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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

西洋の敗北④ “花のサンフランシスコ”から、“花はどこへ行った?”

2025-04-26 02:03:36 | 人生は記憶
 フランスの歴史・人類学者のエマニュエル・トッドの近著「西洋の敗北」は、アメリカを筆頭とした西洋諸国の没落、それから見えてきた敗北をデータに即して説いている刺激的な書である。
 その書に触発されて書き出したが、本書とは遠いところへ行ってしまい、個人的なアメリカへの想いをサブカルチャー的に書き綴っている。

 *1960年代の、フラワー・ムーブメント!

 戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは「自由で豊かな理想の国」として、海の向こうの憧れの国であった。
 そのアメリカの夢は、1962年のアメリカ・カリフォルニアを舞台にした「アメリカン・グラフィティ」の季節が、最後の輝きだったのだろうか。(写真は、アルバム「アメリカン・グラフィティ vol.Ⅲ」)
 ※ブログ「西洋の敗北③アメリカン・グラフィティ」参照
 その後アメリカは、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入、人種差別撤退を訴える反対運動など、それまで繁栄の輝きに隠れていた陰の部分が露わになってくる。
 それに呼応してか、ジョーン・バエズやボブ・デュランなどのフォーク・シンガーが脚光を浴びてくる。

 それでも、1960年代後半のカリフォルニアはアメリカ人にとっても憧れの地であった。
 太平洋が西海岸に広がるカリフォルニアは、1962年に登場したビーチ・ボーイズによる、青い空と広いビーチ、海に戯れるサーファーたちに描かれるように、自由でのびやかなイメージを定着させた。映画スターのいるハリウッドの華やかさも魅力を付加させていた。
 1965年にママス&パパスが発表した「夢のカリフォルニア California Dreamin'」は、温暖なカリフォルニアに夢を抱かせた。
 1967年に大ヒットしたスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。

 1960年代後半のアメリカは、ベトナム戦争抜きには語れないだろう。
 激しさを増すベトナム戦争に反対するムーブメントの中心にヒッピーがいた。彼らの自然への回帰,既成の価値観を否定する思想は若者たちを惹きつけ、「武器ではなく、花を」をスローガンに、自然とカリフォルニアに集まっていった。
 その行動は「フラワー・ムーブメント」と呼ばれ、やがて全世界に広がっていく。
 このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で影響を与え、広がりを見せた。
 花は、愛と平和のシンボルだった。

 後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。

 *花はどこへ行った ? Where have all the flowers gone?

 1965年頃から、アメリカのベトナムへの攻撃が激化する。それにつれ、次第に反戦の声も高まっていく。
 ベトナム戦争に反対する歌が流れだした1960年代後半、「花はどこへ行ったWhere have all the flowers gone? 」(ピート・シーガー)や「風に吹かれて Blowin' in the wind」(ボブ・ディラン)が意味を持って歌われた。

 「花はどこへ行った Where have all the flowers gone?」
 この歌は、最初は1955年、フォーク・シンガーのピート・シーガーによって制作・録音されたものだが、3番までしかなかった。それを、ジョー・ヒッカーソンによって4、5番が付け加えられ、1961年登録しなおされた。
 歌の大体の内容を記すと、以下のようになっている。
 (1)花はどこへ行った? 少女たちが摘んでいった。
 (2)少女たちはどこへ行った? 少女たちは結婚し夫のもとへ行った。
 (3)若い男(夫)たちはどこへ行った? 若い男たちは兵隊になり戦場に行った。
 (4)兵隊たちはどこへ行った? 兵隊たちは墓に入りに行った。
 (5)墓はどこに行った? 墓は花に覆われてしまった。
 4、5番を加えたことによって、当初は普通のフォーク・ソングとして歌われていたのが、反戦歌の色彩が濃くなり、キングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、マレーネ・ディートリヒなど、多くの歌手によって歌われることとなる。
 曲の各節の最後に、「When will they(you) ever learn?」(いつになったら学ぶのだろうか?)という文句が繰り返し付いている。
 1984年サラエヴォ大会、1988年カルガリー大会でのオリンピックで、フィギュアスケートの金メダルに輝いた東ドイツ(当時)のカタリナ・ヴィットは、1994年のリレハンメルのオリンピック大会において、統一ドイツの代表として舞台に立った。
 そして、フリー演技種目の最終演技者として登場した彼女は、この「花はどこへ行った」の曲で演技を行った。このことは、当時、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により戦火に曝されていた、サラエヴォへの想いを込めた演技だった。

 1960年代、夢のカリフォルニア、花のサンフランシスコの花は、どこへ行ったのだろう?

