かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「西洋の敗北」② スプートニク・ショック

2025-03-31 03:35:45 | 人生は記憶
 最近、よく「霧のカレリア」という曲を聴いている。もう60年も前の懐かしい曲だ。

 先の「西洋の敗北」①で、アメリカの「スプートニク・ショック」に触れた。
 第2次世界大戦の終盤、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリン書記長の間で、「ヤルタ会談」が行われた。いわゆる、超大国による戦後体制の協議である。
 この第2次世界大戦における太平洋戦争終盤、アメリカは1945年8月、広島、長崎に新型爆弾(当時の日本の呼称)を投下した。このことは、世界で初となる原子爆弾を開発・保持していることを世界に実証したことであった。
 つまり、アメリカが核というそれまでの破壊力に比較にならない突出した戦力を持ったこと、それを開発した科学力があったことを示したのだった。
 第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わったといえ、戦場となったヨーロッパはどこも被害を負い国は疲弊した。そのなかで戦争に参加したとはいえほぼ本土は無傷のアメリカは、戦後、経済的にも戦力的にも一歩抜きに出た大国となった。
 そしてこの後、「ヤルタ会談」での戦勝大国の一国だった共産主義国・ソ連も、1949年、核兵器を開発し、その戦力を保持・拡大していく。
 こうして、アメリカとソ連は静かな覇権争いに突入して、アメリカと西側ヨーロッパ諸国の「NATO」(北大西洋条約機構)とソ連と東側ヨーロッパ諸国の「ワルシャワ条約機構」(WP)の対立へと発展していく。
 そして、世界は冷戦下へ移っていく。

 *地球の片隅にまで届いた、「スプートニク」の衝撃

 戦後、鉄のカーテンが引かれた冷戦下の世界。
 それでも、あらゆる面でアメリカは抜きに出ているように見えたし、アメリカ自身もそう自負していたように写った。
 そんななか、1957(昭和32)年10月4日、ソ連によって人工衛星が打ち上げられたというニュースが全世界に発せられた。その名の「スプートニク1号」は、地球を周回する人類最初の人工衛星であった。
 当時、私は小学6年生であったが、大きな衝撃を受けた。矢のようなアンテナを持った丸い物体が空の彼方へ地球を抜け出て、それが月と同じように地球を周っているということに驚いた。
 突然、それまで宇宙という想像・空想、物語の世界が身近なものとなった出来事だった。

 このスプートニク1号は、九州の片隅の少年にまで衝撃を与えたのだから、おそらく威信を傷つけられたアメリカの受けた衝撃は計り知れない。
 この「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ1か月後の1957年11月3日、ソ連は今度は犬(ライカ犬)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。
 人工衛星に生きた犬が乗っているのである。ということは、人間が乗って宇宙に行くのもまったく夢物語ではなくなったということを意味していた。
 九州の少年にとっても、さらなる驚きだった。

 そのときの心情は、その2か月後(1958年1月)の私の年賀状に表れている。スプートニクが描かれているのだ。
 正確には、版木に掘られた彫刻画(版画)である。小学生でも年賀状を出していたのだな、誰に出していたのだろうか、と振り返る。
 当時、年賀状は彫刻刀で木版に彫った版画にしていた。1958(昭和33)年が戌年だったので、犬の版画を作ることにした。1957年の12月に彫ったのだろう。
 物置の奥に残っていた木版を取り出して見ると、忘れていたのだが1958年の版画が3枚ある。一つは、標本画のような平凡な犬の版画である。それにもう一つは、獅子舞の衣装を着飾った少年の前に座った犬の版画(これは今見ても凝った絵柄である)。
 しかしこの2枚を作った後、あのスプートニクのライカ犬がひらめいたのだろう。いや、あのライカ犬はどうなったのだろうと、頭の中で忘れられなかったのかもしれない。
 そして、決定版として、ライカ犬のスプートニクの版画を作ったのだ。今回その版画を、墨をすってハガキ大の紙に摺ってみた。墨の写りが悪いのは勘弁としよう。(写真)
 今思えば、テレビもネットもなかった時代である。どうして私はスプートニクの細かな情報を知り得ていたのだろう。ラジオと新聞からであろうか。

 *切手と歌に表れた「スプートニク」

 人工衛星スプートニクが打ち上げられた1957年はどんな年だったのか?
 前にも書いたが、私は切手少年でもあった。だから、記念切手で日本の大きな出来事を知ることもあった。この年の記憶に残った記念切手をあげてみる。

 ・国際連合加盟記念 国際連合加盟
 1966年12月、日ソ共同宣言が成立したことを受けて、日本の国際連合加盟が実現。日本は80か国目の加盟国となった。
 ・地球観測年記念 南極観測 昭和基地で開始
 観測船「宗谷」で南極に向かった日本の南極観測隊は、1月、白瀬中尉以来45年ぶりに南極大陸に上陸し日章旗を掲げた。昭和基地が設営され、西堀栄三郎越冬隊長以下11人が越冬し、日本の南極観測の歴史が始まった。
 ・原子炉完成記念 東海村で原子炉に火がともる
 茨城県東海村で日本最初の原子の火をともす歴史的な作業が行われ、8月、研究用原子炉に火がついた。日本の原子力利用の第一歩を踏み出した。

 この記念切手の出来事だけを見ても、日本は大きな変動期だったことが分かる。

 そして、世界的には、世界初のソ連による人工衛星「スプートニク」の打ち上げである。
 このスプートニクに関する切手が世界各国(主に東欧)で発行された。
 私のコレクションの中にスプートニク関係が2枚あったので挙げてみよう。(写真参照)
 写真・上は、「DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」とあるので、ドイツ民主共和国、かつての東ドイツの切手である。
 写真・下は、ハングルがあるとおり、北朝鮮の切手である。これは驚きである。

