かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ インファナル・アフェア 無間序曲

2009-03-18 01:49:57 | 映画:アジア映画
 アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督 エディソン・チャン ショーン・ユー アンソニー・ウォン エリック・ツァン フランシス・ン カリーナ・ラウ 2003年香港

 香港の黒社会に生きる男と警察官の男の生き方を描いたハード・ボイルド映画「インファナル・アフェア」の第2作目。
 第1作目の前奏曲となる、11年前の話から始まる。そして、香港が中国に返還される1997年までが描かれる。
 この第2作目も、1作の「無間地獄」と同じく、次のような言葉から始まる。
 「阿鼻とは、時間、空間、量の際限もなく――苦しみを受け続ける地獄である。時の流れもない」
 阿鼻とは、阿鼻叫喚の「阿鼻地獄」のことである。

 香港マフィアのボスが暗殺され、2代目ハウ(フランシス・ン)が跡目を継ぐ。ウォン警部(アンソニー・ウォン)は、警察学校の優等生若きヤン(ショーン・ユー)をマフィアに潜入させる。そして、マフィアからはラウ(エディソン・チャン)が警察に潜入させられる。マフィア抗争の中から、ラウの手下だったサム(エリック・ツァン)が一気にボスの座に着く。

 大ヒット作が出ると、その主人公の若き日が作られることは多々ある。
 「インディ・ジョーンズ」もそうだった。
 この第2作目の「インファナル・アフェア」は、香港式「ゴッド・ファーザー」を多分に意識したものだ。
 マフィアの家族愛が描かれ、一家が団らんを囲む場面がある。男たちは、口には葉巻をくわえている。また、家族写真を撮る場面もある。そのとき流れるのは、ブラームスだ。
 この家族の平和そうなひとときも、儚いものの象徴として描かれる。
 その予感通り、その後一家は死滅する。
 「世に出たものは、いずれ消え去る」
 この映画で、繰り返し出てくる台詞である。
 喜びも悲しみも紙一重に過ぎない。

 最後のフィナーレの字幕と共に、また歌が流れる。
  人生に喪失がつきものなら もう逃げるまい
  虚しさに襲われても これからの年月独り取り残されても
  たとえ自由を失っても 永遠に耐え続けよう
  笑って大空を眺め いつか運命を覆そう
  お前はお前 俺は俺の道を行く
  微笑みの影で 心には葛藤が渦巻き
  道が道を滅ぼし 人は操られていく……
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◇ インファナル・アフェア

2009-03-17 03:35:27 | 映画:アジア映画
 アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督 アンディ・ラウ トニー・レオン アンソニー・ウォン エリック・ツァイ ケリー・チャン サミー・チェン 2002年香港

 幕開けと共に、「八大地獄の最たるものを「無間地獄」という。絶え間なく責め苦にあうため、そう呼ばれている」という文字が出てくる。
 そして、仏陀いはく。「無間地獄に死はない。長寿は無間地獄最大の苦しみなり」と続く。

 舞台は香港。マフィアの手先のラウ(アンディ・ラウ)が警官になりすまし、情報をボス(エリック・ツァイ)に流す。警官のヤン(トニー・レオン)がマフィアの組員になり、警察(上司アンソニー・ウォン)に情報を流す。この二人の男が、マフィアの麻薬取引に絡んで交錯する。
 男たちに安息はない。二人の男は、次第に身元が暴かれ出し窮地に追いこまれていく。だから、男たちには冒頭の「無間地獄」が待っているのだ。
 かといって砂漠のような乾燥した物語ではない。なかに二人の恋が挟まれているし、自分を見失いがちなヤンの相手は精神科医(ケリー・チャン)であり、ラウがただ一人心を休ませるのが婚約者で小説を書く女(サミー・チェン)という凝った設定だ。ヤンの家庭をしのばせるシーンもある。
 それに、スパイと囮調査だけの警察とマフィアの単純な構成に終わっていない。香港映画にありがちな派手なアクションやカーチェイスはなく、二人の男が織りなす抑えたハードボイルドになっているのだ。

 見終わった後、モノクロ映画だったような記憶が残る。
 しかし、確かに赤い血が流れたと思い出す。
 この映画のリメイク権をハリウッドが買ったというのも頷ける、上質なハードボイルド映画である。
 二人のスパイ、アンディ・ラウの剛とトニー・レオンの柔の交叉、マフィアのボスのエリック・ツァイの悪玉と、警視アンソニー・ウォンの善玉の対比も見所がある。

