かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「青梅竹馬」もしくは「台北ストーリー」

2017-05-25 01:40:49 | 映画:外国映画
 東京・多摩市の隣町であるということからか八王子市の図書館でも会員になれるので、最近隣町の南大沢(八王子市)に行くこともある。
 先日、その京王相模原線の南大沢駅の構内の宣伝パンプレットやチラシを並べてある棚を見ていたら、「自由気ままな都市 高雄の個人旅行」という見出しの小冊子が目についた。
 同じ京王線にある八王子市だから宣伝しているのだろうと思ったが、何か引っかかった。
 確かに京王線の終点にある八王子市にあるタカオ山は、最近外国人に人気があるとはいえ自由気ままな都市と言えるほど発展したのだろうか。駅のふもとに温泉ができたとは聞いたが、僕も食事をしようと駅周辺を散策したことがあるが都市と形容されるほどそう賑やかな界隈ではない。
 そして、それよりも引っかかった根源は地名の漢字である。タカオ山で有名なタカオは、高雄でなく高尾だったはずだ。おやおや、こんな大きなミスをしていると思って、その冊子を手に取った。
 中をめくってみると、何とタカオは台湾の高雄だった。となると、字は高雄でいいのだ。
 それにしても、高尾にそう遠くはない駅で高雄とは紛らわしい。冊子の表紙には台湾の文字がないから、てっきり高尾と思い込む人もあろう。そういうことを狙ったのだとしたら、手が込んでいる。
 いやはや、高雄(台湾)のPR誌が八王子(高尾)にあるなんて、グローバルな時代になったものだ。リブ・ゴーシュ(パリ・セーヌ左岸)のPR誌が、佐賀と鳥栖(サガン)にあるようなものというのは言い過ぎか。
 ちなみに、後者のサガンは、「佐賀の…」の訛った表現で、「佐賀ん(サガン)町は嘉瀬川の左岸に広がっているので、パリのセーヌ左岸(サガン)のリブ・ゴーシュと似たようなものだ」と言ったりする(実際に、こんなことを言う人はいないが)。

 *

 台湾の候孝賢(ホウ・シャオエン)の監督する映画が好きだ。
 「風櫃(ふんくい)の少年」、「童年往事 時の流れ」、「恋恋風塵」などは、いつ見ても、未知なる将来にもがき悩んでいた、いまだ瑞々しい時代を思い起こさせ、心を滲ませる。
 候孝賢の自伝的映画である「風櫃の少年」は、小さな島の漁港で育った少年が台北に次ぐ大都会である高雄に行って生活する物語である。
 1991年、僕は台湾を旅した。
 台北から列車に乗って南に向かい、台南に1日寄って高尾に着いた。高雄の駅を降り、この町に泊まって街中を歩こうと思った。しかし、街の匂いと雰囲気が情緒に薄い工業都市のようで、歩きまわる気が起きなかったので、僕はすぐに駅前からバスに乗って、さらに南端に向かったのだった。
 あれから、高雄の街の匂いや風景は変わったのだろうか。

 *

 1980年代から90年代、候孝賢とともに台湾のニューシネマの代表と称されたのが「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」の楊德昌(エドワード・ヤン)である。
 エドワード・ヤンが1985年に撮りあげた作品で、日本では上映されていなかった2作目の作品、「台北ストーリー」(青梅竹馬)が渋谷で上映されたので、見に行った。
 主役は何とヤンの盟友であった候孝賢である。脚本も担当した候孝賢は、このときすでに「風櫃の少年」、「冬冬の夏休み」などを発表していて監督として注目されていたのだが、ヤンの映画製作のために尽力していた。
 相手役のヒロインは、台湾で人気歌手の蔡琴(ツァイ・チン)。

 親の家業を継いでいる主人公のアリョン(候孝賢)は、幼馴染みの恋人アジン(ツァイ・チン)と、マンションの空き室を見ながら、将来のことを語っている。
 アリョンは元少年野球をやっていて将来を嘱望されていた。しかし今は、その夢が断たれたのか何となく鬱屈しているように見える。一方アジンはバリバリのキャリアウーマンで、活動的な生活を送っているように見える。
 しかし、アジンの勤めていた会社が買収され、突然アジンは解雇される。アジンは、アリョンの義兄を頼ってアメリカへ行こうと提案するが、アリョンは踏ん切りがつけられないでいる。
 そんななか、ある事件が起きる。

