かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

文学の行方 芥川賞受賞作「きことわ」と「苦役列車」の間

2011-05-26 01:58:00 | 本/小説:日本
 文学はどこへ行くのだろう。このことは、おそらく近代文学が生まれたときから、いつも言われてきたことだろう。
 文学がその時代を照射する宿命を持つ以上、この問いはいつも付きまとうものといえる。文学の行く末を探る、その水先案内の役割を負わされてきたのが、いくつかの文芸誌の新人賞で、その頂にある芥川賞であろう。
 新しい文学への可能性の模索は、話題を伴ってこそその新しさに光が当たるといえるのだが、またそこにこそ陥穽が存在している。近年、新しさの可能性より話題性のそれを重視しながらの新人賞選考となっている、と長らく言われているのに異存はない。

 09年「流跡」で朝吹真理子が文壇にデビューしたとき、すぐに、もしかしてと文学者の名を思い浮かべた人は多いだろう。
 フランソワーズ・サガンといえば、18歳の時に書いた「悲しみよこんにちは」で一躍有名になり、その本は全世界でベストセラーになった。映画化もされ、主演したジーン・セバーグも人気女優となった。セバーグは、ゴダールの「勝手にしやがれ」では、ヌーヴェル・ヴァーグの代表的女優と言われるほどになった。
 サガンは、その後もベストセラーを続出させた、日本でも人気の作家であった。そのサガンの小説の、日本語版の翻訳者といえば朝吹登水子である。
 そして当時、ファッション誌にも彼女のフランス便りの文を目にすることも多かった。
 彼女は、当時日本の学生や知識人に人気だったサルトルとボーヴォワールとも親交があった。
 朝吹登水子の娘、朝吹由起子も翻訳者として活動した。
 そして、今、朝吹真理子の出現である。
 そう、朝吹登水子は、朝吹真理子の大叔母だった。朝吹真理子の父、亮二も文学者である。
 何だか、血統で決まるサラブレッドのようである。

 朝吹真理子は、処女作「流跡」で、一躍デビューした。本来なら、公募による新人賞受賞でもないのに、純文学でいきなり「新潮」デビューはないだろうが、それは朝吹ブランドのなせる業であろう。
 「流跡」は、冒頭、読んでも読んでも、その本を読み進められない人物の話が出てくる。
 私もこの本を読み始めたとき、何故か一気に読めなくて、またしばらくたってからおもむろに読み直したのだった。その場合、本に栞を挟んでおいた途中から読み継ぐのではなく、何故かまた最初から読み直した。こうして、何度か最初から読む羽目になった。
 そうさせたのは、本(物語)の流れであった。途中からだと、それまでどのような話だったかが不確かになっているのだった。だから、最初から読み直さないと物語の流れを掴み取れないのだった。
 そのうち、この本はどこから読んでもよさそうだ、物語の流れなどないのだと分かったが、それでも最初から読まないと、と思わせるものがあった。
 どういうわけか、短い小説なのに日にちはかかってしまった。
 この本の物語は、いつの間にか主人公が変わり、時代も変わるのだった。だから、何度読み直しても、堂々巡りをしているような錯覚に陥るのだった。
 この本は、最初も最後もなく、時間もあるようでないのだった。そもそも、物語などなかった。どこか幽玄の世界に紛れ込んだ感覚だけが残った。

 朝吹真理子の2作目「きことわ」は、あらかじめ文学者としてその椅子を用意されているかのように、一気に2010年下期の144回芥川賞を受賞した。
 この小説は、幼い頃葉山の別荘で一緒に時を過ごした女性が、25年の時をへてその別荘で再会するという話である。
 ページを開くと、サガンの世界が再現されるのかと思った。読み進むうちに、中村真一郎の「四季」に見られる時間の回遊かと思わせた。
 しかし、何か特別な事件が起きたり、秘密が語られるのではない。語られるのは、2人の記憶である。確かのようでもありながら、茫洋とした時間と空間である。
 「流跡」では、小説の形式から逸脱した、不確かであるが文学の未知の領域への踏み込みが感じられた。
 しかし、「きことわ」では、小説の形式に則ったものとなっていて、その分曖昧さは消え去ったが、未知の可能性も萎縮しているように感じた。

