かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 雪に願うこと

2010-01-28 03:14:41 | 映画:日本映画
 鳴海章原作 根岸吉太郎監督 伊勢谷友介 佐藤浩市 小泉今日子 吹石一恵 草笛光子 2006年

 去年(2009年)、根岸吉太郎の名前を久々に聞いた。映画「ヴィヨンの妻」(太宰治作、浅野忠信、松たか子主演)が、モントリオール世界映画祭の最優秀監督賞を受賞したとの報道である。

 根岸吉太郎が注目されたのは、日活ロマンポルノを撮っていた彼の、初めての一般映画「遠雷」(1981年)によってである。立松和平原作のこのATG映画は、東京近郊の農業に携わる若者を描いたもので、若々しいエネルギーに溢れていた。
 根岸吉太郎も立松和平もまだ若く、映画も原作の小説も彼らの代表作となった。その後根岸は「探偵物語」などを撮るが、この作品を超えるものがなかったと言うことであろう。
 それに、主演した永島敏行と石田えりもこの映画で一躍脚光を浴びることとなった。
 しかし、僕が注目したのは、この映画に出演していた横山リエという、ちょっと蓮っ葉な感じの女優だった。彼女は、すでに大島渚の「新宿泥棒日記」(1969年)で、横尾忠則と共演するなど、その特殊なキャラクターで知る人ぞ知る存在だった。

 *

 学生生活も後半になってきた頃、僕たちは何になろうか、どの方向へ進むべきかと、混沌とした中で模索していた。夢はどんな風にでもあったし、反対に挫折や蹉跌も隣り合わせにあった。
 いつも、僕たちは何になるというあてもなく、いつしか映画館に足が向いていたし、煙草の煙をまき散らしながら、薄暗い喫茶店で何かについて喋っていた。
 金もなく、未来に対する定かなる約束手形など何も手にしていないとはいえ、若さというものはあるときは無定見に、前に向かって歩き出すものだ。
 学生運動にも見切りをつけた僕の友人は、新劇の劇団に入り演出助手となり、学校にもあまり来なくなった。
 その劇団が栗田勇作「愛奴」という芝居をやった。友人に誘われて六本木の俳優座劇場で見たその芝居は、僕を陶酔させた。いやその前に、僕の友人もその作品に陶酔していた。
 若い男(学生)の妄想とも現実ともつかないその物語は、幻想的でエロチックで文学的でさえあった。
 今でも思い出す。幕が開くと、主人公の青年(斎木)が宙に向かって、呟くように叫ぶ。
 「もう二度と、あの女、愛奴に会えないのだろうか。あの肉の快楽(けらく)、いやいや、魂の愛…」
 愛奴を演じた当時早稲田の学生だった金沢優子は、たちまち僕たちの間のヒロインとなった。
 スタッフを見ると、演出・江田和雄、美術・金森馨、音楽・一柳慧、衣装・コシノ・ジュンコ、ヘアーデザイン・伊藤五郎と、当時錚々たるメンバーだった。

 僕の友人は「愛奴」の劇団人間座から劇団青俳に移った。
 その劇団に横山エリがいた。
 劇団では目立たなかったが、その後映画では異彩を放った。大島渚「新宿泥棒日記」のあと、斎藤耕一「旅の重さ」、藤田敏八「赤ちょうちん」、若松孝二「天使の恍惚」などに出演した。
 そして、根岸吉太郎監督の「遠雷」で、彼女は脇役ながらその存在感を見せていた。

 それから大分たって、ふらりと入った新宿三丁目のバーで横山エリと会った。彼女は、カウンターの中にいて、妹とその店をやっていた。
 僕の友人は、その後芝居ではメシが食えないと言って芝居をやめ、学者になるべく大学院に行った。そして、今は大学で教師をしている。

 *

 根岸吉太郎の「雪に願うこと」は、ばんえい競馬を舞台にした物語である。
 ばんえい競争とは、北海道だけで行われている、ソリなどを引きながら行われる競馬である。一般の競馬であるサラブレッドのスマートさと違い、がっちりずんぐりした馬が、速さばかりでなく、小高く山を作った障害物を乗り越える力比べ競争でもある。
 一般競馬が、短距離スプリンターのボルトやグリーンとすれば、ばんえい競馬は、相撲の魁皇や朝青龍などが荷を担いで走るようなものである。
 この映画の公開時、時を同じくして、ばんえい競争が行われていた旭川、北見、岩見沢市の、赤字によるばんえい競馬撤退が発表された。かろうじて、帯広市だけが残った格好である
 その帯広のばんえい競馬が舞台である。

