969年、「ウッドストック」の野外大コンサートが行われる。愛と平和を謳ったヒッピーと若者たちによるマリファナが漂う一大イベントの開催。
その後、コンサート中に殺人が発生した「オルタモントの悲劇」。ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリンの相次ぐ死亡。
※ブログ「西洋の敗北④ 「花はどこへ行った?」」
*花の終わりか、始まりか? 1970年代の世界
1970年代、60年代に咲かせた花を喪ったアメリカは、どこへ向かおうとしたのか?
1970年、ビートルズの解散。
ロック・ミュージックは、従来のロックに加えてハード・ロック、プログレッシブ・ロック、グラム・ロック、そしてパンク・ロックなど多様なジャンルが発生し、スタジアム・バンドも多く登場する。
一方、ソロ活動のアーティストも多くなっていく。
1973年、アメリカはパリ和平協定に基づいてベトナムから軍隊を撤退させた。しかし、しかし幾らかの支援部隊は残り、ベトナム戦争の実質的な終戦は、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)の陥落と北ベトナムが全土を掌握した1975年だった。
今年(2025年)、ベトナム戦争の終結から半世紀(50年)がたった。
1973年、オイルショック発生。
第四次中東戦争に続いて、石油輸出国機構のアラブ諸国による石油戦略の実施による原油供給逼迫および原油価格の高騰に伴い、アメリカはじめ世界経済全体が大きな混乱をきたした。
1974年、ウォーターゲート事件でニクソン米大統領が辞職。ジェラルド・R・フォードが大統領に昇格。
1975年、アメリカ、フランス、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアによる第1回先進国首脳会議(サミット)が、フランスのランブイエで開かれる。
1976年、中国の周恩来、毛沢東、相次いで死去。翌1977年、中国共産党、鄧小平復活。文化大革命終結宣言。
その頃、日本はどのような時代だったか?
1968(昭和43)年から1969(昭和44)年にかけて、東大闘争、日大闘争をはじめ、学生運動が全国的に盛んになる。しかし、翌年の「70年安保」闘争を境に、政治の季節は衰退化していく。
1970(昭和45)年、大阪万国博覧会が開催される。
日本赤軍による、よど号ハイジャック事件が起きる。
三島由紀夫、市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺。
1971(昭和46)年、ザ・タイガースが解散し、GS(グループ・サウンズ)ブーム消滅へ。
前年創刊の女性向け雑誌「アンアン」のあとを追って「ノンノ」が創刊され、「アンノン族」が生まれる。
1972(昭和47)年、「日本列島改造論」の田中角栄が首相に就任。日中国交回復を実現する。
1973(昭和48)年、世界の外国為替市場でのドル売り、国際通貨危機への対応で、スミソニアン体制崩壊となる日本は変動相場制へ移行。
1974(昭和49)年、スプーン曲げのユリ・ゲラーの来日で、全国に超能力とオカルト・ブーム。
*1960年代後半~1970年代のフランス
私の出版社同期入社(同期の桜)の友人であるカメラマンが、入社3年目の1971年に退社して、何の目的もなく、アメリカを見てくるといって旅立った。
当時アメリカは、かろうじて幻影を抱かせる魅力を保持しているようには見えた。
1970年代、私はアメリカへの興味は失せて、多様で多彩なフランスへ憧れを抱いていた。
フランスは、経済的にはアメリカに劣りはしても、文化面では輝きを放っていた。
ガブリエル・シャネルがいて、イヴ・サンローランがパンツ・スーツ(シティ・パンツ)をひっさげ、パンタロンでパリを席巻したファッション界。
J・R・ゴダール、フランソア・トリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグの波を色褪せることなく撮っていた映画界。
ヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)と呼ばれ、アラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラス等が斬新な作品を発表していた文学界および映画界。
J・P・サルトルやボーヴォワールが社会・政治へのアンガージュマン(参加)を唱えていた実存主義の広がる思想界。
音楽界では、シャルル・アズナブール、イブ・モンタンの従来のシャンソンの流れに荒波をたてるかのように、セルジュ・ゲンスブール、そして、シルヴィ・ヴァルタン、フランス・ギャル、ミッシェル・ポルナレフ、フランソワーズ・アルディ……等、フレンチ・ポップスが浸透していた。
フランス、とりわけその中心であるパリは、アメリカに比し歴史に醸し出された芳醇な香りがしているよう思えた。
1970年代、友人のカメラマンがアメリカに幻影を抱いていたのに比し、フランスかぶれしていた私は、行き詰まった自己の現状を打破するには、ともかくパリへ行かねばとの思いが募り、夜フランス語学校に通った。
