フランスの歴史・人類学者のエマニュエル・トッドの近著「西洋の敗北」は、アメリカを筆頭とした西洋諸国の没落、それから見えてきた敗北をデータに即して説いている刺激的な書である。
その書に触発されて書き出したが、本書とは遠いところへ行ってしまい、個人的なアメリカへの想いをサブカルチャー的に書き綴っている。
*1960年代の、フラワー・ムーブメント!
戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは「自由で豊かな理想の国」として、海の向こうの憧れの国であった。
そのアメリカの夢は、1962年のアメリカ・カリフォルニアを舞台にした「アメリカン・グラフィティ」の季節が、最後の輝きだったのだろうか。(写真は、アルバム「アメリカン・グラフィティ vol.Ⅲ」)
※ブログ「西洋の敗北③アメリカン・グラフィティ」参照
その後アメリカは、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入、人種差別撤退を訴える反対運動など、それまで繁栄の輝きに隠れていた陰の部分が露わになってくる。
それに呼応してか、ジョーン・バエズやボブ・デュランなどのフォーク・シンガーが脚光を浴びてくる。
それでも、1960年代後半のカリフォルニアはアメリカ人にとっても憧れの地であった。
太平洋が西海岸に広がるカリフォルニアは、1962年に登場したビーチ・ボーイズによる、青い空と広いビーチ、海に戯れるサーファーたちに描かれるように、自由でのびやかなイメージを定着させた。映画スターのいるハリウッドの華やかさも魅力を付加させていた。
1965年にママス&パパスが発表した「夢のカリフォルニア California Dreamin'」は、温暖なカリフォルニアに夢を抱かせた。
1967年に大ヒットしたスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。
1960年代後半のアメリカは、ベトナム戦争抜きには語れないだろう。
激しさを増すベトナム戦争に反対するムーブメントの中心にヒッピーがいた。彼らの自然への回帰,既成の価値観を否定する思想は若者たちを惹きつけ、「武器ではなく、花を」をスローガンに、自然とカリフォルニアに集まっていった。
その行動は「フラワー・ムーブメント」と呼ばれ、やがて全世界に広がっていく。
このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で影響を与え、広がりを見せた。
花は、愛と平和のシンボルだった。
後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。
*花はどこへ行った ? Where have all the flowers gone?
1965年頃から、アメリカのベトナムへの攻撃が激化する。それにつれ、次第に反戦の声も高まっていく。
ベトナム戦争に反対する歌が流れだした1960年代後半、「花はどこへ行ったWhere have all the flowers gone? 」(ピート・シーガー)や「風に吹かれて Blowin' in the wind」(ボブ・ディラン)が意味を持って歌われた。
「花はどこへ行った Where have all the flowers gone?」
この歌は、最初は1955年、フォーク・シンガーのピート・シーガーによって制作・録音されたものだが、3番までしかなかった。それを、ジョー・ヒッカーソンによって4、5番が付け加えられ、1961年登録しなおされた。
歌の大体の内容を記すと、以下のようになっている。
(1)花はどこへ行った? 少女たちが摘んでいった。
(2)少女たちはどこへ行った? 少女たちは結婚し夫のもとへ行った。
(3)若い男(夫)たちはどこへ行った? 若い男たちは兵隊になり戦場に行った。
(4)兵隊たちはどこへ行った? 兵隊たちは墓に入りに行った。
(5)墓はどこに行った? 墓は花に覆われてしまった。
4、5番を加えたことによって、当初は普通のフォーク・ソングとして歌われていたのが、反戦歌の色彩が濃くなり、キングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、マレーネ・ディートリヒなど、多くの歌手によって歌われることとなる。
曲の各節の最後に、「When will they(you) ever learn?」(いつになったら学ぶのだろうか?)という文句が繰り返し付いている。
1984年サラエヴォ大会、1988年カルガリー大会でのオリンピックで、フィギュアスケートの金メダルに輝いた東ドイツ(当時)のカタリナ・ヴィットは、1994年のリレハンメルのオリンピック大会において、統一ドイツの代表として舞台に立った。
そして、フリー演技種目の最終演技者として登場した彼女は、この「花はどこへ行った」の曲で演技を行った。このことは、当時、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により戦火に曝されていた、サラエヴォへの想いを込めた演技だった。
1960年代、夢のカリフォルニア、花のサンフランシスコの花は、どこへ行ったのだろう?
