かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 5

2007-06-28 02:18:43 | 本/小説:日本
 佐藤正午著 角川書店

 人は年をとるごとに少しずつ変わっていく。その間、どんな内容かはともかく様々な経験を積み、多くの体験を重ねているのである。
 人の本質は変わらないけれど、ディテールは変わっていくのである。例えば、酒が好きは変わらなくとも、日本酒から焼酎へ、ウイスキーからワインへと飲むものが変わったといった程度のものだが、そのことがその人の過ぎ去った年月を表わしているのだ。

 作家の場合、それが作品に反映される。
 佐藤正午の場合は、その変化がすぐに反映されて面白い。つまり一作ごとに変化があり、この人のその時点での嗜好、興味の対象が分かるのだ。小説のメインテーマは男と女であり、主人公の職業は違えてこそあれ、作家の分身と思ってよく、そう思わせるのがこの人の特徴だ。
 サービス精神が旺盛なのだ。いや、この表現は適切ではない。自分に忠実で熱心なのだ。今、を大切にしているのだ。だから、作風も舞台も変わっていく。最近は、作品の中に、平気で作者である自分が登場する。後書きに作為を施すこともある。このことは、いいか悪いか評価が分かれる点であろう。
 
 佐藤は長崎県の佐世保市出身でありながら北海道大に行っている。このことをしても、彼が平凡な考え方の持ち主ではなく、平凡な生き方を望んでいたとは思えない。私生活は知らないが、おそらくそうではないのだろう。
 デビュー作の「永遠の1/2」は、1983年出版で、彼の28歳の時である。この小説は、佐世保市と思われるところが舞台である。競輪も出てくる(佐世保にも競輪場がある)。彼は、佐世保で小説を書いていた。
 僕は、この作品で彼の持つ独特の感性に何となく共感を持った。自分と似た臭いを感じたといってもいい。
 その後、彼の書いた作品の舞台は佐世保を思わせる地方都市が続いたが、最近は東京である。
 
 この最新作「5」の主人公は、東京在住の作家である。しかも、直木賞作家となっている。この時点で、主人公は自分(佐藤)ではないと言っているのであろうが、それで隠蔽したとは思えないところが彼の本領なのだ(佐藤は直木賞をとっていない)。
 主人公の作家は、作家という立場を武器に複数の女性と愛人関係にあり、メールサイトで女の子をつかまえて遊んだり、女には抜け目がない。
 もう、ここにはあのデビュー時の「永遠の1/2」のような若さだけではない、老練な主人公がいる。佐藤も、当然のことながら多くの経験を積み、(おそらく)多くの体験(女性体験)をしてきたのだ。
 佐藤は、描写が細かいのも特徴の一つなので、例えば作家は二子多摩川に住んでいて、女は代々木八幡に住んでいたといったように、特定して書いていく。彼は、佐世保から東京へ移り住んだのだろうかと思ってしまう。
 
 この主人公の作家が、不思議な体験をしたことを不倫している女の夫から告げられるところから、話は展開する。
 この小説の主眼は、作家の愛の遍歴ではない。
 作家が不倫している女の夫婦は、長い間冷め切った夫婦関係であり、ずっとセックスもなかった。それ故、作家とは不倫していたのだが。
 ところが、不倫している女の夫は、ある女と「手を合わせる」行為を行ったことにより、既になくなっていた妻への愛情が、正確に言えば最初に持っていた愛情の記憶が戻ったというのである。
 ある女とは、記憶を異常に溜め込む能力を持った女で、そのことで日常生活に支障をきたしていたが、ある特定の男と「手を合わせる」ことで、記憶の能力を失い、普通の人間に戻れるというのである。
 しかし、その取り戻した愛情の記憶も永遠にではない。作家は文中でこう言っている。「必ず消えるもののことを虹と呼び人の記憶と呼ぶ」。
 記憶の女は、結局最後に、作家と「手を合わせる」ことを提案する。そして、作家もそれに応じる。すると、作家に何が起こるのか? 作家はどうなるのか?
 
 この小説は、オカルトではない。単に奇跡を実現する女を通したワンダーランドまたはホラーの物語ではないのである。
 失った愛情を、過去の愛情の時点に戻すことができるか、戻ったら現実はどうなるのか、と追求している。つまり、愛が冷めるのを食い止めることはできないのかと言おうとしている。文中で、作家はこういっている。「必ずさめるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」。
 いや、さらに作者(佐藤)がこの時点に留まってはいないのは、最後に作家が未来の記憶を獲得することで、佐藤の思惑がおぼろげながら見えてくる。
 つまり、佐藤がここで目指そうとしているのは、いうなれば記憶の過去と未来の行き来(タイムマシン)という作品への冒険のようだ。危険な領域に入ったようだ。

 僕が、この本の中で好きな言葉は、次の台詞である。
 「時間は無駄には過ぎていかないと思うよ。人が時間を無為に過ごすことはあっても」
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◇ ジャンケン娘

