かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

雨の外堀、夜霧の議事堂…

2012-07-25 00:02:34 | 気まぐれな日々
 実家のある九州は大雨だが、東京は梅雨明けしたのかしないのか不安定で、世情と同じく鬱陶しく暑い日が続く。
 7月13日の金曜日、この日は曇っていた。暑くなくてよかったと思った。
 夕刻5時に、四ツ谷駅に降りた。ここから、永田町の国会議事堂を目指して歩こうというのである。
 国会・官邸前で脱原発の抗議集会が金曜日ごとに行われていて、それが次第に大きくなってきていると知ったのはついその前の日である。それまではマスメディアにはあまり報道されなかったのか、知らなかったのだ。この日の新聞によると、前週の集会時間帯に人が集まって混雑したため、地下鉄国会議事堂前の出入口は制限されると出ていたので、友人と四ツ谷駅で待ち合わせたのである。そこから歩いて行こうと。
 四ツ谷駅から上智大を右手に見ながら、皇居のある半蔵門に向かって歩き始めた。ちょうど、上智大から授業が終わったのか学生がぞろぞろと出てきた。昔は学生はその身なりを見てすぐに分かったものだが、今は学生だか誰だかわからない格好だ。
 麹町を過ぎて内堀を眺める半蔵門にぶつかって右折すると、国立劇場と隣の最高裁判所を横目で見ることになる。さらに進むと、右手に国会議事堂があるのだが、そこいらに着くと道路のわきに警察の車が何台も横付けしているのが見えた。集会に来た人たちかあちこちから人が現れて、集会の誘導の人が案内をしている。
 道に沿って歩いていくと、人が次第に多くなる。若い人から年配者まで様々だ。男女も半々といったところか。一人の人もいればグループの人もいる。
 人込みをかき分けて進んだが、交差した道路のところで警察によって横断が遮断されていてそれ以上は進めず、立ち止まったところは「茱萸坂」(ぐみざか)と書かれていた。遠く国会議事堂の頭が見える。 この議員会館や議事堂の並ぶ無機質な風が吹く風景に、こんな粋で可愛い名前の坂の地名があったのか。かつてこのあたりは武家屋敷のあったところだが、朱い実のなる茱萸の木が植わっていたのだろう。
 茱萸坂前は身動きできない膠着状態だったので、しばらくしてそこを離れて、また国会議事堂前の方へ移動した。こちらの方は、まだゆったりしている。薄暗くなった頃、太鼓だろうかドラムを抱えた人も登場した。祭りのような熱気が漂った。
 個人的には40余年ぶりのデモというより集会だったが、もちろん当時とは時代も空気も全く違う。来る人々は、行動も自由で、雰囲気も明るい。
 日も暮れた夜8時、集会も終わりを告げ、三々九度人込みはどこかへと散り消えていった。夜の明かりに囲まれひとり国会議事堂は、夜霧に消え入るように淋しく建っていた。(写真)
 振り返ると、日比谷の明かりが見える。議事堂を横に見ながら、歩いていると、東京へ来たころ流行った「雨の外苑、夜霧の日比谷…」という歌を思い出した。テレビ「ブラタモリ」で外苑の特集をしていた時、タモリがふと口ずさんだ「東京の灯よ、いつまでも」という歌だ。
 議事堂前から再び麹町へ戻り、四ツ谷ではなく市ヶ谷へ出て、そこで食事をすることにした。外堀が続く市ヶ谷駅に近づいたころ、小さく雨が降り出した。やはり、雨だ。
 懐かしい市ヶ谷駅前の路地にあった中華料理屋「九龍飯店」が目当てだったのだが、すでになくなっていた。残念! あの人懐こい中国人の小父さんはどうしたのだろう。そして大きな小姐は。仕方なく、近くの中華料理店に入った。