 蔡琴(ツァイ・チン)の存在感が眩しい。
 この映画撮影の頃、監督のエドワード・ヤンと結婚している。しかし、その後離婚。エドワード・ヤンは再婚し、10年前に没した。

 *

 映画「台北ストーリー」が終わったのは、夜9時半過ぎ、10時近くだった。
 劇場を出て、食事する店を探しながら渋谷の駅の方に歩いた。さすが若者の町渋谷である。まだまだ人通りは多く、あちこちに夜はこれからですよとばかり飲食店の看板やネオンが明かり輝いている。
 すると、待っていましたとばかりに歩いている通りに、「台湾料理、故宮」という看板が目についた。僕の頭の中は台湾モードだったから、誘われるようにその店のある雑居ビルに入った。
 扉を開き中に入ると、入口のすぐの壁に「台北ストーリー」のチラシが貼ってある。映画館の近くだから、台湾繋がりで関係者が貼っていったのかな。
 店の中は、こんな時間でも客がいっぱいで、騒々しい嬌声が聞こえてきた。テーブル席はほぼ埋まっていて、一人客は僕だけのようで、誰も座っていない3、4人も座ればいっぱいになる小さなカウンターに座った。
 遅い時間だといっても、いつもの僕の食事時間と変わらない。
 中華料理のメニューを見るのは、その味を空想させて楽しい。
 頼んだのは、炒蛤蜊(アサリ・バジル炒め)、羊肉青菜(羊肉と青菜炒め)、水餃子、米粉(ビーフン)、それに台湾ビールの「王牌」を1本。
 アサリは日本語の漢字では「浅蜊」で、メニューに使ってある「蛤」は、日本ではハマグリだよね。中国語では両方「蛤」を使うのかな。
 ここの水餃子は、丼のような碗の中のスープに浸かっていて、餃子というより小籠包に近く、スープも旨い。

 料理を持ってきた、渡辺直美を半分ぐらいスリムにしたような小姐に「台北ストーリー」のチラシを見せたら、「映画見てきたの? 私まだ見てない。主役の蔡琴(ツァイ・チン)は台湾でとても人気あるよ」と言った。
 「中国語の原題は「青梅竹馬」だけど、どういう意味?」と訊いてみた。
 彼女が「幼馴染み」と答えたので、「日本でも、“竹馬の友”という言葉があるから「竹馬」はわかるけど、「青梅」はどういう意味?」と重ねて訊いた。
 彼女は、「甘酸っぱい……」と言って、「う~ん、少し難しい」と考えた。そして、スマホを開いて何やら打ち込んでいたが、すぐに「李白、知ってる?」と言うので、「うん、李白や杜甫は日本でも有名だよ。高校の漢文で習うしね」と答えると、「「青梅竹馬」は李白の詩から来ている。ほら、ここ」と言って、スマホの画面を見せた。
 そこには、中国語の字が並んでいた。李白の「長干行」という詩だ。
 そして、彼女は付け加えた。「ただ、「青梅」は男と女の間にしか使わない」と。

 僕は、台湾の啤酒(ピージウ)を飲みながら、「青梅」という語には、幼いなまめかしさが潜んでいると思った。「青い梅」でもいいタイトルの響きではないか。「青い麦」に低通するものがあるし。
 それにしても、つい少し食い過ぎてしまったようだ。

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熱狂の日なのに、「ラ・フォル・ジュルネ2017」

2017-05-10 01:30:12 | 気まぐれな日々
 5月は何とメランコリックなのだろう。
 外に出ると空も木も青く息づいているから、その季節の前向きな若々しさに僕は嫉妬しているのかもしれない。どうせ青春は遠く、戻っては来ないと。

 「五月雨は緑色 悲しくさせるよ、一人の午後は……」、こんな甘酸っぱい村下孝蔵の「初恋」を、けだるい夕暮れに流してみる。
 この歌を僕は知らなかった。いや、最近耳にしたら、いつかどこかで聴いたことがあると胸をつつく。長い間、脳裏の奥に置き去りにしていたので、もう死に絶えようとしていたのだが、かろうじて僕のなかで生き返った歌だ。
 まるで、失くしてしまった初恋を蜘蛛の巣の中に見つけたように、僕はしばらく見つめてみる。