 *1968年は政治の季節

 1960年代後半、アメリカはベトナムへの攻撃を拡大させつつあった。
 1967年、世界ヘビー級王者のモハメド・アリ(カシアス・クレイ)がベトナム戦争に対する兵役拒否を宣言し、王座それにボクサーライセンスを剥奪され、禁固5年と罰金1万ドルを科せられる(1971年に合衆国最高裁で無罪となった)。
 1968年、北ベトナム側のテト(ベトナムの旧正月)攻勢で、南ベトナム・アメリカ側、北ベトナム側の双方に多大な犠牲者が出る。
 これ以降、アメリカ国内の反戦運動は激化していき、戦争に対する支持は低下して、大統領リンドン・ジョンソンは次期大統領選不出馬を表明する。
 この年、ベトナム戦争は大きな転換期となった。
 1968年、黒人の権利獲得を謳っていた公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)が暗殺され、全米に黒人の抗議行動が広がる。
 また、大統領候補であった民主党のロバート・ケネディが暗殺される。大統領選挙では、共和党候補のリチャード・ニクソンが当選。

 1968年、フランスでは、パリのカルチエ・ラタン地区などを主戦場に、学生を中心に五月革命がおこった。
 その頃、日本でも学生運動が激しくなり、1968年の東大闘争は翌1969年の全共闘による安田講堂占拠事件、東大入試の中止と拡大するに至った。

 *
 「ウッドストック・フェスティバル」が、翌1969年8月15日から3日間、アメリカ・ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開催される。30組以上の出演者と、愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が会場に集まった。
 主な出演者は、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バンド、クロスビー、スティルス&ナッシュ、サンタナ、ザ・フー、他。
 これは、大規模な野外ロック・コンサートの先駆けとなった。

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「西洋の敗北」③ アメリカン・グラフィティ

2025-04-09 03:18:29 | 人生は記憶
 この4月(2025年)、アメリカが関わる全ての国に対して関税をかける発動をしたことが、アメリカ自身が主導してきた第2次世界大戦後の自由貿易体制、しいては民主主義体制を揺るがし始めている。
 フランスの歴史・社会学者のエマニュエル・トッドは、彼の近著「西洋の敗北」で、近代から現代を牽引してきたアメリカをはじめ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ大国を俎上にのせ、この国々の衰退化の現状を分析している。
 つまり西洋といわれる国・世界の没落、しいては敗北しつつあることを、様々なデータを駆使して説いている。
 戦後(第2次世界大戦後)民主主義下に育った私は、アメリカの栄光を感じて育ってきた。そのアメリカが時代とともに変貌していくなかで、個人的な思惑でアメリカを振り返っている。

 *1962年のアメリカの青春は!

 1950年代から1960年にかけての時代は、アメリカンポップスの黄金期といえよう。
 ラジオから流れてくる海外の曲といえばアメリカのポップスだった。
 当時、中学高学年から高校生時代の私は、街中で流れる日本の歌謡曲を聴きながらも、夜、ラジオから流れるアメリカの歌の、「ユー・アー・マイ・デスティニィ…(You are my destiny…」のポール・アンカの「君はわが運命(さだめ)」とか、「チューチュー・トレイン…」(Choo choo train…)のニール・セダカの「恋の片道切符」(One way ticket(to the blues)」を口ずさんでいた。
 コニー・フランシスが、「ボーイ・ハント」 (Where the boys are)や「カラーに口紅」 (Lipstick on your collar)を歌っていた。
 古き良き時代のアメリカだった。

 この時代の、1962年のアメリカの青春を描いた映画が、10年後の1973年アメリカで公開された。
 それが、「アメリカン・グラフィティ(American Graffiti)」である。
 映画のアメリカでのキャッチ・コピーは、「Where were you in ‘62?」。つまり、「1962年、あなたはどこで何をしていましたか」である。
 映画は、1962年の9月初めのアメリカ・カリフォルニアの田舎町を舞台に、高校を卒業した若者たちの最後の1日を、アメリカンポップスを背景に回転木馬のように描いている。
 監督は、のちに「スター・ウォーズ」シリーズを監督、「インディ・ジョーンズ」シリーズを製作総指揮したジョージ・ルーカス。
 J・ルーカスは、1944年生まれで、カリフォルニア州のサンフランシスコの東に位置するモデストで青春時代を送っているので、映画の時代背景や舞台も彼の青春を下敷きにしたものと思われる。
 1962年9月といえば、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入の前の、アメリカがまだ陰りを見せていない、輝きのある最後の時代である。この年、ビートルズがデビューしているので、アメリカンポップスの最後の輝きの時代といっていい。

