かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ ワンちゃん

2008-06-28 12:44:22 | 本/小説:日本
 楊逸(ヤン・イー)著 文藝春秋刊

 中国人の書いた平成19年度下期芥川賞候補作である。おそらく候補作としても、中国人としては初めてのことだろう。そのときの芥川賞受賞作は、川上未映子の「乳と卵」。
 著者は、1964年生まれ、中国ハルピン市出身。留学生として来日し、現在中国語教師として働く。

 ワンちゃんは、中国人の王ちゃんである。中国で一生懸命働いていたが、いくら働いても遊び人の夫に金を持ちさられるので離婚する。離婚しても、元夫が執拗に追いかけて金をせびるので、ワンちゃんは日本にやってきたのだ。
 日本で朴訥な田舎の日本人と結婚するが、仲はうまくいっていない。それで、生活力旺盛なワンちゃんは、田舎の中国人女性と田舎の日本人男性とを結婚させる仲介業を始める。
 結婚仲介業という仕事とワンちゃんの秘めた恋愛感情が入り乱れて、ほんわかと、しかししっかりした読後感を与える小説になっている。こういう小説は、日本ではなくなっているのかもしれない。最近の奇を衒った芥川賞作品を読んでいると、この小説がとても新鮮に思えるのだ。
 かといって、この小説が芥川賞に値するかといえば、微妙なのである。
 何人かの選考委員が言っているように、日本語の使い方に時折引っかかる点が出てくるのである。それは、この小説を決定的に貶めている点ではないのだが、看過できるとは言い難いという、もどかしい欠点を含んでいるのである。
 だから、惜しいのだ。もう少し文章を洗練させれば、いい小説になったであろうと思わせる。

 外国人が書いた小説としては、1996年に同じく芥川賞候補作になったスイス人のデビット・ゾベッティ作「いちげんさん」がある(古くはラフカディオ・ハーン小泉八雲などがいるが)。
 こちらは、京都が舞台で、いかにも純文学の香りを孕ませ、谷崎潤一郎の「春琴抄」を意識したかのような作品で、古典的ですらある。文章も日本人が校閲したかのように洗練されていた。もっとも、彼の奥さんは日本人の客室乗務員である。
 それに反して、「ワンちゃん」は、日本の文化というのを意識したものでなく、作者の感性が生(なま)のままで出されている。衒いも気取りもなく、肌で感じたままである。欠点も丸出しだから、主人公が愛おしく感じさせる。

 単行本「ワンちゃん」には、書き下ろし小説「老処女」が併せて掲載されている。
 日本の大学に留学して博士論文を書いている主人公は、中国に住む母の期待の一人っ子である。大学の講師の職を得た彼女は、40歳も半ばで、同じ学校の先生に淡い恋心を抱く。そんな彼女の、あたかも中学生のような(日本では高校生でもこうまで純粋ではないだろう)心の移ろいを描いた小説である。
 この精神性も、今の日本にはない内容である。いや、かつてあったのだが今は失った精神性と言おうか。だから、新鮮である。
 この中で、結婚まで女性は処女でないといけないといった中国の性モラルが出てくる。今では、中国でも古いモラルだと言われるが、日本でも戦後のある時期まで確かにそうだったのだ。そんなに古い話ではない。
 性が開放され氾濫している国にいると、性に関しての感性が麻痺あるいは弛緩しているのだろう。この著者の作品を読むと、処女や処女性の価値観が喪失しているわが国の現状を改めて知らされるし、そうでなかった時代が懐かしくもなる。
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□ 乳と卵

2008-06-26 15:08:48 | 本/小説:日本
 川上未映子著 文学界、文藝春秋
 
 時折、過剰に饒舌な文章に出合う。読点(、)で繋いで、長々と続く切れ目のない文章のことである。
 それは、実験的な小説であったり、作家の奇を衒った企みであったりするが、日本語としては正当だとは思えないので、生理的に苦手である。
 だから、町田康や阿部和重、それに蓮実重彦(元東大総長)にしても、読み始めてもなかなか完読できなかった。