 *「スプートニクス」が広げた「霧のカレリア」

 冒頭にあげた「霧のカレリア」は、1965年にスウェーデンのバンド、「ザ・スプートニクス」がリリースしたエレキ・ギターによるインストゥルメンタルである。
 当時のエレキ・バンドといえばアメリカのザ・ベンチャーズが有名だが、この「ザ・スプートニクス」は、人工衛星スプートニクにちなんで宇宙服を着て演奏した、知る人ぞ知る人気バンドであった。
 ここでいうカレリアとは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる地方の名前である。曲中にロシア民謡の「トロイカ」がアレンジされて入っている。
 また、「哀愁のカレリヤ」という曲があるが、こちらはザ・スプートニクスのメンバーがフィンランドで結成したフィーネーズの名でレコーディングしたもの。ほぼ「霧のカレリア」と同じ曲相である。

 このように、「スプートニク」は、全世界の様々な方面に思わぬ影響を与え、広範に波及したのだった。
 そして、人類が初めて宇宙飛行に成功したのは、スプートニク1号飛行の約3年半後の1961(昭和36)年4月12日、ソ連のボストーク1号に乗ったユーリ・ガガーリンによってであった。
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「西洋の敗北」① アメリカへの想い

2025-03-09 02:07:57 | 人生は記憶
 エマニュエル・トッドの「西洋の敗北」(文藝春秋刊)を読み、それに関連してアメリカについての個人的な想いを書き始めていたら、本題とは違った方向へ行ってしまった。
 私の場合よくあることだが、流れに任せて書いている。

 *憧れのアメリカ

 戦後の民主主義の時代に育った私の少年時代は、アメリカは輝いていた。
 私たち、少年たちにとってのヒーローは、漫画や映画のなかの“ターザン”や“スーパーマン”だった。西部劇のカウボーイも格好良かった。
 日本にテレビが普及したのは1950年代の後半からで、それでも最初のころはテレビのある家は滅多になかった。1959(昭和34)年4月、当時の皇太子(現上皇)のご成婚の実況中継を、わが家にはテレビがなかったので近所の親類の家に見にいった。
 映画やテレビのなかで見るアメリカは、絵本にあるような庭のあるきれいな三角屋根の家で、家のなかはすでに冷蔵庫や洗濯機、テレビといった電化製品が並んでいて、広い道の玄関わきには車(自動車)さえ置いてある。
 家族はイスとテーブルで食事をし(当然のことだが)、何でも知っている陽気なパパと少しうるさいが楽しいママがいる一家のもめごとや些細な事件は、いつも楽しそうであった。
 画面の向こうの家庭から見えるアメリカという国は、遠い別世界であった。
 一方、木造の狭いあばら家で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)でせいぜい煮魚と味噌汁ぐらいの食卓の当時のわが家とは比べることすら思いもしない、海の向こうのアメリカは豊かな国だった。
 実際、戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは自他ともに認める自由で民主主義の先頭を走っている大らかな国といえた。少なからず、憧れを持たせる国であった。

 1957(昭和32)年のソビエト連邦による人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げは、全世界を驚愕させた。
 まだ小学生だった私は、人間が打ち上げた尾を付けたような丸い球が宇宙まで飛んで行き、それが地球を周っているということに、驚きと共に感動し、しばらく空を見上げていたものだった。年をとり、徒(いたずら)に長く生きた私の人生のなかでも、最も衝撃を受けた出来事だったと言えるかもしれない。
 世界のトップを走っていたアメリカは「スプートニク・ショック」となって、あらゆる場面でソ連(ソビエト連邦のちロシア)と覇権争いをするようになっていった。

 *初めての文通

 1950年代末、九州の田舎でのこと。
 中学に入ったとき、授業科目に「英語」が加わった。教科書は「ジャック・アンド・ベティ、JACK AND BETTY」である。
 「 I am a boy. I am Jack Jones. You are a girl. You are Betty Smith. 」 こんな文で始まった。
 それで、通い始めた寺小屋のような塾の先生の勧めで、英語の勉強の手助けにもなるだろうと、アメリカの同じぐらいの年齢の女の子(中学生)と文通をすることにした。
 私は、ウキウキした気持ちで手紙を送ることにした。英文など書けるわけがないので、文は先生に書いてもらった。
 ほどなくして、返事の手紙が届いた。相手の女性はアメリカのオクラホマ州の同じ年齢の少女であった。オクラホマ州がどこにあるかは知らなかったが、海の向こうのアメリカから来た手紙に心躍った。
 手紙のなかには、3人姉妹ということで、3人のポートレート写真が同封されていた。写真のなかの彼女たちは、キレイにおめかししていてニコッと笑っている。そのなかで、愛嬌はありそうだが丸顔で眼鏡をかけた“ベティちゃん”みたいな次女が手紙の相手だった。
 手紙の文は先生が訳してくれたのだが、そのなかで私の写真を送ってくれと書いてあった。
 私は困った。写真機など持っていない。写真といえばクラスで並んでとった卒業写真ぐらいで、ちゃんとした写真などない。個人の写真であるのは、子どものときのもので、最近のといえば近所の畑の前で弟と並んで撮った写真が1枚あるぐらいである。それも、袖丈の短くなった学生服に学生帽子といういでたちである。
 しかし、その後のいきさつが霧のなかである。
 文通はそれきりだったことを思えば、私が気後れして手紙を書かなかったのか、あるいは相手からの返事がこなかったのかもしれない。自分に英語の実力がないとはいえ、英文を塾の先生に丸投げするのが、内心腑に落ちない思いも多少あった。
 それ以後、私のアメリカ少女との文通の気持ちは消え去り、塾もほどなくやめてしまった。