 東京で事業に失敗し、すべてを失って借金を背負った矢崎学(伊勢谷友介)は、逃げるように故郷の帯広に帰ってきた。13年ぶりとなる故郷では、兄(佐藤浩市)がばんえい競馬の厩舎をほそぼそと経営していた。
 そこにしばらくやっかいになることになる学は、厩舎の人たちや馬と生活を共にするうちに、次第にその空気に溶けこんでいく。
 映画では、ばんえい馬の飼育や関係者の生活ぶりが丹念に描かれる。馬の吐く白い息が、寒さを超えて温かさを伝える。
 ここで、サラブレッドの競争にはいない女性ジョッキーがいることを知った。その女性ジョッキーを、吹石一恵が健気に演じている。
 学が、施設に入っているという母(草笛光子)に会いに行く場面がある。久しぶりに会った母は、息子に対して、「どなたか存じませんが、私の息子は国立大学を出て、今では会社の社長になって、忙しくて戻って来られないのですが…」と、息子の自慢をするのだった。
 その場面は、息子ならずとも胸がつまる思いがする。

 自分になついた馬が競走に走る日、その結果を待たずに学は帯広を出て東京へ向かう。あてもないのだが、再びスタートラインに立つために。

 この映画で、世界で帯広だけに在る、ばんえい競馬の実態を初めて知った。
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□ うたかたの

2010-01-23 00:01:33 | 本/小説:日本
 永井路子著 文藝春秋

 「うたかた」を漢字で書けば、「泡沫」となる。つまり、あわである。
 「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」(方丈記)のように、はかないものとして言い表わされてきた。
 「あわ」と言えば味も素っ気もないが、「うたかた」と言えば、そこも物語が滲んでいるようにすら思える。
 「うたかたの恋」といえば、何度か映画にもなった、19世紀末、ハプスブルグ家オーストリア皇太子と男爵令嬢との悲恋物語である。
 森鴎外の「うたかたの記」も、「舞姫」に共通する儚さがテーマである。

 ある日、文庫本、永井路子著「うたかたの」が目についた。懐かしい感じがしたので、手に取った。単行本は1993年に発行されていて、そのとき読んでいて、この小説の最後に、ちらと主人公が漏らしたひと言がずっと残っていた。
 それは、「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」という言葉である。
 気になったとはいえ、当時、それがどのような意味を持っているかの実感はなかったと言える。

 本書「うたかたの」は、6編かの短編によってなっている。つまり連作なのだが、読んでいても初めはそうとは気がつかない。主人公の名前は違うし、各々別個に独立している物語なのだ。最後まで連作とは気がつかないかもしれないし、作者はそれはそれでいいと、あとがきで書いている。
 江戸後期、儒学を学ぶ下級武士が主人公である。
 儒学を勉強する、ある地方の利発な若者には相思の女性がいる。しかし男は、このままこの地方で埋もれるわけにはいかないという夢と野心を胸に、周囲を無視して江戸へ発ってしまう。
 この男はどうなるのだろう、そして女はどうするのだろうと、疑問を持たせたまま初編の「寒椿」は終わる。
 いつの時代でも男は、夢を持っているものだ。そして、都会を舞台に活動したいと思う。自分に自信があればなおさらだ。

 しかし、小説の次の編では、名前も違う主人公で少し年齢を重ねている。共通するのは儒学を学ぶ武士である。
 いつの時代でも、自分の思うように、ことは進まない。田舎の秀才が都会で通用しない例は、いくらでもある。
 この主人公も、その夢とも野心ともつかない志は、いつの間にか躓くのだった。そして、追われる身となる。
 小説は、主人公を少しずつ年をとらせている。そして、その男の近くには、彼に関係、あるいは関心を持つ女が登場する。ゆきずりの恋、あるいはうたかたの恋心が漂う。
 各編によって、女は年齢も立場もまちまちだが、男と女の微妙な関係が、余韻を持って描かれている。
 物語の主人公は、野望を持った血気盛んな青年から、年をとるにしたがって、次第に素性は謎めいているが、達観した男になっていく。
 舞台は江戸であったり、地方であったりと変わる。そして、男にとってその場は仮の宿のごとく、いつの間にかそこからいなくなってしまう。まるで、うたかたのように、である。

 教養と矜持が香りたっている男だが、うたかたのような、はかない根無し草ではぐれ雲なのだ。いや、いつしかそうなったのだ。
 そして、男は呟くのだ。
 「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」と。
 作者は、「暇つぶしなら、退屈しのぎでしょう」と、物語の中で質問させる。
 「いや、違う。退屈しのぎは一時のことだ。たまたま暇ができたのを埋め合わせするだけにすぎぬ。俺がいうのは、生まれてから死ぬまでのことだ。長いぞ、これは。覚悟を据えて暇つぶしせねばならん。退屈をもてあましてなどはおられんのよ」
 そして、男は言葉を続けるのである。
 「俺もな、若いうちはそれには思い及ばなかった。俺にもできることがある、いや俺にしかできぬことがある、と意気込みもした。どうしてもやりとげるぞ、とむきになったこともある。が、いろいろのことがあって、ようやくむきになることの愚かさに気づいたのさ。
 めざすものはこれだ、とその成否だけで計ってはいかんのよ。そういうことから心をほどくんだな。すると、なにかが見えてくる。むきになったあの頃を徒労とは思わぬが、ゆきずりの人とも触れあいも、俺にとっては、同じほどに心にしみることだった、とわかったのさ。それからさ、死ぬまでの命を見極め、ゆっくり暇つぶしをする、と肚(はら)を決めたのは」

