かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

佐賀の偉人25人とは誰か?

2019-02-11 03:44:37 | 気まぐれな日々

 ますらおの 涙を袖に しぼりつつ
 迷う心は ただ君がため
          (江藤新平)

 * 佐賀市駅前大通りに出現した偉人モニュメント

 明治維新150年を記念して、「肥前さが幕末維新博覧会」が去年の2018年3月から佐賀市で開かれていたのだが、今年2019年1月14日に閉幕した。10か月間の長さだった。

 去年(1018年)の12月19日、法事で急遽佐賀の大町町に帰った。
 19日の通夜の日は、実家は取り壊す最中だったので帰る家もなく、夜も遅いということで斎場に泊まることになった。
 20日は午後から葬儀・告別式が行われ、出棺、火葬の後、還骨法要、精進落としを終え、夜に大町を離れて、佐賀市のホテルに泊まることにした。
 今までは通り過ぎていたにすぎない、佐賀駅前のビジネス・ホテルに泊まることにした。佐賀市内のホテルに泊まるのは、初めての体験だ。家がなくなるとは、こういうことだと実感した。

 すぐにホテルを出て、佐賀市を歩いた。
 佐賀駅から南に向かって、商店街を控えた中央大通りが延びている。その先は、堀があってそこを超えたところが、佐賀城跡や県庁、県立図書館、県立博物館・美術館、体育館などがある佐賀市の主要文化地域だ。
 今、この駅前から延びる中央大通り沿いに、先に書いた「肥前さが幕末維新博覧会」に因んで、佐賀ゆかりの偉人25人の等身大モニュメント(アルミ製銅像)が設置されているのだ。(写真)
 僕は、夜のイルミネーションに照らされた大通りの、あちこちに散りばめ置かれた像を発見する喜びを感じながら、ぶらぶらと歩いた。何だか、新しい佐賀の街になっているように感じた。
 翌日(12月21日)の午前中も、昨晩見逃した像を含めて、偉人像を再確認しながら中央大通りを歩いた。
 そして、堀の先の城内にある市村記念体育館で行われている、「肥前さが幕末維新博覧会」を見て周った。
 単なる幕末維新の佐賀賢人の資料の陳列ではなく、CGなどを使いながら関係者による解説、パフォーマンスを駆使したイベント展覧会になっていた。自己主張やPRが苦手で下手な佐賀にしては、画期的な開催と思えた。

 * 薩長土肥の駅前は!

 もうだいぶん前だが四国を旅しているとき、高知におりたった。
 高知駅を出たら、いつの間にか駅前広場に、街に向かって3人の像が立っていた。見ると、坂本龍馬を挟んで武市半兵太、中岡慎太郎の幕末の有名な3人の像だった。
 また、鹿児島に行ったときは、鹿児島中央駅前の広場には、薩摩藩英国留学生、青年藩士17人の銅像「若き薩摩の群像」があった。
 「土佐」の高知も「薩摩」の鹿児島も、やるなあと思った。それに比し、「肥前」の佐賀の駅前は民族芸能の「面浮立」の像である。僕は、1976(昭和51)年に佐賀駅および佐賀駅前が整備拡張された時から、どうして駅前に「佐賀の七賢人」の銅像を建てないのだと思ってきた。
 今回、佐賀中央大通りの偉人像の設置は、駅前ではないが僕のかつての願いがかなった形になった。

 ちなみに、「長州」の萩には、松陰記念館前、道の駅「萩往還」に、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の3人の銅像をはじめ、10人の偉人像がある。萩駅前には像はなかったが、2016年に「鉄道の父」と呼ばれる井上勝の銅像が建てられた。

 * この人たちだ、佐賀の偉人25人とは?

 佐賀ゆかりの偉人25人像は、駅からの中央大通りの9か所12 S(スポット)に建てられている。幕末維新の人物だけでなく、かなり新しい時代の実業家まで多岐にわたっている。
 佐賀県出身の僕が、恥ずかしながら知らない人物が6人もいた。文末に、知らなかった人物を記しておこう。
 全員知っていたら、相当な博識家だろう。佐賀県検定試験なるものがあれば、A級である。