 *曲目「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)

 映画「アメリカン・グラフィティ」は、全編にわたり1950年代半ばから1960年代前半にかけてのアメリカンポップスが流れる。また、当時人気のあった実在のDJ、ウルフマン・ジャックを本人役で登場させている。
 全曲が収録されたサウンドトラックは、日本でもヒットした。
 ※写真は、レコード・アルバムを縦に伸ばしたもの。後ろののぞいているのはライナーノーツで、人物写真の左がDJのウルフマン・ジャック。
 主な挿入曲は以下の通り。曲の合間に時おりDJが登場する。
 ・「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ)
 ・「悲しき街角」(デル・シャノン)
 ・「サーフィン・サファリ」(ザ・ビーチ・ボーイズ)
 ・「煙が目にしみる」(プラターズ)
 ・「恋は曲者」(フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ)
 ・「ペパーミント・ツイスト」(ジョイ・ディー&スターライターズ)
 ・「エイント・ザット・ア・シェイム」(ファッツ・ドミノ)
 ・「踊ろよベイビー」(ボビー・フリーマン)
 ・「オンリー・ユー」(プラターズ)

 この「アメリカン・グラフィティ」の1962(昭和37)年前後の日本では、カバー・ミュージックが大流行していた。アメリカンポップスおよびヨーロッパのポップスを日本語で歌う曲がヒット・パレードを賑わせていた。いわば和声ポップス、「ジャパニーズ・グラフィティ」である。
 以下、代表的なヒット曲をあげてみる。
 ・「月影のナポリ」・「ズビズビズー」(森山加代子)
 ・「パイナップル・プリンセス」・「ビキニスタイルのお嬢さん」(田代みどり)
 ・「ヴァケーション」・「すてきな16才」(弘田三枝子)
 ・「ルイジアナ・ママ」・「悲しき街角」(飯田久彦)
 ・「可愛いベイビー」(中尾ミエ)
 ・「ロコ・モーション」・「恋の売り込み」(伊東ゆかり)
 ・「ヘイ・ポーラ」田辺靖雄と梓みちよ

 *DJウルフマン・ジャックと赤塚不二夫

 映画「アメリカン・グラフィティ」が日本で公開されたのは、アメリカ公開の翌年1974(昭和49)年である。
 1976年、「アメリカン・グラフィティ」の映画の音楽的要(かなめ)を演じたDJのウルフマン・ジャックが来日した。
 当時、私は男性雑誌の編集者だった。それで、彼を誌上に登場させて、面白い内容にしようと対談を企画した。対談相手はなんと、当時日本のギャグマンガ界の人気者、赤塚不二夫である。
 対談内容は、「ロックエイジの時代だよ」——伝説的DJ、ウルフマン・ジャックとギャグゲリラ、赤塚不二夫が語り合ったこと――。
 内容は、日本のロックの現状からUFOの話まで及んだ。二人とも印象とは違い、とても真面目な人だった。

 1970年代、輝かしかったアメリカは社会的にも陰が現れ、イギリス出身のビートルズやローリング・ストーンズはじめ、ブリティッシュ・ロックの台頭に見られるように、音楽におけるポップス、ロックンロールも勢いが衰えているように見えた。
 私の個人的趣向も、アメリカよりもヨーロッパ、特にフランスに向いていった。

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「西洋の敗北」② スプートニク・ショック

2025-03-31 03:35:45 | 人生は記憶
 最近、よく「霧のカレリア」という曲を聴いている。もう60年も前の懐かしい曲だ。

 先の「西洋の敗北」①で、アメリカの「スプートニク・ショック」に触れた。
 第2次世界大戦の終盤、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリン書記長の間で、「ヤルタ会談」が行われた。いわゆる、超大国による戦後体制の協議である。
 この第2次世界大戦における太平洋戦争終盤、アメリカは1945年8月、広島、長崎に新型爆弾(当時の日本の呼称)を投下した。このことは、世界で初となる原子爆弾を開発・保持していることを世界に実証したことであった。
 つまり、アメリカが核というそれまでの破壊力に比較にならない突出した戦力を持ったこと、それを開発した科学力があったことを示したのだった。
 第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わったといえ、戦場となったヨーロッパはどこも被害を負い国は疲弊した。そのなかで戦争に参加したとはいえほぼ本土は無傷のアメリカは、戦後、経済的にも戦力的にも一歩抜きに出た大国となった。
 そしてこの後、「ヤルタ会談」での戦勝大国の一国だった共産主義国・ソ連も、1949年、核兵器を開発し、その戦力を保持・拡大していく。
 こうして、アメリカとソ連は静かな覇権争いに突入して、アメリカと西側ヨーロッパ諸国の「NATO」(北大西洋条約機構)と、ソ連と東側ヨーロッパ諸国の「ワルシャワ条約機構」(WP)の対立へと発展していく。
 そして、世界は冷戦下へ移っていく。