 死ぬまでの暇つぶしは難しい。
 僕も馬齢を重ねただけで、少し分かったようで、まだ分からない。
 ゆきずりの人との触れあいは、心にしみることではあったが。

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◇ プラダを着た悪魔

2010-01-17 03:04:56 | 映画:外国映画
 デヴィッド・フランケル監督 メリル・ストリープ アン・ハサウェイ エミリー・ブント スタンリー・トゥッチ エイドリアン・グレニアー 2006年米

 自分のなりたい職業に就ける人は僥倖である。すんなり就ける人は、滅多にいないと言っていい。
 なりたい職業、仕事に就けなくても、人はそれなりにそれに近い環境を求め、それに近い仕事に就くものだ。そして、いつしかそこから脱却しよう、あるいは階段を上がり、自分のいるべき場所に行き着きたいと思う。

 ジャーナリストになりたいと思っているアンディー(アン・ハサウェイ)は、期せずして有名なファッション誌の出版会社に勤めることになる。彼女は、あくまでもジャーナリスト志望だから、ファッション誌に携わったからといって、ファッションが好きなわけでもない。しかし、それはジャーナリストへの第一歩である、と考えている。
 仕事は、業界でも顔で発言力のあるカリスマ編集長のアシスタント。
 そのカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、悪魔のような女性だった。仕事の命令はおろかプライベートの指図も、絶対守らなければいけなく、それが守れなくて辞めたアシスタントは数知れないのだった。
 ミランダは、分刻みの生活をしていて、仕事の指示は的確で、1度言ったらそれ以上言わないので、それを聞き逃してはならないのだった。どんな無理難題でも、できないとその瞬間から落第、無能の烙印が押されるのだった。それは、例えコーヒー一杯でも、言われた時間に彼女の前に持っていかないといけないのだった。
 ファッション雑誌は、企画、取材、撮影、デザイン・レイアウト、コピー(ネーム)、編集ページ構成、と次々と仕事の流れが押し迫ってくる。雑誌の発売日は決まっていて、締め切りは固定されているので、そうそう仕事は延ばすことはできないのだ。
 それでも、編集長が気に入らない取材や撮影をしてきたら、やり直しの命令が下る。30万ドルの経費をかけて、撮り直すこともあった。そのことに何の意味があるかと、問うてはならない世界なのだ。
 ファッションとは無縁の野暮な服装をしたアンディーは、我慢と忍耐をしてミランダについていく。華やかな世界の裏では、過酷な競争が渦巻く世界であった。
 やがて、彼女の平凡でチープな服装もブランドものに変わり、仕事のスピードにも馴れていく。
 そして、ついに、編集者として認められたとも言える、編集長ミランダと一緒にパリ・コレクションの取材に同行することになったのだった。

 原作は、ファッション雑誌「ヴォーグ」の編集アシスタントだったローレン・ワイズバーガーの体験をもとにした同名小説である。

 *

 「サン・ミッシェルの新しいホテルで目を覚ました。外は少し騒がしいが、この喧噪さはこの街の特徴でもある。窓の外を見ると、絹のような細い雨が降っている。
 午後は、多くのオートクチュールの店が集まっているフォーブル・サントノーレへ行った。 数々のクチュリエやクチュリエールが生まれ育ったところだ。
 出版社に入社したて、私はファッション誌に配属された。春と秋のパリ・コレクションが発表される時期には、今シーズンのサン・ローランはどうの新しいシャネルはこうのと、編集部はいつも大騒ぎだった。その頃、私はフォーブル・サントノーレなどは別の世界のことと思っていた。
 オートクチュールの高級店が並ぶフォーブル・サントノーレを歩いたが、やはり私には身近な存在には思えなかった。」
 ――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章「初めての旅、パリ」より

 僕もまた、「プラダを着た悪魔」の主人公アンディーと同じく、学校を卒業すると、ファッション誌の編集者として出版社に勤めることになった。
 自分のやりたいことはほかにあったが、そんなことを言ういとまはないし、社会に出たばかりの若造にその実力もない。自分のやるべき仕事は別のことだと思いながら、僕はファッション業界の中に身を委ねていた。不満はどこにでもあるものだ。また、それがエネルギーに転化する場合もある。
 
