かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「ジタン」の香り…を探って

2024-09-18 01:37:45 | 人生は記憶
 「アラン・ドロンのいた時代」を書いたあと、書かなかったことが気になっていた。
 ※ブログ「アラン・ドロンのいた時代」(2024-08-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bd76b23b284ab180e2b0bda4d5dc0c9f

 それは、A・ドロンが主演した映画の一つ「ル・ジタン」である。
 「ル・ジタン」(Le Gitan)は、1975年に公開されたフランス映画で、犯罪のなかに身を置く“ジタン”と呼ばれる男の生きざまを描いた、いわゆるフィルム・ノワールである。
 気になっていたのは、映画の内容ではない。「ジタン」という言葉、その響き。そして、それが持つ独特の香りである。

 「ル・ジタン」(le gitan)はフランス語で、「ル」(le)は冠詞で、「ジタン」(gitan)は「ジプシー」(gypsy)のことである。
 「ジプシー」にはヨーロッパ各国で呼び名があり、スペイン語での「ヒタノ」(gitano)、ドイツ語の「ツィゴイナー」(zigeuner)も同様の意である。それらの呼称は自称ではなく外名であり、現在は「ロマ」(Roma)と呼称されている。
 サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」(Zigeunerweisen)も、「ツィゴイナー(ジプシー)の旋律」という意味になる。この曲は、サラサーテ本人によって演奏されたレコードも残されている。
 それを題材にして書いた小説が内田百閒の「サラサーテの盤」で、さらにそれを原案として鈴木清純が「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)という特異な映画を作った。この映画の出演者の原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代という顔ぶれを見ただけで、この映画の幻惑性が滲み出ている。

 *1975年ごろ、「地下室のメロディー」での「ジタン」のこと

 あの頃、つまり、アラン・ドロンの「ル・ジタン」が封切られた1975年ごろのことである。
 私が出版社に勤めていたときで、社屋ビルの地下に組合事務室が設けられていた。ガリ版刷りのインクの臭いがする日の当たらない暗い部屋だった。その頃、たまたまその委員長になって(選ばれて)しまった。それで、私はその事務室を勝手に「地下室のメロディー」と名づけた。
 このことは、「アラン・ドロンのいた時代」にちらと書いた。

 そのころ、1970年代だが、日本は急速な経済成長とともに全国的に組合活動も活発だった。特に出版業界はそうだったように思う。
 去年(2023年)、百貨店そごう・西武の労働組合がストライキを実施したとして話題になったように、近年、日本ではほとんど行われていないようだが、当時はストライキも労働争議も珍しいことではなかった。フランスでは、今でも頻繁にストライキを行っているが…。

 それで「地下室のメロディー」の話の続きだが、労使による団体交渉の時は、会議室にて双方の代表者がお互いテーブルに向き合って座った。
 春のベースアップや夏季と冬季のボーナス(賞与)のときは、話し合いの交渉はしばしば深夜に及んだ。交渉の大詰め段階では、最終決定権を持つ社長が出席する。
 会議室において、社長を真ん中にした経営者陣と委員長を真ん中にした組合執行委員が対峙する構図になる。
 室内は、タバコの煙でけむったい。当時、稀に喫(す)わない者もいたが、男性はほとんど喫煙者だった。もちろん、私も喫っていた。
 テーブルの上にライターを置いた。
 “フランスかぶれ”だった私は、その前年(1974年)初めてパリに行き、唯一自分の贅沢品として買ってきたカルティエのライターを。
 前を見ると、社長のテーブルの脇にもライターが置かれている。それもカルティエだった。思えば、私よりはるかに人生の先輩である、初老の社長は年季の入ったフランス好きの洒落者だ。
 ※あとで、組合委員の一人が、「社長と委員長がカルティエのライターを横に言い争っているから、おかしくなっちゃったよ」と言って笑いあった。
 (そして、時間は過ぎていくなか)
 私は、ポケットから煙草(タバコ)を取り出した。
 それは「ジタン」だった。
 つまり、ここで私はライターのカルティエを自慢したくて書いているのではなく、この煙草の「ジタン」を言いたかったのだ。

 *「ジタン」を喫ったことはある?

 「ジタン」(GITANES)は、フランスの煙草である。
 日本の縦長のパッケージ(箱)と違ってやや横長の大きさである。絵柄は、紫煙を思わせる青い空と白い雲が波うつなかで、タンバリンか扇を舞いながらフラメンコを踊っている女性のシルエットが描かれている。
 フランスのタバコ「Gitanes」は、日本では「ジタン」と呼ぶが、正しくは女性名詞複数であるから「ジタンヌ」である。
 「ジタン」はアラン・ドロンも喫っていたらしいし、名前もそうだが見た目も格好いい。

 私は、学生時代は安い両切りの「しんせい」(当時20本入り40円)か「いこい」(20本入り50円)を買っていて、社会人になってからフィルター付きの「ハイライト」(20本入り70円)か「ロングホープ」(20本入り80円)を喫うようになった。
 あるとき、会社のカメラマンがこの「ジタン」の煙草を持っているのを見て、気障(きざ)なやつだと思ったが、日本でも「ジタン」が手に入るのかと心が動いた。
 私はすぐさま「ジタン」を買った。
 そして喫ってみたが、クセがあって結構きつい。日本のソフトな煙草に慣れてしまっていた身としては、続けては喫えなかった。
 それで、やはりフランス製の「ゴロワーズ」(Gauloises)を試してみたが、こちらの方がもっと喫いづらかった。
 であるから、「ジタン」はポケットに入ったままが多く、喫うのは格好つけるバーやスナックなどであった。
 しかしそれも長続きせずに、そのうち「ジタン」は買うのもやめてしまった。