 最後に流れる歌が「無間地獄」を表わしてて、なかなかいい。いや、仏教の教えを、はたまた人生を表わしているといえよう。

 おまえの命の分も おれは生きていく
 たとえ苦しくとも 過去の日々は忘れ かすかな未来を追って
 命は短すぎ 明日は限りなく遠い
 永遠というほど遠くないが
 星の数ほどの道は行き先も見えず 回り続ける木馬
 選んだ道を歩み続けても 夢みる彼岸になぜ辿り着けぬのか
 ……
 命の限りに日々歩み続ける 生きて幸せを手に入れるため
 道の果てがやっと見えてきたとき ふと気づく そこは出発点
 すべて振り出しに戻る

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□ 痴人の愛

2009-03-02 15:46:14 | 本/小説:日本
 谷崎潤一郎 角川書店刊

 愛のシステムが脳の分析によって解明されつつあるとはいえ、愛の形態は様々で、不思議である。それは、感動的かと思えば滑稽でもある。
 耽溺する愛がある。いや、そもそも愛とは耽溺するものなのだ。夢中になると、その人しか見えなくなるものなのだ。
 恋をしている人間は脳から興奮するドーパミンが多量に出ていることは知られている。それに加えて、恋する相手のいいところだけを見て、欠点を抑制する作用のある脳が活動することも分かってきた。
 要するに、恋すると相手の欠点が見えなくなるのだ。
 恋が冷めたら相手の欠点が見えてくるということは、恋の魔法が解けて、つまり恋による脳の分泌がすでに働かなくなり、客観的に周囲が見えてくることを意味している。
 だから、恋している時は普通でないのが、正常な恋のあり様なのだ。
 恋する人間の常軌を逸した行動は、恋の最中の正常ともいえる行いと言っていい。

 君子とも渾名されている真面目な会社員の譲治は、行きつけのカフェで女給をやっている、まだ幼い女の子のナオミを見初める。このときナオミは15歳で、譲治は28歳である。
 譲治は彼女を自分の家に引き取り、英語を学ばせたり稽古事を習わせたりして、自分の理想の女に教育しようとする。
 時には、彼女を背中に乗せて、「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ」と言いながら、部屋の中を這って戯れたりする。
 少し西洋人風のナオミは、次第にいい女になっていく。自分の容貌に自信のない譲治は、こうした彼女を見ているうちに、彼女へ次第にのめり込んでいき、次の年には結婚することにする。
 彼は、彼女の欲しいものは何でも買ってやるし、望みを叶えてやろうとする。
 ナオミは次第に派手な生活になり、ダンスホールにも出入りするようになるし、男友達もでき、家も留守がちになる。
 気が気ではない譲治は、ナオミに説教し彼女を監視するが、彼女はその都度適当に弁解し、うまく譲治をあしらって、その行動はいっこうに改まる気配はない。
 そして、ついに彼女の浮気が発覚する。それどころか、複数の男と関係があったことも分かる。譲治はナオミにもう決してこんなことはしないと言わせるが、それも長続きせず、譲治の目を盗んでナオミは男と遊び回っているようだ。
 そんなことが度重なって、譲治はナオミと別れる決心をするが、結局別れられず、それどころかさらにナオミに頭が上がらない、逆にナオミのいいなりになる関係に陥るといった話である。

 読んでいくうちに、男が女に溺れていく様が手に取るように分かる。男は女に、しかもまだ20歳にもならない女にいい年の中年男が、いいようにあしらわれて、浮気をされているのだから、どうしてきっぱりと別れられないのかとじれったく思わせるのだ。おまえは騙されているのだ、利用されているのだと、歯ぎしりしたくなる。

 しかし、である。恋している男は、しかも耽溺している男は、相手の欠点を見る眼を抑制され、いいところだけを見るようになっていて、いつもドーパミンが噴出している状態なのだ。
 考えてもみたまえ。
 こんな状態、つまり耽溺愛は、人生のなかでもそう多くは経験できるものではない。その状態が客観的には滑稽で悲惨であろうとも、長い人生の中では、いや短い人生の中ではと言った方がいいであろう、僥倖なことと思えるのだ。
 男にとって、このような女を「ファム・ファタール」(運命の女)と呼び、客観的には「悪女」とも「魔性の女」とも言われる。

 原作は大正13(1924)年発表で、なんと谷崎39歳の時である。時代を相当先取りしていたといえる。
 この小説は過去3度映画化された。
 最初は、京マチ子、宇野重吉で(1949年)、その後、叶順子、船越英二(1960年)、安田(大楠)道代、小沢昭一(1967年)で。
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