 *地球の片隅にまで届いた、「スプートニク」の衝撃

 戦後、鉄のカーテンが引かれた冷戦下の世界。
 それでも、あらゆる面でアメリカは抜きに出ているように見えたし、アメリカ自身もそう自負していたように写った。
 そんななか、1957(昭和32)年10月4日、ソ連によって人工衛星が打ち上げられたというニュースが全世界に発せられた。その名の「スプートニク1号」は、地球を周回する人類最初の人工衛星であった。
 当時、私は小学6年生であったが、大きな衝撃を受けた。矢のようなアンテナを持った丸い物体が空の彼方へ地球を抜け出て、それが月と同じように地球を周っているということに驚いた。
 突然、それまで宇宙という想像・空想、物語の世界が身近なものとなった出来事だった。

 このスプートニク1号は、九州の片隅の少年にまで衝撃を与えたのだから、おそらく威信を傷つけられたアメリカの受けた衝撃は計り知れない。
 この「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ1か月後の1957年11月3日、ソ連は今度は犬(ライカ犬)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。
 人工衛星に生きた犬が乗っているのである。ということは、人間が乗って宇宙に行くのもまったく夢物語ではなくなったということを意味していた。
 九州の少年にとっても、さらなる驚きだった。

 そのときの心情は、その2か月後(1958年1月)の私の年賀状に表れている。スプートニクが描かれているのだ。
 正確には、版木に掘られた彫刻画(版画)である。小学生でも年賀状を出していたのだな、誰に出していたのだろうか、と振り返る。
 当時、年賀状は彫刻刀で木版に彫った版画にしていた。1958(昭和33)年が戌年だったので、犬の版画を作ることにした。1957年の12月に彫ったのだろう。
 物置の奥に残っていた木版を取り出して見ると、忘れていたのだが1958年の版画が3枚ある。一つは、標本画のような平凡な犬の版画である。それにもう一つは、獅子舞の衣装を着飾った少年の前に座った犬の版画(これは今見ても凝った絵柄である)。
 しかしこの2枚を作った後、あのスプートニクのライカ犬がひらめいたのだろう。いや、あのライカ犬はどうなったのだろうと、頭の中で忘れられなかったのかもしれない。
 そして、決定版として、ライカ犬のスプートニクの版画を作ったのだ。今回その版画を、墨をすってハガキ大の紙に摺ってみた。墨の写りが悪いのは勘弁としよう。(写真)
 今思えば、テレビもネットもなかった時代である。どうして私はスプートニクの細かな情報を知り得ていたのだろう。ラジオと新聞からであろうか。

 *切手と歌に表れた「スプートニク」

 人工衛星スプートニクが打ち上げられた1957年はどんな年だったのか?
 前にも書いたが、私は切手少年でもあった。だから、記念切手で日本の大きな出来事を知ることもあった。この年の記憶に残った記念切手をあげてみる。

 ・国際連合加盟記念 国際連合加盟
 1966年12月、日ソ共同宣言が成立したことを受けて、日本の国際連合加盟が実現。日本は80か国目の加盟国となった。
 ・地球観測年記念 南極観測 昭和基地で開始
 観測船「宗谷」で南極に向かった日本の南極観測隊は、1月、白瀬中尉以来45年ぶりに南極大陸に上陸し日章旗を掲げた。昭和基地が設営され、西堀栄三郎越冬隊長以下11人が越冬し、日本の南極観測の歴史が始まった。
 ・原子炉完成記念 東海村で原子炉に火がともる
 茨城県東海村で日本最初の原子の火をともす歴史的な作業が行われ、8月、研究用原子炉に火がついた。日本の原子力利用の第一歩を踏み出した。

 この記念切手の出来事だけを見ても、日本は大きな変動期だったことが分かる。

 そして、世界的には、世界初のソ連による人工衛星「スプートニク」の打ち上げである。
 このスプートニクに関する切手が世界各国(主に東欧)で発行された。
 私のコレクションの中にスプートニク関係が2枚あったので挙げてみよう。(写真参照)
 写真・上は、「DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」とあるので、ドイツ民主共和国、かつての東ドイツの切手である。
 写真・下は、ハングルがあるとおり、北朝鮮の切手である。これは驚きである。