 文学はどこを目指しているのだろう。

 *

 この「きことわ」と同時に芥川賞を受賞したのは、朝吹真理子の観念的な小説と対極に位置するともいえる、西村健太の「苦役列車」である。
 「苦役列車」は、その日暮らしの若者の荒んだ日常を自虐的に書いたものである。朝吹真理子の「きことわ」と違って、物語としての話(ストーリー)はあり、面白みもある。
 芥川賞受賞が決まり、その報告を受けたときの西村の感想が、「もし賞に落ちたという報告だったら、これから風俗に行くつもりだった」というような受け答えをした。
 芥川受賞の感想第一声としては、奇を衒った受け狙いの答えかと思えるほど、異例の発言だったが、それは彼の、装うことのない本心だったようだ。小説を読むと、彼の(おそらく)分身が描かれている。

 中卒でまっとうな仕事をする気のない主人公の健多は、日雇い人足をして、かろうじて生計をたてている。友だちもいなく、酒と時たま行く風俗の買春で気を晴らすぐらいがわずかな楽しみである。
 そんな彼に、ある日、日雇いの職場で同じ年の友人ができる。ちょっと格好いい清々しい専門学校生の男である。健多にとっては初めてともいえる友だちで、彼と若者らしい交流が始まり、少しは真面目に仕事に行くようになる。
 その友人に、女子大生の恋人ができたという。何故か、女は慶応大生。ブルジョアジーの娘としての象徴の意味かも。奇しくも、芥川賞同時受賞の朝吹真理子と同じ(学校)となった。
 健多は友人に、彼女の友だちを紹介してもらおうと思い、3人で会うことにする。ここから、読む者が心配するような展開になり、そんな結末になる。

 新人の作家に与えられる芥川賞の、「きことわ」と「苦役列車」の間にある茫漠とした距離。
 文学が目指してきた多様な方向性と、いまだ未知への不確かな曖昧性が滲んでくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ラ・フォル・ジュルネ」が鳥栖へ

2011-05-11 03:43:23 | 歌/音楽
 「ラ・フォル・ジュルネ」(La Folle journée)とはフランス語で、訳すと「狂おしい日」「われを忘れた日」だが、フランスのナント市(フランスの西、ロワール川のほとりにある街)で始まったクラシックの音楽祭である。
 一日中、クラシック音楽を楽しもう、というフランスらしい洒落た祭りである。
 お祭りだから、かしこまった劇場だけでなく、小さなホールや野外会場など、様々な会場で、一日中演奏会が行われるのだ。
 通常クラシック音楽の入場料は高いのだが、この日は安い価格で多くの人に楽しんでもらおうという主旨なので、名もないアーチストやアマチュアのアーチストを集めそうだが、世界的に一流のアーチストを集めるというのがこの祭りを価値あるものにしていった経過がある。

 そもそものネーミングだが、モーツアルトの有名なオペラ「フィガロの結婚」の正式原題が、ボーマルシェの戯曲「狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚」(La Folle journée, ou le Mariage de Figaro)で、それにちなんでつけられたという。

 「ラ・フォル・ジュルネ」、この名前から僕が連想するのは、「フィガロの結婚」ではなくて、あのヌーヴェル・バーグの映画ゴダールの「気狂いピエロ」(Pierrot le Fou)だ。
 気の狂った、夢中になったという意味のFolleは女性形で、fouは男性形という違いで、同じ形容詞である。
 こんな、「熱狂的な日」が味わえたらいい。

 その「ラ・フォル・ジュルネ」の音楽祭が、黄金週間の終日、佐賀県の鳥栖市で行われた。
 このフランス生まれの音楽祭りは、日本でも数年前から黄金週間の間に東京の国際フォーラムで行われていて、その後金沢市などでも行われているのは知っていた。
 今年から鳥栖で行われるということを、佐賀に帰っていた僕は、うかつにも5月6日のテレビでそれを知り、しかも5~7日という期間であることもその時知った。
 翌日7日の最終日は東京に戻る予定の日であったが、帰京を1日ずらして7日に鳥栖に行くことにした。
 佐賀にいて、熱狂的な日(ラ・フォル・ジュルネ)を味わえるなんて、滅多にない機会だろうと思ったのだ。
 「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭の九州初上陸ということだが、佐賀市でなくて、なにゆえか鳥栖市だ。ましてや、福岡や長崎でない。
 鳥栖は、新しく開通した九州新幹線の停車駅ということもあって、福岡、熊本からの来客を期待できるという計算もあったのかもしれない。福岡はその季節、「どんたく」でそれどころではない。長崎は、時期は違うが「くんち」や「ランタン」という大きな祭りがある。
 それよりも、このイベントが実現できたのは鳥栖の人(関係者)の情熱だろう。地方の映画祭もそうだが、関係者の熱意だけがものごとを動かしうるし、それを維持・推進できるのだ。
 「ラ・フォル・ジュルネ鳥栖」のテーマは、ベートーヴェンだ。
 映画「月光の夏」でも描かれた、第二次世界大戦の末期、特攻隊の青年がベートーヴェンの「月光」を演奏したというのが、鳥栖にある「フッペルのピアノ」である。