 その頃、たぶん全国的にと思うが、海外との文通がちょっとしたブームであった。日本がやっと海外に目を向ける余裕が出てきたのか、中・高校生の間の切手ブームも関係がないとも言えないだろう。海外の切手は珍しかった。そして私も切手少年であった。
 当時、私の周りの友人の間で海外文通は話題にはのぼったが、長く続けているという人間はいなかった。みんな、私みたいに挫折したか、一歩を踏みださなかったのだろう。
 文通を続けていれば、その後アメリカに対する関心も変わり、私の英語も少しはましになったかもしれない。

 当時、アメリカとの文通を案内していた、手書きのガリ版刷りでホチキス(ステープラー)で留めた十数ページの小雑誌「エンゼルANGEL」を手にしたとき、急に世界(アメリカ)が近くなったような気持になった。
 それは、何人かの個人が国際親善協会(門司市)という名で発行している、手作りの小雑誌である。あと書きに、希望は月刊だが、できれば2か月に1回、あるいは季刊にしたいと言い訳気味に書かれていた。不定期刊で市販されているのではなく、会費によって賄われているようだ。塾の先生が会員だったのかもしれない。
 内容は、可愛いイラスト交じりで、海外への郵便料金、アメリカへの手紙の書き方などが紹介されていた。興味深いのは、郵便料金の項で、「琉球」が別項目で扱われていることだ。「沖縄」がまだ日本に復帰していなくて、ドル扱いだったのだ。
 実は、今でもその手書きのガリ版刷りの小雑誌は保管している。(写真)

 中学の時のアメリカ少女との“かりそめの文通”は、私の初めての海外とのささやかな接触だった。

 *花はどこへ行った Where have all the flowers gone?

 長じて、1960年代後半のこと。
 ラジオの深夜放送からは、アメリカのポップスやフォークが流れていた。
 「夢のカリフォルニア California Dreamin'」(ママス&パパス)は、アメリカの西海岸カリフォルニアに夢を抱かせた。
 「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」(スコット・マッケンジー)は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。
 アメリカの60年代後半は、ベトナム戦争抜きでは語れないだろう。この激しさを増す戦争に反対する運動として起こったのが「武器ではなく花を」、「愛と平和」をスローガンにした「フラワー・ムーブメント」だった。
 このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で世界に影響を与え、サブカルチャーの花を咲かせた。

 後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。

 依然アメリカは輝いていたし、世界に影響を与え続けていた。

 *アーカイブス――エマニュエル・トッド

 混迷する国際情勢に関する発言・発信において、近年注目されているフランス人の歴史・人類学者のエマニュエル・トッドである。
 最新作「西洋の敗北」は次回にするとして、参考までに、当ブログにおけるエマニュエル・トッド関連記事は以下の通り。

 ・「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-09-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a

 ・西洋の没落「トッド人類史入門」(2023-10-14)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/c96708f0dceb619cc99574f786a513f4



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「ジタン」の香り…を探って

2024-09-18 01:37:45 | 人生は記憶
 「アラン・ドロンのいた時代」を書いたあと、書かなかったことが気になっていた。
 ※ブログ「アラン・ドロンのいた時代」(2024-08-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bd76b23b284ab180e2b0bda4d5dc0c9f

 それは、A・ドロンが主演した映画の一つ「ル・ジタン」である。
 「ル・ジタン」(Le Gitan)は、1975年に公開されたフランス映画で、犯罪のなかに身を置く“ジタン”と呼ばれる男の生きざまを描いた、いわゆるフィルム・ノワールである。
 気になっていたのは、映画の内容ではない。「ジタン」という言葉、その響き。そして、それが持つ独特の香りである。

 「ル・ジタン」(le gitan)はフランス語で、「ル」(le)は冠詞で、「ジタン」(gitan)は「ジプシー」(gypsy)のことである。
 「ジプシー」にはヨーロッパ各国で呼び名があり、スペイン語での「ヒタノ」(gitano)、ドイツ語の「ツィゴイナー」(zigeuner)も同様の意である。それらの呼称は自称ではなく外名であり、現在は「ロマ」(Roma)と呼称されている。
 サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」(Zigeunerweisen)も、「ツィゴイナー(ジプシー)の旋律」という意味になる。この曲は、サラサーテ本人によって演奏されたレコードも残されている。
 それを題材にして書いた小説が内田百閒の「サラサーテの盤」で、さらにそれを原案として鈴木清純が「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)という特異な映画を作った。この映画の出演者の原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代という顔ぶれを見ただけで、この映画の幻惑性が滲み出ている。

 *1975年ごろ、「地下室のメロディー」での「ジタン」のこと

 あの頃、つまり、アラン・ドロンの「ル・ジタン」が封切られた1975年ごろのことである。
 私が出版社に勤めていたときで、社屋ビルの地下に組合事務室が設けられていた。ガリ版刷りのインクの臭いがする日の当たらない暗い部屋だった。その頃、たまたまその委員長になって(選ばれて)しまった。それで、私はその事務室を勝手に「地下室のメロディー」と名づけた。
 このことは、「アラン・ドロンのいた時代」にちらと書いた。

 そのころ、1970年代だが、日本は急速な経済成長とともに全国的に組合活動も活発だった。特に出版業界はそうだったように思う。
 去年(2023年)、百貨店そごう・西武の労働組合がストライキを実施したとして話題になったように、近年、日本ではほとんど行われていないようだが、当時はストライキも労働争議も珍しいことではなかった。フランスでは、今でも頻繁にストライキを行っているが…。