 7月16日には、大江健三郎、内橋克人、鎌田慧氏等の呼びかけで、代々木公園で脱原発を訴える抗議集会が開かれ、音楽家の坂本龍一や作家の瀬戸内寂聴も参加した。7月20日(金)の首相官邸前の抗議集会には、なぜか鳩山由紀夫元首相も参加したという。
 今後も、金曜日の抗議集会は続けられるという。

 隣の庭の紫陽花の季節は終わり、わが家の手入れのない庭で、雑草の中に伸びた鬼灯(ほおずき)の実が色づき始めた。その雑草の中から、今日(正確には昨日の夕方になる)、東京では絶滅しかかっているというカナヘビが顔を出した。おまえもまだ生き続けていたか、よかった。
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海老坂武の世界④ 流れゆく1970年代、80年代へ、「祖国より一人の友を」

2012-07-20 00:40:23 | 本/小説:日本
 日本人でありながら、日本以外の大きな川の流れを見つけて、それに惹かれることがある。その川に浸かり水を浴びることで、さらにその川に魅了される。そして、いつしか自分の体内に、その川の水が滲んでくるのを感じることがある。人によっては、その川に溺れる人もいよう。
 若い時期に未知の文化に触れた時の心の震撼や感動は、その人生に大きな影響を及ぼすことがあるし、その後の人生を左右することもある。そのきっかけは、周りの環境による自然の流れの場合もあるし、何気ないふとしたできごとから生まれる時もある。
 それらの、いわゆる魅惑される国や地域や、はたまた街は、フランスやアメリカなどの先進国であったり、エジプトやインドやチベットなどの異文化へであったり、あるいは日本文化のルーツともいえる中国や韓国へ等々、人さまざまで、一期一会とも言える。
 異文化への希求や耽溺は、日本人に限らず他の国の人間でもありうることだろう。ヨーロッパ人がアジアに、あるいはアメリカ人がアフリカに魅了される等々…。
 名も知らなかった国や街に魅了され、そこの土に埋もれた者も、数多(あまた)いよう。

 海老坂武の人生には、フランスの川の支流が流れ込んだようである。彼の人生の回顧譚を読んでいると、フランス抜きでは語れない。
 彼の自伝と言える「<戦後>が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、に続く最後の「祖国より一人の友を」(3作とも岩波書店刊)は、1972年から1989年までを記したものである。

 *

 日本の戦後からの歴史を鑑みると、1972年が一つの転換期と海老坂武は見る。
 それまでは、自分のことを語りながらも、同時代を語っていたという思いが持てていた。考え方や生き方が違っていても、見ている方向や吸う空気が同じだという共通の認識があった。
 しかし、1970年代以降、彼によれば1972年以降、同時代の共有性を持てなくなったと言う。彼の言葉で言えば、「杖を失った時代」になった。「杖」とは、ある者にとっては平和と民主主義であり、ある者は反戦と平和であり、あるものは反戦と変革だった、と。
 海老坂によると、象徴的な例として、雑誌においての「ピア」と「現代思想」の創刊をあげている。これに見られる「おたく」化の流れをあげる。

 振り返ると、1960年代後半における政治の季節は1970年代には終焉を迎えていて、若者を含めて社会に対する感触が大きく変化したのは確かである。
 こうした状況からも、前にも述べているように僕は時代の変節を1970年におきたいと思っていた。
 その最大の要素が、69年の東大安田講堂陥落に象徴される全共闘運動の燃焼と崩壊である。先にも述べた政治の季節の終焉である。
 それに、サブカルチャーとしては、1970年の雑誌「an・an」(アンアン)(平凡出版・現マガジンハウス)の創刊が、新しいファッションの時代を予告した。それまでの「装苑」(文化服装学院出版局)、「ドレスメーキング」(鎌倉書房)、「服装」(婦人生活社)、「若い女性」(講談社)の4誌からファッションという先進性を剥ぎとり、服飾・洋裁雑誌という古い呼び名に押し戻した。
 そして1970年代以降、街も女性もファッション化していく。
 ちなみに「non・no」(ノンノ)(集英社)の創刊は、翌1971年である。

 *

 1972年以降89年までの、時代の主な事項をあげてみよう。
 1973年と79年の二つの石油ショック、75年のベトナム戦争終結、76年に周恩来、毛沢東死去、76年と89年の二つの天安門事件、79年のインドシナ紛争、83年の連続テレビドラマ「おしん」ブーム、85年のソ連においてのゴルバチョフ政権の誕生、86年のチェルノブイリ原発事故、87年の国鉄分割・民営化、89年のベルリンの壁崩壊、などである。

 1970年代、海老坂武は、自分は社会の中で浮いている、漂っている、という意識にとらわれていた、と述懐している。彼は、時代からも社会からも逃げていたと言う。
 海老坂は日本から逃げるように、1972年から1年間、そして75年から2年間フランスに住む。
 フランスを介して、朝吹登水子と、そしてパリに住み始めた社会学者の日高六郎と親しくなる。
 朝吹登水子は、2011年に芥川賞をとった朝吹真理子の大叔母でサガンやボーヴォワールの翻訳家として有名だが、1960年代当時、フランスのファッションを雑誌「装苑」や「ドレスメーキング」などを通して日本に紹介してもいた。
 海老坂は朝吹を通してサルトルにも会うことになる。ジャン・ポール・サルトルは当時の日本の若者にも影響を与えていた実存主義を唱える知識人で、海老坂の生涯の研究テーマともいえる人物である。
 この時代、思想家としては、日本でもミシェル・フーコーの発言が大きくなる。これと同じくして、構造主義なる思想的言葉が出てくる。フーコー自身は、のちにポスト構造主義ととらえられている。
 また、当初建築やデザインにおいて用いられていたポスト・モダンという言葉も、表現方法として多く用いられるようになる。
 海老坂は、このポスト・モダンの広範で曖昧な使用に異議を感じてページを割いているが、僕にはポスト構造主義もポスト・モダンも、何を読んでも隔靴掻痒の思いは消えない。

 1973年、フランスから帰った海老坂は、ひととき、友人であるという高恵美子の笹塚の部屋を使わせてもらったというさりげない記載がある。
 僕の埋もれていた記憶の中から、かつて聞いた高恵美子という姿が浮かび上がってきた。知的で美しかった彼女は、いつしか悲しき死を選んでいた。

 海老坂は料理を作る。僕も、最近は怠け癖がついて外食が多くなったが、ほぼ毎日のように自分で料理を作っている。彼はポ・ト・フーを作っているように、僕と違って本格的のようである。彼は料理について、次のように記している。
 料理は、旅行に似ている。何をどう作るかは、旅の楽しみの計画を練るのに等しい。
 料理は、原稿書きにも似ている。原稿書きもまた、構想から始まる。
 料理はまた、時にセックスに似ているかもしれないとも大胆に言う。端的な言葉で言えば、想像と実現と享受。
 どちらにしろ、料理は独り者、シングル・ライフには必修・必得である。いや、本格的な料理でなくていいのだ。野菜、肉、魚、これらを炒める、煮る、焼く、の組み合わせで、料理らしいものを作ればいいのだ。
 自分で作るのだから、自分がその日に食べたいものを食べられるし、スーパーへ買い物に行くのも楽しみになる。それに、何より栄養のバランスが自分で測れるのがいい。
 外食は、自分で作れないのを頼むようになるし、美味しい店を探すようになる。また、この味付けはどうやって出したのだろうと考えるなど、外食の楽しみも倍増する。

 *

 海老坂武は専門分野だけにとらわれない、広範な読書家である。自伝の中でも、あらゆるジャンルの作家と本が登場する。その中で小説部門をつまんでみると、1970年代後半の当時の若い作家を俎上にあげてもいる。
 村上龍の話題作「限りなく透明に近いブルー」を、僕と同じように、最初はうんざりして読む。つまらないと思ったのは読み違いかもしれないと思い直し再度挑戦するが、思いが好転するには至らない。
 三田誠広の「僕って何」は、<何となく>小説の印象だ。同感。
 70年代後半の小説として彼が評価したのは、中上健次の「枯木灘」である。そして、宮本輝の「泥の河」。
 70年代末から80年代初頭にかけて才気を感じた作品として、中沢けいの「海を感じる時」と松浦理恵子の「葬儀の日」をあげている。
 そして、アイデア小説として、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」、島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」を記す。
 また、今は名前を聞かなくなった桐山襲の「パルチザン伝説」と、海老坂と同年代の池田満寿夫の芥川賞を受賞した「エーゲ海に捧ぐ」を特記している。
 海老坂は、池田の作品に感動を覚えなかったと書いているが、僕は国際的な版画家が書いたその小説の巧さと感性に衝撃を受けた。その後、池田満寿夫は自分の小説と同名の「エーゲ海に捧ぐ」(1979年)、「窓からローマが見える」(1982年)を自身が監督として映画化したように、多才な人だった。
 「エーゲ海に捧ぐ」では、のちにイタリアの国会議員になって話題になったポルノ女優のチチョリーナが出演した。「窓からローマが見える」で主演した中山貴美子が、タレントのあびる優の母親になっていたと最近知った。
 僕は雑誌編集者時代に池田にインタビューしたことがあるが、気さくな人だった。

 *

 海老坂武は潔く率直な人である、と思う。そして、まじめな人だとも。僕が海老坂を最も人間的に好もしくと思ったところは、彼の書く予定だった「半生活」論の記述の部分だ。
 彼は、自分を、「表社会の目には、まったくまともな市民生活を送っている人間に映ったはずである」と述べる。
 「大学の教師をしてきちんと給料をもらい、税金をきちんと払い、借家ではあるが決まった住居に住まい(注:その後、彼はマンションを買うが)、家族や犬はいないが冷蔵庫も食器もあり、法律はきちんと守っているかどうかは別として法律に引っかかるような悪事は働いていない。」
 表面的には、普通の生活人である。もちろん、僕も会社(出版社)勤めの頃はそうだった。
 「しかし、私はまじめなものが大嫌いだった」と、まじめな彼は言うのだ。
 「小さいころから、まじめな同級生、まじめな優等生を馬鹿にしていた。あれだけまじめに勉強すれば出来るのは当たり前じゃないか」、と。
 「まじめなものの反対は何か。それは野球であり恋愛であり旅であり文学だった。それは結局のところ生活に通じていかない遊びだった。」
 彼は、これらのまじめでないもの、つまり遊びをまじめにやる。そして、普通の人が営む生活に根ざすということを嫌う。
 「というわけで、<根を持つこと>という言葉が私は大嫌いだった。お前には生活がない、生活の根がない、こういう言葉を吐く人間をどんなに軽蔑したことだろう。彼らは、サルトルの言う<ろくでなし>だった。」
 人生を遊びのように過ごす。それができることは、素敵なことだ。

 野球も好きだがそれは脇に置くとして、僕も好きなのは恋愛であり、旅であり、文学である。これらは海老坂の言葉で言えば遊びなのか?
 そう、遊びなのだ。生活に根ざさない遊びが僕も好きなのだ。
 しかし、どんな人生とて、うまくいくことは稀だろう、と思う。生活に根ざさない人生も、生活に根ざした人生も、茨(いばら)はある。遊びもまじめにやれば、辛いことも多いはずだ。

 1985年末に、「半生活」論を発展させた形ともいえる、海老坂武の「シングル・ライフ」(中央公論社)が出版され、それが翌年になって、それまでは地味な物書きとしての彼としては異例の売れ行きを見る。
 このことによって、彼の活動ジャンルは広がり、それまでとは毛色の違った人間である桐嶋洋子や宮本美智子とも交友ができる。「シングル・ライフ」によって読者層が広がり、世間の見る目も変わったに違いない。
 →「シングル・ライフ」に関しては、ブログ6月13日「海老坂武の世界①なしくずし未婚の予感、「シングル・ライフ」の時代」を参照。