 *

 昼頃、鳥栖駅に着いたら、駅前から会場となっている鳥栖市民文化会館・中央公民館までシャトルバスが往復していた。
 会場はテントのブースが並んで、いろんな食べ物(飲み物も)を売っていて、お祭りの雰囲気が漂っていた。
 会場でもらったプログラムが載っているガイドブックを見ると、有料の演奏会は3つの会場(ホール)で、頻繁に行われている。うまくすれば、ベートーヴェンの有名なピアノ曲、特にピアノ・ソナタのいくつかを聴くことができる。
 確かに、梯子すれば朝から晩まで音楽三昧である。しかも、入場料は各1500~1000円と安い。

 ガイドブックを持って、まず入口に設えてある受付に行く。と、当日券はすべて完売でありません、とある。
 何? 一日中、音楽に浸れる、のではなかったのか?
 では、無料の野外の演奏会もいくつか行われているようなので、それを梯子して音楽三昧の日とするかと思ったが、こちらは演奏会が少なく、次の演奏まで3時間もあり、時間が開きすぎている。
 食事もしてきたばかりだし、受付の前でどうしようと考えていたら、出演者が変更した演奏会は、キャンセルが出る可能性があります、と受付の人は言う。そう言った直後に、幸運なことにキャンセルの人が現れた。
 4時からの演奏で、それまでまだ相当時間があり、それにあいにくベートーヴェンでなくシューベルトだが、一つでも有料の演奏会を聴いていかないと来た意味がないので、即チケットを手にした。
 演奏まで、会場に出ている出店を見てまわり、テントの中の椅子で本でも読んでいた。
 会場内には、多くのボランティアの高校生が活動していた。

 待ったあとの、トリオ・ショーソン(フランスの室内アンサンブル)のシューベルトの「ピアノ三重奏曲第2番」は、素晴らしかった。
 演奏が終わったあと、特設即売所で、彼らのCDを買った。
 ただ、チケットが完売なので、この日、多くの人が会場に来たにもかかわらず演奏を聴かずに帰っていったと思われる。それなのに、だいぶん演奏会場の席が余っていた。 関係者は、次回からこういう事態を考慮した対処・対応が必要だろう。

 野外に出ると、日本庭園の水上ステージで、クラリネット・アンサンブル「チャクラ」による演奏が始まった。緑の中に、音楽が流れる。

 黄昏れてきたので、夕食として屋台テントの店で、壱岐の茹でたイカをつまみに缶ビールを飲み、長崎・老李の焼きチャンポンと水ギョウザを食べた。

 この日、僕は「熱狂の日」とはいかなかったが、鳥栖の初めての「ラ・フォル・ジュルネ」は黄金週間の終りとともに終わった。課題が残っただけでも、次回に活かされ、年々熱い日になっていけばいい。
 無料の野外の演奏をもっと増やすとか。

 「サガン」だけでなく、これから、「鳥栖」の前に「ラ・フォル・ジュルネ」が冠として、知れ渡るようになればいい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳川の、水天宮祭り

2011-05-05 20:54:00 | * 九州の祭りを追って
 黄金週間のこの季節、柳川は少し活気づく。
 福永武彦の「廃市」にうたわれたように、モノクロームのような印象のこの街が、色彩を帯びる。
 街にめぐらされた掘割りを、船頭が竹の竿1本で漕いで周る「川下り」は、この季節のためにあるようだ。日ごろは静かな水を湛えた堀に、観光客を乗せた船が列をなしたり、船と船がすれ違うさまは、この季節さながらだろう。
 そして、5月の3日から5日まで行われる水天宮の祭りがある。この祭りは僕の好きな祭りで、祭りの原点を思わせる。
 黄金週間になると、この水天宮の祭りが行われていると思うと、柳川に行きたくなる。何度も見ているのに、行きたくなる。行って長くいられるわけではない。祭りのお披露目が始まるのが夕方からなのに、佐賀へ戻る最終のバスが、7時過ぎなのである。だから、ゆっくり鰻を食っていられるわけではない。