 「1968年」が学生運動の分岐点として、近年若手を含めた評論家の間で論議が華やかだし、この時代を扱った本が何冊か出版された。閉塞感の漂う時代には、活気溢れた時代の、回顧だけではなくそのエネルギーの根源を知りたいのだ。
 当時の学生運動の流れは日本だけでなく世界的潮流であったし、1968年、フランスでは学生を中心とした5月革命が起こっている。
 
 学生運動と同時に、この時代は日本のファッションも大きなうねりのただ中にいた。
 当時、日本のファッションの牽引者は、ドレメ・文化の2大洋裁学校の先生たちから独立したデザイナーに移りつつあった。すでに森英恵、芦田淳はトップを走っていたし、三宅一生、コシノ・ジュンコ、やまもと寛斎、高田賢三などが若手として脚光を浴びていた。
 日本のファッション産業は、オーダーメイドから既製服に急速に移行する過程にあったし、原宿や青山に新しいファッション・スポットであるブティックが生まれていた。
 立木義浩、篠山紀信、沢渡朔などが雑誌の写真を撮り、モデルでは沙羅マリエ、トミー武部、丁秀芬、加藤昌代・直代、山中真弓、小泉一十三などが誌面を飾った。(写真)
 編集室は、撮影のための服や小物で埋まっていた。
 日本のファッション出版業界も、スケールの違いこそあれ、この映画「プラダを着た悪魔」の世界に近い。
 編集長のひと言で、撮影の取り直しが行われたし、ストレスや過労で辞めていった人も多い。鬼の編集長とて、販売部数の動向には気を張り巡らした。
 また、春秋年2回のパリ・コレクションは大きな影響力を持っていた。「パリ・コレ」と、編集スタッフは憧憬を滲ませて語った。シャネルもサン・ローランも、別世界のスターだった。
 ファッションは、成熟していなかったにせよ、今どきの「カワイイ」と表現されるほど幼稚ではなく、社会の表象現象であったと同時に文化の担い手でもあった。
 と言っても、移りゆき、虚しく流されゆくのもファッションの宿命であった。
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上海への旅⑰ 現代の「上海ベイビー」

2010-01-12 03:07:32 | * 上海への旅
 成長する都市は人をひきつけ、多彩な才能を生み出す。
 アヘン戦争以後、上海は西洋の租界地となり、今日の上海の元になる街となる。約150年前、小さな平凡な街であった上海は、西洋への開港と同時に大きな変化をとげていったのだ。
 幸か不幸か東洋の真ん中に、西洋のような都市が出現したのである。街には当時西洋の先端の建築スタイルが出現し、夜ともなればナイトクラブでは華やかなショーや音楽が演奏された。
 この東洋とも西洋ともつかない港町の魅力に惹かれ、様々な人間が入り込むようになる。
 そして、上海はいつしか「魔都」と呼ばれるようになる。
 詩人、金子光晴が最初に上海に行ったのは、今の外灘(バンド)に高層建築群が並び立った頃の1926(大正15)年のことである。その後、妻森美千代の不倫による三角関係を清算するために、2人はアジアへ、そしてパリへとあてのない旅に出発する。その旅はかれこれ7年にも及んだのだが、まず初めに上陸したのが、魔都・上海であった。

 「いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスが違って、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった」
 「このときの上海ゆきは、また、私にとって、ふさがれていた前面の壁が崩れて、ぽっかりと穴が開き、外の風がどっとふきこんできたような、すばらしい解放感であった。狭いところへ迷いこんで身動きがならなくなっていた日本での生活を、一夜の行程でも離れた場所から眺めて反省する余裕をもつことができたことは、それからの私の人生の、表情を変えるほどの大きな出来事である。青かった海のいろが、朝目をさまして、洪水の濁流のような、黄濁いろに変わって水平線まで盛りあがっているのを見たとき、咄嗟に私は、「遁れる路がない」とおもった」――「どくろ杯」金子光晴

 (写真は、現在の旧租界地、外灘の夜景)