*1968年は政治の季節
1960年代後半、アメリカはベトナムへの攻撃を拡大させつつあった。
1967年、世界ヘビー級王者のモハメド・アリ(カシアス・クレイ)がベトナム戦争に対する兵役拒否を宣言し、王座それにボクサーライセンスを剥奪され、禁固5年と罰金1万ドルを科せられる(1971年に合衆国最高裁で無罪となった)。
1968年、北ベトナム側のテト(ベトナムの旧正月)攻勢で、南ベトナム・アメリカ側、北ベトナム側の双方に多大な犠牲者が出る。
これ以降、アメリカ国内の反戦運動は激化していき、戦争に対する支持は低下して、大統領リンドン・ジョンソンは次期大統領選不出馬を表明する。
この年、ベトナム戦争は大きな転換期となった。
1968年、黒人の権利獲得を謳っていた公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)が暗殺され、全米に黒人の抗議行動が広がる。
また、大統領候補であった民主党のロバート・ケネディが暗殺される。大統領選挙では、共和党候補のリチャード・ニクソンが当選。
1968年、フランスでは、パリのカルチエ・ラタン地区などを主戦場に、学生を中心に五月革命がおこった。
その頃、日本でも学生運動が激しくなり、1968年の東大闘争は翌1969年の全共闘による安田講堂占拠事件、東大入試の中止と拡大するに至った。
*
「ウッドストック・フェスティバル」が、翌1969年8月15日から3日間、アメリカ・ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開催される。30組以上の出演者と、愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が会場に集まった。
主な出演者は、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バンド、クロスビー、スティルス&ナッシュ、サンタナ、ザ・フー、他。
これは、大規模な野外ロック・コンサートの先駆けとなった。
その書に触発されて書き出したが、本書とは遠いところへ行ってしまい、個人的なアメリカへの想いをサブカルチャー的に書き綴っている。
*1960年代の、フラワー・ムーブメント!
戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは「自由で豊かな理想の国」として、海の向こうの憧れの国であった。
そのアメリカの夢は、1962年のアメリカ・カリフォルニアを舞台にした「アメリカン・グラフィティ」の季節が、最後の輝きだったのだろうか。(写真は、アルバム「アメリカン・グラフィティ vol.Ⅲ」)
※ブログ「西洋の敗北③アメリカン・グラフィティ」参照
その後アメリカは、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入、人種差別撤退を訴える反対運動など、それまで繁栄の輝きに隠れていた陰の部分が露わになってくる。
それに呼応してか、ジョーン・バエズやボブ・デュランなどのフォーク・シンガーが脚光を浴びてくる。
それでも、1960年代後半のカリフォルニアはアメリカ人にとっても憧れの地であった。
太平洋が西海岸に広がるカリフォルニアは、1962年に登場したビーチ・ボーイズによる、青い空と広いビーチ、海に戯れるサーファーたちに描かれるように、自由でのびやかなイメージを定着させた。映画スターのいるハリウッドの華やかさも魅力を付加させていた。
1965年にママス&パパスが発表した「夢のカリフォルニア California Dreamin'」は、温暖なカリフォルニアに夢を抱かせた。
1967年に大ヒットしたスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。
1960年代後半のアメリカは、ベトナム戦争抜きには語れないだろう。
激しさを増すベトナム戦争に反対するムーブメントの中心にヒッピーがいた。彼らの自然への回帰,既成の価値観を否定する思想は若者たちを惹きつけ、「武器ではなく、花を」をスローガンに、自然とカリフォルニアに集まっていった。
その行動は「フラワー・ムーブメント」と呼ばれ、やがて全世界に広がっていく。
このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で影響を与え、広がりを見せた。
花は、愛と平和のシンボルだった。
後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。
*花はどこへ行った ? Where have all the flowers gone?