 以下に、佐賀駅から続くスポット(S)順に、人物・略歴を列挙してみた。
 ◎維新の十傑、〇佐賀の七賢人。

<S1> 名君・鍋島直正と直正を支えた賢人たち

〇「鍋島直正」(1814-1871)
 佐賀藩10代藩主。1830(天保元)年、若くして家督を継ぎ、藩政改革を推進する。佐賀藩は長崎の警護を任されていた関係で、早くから西洋諸国の科学・軍事力の高さを知り、外国からの圧力への警戒を強める。それに対抗するためには西洋の科学技術の導入が必要と認識し、藩全体で軍事、科学の研究に取り組み、日本初の反射炉による鉄製の大砲製造、初の蒸気船の稼働などを成功させる。藩校「弘道館」での人材の育成と適材適所への配置により、佐賀藩を雄藩へと躍進させた。
 鍋島直正を主人公とした評伝小説に、植松三十里著の「かちがらす」がある。
 ※「「薩長土肥」の「肥」の象徴、鍋島直正」→ブログ(2018.4.30)

・「古賀穀堂」(こが こくどう)(1777-1836)
 幕府の「昌平坂学問所」(昌平黌(しょうへいこう))にて儒官となり、「寛政の三博士」の一人として知られる。佐賀の藩校「弘道館」が開かれると教授となり、蘭学の必要性を早くから唱えた。のちに藩主となる幼少の鍋島直正の教育係として指導に当たる。

・「鍋島茂義」(1800-1862)
 江戸時代後期の佐賀藩武雄領主。若くして佐賀本藩の請役(筆頭家老)に抜擢され、鍋島直正の成長過程で多大な影響を与えた。1827(文政10)年には直正の姉寵姫と結婚、義兄となった。
 1830年代の早期から、本藩に先駆け西洋式砲術や軍備をはじめとする蘭学を積極的に導入し、1835(天保6)年には長崎の砲術師高島秋帆から免許皆伝を受け、高島自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上されている。明治維新を主導した佐賀藩の近代化の礎を築いた。

<S2> 弘道館で学んだ若き日の賢人たち

〇「大隈重信」(1838-1922)
 藩校「弘道館」に入るも退学。枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。1867(慶応3)年、佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学稽古所」(のちに致遠館と改称)で副島種臣らとアメリカ人教師フルベッキに学ぶとともに、塾生の指導にも当たる。
 明治政府において、参議兼大蔵卿、外務大臣、農商務大臣のほか、内閣総理大臣(第8・17代)を務める。東京専門学校(現早稲田大学)の創設者であり、初代総長である。

〇「副島種臣」(1828-1905)
 佐賀藩の思想家、国学者である枝吉神陽の実弟。藩校「弘道館」に入学し、のちに首班を務める。1867(慶応3)年に佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学稽古所」(致遠館)で大隈重信らと学び、また塾生の指導にも当たった。
 明治政府では、外務卿、内務大臣などを歴任。書家としての評価も高い。

<S3> 弘道館で学んだ若き日の賢人たち

・「枝吉神陽」(1822-1862)
 佐賀藩の思想家、教育者、国学者で、藩校弘道館の教諭。藩校「弘道館」で学び、才能が認められて江戸の学問所「昌平坂学問所」(昌平黌)へ遊学。帰郷後は、弘道館で教鞭をとった。尊王思想を説き、1850(嘉永3)年、「義祭同盟」を結成。実弟の副島種臣をはじめ、江藤新平や大隈重信、島義勇、大木喬任など、明治政府で活躍する佐賀人に影響を与えた。
 1863年、コレラに罹った妻を看病するなかで罹患し、明治維新を見ることなく病死した。

〇「島義勇」(しま よしたけ)(1822-1874)
 若くして藩校「弘道館」で学び、その後、江戸へ遊学。1856(安政3)年、鍋島直正の命により蝦夷地(現在の北海道)、樺太を約2年にわたり探検調査した。1869(明治2)年、明治政府の開拓使判官に就任。当時原野だった札幌に「五洲第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想で、今日の北海道の基礎を築く。その後、秋田県の初代権令(知事)就任。
 明治7(1874)年、郷里の佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、斬罪梟首される。

〇「佐野常民」(1822-1902)
 藩校「弘道館」で学び、のち江戸、京都、大坂に遊学して幅広い学識を得た。1853(嘉永6)年に科学技術を研究する「佐賀藩精煉方」の主任、さらに三重津海軍所の監督となり、日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造に関わった。
 1867(慶応3)年、佐賀藩が出展したパリ万国博覧会へ使節団代表として派遣され、そこで国際赤十字の組織と活動を知る。西南戦争に際し、敵・味方を問わず救護する博愛社を創設し、日本赤十字社の基礎を築いた。明治政府では、大蔵卿、農商務大臣などを歴任した。