 *

 上海最後の夜となった。
 10月22日の夕、南京東路の散策から宿泊している旅舎へ戻った。
 2階の奥の僕の部屋に戻るために廊下を曲がると、僕の前の部屋のドアが昼出かけるときと同じように開いているのが見えた。
 開いたドアの部屋の中では、やはり朝いた女性が立っていた。部屋の奥には、クローゼット風のバッグが3つ、きちんと閉まって立ててあった。朝の放り出された衣装の混乱は収まっていた。
 彼女は、壁の前にあるポットの中を何やら箸でかき混ぜていた。
 僕は、やあと声をかけて、何をしているか覗き込んだ。彼女は、にっこり笑って、クッキング中だと言った。彼女はお湯を沸かすポットの中に、麺のようなものを入れて煮ていた。
 旅舎(ホテル)でクッキング中とは変わっているなと思った。まるで長逗留の湯治場のようだ。いや、まるで自分のアパートのようだ。
 僕は部屋に戻って、昨晩買ってきて大きすぎて手に余っていたザボンと葡萄を、デザートにどうぞと持っていった。彼女はありがとうと言って、笑顔がはじけた。人なつこいのは、昼最初に会ったときから知っていた。
 彼女が、あなたは何をしているの?と言うから、しがない物書きだと言ったら、えっとビックリした顔をした。
 そのとき、部屋の電気のヒューズが飛んで電気が消えた。おそらくポットの電熱消費量が多いのだ。
 彼女が誰かに電話すると、若い男がすぐにやって来た。そして、バッテリーのヒューズのスイッチを上げると電気はついた。だが、ポットのコンセントを差し込むとしばらくすると、またヒューズが飛んだ。僕が、コンピューターの電源を抜いたらと言って抜いたが、やはりだめだった。
 男は、どうしたらいいのかなぁといった表情をしていたが、その状況を楽しんでいるかのように見えた。何だか彼女ととても砕けた感じだったので、僕が彼に、彼女の恋人なのと言ってみた。すると、彼はにやりと笑って、それだと僕はとても幸せだと、さらににやけた顔になった。
 彼女は、彼はこの旅舎のスタッフなのと言った。
 そうか、男はスタッフなのか、それにしては彼女と馴れ馴れしいなと思った。まるでずっと以前からの恋人か友だちのような態度ではないか。
 彼女は、ポットを使うのを諦めることに落ち着いたようだ。
 男が未練がましく出ていったあと、僕はこれから夕食に行くつもりだが、君も食べていないようだったら、一緒に行かないかと誘った。この近くにとてもフレンドリーにしている食堂があり、小さくてきれいな店ではないが、そこへ行かないか、と。
 すると、彼女は「私はシャイだから」と、思わぬ返事をした。
 「君は、中国語を話せるじゃないか」と言うと、彼女はすぐに、ちょっと待ってと言ってクローゼットの役割をしているバッグを開いて、中から服を選び出した。
 それまで彼女は丸首のTシャツで、下を向くとふくよかな胸がいやでも目立ったのだった。
 彼女はTシャツの上にジーンズのブルゾンを着て、首にシルクの柔らかいスカーフを巻き、チェックのハンティングハットを被った。
 この上海娘は、とても粋だ。

 *
 
 2人で、例の西安食堂へ行った。
 彼女は、へえ、この食堂なのといった表情で、珍しげに店の中を見渡した。
 1人旅であるはずの僕が女性の人と来たので、店の人たちは、おや、今日はいつもと違うわねという顔をしたが、いつものようにニコニコと迎えてくれた。
 僕は、店の主人と店の人たちに、僕の泊まっている旅舎の前の部屋の人と紹介した。詰問されたわけではないのに、まるで言い訳をしているみたいに、早口でメモ用紙に部屋の図を書いてまで、説明してしまった。
 彼女も、店には好意を寄せたようだった。
 2人で、注文したのは以下の料理。
 魚香肉絲。肉の細切り炒め、10元。
 蚌(?)油双茄。野菜、茸のトロリ煮、6元。
 酸辣土豆絲。ジャガイモの細切り炒め、6元。
 睥(似字)酒。雪花ビール、4元。2本。
 ご飯。
 計35元。

 シャイだと言った彼女は、主人と中国語でよく喋った。僕は、まったく分からないから置いてきぼりにされた思いになったほどだ。
 朋友である店の主人と、再見と言って別れた。お互い、言葉が通じないもどかしさと寂しさを確認した夜となり、言葉少ない別れとなった。もう、会うこともないに違いないと思った。

 *

 食事を終えて、2人で旅舎に戻った。
 彼女は部屋に戻ると、着ていたブルゾンを脱いで、またTシャツとジーンズのパンツ姿になった。長い手足が印象的だ。
 彼女の部屋で、食事に行く前の話の続きで、ところで君は何をやっているの?と訊いた。彼女は、意外なことに映画の脚本家と言った。そして、出身は北京と言った。
 名前を聞いたら、紙に「風剪清詞」と書いた。中国人の名前にしては奇妙な名前なので、僕が不思議な顔をして、これが名前?とさらに訊いたら、彼女はペンネームだと言って、本名をその下に書いた。
 僕は、では映画のロケか何かで上海に来ているの?と訊いたが、それは不確かだった。今は、この旅舎に宿泊しているのだった。
 僕たちは、中国で巨匠の名をほしいままにしている、北京五輪のイルミネーション演出をした監督のチャン・イーモウはあまり好きでないという話をした。初期の作品である「初恋のきた道」はよかったが。
 好きな監督は誰かと言う僕の質問に、僕の知らない中国人の監督の名を上げた。
 映画にもなった「上海ベイビー」を知っているかと訊いたが、彼女は知らなかった。中国では発禁になった本だから、出回ってはいないのだろう。それに、スノッブな内容の本だし。
 彼女の部屋に若い女性が顔を出したが、お互い「は~い」と言っただけで、また戻っていった。彼女は、この旅舎にいる友だちなのと言った。

