かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

東京の夏祭り

2016-08-19 01:19:52 | 気まぐれな日々
 真夏の暑さは盆の季節である。この盆の季節、朝からセミが鳴く。
 多摩の家の近辺は、建物が並ぶ集合住宅地なのに、僕の家の建物の前には、木が生い茂った三角形のちょっとした地がある。そこは、山茶花、八重桜、それに楠がアトランダムに乱立していて、計画的に作られたとは思えない空き地(木がおおっているが)のような空間なのだ。
 そこは、小さな公園の目的でもないし、憩いの場でもないし、どう見ても、何のためにあるのか分からない。近くに住んでいる人もほとんどその中に入らない。僕が勝手に言っているのだが、いわば「小さな林」である。
 その空地の主要部分を独占している何本かの楠は、今では大きく成長し過ぎていて、毎年業者が枝の剪定に苦労しているほどである。ある時、剪定のために木に登っている業者が枝が折れて落ちたことがあった。
 想像するに、ニュータウンの街の設計者が造成された土地に、道路や建物の配置を図面でひいたが、中途半端な土地が残った。どう使うかはあとで考えようと、とりあえずそのままにしているうちに建物の建設が終わってしまった。ところが、このままではいかん、施工締切りも迫っているのでと、思いつきで木を植えた応急処置の土地ではないかとしか思えない、不思議な見放された空間なのだ。
 田舎では当たり前のように見かけるが、効率を求める東京の住宅街ではこんな無駄とも思える土地・空間は珍しく思えて、僕はこんな目的のない空間が好きなのである。
 あまりに整然と並んだ建物や街は面白味がない。そんな住民の思いを反映しようと、多摩のニュータウンは、整然となりがちな街づくりに逆らおうとする設計者の意図がところどころに垣間見えたりする。
 しかし、京王堀之内駅(八王子市)周辺のガウディ風空間には、苦笑してしまうのだが。中国を笑ってばかりはいられない。

 家の前の、その「小さな林」の繁った楠に、毎年夏のある時期からセミが一斉に鳴きだすのだ。
 たむろするセミの鳴き声が、盆の頃から心なしか弱々しくなり、毎日のように玄関前には討ち死にしたようにアブラゼミがひっくり返っているのが目につく。
 盆と同じく、セミの命も短い。

 *

 盆が過ぎたが、今年は佐賀の家に帰らなかった。親もいないとなれば、田舎の家にも遠のくものである。寂しいことである。
 過疎化が進む佐賀の田舎の町では、それでも盆には花火大会があり、街の中央にあるグランドで盆踊りが催されていた。
 グランドの中央には櫓がたてられ、その周りを輪になって踊りを踊るのだった。グランドの外壁の周りには屋台の夜店も出て、この町にも若い人がこれほどいるんだと思わせるほど、老若男女がにこやかに集まって来ていた。
 炭鉱で町が栄えていたころは、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろう…」と歌う炭坑節が、あたかもこの町の歌のように思ったものだ。
 家にいても、外でポンポンと音がすると、花火が始まったねと、母と窓を開けて夜空を見渡した。
 盆踊りはまだやっていると思うが、花火大会は町の財政難とやらでやめてからもう相当の年月がたつのだが、今年は復活したという。

 しかし、田舎の祭りは何といっても秋祭りである。北九州地方では、「くんち」の祭りが町によって個性があり風情がある。長崎や唐津の「くんち」はいかにも華やかだが、佐賀の白石町の神社の「くんち」は流鏑馬が行われ、いかにも地方の街らしい情緒があって、僕は好きだ。

 *

 田舎育ちの僕には、東京の夏祭りはあまり気乗りがしない。
 若いときは、夏に「北帰行」と称して、北海道や東北を旅した。
 青森の「ねぶた」と秋田の「竿燈」祭りを梯子して周ったときは、夏の祭りは東北に限ると思ったものである。
 東京に出てきて何年もたっていないある夏の日、高円寺に行ったら祭りをやっていた。東京の商店街でも盆の祭りはやるんだなあと足をとめて見ていたら、なんと、「高円寺阿波踊り」と垂れ幕があるではないか。
 阿波踊りといえば四国徳島でしょう、物真似の東京の祭りは寂しいね、すぐに廃れるだろうと思っていたら、いつの間にか高円寺の名物にまでなってしまった。その隣の阿佐ヶ谷は、七夕で名を売っている。