◎〇「江藤新平」(1834-1874)
 藩校「弘道館」に学んだ後、枝吉神陽による「義祭同盟」に参加。戊辰戦争で活躍後、明治政府の役職に就き、1872(明治5)年、初代司法卿に就任。四民平等、人民主義を唱え、司法権の独立に尽力、日本の司法制度の基礎を築いた。「民権」という概念がなかった当時、誰でも公平な裁判を受けられるようにした。また、学制制度や警察制度の整備にも関わった。
 明治6(1873)年政変にて下野し、翌年佐賀に帰郷するや佐賀征韓党の首領に擁立され佐賀の乱を起こすも、大久保利通による政府軍により敗北。島義勇と共に斬罪梟首される。41歳の若さであった。この文の冒頭の歌は、江藤の辞世の句である。
 司馬遼太郎による江藤を主人公とした作品に、「歳月」がある。

〇「大木喬任」(おおき たかとう)(1832-1899)
 藩校「弘道館」に学び、副島種臣らと義祭同盟結成に参加。1868(明治元)年、明治政府に出仕、江藤新平と連名で東京に都を定めることを岩倉具視に建白。東京府知事(第2代)となる。
 1871(明治4)年、初代文部卿となり、学制を頒布し教育体制の整備に努める。全国に5万以上の小学校を設置し、身分の差別なく全ての子供が学校に通えるようにするなど、近代教育の礎を築いた。1881(明治14)年、司法卿に就任し、法典編纂の確立にも尽力した。「明治六大教育家」の一人。

<S5> 日本の近代建築の先駆者

・「辰野金吾」(たつの きんご)(1854-1919)
 建築家、教育者。唐津出身。1873(明治6)年、工部大学校(現東京大学工学部)第1期生として入学。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルのもとで、同期生の曾禰達蔵らと共に、西洋建築を学んだ日本人初の建築家の一人。イギリス留学を経て、工部大学校教授に就任し、多くの建築家を育てる。また、造家学会(現日本建築学会)を創設するなど、建築界の発展に努力した。
 建築家として、国の重要文化財である日本銀行本店、東京駅などの代表作ほか多数の建造物を残している。辰野の作である武雄温泉・楼門には、東京駅のドーム天井にある八角形の干支のレリーフの、抜けている4匹の動物(干支)が残存している。

・「曾禰達蔵」(そね たつぞう)(1852-1937)
 建築家。唐津の同郷の辰野金吾と共に工部大学校(現東京大学工学部)に入学し、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルのもとで西洋建築を学んだ、日本人初の建築家の一人。
 卒業後、工部大学校助教授、海軍省をへて三菱社に入社。東京丸の内に三菱一号館をはじめとするビル群を建造し、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた煉瓦造のオフィスビル街の基礎を手掛けた。三菱社を辞めた後は「曾禰中條建築事務所」を開設し、国の重要文化財である慶應義塾図書館旧館などを残している。

<S6> 明治時代を代表する書家

・「中林梧竹」(なかばやし ごちく)(1827-1913)
 近代書道の祖、「明治三筆」の一人。小城出身。幼い頃から書の才能を発揮し、10代で江戸に遊学し書を学ぶ。帰藩後は、小城藩校興譲館の指南役などを務める。1882(明治15)年、中国に渡り、北京の潘存に師事。六朝書体や墨絵の技法を学び、芸術性豊かな書風を確立、明治書壇に新しい風を吹き込む。
 1891(明治24)年、副島種臣の勧めにより、王羲之の十七帖臨書を明治天皇に献上する。健脚だった中林は、1898(明治31)年、72歳(数え年)の時に富士山頂に、「鎮國之山」を陽刻した銅碑を建立した。

<S7>  青年教育に尽力した社会教育家

・「田澤義鋪」(たざわ よしはる)(1885-1944)
 社会教育家。鹿島市出身。青年教育に力を注ぎ、「青年団の父」と呼ばれる。1909(明治42)年、東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、内務省に入省。翌年、25歳で静岡県安倍郡の郡長に就任。学校とは無縁だった地方農村の青年たちに教育や自己修練の場を与える活動に力を注ぎ、青年団を指導。
 1931(昭和6)年、東京都小金井の浴恩館に青年団講習所を開設。郷里の盟友だった下村湖人を講習所長に迎え、ともに青年教育に従事した。その後、日本青年館ならびに大日本連合青年団の理事長を務めた。公明選挙運動や労使協調運動にも尽力した。

・「下村湖人」(1884-1955)
 教育者、小説家。神埼出身。熊本の旧制第五高等学校で田澤義鋪と出会い、終生の友となる。東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、母校の旧制佐賀中学校で教鞭をとり、旧制の鹿島中、唐津中、台中第一中、台北高校の校長などを歴任。1933(昭和8)年、盟友の田澤義鋪が開設した青年団講習所の所長となり、共に青年教育に従事。
 小説家としても、青少年の成長を描いた自伝的小説「次郎物語」や、田澤義鋪の生涯を描いた「この人を見よ」などの作品を残している。