 *「スプートニクス」が広げた「霧のカレリア」

 冒頭にあげた「霧のカレリア」は、1965年にスウェーデンのバンド、「ザ・スプートニクス」がリリースしたエレキ・ギターによるインストゥルメンタルである。
 当時のエレキ・バンドといえばアメリカのザ・ベンチャーズが有名だが、この「ザ・スプートニクス」は、人工衛星スプートニクにちなんで宇宙服を着て演奏した、知る人ぞ知る人気バンドであった。
 ここでいうカレリアとは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる地方の名前である。曲中にロシア民謡の「トロイカ」がアレンジされて入っている。
 また、「哀愁のカレリヤ」という曲があるが、こちらはザ・スプートニクスのメンバーがフィンランドで結成したフィーネーズの名でレコーディングしたもの。ほぼ「霧のカレリア」と同じ曲相である。

 このように、「スプートニク」は、全世界の様々な方面に思わぬ影響を与え、広範に波及したのだった。
 そして、人類が初めて宇宙飛行に成功したのは、スプートニク1号飛行の約3年半後の1961(昭和36)年4月12日、ソ連のボストーク1号に乗ったユーリ・ガガーリンによってであった。
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「西洋の敗北」① アメリカへの想い

2025-03-09 02:07:57 | 人生は記憶
 エマニュエル・トッドの「西洋の敗北」(文藝春秋刊)を読み、それに関連してアメリカについての個人的な想いを書き始めていたら、本題とは違った方向へ行ってしまった。
 私の場合よくあることだが、流れに任せて書いている。

 *憧れのアメリカ

 戦後の民主主義の時代に育った私の少年時代は、アメリカは輝いていた。
 私たち、少年たちにとってのヒーローは、漫画や映画のなかの“ターザン”や“スーパーマン”だった。西部劇のカウボーイも格好良かった。
 日本にテレビが普及したのは1950年代の後半からで、それでも最初のころはテレビのある家は滅多になかった。1959(昭和34)年4月、当時の皇太子(現上皇)のご成婚の実況中継を、わが家にはテレビがなかったので近所の親類の家に見にいった。
 映画やテレビのなかで見るアメリカは、絵本にあるような庭のあるきれいな三角屋根の家で、家のなかはすでに冷蔵庫や洗濯機、テレビといった電化製品が並んでいて、広い道の玄関わきには車(自動車)さえ置いてある。
 家族はイスとテーブルで食事をし(当然のことだが)、何でも知っている陽気なパパと少しうるさいが楽しいママがいる一家のもめごとや些細な事件は、いつも楽しそうであった。
 画面の向こうの家庭から見えるアメリカという国は、遠い別世界であった。
 一方、木造の狭いあばら家で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)でせいぜい煮魚と味噌汁ぐらいの食卓の当時のわが家とは比べることすら思いもしない、海の向こうのアメリカは豊かな国だった。
 実際、戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは自他ともに認める自由で民主主義の先頭を走っている大らかな国といえた。少なからず、憧れを持たせる国であった。

 1957(昭和32)年のソビエト連邦による人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げは、全世界を驚愕させた。
 まだ小学生だった私は、人間が打ち上げた尾を付けたような丸い球が宇宙まで飛んで行き、それが地球を周っているということに、驚きと共に感動し、しばらく空を見上げていたものだった。年をとり、徒(いたずら)に長く生きた私の人生のなかでも、最も衝撃を受けた出来事だったと言えるかもしれない。
 世界のトップを走っていたアメリカは「スプートニク・ショック」となって、あらゆる場面でソ連(ソビエト連邦のちロシア)と覇権争いをするようになっていった。