1965年頃から、アメリカのベトナムへの攻撃が激化する。それにつれ、次第に反戦の声も高まっていく。
ベトナム戦争に反対する歌が流れだした1960年代後半、「花はどこへ行ったWhere have all the flowers gone? 」(ピート・シーガー)や「風に吹かれて Blowin' in the wind」(ボブ・ディラン)が意味を持って歌われた。
「花はどこへ行った Where have all the flowers gone?」
この歌は、最初は1955年、フォーク・シンガーのピート・シーガーによって制作・録音されたものだが、3番までしかなかった。それを、ジョー・ヒッカーソンによって4、5番が付け加えられ、1961年登録しなおされた。
歌の大体の内容を記すと、以下のようになっている。
(1)花はどこへ行った? 少女たちが摘んでいった。
(2)少女たちはどこへ行った? 少女たちは結婚し夫のもとへ行った。
(3)若い男(夫)たちはどこへ行った? 若い男たちは兵隊になり戦場に行った。
(4)兵隊たちはどこへ行った? 兵隊たちは墓に入りに行った。
(5)墓はどこに行った? 墓は花に覆われてしまった。
4、5番を加えたことによって、当初は普通のフォーク・ソングとして歌われていたのが、反戦歌の色彩が濃くなり、キングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、マレーネ・ディートリヒなど、多くの歌手によって歌われることとなる。
曲の各節の最後に、「When will they(you) ever learn?」(いつになったら学ぶのだろうか?)という文句が繰り返し付いている。
1984年サラエヴォ大会、1988年カルガリー大会でのオリンピックで、フィギュアスケートの金メダルに輝いた東ドイツ(当時)のカタリナ・ヴィットは、1994年のリレハンメルのオリンピック大会において、統一ドイツの代表として舞台に立った。
そして、フリー演技種目の最終演技者として登場した彼女は、この「花はどこへ行った」の曲で演技を行った。このことは、当時、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により戦火に曝されていた、サラエヴォへの想いを込めた演技だった。
1960年代、夢のカリフォルニア、花のサンフランシスコの花は、どこへ行ったのだろう?
*1968年は政治の季節
1960年代後半、アメリカはベトナムへの攻撃を拡大させつつあった。
1967年、世界ヘビー級王者のモハメド・アリ(カシアス・クレイ)がベトナム戦争に対する兵役拒否を宣言し、王座それにボクサーライセンスを剥奪され、禁固5年と罰金1万ドルを科せられる(1971年に合衆国最高裁で無罪となった)。
1968年、北ベトナム側のテト(ベトナムの旧正月)攻勢で、南ベトナム・アメリカ側、北ベトナム側の双方に多大な犠牲者が出る。
これ以降、アメリカ国内の反戦運動は激化していき、戦争に対する支持は低下して、大統領リンドン・ジョンソンは次期大統領選不出馬を表明する。
この年、ベトナム戦争は大きな転換期となった。
1968年、黒人の権利獲得を謳っていた公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)が暗殺され、全米に黒人の抗議行動が広がる。
また、大統領候補であった民主党のロバート・ケネディが暗殺される。大統領選挙では、共和党候補のリチャード・ニクソンが当選。
1968年、フランスでは、パリのカルチエ・ラタン地区などを主戦場に、学生を中心に五月革命がおこった。
その頃、日本でも学生運動が激しくなり、1968年の東大闘争は翌1969年の全共闘による安田講堂占拠事件、東大入試の中止と拡大するに至った。
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「ウッドストック・フェスティバル」が、翌1969年8月15日から3日間、アメリカ・ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開催される。30組以上の出演者と、愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が会場に集まった。
主な出演者は、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バンド、クロスビー、スティルス&ナッシュ、サンタナ、ザ・フー、他。
これは、大規模な野外ロック・コンサートの先駆けとなった。