かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

戦場のピアニスト

2011-02-24 03:27:20 | 映画:フランス映画
 原作:ウワディスワフ・シュピルマン 制作・監督:ロマン・ポランスキー 出演:エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン 2002年ポーランド=仏

 人間の運命は分からない。
 いつ死んだかもしれないし、生きているのは偶然かもしれない。
ましてや、戦争のただ中に生きていたなら、生死は紙一重だろう。いや、第2次世界大戦中のポーランドにおけるユダヤ人だとしたら、死を余儀なくした運命にあっただろう。
 第2次世界大戦下、ポーランドはナチス・ドイツに占領された。その時、ホロコーストによって、当時ワルシャワ・ゲットーにいた38万のユダヤ人のうち30万人が殺害されたと言われている。

 一方、人間の運命は出会いともいえる。
 どのような人間と出会ったかが、大きな人生の岐路になり、運命を分かつことになる。例えひと時の、あるいは一瞬の出会いであれ、人の運命を左右する出会いがまれにある。
 人は、それを死ぬまで忘れられない。

 「戦場のピアニスト」(The pianist)は、死と向きあっていた戦争下の、一瞬の人間の交叉の物語である。
 気紛れな運命ともいえる、ユダヤ人のピアニストとドイツ人の将校の間に人知れず通(かよ)った、ひと時の心の交流と言ってもいい。

 ウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)は、ワルシャワでピアニストとして活動していた。しかし、ドイツ・ナチス軍のポーランド侵入によって、彼の生活は一変する。ユダヤ人であるという理由により、彼を含めて家族は全員、ユダヤ人を集めたゲットーへ移される。
 強制労働、ナチスのホロコーストによる、ユダヤ人の死を意味する収容所送り……。次々と、シュピルマンの周囲に現実の死が覆い始める。彼は、ワルシャワ・ゲットー蜂起、さらにワルシャワ蜂起を目の当たりにしながら、戦火の中をかろうじて逃げ続ける。
 ワルシャワにソ連軍の侵攻が近づいてきた頃、廃墟のビルの中に隠れていたシュピルマンは、たまたま偵察に見回っていたドイツの将校(トーマス・クレッチマン)に見つかる。
 ドイツ将校に職業は何かと問われて、ピアノを弾いていたと答えた彼は、ここで弾いてみろと言われる。
 髭は伸び放題でやせ衰えて乞食のような男が、ピアノを弾き出すと別人のように指が弾む。廃墟に響き渡る曲は、ショパンのバラード第1番ト短調作品23。
 シュピルマンの演奏を聴いたドイツ将校は、もう2、3週間ここで辛抱しろと、戦争の終わりを見据えた言葉を残して、彼を見逃す。それどころか、その後も時折食料を隠し持ってくるのであった。
 やがて、戦争は終わる。
 立場は逆になり、ドイツ将校は捕虜となる。
 シュピルマンは、終戦後、再びピアニストとして活動し、2000年、88歳まで生存する。
 ドイツ将校のヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉は、ソ連収容所で1952年死亡する。

 「戦場のピアニスト」は、ポーランド人のウワディスワフ・シュピルマンの実話を元にした映画である。終戦直後、ポーランドでノンフィクションの書籍として出版されたが、すぐに絶版処分となった。のちに、翻訳本がポーランド以外の国で出版された。
 制作・監督のロマン・ポランスキーもポーランド人である。ポランスキーは、幼少時にユダヤ人ゲットーに入れられたが父親の計らいで脱出、母親はアウシュビッツの捕虜収容所で虐殺されたという経験を持つ。
 長じてポランスキーは映画制作に乗り出し、デビュー作の「水の中のナイフ」(1962年)で、いきなりヴェネチア映画祭国際批評家連盟賞を受賞。「反撥」(1965年)でべルリン映画祭審査員賞を受賞して、若くして鬼才の名を欲しいままにした。
 その後アメリカに移って映画制作を続けたが、少女への淫行容疑の裁判沙汰を起こして出国し、ヨーロッパに居住。現在も、アメリカへは入国できない状況にある。
 
 「戦場のピアニスト」は、カンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞した。また、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞の3部門で受賞。
 ウワディスワフ・シュピルマン役のエイドリアン・ブロディが、哀愁をおびた優しげなピアニストを絶妙に演じている。彼もまた、ユダヤ系ポーランド人である父親の家族が、ホロコーストにあったという過去を背負っている。