 佐賀から西鉄バスで柳川に行く。
 佐賀県と福岡県の県境には筑後川がある。その筑後川に入り諸富橋を通ると、南の方に赤い橋が見える。中央に2本の塔のような建造物を持っている。まるで、バリ島の寺院の割れ門のようだ。
 この橋が、1日に何回か塔の間の橋桁が持ち上げられて、高い船が通れるようになる、日本で初の昇降橋だ。
 かつて佐賀市から柳川を通って福岡県の瀬高駅まで通っていた、国鉄佐賀線の面影を残す遺産である。日本が車社会(特に地方が)となり、やがて佐賀線は廃線となり、鉄道としての橋は使われなくなった。かつては電車(鉄道)で、柳川まで行けたのだ。
 筑後川を通ると家具の大川で、すぐに柳川に行きつく。

 柳川へは最近よく行っている。今年の冬は、元吉屋で鰻を食べるだけに行った。
 だから、今回は「川下り」の堀に沿ってではなく、歩いたことのない裏通りを歩いて、水天宮に向かうことにした。
 だいたいの街の概略は頭に入っているが、西鉄の柳川駅前から、もらった1枚の観光案内図を片手に歩く。
 途中、サクランボが赤く実っているのが目に入った。横には黄色い金柑がなっている。サクランボを千切って食べてみると、もう甘酸っぱい味がした。
 民家の間をぶらぶらと歩いていると、真勝寺という寺に行き着いた。その先の長命寺も、観光案内図にも載っていない初めての寺だ。長命寺の門に構えていた木造の対の仁王像は、素朴で逞しい。
 堀に沿って古い倉の連なる「並倉」を過ぎると、本町に出て、その先に福厳寺がある。ここは、大きな禅寺で、ずいぶん前にやはり街中を歩いているときに出くわした寺で、檀一雄の墓があって、驚きと感慨を受けたところでもある。
 久しぶりに檀の墓を参ろうと思った。
 法名石のところを見ると、檀一雄のあとにも何人か加えられていた。
 堀と堀の間の道を、東に曲がりながら道なりに進むと、とつぜん「御花」(元立花藩主別邸)に出た。この辺りは、「川下り」の終点でもある。
 
 「御花」のもうすぐ横は、水天宮だ。
 昔の縁日のように、屋台が並んでいる。老若男女いろいろな人が、アイスクリームを舐めたり、イカをほおばったりしながら、道をそぞろ歩いている。祭りに付きものの、金魚すくいもある。今日は、この祭りに町の人たちが集まっているのだ。
 堀に浮かんだ大きな屋形船には、出番を待つ子供たちが座っている。
 ここでは、この屋形船に設えた舞台で、子供たちによる三味線、笛、太鼓による囃子が奏でられる。合い間に、旅芸人の一座であろうか、時代物の寸劇も行われる。
 祭りの法被を着た街の人に、いつから始まるのかと訊いたら、5時半だと言う。もうすぐだ。
 始まりの音がした。子ども達の演奏が始まる。(写真)
 しかし、このまま、見とれていると鰻を食べる時間がなくなる。目的の元吉屋は、ここから北のバス通りの京町にある。
 しかし、ここで食べると時間も計れる。この水天宮のある川端に元吉屋の別館があるというのを思いだし、そこで食べることにした。
 窓から川の柳を見ながら、付きだしの鰻の骨の唐揚げでビールを飲む。そして、名物の鰻のせいろ蒸しを食べる。

 食べ終わった後、また屋形船の子供たちの演奏を見ていると、あっという間に7時5分前だ。
 川端の堀のほとりに2人で座っている町の小父さんに、「京町へ行くにはどのくらいかかる?」と訊いたら、「どうやって行くの?」と逆に訊かれた。「歩いて」と答えると、「相当かかるよ」と言う。
 「20分ぐらいで行くでしょう」と、自分の経験で答えた。
 すると小父さんが、「いや、30分はかかるよ」と言うはなから、もう1人の小父さんが「40分はかかるかも。その先にバスが出ているから、それで行った方がいいよ」と、バスが走っていそうな大通りを指差した。
 腕時計を見ると、7(19)時ちょうどだ。
 柳川に着いたとき、西鉄のバス停で調べてあるが、西鉄駅前からの佐賀行き最終は、日曜・祭日は7(19)時26分だ。すぐ近くの次の京町は、19時27分ぐらいだ。
 僕は、小父さんに「ありがとう」と言って、急いで京町方向に向かった。
 途中バス停があったので時刻表を見ると、1時間に1本で、次のバスは19時10分だ。あと8分あるが、それなら歩こう。バスはあてにならない。
 だいたいの街の構図は頭の中に入っているが、最短距離を地図と腕時計を睨みながら、競歩のように歩いた。
 柳川高校、伝習館高校、それに小・中学校といくつかの学校を横目で見ながら歩いた。どの高校も、有名大学の合格者数の一覧を壁に掲げているのが、季節柄か。テニスで有名な柳川高校は、文武両道と謳っている。
 京町のバス停に着いたのは、19時23分だった。汗がにじみ出た。
 毎日の生活は怠惰だが、歩くのは速いのだ。
 それに、旅に出ると(小さな旅でも)勤勉になるのだ。