 それで「地下室のメロディー」の話の続きだが、労使による団体交渉の時は、会議室にて双方の代表者がお互いテーブルに向き合って座った。
 春のベースアップや夏季と冬季のボーナス(賞与)のときは、話し合いの交渉はしばしば深夜に及んだ。交渉の大詰め段階では、最終決定権を持つ社長が出席する。
 会議室において、社長を真ん中にした経営者陣と委員長を真ん中にした組合執行委員が対峙する構図になる。
 室内は、タバコの煙でけむったい。当時、稀に喫(す)わない者もいたが、男性はほとんど喫煙者だった。もちろん、私も喫っていた。
 テーブルの上にライターを置いた。
 “フランスかぶれ”だった私は、その前年(1974年)初めてパリに行き、唯一自分の贅沢品として買ってきたカルティエのライターを。
 前を見ると、社長のテーブルの脇にもライターが置かれている。それもカルティエだった。思えば、私よりはるかに人生の先輩である、初老の社長は年季の入ったフランス好きの洒落者だ。
 ※あとで、組合委員の一人が、「社長と委員長がカルティエのライターを横に言い争っているから、おかしくなっちゃったよ」と言って笑いあった。
 (そして、時間は過ぎていくなか)
 私は、ポケットから煙草(タバコ)を取り出した。
 それは「ジタン」だった。
 つまり、ここで私はライターのカルティエを自慢したくて書いているのではなく、この煙草の「ジタン」を言いたかったのだ。

 *「ジタン」を喫ったことはある?

 「ジタン」(GITANES)は、フランスの煙草である。
 日本の縦長のパッケージ(箱)と違ってやや横長の大きさである。絵柄は、紫煙を思わせる青い空と白い雲が波うつなかで、タンバリンか扇を舞いながらフラメンコを踊っている女性のシルエットが描かれている。
 フランスのタバコ「Gitanes」は、日本では「ジタン」と呼ぶが、正しくは女性名詞複数であるから「ジタンヌ」である。
 「ジタン」はアラン・ドロンも喫っていたらしいし、名前もそうだが見た目も格好いい。

 私は、学生時代は安い両切りの「しんせい」(当時20本入り40円)か「いこい」(20本入り50円)を買っていて、社会人になってからフィルター付きの「ハイライト」(20本入り70円)か「ロングホープ」(20本入り80円)を喫うようになった。
 あるとき、会社のカメラマンがこの「ジタン」の煙草を持っているのを見て、気障(きざ)なやつだと思ったが、日本でも「ジタン」が手に入るのかと心が動いた。
 私はすぐさま「ジタン」を買った。
 そして喫ってみたが、クセがあって結構きつい。日本のソフトな煙草に慣れてしまっていた身としては、続けては喫えなかった。
 それで、やはりフランス製の「ゴロワーズ」(Gauloises)を試してみたが、こちらの方がもっと喫いづらかった。
 であるから、「ジタン」はポケットに入ったままが多く、喫うのは格好つけるバーやスナックなどであった。
 しかしそれも長続きせずに、そのうち「ジタン」は買うのもやめてしまった。

 *
 そして、ほどほどの中年になったとき、世間の健康志向に負けて、何度かの試みのあと禁煙をした。
 そうではあったのだが、禁煙直後のころ、インドに行ったときに安い「ビディ」という原始的な煙草を見つけた。私は、インドだけの例外措置として、それを喫ってみた。焦げた葉や木を喫っているようで、旨くはない。
 この「ビディ」は、煙草の葉(スパイスの実も入っている)を木の葉で細く巻いて糸で括ったもので、身体に悪そうだが煙草の根源的な味がする。
 この「ビディ」を自分の土産に、日本に数個持ち帰った。そして、それを全部喫い終わったら完全禁煙にしようと改めて決意した。
 ところが、この「ビディ」を喫い終えたら、案の定、煙草が恋しい。すると、捨てる神あれば拾う神あり(適切な例えではないが)。当時、銀座中央通りにあったインド政府観光局の人が、そのビルの上にあるインド料理店「アショカ」に「ビディ」を売っていると教えてくれた。
 私は、こんな幸運なことがあろうかと、それでも自分に後ろめたさを感じながら、「ビディ」がなくなるたびに、これで最後と弱く心に誓いつつ、「アショカ」に料理は食べなくとも定期的に通うことになってしまった。
 禁煙と言いながら、「ビディ」喫煙状態が1年以上続いた。

 *フラメンコ・ロックの「ジタン」

 1970年代半ば、「ジタン」を格好だけで喫っていたころである。
 1975年、カルメン(Carmen)というロック・バンドが、「舞姫」(Dancing in a cold wind)なるアルバムを発売した。
 「カルメン」というグループ名に表れているように、演奏はフラメンコ・ロックという異色のロック・バンドだった。
 その曲よりも目をひいたのは、そのジャケットである。まったく煙草の「ジタン」のパッケージ・デザインそのものである。
 「カルメン」といえばメリメの小説をもとにしたビゼー作曲のオペラが有名である。これはスペインのセビージャが舞台の物語で、主人公カルメンはジプシー(ジタンヌ)である。
 (写真はカルメン「舞姫」のジャケット。その左下にあるのが煙草「ジタン」)
 確かに「カルメン」というグループのイメージにピッタリの絵柄ではあるが。

 *「ジタン」と、異国の香りの音楽

 そのころ1970年代後半、日本ではエキゾチックな内容の曲が流れ、ヒットした。
 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱……」
 庄野真代が歌う「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也、作曲:筒美京平、1978年)が、耳に心地よかった。
 「ジタン」を喫っていた気障な男はどうしたのだろう? バーで知りあった行きずりの乾いた恋なのか?
 「ジタン」と「イスタンブール」は、異国のエキゾチックな関係なだけ?