 多摩市でも何か所かで盆踊りの祭りをやっている。
 この盆踊りとは別に、去る8月13、14日には、多摩センター駅前からパルテノン多摩に向かった大通りで、「多摩センター夏まつり」が行われた。
 「日本の踊り」と銘打って、様々な踊りや大道芸をやっているようだ。そもそも東京は地方からの集まりなので、何でもありなのだ。
 8月13日の夕方、「多摩のおわら」をやるというので、見に行った。
 「おわら風の盆」をひく踊りで、多摩で始めてもう13年になると、踊りを主催する人が語ってくれた。(写真)
 「おわら風の盆」は、富山市八尾(やつお)地域で行われている古い伝統の踊りだ。越中おわら節の歌にのせて、長く折った編み笠を顔を覆うように被った浴衣姿の女性が躍る姿は、それだけで絵になる光景だ。その姿の裏に何か物語があるのではと、想像を駆らせるものがある。
 「多摩のおわら」は、あっけなく1時間で終わったが、富山の「おわら風の盆」は9月1日から3日間続くという。
 今年は、本場の「おわら風の盆」を見に行くとしようか。


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「青春の門」から「玄冬の門」へ

2016-08-01 02:13:53 | 本/小説:日本
 「玄冬の門」とは、耳慣れない言葉だ。
 人生を季節になぞらえた、「青春」から始まる「朱夏」、「白秋」を経たあとの「玄冬」である。若くて青い若葉の春と違って、老いの暗い冬という、人生最終の季節、それが玄冬。

 五木寛之の「青春の門」の「筑豊篇」が出版されたのが1970年。その後、「青春の門」は後続篇が断続的に出版され、何度か映画やテレビドラマ化されて話題となった。
 本は、1993(平成5)年の 第7部「挑戦篇」の単行本が最後で、第8部「風雲篇」が1993(平成5)年から1994(平成6)年にかけて雑誌「週刊現代」に掲載されたが単行本化されていない。いわば、完結を迎えたかどうか不明のまま現在に至っている未完の長編である。
 その「青春の門」の五木寛之が、先ごろ「玄冬の門」(ベストセラーズ刊)を書いた。
 「青春の門」から、朱夏、白秋を通り超して、「玄冬の門」の発表となった。(写真:朝日新聞書籍広告蘭より)
 彼の著作で上記の季節の借用としては、「朱夏の女たち」という本が1冊ある。人生の最も熱い夏(朱夏)を生きる女たちを描いた、婦人誌(「ミセス」)に連載された小説である。
 僕が編集者時代に追いかけていた、文壇を颯爽と走っていた五木寛之も83歳となり、彼自身も人生の冬の季節に入ったということか。
 いや、誰もが遅かれ早かれ冬の季節を迎えるのだ。

 *

 青春や玄冬という言い回しは、もともと中国の陰陽五行説からきている。
 中国では古来、自然界を陰と陽に分けて考えた。「陽」の太陽、表、奇数に対して、「陰」の月、裏、偶数といった考えである。
 この陰陽思想に五行思想が加わり、陰陽五行の説ができあがったようだ。
 五行の思想は、自然界は「木」、「火」、「土」、「金」(ごん)、「水」の5つの要素で成り立っているというものである。
 この5要素は、色、季節、方角など、様々なものに適応されている。また、神獣にも呼応している。

 「木」=青-春-東-青龍
 「火」=朱-夏-南-朱雀(すざく)
 「土」=黄-土用-中央
 「金」=白-秋-西-白虎
 「水」=黒-冬-北-玄武(玄い亀と蛇が一体化した神獣)

 木、火、金、水の四季(春夏秋冬)に対して、土は各季節の変わり目に当てはめられ「土用」と呼んだ。
 日本では夏の土用の丑の日が、幕末の学者平賀源内の発案によるといわれている、鰻を食べる習慣として今日に残っている。
 この他、日本では様々な形でこの陰陽五行の思想の足跡が残っている。

 唐の長安を倣った奈良・平城京跡には、宮城(大内裏)において南面する正門として「朱雀門」があるし、京都にも朱雀門跡がある。

 奈良県明日香村で発掘された高松塚古墳やキトラ古墳の壁画には、大陸文化の影響が見てとれ4神獣が描かれていた。

 大相撲では、今では柱の代わりに4方に色のついた房が垂らしてある。これは方角を表していると同時に土俵を守っているとされるその方角の神獣を表しているとされる。
 なお、土俵は「正面」を「北」、その反対の「向正面」を「南」としている。正面東側(東北)は青房、東の青龍神。向正面東側(東南)は赤房、南の朱雀神。向正面西側(西南)は白房、西の白虎神。正面西側(西北)は黒房、北の玄武神、となっている。