 「シングル・ライフ」への興味から20数年を経て、海老坂武の自伝の反芻は、戦後の時代の生きいきとした息吹きを再生させてくれたと同時に、僕自身の青春を蘇生させてもくれた。
 海老坂武は、今でも裏切らずに(失礼)、「シングル・ライフ」を謳歌していると聞く。
 老境に達した(老境なんてクソくらえと言った心境にしろ)、老いてなお「シングル・ライフ」なる人生観を読んでみたい。

 *

 海老坂武は、山口文憲と親しく、一時期二人でパリのガイドブックを出版しようと計画したと書いている。
 その企画は実現することなく、そのあと玉村豊男が「パリ旅の雑学ノート」を出版し、このあと玉村はエッセイストとして売れっ子になり、今では長野でブドウ園を持ちワインを造っている。
 山口文憲は、パリ在住のあと香港滞在をもとにして「香港旅の雑学ノート」を出版し、彼もまたエッセイストとして活躍するようになる。その山口文憲は、韓流など予想もされない時代に「ソウルの練習問題」で注目を集めた関川夏央と親しく、共著も多い。
 この山口文憲も関川夏央も、シングル・ライフである(夏川は若いとき一時結婚歴あり)。そして、共通するのは旅が好きだと言うことである。


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海老坂武の世界③ 1968年前後は、「かくも激しき希望の歳月」

2012-07-01 01:38:26 | 本/小説:日本
 昭和31年(1956年)版の経済白書において、「もはや戦後ではない」と宣言したように、日本は戦後のよちよち歩きから著しい経済成長を遂げていた。そして、1960年代、さらなる成長、変革の時代へと向かっていた。
 そんな日本の1960年代後半は、政治の季節といっていい。そして、あらゆる面で激動の季節であった。情熱のほとばしり出た、青春の時代と言ってもいいだろう。いや、政治の季節は日本だけではなかった。変革はあらゆるところで起こっていた。
 1966年、ビートルズがやって来た。やがて、彼らに影響を受けたGS(グループサウンズ)が日本の若者の心をとらえた一方、由紀さおりの「1969」を振り返るまでもなく、日本の歌謡曲の全盛期がやってくる。
 映画では、フランスのヌーヴェル・ヴァーグが日本にも押し寄せ、アンダーグランドとともに、映画も芝居も先鋭化していった。
 大学では、学生運動が一部の学生と見られていたのが、1968年ごろから全国の大学に全共闘運動の火が広がり、69年には東大安田講堂が戦火に燃える。アメリカによるベトナム戦争は泥沼化をたどっていて、海のかなたのフランスでは1968年、学生を中心に五月革命がおこり、中国では文化大革命が起こっていた。
 戦後の高度経済成長のもと、60年代後半に昭和元禄と言われた日本の好景気は、何事もなく過ぎ去った70年安保とは裏腹に、その年の大阪万博に沸き、やがて1972年の田中角栄の「日本列島改造論」へと引き継がれていく。
 政治の季節が終わった後、アンノン族と呼ばれる若い女性が、全国の小京都である「わたしの城下町」で多く見受けられるようになる。

 →「由紀さおりが歌う1969年という時代」(ブログ「かりそめの旅」2012年3月5日参照)

 *

 海老坂武著の「かくも激しき希望の歳月 1966~1972」(岩波書店刊)は、著者の「<戦後>が若かった頃」に次ぐ自伝であるが、時代そのものの歴史の描写といっていい。
 戦後、日本が激しく揺れ、躍動したと思える、1966(昭和41)年から1972(昭和47)年までの時代史である。
 1966年、フランスの留学から帰ってきた海老坂は、一橋大学でフランス語の教師として社会人の一歩を踏み出す。
 時代は、政治の季節を迎えたところであった。特に大学ではどこの大学でも、学部に関係なく政治の嵐が吹きぬけようとしていた。
 フランスのサルトルは実存主義者として広く政治的発言も含めて発信していて、日本でも学生を中心に人気もあり影響力も小さくはなかった。当時の日本の知識人も、彼らに影響されてか積極的に発言していた。
 海老坂は一貫してサルトルを研究し、彼の著作の翻訳も行うようになる。日本に帰ってきて、フランス呆けに浸る間もなく、時代の大きな揺れに海老坂も突入していくことになる。