 もう街は暗く染まっていた。
 佐賀に向かうバスの窓から、筑後川に架かる昇降橋を見た。夜の橋は、色とりどりに明かりがついていて、きらめいていた。いつからこのような粋なことをしだしたのだろうか。地味な佐賀県が。と言っても、県境に架かっているから、もう片方の橋の端っこは福岡県になるのだが。
 この橋は貴重な産業遺産だ。いや、文化遺産といって言い。

 黄金週間も、柳川の水天宮の祭りも終わった。
 東京に戻る日も近づいた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有田陶器市の裏通り

2011-05-04 02:09:27 | * 九州の祭りを追って
 5月に入り、ここのところ佐賀の空気がかすんでいる。遠くの景色はぼんやりとして、靄(もや)がかかったようだ。佐賀だけではなく、北九州はそのようである。
 春霞と、のどかな風景と言ってばかりはいられない。
 中国大陸から黄砂がやってきたようだ。それも、例年になく強い。そのせいか、晴れていてもどんよりと曇っているみたいで、眩しい直射日光はない。何せ、霞がかかっているのだから。

 そんな春霞、いや、黄砂の漂うなか、有田の陶器市に出かけた。
 いつも、市が並ぶ上有田駅から有田駅まで一人でぶらぶら歩くのだが、今年は地元有田の友人が同行したので、少し裏通りを歩いた。
 まず、市の並ぶ通りから上有田駅の北の泉山にある「大いちょう」へ。
 陶器市案内図には、天然記念物で樹齢千年と書いてあるが、大いちょうの表示板には、樹齢400年とある。どちらにしろ、確かに大きい。それに老木という感じはなく、まだまだ成長するのではと思わせるように緑の若葉が茂り、若い。
 そこから、「トンバイ塀通り」を歩く。トンバイ塀とは、解体した登り窯のレンガを利用して作った塀で、焼き物の街有田特有のものだろう。赤茶けた不規則なレンガで作った塀が並ぶ。(写真)
 塀の中ほどを四角くくり抜いた穴から、顔を出している犬がいた。通る人間を見物しているみたいだ。

 そこから、再び市の並ぶ本通りへ戻った。
 今年は、例年より観光客が少ないようだ。
 今年はぶらぶら散策だけのつもりだが、カエルの焼き物を見つけた。大きなお腹を抱えて上を見ているユーモラスな格好で、磁器ではなく狸の信楽焼のようにごつごつしている。有田焼ではないが、面白いので、草が生い茂る庭にでも置いておこうと、それを買った。隣の店のお姉さんが中国産だと教えてくれた。
 ユーモラスなカエルは、バリ島で木彫りを土産に買ったのを思い出した。バリ島のカエルは、槍と傘を持っている2匹で、対になっている。
 それから、やはり深川と香蘭社を見る。深川で、昨年割ったマグカップの同品を買い足す。
 それに、磁器の風鈴。

 本通りの中心地の札の辻を通り過ぎると、少し高段になったところに禅寺、桂雲寺がある。その高段の麓に、「有田陶器市の発祥の地」の標示を見つけた。
 明治21年、有田の磁器の商品開発を喚起させる目的で、第1回陶磁器品評会がここ桂雲寺で開催される。その品評会の協賛行事として、当時青年会のリーダーだった深川六助の発案で、大正4年から行われた「一斉大蔵ざらえ」が有田の陶器市の始まりである。
 有田では元々小売はしていなくて、せいぜい5月に有田町の背後に聳える黒髪山に登るお遍路さん相手に、商家や窯元の主婦が売れ残りや二級品を並べて小遣い稼ぎをしていた程度だった。それを、陶器市として街ぐるみで行い、それが年毎に人気となって今日に至ったという。
 有田の陶器市(4月29日から5月5日まで開催)は、僕の中でも、黄金週間の慣習となっている。
 最近は、「見るだけ」をモットーにしているが、それが守られたことがない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする