かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

誘惑する、ルカス・クラーナハ

2016-12-21 01:24:24 | 気まぐれな日々
 繊細で妖艶なヴィーナスを描いた画家、ルカス・クラーナハの作品展が上野の国立国際美術館で行われているので、見に行った。(写真)
 入口の建物の前にルカス・クラーナハ展の看板が掲げてある。そのタイトルは、意味深長な「クラーナハ展―500年後の誘惑」である。写真における、看板の後ろに見える白い建物が世界遺産の一つになったル・コルビュジエの作である展示会場の国立国際美術館である。
 やはりこの日は、ル・コルビュジエよりルカス・クラーナハである。

 今でこそルカス・クラーナハは、こうして大々的に知られる画家となっているが、かつてはルーカス・クラナッハとも呼ばれていて、エロティックな面だけが視点を浴びた多少異端の画家と目されていた。

 *

 ヴィーナス(ウェヌス、アフロディア)といえば、西洋においては美の化身である。
 そのヴィーナスは、紀元前100年位に作られたギリシャの「ミロのヴィーナス」に代表されるように、健康的でグラマラスな姿態であった。
 しかし、そのヴィーナスの姿は時代とともに変わっていく。
 15世紀後半から16世紀に入るや、美しいヴィーナスがあちこちに出現する。
 ルネサンス期の、イタリアで生まれた泡から生まれているボッティチェリによる有名な、「ヴィーナスの誕生」。
 そして、横たわるジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」、それに、僕が好きなティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。
 同時期にドイツで生まれたルカス・クラーナハの「ヴィーナス」は、見るからに異質だ。ヴィーナスという題名がついていなければ、誰もそうとは思わないだろう。
 小さなスラブ系の顔に小さな乳房、長い脚。髪はクルクルとカールしてあり、裸にネックレスすら付けている。そして、何よりの特徴は、幼くも妖しい雰囲気を醸し出している。
 こちらを見ている彼女は、薄い恥毛を隠しもしない。覆っているかのような手に持ったショールは細い網のように透き通っていて、それは単なる見せかけであるのは明らかであり、かえって見る者をそそっているかのようである。
 やはり、誘惑しているのか。

 *

 僕が初めてルカス・クラーナハを知ったのは、澁澤龍彦の本だった。
 澁澤は湘南ボーイのような清々しい顔を否定するようにサングラスをかけたり黒い帽子をかぶったりして、アカデミズムから距離をおいて少しいかがわしい匂いを放っていた。彼の発信するものはマルキド・サドや黒魔術といったヨーロッパの香りに充ちていながら、奇妙にエロティックでオカルティックだった。
 1965年にカッパブックス(光文社)という軽い新書形式で出版された「快楽主義の哲学」は、彼をいっきにメジャーに押し出し、当時僕は彼の主張に深く共感するとともに、僕の生き方に安心感を与えた。
 その後1967年に出版された、今も僕の書棚にある澁澤著の「エロティシズム」(桃源社)には、クラナッハ(当時のまま)の「パリスの審判」が、澁澤編集の「ユリイカ1971年11月臨時増刊・エロティシズム」(青土社)には、「ヴィーナス」や「楽園のイヴ」が載っている。
 どちらも、文中で澁澤はクラーナハについて記述していない。つまり、エロティックな具象としてクラーナハの画をあげているのである。
 何となく気づかれたであろう。クラーナハは、マニャックな研究家や好事家が秘かに好む画家だったのである。
 ちなみに付け加えるならば、宗教改革のマルティン・ルターの肖像画なら知っているという人は多かろう。広く流布されているルター像はクラーナハの画である。
 厳めしいルターの肖像画とロリータ風の蠱惑的なヴィーナス画像はなかなか結び付かない。

 それからだいぶんたってからだが、思わぬところでクラーナハの記述に出くわし驚いたことがある。
 ある芝居を観ての関連だったと思うが、たまたま読んだ中山可穂の「猫背の王子」という小説のなかの一文で、僕はノートに書き残したのだった。
 「カンヴァスに当たる光によって見る者の印象を変える。ときにはルーカス・クラナッハであり、ときにはギュスターヴ・モローになる。ルオーの宗教画にさえ見えることがある。…」
 僕は初めて読んだ著者の才能に感嘆しながら、レズビアン特有の感性がクラーナハに魅かれたのかと、思わず考え過ぎていた。
 
 たまたま書店でクラーナハの表紙を見つけて、手にした本もある。美術史学者の若桑みどりの「象徴としての女性像」は、「ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象」として、クラーナハの「ホロフェネスの首を持つユディト」を表紙にし、本文中でもクラーナハを取りあげている。