 「そこに行けば どんな夢もかなうというよ……」と、まだ見ぬところ、知らない国へ誘う歌。私たち(私と友人)は、その歌を恥じらいを含んで口ずさみながら、夜のネオンの輝く街を徘徊した。
 ゴダイゴの歌う「ガンダーラ」(Gandhara、作詞:奈良橋陽子・日本語詞:山上路夫、作曲:タケカワユキヒデ、1978年)は、シルクロード・ブームの火付け役となったようだ。

 すると、久保田早紀の「異邦人」(作詞・作曲:久保田早紀、1980年)が追いかけてきた。
 このエキゾチックな曲は「シルクロードのテーマ」として売り出された。
 「……ちょっとふり向いてみただけの異邦人」

 そして、1980年、東京はどこかの街、TOKIOになる。
 「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突きぬけ 星になる……」「TOKIO」(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦、1980年)
 「……TOKIOが空を飛ぶ」

 やがて、糸井重里のコピーによる西武百貨店のイメージCM「不思議、大好き」を人々が漠然と共有し、「おいしい生活」の世界観へ繋がっていく。
 日本は、この1980年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan as Number One: Lessons for America)と称され、いつしか後にバブルと呼ばれる時代に浸っていく。

 惜しむなかれ、あのフランス煙草「ジタン」は、もう日本での発売は終えている。
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逝きし駅の面影、「肥前山口駅」

2023-02-24 04:00:49 | 人生は記憶
 肥前山口駅は、佐賀県のほぼ中央にある、100年以上の歴史を持つ長崎本線と佐世保線の分岐点の駅である。
 古くは急行「雲仙・西海」や深夜特急「さくら」、3特急が連結して走っていた「かもめ・みどり・ハウステンボス」など、長崎発着と佐世保発着の特急の併結、分割がこの駅で行われていた。
 また、稚内駅から同じ駅や区間を使わずに、一筆書きで最も長いルートになる「最長片道切符の終着駅」としても、鉄道ファンには有名な駅である。2022年の西九州新幹線開業に伴い変更となったが、NHKのテレビ番組(2004年)で放映されたりもした。

 個人的にも特別な駅であった。
 私は肥前山口駅のある江北町の隣町の大町町で育ち実家がそこにあったので、佐世保線の一つ先となる武雄寄りの大町駅を乗降としていた。
 大町駅は各駅停車の列車しか停まらない。それで、急行あるいは特急列車で博多・東京方面へ行くとき(反対に帰るとき)、あるいは特急列車で長崎方面に行くとき(帰るとき)は、肥前山口駅で乗り換え利用した。
 肥前山口駅は、その駅の街としては大きくはないのだが、長崎本線と佐世保線の分岐点で、佐世保線の起点の駅であるから、急行や特急も停まらざるをえないのだ。

 1964(昭和39)年、大学受験で初めて東京へ行ったとき、肥前山口駅から急行「西海」に乗った。
 肥前山口駅は、佐世保線の佐世保駅からやってくる「西海」と、長崎本線の長崎駅からやってくる「雲仙」が、肥前山口駅で併結して東京へ向かった。
 2本の急行列車を連結させるので、停車時間があった。だから、ここで駅弁とお茶を買った。ホームには、首から弁当箱の山を抱えて「べんとー」と声をあげながら歩きまわる、駅弁売りがいた。
 大町駅を19時台の各駅停車で出て、肥前山口駅を急行「雲仙・西海」は20時過ぎに出発。東京駅には翌日の19時近くに着くという約1日の列車旅だった。
 その後、急行「雲仙・西海」、寝台特急「さくら」など、東京行きの列車がなくなり、代わりに新幹線が東京―博多間を通うようになり、佐賀空港もできたが、東京~佐賀(大町)間は、長年あれこれと列車を利用してきたのだった。
 肥前山口駅は、私にとって長い付き合いの馴染みの深い駅なのだ。

 *肥前山口駅が消えた

 肥前山口駅の歴史を振り返ってみよう。
 ・1895(明治28)年、九州鉄道の鳥栖駅から続く山口駅として開業。
 その後、九州鉄道は国鉄となり、さらに西の武雄・有田の先の早岐駅経由で長崎まで通ったことにより長崎本線となる。
 ・1913(大正2)年、山口県の国鉄山口駅が開業したことに伴い、肥前山口駅に改称する。
 本来、先に佐賀県の山口駅が開業しているので名前の優先権があるはずだが、譲った形となった。
 ・1934(昭和9)年、肥前山口駅より有明海に沿って路線が肥前鹿島駅、さらに諫早駅まで延びたことにより長崎駅に通じ、この路線が長崎本線に変更された。従来のルートは早岐駅を境に佐世保駅までの佐世保線と早岐駅から諫早駅までの大村線とに分離される。
 これにより、肥前山口駅は長崎本線と佐世保線の駅となる。

 ・2022年(令和4年)、肥前山口駅は江北駅に変更。
 駅が敷かれた1895(明治28)年当時は、この地は山口村だったので当初「山口駅」、そして「肥前山口駅」として100年以上続いていた。それが、現在はこの地が江北町となっているため町名と合わせる、との町長の説明である。
 私は肥前山口駅という名前に愛着を持っているし、歴史もブランドもあるので変えるのは軽率な判断だと思っていた。「肥前山口駅の江北町」でいいではないか。「博多駅」を表看板に発展してきた「博多駅の福岡市」を見ればいい。
 住民のなかでも多くの反対者がいたそうだが、改名(変名)は決定した。
 すでに変えてしまったものは仕方がない。
 それから……のことである。

 *どうする、肥前山口駅の遺産は?