 これらのポーランド人の魂の秘めたる熱情が、この映画を作りあげたといえよう。
 戦争の爆撃によって廃墟となった哀しいワルシャワの街が、この映画を逆に美しくさせている。
 アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」「灰とダイヤモンド」などとひと味違ったポーランド映画となった。

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文明の格差 「銃・病原菌・鉄」(上)より

2011-02-18 01:23:40 | 本/小説:外国
 ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰訳 草思社

 世界はどうして、こうも格差ができてしまったのだろう。
 現在、ヨーロッパやアメリカは文化も経済も発達しているが、近代の歴史の中で、アフリカやアジアや南米などは、どうして取り残されていったのだろう。
 古代文明の発祥地は、メソポタミア、エジプト、インド、中国なのに。いや、さらに歴史を遡れば、人類の出現・誕生はアフリカである。なのに、一歩先に歩き出した民族が、先頭をいつも歩いているのではない。
 人類はアフリカから誕生して、ユーフラテス大陸へ移動し、さらにベーリング海を渡って北米、南米大陸へと行きたどった。太平洋の島々から、オーストラリア大陸にも住みついた。
 しかし、人類は別々の言語を持ち、まったく違った文化と組織(国)を持った。
 先にスタートしたアフリカだが、メソポタミア地方の三日月肥沃地帯に早く文明は発達して、ユーラシア大陸・ヨーロッパに拡大していった。そして、多様な文化発展をしていった。
 その違いを、僕は環境・風土の違いと思っていた。
 白人は、長い間、白人種が最も優秀だと思いこんでいた。それが、黒人の奴隷制や黒人、黄色人種の国の植民地化など、差別意識として表れていると思われる。

 ジャレド・ダイアモンドは、アメリカの生物学者で人類学者である。
 彼が蝶類の進化について研究のために、ニューギニアを歩いていたとき、現地の政治家ヤリと知りあった。
 ヤリは彼にこう言った。
 「あなた方白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」
 これに対して答えられなかったダイアモンドは、25年後に、彼の答えというものを発表した。
 それが、「銃・病原菌・鉄」(倉骨彰訳)である。
 「朝日新聞のゼロ年代の50冊」でNo.1となった本で、「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の1位にもなっている。
 ダイアモンドは、1万3000年前に、人類がスタートしてから、どのような軌跡をたどったか、そしていかにして現代社会の構造になったかを、緻密に解説している。
 彼は、大きな分岐点となったのを、表題の銃、病原菌、鉄に置いている。

 近代において、人口構成を最も変化させたのは、ヨーロッパ人による新大陸(アメリカ大陸)の征服である。
 その象徴として、1532年11月、スペインの征服者ピサロがインカ皇帝アタワルパを捕らえたときの状況を、文献を元に詳しく描写している。
 そのとき60人の騎兵と106人の歩兵、計166人のスペイン兵が、少なくとも4万人とも、8万人ともいわれたインディオの兵士を、あっという間に破っている。
 この時、スペイン人は銃を持っていたし、馬も持っていた。これらは、インカにはなかったことはよく知られている。
 この時、スペイン兵は1人の死者も出さずに、インディオ人は6000人から7000人が死んだという。
 スペイン人がインカやアステカ帝国を制覇したのは、武器と馬による圧力だけではないとダイアモンドは言う。
 彼は、新大陸の原住民の人口を減少させた決定的な要因は、病原菌にあると言っている。
 1519年には、コルテスがアステカ帝国を征服させるためにメキシコに上陸した。しかし、勝敗を決したのは武力ではなく、スペインからもたらされた天然痘の蔓延だったという。この病原菌で、アステカ帝国の人口の半分が死亡したという。さらに、2000万人いたメキシコの人口は、天然痘によって1618年には160万人まで激減したという。
 新大陸にヨーロッパ人がやってきた16世紀には、このほかにも北米大陸の先住民であるインディオは、ヨーロッパ人がもたらした感染症によってあっという間に人口が激減し壊滅状態に陥った。