 僕が、明日は上海を発って、日本に帰ると言うと、彼女は急に、では2人で写真を撮りましょうと言って、僕の横にすべるように座った。そして、その長い手を伸ばして、僕たち2人に向かってデジカメを向けた。僕たちは、あの高校生がよく並んで撮るようなポーズでにっこり笑ってみた(Vサインまではしないが)。
 恋人は?と訊いてみると、台湾にいると答えた。遠距離恋愛だねと僕は笑った。
彼女は、ここへ何か書いてとノートを取り出してきて、僕の前に開いた。
 そのノートの表紙には、彼女の大人げな雰囲気とは違って、可愛いイラストが描かれていた。ぱらぱらとめくると、ページごとに何やら文字や、主に中国語で英語も交じっていたが、住所やイラストが書かれていた。どうも、彼女の出会いノートのようであった。
 これが、台湾の彼で、これがアメリカにいるボーイフレンドなどと、彼女はページをめくりながら話した。台北にいるという台湾の恋人は中国語で書かれていたので、台湾人らしかった。このリストの中に、日本人はいなかった。
 僕は、このノートの中で、東京のボーイフレンドになるのだろうか。
 台湾の彼と別れたら、東京の男を第1の恋人に昇格させてくれと言って、2人でふざけあった。
 私は何歳に見える?と彼女が訊いたので、僕が24、25歳かなと答えると、そんなに見えるの? 23歳よと、若さを強調したいような顔をした。
 君が脚本家だから、人生を経験していると思ったのでと、少し年を上に言った言い訳をした格好になった。
 君の住所はどこなのと訊くと、住所はここかしら、と言った。そして、この旅舎にすでに3か月いる、北京には住所はないの、と話を続けた。
 そうか、彼女はここに住んでいるに等しいのだ。だから、バッグには大量の衣服が詰め込まれていたし、ポットで自炊のようなことをしていたわけだ。それに、旅舎のスタッフとも顔馴染みなのも道理だ。
 カポーティーの「ティファニーで朝食を」の主人公は、「旅行中traveling」と書いた名刺を持っている、根無し草の魅力的な女性だった。
 彼女は、自由な根無し草なのだ。それに、脚本家もしくは脚本家志望なのだ。
 僕は、小説「上海ベイビー」の主人公(25歳の作家)を思い出した。

 「上海は、1日中どんより靄がかかって、うっとうしいデマといっしょに、租界時代から続く優越感に満ち満ちている。それが、私みたいに敏感でうぬぼれやすい女の子をいつも刺激する。優越感を感じること、そのことに私は愛憎半ばする思いがある」――「上海ベイビー」衛慧

 夜も遅くなったので、僕が再見と言って彼女の部屋を出ると、私はもう少し…と彼女は言って、部屋から小鳥のように出て行った。旅舎のロビーか友人の部屋で、お喋りか何かをして夜更かしするのに違いない。それが、若さというものだ。そして、上海の自由というものだろう。
 彼女は、今という時間と手に入れた自由を、若さの中で堪能しつくそうとしているように見えた。若さというものが、いつか必ず自分から去っていくのを知っていて、だから今にのみ時間を消費し、味わっているようだった。
 僕は1人部屋のベッドに寝転んで、旅舎の上海ベイビーは10年後にはどうしているだろうと思った。脚本を書いているのだろうか?

 *

 翌10月23日、中国国際空港CA915便、11時55分発の飛行機で上海を発った。福岡14時25分着である。

 旅の終わりに感じることは、短い旅でも長い旅でも、辛い旅でも楽しい旅でも、いつの間にか終わってしまった、という惜別の感慨だ。旅はいつも、あっという間の出来事であったように思える。
 まるで、邯鄲の夢のようだ。
 日常は果てしなく続くが、物語に終わりがあるように、旅にも終わりがある。それが、旅の宿命でもある。
 そして、いつしかその記憶も、遠ざかる時間とともに薄くなっていく。
 そんなことがあったかどうかも、誰もが実証し難くなっていくのだ。
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上海への旅⑯ 南京東路の裏の顔

2010-01-07 03:09:39 | * 上海への旅
 上海への旅も終わりに近づいた。
 明日はここを発つ予定だ。
 10月22日、朝旅舎で目をさますと喉が痛い。旅に出る前痛かったのだが、旅の間中、治まっていたのだから幸運だった。
 旅は、密かにアドレナリンを出して、新鮮なエネルギーを体内に与えてくれるのかもしれない。