 つい最近のこと、2023(令和5)年2月17日の朝日新聞夕刊(東京本社版)に、「なくなる駅名、残る思い出」との見出し、そして「西九州新幹線新駅で競売」「旧「肥前山口」駅名標25万円で落札」と大きく記事が出ていた。
 2月11日に、佐賀・嬉野温泉駅で鉄道関係の部品のオークションが開かれた。そこで目玉となったのが、なくなる肥前山口駅のホームに立ててあった駅名標だった。
 駅名標は数点出品され、注目を集めたのが最も古めかしく、駅名が変わる前日までホームに立っていたというもの。それが25万円で落札されたという。

 私は、驚きとともに落胆した。
 なぜ江北駅が、長きにわたって掲げてきた駅の看板ともいうべき駅名標を、資料として保存しなかったのかということだ。
 先にあげたように、肥前山口駅は佐賀県では鳥栖駅と並んで特別な駅である。江北駅は自らその名をなくしたのであれば、どうして肥前山口駅の面影を偲ぶ資料を展示・公開する、資料館なるものを駅舎内にでも造らないのだろう。
 そのような計画があるのだったら改めて言うことではないが、ぜひ造るべきだと思う。駅名標は、資料館の目玉になろう。それが、「遺産」というものである。

 さらにこの報道で驚いたのは、駅名が変わる前に、博多駅長が江北駅長に駅名標などを保存しておくように内緒で頼んだという。
 その理由が、オークションをやったときに出品すれば人気になるだろうという考えからのことだという。オークションの主催はJR九州と嬉野市である。
 オークションのために駅名標を保存するよう提案?
 方向が違うだろう。私は、後々遺産になるから駅で保存しておいた方がいい、という提案かと思ったのに。

 佐賀・鍋島藩は、幕末維新の時期、鉄精錬・反射炉や蒸気船の製造など、他藩に先駆けて科学技術の開発を成し遂げてきた。にもかかわらず、「明治日本の産業革命遺産」でも、佐賀県はほとんど”遺産”を残していない。
 あとには何も残さない。
 それが佐賀県の特質なのだろうか。

 *佐賀への私的愛着

 「佐賀は何もなか」と佐賀県人でも自虐的に言う人がいるが、「そんなことはなか」と、私はずっと異を唱えて、折にふれ発信もしてきた。
 このブログ「かりそめの旅」にて、佐賀を話題として紹介した一例を記しておこう。

・「未来に残したい「佐賀遺産」ベスト70とは?」(2011-12-31)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/06c2e45f631bf9cb02346e14d74fab8d
・「佐賀の偉人25人とは誰か?」(2019-02-11)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/d2166fc73737536a9a563f22aa2d8b03?fm=entry_awp
・「「唐津くんち」それとも「佐賀バルーンフェスタ」」(2015-11-07 )
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/ee71052e321251f740b7e168e77a9d80
・「胸に棘刺す有田の町の、陶器市」(2013-05-03)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/86f510c9df4c911b17c88d2adf24b1b6
・「佐賀・有田の山あいに、秘かに潜む宮殿!!」(2018-10-25)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/535b4eb97ab0ce5ac2a7081764764390
・「炭鉱王の邸宅・高取邸」(2008-02-01)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/107e7a99223f3f838b5f99ff22e946cc
・「東京駅から逃げ出した4匹の動物が、武雄温泉の楼門に」(2014-09-19)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bb2c173be8b8bb7871058b896eeb13a0
・「佐賀・白鬚神社の田楽」(2013-10-30)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/2cbcdf637fc6633e4af5925ecf850349
・「玄界灘・呼子のイカ」(2015-04-21)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/3f2903b6189a20d21f92a63038f00b82
・「待望の、鳥栖駅の焼麦弁当」(2013-02-03)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/1edc4c4a7f0cb12ed36e5bc0ae105a36
・「「たろめん」に見る、杵島炭鉱の面影」(2011-01-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/c/c1f17c562cf4ce7732605dbbe6eb3706/1
・「「にあんちゃん」を知っている」(2009-02-20)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/4177db915cfcc911cdc75cf02cbca3f3
・「ミシュランの☆佐賀探索①「ミシュランガイド福岡・佐賀版」」(2014-10-14)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/081e424381323fcd02ee7918177c5462

 *
・「稲佐神社のくんち」 (2006-10-20)
・「妻山神社のくんち」 (2006-10-23)
・「伊万里トンテントン祭り」 (2006-10-25)
・「唐津くんち」 (2006-11-07)
・「玄界灘に浮かぶ加部島の、佐用姫伝説」 (2008-01-08)
・「有田にあるツヴィンガー宮殿」 (2011-01-14)
・「秋の空を彩る、佐賀バルーンフェスタ」 (2013-11-02)
・「李香蘭の戸籍謄本」 (2007-03-30)
・「産業記憶遺産ともいえる、映画「にあんちゃん」(2012-02-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/c7e3bcebd4fc6135255d01044f5cc82d
・「「薩長土肥」の「肥」の象徴、鍋島直正」(2018-04-30)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b72bb7b136ef9560908e32b8197881ee

 *
 この文のタイトルは、昨年12月に亡くなられた熊本在住の思想史家、渡辺京二の代表作「逝きし世の面影」(平凡社)に倣った。

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パンデミック・コロナの時代④ コロナワクチンにまつわる私的喜遊曲