 本書は、平成19年度下期、138回芥川賞受賞作である。
 この小説も、行変えの少ない、切れ目のない長い文章である。大阪弁が時折挟み込まれている。作者は大阪出身で、歌手活動も行っている。
 こう書くと、町田康の女性版ではないかと思ってしまうが、決してそうではない。
 文を句点で切らずに連続させるのに、せっかちに言葉がぽんぽんと出てきているといった、急いた感じはないのである。むしろ、のんびりとした印象すら受けるのである。
 これは作者が女性であるというのと無縁ではないだろう。長いのに、文が柔らかいのだ。それに、文章は乾いているのに、発想が女性特有の生理的な妖しさを孕んでいる。
 だから、饒舌な文体は苦手なのだが、すんなりと読めたのだった。

 内容は、大阪から上京した母(姉)と娘(姪)のことを、二人を迎えた妹(姪からすれば叔母)を中心にそえて語る話なのだが、何か起こるわけではない。その母(姉)は豊乳手術を受けに上京したのだが、娘(姪)は反対の考えなのだ。
 冒頭、いきなり卵子の話から始まるのは、女性の乳房の整形、生殖器に関連する話だからである。しかし、小説としてはかなり奇形である。
 話は、脈絡ないように進むが、著者はかろうじて塀の上から落ちないで渡りきる。それに、娘の文は○で別枠にしているという、素人並みの構成である。
それらが、著者の綿密な計算の上か偶然かは判断が難しいと思わせるほど、危うい文章であり拙く見える構成である。
 そもそも長々と続く文章は、狡猾か幼稚かである(と私は勝手に思っている)。
 それでも、何かがあると思わせるのだから、奇妙な小説である。
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◇ レイダース/失われたアーク<聖櫃>

2008-06-23 02:01:02 | 映画:外国映画
 ジョージ・ルーカス製作・総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 ハリソン・フォード カレン・アレン ポール・フリーマン 1981年米

 冒険映画の傑作「インディ・ジョーンズ」シリーズ第1作。シリーズ最高作の「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」の3年前の作品である。
 タイトルのレイダースは、盗賊のこと。アーク(聖櫃)は、エルサレム神殿に置かれた、モーセの十戒が書かれた石板を収めた箱のこと。このアークは、不思議なエネルギーを持っているという伝説の箱である。

 1937年、南アメリカの密林の中で、一触即発の危機を抜けだし、黄金の頭像を手にするところから、インディ・ジョーンズ(インディアナ・ジョーンズ)は登場する。ところが、悪党にその黄金は奪われる。
 次のシーンは、大学で考古学の講義を行っているところである。色目を使う女学生がいるところから、女性にもてることが分かる。
 考古学の教授でありながら、冒険に身を投げるインディの象徴的な登場である。

 その知識と冒険力に目をつけたアメリカ合衆国の政府が、ナチスが狙っているという失われたアーク(聖櫃)の、ナチスからの阻止をインディに依頼する。
 インディは、砂漠に隠されているというアークを求めて出発する。
 最初に行った先は、アークの鍵を解くブロンズのメダルがあると思われるネパール。
 迷宮の街としては、格好の街だ。路地があり蛇がうろつく。
 そこにいたのは、かつてのインディの恩師の娘で恋仲だったと思われる女性マリオン(カレン・アレン)。ここで、男勝りで勝ち気な彼女は、酒にまみれた生活を送っていた。
 彼女に、「あなたはいつか戻ってくると思っていたわよ」「あなたを恋した私がバカだった」「10年間、こんな山奥暮らしよ」と言わせるところを見ると、インディは10年前にネパールにいたということである。
 彼女は、さらに言った。
 「父は言っていたわ。あなたは永遠の放浪者だと」
 インディの、過去と性格が次第にはっきりとしてくる。