 朝起きて、昨晩買ったザボンを剥いた。いくら柑橘類好きの僕でも、このボウリングの玉のような大きさでは太刀打ちできそうにない。口にしてみると、酸味も少なくジューシーな水分も少ないので、そう多く食べられない。あとは夜にでも食べようということにして、外へ出ることにした。
 ドアを開けて部屋を出ると、前の部屋のドアが開いていて、中にいる振り向いた女性と目が合った。その若い女性はビックリしたような目を僕に向け、慌てて周りを取り繕おうとした。
 彼女の傍には、腰の高さまである大きなトランクのようなバッグが3個、蓋が大きく開いたまま無造作に立ち置かれていた。バッグは軽いビニール製のようで、派手なデザインだ。そのバッグの周りには、大量の衣服が散乱していた。
 僕は彼女が衣料品の輸入関係の仕事をしていて、仕入れた衣服の整理をしているのだと思った。そういう関係の女性を知っていたからだ。
 ファッション関係のビジネスですか?と英語で訊いた。
 彼女は、いやそうじゃないというようなことを言ったが、よく分からなった。途中まで進んだゲームを、またスタートからやり直しのリセットをされて、途方に暮れているように見えた。
 眼鏡をかけ、後ろで留めた長い髪を背中まで流していた。モデルのように背が高いし、美人だった。
 しかし残念なことに、僕が手伝ってやることはなさそうなので、再見と言って別れた。

 カウンターで、この旅舎を予約してくれたマリさんに、今日で上海の旅は終わりなので電話したが、電話が通じない。昨晩から何度か電話したが連絡が取れないので、諦めて旅舎を出た。もう、昼だ。

 *

 どこへ行くというあてもないので、再び外灘(バンド)へ行くことにした。
 外灘は旧外国人租界地で、古い西洋建築群を見て歩くだけでも飽きない。
 外灘の建築群の通りを歩いたあと、もう昼も大分過ぎたので食堂を探しに歩いた。しかし、この辺りはビル街で食堂がなかなか見つからない。やっと、外見は立派だが中は大衆的な、アンバランスな1軒の食堂を見つけたので入った。
 中では奥のテーブルで、おそらく家族であろうか、店の人がカードをやっていた。昼食時を過ぎた中途半端な時間だから、仕方ない。客は僕以外に1人だけで、うらびれた中年の男客が、窓際で黙ってスープのようなものを飲んでいた。
 僕は、無難に炒飯を頼んだ。値段もごく普通の15元。窓際の訳ありそうな客は、スープを飲み終わったあと、黙って店を出た。料金を払わなかったようだが、店の人もなぜか黙っていた。

 食堂を出たあと、また南京東路へ足が向いた。(写真)
 南京東路は、銀座と新宿が一緒になったような繁華街だ。有名ブランドの看板や電光掲示も目につく。オメガのロゴの横にユニクロまである。きらびやかなウインドウが消費の欲望を誘っている。毛沢東がこの光景を見たら、何と言うだろうか? 経済は政治までも飲み込んでいくのである。
 この通りを歩いていると、いろんな人が声をかけてくる。最も多いのは、トケイ、バッグ、要らない?ロレックスあるよ、の類である。
 こういうのは無視するに限る。

 トイレに行きたくなったので、観光客でなさそうな男性に訊いてみた。彼は考えていたが、あっちと指差した。その方向へ行ってみたが、トイレらしいのはどこにもない。
 さっきトケイは?と言ってきた若い女性が、まだ僕の周りをうろうろして獲物を探していたので、彼女はこの辺りのことは詳しいだろうと思い、トイレを知らないかと訊いてみた。
 彼女は即座に、大通りの路地を入った建物の方を指差し、あのビルの中にあるよと言った。僕がサンキューと言って、その雑居ビルの方に歩いていくと、彼女は走ってきて私が案内すると言って、僕の前をそそくさと歩き出した。僕がいいよと言っても、無視して歩いた。
 そのビルに着くと、すぐにエレベーターがあり、それに乗って12階だと言った。公衆トイレが12階というのも変だと思ったが、ここまで来たら仕方がない。
 エレベーターを降りて、ここだと案内された扉を開けると、なんだ、ピカピカの部屋ではないか。
 入口で黒服の若い男が2人、仰々しく挨拶した。僕を案内したというか誘導した女性が、黒服の男に何やら話している。僕が、トイレは?と申し訳なさそうな小声で言うと、黒服の男があちらですと指差した。そこへ歩いていくと、ずらりと数人の黒服の男が並んで僕に挨拶する。
 おい、おい。僕はトイレを借りに来ただけだぞ。まさか、この前のキャッチ茶館(上海への旅③)のように、キャッチ・トイレじゃあるまいし。
 用を足しトイレを出ると、今度は若い女性が、奥の部屋から数人出てきて、僕を迎えた。女性たちはドレッシーな服を着ていて、一様に美人だ。飛び切り美人だ。
 僕は、女性たちに愛想を振りまくでなく、いやそんなことをしている場合ではないと思い、彼女たちの笑顔を振り切って、急いで出口(入口でもあるが)のところへ行った。
 どう見ても、長居は無用だ。トイレを借りに来ただけの男に、この厚遇は異常だ。
 僕は、黒服たちに、謝々とお礼を言って、すぐに部屋を出た。
 別に黒服たちは、追っては来なかった。しかし、あの部屋は何だったのだろう、とエレベーターを降りながら思った。
 奥の女性たちが出てきた部屋は、各々個室のように区切られていた。部屋にはソファのようなものが見えた。
 あのレベルの美女を揃えているのは高級クラブのようであるが、まだ日も落ちていない夕方である。ちらと見えたソファは足浴屋にある長いソファで、足浴マッサージを謳った高級お水系サービス業か。あるいは、あのちらと見えたソファのようなものは、ベッドだったかもしれないと、妄想をかきたたせた。