2023-02-12 03:03:02 | 人生は記憶
 <1>新型コロナワクチン前夜のこと

 2020(令和2)年が始まった時から次第に、というよりまたたく間に、「新型コロナウイルス」こと「COVID⁻19」という、今まで見たことも経験したこともない、得体のしれないものが忍び寄ってきていることを感じさせられた。
 それが実際に、世界中に拡大・蔓延しパンデミック(感染症の世界的大流行)と確定されたとき、歴史や資料や報道でしか知らない"コレラの大流行"とか"スペイン風邪が世界に蔓延"というのと同じ類の時代に、今は入っているのだと感じた。
 新型コロナ感染者は、日本でも世界各国でも日ごと目に見えて増えていくのを、連日報道される統計数字を見て、その恐怖と畏怖にまみれた不安対象が見えないだけに、気持ちは晴れ晴れとしたり高揚したりすることは極度に少なくなった。
 みんなが、マスクをつける、手を洗うといった防御以外になす術もなく、他人との接触も極力控えるという生活を余儀なくされたのだった。
 「不要不急」の外出を控え、「緊急事態宣言」も経験した。戒厳令より、まだましだろうが、これからも緊急事態宣言を受けるといったことはあるだろうかと考えてもみた。
 もともと私は家にいることが多いので、それまでの生活と基本的には変わらないのだけれど、外の空気が違った。街中を歩いても、どこも言いしれぬ不穏な空気が流れているのだ。この空気の中に、コロナウイルスが混じっているという潜在意識があったのかもしれない。

 新型コロナウイルスの発生から1年後の2020年の年末で、コロナ感染者は世界中で8千万人を超え、死者数は190万人にのぼった。
 蔓延する新型コロナウイルスに対する最大の防御対処法は、ウイルスに対するワクチンの開発だということだったが、それがいつになるかは不明のまま月日は進んでいった。

 <2>2021年はワクチン争奪年

 2021(令和3)年になると、開発されたコロナワクチンをEU先進国やアメリカなどで接種が始まった。
 日本国内でのワクチン開発はどうなっているのだろうと気になっていたが、いつになるかわからない日本国内の開発までは待っておれないと踏んだのか、日本政府は先行していた米ファイザー社、米モデルナ社、英アストロゼネカ社とワクチン供給の交渉を行っていた。
 アメリカやイギリスをはじめとするEU先進国の接種が進むなか、あとに回された日本は後れをとっていた。
 供給開始されたコロナワクチンは世界各国、とりわけ先進諸国の争奪戦の様相を帯びていた。見かねてWHOのテドロス・アダノム事務局長は、この感染症の性質上、世界各国が均等に供給されることが重要だと声明を出したほどだ。
 
 EU先進各国に後れをとっていた日本は、それでもファイザー社との粘りの交渉の結果、2月17日、日本における医療従事者(約480万人)向けワクチン接種が開始された。
 そして、4月12日、65歳以上の高齢者(約3,600万人)向けのワクチン接種が開始されることになった。その後、64歳以降の人へと移っていくこととなった。
 5月7日、菅首相が「1日100万回の接種を目標とし、7月末を念頭に希望するすべての高齢者に2回の接種を終わらせるよう自治体をサポートする」と表明。
 ※「パンデミック・コロナの時代② 世界を走らせたワクチン喧騒曲」参照。

 <3>日本でワクチン接種が始まった日

 2021年春、コロナワクチンを不安視する人(専門家も含めて)もいたが、新型コロナウイルスの感染者および死者が拡大している状況で、多くの人が1日も早いワクチンを接種しようと待ち望んでいた。
 そして4月、ワクチン接種券が各人に送られた。
 ワクチン接種の段取りは全国の各自治体に任せられていた。だから、各人に送られる接種券の送付日、接種の予約開始日、接種日、接種会場などは、自治体ごとに違っていた。
 ワクチン接種を希望する人は、まず摂取する日の予約をとらないといけない。
 予約方法は、電話かインターネットであった。
 5月に入って予約受け付けを開始する自治体が出てきて、テレビ新聞等のマスコミで報道された。
 そのなかでも横浜市は早かったと記憶しているが、その予約開始のいきさつはおそらく予約者が殺到すると思われたが、その予想を超えるものであった。
 電話はすぐにかからなくなったし、インターネットもすぐにつながらなくなったというものだった。何日かして、各自治体とも予約がとりにくい状況は続いているが、それでも電話より インターネットの方がまだましだという情報であった。

 <4>ワクチン予約奮戦記

 東京都多摩市は広報誌で「新型コロナウイルスワクチン接種、臨時号」(令和3年4月28日)が出て、高齢者向けのワクチン接種の段取り、日程が発表された。(写真)
 ・75歳以上、(予約受付開始日)5月6日午前9時~、(集団接種開始日)5月12日~。
 ・65歳~74歳、(予約受付開始日)5月19日午前9時~、(集団接種開始日)5月26日~。
 という2段階方式だった。

 2021年5月、私は、予約受付開始日の初日、インターネットで予約するため、パソコンで市のワクチン予約サイトを開いて机に座った。
 朝9時から予約開始とあるので、普通の人は別段朝早い時間ではないのだろうが、夜型の私としてはその日は早起きしたのである。
 入力は、説明書によると、画面にそって以下の通りである。
 ➀接種券に記載されている予約受付コード、確認番号を入力。②接種会場(多摩市の場合3か所から)を入力。③接種日の選択。④時間帯を選択。
 で、完了である。