 ルカス・クラーナハは、知る人ぞ知る画家だった。
 「クラーナハ展」に「500年後の誘惑」とあるが、渋沢龍彦や多分一部の愛好家は、とっくに50年前にルカス・クラーナハのエロティックな誘惑に誘い込まれていたのだった。



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五木寛之氏講演、「青春の門」と「玄冬の門」

2016-12-04 01:40:36 | 気まぐれな日々
 11月24日、朝起きて窓のカーテンを開くと、庭のカイヅカイブキは白く覆われ、外は雪が降っていた。(写真)
 11月に東京で雪が降るのは極めて珍しい。僕は、昨日聴いた五木寛之さんの「玄冬」期の到来にはおあつらえ向きの雪だと思った。
 確かに、季節は冬なのだ。

 作家の五木寛之さんが多摩市に来た。
 TAMA市民大学が講演会に招いたもので、11月23日に多摩市で、「「青春の門」と「玄冬の門」」という題で講演が行われた。
 かつて中国では、人生を季節に絡めて青春、朱夏、白秋、玄冬と4つに分ける思想があった。
 僕は先にこのブログで「「青春の門」から「玄冬の門」」というタイトルで、五木さんのことを書いたが、まさに本人の講演であるから、さっそく聴きに行った。
 (「青春」から「玄冬」に関しては、2016年8月1日のブログ参照)

 *

 五木さんは、まず「私は昭和7年、1932年生まれで、現在83歳です」、と自己紹介風に切り出した。
 「私が作家としてデビューし、活動し始めた頃、同じく小田実や大島渚、青島幸男などが活動していて、当時「花の7年組」といって持てはやされたのだが、最近の若い人は、編集者でも知らないですね。
 ここのところ、野坂昭如や永六輔など同時代の人が退場して寂しさがあります。
 そして、私は石原慎太郎と生年はおろか、月日まで同じなんです。だから、なんだかあの人は気になるんですね」
 このように、世代、時代を見まわしたところから話は始まった。

 会場に登場した五木さんは、背筋はしゃんとしているし、白くなったとはいえ髪もふさふさしている。久しぶりに会場から見たのであったが、まったく変わらない若さである。声もこもっていなくて若々しい。
 作家五木寛之さんは、文壇の先頭でいつも輝いていたように思う。作家で格好いいと思ったのは五木さんぐらいである。洒落ているのは吉行淳之介さんだと思ったが、違う世界のように感じていた。
 僕は、若いときから五木さんの後姿を見ていた。ときに声をかけていただいた。最後にお目にかかったのは、五木さんと塩野七生さんとの対談集「おとな二人の午後、異邦人対談」(世界文化社)の出版のときだったから、もう20年以上前である。時が過ぎるのは、早いものである。

 *

 「玄冬期をどう生きるか」という、五木寛之さんの話は、概ね以下のようなものであった。

 「青春」「朱火」「白秋」「玄冬」という、人生の中で最後の季節、「玄冬」期をどう生きるかを話したいと思います。

 <趣味は養生>
 まず、フィジカルな問題、つまり身体の問題があります。昔は平気でお寺の階段を何段も登っていたのに、もうかつてのように歩けないなど、肉体の衰えは隠しようがありません。
 私は最近、「養生」に関して、テーマを掲げてやってきました。 
 例えば、「呼吸」に関して。
 深く息を吸って、吐く。呼吸は、吐くときが大切です。その場合、「はぁー」と、溜息をつく感じが一番吐くのに合っています。いわば、「溜息療法」と言えます。
 そして、「嚥下」。
 嚥下とは飲み込むことですが、年をとるとこの力が弱まり上手くいかなくなってきます。この場合は、これから飲み込むと思って、飲み込むこと。つまり、飲み込むという指令を頭(脳)に出してから、やるということです。
 最近は「転倒」がテーマです。
 つまずかないこと。年をとってつまずくことは、心が傷つくことです。私は、バリアフリーの反対のことで生きています。バリアフリーだと、自ずと摺り足になってしまいます。ここに段差があるから気をつけないといけないとか、私は段差、階段、高低差などには気づかいながら生きています。

