かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

千鳥ヶ淵の桜

2008-03-30 02:14:43 | * 東京とその周辺の散策
 東京の桜の開花が3月23日と発表されたときは、少し早い開花宣言かなと思ったが、今週末はあっという間に満開である。
 この季節、花見をしないと忘れ物をしたという気持ちになってしまう。
 3月29日(土)、かつての同級生たちと恒例の千鳥ヶ淵の花を見に行った。やはり、東京ではここの桜に勝るものはないと思う。

 夕方靖国神社から靖国通りに出てみたら、既に長蛇の列ができていた。「行列のできる花見どころ」である。
 食堂やレストランに並んでまで食べようとは思わないが、この日の千鳥ヶ淵は仕方ない。おそらく来週末には桜は散っているに違いないから、この週末、特にこの日に集中したのだ。
 ということで、九段下から千鳥ヶ淵の入口まで約30分の牛歩となった。
 この行列を見ていて思いだした。昨日(詳しくは3月28日)の朝日新聞朝刊の社会面の下段に、次のような案内広告が出ていたのだ。
 「皇居のお濠 千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました。千代田区」
 この記事を発見したとき、驚いてしまった。何で、何のために千代田区はこんな広告を出したのだろうと。日本各所に桜の名所はあまたあるが、他の桜の名所が広告記事を掲載したというのは聞いたことがない。

 千鳥ヶ淵の桜の美しさは、何はともかく地形を活かした立地条件の良さにある。
 千鳥ヶ淵は、皇居を囲む堀(濠)に沿って続く小径である。小さな小径からなだらかに濠に向かって土手が下りていき、その土手の上を桜の枝が濠に向かってしなだれていく。
 濠には水が湛えてあり、そこには長閑にボートが浮かんでいる。
 濠の向こうは皇居であり、そこもまた桜が咲きほこっているのである。
 ということは、千鳥ヶ淵と皇居の土手が、桜の並木道ならぬ並木堀(濠)を形作っていると言えるのだ。濠に浮かぶボートからは、左右に桜を見ることができるだろう。と言っても、衆人の注目のなかで、ボートに乗る気にはならないが。
 この日、千鳥ヶ淵の桜はまさに満開であった。

 多摩の桜も一斉に咲きはじめた。佐賀の桜も咲きほこっていることだろう。
 日本列島、桜に浮かれる季節である。それも、短い期間である。
 いつの間にか桜は散ってしまう。だから、今年の桜を束の間、目にとどめておこうと思う。
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□ 小説家

2008-03-24 02:28:29 | 本/小説:日本
 勝目梓著 講談社

 作家は晩年になると、どんなジャンルの小説家であろうとも、自分のことを書いてみたくなるものらしい。まったく私小説とは対極にいるような作家でも、そのようだ。いや、だからこそと言うべきか。
 特に性を売り物にしている作家の私生活を見せる様は、生々しく小説以上に臨場感があって面白い。というのも、老いを自覚した作家の自伝風作品は、自分の終幕を自覚しているが故に、明らかに飾りが捨て去られていて、正直に書かれているのがわかるのだ。
 そこには、振り返った過去の恋愛への悔恨と、過去の性愛の誇示と、消えゆく性愛への後ろめたい渇望が織り交ざって披露されることになるので、ことさら興味深い内容になっているのである。
 SMの大御所と目されている団鬼六の作品群を私は読んだことがなかったが、専業のSMから離れた最近の私小説は、まるで青春小説のように初々しい。
 性と暴力を売り物にした勝目梓の作品にも私は触れることなく過ごしてきたが、最近の「老醜の記」が自伝を基にした性の告白記で、初めて手に取ってとても興味深く読んだ。
 (本ブログ=07.5.22  http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/d/20070522 )

 「老醜の記」が初老の現在の愛と性の記だとすると、この「小説家」は、彼のそれ以前の、つまり「老醜の記」に記されている自称最後の恋に至までの半生の足跡である。
 彼の少年期から青年期の炭鉱労働者の時代、そして小説に目覚めて、長崎の炭鉱から駆け落ち上京した小説修業時代、そこから作家として売れっ子になるまでが、彼に関わった女性を絡めて書かれている。
 上京して、「文芸首都」の同人となり、そこで知り合った中上健次、その後、頻繁に教えを請うた森敦への思いが印象的である。
 しかし、何と言っても彼が書きたかったのは、長崎炭鉱時代の関係した女性、最初の妻、駆け落ちして上京した際、彼を支えた恋人、さらに再婚した別の女性であろう。
 彼が愛した女性たちは、別々の小説のように区切られて独立しているのではなく、鎖のように重なり合って関連しているのが、彼の特徴的生き様であろう。
 いや、多くの人生が、愛と性は絡み合いながら展開しているに違いない。だから、愛に修羅場はつきものなのである。
 