 *初めての文通

 1950年代末、九州の田舎でのこと。
 中学に入ったとき、授業科目に「英語」が加わった。教科書は「ジャック・アンド・ベティ、JACK AND BETTY」である。
 「 I am a boy. I am Jack Jones. You are a girl. You are Betty Smith. 」 こんな文で始まった。
 それで、通い始めた寺小屋のような塾の先生の勧めで、英語の勉強の手助けにもなるだろうと、アメリカの同じぐらいの年齢の女の子(中学生)と文通をすることにした。
 私は、ウキウキした気持ちで手紙を送ることにした。英文など書けるわけがないので、文は先生に書いてもらった。
 ほどなくして、返事の手紙が届いた。相手の女性はアメリカのオクラホマ州の同じ年齢の少女であった。オクラホマ州がどこにあるかは知らなかったが、海の向こうのアメリカから来た手紙に心躍った。
 手紙のなかには、3人姉妹ということで、3人のポートレート写真が同封されていた。写真のなかの彼女たちは、キレイにおめかししていてニコッと笑っている。そのなかで、愛嬌はありそうだが丸顔で眼鏡をかけた“ベティちゃん”みたいな次女が手紙の相手だった。
 手紙の文は先生が訳してくれたのだが、そのなかで私の写真を送ってくれと書いてあった。
 私は困った。写真機など持っていない。写真といえばクラスで並んでとった卒業写真ぐらいで、ちゃんとした写真などない。個人の写真であるのは、子どものときのもので、最近のといえば近所の畑の前で弟と並んで撮った写真が1枚あるぐらいである。それも、袖丈の短くなった学生服に学生帽子といういでたちである。
 しかし、その後のいきさつが霧のなかである。
 文通はそれきりだったことを思えば、私が気後れして手紙を書かなかったのか、あるいは相手からの返事がこなかったのかもしれない。自分に英語の実力がないとはいえ、英文を塾の先生に丸投げするのが、内心腑に落ちない思いも多少あった。
 それ以後、私のアメリカ少女との文通の気持ちは消え去り、塾もほどなくやめてしまった。

 その頃、たぶん全国的にと思うが、海外との文通がちょっとしたブームであった。日本がやっと海外に目を向ける余裕が出てきたのか、中・高校生の間の切手ブームも関係がないとも言えないだろう。海外の切手は珍しかった。そして私も切手少年であった。
 当時、私の周りの友人の間で海外文通は話題にはのぼったが、長く続けているという人間はいなかった。みんな、私みたいに挫折したか、一歩を踏みださなかったのだろう。
 文通を続けていれば、その後アメリカに対する関心も変わり、私の英語も少しはましになったかもしれない。

 当時、アメリカとの文通を案内していた、手書きのガリ版刷りでホチキス(ステープラー)で留めた十数ページの小雑誌「エンゼルANGEL」を手にしたとき、急に世界(アメリカ)が近くなったような気持になった。
 それは、何人かの個人が国際親善協会(門司市)という名で発行している、手作りの小雑誌である。あと書きに、希望は月刊だが、できれば2か月に1回、あるいは季刊にしたいと言い訳気味に書かれていた。不定期刊で市販されているのではなく、会費によって賄われているようだ。塾の先生が会員だったのかもしれない。
 内容は、可愛いイラスト交じりで、海外への郵便料金、アメリカへの手紙の書き方などが紹介されていた。興味深いのは、郵便料金の項で、「琉球」が別項目で扱われていることだ。「沖縄」がまだ日本に復帰していなくて、ドル扱いだったのだ。
 実は、今でもその手書きのガリ版刷りの小雑誌は保管している。(写真)

 中学の時のアメリカ少女との“かりそめの文通”は、私の初めての海外とのささやかな接触だった。

 *花はどこへ行った Where have all the flowers gone?

 長じて、1960年代後半のこと。
 ラジオの深夜放送からは、アメリカのポップスやフォークが流れていた。
 「夢のカリフォルニア California Dreamin'」(ママス&パパス)は、アメリカの西海岸カリフォルニアに夢を抱かせた。
 「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」(スコット・マッケンジー)は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。
 アメリカの60年代後半は、ベトナム戦争抜きでは語れないだろう。この激しさを増す戦争に反対する運動として起こったのが「武器ではなく花を」、「愛と平和」をスローガンにした「フラワー・ムーブメント」だった。
 このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で世界に影響を与え、サブカルチャーの花を咲かせた。

 後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。

 依然アメリカは輝いていたし、世界に影響を与え続けていた。

 *アーカイブス――エマニュエル・トッド

 混迷する国際情勢に関する発言・発信において、近年注目されているフランス人の歴史・人類学者のエマニュエル・トッドである。
 最新作「西洋の敗北」は次回にするとして、参考までに、当ブログにおけるエマニュエル・トッド関連記事は以下の通り。

 ・「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-09-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a

 ・西洋の没落「トッド人類史入門」(2023-10-14)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/c96708f0dceb619cc99574f786a513f4



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「ジタン」の香り…を探って

2024-09-18 01:37:45 | 人生は記憶
 「アラン・ドロンのいた時代」を書いたあと、書かなかったことが気になっていた。
 ※ブログ「アラン・ドロンのいた時代」(2024-08-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bd76b23b284ab180e2b0bda4d5dc0c9f

 それは、A・ドロンが主演した映画の一つ「ル・ジタン」である。
 「ル・ジタン」(Le Gitan)は、1975年に公開されたフランス映画で、犯罪のなかに身を置く“ジタン”と呼ばれる男の生きざまを描いた、いわゆるフィルム・ノワールである。
 気になっていたのは、映画の内容ではない。「ジタン」という言葉、その響き。そして、それが持つ独特の香りである。