 大きな波の一つの根源は、アメリカによるベトナム戦争だった。
 ベトナム反戦運動は、アメリカにとどまらず、全世界の若者に広がっていく。日本では、学生運動の各派(三派系全学連とも呼ばれた)が取り組んでいくが、1965年、「何でも見てやろう」の小田実が代表となって「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が立ちあがっていた。海老坂の東大仏文の同級生の小中陽太郎もスポークスマンの役割で参加していた。
 この時期、中国では文化大革命が起こっていた。
 文化人の自己批判、プチブル思想に対する批判・攻撃や、紅衛兵という若者たちが先鋭化しているなどが細切れに報道されたが、実際海の向こうで何が行われているかはっきりしなかった。しかし、彼らが唱えた[造反有理]という言葉が、何か意味を持たせていた。
 毛沢東率いる中国共産党は、すでに第二次世界大戦後中国を社会主義国家として誕生させていたが、それが政治革命とすれば、社会主義体制を徹底化させるために、第2弾の文化革命をやっているのかと思わせた。しかし、それは政治を包有する権力闘争だと判明されるのは、ずっと後になってからだ。
 1967年、キューバ革命の戦士チェ・ゲバラが殺された。彼は、カストロよりも人気があったといっていい。
 1958年、フランスで五月革命がおこる。
 当然海老坂は、この五月革命の報道・発言資料を貪り、日本における代弁者の役割を行う。

 1967年10月、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の抗議行動が羽田で起こった。世にいう羽田闘争だが、このデモ隊の中に海老坂はいた。この闘争のなかで、京大生の山崎博昭君が死んだ。
 この年、アメリカの航空母艦の水兵4人が脱走し、その支援をベ平連が発表した。ベ平連が新しい一歩を踏み出したときであった。僕はこの本を読むまで知らなかったのだが、海老坂もこの支援運動にかかわっていた。
 彼に、運動を通して知っていた吉岡忍(現ノンフィクション作家)に、脱走兵をあずかってくれる場所(住み家)の相談を受ける。
 このように、彼は脱走兵支援運動にかかわって持続的に活動する。
 1969年には、全共闘がたてこもり機動隊と対峙したあの安田講堂の闘争が起こる。
 この東大闘争に対する学校の対応に抗議した、大学教師・文化人による「国家暴力の秩序から東大の解放を」という声明文が発表されるが、その原案を海老坂が書いている。
 安田講堂以後も、全共闘はセクトの対立など緊迫した状況は続いていた。そんな中で、彼は頼まれて、全共闘の学生を自分の部屋に数日間かくまうということもやっている。
 脱走兵や全共闘学生の支援の描写は、川本三郎の「マイ・バック・ページ」(2011年、妻夫木聡、松山ケンイチ主演で映画化もされた)を思わせて、まるで小説のようである。
 時代は政治の季節でエネルギッシュに躍動していたが、海老坂もその最中にいたのだ。
 この時代の情報源として、彼は「朝日ジャーナル」をあげている。川本も、この「朝日ジャーナル」の編集部にいた。
 1970年、三島由紀夫、翌71年、高橋和己の死を、本書で特別の感情で記している。