 人間の新しい感染症は、動物から感染することが多い。
 人間は、しばしば家畜やペットから病原菌を感染させられている。天然痘、インフルエンザ、結核、マラリア、ペスト、麻疹(はしか)などは、非常に深刻な病気である。 これらの感染症は元々動物がかかる病気だったが、今では人間だけが感染し、動物は感染しない。
 人間に感染し、多くの人間を死に至らしめた病原菌も、長い間に、人間は抗体を作り、それに対する免疫力を備えてくる。そしてまた、病原菌も自分の生き残りのために、変化し続ける。
 爆発的に猛威をふるう病原菌も、いつしか下火になる。そして、ある周期をもってまた病原菌の流行がやってくる。こうして、長い間、人類と病原菌の闘いと共生が行われてきたし、これからも行われるだろうというのだ。
 つまり、ヨーロッパ人が長い間の家畜との共生で、免疫力を持っていた病原菌を、新大陸の人間は持っていなかったので、またたく間に蔓延し、短期間の間に人口は激減したとされるのだ。

 人間の能力に、人種による格差はないという。
 では、どうやって文明は違った道を歩いたのだろう。食料生産の収穫差、産業改革・発明などが、進歩・格差を生んだのか?
 著者は、それを丹念に紐解いていく。

 そして、本書の「下」では、文字はどのようにして生まれたのか? が書かれている。

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ブラタモリの、哀愁の「江戸城外堀」

2011-02-09 21:11:09 | * 東京とその周辺の散策
 東京の「外堀」といえば、四谷から市ヶ谷へ向かった途中から飯田橋に到る約4キロの長さの堀である。
 この堀に沿って東側に中央線の電車が走る。この堀に沿った四谷、市ヶ谷、飯田橋は、皇居の西側にあり、丸い山手線を横断する中央線(総武線)の新宿駅と東京駅のほぼ中ほどで、東京の中央に位置する。
 線路の東は大きな土手になっていて、桜並木の遊歩道である外濠公園が続く。
 江戸城の内堀は皇居の周辺にほとんど残っていて、この堀に沿ってジョギングをしている人を見かけることでも有名だ。
 
 内堀のさらに外に堀を作った江戸城外堀は、約14キロあったが、明治以降の日本の近代化の途中で埋め立てられ、今この四谷、市ヶ谷、飯田橋あたりに残るのみである。
 外堀の西側には外堀通りがあり、市ヶ谷駅前の市ヶ谷見附で靖国通りと交叉する。
 中央線の走る電車からも、外堀通りを走る車からも外堀は見えるので、何げなく通り過ぎた人も多いだろう。飯田橋から東へ水道橋、御茶ノ水に向かっては神田川が流れているので、市ヶ谷前のこの外堀も、都心に流れる大きな川か、単なる長い池と勘違いしている人もいるかもしれない。
 徳川3代将軍家光の時代の寛永13(1636)年に、全国大名を総動員して造られたといわれる外堀は、わずかにここだけ、その姿のままでじっと佇んでいるのである。

 この外堀の東側、つまり皇居側は千代田区で、西側は新宿区である。
千代田区側には、五番町とか九段とか、いかにも武家屋敷が並んでいたような地名が連なる。
 一方西側の新宿区側は、市谷八幡町とか、市谷左内町、市ヶ谷番匠町といった名前が道や坂に入りくんで名づけてあり、街の職業や特性で細かく区切られていたことが分かる。
 市谷八幡町は亀ヶ岡八幡宮があり、左内坂なるものが残る左内町は島田左内なる者が町家を作ったとされ、番匠とは建築職人の意味から、番匠町には宮大工のような職人が集まっていたに違いない。
 飯田橋の外堀の突き当たりの牛込橋を渡ると、かつて赤坂と競いあった花街・歓楽街、神楽坂に出る。江戸の武士もこの界隈で羽目を外して、千鳥足で歩く姿がよく見かけられたに違いない。

 *

 NHKテレビの「ブラタモリ」が再開し、この「江戸城外堀」を2月3日放映した。2月8日再放映をし、そのとき僕は見た。ちなみに、2月10日朝11時よりNHK・BSでも再放映される。