 「ル・ジタン」(le gitan)はフランス語で、「ル」(le)は冠詞で、「ジタン」(gitan)は「ジプシー」(gypsy)のことである。
 「ジプシー」にはヨーロッパ各国で呼び名があり、スペイン語での「ヒタノ」(gitano)、ドイツ語の「ツィゴイナー」(zigeuner)も同様の意である。それらの呼称は自称ではなく外名であり、現在は「ロマ」(Roma)と呼称されている。
 サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」(Zigeunerweisen)も、「ツィゴイナー(ジプシー)の旋律」という意味になる。この曲は、サラサーテ本人によって演奏されたレコードも残されている。
 それを題材にして書いた小説が内田百閒の「サラサーテの盤」で、さらにそれを原案として鈴木清純が「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)という特異な映画を作った。この映画の出演者の原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代という顔ぶれを見ただけで、この映画の幻惑性が滲み出ている。

 *1975年ごろ、「地下室のメロディー」での「ジタン」のこと

 あの頃、つまり、アラン・ドロンの「ル・ジタン」が封切られた1975年ごろのことである。
 私が出版社に勤めていたときで、社屋ビルの地下に組合事務室が設けられていた。ガリ版刷りのインクの臭いがする日の当たらない暗い部屋だった。その頃、たまたまその委員長になって(選ばれて)しまった。それで、私はその事務室を勝手に「地下室のメロディー」と名づけた。
 このことは、「アラン・ドロンのいた時代」にちらと書いた。

 そのころ、1970年代だが、日本は急速な経済成長とともに全国的に組合活動も活発だった。特に出版業界はそうだったように思う。
 去年(2023年)、百貨店そごう・西武の労働組合がストライキを実施したとして話題になったように、近年、日本ではほとんど行われていないようだが、当時はストライキも労働争議も珍しいことではなかった。フランスでは、今でも頻繁にストライキを行っているが…。

 それで「地下室のメロディー」の話の続きだが、労使による団体交渉の時は、会議室にて双方の代表者がお互いテーブルに向き合って座った。
 春のベースアップや夏季と冬季のボーナス(賞与)のときは、話し合いの交渉はしばしば深夜に及んだ。交渉の大詰め段階では、最終決定権を持つ社長が出席する。
 会議室において、社長を真ん中にした経営者陣と委員長を真ん中にした組合執行委員が対峙する構図になる。
 室内は、タバコの煙でけむったい。当時、稀に喫(す)わない者もいたが、男性はほとんど喫煙者だった。もちろん、私も喫っていた。
 テーブルの上にライターを置いた。
 “フランスかぶれ”だった私は、その前年(1974年)初めてパリに行き、唯一自分の贅沢品として買ってきたカルティエのライターを。
 前を見ると、社長のテーブルの脇にもライターが置かれている。それもカルティエだった。思えば、私よりはるかに人生の先輩である、初老の社長は年季の入ったフランス好きの洒落者だ。
 ※あとで、組合委員の一人が、「社長と委員長がカルティエのライターを横に言い争っているから、おかしくなっちゃったよ」と言って笑いあった。
 (そして、時間は過ぎていくなか)
 私は、ポケットから煙草(タバコ)を取り出した。
 それは「ジタン」だった。
 つまり、ここで私はライターのカルティエを自慢したくて書いているのではなく、この煙草の「ジタン」を言いたかったのだ。

 *「ジタン」を喫ったことはある?

 「ジタン」(GITANES)は、フランスの煙草である。
 日本の縦長のパッケージ(箱)と違ってやや横長の大きさである。絵柄は、紫煙を思わせる青い空と白い雲が波うつなかで、タンバリンか扇を舞いながらフラメンコを踊っている女性のシルエットが描かれている。
 フランスのタバコ「Gitanes」は、日本では「ジタン」と呼ぶが、正しくは女性名詞複数であるから「ジタンヌ」である。
 「ジタン」はアラン・ドロンも喫っていたらしいし、名前もそうだが見た目も格好いい。