2007-06-19 16:57:49 | 映画:日本映画
 杉江敏男監督 美空ひばり 江利チエミ 雪村いづみ  山田真二 浪速千恵子 1955年東宝

 当時人気沸騰の歌手、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの3人娘によるトリオ初の映画である。水谷良重、黒柳徹子、横山道代のタレント・俳優が3人娘と称したのはあったが、各々独立した人気歌手がユニットとしても活動した最初の3人組ではなかろうか。この時、美空ひばりはまだ18歳。
 このあと、この3人組は「ジャンケン3人娘」と呼ばれることもある。この3人組は、翌年「ロマンス娘」、翌々年「大当たり三色娘」と映画出演する。

 映画の内容は、高校生の美空と江利が京都の修学旅行で舞子の雪村と知り合い、雪村が一目惚れをしたという東京の大学生を3人で探すという他愛のないものである。
 映画が作られた1955年といえば戦後10年である。まだ日本が貧しさから脱却していない時期である。それなのに、今見て目を見張るのは、いずれも豪華で綺麗な家と衣装であることだ。画面のどこにも貧しさが映しだされてはいないのだ。
 例えば、遊園地では既にジェットコースターがある。家には電話があり(庶民の家にはなかった)、彫刻家である江利の家では、客が来てウイスキーを出すのだが、ジョニーウォーカーであった。ジョニーウォーカーといえば当時最高級のウイスキーで、海外に行った人がお土産に持ってきて、滅多に飲めるような代物ではなかったのである。
 いわば、スターの映画は庶民に夢を見させるものだったのである。
 
 このあと3人組と言えば、60年代に、「スパーク3人娘」として、渡辺プロの中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりが登場する。この3人組で、64年にNHK紅白歌合戦にも出場している。
 後日中尾は、「当時、一人で充分やっているのに、なぜ3人でやらないといけないのか不満だった」と述べている。近年40年ぶりに3人組を再結成しているが、その時、3人ともがそう思っていたということが分かったと、今では笑って語っていた。
 その後は、70年代のアイドル、南沙織、小柳ルミ子、天地真理の同期デビューの3人娘、それに続くアイドル、山口百恵、森昌子、桜田淳子の「花の中3トリオ」であろうか。
 
 男性歌手でいえば、○○3人男と称するものはあったが、60年代の「御三家」を嚆矢としようか。青春歌謡の先陣を切った橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦である。こちらも、何年か前に3人で同じ新曲を吹き込み公演を行っていたが成功したとはいいがたく、また各自の行動に戻っていった。
 当初御三家は、橋、舟木に三田明であった。ところが、三田は橋と同じレコード会社のビクターである(ちなみに舟木はコロムビア)。そこで、バランスを取るため、新しくクラウンからデビューした西郷になったという裏話がある。
 そして、70年代の新御三家は、郷ひろみ、野口五郎、西条秀樹である。
 80年代の田原俊彦、近藤真彦、野村義男の「たのきんトリオ」も範疇であろうか。

 何しろ、日本人は3の数字が好きである。日本三景をはじめ、日本3大○○をあげれば、枚挙にいとまがない。
 3つや3人はバランスがいいのかもしれない。
 1人ではプラスもマイナスも背負うのが大きい。2人では、比較しがちになり、そうするとバランスが崩れやすい。しかし、3人だと1人が出っ張っていても1人がへこんでいても、配列や組み立てによって均衡は保ちやすい。各々の欠点は補われ、むしろ長所に映る場合がある。

 美空ひばりはその後昭和の歌謡界の女王として君臨してきたが、冒頭の「ジャンケン3人娘」のうち、残っているのは雪村いづみだけとなってしまった。


 冒頭の「ジャンケン3人娘」のうち、残っているのは雪村いづみだけとなってしまった。
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◇ 月の輝く夜に

2007-06-15 01:50:15 | 映画:外国映画
 ノーマン・ジュイソン監督 シェリー ニコラス・ケイジ オリンピア・デュカキス 1987年米

 月にまつわる神話や伝説は洋の東西を問わず多く語り継がれている。そして、人間を狂わす話も多い。
 ラテン語では月のことを luna と呼び、スペイン語でもイタリア語でもそうである。フランス語は lune である。
 英語の辞書を引いてみると、lunacy は精神異常、狂気であり、lunatic は狂人、狂人のと出ている。つまり、語源的に月と狂気は同じに考えられていたようだ。
 日本語では、月は古くは「つく」とも言っていた。古語辞典を見ても、月夜は、「つきよ」と同じく「つくよ」とも出ている。民俗学者の中には月は「憑く」から来ているという人もいる。
 
 月の輝く夜は、僕は女性ではないが胸騒ぎがする。月に見とれてしまう。
特に満月の夜は潮の干満の差が大きく、女性の生理に関係があるという説もあるが、僕は調べていないので定かではないし、女性に訊いて確かめたこともない。

 この魅力的なタイトルの映画は、それと裏腹にストーリーはやや大雑把でコメディタッチだ。
 夫を亡くした中年の女性(シェリー)が幼友達のどうということはない男のプロポーズを承諾する。ところが、男が故郷のイタリアに帰っている間に、男の弟(N・ケイジ)と満月の夜に思わぬことで一夜をともにしてしまう。この二人の関係を中心に、家族の個々の揺れ動きを描いた物語である。
 軽い映画だと思っていたが、久しぶりに見てみると、意味深い台詞が随所に散りばめられた含蓄に富んだ映画だと分かる。
 