 2008年の暮れの12月、深夜にNHKで唐突に「ブラタモリ」なる題名で、「原宿」が放映された。
 若者で賑わっている原宿を歩きながら、その足元の何げない小さな石垣や、なだらかな斜面や窪地から、昔はここに川が流れていた、などと推測し、古地図と睨めっこしながら、やはりこれがその痕跡だ、と言ってタモリがほくそ笑むのであった。そして、同行する専門家(その後毎回変わる)が、それを裏付ける根拠を解説するという趣向である。
 タモリと一緒に歩く久保田祐佳アナウンサーが、「あんきょ(暗渠)って何ですか?」などと尋ねるのも、今の女子アナらしくて愛嬌である。
 余談だが、当初この久保田祐佳は局アナではなくタレントだと思っていた。タモリと話すのも、普通の女の子のノリで、着ているファッションも女子大生風である。
 最近のNHKは、民放風にアイドル風のアナウンサーが出てきた。去年から朝のニュース番組「おはよう日本」のメインを務める鈴木奈穂子は、まさに可愛いアイドル風だし、今度夜の「ニュースウオッチ9」で青山祐子に代わる井上あさひは、正統派美人である。この井上あさひも、何だ!この髪型はといった殿様のチョンマゲのような格好で、堅い農業の番組に出ていたので、タレントか自称芸術家と思ったほどである。
 NHKの顔といえる朝の鈴木奈穂子と夜の井上あさひは、奇しくも04年入局の同期だそうである。「ブラタモリ」の久保田祐佳は、その1年下である。

 さて話を戻すと、このパイロット版とも言える「原宿」から1年たった、翌09年秋から「ブラタモリ」は2度レギュラー化された。
 そのなかでも、「銀座」、「丸の内」、「品川」、「新宿大久保」、「神田」など、知っている街なのに、今は失われた街の奥の歴史が抉られて、興味深いシリーズとなった。

 *

 ブラタモリの「江戸城外堀」は、千代田区歴史民俗資料館の後藤宏樹さんの案内で、外濠公園に沿ってそびえ立つ法政大学のボアソナードタワーの25階から、タモリ、久保田アナが外堀の全容を見渡すところから始まる。
 外堀を含めた東京の景色に、スタッフは感嘆の声をあげる。昔からこのあたりは眺望が素晴らしかったのだろう、富士見町という地名である。
 そして、タモリらスタッフは、四谷から市ヶ谷、飯田橋まで歩いて外堀の運命を紐解きながら、痕跡をたどる。
 明治期に建設された、今の中央線の元になる甲武鉄道の足跡も見つけることができる。この時の政府の先見の明で、中央線の新宿駅から東京駅までは、今でも踏切りがないようにできている。
 さらに、市ヶ谷の外堀の下に掘られた地下鉄の走る線路脇道にスタッフはもぐり、普通の人は入れない地下鉄有楽町線の留置線場にたどり着く。
 地下道を歩く彼らの横を地下鉄の電車が通りすぎるのを、笑って見送る。
 タモリが地下道を歩きながら、「通り過ぎる地下鉄に乗っていた人で、ちらっと俺に気づいた人がいたら驚くだろうね」と、笑って言う。
 すかさず久保田アナが「絶対、見間違いだと思うと…」と返事するのがおかしい。

 外堀界隈は、僕にとっては懐かしい思い出の地だ。
 外堀を挟んで千代田区と新宿区が広がる。学校も仕事も、この一帯へ通った。人生の大半をこの界隈で過ごしたと言ってもいい。
 市ヶ谷見附下には、外堀の一角に釣り堀がある。天気のいい午後、背広姿のサラリーマン風の男が釣り糸を垂れていたりするのも、長閑な風景だ。
 外堀を囲む建物やビルは変わっていったが、外濠公園の桜も、市ヶ谷亀ヶ岡八幡の急な階段も変わらない。いや、亀ヶ岡八幡の敷地はもっと広く、桜が茂っていたが、何年前になるか、土地の半分ぐらいが買収され予備校に変わった。
 外堀に面した、外堀通りの坂の下の角の大衆食堂はなくなった。市ヶ谷見附の番町に向かった先にあった喫茶店、五番町茶廊も変わった。中華料理店、九龍飯店はまだ店構えを保っている。
 外堀周辺の景色は、少しずつ変わっていく。
 しかし、外堀だけは変わらない。

 数多くある日本の城跡で、外堀が残っているのは、この江戸城の「外堀」、ここだけである。江戸城の外堀は、全体を見渡せば東西5キロ、南北4キロの大きさで、このことから江戸城が日本一の城だと言われている。
 四谷の外堀から続く赤坂見附にやってきたタモリは、夜の明かりの中で言った。
 「これだけでも、よく外堀が残っていたね。世界遺産でもいいんじゃないの」
 「全部残っていたのを見たかったですね」と久保田アナが合いの手を入れる。
 するとタモリは、すかさず言った。
 「全部残っていたら、文句なしで世界遺産だよ」
 こうして、ブラタモリの外堀探訪は終わっていった。