 壁に架けてあるソーラー時計が朝の9時を回ったのを見て、おもむろにパソコンの予約サイトの画面を開いた。余裕を持って開いたのであった。
 しかし、繋がらない。慌てて、もう一度やり直したが同じであった。ウムム……
 しばらく時間をおいて、再度挑戦したらサイトに繋がった。すぐに予約しようと思ったら、そこには「本日の予約は終了しました」との文字があった。
 私は愕然とした。まだ予約開始スタートしたばかりなのに。サイトを開いたのは9時すぐ、おそらく9時2分ぐらいである。
 多摩市も御多分に漏れず予約殺到、炎上かと、その日は諦めた。
 それでも、もしや電話が繋がるかもと思いなおして、指定のコロナワクチンの予約専用ダイヤルを押してみた。当然、繋がらなかった。

 予約開始2日目、初日の2分が致命的だったのだと思い、9時ジャストにはパソコンの画面を開いて待ちうけた。今度は9時の、時計の秒針が12(0秒)を過ぎるのを待って、サイトの画面に繋げた。
 おっと、今回は繋がった。
 よしっ、と思って、➀の予約受付コードを入力し、次に移行した。②の接種会場をちらと見たところで、突然「本日の予約は終了しました」との文字が出た。
 ウムム……何としたことか。もう一歩のところだったのに。
 明日、また早起きしないといけない、やれ、やれ、との思いだった。
 悔しいので、近くに住む同年代の知人の老人に電話してみた。すると、彼も9時からパソコンで予約をとろうとしたが、私と同じで2日連続でダメだったと言った。
 小金井市の知人は、意外と簡単に予約がとれたと言った。
 ウム、自治体によって、だいぶん温度差があるようだ。

 予約開始3日目、またまた9時前に体制を整えて待ち構えた。
 9時03秒ぐらいに予約サイトにアクセスした。9時より前にアクセスしても繋がらないのは確認済みであった。
 今回は繋がって、最後の完了まで遂行できた。
 ワクチンの予約ができて、ひとまず安堵した。これで、新型コロナウイルスの不安からだいぶん解放されるという思いだった。

 *
 第1回目のコロナワクチンの接種は、5月22日の夕方3時半からだった。
 接種会場は、私が買い物に行く通りにある新築されたばかりのIT会社の1階大会議室の開放的なフロアーで、大人数で行われた。市およびその関連者(アルバイトも含めて)が受け付けや案内を行っていて、病院のような陰湿さはなく、明るい空気に充ちていた。
 接種を終わった後は、何だか解放された気分になっていた。言われていた副反応も、接種された方の左肩が少し痛かった程度で、ほとんどなかった。
 2回目のワクチン接種は、多摩市の場合、自動的に3週間後に同じ時間・会場での予約が組まれ、いちいち自分で再予約する必要のない仕組みとなっていた。その日が都合の悪い人は、自分で変更すればいいだけのことだった。
 ということで、2回目の接種は同じ会場で、6月12日に行った。

 *
 政府は、7月末時点で高齢者(約3,600万人)の8割程度が2回接種を終えていると発表した。
 依然、新型コロナの波は続いていて、この年、春の第4波ではアルファ株が流行。
 夏の8月には、特に高齢者には重症化率の高いとされるオミクロン株による第5波の到来があった。
 オミクロン株による高齢者への被害浸蝕を考えると、波の襲来からかろうじて切り抜けられたかの早急対応を要する時期だった。
 その後、64歳以下の一般人の接種率も、日本は先行した欧米先進国に比肩する高さまで急速にアップしていった。

 振り返ってみれば、当時の菅首相は世論(マスコミ)に叩かれはしたが、日本の遅れたワクチン対策を取り戻すかのように、ファイザー社のCEOと直談判を強行したり、「1日100万回のワクチン接種の実施」に見るように、その突破力は見直されてしかるべきであろう。

 ※参考データとして、コロナワクチン接種が始まったこの時期の、日本と世界のコロナ感染状況を記しておこう。
 ▷ 2021年4月1日
 ・日本=(感染者数)47万7691人、前日比+2605、(死者数)9194人、前日比+18。
 ・世界全体=(感染者数)1億3006万596人、(死者数)294万6957人
 ▷ 2021年7月1日
 日本=(感染者数)80万1337人+1754、(死者数)1万4808人+24
 世界全体=(感染者数)1億8314万8254人、(死者数)398万5219人
 ▷ 2021年10月31日
 ・日本=(感染者数)172万2343人+228、(死者数)1万8267人+7
 ・世界全体=(感染者数)2億4741万712人、(死者数)503万56人
 (日本経済新聞、「新型コロナウイルス感染 世界マップ」)


 <5>コロナの時代の終焉!

 2023(令和5)年の2月現在、日本は新型コロナウイルスを5月8日から感染症法上、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げるとした。
 期せずして、「パンデミック」という初めての体験をした。俯瞰的に言えば、人類が共有した。
 新型コロナウイルスの発生から3年がたって、特別で特殊な存在だった新型コロナウイルスが特別なものではなくなる終焉期を迎えるという、時の過度期であるのを見て、改めてコロナの時代を記憶に刻んでおこうと思った。
 とはいえ、コロナの時代が終わったわけではない。日本では、いや世界中でも、新型コロナウイルスは異株に変種して、生き続けていることを忘れてはならないだろう。

 現在の新型コロナウイルスの感染状況は、
・日本=(感染者数)3296万158人、前日比+2万7378、(死者数)7万579人、前日比+181。
 2023(令和5)年2月11日(朝日新聞)
・世界全体=(感染者数)6億7170万6664人、(死者数)684万4614人。
 2023(令和5)年2月5日(「日本経済新聞・新型コロナウイルス感染 世界マップ」)




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