 *
 そして、ほどほどの中年になったとき、世間の健康志向に負けて、何度かの試みのあと禁煙をした。
 そうではあったのだが、禁煙直後のころ、インドに行ったときに安い「ビディ」という原始的な煙草を見つけた。私は、インドだけの例外措置として、それを喫ってみた。焦げた葉や木を喫っているようで、旨くはない。
 この「ビディ」は、煙草の葉(スパイスの実も入っている)を木の葉で細く巻いて糸で括ったもので、身体に悪そうだが煙草の根源的な味がする。
 この「ビディ」を自分の土産に、日本に数個持ち帰った。そして、それを全部喫い終わったら完全禁煙にしようと改めて決意した。
 ところが、この「ビディ」を喫い終えたら、案の定、煙草が恋しい。すると、捨てる神あれば拾う神あり(適切な例えではないが)。当時、銀座中央通りにあったインド政府観光局の人が、そのビルの上にあるインド料理店「アショカ」に「ビディ」を売っていると教えてくれた。
 私は、こんな幸運なことがあろうかと、それでも自分に後ろめたさを感じながら、「ビディ」がなくなるたびに、これで最後と弱く心に誓いつつ、「アショカ」に料理は食べなくとも定期的に通うことになってしまった。
 禁煙と言いながら、「ビディ」喫煙状態が1年以上続いた。

 *フラメンコ・ロックの「ジタン」

 1970年代半ば、「ジタン」を格好だけで喫っていたころである。
 1975年、カルメン(Carmen)というロック・バンドが、「舞姫」(Dancing in a cold wind)なるアルバムを発売した。
 「カルメン」というグループ名に表れているように、演奏はフラメンコ・ロックという異色のロック・バンドだった。
 その曲よりも目をひいたのは、そのジャケットである。まったく煙草の「ジタン」のパッケージ・デザインそのものである。
 「カルメン」といえばメリメの小説をもとにしたビゼー作曲のオペラが有名である。これはスペインのセビージャが舞台の物語で、主人公カルメンはジプシー(ジタンヌ)である。
 (写真はカルメン「舞姫」のジャケット。その左下にあるのが煙草「ジタン」)
 確かに「カルメン」というグループのイメージにピッタリの絵柄ではあるが。

 *「ジタン」と、異国の香りの音楽

 そのころ1970年代後半、日本ではエキゾチックな内容の曲が流れ、ヒットした。
 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱……」
 庄野真代が歌う「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也、作曲:筒美京平、1978年)が、耳に心地よかった。
 「ジタン」を喫っていた気障な男はどうしたのだろう? バーで知りあった行きずりの乾いた恋なのか?
 「ジタン」と「イスタンブール」は、異国のエキゾチックな関係なだけ?

 「そこに行けば どんな夢もかなうというよ……」と、まだ見ぬところ、知らない国へ誘う歌。私たち(私と友人)は、その歌を恥じらいを含んで口ずさみながら、夜のネオンの輝く街を徘徊した。
 ゴダイゴの歌う「ガンダーラ」(Gandhara、作詞:奈良橋陽子・日本語詞:山上路夫、作曲:タケカワユキヒデ、1978年)は、シルクロード・ブームの火付け役となったようだ。

 すると、久保田早紀の「異邦人」(作詞・作曲:久保田早紀、1980年)が追いかけてきた。
 このエキゾチックな曲は「シルクロードのテーマ」として売り出された。
 「……ちょっとふり向いてみただけの異邦人」

 そして、1980年、東京はどこかの街、TOKIOになる。
 「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突きぬけ 星になる……」「TOKIO」(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦、1980年)
 「……TOKIOが空を飛ぶ」

 やがて、糸井重里のコピーによる西武百貨店のイメージCM「不思議、大好き」を人々が漠然と共有し、「おいしい生活」の世界観へ繋がっていく。
 日本は、この1980年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan as Number One: Lessons for America)と称され、いつしか後にバブルと呼ばれる時代に浸っていく。

 惜しむなかれ、あのフランス煙草「ジタン」は、もう日本での発売は終えている。
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逝きし駅の面影、「肥前山口駅」

2023-02-24 04:00:49 | 人生は記憶
 肥前山口駅は、佐賀県のほぼ中央にある、100年以上の歴史を持つ長崎本線と佐世保線の分岐点の駅である。
 古くは急行「雲仙・西海」や深夜特急「さくら」、3特急が連結して走っていた「かもめ・みどり・ハウステンボス」など、長崎発着と佐世保発着の特急の併結、分割がこの駅で行われていた。
 また、稚内駅から同じ駅や区間を使わずに、一筆書きで最も長いルートになる「最長片道切符の終着駅」としても、鉄道ファンには有名な駅である。2022年の西九州新幹線開業に伴い変更となったが、NHKのテレビ番組(2004年)で放映されたりもした。

 個人的にも特別な駅であった。
 私は肥前山口駅のある江北町の隣町の大町町で育ち実家がそこにあったので、佐世保線の一つ先となる武雄寄りの大町駅を乗降としていた。
 大町駅は各駅停車の列車しか停まらない。それで、急行あるいは特急列車で博多・東京方面へ行くとき(反対に帰るとき)、あるいは特急列車で長崎方面に行くとき(帰るとき)は、肥前山口駅で乗り換え利用した。
 肥前山口駅は、その駅の街としては大きくはないのだが、長崎本線と佐世保線の分岐点で、佐世保線の起点の駅であるから、急行や特急も停まらざるをえないのだ。