 *

 僕が大事にしている1枚の外堀の写真がある。(写真)
 何年前だったか忘れたが、季節は4月初旬。桜の満開の季節である。外堀の両側を囲む、中央線の奥の外濠公園にも、外堀通りの土手にも、桜が咲きほころんだ。
 その日の朝、突然、季節はずれの雪が降った。急いでカメラを持って家を出た僕は、外堀の桜に積もった雪景色を写真に収めた。花(桜)に雪。滅多に見られない景色だ。
 水(堀)の向こうには、総武線の黄色い電車も走っている。中央線は、柿(紅)色だった。
 ここに、月でも出ていたら、「雪月花」である。
 「雪月花」を、今まで見たことはない。もしこれからの人生で、それに出くわすことができたら、麻雀で「九連宝燈」ができたときのように(これも残念ながらできたことはない)、祝わないといけないな。

 花に降りそそいだ雪。
 昼になる前には、ひと時の儚い夢であったかのように、もう雪はあとかたもなく消えていて、うららかな桜の外堀の風景に戻っていた。

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街場のメディア論

2011-02-06 00:53:32 | 本/小説:日本
 今、マスメディアは岐路にたたされていると、かなりの評論家が言っている。
 テレビの質の低下、新聞購読者数の減少などを称して、ここ数年のうちに、既成のテレビ、新聞は、大きな危機を迎えるだろうというのだ。ミドルメディアといえる書籍・雑誌などの出版業界も例外ではない。
 書籍に関しては、本を読む人の減少と同時に、新しい構造的な問題が発生してきた。電子書籍の出現で、紙の本は将来なくなるのではないかという説を唱える人もいる。
 もちろん、僕はそう思わない。
 例えば、ワープロ、パソコンが出てきたとき、文書は機体に内蔵、あるいはフロッピー・ディスクに保存でき、それを見たいときは画面に取り出すことができるので、紙はほとんど必要なくなるだろう、と言われた。
 それは、紙に記録・保存することの役割の終焉を唱えるものだった。
 しかし、打ち込んだ文書を改めて見るとき、あるいは会議やプレゼンテーションなどに提出するときは、それをプリントアウトすることになるので、紙の需要は減りはしなかった。いや、むしろコピー紙は、増えたのだ。
 パソコンが急速に普及した現在とて、紙の役割は減少しているとは思えない。
今後、電子書籍と紙の書籍は棲み分けをして並存していくだろうが、紙の書籍がなくなることはないだろう。しかし、将来、今とは異なった見方がされるに違いない。
 娯楽の王様だった映画が、テレビの出現で衰退していったが、観客数、製作本数は低下しても、ずっと特別な存在として生き残っているように。
 機能的ではないかもしれないが本来の味があるという、特別で、本質的で、嗜好的な価値観で見られるようになるかもしれない。
 「薔薇の名前」で有名な作家で記号論の学者でもあるウンベルト・エーコとJ・C・カリエールがフランスで、「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」(阪急コミュニケーションズ)という書を出している。電子書籍の出てくる1年前の2009年のことだ。
2人の、紙の書籍に対するオマージュである。

 *

 「街場のメディア論」(光文社)で、内田樹が興味深い発言をしている。
 書籍の価値に関して、書棚の効果にどうしてみんな注目しないのかというのである。
書棚の効果は、学歴詐称にちょっと似ているような気がすると言う。
 学歴詐称は、政治家をはじめ名声や地位を欲する人にしばしば見受けられる。学歴詐称が減らないのは、「受験すれば受かったかもしれない」と「受かった」ことの間に、主観的な差があまりないためではないかというのだ。
 確かに、「あの大学に受かるぐらいの学力はあった」、「あのとき風邪をひいて体調が悪かったから」などと誰しも思うことはあるだろうし、よくそういう話は出てくる。
人間は自分の達成したことについて、しばしば「願望」と「事実」を取り違えるというのだ。