1974年、フランス語は生齧りのまま、僅か3週間だがパリへ旅した(帰りにリスボン、アテネに寄った)。振り返れば、この初めての海外への旅は、その後の人生の基点となったように思う。
*謎をかける「ホテル・カリフォルニア」
1976年、「ホテル・カリフォルニア」 (Hotel California)が、アメリカのロックバンドであるイーグルスによってアルバム発売される。
一度聴いたら忘れられない、不思議な魅力を漂わせる名曲だ。
迷宮に誘われそうなギターによるメロディーで、その歌っている内容は物語風なのである。
車を走らせていたカリフォルニアの砂漠地帯で、思わず入ったホテルが舞台。そのホテル・カリフォルニアは、壮麗で何でも揃っていそうなホテルだが、どこか奇妙で落ち着かない雰囲気が漂っている。そのホテルでの不思議な体験……というくらいにしか発売された当時は思っていなかった。
時代が移り、アメリカの変容が次第にあからさまになるこの時期、約半世紀ぶりにじっくり「ホテル・カリフォルニア」を聴いてみた。
曲の素晴らしさは色褪せていないどころか、むしろ今の方が胸の奥に沁みるものがある。それに、改めて歌詞を反芻したところ、私は曲の真意を何ら理解していなかった、ということに気がついたのだった。
「ホテル・カリフォルニア」は、「夢のカリフォルニア」を内包していたのだ。
*
「ホテル・カリフォルニア」の主要なところの原語を付して、大筋の内容を記してみよう。
「Hotel California」の歌は、こう始まる。
On a dark desert highway, cool wind in my hair
Warm smell of colitas rising up through the air
暗い砂漠のハイウェイに、私の髪に冷たい風が絡む
生温かいコリタスの匂いが、辺りに漂っている
※「colitas」(コリタス)→サボテンの一種で、マリファナの隠語となっている。
舞台はカリフォルニアの砂漠エリアのハイウェイ。
長時間の運転で疲れたのか頭が重くなり目がかすむ。休憩しようと思っているところで、(建物の)入口のドアのところに女が立っていた。そして礼拝の鐘の音を聴いた。
私は心の中で自問した。ここは天国か、それとも地獄かと。
彼女はロウソクの灯をともし、私を案内した。すると、廊下の先からこう言ったように聞こえた。
“Welcome to the Hotel California
Such a lovely place Such a lovely face
Plenty of room at the Hotel California
Any time of year, you can find it here“
「ホテル・カリフォルニアへようこそ
ここは素敵な場所、素敵な外観
ホテル・カリフォルニアには充分な客室があるので
一年中いつでも、ご利用できます」
ゴージャスな彼女を取り巻く美少年たち。ある日、彼らはホテルの中庭でダンスを踊っていた。各々の夏の日を思い出しているかのように。
So I called up the Captain "Please bring me my wine"
He said, "We haven't had that spirit here since 1969"
私は支配人を呼んで言った。「ワインを飲みたいんだが」
彼は言った。「1969年から、私たちはそのような酒(スピリッツ)をご用意しておりません」
※「spirit」→「spirits」(スピリッツ)とはウオツカ、ジン、テキーラなどの蒸留酒である。ワイン(醸造酒)を頼んだのに、「スピリッツ」(蒸留酒)はないと答えている。本来、「spirit」は精神、魂の意味がある。
「1969年以来、そのような精神は失くしました」と解釈できる。
そして、遠くからあの声が聞こえる。真夜中に目が覚めると、こう言っている。
"Welcome to the Hotel California"
Such a lovely place Such a lovely face
They livin' it up at the Hotel California
What a nice surprise, bring your alibis"
「ホテル・カリフォルニアへようこそ
ここは素敵な場所、素敵な外観
みなさん、ホテル・カリフォルニアではとても楽しんでおられます
なんと素敵なサプライズ、アリバイ口実を作ってお越しください」
ゴージャスな部屋、贅沢な待遇。
And she said
"We are all just prisoners here, of our own device"
そして、彼女は言った。
「私たちみんなここでは、自分自身で仕組んだのだけど囚われの身なのです」
支配人の部屋で祝宴が行われた。彼らは鋭いナイフで獣を刺すのだが、殺せない。
私が最後の覚えていることは、ドアを探して走っていることだ。前にいた場所へ戻る通路があるはずだと。
“Relax” said the night man