 こんな歌は、あるものだ。
 もう一つは、ビートたけしが番組で、嫉妬した男と語った、ザ・ブルーハーツの甲本ヒロト。彼が歌う「リンダリンダ」は、宮沢りえが私の青春そのものと涙していたが、僕の記憶に残っていないのだった。それなのに、歌はどこかで呼吸していた。
 これらの歌が流れた1980年代は、僕は何をしていたのだろう。
 恋を失い、歌も聴かずに夜な夜な麻雀と酒に遊び惚けていたのだろうか。その頃きっと、流行り歌は僕を素通りしていったのだ。
 そんな時代は、あるものだ。

 聴く歌は、年齢、時代とともに変わる。大きく括れば、人生の過程で聴く音楽は、変わってくるものである。
 近年は、以前はまったく聴いていなかったクラシックが多くなった。
 ずいぶん前に読んだワインの本の中に、ワインの質をはかる最大の基準は複雑さであるとし、それをふまえて、音楽でも、人間は単純なもの、平凡なものから、より複雑な旋律の様式に必ず好みが進歩していく、と記されていたのが記憶に残っている。

 聴く音楽は変わっていった。
 それでも今、僕のなかで、村下孝蔵も甲本ヒロトもアマリア・ロドリゲスもブラームスも同居している。

 *

 黄金週間は、どこへ行く予定もたてなかったので、せめてもと、東京国際フォーラムで行われているクラシック音楽の祭りである「ラ・フォル・ジュルネ」(熱狂の日)へ、5月5日出向いてみた。
 今年のテーマは、「ラ・ダンス 舞曲の祭典」である。外では飲食の屋台が並び、無料の演奏も行われている。(写真)
 タイムスケジュールを見て、夕方から3つの公演を聴くことにした。

 ・17:15 ~ 18:15 会場:ホールB7
 <出演>
 オーヴェルニュ室内管弦楽団 ⁄ ロベルト・フォレス・ヴェセス (指揮)
 <曲目>
 ボッケリーニ:マドリードの通りの夜の音楽 op.30-6 (G.324) (アヴェ・マリアの鐘、兵士たちの太鼓、盲目の乞食たちのメヌエット、ロザリオ、パッサカリア、太鼓、帰営ラッパ[夜警隊の退却])
 テレマン:組曲ト長調「ドン・キホーテのブルレスカ」
 レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲
 ――フランスのオーヴェルニュ室内管弦楽団は、2011年の「ラ・フォル・ジュルネ鳥栖」で初めて聴いて、その後ハーピストの吉野直子さんとの共演での東京公演でも聴いた。
 僕は、オーケストラほど総勢でない、この程度のコンパクトな管弦楽団もしくは室内弦楽秦団が、落ち着いて聴いていられて心地いい。
 レスピーギのリュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲は、ドラマ「のだめカンタービレ」にも登場した曲だ。

 ・19:00 ~ 19:45 会場:ホールC
 <出演>
 竹澤恭子(ヴァイオリン)
 フランス国立ロワール管弦楽団 / パスカル・ロフェ (指揮)
 <曲目>
 シベリウス:悲しきワルツ
 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
 ――パリを拠点に国際的に活動されている竹澤恭子さんのヴァイオリンを、初めて聴いた。落ち着いた優雅な演奏だ。アンコール曲は、バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番ハ長調より「ラルゴ」。

 ・20:45 ~ 21:30 会場:ホールB7 
 <出演>
 ルイス・フェルナンド・ペレス (ピアノ)
 アルデオ弦楽四重奏団 / メンバー::キャロル・プティドゥモンジュ(ヴァイオリン)、 梁美沙[ヤン・ミサ](ヴァイオリン)、原裕子(ヴィオラ)、ジョエル・マルティネズ(チェロ)
 <曲目>
 ドヴォルザーク:「糸杉」B.152から 第11番・第12番
 ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲 イ長調 op.81
 ――アルデオ弦楽四重奏団は、2001年、パリ国立音楽院内で結成という。
 第1ヴァイオリンの演奏者が椅子に座っての演奏なのに、左右に上下によく動く。もう飛び跳ねんばかりで尻が椅子から浮いているときもあるので、よくこれで弦が狂わないなあと思って見ているうちに、前にも見たことがある女性だと思いついた。前見たときは立って動いていた、梁美沙さんである。ヴィオラは名前からして日本人らしい。
 人種もまちまちのようなこのカルテットを見ているうちに、ドキュメンタリー・ドラマの「カルテットという名の青春」を想起してしまった。このときのヴィオラが同じ名の原さん(原麻理子)だったからかもしれない。