<S8> 日本の工学・化学分野の先駆者

・「志田林三郎」(1855-1892)
 日本の電気工学の祖。多久出身。1873(明治6)年に工部大学校(現 東京大学工学部)の第1期生となる。ウイリアム・エアトン等の下で、世界初の電気工学専門の高等教育機関であった電信科で学び、首席で卒業。1880(明治13)年、イギリスのグラスゴー大学に国費で留学し、最優秀論文賞を受賞。
 帰国後は、工部大学校教授の傍ら、工部省の技術官僚としても活躍。1888(明治21)年、自ら創設した電気学会では、電気工学の発展がもたらす将来の技術社会を予見した演説に見られるように、高い先見性を持っていた。

・「黒田チカ」(1884-1968)
 女性の化学分野での日本初の理学博士。佐賀市出身。1901年(明治34年)に佐賀県師範学校(現佐賀大学文化教育学部)女子部を卒業、1年の義務奉職を経て1902年(明治35)年、上京して女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)理科に入学。卒業後、福井県師範学校女子部に勤めた後、母校研究科に学び、東京女子高等師範学校に改称した母校で助教授となる。
 1913(大正2)年、29歳で東北帝国大学(現東北大学)化学科に入学し、最初の帝国大学の女子大学生の一人となる。卒業研究による紫根色素の構造決定を、東京化学会で発表した。イギリス・オックスフォード大学留学後、母校の女高師で教鞭をとりつつ、1923(大正13)年から理化学研究所で紅花色素の研究を行う。その研究により1929(昭和4)年、45歳で理学博士となる。「紅(べに)の博士」の名で呼ばれる。

<S9> 日本を代表するお菓子メーカーの創業者

・「森永太一郎」(1865-1937)
 森永製菓の創業者。伊万里市出身。幼少のときから苦労して育ったが、1888(明治21)年の23歳の時に渡米。一端帰国するもすぐに再渡米し、西洋菓子の製法を習得して、1899(明治32)年に帰国。現在の東京都港区虎ノ門付近に、今日の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を開設。まだ和菓子が主流の時代に西洋菓子の普及に努めた。
 1914(大正3)年、49歳の時に紙サック入りの「ポケット用ミルクキャラメル」を発売し、爆発的な人気を呼ぶ。日本初のカカオ豆からの一貫製造によるミルクチョコレートをはじめ、飲用ココア、マリービスケットなど数々のロングセラー商品も生み出した。

・「江崎利一」(1882-1980)
 江崎グリコの創業者。佐賀市出身。37歳の時に、有明海に流れる早津江川河畔で漁師が牡蠣の煮汁を捨てる様子を見て、牡蠣に含まれている栄養素グリコーゲンを使用した栄養菓子の開発を思いつき、その製造に着手。
 1921(大正10)年に佐賀から大阪へ移り、江崎商店を設立。翌年に大阪の三越百貨店で栄養菓子「グリコ」を発売。その後「グリコ」は、大阪道頓堀の戎橋沿いの看板に見られる、両手を上げて走るスポーツランナーのイメージ像と、「ひとつぶ300メートル」のキャッチコピーとともに、キャラメルにおまけを付けたことにより、大人気商品となった。

<S 10> 近代医学の礎を築いた医学者

・「伊東玄朴」(いとう げんぼく)(1800-1871)が
 蘭方医。近代医学の祖。神埼出身。16歳で漢方医学を学び、23歳で佐賀の蘭方医島本良順に、翌年、長崎でシーボルトにオランダ医学を学ぶ。1826(文政9)年、江戸に出て、蘭学塾象先堂を開き、門人を育成した。
 1843(天保14)年、佐賀藩主鍋島直正の侍医となり、天然痘予防の種痘の必要性を進言。1849(嘉永2)年、直正は自分の子に種痘をし、江戸にて玄朴は種痘を広めた。蘭方内科医としては初めて幕府奥医師に登用される。1858(安政5)年、玄朴らが神田に設立したお玉ヶ池種痘所は、後に東京大学医学部に発展し、近代医学の礎となった。

・「相良知安」(さがら ちあん)(1836-1906)
 蘭方医。日本にドイツ医学を導入した医学者。佐賀市出身。藩校「弘道館」から蘭学寮、医学寮で学ぶ。その後、佐倉(現在の千葉県)の「順天堂塾」にて蘭医学を学び、長崎で蘭医ボードインに師事。
 佐賀藩10代藩主鍋島直正の侍医となり、1869(明治2)年、明治政府の「医学校取調御用掛」となり、ドイツ医学を導入。1872(明治5)年、第一大学区医学校(現東京大学医学部)の初代校長となり、「医制略則」を起草。今日にまで続く近代医学制度の基礎を築いた。「相良知安先生記念碑」が、東大医学部附属病院入院棟A玄関前にある。