“We are programmed to receive”
“You can check out anytime you like,
but you can never leave”
「落ち着いて」と夜警の男が言った。
「私たちは受け入れるようにできているんです」
「好きな時にチェックアウトできますが、決して出て行くことはできません」
※ここで歌は終わるが、ギターによるメロディーが余韻を持って続きフェイド・アウトしていく。
まるで、ギター・メロディーで奏でる短編小説のごとくである。
じっくり歌詞を反芻すると、一節ごとに深い意味が隠されていて、暗喩に充ちた歌であろうことに気づかされる。
かつて華やかだった過ぎし日の“夢のカリフォルニア”を偲んだ憂いの曲……それだけにとどまらない。
ここでも書いているが、こうして戦後(第2次世界大戦後)、とくに1960年代、1970年代のアメリカの歴史を振り返ってみると、1968年、1969年は、多くの意味で時代の変換点だった。
「ホテル・カリフォルニア」は、アメリカの夢が幻想となってゆくのをいち早く感じてとって、暗喩表現して歌っていたのだ。
今では様々な解釈がされているが、それが1976年に書かれたことに、深い嘆息と感嘆を覚えるのである。
アメリカの夢は、「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)から「夢のカリフォルニア」(California Dreamin')へ。そして、「ホテル・カリフォルニア」(Hotel California)へと繋がっていたのだ。
「ホテル・カリフォルニア」は、ロック・ミュージックの純文学である。
難解、高尚、格調を携えている。
(写真は「ホテル・カリフォルニア」のLPアルバムの表紙。モデルはハリウッドに隣接する「ザ・ビバリーヒルズ・ホテル」)
フランスの歴史・社会学者のエマニュエル・トッドの「西洋の敗北」は、アメリカ、ヨーロッパを中心とした現在の世界情勢を豊富な資料を土台に、冷静に分析・予感している書である。
この書について書こうとしたら、思索の内容はブーメランのように跳び出し、アメリカに関する私的散策となっている。跳んだ思索はどのみち戻ってくるし、地球は自転しながら公転している。
戦後(第2次世界大戦後)、アメリカの夢と栄光は「アメリカン・グラフィティ」の1962年までだったのか?
※ブログ「西洋の敗北③ アメリカン・グラフィティ」
1960年代後半、冷戦下でのベトナム戦争への介入、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺、黒人層による公民権運動などの余波で、アメリカは繁栄の陰が露わになっていた。
“夢のカリフォルニア”に象徴される、「愛と平和」を掲げるカウンター・カルチャの波。
1968年、揺れるアメリカは転換点だった。いや、世界は揺れていた。
「花のサンフランシスコ」は、ひと時の幻想だったのか?それで、「花はどこへ行った?」のか。
1969年、「ウッドストック」の野外大コンサートが行われる。愛と平和を謳ったヒッピーと若者たちによるマリファナが漂う一大イベントの開催。
その後、コンサート中に殺人が発生した「オルタモントの悲劇」。ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリンの相次ぐ死亡。
※ブログ「西洋の敗北④ 「花はどこへ行った?」」
*花の終わりか、始まりか? 1970年代の世界
1970年代、60年代に咲かせた花を喪ったアメリカは、どこへ向かおうとしたのか?
1970年、ビートルズの解散。
ロック・ミュージックは、従来のロックに加えてハード・ロック、プログレッシブ・ロック、グラム・ロック、そしてパンク・ロックなど多様なジャンルが発生し、スタジアム・バンドも多く登場する。
一方、ソロ活動のアーティストも多くなっていく。
1973年、アメリカはパリ和平協定に基づいてベトナムから軍隊を撤退させた。しかし、しかし幾らかの支援部隊は残り、ベトナム戦争の実質的な終戦は、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)の陥落と北ベトナムが全土を掌握した1975年だった。
今年(2025年)、ベトナム戦争の終結から半世紀(50年)がたった。
1973年、オイルショック発生。
第四次中東戦争に続いて、石油輸出国機構のアラブ諸国による石油戦略の実施による原油供給逼迫および原油価格の高騰に伴い、アメリカはじめ世界経済全体が大きな混乱をきたした。
1974年、ウォーターゲート事件でニクソン米大統領が辞職。ジェラルド・R・フォードが大統領に昇格。
1975年、アメリカ、フランス、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアによる第1回先進国首脳会議(サミット)が、フランスのランブイエで開かれる。
1976年、中国の周恩来、毛沢東、相次いで死去。翌1977年、中国共産党、鄧小平復活。文化大革命終結宣言。
その頃、日本はどのような時代だったか?