 私は、学生時代は安い両切りの「しんせい」(当時20本入り40円)か「いこい」(20本入り50円)を買っていて、社会人になってからフィルター付きの「ハイライト」(20本入り70円)か「ロングホープ」(20本入り80円)を喫うようになった。
 あるとき、会社のカメラマンがこの「ジタン」の煙草を持っているのを見て、気障(きざ)なやつだと思ったが、日本でも「ジタン」が手に入るのかと心が動いた。
 私はすぐさま「ジタン」を買った。
 そして喫ってみたが、クセがあって結構きつい。日本のソフトな煙草に慣れてしまっていた身としては、続けては喫えなかった。
 それで、やはりフランス製の「ゴロワーズ」(Gauloises)を試してみたが、こちらの方がもっと喫いづらかった。
 であるから、「ジタン」はポケットに入ったままが多く、喫うのは格好つけるバーやスナックなどであった。
 しかしそれも長続きせずに、そのうち「ジタン」は買うのもやめてしまった。

 *
 そして、ほどほどの中年になったとき、世間の健康志向に負けて、何度かの試みのあと禁煙をした。
 そうではあったのだが、禁煙直後のころ、インドに行ったときに安い「ビディ」という原始的な煙草を見つけた。私は、インドだけの例外措置として、それを喫ってみた。焦げた葉や木を喫っているようで、旨くはない。
 この「ビディ」は、煙草の葉(スパイスの実も入っている)を木の葉で細く巻いて糸で括ったもので、身体に悪そうだが煙草の根源的な味がする。
 この「ビディ」を自分の土産に、日本に数個持ち帰った。そして、それを全部喫い終わったら完全禁煙にしようと改めて決意した。
 ところが、この「ビディ」を喫い終えたら、案の定、煙草が恋しい。すると、捨てる神あれば拾う神あり(適切な例えではないが)。当時、銀座中央通りにあったインド政府観光局の人が、そのビルの上にあるインド料理店「アショカ」に「ビディ」を売っていると教えてくれた。
 私は、こんな幸運なことがあろうかと、それでも自分に後ろめたさを感じながら、「ビディ」がなくなるたびに、これで最後と弱く心に誓いつつ、「アショカ」に料理は食べなくとも定期的に通うことになってしまった。
 禁煙と言いながら、「ビディ」喫煙状態が1年以上続いた。

 *フラメンコ・ロックの「ジタン」

 1970年代半ば、「ジタン」を格好だけで喫っていたころである。
 1975年、カルメン(Carmen)というロック・バンドが、「舞姫」(Dancing in a cold wind)なるアルバムを発売した。
 「カルメン」というグループ名に表れているように、演奏はフラメンコ・ロックという異色のロック・バンドだった。
 その曲よりも目をひいたのは、そのジャケットである。まったく煙草の「ジタン」のパッケージ・デザインそのものである。
 「カルメン」といえばメリメの小説をもとにしたビゼー作曲のオペラが有名である。これはスペインのセビージャが舞台の物語で、主人公カルメンはジプシー(ジタンヌ)である。
 (写真はカルメン「舞姫」のジャケット。その左下にあるのが煙草「ジタン」)
 確かに「カルメン」というグループのイメージにピッタリの絵柄ではあるが。

 *「ジタン」と、異国の香りの音楽

 そのころ1970年代後半、日本ではエキゾチックな内容の曲が流れ、ヒットした。
 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱……」
 庄野真代が歌う「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也、作曲:筒美京平、1978年)が、耳に心地よかった。
 「ジタン」を喫っていた気障な男はどうしたのだろう? バーで知りあった行きずりの乾いた恋なのか?
 「ジタン」と「イスタンブール」は、異国のエキゾチックな関係なだけ?

 「そこに行けば どんな夢もかなうというよ……」と、まだ見ぬところ、知らない国へ誘う歌。私たち(私と友人)は、その歌を恥じらいを含んで口ずさみながら、夜のネオンの輝く街を徘徊した。
 ゴダイゴの歌う「ガンダーラ」(Gandhara、作詞:奈良橋陽子・日本語詞:山上路夫、作曲:タケカワユキヒデ、1978年)は、シルクロード・ブームの火付け役となったようだ。

 すると、久保田早紀の「異邦人」(作詞・作曲:久保田早紀、1980年)が追いかけてきた。
 このエキゾチックな曲は「シルクロードのテーマ」として売り出された。
 「……ちょっとふり向いてみただけの異邦人」

 そして、1980年、東京はどこかの街、TOKIOになる。
 「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突きぬけ 星になる……」「TOKIO」(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦、1980年)
 「……TOKIOが空を飛ぶ」

 やがて、糸井重里のコピーによる西武百貨店のイメージCM「不思議、大好き」を人々が漠然と共有し、「おいしい生活」の世界観へ繋がっていく。
 日本は、この1980年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan as Number One: Lessons for America)と称され、いつしか後にバブルと呼ばれる時代に浸っていく。

 惜しむなかれ、あのフランス煙草「ジタン」は、もう日本での発売は終えている。
コメント (2)
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