 横浜の中華街に行けば、まず目につくのが煌びやかな門である。中華街は、みなとみらい線とJR線の間にできていて、中華料理店が並ぶ通りが縦横に走っている。目印にしたい門も、似たような門がいくつもあり、初めて来たらどこの通りかわからなくなるだろう。
 中華街の門は全部で10門あるが、東西南北に呼応する門がある。みなとみらい線の山下公園口に「朝陽門」(東)。元町・中華街駅口に「朱雀門」(南)。JR線石川町駅口に「西陽門」から続く「延平門」(西)。横浜スタジアムに続く「玄武門」(北)。これらの門を覚えておけば道に迷うことはない、はずだ。

 *

 1966年、「さらばモスクワ愚連隊」で颯爽と文壇にデビューし、その翌年には「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、歌謡曲の作詞をするなど、時代の先頭を走っていた自称「外地引揚派」の五木寛之。そんな彼が突然休筆し、仏教を勉強するために大学に再入学するなど、作家としては独自の生き方を貫いていた。
 それ故、「他力」や「大河の一滴」など、仏教的色彩の滲んだ人生論風エッセイも多い。それは、すべて時代を見つめ、その先端を照射したものといえる。

 最初の「青春の門」が出版された1970年は、ベトナム戦争が拡大するなかヒッピーの風俗が広がり、中国の文化大革命が進行し、1968年のパリ五月革命、ソ連のチェコ侵攻、翌69年東大安田講堂攻防、その後全国の大学に広がった全共闘の学生運動と、若者を囲む社会情勢は揺れ動いていた。
 物語は、九州の筑豊で生まれた男の子が、戦後の混乱期、少年から青年へと成長し、人生へ船出するというもの。
 1970年代、学生運動はその後衰退の一途をたどり、高度経済成長、バブルとその崩壊などに見られるように、日本の若者を囲む社会情勢も変わっていった。
 五木が「青春の門」を継続しないのは、「青春の門」にみる主人公の生きる場がない時代だからなのかもしれない。

 *

 五木寛之は、ずっと移り行く社会を見つめてきたと思う。しかし、彼は変わらない。いつも淡々と社会を、人生を語る。いつも同じスタンスのように感じる。彼の激した表情も悲しんだ表情もあまり記憶にない。
 遠くから見ると、孤高に見えた。穏やかだが、深いが強い孤独感を抱いていることがわかる。彼はそれを見せるのをよしとしなかったのだ。
 五木の病気に対するスタンスも面白い。大学入学時のレントゲン検査以来、歯の治療以外病院に行ったことがないという。自分で養生しているのだと言う。
 外地引揚派である、僕の親父もそうだった。喉が痛くて物が食べられなくなりやむなく病院に行ったときは、咽頭ガンですでに余命3か月だった。87歳まで生きたのだから、それはそれでいい。
 それに、失礼だがあの年齢で、五木は若いときからずっとライフスタイルはいまだに夜型だ。早朝寝て、昼頃起きるという。僕も夜型だが、毎日のように普通の生活(夜寝て朝起きる)に戻そうと思っているにもかかわらず、できないでいるにすぎない。しかし、彼は平然と言う。人それぞれ個性があるように、ライフスタイルも食事(時間や回数)も自分に合っているスタイルでいいのですよ、だから変える気はありませんと。

 青春、朱夏、白秋を過ぎて、最後の玄冬の季節だ。人生に例えると、いかに老いと向かいあって日々生きていき、どのように死を迎えるかの季節であろう。
 「玄冬の門」のなかで五木寛之は、老いたら、人生の一線から静かに退場する旨を語る。例えば、老いた野生の獣がそっと群れから離れるように。
 とはいえ、老いたらどう生きるべきか、それは重要で困難な問題だ。
 五木は、一人で生きていく術を覚えるべきだと説く。それには、孤独に慣れ、楽しむ、孤独の幸せ感を覚える。そのためには、孤独を嫌がらない、孤独の中に楽しみを見出す、それが大切だと言う。
 親鸞も孤独のなかに生きたが、法然は弟子に「群れ集まるな」と説いたという。
 九十過ぎたら野垂れ死にする覚悟を持つ。孤独死のすすめ、単独死のすすめを五木は淡々と説く。

 老いを感じる年齢になった。格好いい老いなどありはしない。
 いずれ、そっといなくなるのだ、多分。
 しかし、五木寛之は年老いた今でも時代を先取りしていて、今なお色褪せない「道」の水先案内人だ。
コメント (2)
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