 そのマリオンと、インディが次に飛んだところが、アークがあるとされるエジプトのカイロ。ここは、砂漠が広がり、現代でも発掘が続けられている未知の地だ。
 そこでインディが見たものは、既にナチスがアークを求めて発掘調査を行っている姿だった。
 インディはナチスを出し抜いてアークを発見するが、ナチスによって離れ小島に持ち運ばれる。インディとマリオンは、アークを求めて島へ追いかける。
 そして、最後にアークの不思議な力の秘密が明かされる。

 この映画では、インディ・ジョーンズのキャラクターが描き出されていて、その後の、「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」(1984年)「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」(1989年)の、エッセンスが収められていると言っていい。
 時代は、第2次世界大戦前夜の1930年代後半。帝国の侵略が横行した混迷の時代である。
 インディは、伝説の秘宝を探し求めることになる。
 舞台は、冒険に格好の、密林、路地のある街、砂漠と、南米、アジア、アフリカと、迷宮都市を駆けめぐる。シリーズ作品によっては、ヨーロッパも登場する。
 蛇と鞭も、その後のインディ映画に欠かせないものとなった。
 飛行機、馬、車のデッドヒートなど、チェイスの見せ場は盛りだくさんである。
 インディの冒険に付きあわされるヒロインも、毎回見ものである。

 今年2008年に、19年ぶりにシリーズ映画第4作、「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」が公開された。
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◇ インディ・ジョーンズ最後の聖戦

2008-06-17 20:54:44 | 映画:外国映画
 ジョージ・ルーカス製作・総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 ハリソン・フォード ショーン・コネリー アリソン・ドゥーディ リヴァー・フェニックス 1989年米

 冒険映画とくれば、この「インディ・ジョーンズ」シリーズの右に出る映画はないだろう。「レイダース失われたアーク<聖櫃>」(1981年)、「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」(1984年)に続く第3作。

 ここでは、インディ・ジョーンズの少年時代から始まる(演じているのはリヴァー・フェニックス)。インディが、どうして考古学者になったのか、そして冒険を厭わない性格なのかを、明かしている。
 1912年、アメリカ・ユタ州。場所は、砂漠のただ中である。ここは、奇岩が連なるグランドキャニオンでも有名な、西部劇でもしばしば登場する絶好の冒険風景が横たわる。
 ここの洞窟で、たまたまインディ少年は、悪党がスペインのコロナドの十字架を盗掘するのを目撃する。その十字架が博物館の置くべきものだと直感したインディ少年は、その十字架を持ち去る。当然、悪党の追跡を受け、砂漠を走る列車に飛び乗り、逃亡と追跡のデッドヒートが繰り広げられる。
 ここから、彼が考古学者となる予感と冒険の序章が始まる。

 26年後、つまり1938年、考古学の教授になっていたインディは、この十字架が原因で何者かに命を狙われる。ちょうどその時期、行方不明になっていた父親ヘンリー・ジョーンズ(ショーン・コネリー)から日誌が送られてくる。そこには、キリストの聖杯の秘密が書かれていた。
 聖杯とは、最後の晩餐で描かれているキリストが最後に飲んだコップのことである。また、磔になったキリストの最期の血を受けた聖遺物ともされている。
 この聖杯伝説は、ヨーロッパでは様々な物語、文学、あるいは絵画になって広がっている。

 この聖杯と父を探すために、インディはヴェネチアに飛んだ。
 ヴェネチアといえば水の都で、運河が張り巡らされていて船が主役である。街は、中世の建物が並び、時代を超えた背景である。
 ここでも、聖杯を守るという得体の知れない十字剣兄弟団と称する男たちと出くわす。父ヘンリーの足跡を探していると、古い図書館でヘンリーの助手というエルザ(アリソン・ドゥーディ)と会う。
 ここヴェネチアでは、この街の特徴を活かしたボートによるチェイスが繰り広げられる。