 *
 
 再び南京東路に戻り、普通の観光客に戻った。
 普通の観光客らしく、中国茶を売っている店を見つけて入った。様々な茶を並べてある中で目をひいたのが白菊の花の茶で、その菊茶の効用に「情熱解毒」と書いてある。単なる熱でなく情熱である。僕のような男に、少し熱を冷ませというのだろうか。
 買ってみた。
 「情熱解毒」は、正しくは「清熱解毒」とのことであった。

 旅舎に戻ろうかと思って、地下鉄駅に向かって歩き始めた。
 また、若い女性が声をかけてきた。物売りではないようだ。
 彼女が何か言ったが、中国語だから分からない。中国語は話せないと英語で言うと、英語で話しかけてきた。
 若いときの多岐川裕美のような美人で、私たちは二人で旅行しているの、と隣のやはり若い子の方を向いた。隣の女の子もにっこり笑って、二人で頷いた。もう1人の女性も美人で背が高く、2人とも「CanCam」や「JJ」から抜け出たモデルのようだ。
 最初に声をかけてきた積極的な女性が、話を続けてきた。
 「あなたはどこから?」、「トーキョー」
 「私たちは北京から上海に観光に来たの。あなたは?」、「僕も、観光」
 「私たち、日本語を勉強しているところなの」、「そりゃあ、いいね」
 「あなたは1人?」、「そうだよ」
 「だったら、これからお茶飲まない?」
 う~ん、どこかで聞いたような会話だ。これから茶館に連れて行かれるという粗筋かな(上海への旅③)。もう、その手は食わないからね。
 「お茶でなくコーヒーの方がいいね」と、僕はとぼけてみた。
 すると、彼女たちは、「コーヒーでもいいわよ」と言った。
 話が違うな。敵もさるもの、喫茶店がないから茶館にしましょうとか何とか言って、茶館に連れて行かれるのがオチかもと思い、僕は一呼吸おいて答えた。
 「申し訳ない。今日は、あまり時間がないのでやめとくよ」
 上海初日のあのキャッチ茶館の出来事がなかったら、僕は一緒について行っただろう。すると、もっと手ひどい目にあったかもしれない。
 彼女たちと別れて歩きながら、あのまま彼女たちと一緒にお茶を飲みに行って、喫茶店以外のところ、例えば茶館などに行こうとしたら、コーヒーでないとだめだと言い張って、彼女たちの正体を見届ければよかったと、少し後悔した。
 少し、弱気になっている。

 *

 旅舎に戻るため、南京東路から地下鉄2号線に乗った。
 電車に飛び乗り車内の路線図を見ると、旅舎とは逆の方向に行く電車だった。路線図を見ていると、南京西路の先に「静安寺」がある。有名な寺だ。その駅で降りてみた。
 駅から出たすぐのところに、静安寺はあった。もう閉館の時間が過ぎているようで受付の入場券売り場は閉まっていたが、出入り口の扉は半開きになっている。仕方がない。中をのぞき見るだけにした。蘇州の留園と同じだ。
 静安寺は、見た目は堅牢な寺だった。暗くなった静安寺の周りの商店街を歩いて、再び旅舎に戻るために地下鉄に乗った。
 そして、大連路の旅舎に戻った。

 旅舎に戻ると、カウンターで、「若い女性が尋ねてきた」というメッセージが渡された。この旅舎を紹介してくれたが、その後連絡がつかなかったマリさんだ。
 カウンターからマリさんに電話すると、やっと繋がった。彼女は忙しい中やっと時間を見つけ、昼ごろこの旅舎に来て、カウンター受付のスタッフの人から聞いた僕の部屋である50号室まで行ったが、留守だったと言った。
 僕の部屋は40号室である。僕がカウンターのスタッフにそのことを質すと、スタッフはパソコンで照合していたが、すぐにミステークでしたとあっさり詫びた。
 やれ、やれだ。


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