<S 11> 知的障がい児教育・福祉の先駆者

・「石井亮一」(1867-1937)
 日本における知的障害者福祉・教育の創始者、社会事業家。佐賀市出身。立教大学卒業後、勤めていた立教女学校教頭の時に「濃尾大震災」が発生。その震災で発生した孤児となった少女たちを救済するため、1892(明治24)年、東京下谷に「孤女学院」(仮宿舎)を開設。翌年、滝野川村に院舎を建設し、本格的に運営を始める。
 引き取った少女たちのなかに知的障がい児がいたため、知的障がい児教育の必要性を痛感する。この問題は当時日本ではないがしろにされていたため、教育法などを学ぶために渡米。帰国後、同院を「滝乃川学園」に改め、日本初の知的障がい児教育を本格的に始める。妻筆子とともに知的障がい児教育・福祉に生涯を捧げた。

・「石井筆子」(1861-1944)
 近代女子教育者。長崎県大村市出身。石井亮一と共に日本初の知的障がい児教育・福祉に努めた。1880(明治13)年、19歳の時にフランス留学し、帰国後、津田塾大学を創立する津田梅子とともに華族女学校の教師となり、その後も女子教育に力を注ぐ。
 同郷の小鹿島果と結婚したが死別。知的障がいがある娘を滝乃川学園に預けた縁で石井亮一と再婚。亮一を献身的に支えながら知的障がい児の保護・教育に努め、その自立を支えた。亮一の死後、1937(昭和12)年、76歳の時に2代目学園長に就任した。

<S 12> 大企業へと発展させた実業家

・「中冨三郎」(1876-1957)
 久光兄弟合名会社(後の久光製薬)初代社長。旧姓久光三郎。鳥栖市出身。祖父の久光仁平が1847(弘化4)年に創業した製薬・売薬の家業を継ぎ、1903(明治36)年、佐賀県三養基郡田代村(現鳥栖市)に設立された久光兄弟合名会社の社長に就任。
 「朝日万金膏」(鎮痛消炎貼付剤)や「快復丸」(健胃下剤)などを販売し、国内や海外に販路を伸ばす。1934(昭和9)年、貼り薬「サロンパス」を発売し、久光製薬の礎を築いた。

・「市村清」 (1900-1968)
 リコー三愛グループの創業者。みやき町出身。1929(昭和4)年、理化学研究所(理研)が開発した感光紙の販売代理店を開業。その業績が買われ理化学興業株式会社の感光紙部長に抜擢、1936(昭和⒒)年、感光紙部門を理研感光紙株式会社(後のリコー)として創立。1945(昭和20)年、三愛商事(現三愛)を設立。1950(昭和25)年、二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ」を発売し、国内でカメラ・ブームを巻き起こす。
 1963(昭和38)年、 銀座4丁目交差点に三愛ドリームセンター(三愛ビル)を建設し話題となる。同年、市村記念体育館を佐賀県に寄贈。また、産業分野、学術分野での貢献を表彰する「市村賞」に名を残している。

 ※参考資料:肥前さが幕末維新博推進協議会「時代を駆け抜けた佐賀の偉人たち」。
 ※「維新の十傑」は以下の通り。
西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、小松帯刀(薩摩藩)、大村益次郎(長州藩)、木戸孝允(長州藩)、前原一誠(長州藩)、広沢真臣(長州藩)、江藤新平(肥前藩)、横井小楠(肥後藩)、岩倉具視(公家)

 *

 25人の偉人のなかで、僕が知らなかった人物は、古賀穀堂、曾禰達蔵、田澤義鋪、志田林三郎、黒田チカ、相良知安である。いまだ浅学であることを知らされた。
 
 佐賀の偉人像は、佐賀市中央大通りの置かれたところに、幕末維新博が終わったあとも残すそうである。
 やっと、佐賀市駅前通りが「肥前佐賀」らしくなった。

 * <追補> 佐賀県検定・判定
 
 佐賀偉人像25人より、勝手に「佐賀県検定・判定」をやってみた。
 知っている数。
 ・25人――A級 100点。<優>
 ・24~20人――B級 96~80点。<良>
 ・19~15人――C級 76~60点。<+不可>
 ・14人以下――D級  56点以下。<-不可>

 僕は、残念ながらC級である。


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