 インディはエルザと、ヴェネチアから父が監禁されているというオーストリアのブルンワルド城に飛ぶ。
 そこは、ナチスの秘密基地であった。そして助手エルザは、実はナチスの配下であった。
 ブルンワルド城を脱出したインディと父ヘンリーは、日誌を持ち去ったエルザを追ってベルリンへ行く。
 1938年のドイツといえば、ナチス帝政時代で、第2次世界大戦開戦前夜である。そこでは、チェッペリンの飛行船が飛んでいて、軍用機による脱出もある。

 聖杯のある三日月の谷がハタイ共和国領土内にあるということを知った二人は、その地に向かう。そこには、エルザをはじめ聖杯を狙うナチスもいたのだった。
 その砂漠の谷間に挟まれた幻の神殿で、インディは謎を解きながら、聖杯のある地にたどり着く。
 因みに、ハタイ共和国とは、第1次世界大戦後、フランス領シリアより1938年独立するも、翌年トルコ共和国に併合された、わずか8が月余存在した国家であり、今は存在していない。
 砂漠にたたずむ岩に挟まれた神殿のロケ地は、ヨルダンの世界遺産「ペトラ」である。ここの遺跡はまだ殆ど発掘されていなくて、今も発掘調査の最中である。

 *

 この映画で、ジョージ・ルーカスとスピルバーグが話した、インディ・ジョーンズ誕生のきっかけとなる「007のような映画を作りたい」という夢を、いくつか実現している。
 一つは、「007」シリーズの初代ボンド役のショーン・コネリーをインディの父親役として登場させたことだ。ボンドらしい洒落た言葉がぽんぽんと飛び出し、息子インディも頭が上がらない。
 何より、Jr(ジュニア)、つまり本名のヘンリー・ジョーンズ・ジュニアと呼ばれるのを嫌い、自らインディアナ(インディは日本での通称)と呼んでいることである。そのインディアナの名前だが、ジョージ・ルーカスがこの物語を考えているとき、いつも自分の横にいる犬の名前から取ったという。
 それに、この映画では、美人の助手エルザ(アリソン・ドゥーディ)とインディが、物語の途中で男女の仲になる。前作「魔宮の伝説」ではなかなかヒロインと結ばれず、最後の最後に二人は熱いキスをして映画は終わるのだが、この映画では知りあって早々と男女の仲になる。しかも、その相手が敵(ナチス)の回し者だったというのも、「007」的である。
 ところが、インディの前に父ヘンリーもエルザとそういう関係になっていたことがばらされる。ボンドらしく、老いても女性にもてるし手が速いのだ。インディは、女に関してもJrに甘んじてしまったのである。
 ショーン・コネリーはこの映画ではインディの父親で考古学研究者を演じているが、1986年、中世の教会を舞台にした、記号学者ウンベルト・エーコの名作ミステリー「薔薇の名前」の主演を演じた。制作者はこの映画「最後の聖戦」を見て、コネリーの主演を思いついたのではなかろうか。
 また、ヒロイン役のアリソン・ドゥーディは、シリーズ14作「007美しき獲物たち」(1985年、ボンド役はロジャー・ムーア)のボンド・ガールだ。

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◇ インディ・ジョーンズ魔宮の伝説

2008-06-15 03:12:31 | 映画:外国映画
 ジョージ・ルーカス製作・総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 ハリソン・フォード ケイト・キャプショー キー・ホイ・クァン ロシャ・セル 1984年米

 「007シリーズ」のような映画を作りたいと意気投合した、ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグのコンビが作った、「インディ・ジョーンズ/レイダース失われたアーク<聖櫃>」(1981年)に続くシリーズ第2作。
 冒険物語といえば、子どもの頃読んだ「宝島」や「十五少年漂流記」などから、現代の「007」のようなアクションものまで、いつの時代も男の胸をときめかす。
 このインディ・ジョーンズは、冒険と夢、その総てを物語として、そして映像表現として取り入れた映画である。
 何度見ても飽きない映画は、そうあるものではない。エンターテイメント映画で言えば、この「インディ・ジョーンズ」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズが双璧である。