 老いたからといって、静かに仙人のように生きていくことは、なかなかできないものである。不惑とは40歳だが、孔子のようにはいかない。
 残念なことだが、男はいつになっても惑ってばかりである。
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通り過ぎた絵画への想い

2008-03-21 18:49:47 | 気まぐれな日々
 九州の片田舎の中学時代、毎週朝礼(朝会)というのがあった。薄れかけた記憶をたどり寄せてみると、月曜の朝が全校(生徒)朝礼で、木曜あたりに学年(別)朝礼があった。全員運動場に集合し、立ったまま黙って教員の話を聞いた。暑い夏などは、日射病のようになって倒れる生徒もいた。
 生徒にとっては、おしなべて退屈な話ばかりだった。特に校長とか教頭の話は、毎回似たようなうんざりする訓辞めいたものばかりだった。普通の教師は、毎週ではなく、順番があったのか持ち回りで話していたような気がする。
 ある日の朝礼で、美術の若い教師が壇に立って話し出した。そのとき、遠くで飛行機が飛ぶ音がした。その音が高くなった。なかには、音のする方を振り返るものもいる。
 その教師は、みんなに言った。
 「空を見ろ」
 みんな、ほっとして笑いながら空を見上げた。青空のなか、飛行機が飛んでいた。
 そして、教師は続けた。
 「飛行機を見ろ」
 僕ら生徒は、飛行機が上空を飛ぶのを見た。みんな笑っていた。そこには、退屈な朝礼でない、別の空気が漂った。やがて、飛行機は僕らの上を飛びさって見えなくなった。
 そして、おもむろにその教師は「もういいだろう」と言って、話を続けた。
 それが、美術担当のニコチン先生である。
 当時の生徒はユーモアがあって、教師全員に渾名(ニックネーム)をつけていた。そのニックネームを並べた歌まで作ってあり、それが密かに半ば公然と生徒の間に引き継がれていた。
 例えば、こんな風だ。
 「一、威張るはY(校長名)くん。二、ニコチンNくん。三、さ○○(名前)のおっさん。四、叱るはUくん。五、ごろつきTくん…」といった具合に続いた。
 だから、僕ら生徒間では、愛情を込めてニックネームで教師を呼んでいた。

 その佐賀在住のニコチン先生が、東京の画廊で個展をやるというので、3月20日、東京在住の何人かの教え子が会場に集まって、祝った。(写真)
 先生は、西日本展、日展、東光展などで実績をあげていて、教師を早期退職したあと、画業に専念されていた。
 先生はいまだ絵も容貌も考えも若々しく、その日、僕ら教え子と画廊近くの中華料理店で飲んだ酒も強かった。一回り若い教え子の僕らが、逆に励まされたぐらいであった。
 やはり人間、何歳になっても夢を追い続けなければならない。

 *

 先生の個展の画廊が浅草橋だったので、その前に、上野の西洋美術館に足を伸ばした。
 というのは、ティチィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を見なければと思ったからだ。
 実は、僕はこの絵はフィレンチェを旅したとき、ウフィツィ美術館で見ているのだ。
 僕の旅は、美術館や博物館巡りにはあまり関心をおいていない。それでもフィレンチェに行ったからにはウフィツィ美術館ぐらいは行っておこうと思った程度なので、ボッテチェリの「ミロのヴィーナス」「春」は、目に焼き付くように見てきたのだが、この「ウルビーノのヴィーナス」は印象が薄いのだ。
 西洋(ヨーロッパ)の美術館に行くと、あまりにも量が多いので(それも、随所に有名な作品が散りばめられている)、蔑(ないがし)ろに過ぎてしまうのだ。
 だから、もう一度この目で確認しておきたかった。
 
 ヴィーナスは、古代神話に登場する愛と美の女神である。本来の呼び名はウェヌスであり、ヴィーナスは英語読みである。
 今回の展覧会は「ウルビーノのヴィーナス」だけの展示かと思ったら、古代よりルネサンス、バロック初期までのヴィーナスを主題にした作品が数多く集められていたのは、予想外で楽しめた(「ヴィーナスの誕生」は入っていないが)。
 それにしても、時代によって、ヴィーナスの表情、しぐさ、背景が変わっていくのは面白い。だんだん艶っぽくなっていくのだ。
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◇ 潜水服は蝶の夢を見る

2008-03-15 03:22:25 | 映画:外国映画
 ジャン・ドミニック・ボビー原作 ジュリアン・シュナーベル監督 マチュー・アマルリック エマニエル・セニエ マリ・ジョゼ・クローズ 2007年仏・米