1968(昭和43)年から1969(昭和44)年にかけて、東大闘争、日大闘争をはじめ、学生運動が全国的に盛んになる。しかし、翌年の「70年安保」闘争を境に、政治の季節は衰退化していく。
1970(昭和45)年、大阪万国博覧会が開催される。
日本赤軍による、よど号ハイジャック事件が起きる。
三島由紀夫、市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺。
1971(昭和46)年、ザ・タイガースが解散し、GS(グループ・サウンズ)ブーム消滅へ。
前年創刊の女性向け雑誌「アンアン」のあとを追って「ノンノ」が創刊され、「アンノン族」が生まれる。
1972(昭和47)年、「日本列島改造論」の田中角栄が首相に就任。日中国交回復を実現する。
1973(昭和48)年、世界の外国為替市場でのドル売り、国際通貨危機への対応で、スミソニアン体制崩壊となる日本は変動相場制へ移行。
1974(昭和49)年、スプーン曲げのユリ・ゲラーの来日で、全国に超能力とオカルト・ブーム。
*1960年代後半~1970年代のフランス
私の出版社同期入社(同期の桜)の友人であるカメラマンが、入社3年目の1971年に退社して、何の目的もなく、アメリカを見てくるといって旅立った。
当時アメリカは、かろうじて幻影を抱かせる魅力を保持しているようには見えた。
1970年代、私はアメリカへの興味は失せて、多様で多彩なフランスへ憧れを抱いていた。
フランスは、経済的にはアメリカに劣りはしても、文化面では輝きを放っていた。
ガブリエル・シャネルがいて、イヴ・サンローランがパンツ・スーツ(シティ・パンツ)をひっさげ、パンタロンでパリを席巻したファッション界。
J・R・ゴダール、フランソア・トリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグの波を色褪せることなく撮っていた映画界。
ヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)と呼ばれ、アラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラス等が斬新な作品を発表していた文学界および映画界。
J・P・サルトルやボーヴォワールが社会・政治へのアンガージュマン(参加)を唱えていた実存主義の広がる思想界。
音楽界では、シャルル・アズナブール、イブ・モンタンの従来のシャンソンの流れに荒波をたてるかのように、セルジュ・ゲンスブール、そして、シルヴィ・ヴァルタン、フランス・ギャル、ミッシェル・ポルナレフ、フランソワーズ・アルディ……等、フレンチ・ポップスが浸透していた。
フランス、とりわけその中心であるパリは、アメリカに比し歴史に醸し出された芳醇な香りがしているよう思えた。
1970年代、友人のカメラマンがアメリカに幻影を抱いていたのに比し、フランスかぶれしていた私は、行き詰まった自己の現状を打破するには、ともかくパリへ行かねばとの思いが募り、夜フランス語学校に通った。
1974年、フランス語は生齧りのまま、僅か3週間だがパリへ旅した(帰りにリスボン、アテネに寄った)。振り返れば、この初めての海外への旅は、その後の人生の基点となったように思う。
*謎をかける「ホテル・カリフォルニア」
1976年、「ホテル・カリフォルニア」 (Hotel California)が、アメリカのロックバンドであるイーグルスによってアルバム発売される。
一度聴いたら忘れられない、不思議な魅力を漂わせる名曲だ。
迷宮に誘われそうなギターによるメロディーで、その歌っている内容は物語風なのである。
車を走らせていたカリフォルニアの砂漠地帯で、思わず入ったホテルが舞台。そのホテル・カリフォルニアは、壮麗で何でも揃っていそうなホテルだが、どこか奇妙で落ち着かない雰囲気が漂っている。そのホテルでの不思議な体験……というくらいにしか発売された当時は思っていなかった。
時代が移り、アメリカの変容が次第にあからさまになるこの時期、約半世紀ぶりにじっくり「ホテル・カリフォルニア」を聴いてみた。
曲の素晴らしさは色褪せていないどころか、むしろ今の方が胸の奥に沁みるものがある。それに、改めて歌詞を反芻したところ、私は曲の真意を何ら理解していなかった、ということに気がついたのだった。
「ホテル・カリフォルニア」は、「夢のカリフォルニア」を内包していたのだ。
*
「ホテル・カリフォルニア」の主要なところの原語を付して、大筋の内容を記してみよう。
「Hotel California」の歌は、こう始まる。
On a dark desert highway, cool wind in my hair
Warm smell of colitas rising up through the air
暗い砂漠のハイウェイに、私の髪に冷たい風が絡む
生温かいコリタスの匂いが、辺りに漂っている
※「colitas」(コリタス)→サボテンの一種で、マリファナの隠語となっている。