 1964(昭和39)年、大学受験で初めて東京へ行ったとき、肥前山口駅から急行「西海」に乗った。
 肥前山口駅は、佐世保線の佐世保駅からやってくる「西海」と、長崎本線の長崎駅からやってくる「雲仙」が、肥前山口駅で併結して東京へ向かった。
 2本の急行列車を連結させるので、停車時間があった。だから、ここで駅弁とお茶を買った。ホームには、首から弁当箱の山を抱えて「べんとー」と声をあげながら歩きまわる、駅弁売りがいた。
 大町駅を19時台の各駅停車で出て、肥前山口駅を急行「雲仙・西海」は20時過ぎに出発。東京駅には翌日の19時近くに着くという約1日の列車旅だった。
 その後、急行「雲仙・西海」、寝台特急「さくら」など、東京行きの列車がなくなり、代わりに新幹線が東京―博多間を通うようになり、佐賀空港もできたが、東京~佐賀(大町)間は、長年あれこれと列車を利用してきたのだった。
 肥前山口駅は、私にとって長い付き合いの馴染みの深い駅なのだ。

 *肥前山口駅が消えた

 肥前山口駅の歴史を振り返ってみよう。
 ・1895(明治28)年、九州鉄道の鳥栖駅から続く山口駅として開業。
 その後、九州鉄道は国鉄となり、さらに西の武雄・有田の先の早岐駅経由で長崎まで通ったことにより長崎本線となる。
 ・1913(大正2)年、山口県の国鉄山口駅が開業したことに伴い、肥前山口駅に改称する。
 本来、先に佐賀県の山口駅が開業しているので名前の優先権があるはずだが、譲った形となった。
 ・1934(昭和9)年、肥前山口駅より有明海に沿って路線が肥前鹿島駅、さらに諫早駅まで延びたことにより長崎駅に通じ、この路線が長崎本線に変更された。従来のルートは早岐駅を境に佐世保駅までの佐世保線と早岐駅から諫早駅までの大村線とに分離される。
 これにより、肥前山口駅は長崎本線と佐世保線の駅となる。

 ・2022年(令和4年)、肥前山口駅は江北駅に変更。
 駅が敷かれた1895(明治28)年当時は、この地は山口村だったので当初「山口駅」、そして「肥前山口駅」として100年以上続いていた。それが、現在はこの地が江北町となっているため町名と合わせる、との町長の説明である。
 私は肥前山口駅という名前に愛着を持っているし、歴史もブランドもあるので変えるのは軽率な判断だと思っていた。「肥前山口駅の江北町」でいいではないか。「博多駅」を表看板に発展してきた「博多駅の福岡市」を見ればいい。
 住民のなかでも多くの反対者がいたそうだが、改名(変名)は決定した。
 すでに変えてしまったものは仕方がない。
 それから……のことである。

 *どうする、肥前山口駅の遺産は?

 つい最近のこと、2023(令和5)年2月17日の朝日新聞夕刊(東京本社版)に、「なくなる駅名、残る思い出」との見出し、そして「西九州新幹線新駅で競売」「旧「肥前山口」駅名標25万円で落札」と大きく記事が出ていた。
 2月11日に、佐賀・嬉野温泉駅で鉄道関係の部品のオークションが開かれた。そこで目玉となったのが、なくなる肥前山口駅のホームに立ててあった駅名標だった。
 駅名標は数点出品され、注目を集めたのが最も古めかしく、駅名が変わる前日までホームに立っていたというもの。それが25万円で落札されたという。

 私は、驚きとともに落胆した。
 なぜ江北駅が、長きにわたって掲げてきた駅の看板ともいうべき駅名標を、資料として保存しなかったのかということだ。
 先にあげたように、肥前山口駅は佐賀県では鳥栖駅と並んで特別な駅である。江北駅は自らその名をなくしたのであれば、どうして肥前山口駅の面影を偲ぶ資料を展示・公開する、資料館なるものを駅舎内にでも造らないのだろう。
 そのような計画があるのだったら改めて言うことではないが、ぜひ造るべきだと思う。駅名標は、資料館の目玉になろう。それが、「遺産」というものである。

 さらにこの報道で驚いたのは、駅名が変わる前に、博多駅長が江北駅長に駅名標などを保存しておくように内緒で頼んだという。
 その理由が、オークションをやったときに出品すれば人気になるだろうという考えからのことだという。オークションの主催はJR九州と嬉野市である。
 オークションのために駅名標を保存するよう提案?
 方向が違うだろう。私は、後々遺産になるから駅で保存しておいた方がいい、という提案かと思ったのに。

 佐賀・鍋島藩は、幕末維新の時期、鉄精錬・反射炉や蒸気船の製造など、他藩に先駆けて科学技術の開発を成し遂げてきた。にもかかわらず、「明治日本の産業革命遺産」でも、佐賀県はほとんど”遺産”を残していない。
 あとには何も残さない。
 それが佐賀県の特質なのだろうか。

 *佐賀への私的愛着

 「佐賀は何もなか」と佐賀県人でも自虐的に言う人がいるが、「そんなことはなか」と、私はずっと異を唱えて、折にふれ発信もしてきた。
 このブログ「かりそめの旅」にて、佐賀を話題として紹介した一例を記しておこう。

・「未来に残したい「佐賀遺産」ベスト70とは?」(2011-12-31)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/06c2e45f631bf9cb02346e14d74fab8d
・「佐賀の偉人25人とは誰か?」(2019-02-11)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/d2166fc73737536a9a563f22aa2d8b03?fm=entry_awp
・「「唐津くんち」それとも「佐賀バルーンフェスタ」」(2015-11-07 )
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/ee71052e321251f740b7e168e77a9d80
・「胸に棘刺す有田の町の、陶器市」(2013-05-03)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/86f510c9df4c911b17c88d2adf24b1b6
・「佐賀・有田の山あいに、秘かに潜む宮殿!!」(2018-10-25)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/535b4eb97ab0ce5ac2a7081764764390
・「炭鉱王の邸宅・高取邸」(2008-02-01)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/107e7a99223f3f838b5f99ff22e946cc
・「東京駅から逃げ出した4匹の動物が、武雄温泉の楼門に」(2014-09-19)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bb2c173be8b8bb7871058b896eeb13a0
・「佐賀・白鬚神社の田楽」(2013-10-30)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/2cbcdf637fc6633e4af5925ecf850349
・「玄界灘・呼子のイカ」(2015-04-21)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/3f2903b6189a20d21f92a63038f00b82
・「待望の、鳥栖駅の焼麦弁当」(2013-02-03)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/1edc4c4a7f0cb12ed36e5bc0ae105a36
・「「たろめん」に見る、杵島炭鉱の面影」(2011-01-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/c/c1f17c562cf4ce7732605dbbe6eb3706/1
・「「にあんちゃん」を知っている」(2009-02-20)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/4177db915cfcc911cdc75cf02cbca3f3
・「ミシュランの☆佐賀探索①「ミシュランガイド福岡・佐賀版」」(2014-10-14)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/081e424381323fcd02ee7918177c5462

 *
・「稲佐神社のくんち」 (2006-10-20)
・「妻山神社のくんち」 (2006-10-23)
・「伊万里トンテントン祭り」 (2006-10-25)
・「唐津くんち」 (2006-11-07)
・「玄界灘に浮かぶ加部島の、佐用姫伝説」 (2008-01-08)
・「有田にあるツヴィンガー宮殿」 (2011-01-14)
・「秋の空を彩る、佐賀バルーンフェスタ」 (2013-11-02)
・「李香蘭の戸籍謄本」 (2007-03-30)
・「産業記憶遺産ともいえる、映画「にあんちゃん」(2012-02-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/c7e3bcebd4fc6135255d01044f5cc82d
・「「薩長土肥」の「肥」の象徴、鍋島直正」(2018-04-30)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b72bb7b136ef9560908e32b8197881ee

 *
 この文のタイトルは、昨年12月に亡くなられた熊本在住の思想史家、渡辺京二の代表作「逝きし世の面影」(平凡社)に倣った。

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パンデミック・コロナの時代④ コロナワクチンにまつわる私的喜遊曲

2023-02-12 03:03:02 | 人生は記憶
 <1>新型コロナワクチン前夜のこと

 2020(令和2)年が始まった時から次第に、というよりまたたく間に、「新型コロナウイルス」こと「COVID⁻19」という、今まで見たことも経験したこともない、得体のしれないものが忍び寄ってきていることを感じさせられた。
 それが実際に、世界中に拡大・蔓延しパンデミック(感染症の世界的大流行)と確定されたとき、歴史や資料や報道でしか知らない"コレラの大流行"とか"スペイン風邪が世界に蔓延"というのと同じ類の時代に、今は入っているのだと感じた。
 新型コロナ感染者は、日本でも世界各国でも日ごと目に見えて増えていくのを、連日報道される統計数字を見て、その恐怖と畏怖にまみれた不安対象が見えないだけに、気持ちは晴れ晴れとしたり高揚したりすることは極度に少なくなった。
 みんなが、マスクをつける、手を洗うといった防御以外になす術もなく、他人との接触も極力控えるという生活を余儀なくされたのだった。
 「不要不急」の外出を控え、「緊急事態宣言」も経験した。戒厳令より、まだましだろうが、これからも緊急事態宣言を受けるといったことはあるだろうかと考えてもみた。
 もともと私は家にいることが多いので、それまでの生活と基本的には変わらないのだけれど、外の空気が違った。街中を歩いても、どこも言いしれぬ不穏な空気が流れているのだ。この空気の中に、コロナウイルスが混じっているという潜在意識があったのかもしれない。

 新型コロナウイルスの発生から1年後の2020年の年末で、コロナ感染者は世界中で8千万人を超え、死者数は190万人にのぼった。
 蔓延する新型コロナウイルスに対する最大の防御対処法は、ウイルスに対するワクチンの開発だということだったが、それがいつになるかは不明のまま月日は進んでいった。

 <2>2021年はワクチン争奪年

 2021(令和3)年になると、開発されたコロナワクチンをEU先進国やアメリカなどで接種が始まった。
 日本国内でのワクチン開発はどうなっているのだろうと気になっていたが、いつになるかわからない日本国内の開発までは待っておれないと踏んだのか、日本政府は先行していた米ファイザー社、米モデルナ社、英アストロゼネカ社とワクチン供給の交渉を行っていた。
 アメリカやイギリスをはじめとするEU先進国の接種が進むなか、あとに回された日本は後れをとっていた。
 供給開始されたコロナワクチンは世界各国、とりわけ先進諸国の争奪戦の様相を帯びていた。見かねてWHOのテドロス・アダノム事務局長は、この感染症の性質上、世界各国が均等に供給されることが重要だと声明を出したほどだ。
 
 EU先進各国に後れをとっていた日本は、それでもファイザー社との粘りの交渉の結果、2月17日、日本における医療従事者(約480万人)向けワクチン接種が開始された。
 そして、4月12日、65歳以上の高齢者(約3,600万人)向けのワクチン接種が開始されることになった。その後、64歳以降の人へと移っていくこととなった。
 5月7日、菅首相が「1日100万回の接種を目標とし、7月末を念頭に希望するすべての高齢者に2回の接種を終わらせるよう自治体をサポートする」と表明。
 ※「パンデミック・コロナの時代② 世界を走らせたワクチン喧騒曲」参照。

 <3>日本でワクチン接種が始まった日

 2021年春、コロナワクチンを不安視する人(専門家も含めて)もいたが、新型コロナウイルスの感染者および死者が拡大している状況で、多くの人が1日も早いワクチンを接種しようと待ち望んでいた。
 そして4月、ワクチン接種券が各人に送られた。
 ワクチン接種の段取りは全国の各自治体に任せられていた。だから、各人に送られる接種券の送付日、接種の予約開始日、接種日、接種会場などは、自治体ごとに違っていた。
 ワクチン接種を希望する人は、まず摂取する日の予約をとらないといけない。
 予約方法は、電話かインターネットであった。
 5月に入って予約受け付けを開始する自治体が出てきて、テレビ新聞等のマスコミで報道された。
 そのなかでも横浜市は早かったと記憶しているが、その予約開始のいきさつはおそらく予約者が殺到すると思われたが、その予想を超えるものであった。
 電話はすぐにかからなくなったし、インターネットもすぐにつながらなくなったというものだった。何日かして、各自治体とも予約がとりにくい状況は続いているが、それでも電話より インターネットの方がまだましだという情報であった。

 <4>ワクチン予約奮戦記

 東京都多摩市は広報誌で「新型コロナウイルスワクチン接種、臨時号」(令和3年4月28日)が出て、高齢者向けのワクチン接種の段取り、日程が発表された。(写真)
 ・75歳以上、(予約受付開始日)5月6日午前9時~、(集団接種開始日)5月12日~。
 ・65歳~74歳、(予約受付開始日)5月19日午前9時~、(集団接種開始日)5月26日~。
 という2段階方式だった。

 2021年5月、私は、予約受付開始日の初日、インターネットで予約するため、パソコンで市のワクチン予約サイトを開いて机に座った。
 朝9時から予約開始とあるので、普通の人は別段朝早い時間ではないのだろうが、夜型の私としてはその日は早起きしたのである。
 入力は、説明書によると、画面にそって以下の通りである。
 ➀接種券に記載されている予約受付コード、確認番号を入力。②接種会場(多摩市の場合3か所から)を入力。③接種日の選択。④時間帯を選択。
 で、完了である。

 壁に架けてあるソーラー時計が朝の9時を回ったのを見て、おもむろにパソコンの予約サイトの画面を開いた。余裕を持って開いたのであった。
 しかし、繋がらない。慌てて、もう一度やり直したが同じであった。ウムム……
 しばらく時間をおいて、再度挑戦したらサイトに繋がった。すぐに予約しようと思ったら、そこには「本日の予約は終了しました」との文字があった。
 私は愕然とした。まだ予約開始スタートしたばかりなのに。サイトを開いたのは9時すぐ、おそらく9時2分ぐらいである。
 多摩市も御多分に漏れず予約殺到、炎上かと、その日は諦めた。
 それでも、もしや電話が繋がるかもと思いなおして、指定のコロナワクチンの予約専用ダイヤルを押してみた。当然、繋がらなかった。

 予約開始2日目、初日の2分が致命的だったのだと思い、9時ジャストにはパソコンの画面を開いて待ちうけた。今度は9時の、時計の秒針が12(0秒)を過ぎるのを待って、サイトの画面に繋げた。
 おっと、今回は繋がった。
 よしっ、と思って、➀の予約受付コードを入力し、次に移行した。②の接種会場をちらと見たところで、突然「本日の予約は終了しました」との文字が出た。
 ウムム……何としたことか。もう一歩のところだったのに。
 明日、また早起きしないといけない、やれ、やれ、との思いだった。
 悔しいので、近くに住む同年代の知人の老人に電話してみた。すると、彼も9時からパソコンで予約をとろうとしたが、私と同じで2日連続でダメだったと言った。
 小金井市の知人は、意外と簡単に予約がとれたと言った。
 ウム、自治体によって、だいぶん温度差があるようだ。

 予約開始3日目、またまた9時前に体制を整えて待ち構えた。
 9時03秒ぐらいに予約サイトにアクセスした。9時より前にアクセスしても繋がらないのは確認済みであった。
 今回は繋がって、最後の完了まで遂行できた。
 ワクチンの予約ができて、ひとまず安堵した。これで、新型コロナウイルスの不安からだいぶん解放されるという思いだった。

 *
 第1回目のコロナワクチンの接種は、5月22日の夕方3時半からだった。
 接種会場は、私が買い物に行く通りにある新築されたばかりのIT会社の1階大会議室の開放的なフロアーで、大人数で行われた。市およびその関連者(アルバイトも含めて)が受け付けや案内を行っていて、病院のような陰湿さはなく、明るい空気に充ちていた。
 接種を終わった後は、何だか解放された気分になっていた。言われていた副反応も、接種された方の左肩が少し痛かった程度で、ほとんどなかった。
 2回目のワクチン接種は、多摩市の場合、自動的に3週間後に同じ時間・会場での予約が組まれ、いちいち自分で再予約する必要のない仕組みとなっていた。その日が都合の悪い人は、自分で変更すればいいだけのことだった。
 ということで、2回目の接種は同じ会場で、6月12日に行った。

 *
 政府は、7月末時点で高齢者(約3,600万人)の8割程度が2回接種を終えていると発表した。
 依然、新型コロナの波は続いていて、この年、春の第4波ではアルファ株が流行。
 夏の8月には、特に高齢者には重症化率の高いとされるオミクロン株による第5波の到来があった。
 オミクロン株による高齢者への被害浸蝕を考えると、波の襲来からかろうじて切り抜けられたかの早急対応を要する時期だった。
 その後、64歳以下の一般人の接種率も、日本は先行した欧米先進国に比肩する高さまで急速にアップしていった。

 振り返ってみれば、当時の菅首相は世論(マスコミ)に叩かれはしたが、日本の遅れたワクチン対策を取り戻すかのように、ファイザー社のCEOと直談判を強行したり、「1日100万回のワクチン接種の実施」に見るように、その突破力は見直されてしかるべきであろう。

 ※参考データとして、コロナワクチン接種が始まったこの時期の、日本と世界のコロナ感染状況を記しておこう。
 ▷ 2021年4月1日
 ・日本=(感染者数)47万7691人、前日比+2605、(死者数)9194人、前日比+18。
 ・世界全体=(感染者数)1億3006万596人、(死者数)294万6957人
 ▷ 2021年7月1日
 日本=(感染者数)80万1337人+1754、(死者数)1万4808人+24
 世界全体=(感染者数)1億8314万8254人、(死者数)398万5219人
 ▷ 2021年10月31日
 ・日本=(感染者数)172万2343人+228、(死者数)1万8267人+7
 ・世界全体=(感染者数)2億4741万712人、(死者数)503万56人
 (日本経済新聞、「新型コロナウイルス感染 世界マップ」)


 <5>コロナの時代の終焉!

 2023(令和5)年の2月現在、日本は新型コロナウイルスを5月8日から感染症法上、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げるとした。
 期せずして、「パンデミック」という初めての体験をした。俯瞰的に言えば、人類が共有した。
 新型コロナウイルスの発生から3年がたって、特別で特殊な存在だった新型コロナウイルスが特別なものではなくなる終焉期を迎えるという、時の過度期であるのを見て、改めてコロナの時代を記憶に刻んでおこうと思った。
 とはいえ、コロナの時代が終わったわけではない。日本では、いや世界中でも、新型コロナウイルスは異株に変種して、生き続けていることを忘れてはならないだろう。

 現在の新型コロナウイルスの感染状況は、
・日本=(感染者数)3296万158人、前日比+2万7378、(死者数)7万579人、前日比+181。
 2023(令和5)年2月11日(朝日新聞)
・世界全体=(感染者数)6億7170万6664人、(死者数)684万4614人。
 2023(令和5)年2月5日(「日本経済新聞・新型コロナウイルス感染 世界マップ」)




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パンデミック・コロナの時代③ 新型コロナウイルス襲来の記録

2023-02-08 03:31:46 | 人生は記憶
 2023(令和5)年1月27日、岸田内閣は、現在も蔓延している新型コロナウイルス(COVID⁻19)の感染症法上の分類を、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に5月8日に引き下げると決めた。
 感染症法は、感染症を1~5類と「新型インフルエンザ等」に分類している。新型コロナは「新型インフルエンザ等」に位置づけられ、結核などの「2類」以上の対応がとれる扱いだった。
 「5類」に引き下げることによって、新型コロナを特別な感染症として扱う対応は縮小・廃止されることになる。つまり、普通のインフルエンザ、風邪扱いとなる。
 新型コロナウイルスが日本国内で発生してから約3年。
 日本国内はおろか世界中を巻き込んだパンデミック(世界的大流行)の「コロナ禍」は、さらなる強力な呼び戻しが来ない限り、一応の終わりを告げようとしている。
 あの新型コロナウイルスが持っていた不穏な力と灰色の空気はどのようなものだったのかを、私的に刻印しておこうと思っている。
 (写真は、「コロナを生きた3年間」特集の2023年1月15日朝日新聞の記事)

 <1>新型コロナウイルスの生まれた頃

 ことの起こりは、小さな出来事と思えた。
 2019(令和元)年12月のこと、中国湖北省武漢市で原因不明の肺炎が発生したというニュースが、世界で日々生まれるニュース・話題の一つとして流れた。
 そういうことはよくとは言わないが、たまにあることだと多くの人が感じとった。
 翌2020(令和2)年の1月になると、その武漢発生とおぼしき新型肺炎に関する報道は少しずつ数が増え、中国武漢では感染者が広まっていることが感じられた。
 そして、その新型肺炎が新型コロナウイルス(COVID⁻19)と判明(命名)され、1月15日に日本人にも感染者が出た頃、欧米でも感染が急増していた。
 その後は、新型コロナウイルスは燎原の火のように、またたく間に世界中に蔓延した。

 世界の感染者数が 114 の国・地域で計 11 万8千人以上、死者数が 4,291 人まで拡大した3月11日、WHO(世界保健機構)がパンデミック(感染症の世界的大流行)を表明した。
 わが国日本でも、2月には初めての死者が出るが、3月の上旬まではさほど感染者は増えなかった。実際、3月中旬頃まで感染者数は全国で50人以下だった。
 日本に感染者が増えたのは、3月10日頃以降、欧米からの旅行者や帰国者が増えたあたりからである。その頃、欧米では感染者が急拡大し死者が続出していた。
 3月、ヨーロッパを旅行していた知人が、不穏な空気と情報をキャッチし、旅行途中で急遽予定を繰り上げて帰国し、間一髪で出国留めにあわずにすんだと語った。
 WHO発表による新型コロナの最初の発生から半年後の6月末には、感染者は全世界で1千万人を超えパンデミックは勢いを増していった。

 <2>2020(令和2)年、新型コロナの感染者、死者の数の推移をデータで見てみよう

 まず、日本国内で初めて死者が出た2020年の2月から、日本国内とあわせて世界の状況を見ていこう。
 ・2020年2月13日、
 (日本・感染者数)33人、前日比+5、(死者数)1人、前日比+1
 (世界全体・感染者数)6万384人、(死者数)1373人
 ・3月1日
 (日本・感染者数)259人+14、(死者数)6人+0
 (世界全体・感染者数)8万8402人、(死者数)3000人
 ・4月1日
 (日本・感染者数)2535人+280、(死者数)72人+5
 (世界全体・感染者数)95万5728人、(死者数)5万3862人

 新型コロナの世界的大流行となるパンデミック前夜と黎明期は、感染者も少なく、当日の感染者の発表・報道に釘付けになった。朝日新聞では毎日、各都道府県の感染者および死者の数と、都内版(多摩版)では、東京都内の23区・市町村別に前日の感染者数、死者数とその累計を表として掲載した。
 コロナ初期、黎明期には、急拡大し続ける世界の状況に比し、日本は感染者や死者が少なかった。それで、日本人に特有のコロナウイルスの免疫性があるのではないか、それは何か、根拠となるものは何かなどが、専門家も含めて真面目に論じられた。
 しかし、新型コロナウイルス発生後約1年になる2020年の終わりになると、やはり以下の数字のように日本も感染者は増大していた。
 ・2020年12月31日
 (日本・感染者数)23万5749人+4532、(死者数)3492人+49
 (世界全体・感染者数)2億8872万8174人、(死者数)398万5219

 そして、現在は……
 ・2023(令和5)年2月5日
 (日本・感染者数)3276万6847人+32459、(死者数)6万9485人+188
 (世界全体・感染者数)6億7170万6664人、(死者数)684万4614人

 ※統計資料は「日本経済新聞・新型コロナウイルス感染 世界マップ」(感染者数や死者数は米ジョンズ・ホプキンス大学の集計による)

 そして、2020年の12月から翌2021年にかけて、欧米先進国をはじめとする、日本も含めた世界各国による、新型コロナワクチンの争奪戦が始まるのであった。
 ※「パンデミック・コロナの時代② 世界を走らせたワクチン喧騒曲」参照

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パンデミック・コロナの時代② 世界を走らせたワクチン喧騒曲

2023-02-01 02:28:11 | 人生は記憶
 2020(令和2)年1月15日にわが国初の新型コロナウイルスの感染者が確認されて以来、コロナ感染者数は徐々に増えていった。
 コロナの感染者数は放物線のように拡大し、ピークの山を超すと下がり収束へ向かう。しかし、それで終わるということはなく、しばらくして再び感染の拡大が始まり山を超すと収束に向かうという、頂点の高さと領域の幅は違えど、”波”を繰り返してきた。
 つまり、私たちの心的感情から言うと、拡大の不安と収束の安堵の波の繰り返しが、現在に至っても続いている。
 そして、2023(令和5)年の1月現在、日本は第8波に到っている。

 <1> 2020年、新型コロナウイルス第1波~2波の対応と、その後

 この新型コロナウイルス(COVID-19)は、またたく間にパンデミック(世界大流行)となり全世界に拡大し、各国はその対応に追われ、一方先進各国はコロナワクチンの開発・作成を急いだ。
 新型コロナウイルス感染拡大への対応策として、欧米各国は社会規制への強化を打ち出した。欧州では、飲食店の店内営業禁止などを伴うロックダウン(都市封鎖)を実施し、違反者には厳しい罰則も科した。
 新型コロナウイルスの初動期には、欧米に比し感染者がさほど多くなかったわが国では、各個人に対する自粛要請、その後4月7日の緊急事態宣言(1回目)出言にとどまった。
 ※「パンデミック・コロナの時代① 2020(令和2)年に起こったこと」参照。

 2020年の4~5月のコロナの波(第1波)が静まったかのように見えた後、7月から再び感染者が徐々に増え8月をピークに第2波が到来した。
 ・7月22日、政府の観光支援策「Go Toトラベル」開始。
 外出自粛、緊急事態宣言などで委縮した経済に刺激を与えるという意図で出された政策だが、ブレーキをかけている状態でアクセルを踏んでいると、世間では不評だった。
 ・8月28日、安倍晋三首相が辞意を表明。
 ・9月16日、臨時国会にて、第99代内閣総理大臣に菅義偉が指名される。

 低い数字ながら続いていたコロナ感染者数が11月ごろから徐々に増え、12月から翌2021(令和3)年1月に第3波のピークを迎える。
 ・12月28日、「Go Toトラベル」を全国で一斉に停止。
 ・1月8日、2回目の緊急事態宣言。