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5月の甘い鯉

2017-05-03 03:21:34 | 気まぐれな日々
 五月風 青空青葉 鯉おどり
   憂いもいずこ 舞い散るらむや
                (沖宿)

 5月の黄金週間に入ってしまった。
 東京・多摩センターの駅から続く道の丘に、鯉のぼりがはためく。道の両サイドにも、小さなお菓子のような鯉がなびいている。(写真)
 今年の黄金週間は、多摩にいることにした。

 この季節、佐賀の田舎は青景色だ。
 自転車で外へ出て、佐賀平野のなかを縦横に切り裂いたような小道を走る。頬に風を受けながら見上げると、360度青空で、長く続く地平線は麦畑の緑が広がる。
 かつて日本語には緑という言葉がなかったので、一面青色と言ったのだろう。空の色も、海の色も、山の色も、畑の色も、みんな青だった。
 この季節、そんな田舎の青景色のなかにポツンポツンと散在する家の庭先に、鯉が舞う。
 僕は止まってその鯉を見ながら、ああこの家は男の子がいるんだと思いを馳せる。それまではなくて、庭先にその年初めて鯉のぼりが立ったら、この家は男の子が生まれたのだとわかるのだった。

 丘の上のビルの狭間に泳ぐ都会の鯉のぼりは、端午の節句という源流も忘れ去さられたかのように思えるが、鯉のぼりが立つこの場に、12月に立てられる樅の木と突端のベツレヘム の星の飾りのように、今は祭り(街の活性化)の象徴なのだろう。それでも古い行事の一端が、どこかしこに残り続けるのを見るのは心が軽やかになる。
 ルーツも云われも無関係に、仮装やコスプレで街を練り歩くハロウィンが、いつの間にか日本で賑やかに取りざたされる時代なのだ。
 近年、渋谷や六本木に出現したハロウィンの仮装やコスプレの集団を見て、40年前に博多でのことを思い出した。
 「ひかりは西へ」のキャッチフレーズのもと、新幹線が東京から博多へ開通した年だったから1975年のことだ。
 博多へ行った時、久しぶりに会った地元の友人が、この草知っている?と、ビルの間に伸びている黄色い花をつけた背の高い草を指して言った。「これはセイタカアワダチソウという外来種で、生命力が強くてこの辺は今すごい勢いで繁殖しているのよ」と言った。
 それ以後、あたかも「セイタカアワダチソウは東へ」というように、あっという間に確かにあちこちで見かけるようになった。

 *

 鯉のぼりを見ていると、子どもの頃、誕生日とか子供の日などの特別な日に親が買ってくれた、懐かしい赤い魚の砂糖菓子を思い出した。大人になってからは食べたことがないが、あれは鯛で、金華糖と言うのを後で知った。
 長崎から佐賀を横切って福岡の小倉に連なる長崎街道は、別名シュガーロードと言って、南蛮菓子と和菓子が折衷されたスイーツが栄えた。先に書いた金華糖や、カステラ、丸ボーロ、小城羊羹、逸口香、金平糖、等々、街道の各地にいろいろな銘菓がある。
 面白いのは、佐賀の家では茶菓子としてよく出される逸口香(いっこうこう)だ。
 古くは、「唐饅」(とうまん)と呼ばれていた饅頭のような形と色をした焼き菓子で、口にするとパリッと香ばしいが中が空洞になっていて、ちょっと肩透かしを食った感じがする。しかし、黒砂糖の甘さと生姜の独特の風味があり、この菓子の良さは分かる人には分かると言っているようで、人知れず人気があるのだ。
 ちなみに、森永製菓の森永太一郎や江崎グリコの江崎利一、ドロップで有名だった新高製菓の森平太郎といった、菓子メーカーの創業者は佐賀県出身だ。

 ビルの中にたなびく多摩の鯉を見ながら、しばし都会と田舎の鯉のぼりの景色の違いに耽ってしまった。
 少し高くなった血糖値を気にして最近甘いものを避けていたけど、久しぶりに羊羹でも食べたくなった。小城羊羹を売っているところを見つけないと。

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