 哀しいかな人は、自分の生が少なくなったと自覚したとき、もしくはかつてのように自由に身体が動けなくなったときに、自分の人生の尊さを知る。過ぎ去った華やかな(と思える)人生を愛おしむ。
 その直中にいるときは、それをただひたすら貪るだけなのだ。おそらくは徒(いたずら)に。
 しかし、誰がそのことを咎めよう。殆どの人生がそうなのだから。

 それは、突然にやってくるものだ。
 取り返しがつかない状態になったとき、人はどのような行動をとるのだろう。自分は、どのようにたじろき、悲嘆するのだろう。

 「潜水服は蝶の夢を見る」の原作者は、雑誌「ELLE」の編集長だった。家庭があり3人の子どもがいた。そして愛人もいた。順風満帆に見える人生だ。
 そんな彼が、ある日倒れた。何の前触れもないままに。それも43歳のときに。
 目を覚ますと、病室のようだ。医者が話しかけてきて返事をするが、それは届いていないようだ。身体はどこもぴくりとも動かない。動くのは、左眼だけだ。
 どうやら分かったことは、彼がいわゆる植物人間になったということだ。
 看護士(言語療法士)の話す言葉に、「イエス」の場合は1回瞬きする。「ノー」の場合は2回する。こうやって、一方的で単純なコミュニケーションが始まる。
 あとは、投げやりな人生があるだけだ。何しろ、左眼以外はどこも動かないのだから。
 しかし、彼は違った。
 唯一動く左眼の瞬きで、本を書いたのだ。もちろん、それを支えた看護士等がいたのだが、気の遠くなるような作業を彼は行った。潜水服を着たように重く感じる身体で、蝶のように想像力を羽ばたかせた。
 そして、本が出版された10日後に、彼は息を引きとった。

 動かなくなった身体から、彼の想いが映像として流れる。
 スキー、サーフィン、旅、女との戯れ……
 それは、もう手にすることのできない人生の数々だ。
 彼は、僕の人生は失敗の連続だったような気がすると述回する。
 愛せなかった女、
 掴めなかったチャンス、
 逃した幸福、
 それもこれも、今はない。失敗した人生すら素晴らしいと知るのは、それが戻らないと知ったときからだ。

 私も映画の余韻を反芻しながら、自分の徒(いたずら)に過ごした人生を少し恥じるのだった。
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◇ それでもボクはやっていない

2008-03-02 13:38:03 | 映画:日本映画
 周防正行監督 加瀬亮 役所広司 瀬戸朝香 山本耕史 小日向文世 2007年

 世に、濡れ衣、冤罪は多く存在するのだろう。
 やっていないのに、やったとされる。それで、逮捕されたとする。しかし、真実を裁く裁判では真実を分かってもらえ、裁判長は真実の判決を下してくれる、と誰もが思うに違いない。
 映画は、電車の中で女子中学生に痴漢行為をしたとして、警察に連行・逮捕された男性(加瀬亮)の、無実を訴えた裁判の記録である。
 この種の裁判では99.9%が有罪になると言う。いや、裁判になる前に、多くの人が犯行を認めて示談にして、早期に保釈を願う人が多いという。やっていようがやっていまいが、警察が、いや弁護士すらも、そのように持っていくのだと言う。
 この映画では、訴えられて逮捕された主人公は、身に覚えがないので、終始警察でも否認し続ける。たまたま被害者の女の子の後ろに立っていて、背広の裾が電車に挟まれてもぞもぞ動いたのが犯人と誤解されたようだ。
 警察では執拗に追求されるが、早く帰るために、やっていないのにやったと認めるわけにはいかない。結果、裁判になる。
 裁判では、検証が行われ、検事、弁護士のやりとりがある。証人の喚問もある。
 映画を見るものは、この裁判がどうなるのか、傍聴席で見ているような気分になる。彼は、当然やっていないのだから、無罪になると思う。いや、無罪であるべきだと思う。
 しかし、裁判では……
 
 この映画は言う。
 裁判は、真実を明らかにするところではない。
 集められた証拠、材料によって、とりあえず有罪か無罪にする場所にすぎない。

 真実は神のみぞ知る、とよく言われる。裁判所、裁判官は神でないということを知らなくてはいけない。そして、神はどこにいるか分からないということを。
 明日は、自分が痴漢容疑で、いやその他の誤認容疑で逮捕されるかもしれない。

 主人公の純粋な若者を加瀬亮が好演している。人間味ある弁護士に、役所広司、瀬戸朝香がいい味を出している。小日向文世が、嫌みな裁判長を演じているのも適役だ。
 いい映画ではあるが、これが2007年の日本の映画賞を総なめしたとは、日本映画界が小粒になった感は否めない。
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