 さて、本題の内田の書棚の話である。
 彼の家に来た人間が彼の書棚を見て、彼がそれをみんな読んだと思いこむ。ましてや、その内容をすっかり理解していると思っている。まさか、そんなわけないのにと、彼は書棚の本質を暴露している。
 彼は、自分の書棚に並んだ本について、「正直言って、小説やエッセイの類はそこそこ読んでいるが、哲学書なんかは8割方読んでいない。開いたこともない」と述べ、すぐに次のように付け加える。
 でも「いつか読まねば」と思っているから、手に取りやすいところに置いてある。そうすることによって、自分を叱咤しているのです。それを、「この人は毎日、こういう難しい本を読んでいる人なんだ」と、勘違いしてくれる。
 書棚の本は、「そのうち読む予定の本」であるし、「読む気になれば今すぐにでも読めないことはない本」であるから、「読んだ本」と言っても、あながち嘘とはいえまいと、つい思ってしまう、と。
 そして、彼はこう続ける。
 本を読んだといっても、「まるっきりわからなかった本」とか、読んだけど「中身をすっかり忘れた本」と、読んでいないけど「中身についてはある程度知っている本」の間には、どの程度差があるのか、という疑問がある。
 こう考えれば、「読んだ」という事実と、「いずれ読みたい」という願望は、それほど厳しく差別化されない、ということになっていく。
 だから、書棚には「いつか読もうと思っている本」を並べ、「これらの本を読破した私」を詐称的に開示している、というのである。
 なるほど、書棚にはこういう効果があって、こういう潜在的な自己叱咤と自己安堵があったのだ。

 内田は、この書棚の効果から踏み込んで、電子書籍には書棚に配架することができないではないか、と言及する。
 内田は言う。
 本といったら、「書棚に置くもの」で、本の特質は、「買い置き」することにある。僕たちは、「今読む本を買う」のではなくて、「いずれ読まなければならない本」を買うのだ。
 電子書籍の利点は、「いつでも買える」ので、買い置きする必要がない。電子書籍の書棚(リストだが)には、読んだ本があるかもしれないが、自分が読むべき本が並んでいるわけではない。
 つまり、電子書籍には、日常的に、目に見える書棚が存在しない。彼は、つまり彼を含めた読書人は、書棚、そこに並んだ書籍が目に入ることによって、「読まなければならない」と自分を鼓舞するのであって、理想の我がある。電子書籍には、その目に見える「理想我」がないというのである。
 彼は書籍の価値を目に見える書棚に見出していて、電子書籍の意外な欠陥を曝す。
 読書人にとって、書棚は複雑な意味を持っていて、特別である。電子書籍では、それが失われると。

 僕も同感で、パソコン内では、メールやブログや、自分の文書を打つのに特化していて、画面で小説やエッセイを読もうという気になれない。ましてや携帯小説などというのは、思いもよらない。
 読むのは、やはり紙の本である。
 しかし、やがて、印税が入れば、紙の本でも電子書籍でもどちらでもいいという作家や著述者が大方になるのだろうな。
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なぜ韓国は、パチンコを全廃できたか