 ニューヨークが舞台のアメリカ映画であるが、実にヨーロッパ的である。
 摩天楼も遠景として出てくるが、街並みはヨーロッパを意識した古いアパートメントが舞台で、パリだと言っても、ローマだと言っても頷くであろう。
 それもそうである。ニューヨークに住む主人公(シェール)が父母と祖父と一緒に住む多世帯の家族は、イタリア人(系)という設定である。長老のお祖父さんが朝食のテーブルに顔を出す時「ボン・ジョルノ」と言ったりするところが洒落ている。
 肩にタトゥーがあるパン職人の荒くれ男(N・ケイジ)が、「愛するものは二つ。君とオペラだ」とニューヨークッ子が言うはずない。

 物語は、老人たちが満月を見ながら、「月は女に魔法をかけるんだ」などと話しているところから始まる。そして、老人たちも満月の夜、回春する。
 若い女の子に振られて水をかけられた中年の教授に、主人公の母(デュカキス)は、「なぜ男は女を追いかけるの」と訊く。
 男は、「本能だ」と答える。
 同じ質問を娘の婚約者にすると、彼は聖書をもじって答える。
 「アダムはイブの肋骨でできた。男はなくなった肋骨を探しているんだ。女がいないと満足できないんだ」
 浮気をしている亭主(主人公の父)を見ながら、母は「どうして男は一人の女を愛せないの」と訊く。
 そして、聡明な母は、「死への恐怖ではないか」と結論づける。
 浮気をした初老の父は、「ある日、人生が虚しく思える。辛いものだよ」と言い訳のように呟く。
 
 男が女を追いかけるのは、そして一人の女で満足できないのは、死への恐怖なのか?
 女は死への恐怖がないか少ないというのであろうか。だとすると、その理由は子どもを生むからであろうか。
 そういえば、女は家を守ろうとするが、男は家から出ようとする。
 男として、自ら振り返って考える。刻々と近づいている死への意識しない恐怖が、そうさせているのだろうか。

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◇ 夜ごとの美女

2007-06-01 15:58:15 | 映画:フランス映画
 ルネ・クレール監督 ジェラール・フィリップ マガリ・ヴァンドイユ ジーナ・ロロブリジーダ マルチーヌ・キャロル 1952年仏

 私も、タモリの言葉を借りれば妄想族のきらいがある。すぐに夢みるし、すぐに現実に戻される。夢みている間だけは、ロマンチックな気分に浸ることができるが、現実は甘くはない。現実が甘くないから、夢みるのか。
 かといって、夢とて甘いものだけとは限らない。厳しいものや辛いものもある。しかし、夢ぐらい、どうせ現実に戻されるのなら、甘い夢を見たいもの。
 人は夢みながら、現実を生きていく。いや、現実を生きながら、夢みていく。どっちなんだ!

 この映画は、さえないピアノ教師が、大音楽家になるのを夢みる物語である。アパートのベッドで、カフェで、教室で、ピアノを教えている途中で、彼は眠り、夢を見る。
 彼は、今の生活にうんざりしている。外の騒音、教室では生徒の悪戯騒ぎ、何もかもが腹立たしい。すると、隣にいた年寄りが、「昔は良かった」と話している。その一言で、昔に戻っていく。もちろん、夢の中でだ。
 時代は、どんどん遡っていく。フランス革命時代へ、中世騎士道の時代へ、そしてついに太古の時代まで行ってしまう。夢の中では、彼は望むものを今まさに手に入れようとする。
 しかし、昔が良いとは限らない。いつの時代でも、良いものの陰には悪いものが大量に埋積している。だから、彼の夢はうまくいきそうで、すんなりとはいかない。彼は過去に戻ってはみたものの、再び現代へ帰ってくる。
 つまり、彼は眠りの中で、スペクタクルとロマンスを体験する。その夢の間、美女が登場する。ロマンスが繰り広げられる。そして、眠りから覚めるたびに、現実が待っている。
 果たして、恋する美女は、どこにいるのか。夢の中だけに存在するのか。
 現実に戻ると、その恋する美女は、身近にいた。階下の、うるさい騒音を出す自動車修理工の娘だった。

 この映画は、「青い鳥」のラブロマンス編と言える。幸せはすぐ近くにあるものだと、幾つもの夢物語を通して、伝えている。
 美男子、ジェラール・フィリップの魅力を遺憾なく発揮した映画である。
 彼の、少し寂しげで頼りない雰囲気が、しがない芸術家によくあっている。「しのび逢い」、「モンパスナスの灯」などの映画に見られるように、パリの下町にたたずませれば、その存在感はほどよく調和されて、退廃的な中にも美しさが滲み出てくる。
 彼がよく行くカフェのマダムで、夢ではアラビアの王の娘に扮するジーナ・ロロブリジーダが色っぽい。
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