舞台はカリフォルニアの砂漠エリアのハイウェイ。
長時間の運転で疲れたのか頭が重くなり目がかすむ。休憩しようと思っているところで、(建物の)入口のドアのところに女が立っていた。そして礼拝の鐘の音を聴いた。
私は心の中で自問した。ここは天国か、それとも地獄かと。
彼女はロウソクの灯をともし、私を案内した。すると、廊下の先からこう言ったように聞こえた。
“Welcome to the Hotel California
Such a lovely place Such a lovely face
Plenty of room at the Hotel California
Any time of year, you can find it here“
「ホテル・カリフォルニアへようこそ
ここは素敵な場所、素敵な外観
ホテル・カリフォルニアには充分な客室があるので
一年中いつでも、ご利用できます」
ゴージャスな彼女を取り巻く美少年たち。ある日、彼らはホテルの中庭でダンスを踊っていた。各々の夏の日を思い出しているかのように。
So I called up the Captain "Please bring me my wine"
He said, "We haven't had that spirit here since 1969"
私は支配人を呼んで言った。「ワインを飲みたいんだが」
彼は言った。「1969年から、私たちはそのような酒(スピリッツ)をご用意しておりません」
※「spirit」→「spirits」(スピリッツ)とはウオツカ、ジン、テキーラなどの蒸留酒である。ワイン(醸造酒)を頼んだのに、「スピリッツ」(蒸留酒)はないと答えている。本来、「spirit」は精神、魂の意味がある。
「1969年以来、そのような精神は失くしました」と解釈できる。
そして、遠くからあの声が聞こえる。真夜中に目が覚めると、こう言っている。
"Welcome to the Hotel California"
Such a lovely place Such a lovely face
They livin' it up at the Hotel California
What a nice surprise, bring your alibis"
「ホテル・カリフォルニアへようこそ
ここは素敵な場所、素敵な外観
みなさん、ホテル・カリフォルニアではとても楽しんでおられます
なんと素敵なサプライズ、アリバイ口実を作ってお越しください」
ゴージャスな部屋、贅沢な待遇。
And she said
"We are all just prisoners here, of our own device"
そして、彼女は言った。
「私たちみんなここでは、自分自身で仕組んだのだけど囚われの身なのです」
支配人の部屋で祝宴が行われた。彼らは鋭いナイフで獣を刺すのだが、殺せない。
私が最後の覚えていることは、ドアを探して走っていることだ。前にいた場所へ戻る通路があるはずだと。
“Relax” said the night man
“We are programmed to receive”
“You can check out anytime you like,
but you can never leave”
「落ち着いて」と夜警の男が言った。
「私たちは受け入れるようにできているんです」
「好きな時にチェックアウトできますが、決して出て行くことはできません」
※ここで歌は終わるが、ギターによるメロディーが余韻を持って続きフェイド・アウトしていく。
まるで、ギター・メロディーで奏でる短編小説のごとくである。
じっくり歌詞を反芻すると、一節ごとに深い意味が隠されていて、暗喩に充ちた歌であろうことに気づかされる。
かつて華やかだった過ぎし日の“夢のカリフォルニア”を偲んだ憂いの曲……それだけにとどまらない。
ここでも書いているが、こうして戦後(第2次世界大戦後)、とくに1960年代、1970年代のアメリカの歴史を振り返ってみると、1968年、1969年は、多くの意味で時代の変換点だった。
「ホテル・カリフォルニア」は、アメリカの夢が幻想となってゆくのをいち早く感じてとって、暗喩表現して歌っていたのだ。
今では様々な解釈がされているが、それが1976年に書かれたことに、深い嘆息と感嘆を覚えるのである。
アメリカの夢は、「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)から「夢のカリフォルニア」(California Dreamin')へ。そして、「ホテル・カリフォルニア」(Hotel California)へと繋がっていたのだ。
「ホテル・カリフォルニア」は、ロック・ミュージックの純文学である。
難解、高尚、格調を携えている。
(写真は「ホテル・カリフォルニア」のLPアルバムの表紙。モデルはハリウッドに隣接する「ザ・ビバリーヒルズ・ホテル」)