 <過去を振り返る>
 「青春期」の人は、明日を考えて生きていきます。
 「玄冬期」の人は、昨日のことを考えて生きていきます。
 痴呆の人の対処として、回想療法というのがあります。昔のことを思い出すことによって記憶を甦らせ、脳を活動させる法です。何回も言うこと、語ることによって、記憶が洗い流される、記憶がはっきりしてくる。豊かな思い出、引き出しを多くすることです。思い出の貯金は大事なのです。
 年をとると、同じことを何度も言ったりしがちです。それでも、聞く人は初めて聞くように聞くことです。蓮如は、お坊さんの言葉は、100篇聞いても初めて聞くようにしなくてはならないと言っています。それと同じです。
 また、本居宣長は、悲しみは無理せず、「悲しい」と言葉に出しなさいと言っています。できれば、人にそれを話せ、話す人がいなければ、叫べ。そこから、歌が生まれると。
 民俗学者の柳田国男は、喜ぶことと悲しむことは同じ価値があると言っています。泣くことと笑うことを同じように考えるということです。

 悲しむ、泣く、思い出に耽る。これらは、玄冬期には大切なことです。
 登山には、登(上)るだけでなく、降り(下)ることもあります。「玄冬期」は、下山していくことです。自分の来し方、行く末を考えながら、山を下りていく、ということです。

 「鬱(うつ)」の人がいます。
 鬱は大事なことなんです。
 世界中でこのような意味を表す言葉はあり、中国では「悒(ゆう)」といい、韓国では「恨(はん)」という。ロシアでは「トスカ」、ポルトガルでは「サウダーデ」、ブラジルではこれから変化して「サウダージ」です。
 かつて日本では古くから使われていて、大伴家持は「…悲し」と言い表しています。
 明治から大正時代には、「暗愁(あんしゅう)」という言葉が流行りました。漢詩が教養だった時代で、多くの作家が使っていて夏目漱石も使っています。最後に使った文人は、日記に書いている永井荷風ではないでしょうか。
 ところが、この「暗愁」は、戦後姿を消しました。前向きにという時代のなかで消えてしまったのです。
 しかし、「暗」は本来、いずこよりやって来る、という意味で、辞書でいうところの「くらい」というのは、間違っているのです。

 私も、人間不信と自己嫌悪に陥ることがあります。
 それを乗り越えるのは、過去を振り返ること。つまり過去の思い出に支えられて生きていく。これは「暗愁」になります。
 このことは、恥ずかしいことではないんです。自分を支えてきた過去を思い出して生きていくのです。
 ※そして、五木さんは北海道の小さな町に講演に行った時のエピソードを語った。心の中に潜んでいた過去の思い出話を、つい最近の出来事のように語った(内容は省略)。
 このように、自分を支えてきた過去を思い出して生きてきたと言えます。

 呼吸の「溜息」と「貧乏ゆすり」、それと「過去を振り返り」、「つまづき」を注意して生きていく。
これが、私の健康法です。

 *

 僕は、あるときから、「人生は記憶だ」と思ってきた。
 その記憶がなくなったら、そのことは存在したかどうかもあやふやになる。そのことが存在したかどうかは、記憶に裏打ちされている。だから、自分の過去を振り返り、自分の過去を存続させることは大切だと思っている。
 五木寛之さんも言う。過去を振り返れと。自分を支えてきた過去を。
 
 僕は思う。
 瑞々しい青春の日々、燃えるような朱夏の年月、過去という時間のなかで涵養されたそれらの季節を呼び戻すことによって、他の誰のものでもない輝かしかったはずの自分の人生を、再び蘇らせることができるのである、と。

 そして、五木さんは「養生」を勧める。病院嫌いの五木さんは、思いのほか身体のことに詳しい。医者の代わりに、自分の身体を自己流に診断しているのだ。
 自分で診断するのだから、いろいろ調べることになる。そこから、自分流に解釈して、対処療法する。そこが面白い。そして、もっともだと思う。
 夜型で生活も不規則で、締め切りに追われてストレスも多いという五木さんは、自分で「養生」しているせいか、健康だ。

 僕は、足の指先の違和感から、ヨガをかじってみたら呼吸が大事だと知った。そこで、運動をやらない代わりに、思い出しては呼吸と体のストレッチを自己流にしている。
 五木さんは呼吸の溜息療法を唱える。
 それに、僕は実家の裏庭の雑草取りと木の枝の伐採の最中、転んだばかりだ。それで、「つまずき」には、注意しないといけないと再認識したところだ。
 僕も、自分流に、「養生」しないといけない。

 *<追記>

 長らく中断して未完の小説だった「青春の門」が、来年(2017年)1月から新しくやはり「週刊現代」で再開される。
 自分にとって未知の「玄冬の門」に足を踏み入れたと思いきや、再び「青春の門」を切り開いていく五木寛之さんの姿勢には驚嘆と同時に敬意を抱かずにはいられない。おそらく五木さんのなかでは、新しく青春が躍動しているのに違いない。
 外界は冬だが、内は春なのだ。

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