 *

 フランス滞在中の1966年、海老坂はジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を観る。彼はこのことを記している。
 この映画は、主人公フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)が、風呂に入りながらベラスケスについて記した文を読んでいるところから始まる。
 「彼が生きている世界は暗かった。堕落した王、病んだ子供たち…、何人かの道化たちは貴公子然とふるまい、自分自身を笑い、そうすることによってこの世の無法者たちを笑わせることを仕事としていた。…ベラスケスは夕べの画家だ。ひろがりとしじまの画家だ…」
 海老坂はつぶやく。「そうか、この映画は道化の世界を描いた作品なのか、そうだ、道化のピエロと言うではないか、そう思いながら私はこの映画を観ていた」と。
 僕(筆者)が最も好きな映画が、この「気狂いピエロ」である。しかし、長いことなぜベラスケスの絵の解説から入るのかわからなかったが、道化が入り口だったのだ。僕は、宮廷内での王女をとりまく官女たちを描いたベラスケスの「ラス・メニーナス」を思い浮かべた。絵の中に自分を登場させて、冷ややかに宮廷を見つめるベラスケスの最高傑作だ。この絵を絵画史上最高傑作と言う人もいる。
 「気狂いピエロ」の主人公フェルディナンは、ベラスケスの絵の中の宮廷における道化だったのだ。

 映画に関しては、海老坂は「A・T・Gの時代」と称して、彼が映画青年でもあったことを記している。 A・T・Gとは、日本アート・シアター・ギルドの略で、純度の高い芸術映画を紹介した劇場で、のちに独自に映画製作も行った。
 日本A・T・Gの幕開けは、1962年のポーランドの監督カワレロウィッチの「尼僧ヨアンナ」であった。その後、数多くの海外の話題作、ヌーヴェル・ヴァーグ作品を上映した。そして、1000万円映画と称される低製作費の映画製作に乗り出し、60年代後半から70年代には、大島渚、吉田喜重、黒木和夫、実相寺昭雄などによる話題作を多く世に送り出した。
 海老坂は、フランスから帰国した後1966年から、再度渡仏するまでの72年まで、すべての上映作品を観ていると記している。
 このアート・シアター発行のパンフレットの内容が充実していて、彼はこの100円のパンフレットを気に入った映画は買ったとして、今も保存している11冊をあげている。そのなかには、僕も観た「初恋・地獄篇」、「新宿泥棒日記」、「エロス+虐殺」、「儀式」、「あらかじめ失われた恋人たちよ」、「告白的女優論」がある。
 僕も学生時代に新宿アート・シアターに足しげく通った。
 僕はアート・シアターのパンフレットを16冊保存している。それらをあげてみると、海外作品では、 「野いちご」、「女ともだち」、「去年マリエンバートで」、「パサジェルカ」、「81/2」、「男性・女性」、そして、「気狂いピエロ」がある。
 国内作品では、「とべない沈黙」、「初恋・地獄篇」、「戒厳令」、「賛歌」、「音楽」、「キャロル」、それに実相寺昭雄作品の「無常」、「曼荼羅」、「哥」である。
 映画文化に関しては、60年代から70年代にかけて、確かに「A・T・Gの時代」というものがあった。

 海老坂武の「かくも激しき希望の歳月 1966~1972」を読んでいると、年齢は違えど、その時代の息吹がよみがえってくる。本書の中には、有名、無名の多くの人物が登場するが、僕もほとんど知っている名前だ。
 彼のいうところの、時代の言葉の空間が濃密で、誰もがどっぷりとつかっていたということであろうか。しかも、海老坂は時代にどっぷりと、しかも最先端で生きていたのを知った。
 この本の最後に、1970年、71年、お前は何をしていたのかと問われれば、彼も「恋をしていた」と答えている。しかも、相手は人妻であると。
 「政治の季節」のあとは、「恋の季節」なのである。
 「あとがき」には、シャンソンの「さくらんぼうの実る頃」の詩をあげて、この本のタイトルを「さくらんぼうの実る頃」と題してもよかったと、やっとセンチメンタルなことを書いている。僕も、固い題名よりその方が好きだ。その方が、フランスかぶれらしいのだ。

 「わたしはいつまでも愛するだろう さくらんぼうの季節と 心に残っている思い出を」

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