 <2> 新型コロナウイルス、2020年の日本国内、世界の状況
 
 〇2020年の日本国内の感染者数、23万6055人、日本国内の死者数、3492人。(朝日新聞)
 〇2020年の新型コロナウイルスの世界の状況
 ・新型コロナウイルスの感染者が中国・武漢市で初めて確認されてから1年となる2020年12月8日で、世界の新規感染者は1日60万人程度の勢いで増えていて、累計で6700万人に。死者も150万人を超え、各国は未知のウイルスとの闘いに追われている。
 ・春に都市封鎖(ロックダウン)を強いられた欧州各国は感染拡大の「第2波」に襲われている。夏のバカンスを経て、9月下旬から感染が再拡大。7月末に335万人だった累計感染者は、11月には1800万人を超えた。
 英仏伊などは10月下旬から相次いで、全土や特定地域でロックダウンを再び導入。各地で規制強化に対する抗議デモも起きている。
 ・アメリカの新型コロナウイルスの新規の感染者が1日に20万人を超え、累計感染者は1500万人に迫り、死者は28万人以上と世界最悪の状況となっている。
 11月3日、アメリカ合衆国大統領選挙で、当初から感染抑制よりも経済活動の再開に躍起だった共和党のドナルド・トランプ大統領が敗れ、民主党候補のジョー・バイデンが大統領に当選した。トランプ前大統領は大統領選後も、ツイッターで「不正投票があった」と発信し続けている。
 (2020年12月の東京新聞での報道を要約)

 <3> コロナワクチンへの開発と対応急いだEU各国 
 
 新型コロナウイルスの感染対策に追われていた各国であるが、先進各国(もちろん日本も)は感染防止の鍵とされるワクチン開発を急ピッチで進めていた。
 なかでも開発が進んでいたのは、米ファイザー社、米モデルナ社、英アストロゼネカ社だった。中国でも独自に開発が進んでいた。
 開発をリードした米英以外の国も、ワクチンの供給確保に敏感に動いていたし、日本政府も先にあげた米英の製薬会社とワクチンの供給の交渉を進めていた。
 菅首相は9月の就任会見で、「来年前半までに全国民に行き渡るワクチンを確保する」と表明するも、日本国内でのワクチン開発がどこまで進んでいて、いつ頃作成できるなどの具体的なニュースは聞かれなかった。

 2020年12月、米製薬大手ファイザーとドイツのバイオ企業ビオンテックが開発したワクチンに世界の注目が集まった。以下はその時のニュースである。
 ・イギリスが米製薬大手ファイザーの新型コロナウイルス用ワクチンをいち早く承認したことを受け、欧州連合(EU)諸国がワクチン準備を急いでいる。
 イギリスに負けじと早期導入を誓う国や、副作用への不安などから躊躇する人への説得を試みる国、EU一体での調達計画に抵抗する国など、ワクチンを巡る思惑が交錯している。(2020年12月6日東京新聞)
 新型コロナウイルス感染対策の最大の鍵と目されたコロナワクチンが、争奪戦の様相を呈して、世界で大きく動き出したのであった。

 <4> 日本におけるコロナワクチンの動向記録
 
 ・2021(令和3)年1月、新型コロナウイルス第3波到来。
 ・1月8日、2回目の緊急事態宣言、出言。

 2020年12月、イギリスでファイザー社の新型コロナワクチンが緊急承認されたのを期に、世界各国で同社製のワクチン接種が急速に進む。特に欧(EU)米の先進国が先行し、多くの国はいつ供給が回ってくるか不透明な、需要が供給に追いつかない状況であった。
 一刻も早い供給を求めていた日本政府に対して、ファイザー社から、日本への供給開始は2021年4月ごろになるとの見通しが伝わる。そこで菅首相は、従来の厚生労働省ルートではなくファイザー社との直接交渉を探る。
 交渉の結果、4月の供給開始が2月12日に前倒しされたが、十分な供給量までには至らなかった。
 翌2021年1月20日の正式契約では、半年前合意での6月末まで約1億2千万回分(6千万人分)ではなく、年内に約1億4400回分(約7200万人分)と変更された。
 その後も政府は高齢者分などを確保するために、ワクチン供給の前倒しの交渉を続ける。

 ・2021年2月17日、日本における、医療従事者向けワクチン接種開始。
 ・4月12日、高齢者向けのワクチン接種を開始。
 ・4月16日、菅首相、ワシントンにてバイデン大統領との日米首脳会談。翌17日、ファイザー社のブーラ最高経営責任者(CEO)と、ワクチン前倒し供給を直談判。
 ・5月7日、菅首相「1日100万回の接種を目標とし、7月末を念頭に希望するすべての高齢者に2回の接種を終わらせるよう自治体をサポートする」と表明。
 ・5月14日、ファイザー社との追加供給の正式契約締結を発表。
 (写真は、遅れて報道された菅首相のファイザー社CEOとの直談判に関する、2021年5月20日の朝日新聞1面記事)
 このあと、日本では遅れていたワクチン接種開始を取り戻すかのように、急ピッチで接種を進め、他の先進国とそん色ないワクチン接種率となる。

 新型コロナの第3波までは従来株ウイルスであったが、2021年春の第4波ではアルファ株、同夏の第5波では重症化率が高いデルタ株が流行。

 ・7月12日、4回目の緊急事態宣言、言出。
 ・7月23日、1年延期となった東京五輪、無観客にて開催。
 ・8月、新型コロナウイルス第5波到来。デルタ株が主流となる。
 ・9月3日、菅首相が退陣を表明。
 ・9月30日、緊急事態宣言、すべてで解除。

 ・10月4日、岸田文雄、第100代総理大臣に就任。
 ・2022(令和4)年1月~、新型コロナウイルス第6波到来。新規感染者数、死者数も急増する。
 ウイルスはオミクロン株が主流となる。
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