2011-02-03 17:07:57 | 本/小説:日本
 若宮健著 詳伝社

 パチンコが大衆のささやかな娯楽として親しまれていたのは、いつの時代までだろう。
 思い出すのは学生時代の頃、夏休みや春休みに田舎に帰省したときのことである。暇を持て余した友人が遊びに来たら、パチンコでも行こうかと、どちらからともなく言って、街の商店街にぶらりと出向いたものだった。
 パチンコ店のドアを開け、店の中に入ると、ジャラジャラと玉の音が耳に押し寄せてきて、軍艦マーチに交じって流行の歌謡曲が流されていた。
 当時、玉は1個2円で、100円出すと50個受けとることになる。
 玉は1個ずつ左手で穴に入れて、右手の親指でハンドルを弾くという手動式だった。盤には飾り模様のように左右対称に釘が打たれていて、ところどころに受け皿を持った穴があり、その穴が当り穴だった。
 当たり穴は、玉1個がやっと通る、門兵のように並んだ釘と釘の間にあり、多くの玉がその入口で弾かれたが、運よく打った玉がその穴に入ると、下の受け皿に15個の玉が流れ出てきた。当たり穴に入らなかった多くの玉は、台の下段の口を開けたような穴の中に吸い取られていった。
 ちょうど座ったときに顔の正面にくるように、何台も繋がって置かれたパチンコ台は、向かい合わせに裏側にも並んでいた。台と裏側の台の間には、人が一人かろうじて動ける隙間があり、そこに店員がいて、動き回って各台の玉を管理していた。
 時々、打った玉が当たり穴に入っても玉が出てこないときや、玉が釘と釘の間に挟まるときがあった。そんなときは台を叩いて、店員を呼ぶのであった。
 すると、店員が台の上から顔を出し、処理してくれるのだった。そして、機嫌がいいときは、サービスで当たり穴に玉を1個入れてくれたりした。
 「チューリップ」と言って、特別の当たり穴に玉が入ると、穴の左右に取りつけられた柄が花のように開き、その受け皿が開いている間に速くそこに玉を打てば、何個も入る可能性を持たせた機能もあった。
 玉が入らず、残りの玉が僅かになると、落日を惜しむかのように丁寧に打った。入れ!と祈ったところで、玉は無情にピンピンと釘を跳ねながら、結局はストンと下に落ちて吸い込まれていくのが常だった。沈む夕日は、どうもがいたところで登ることはないのを知っていた。
 たまに、最後の1個が当たり穴に入るときがあり、そのときは束の間の喜びに浸れるのだった。さらに、たまのたまだが、最後の玉から少しずつ増えていって、最後に勝った(投資額より多くの収益があった)ときは、9回裏の逆転ホームランのような気持ちになったものだ。
 そんなのどかな手動式のパチンコも、1970年代の前半までだっただろうか。
 電動式が出てきてからは、玉を1個ずつ入れることも、それを打つこともなく、玉は自動的に次々と、一定の間隔で放たれていくようになった。椅子に座ってハンドルを握ったまま、ただひたすら台を見つめているだけになった。
 その頃、すでに僕たちの足もパチンコから遠のいた。
 そこにはもう、早打ちの技術の熟練といった秘やかな楽しみや、気分転換や暇つぶしにちょっと行こうかという隙間をもてあそぶ感覚はなくなっていた。

 振り返れば、かつてパチンコに行くのは、どこにでも商品交換による換金方法はあったが、何も儲けようという感覚は絶対的なものではなかった。勝つに越したことはなかったが(もちろん勝つつもりで行くのだが)、勝ってもタバコかチョコレートを持って帰るぐらいである。その後、交換景品の品がいろいろ増えて、店がちょっとしたコンビニのようになった時期があったのも興味深い。
 パチンコの台は、電化とともに急速に変わった。パチンコの持つ性格をも変えていった。
 知らない間に、その後も機械を進化させていった。台の画面は液晶化され、コンピューターで制御されて、1度大当たりすると出る玉の量は比較にならないほど増えた。それと比例して、減る玉の量も加速度的に速くなった。
 かつて100円単位で買っていた玉が、千円単位になり、勝つときも負けるときも万単位が普通になっていったようだ。つまり、簡単に1度に何万円と負けるようになったのだ。
 今や、タバコやチョコレートでもという気軽な感覚でパチンコ店に行く人はいないであろう。パチンコは大衆の娯楽ではなくて、ハイリスク・ハイリターンのギャンブルになったようだ。パチンコは21兆円(2009年)規模の巨大産業となり、それに比例して、依存症の人も増えているという。
 そのことに関しては、医者で作家の帚木蓬生氏がギャンブル依存症について書いた「やめられない」(集英社)で、警鐘を鳴らしている。

 パチンコは、台湾(中華民国)では、禁止されているが、韓国にはあったという。
 若宮健著の「なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか」(詳伝社)によると、韓国は2006年にパチンコを全廃したという。この書で、その事実を初めて知った。
 それによると、韓国のパチンコは、日本のパチンコ台を改造したもので、「メダルチギ」と呼ばれていた。それが2000年以降に急速に広がり、パチンコがらみの自殺や犯罪が目立ち始め、社会問題となった。
 それが、贈収賄絡みの「パダイヤギ」(海物語)事件を契機に、2008年6月に、警察庁がパチンコ台の一斉撤去の命令を通達した。そして同年中に、ほぼすべてのパチンコ台を撤去したという。認可を受けた店だけでも全国で1万5千軒はあったとされ、無許可を入れると2万軒はあったという説もある。
 このことは、日本のマスコミ報道はなされなかったというが、韓国では大きな社会問題となっていたのだ。
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