 舞台は、1935年の上海である。
 上海のナイトクラブ。出だしから、不思議な雰囲気が充満している。まるで「ラスト・エンペラー」か「ブレードランナー」の迷宮に入り込んだようだ。
 当時、上海は魔都と言われ、中国大陸にありながら租界地には様々な人種が集まった大都会である。
 中国東北部では、1931年日本が清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を擁立して満州国建設を宣言し、34年に帝政実施したので、その翌年ということになる。
 上海のクラブで、怪しげな中国マフィアと取引をしている、考古学者のインディアナ・ジョーンズ(本名;ヘンリー・ジョーンズJr)。
 その取引が、インディが持っている清国の開祖ヌルハチの骨壺とダイヤモンドを交換しようというものだ。
 しかし、インディは罠にはめられ、人質にと思っていたクラブ歌手のウィリー(ケイト・キャプショー)と、中国人の少年ショーン・ラウンド(キー・ホイ・クァン)の3人は、かろうじてそこを車で脱出し、飛行機(もちろんプロペラ機)に乗る。
 しかし、その飛行機もマフィアの差し金によるもので、途中から燃料がなく、その飛行機からもかろうじて脱出する。
 最初から、命からがらの冒険の連続だ。しかも、インディと美女と少年の組み合わせで。
 飛行機からゴムボートでパラシュート代わりに落ちたところが、インドの村である。

 舞台は、本命のインドに移る。
 その村は廃れていて、しかも子どもが連れ去られていた。村の長老は、空からインディが降りて来たのは神のおかげで、奪われた村の宝「サンカラ・ストーン」を取り戻してくれとインディに頼む。
 こうして、その宝石があるというパンコット宮殿に乗り込むことになったことにより、冒険の本題に突入する。
 宮殿ではマハラジャの歓迎を受ける。
 晩餐の食事で出されたのは大蛇の蒸したもので、蛇の腹を切ると生きた小さな蛇(ドジョウか?)が何匹もにょろにょろと出てくる。つまり、蛇の活き作りである。
 次に出てきたのは、大きなカブトムシを蒸したもの。
 デザートには、猿の脳みそ(中国では本当にある)。
 食事も驚きの連続で、息をつく暇も与えない。あまりのグロテスクさにウィリーは気絶さえする。

 しかし、偶然に見つけた、この宮殿の地下は邪教の住処だった。
 大きな洞窟のような地下では、村から連れてこられた少年たちが労働を科せられ、不思議な生け贄の儀式さえ行われていた。
 インディたち3人は、奴隷のようになった少年たちを解放し、宝石を取り戻そうとする。
 そこで始まるのが、坑道を走るトロッコによるカーチェイスだ。
 危機一髪、地下の魔宮を抜け出した3人は、大渓谷にぶつかる。そこには吊り橋が架かっていて、渡り始めた3人に、両側から教団の追っ手が迫ってくる。下の川にはワニが牙をむいている。
 やっと、この吊り橋の難を逃れ、石を持って村に戻る。
 石と子どもたちが戻った村人は歓喜の声を上げ、村に元気が甦る。
 そして、そこで待っていたのは、インディとウィリーのやっとたどり着いた甘い口づけだった。

 中国からインド、空からの落下、マハラジャ、下手物食い、生け贄、地下の中の坑道、吊り橋、と冒険心をくすぐる舞台、材料が目白押しなのだ。

 この映画をきっかけに、ウィリー役のケイト・キャプショーと、監督のスピルバーグは結婚した。スピルバーグは、この映画は暗すぎて好きでないと言っていたようだが、結婚相手を見つけたのだから、それだけでも彼にとってはいい映画といえよう。
 いや、スピルバーグがどう思おうと、最高の冒険映画になったと言える。
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