かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

四谷の〝谷″と御所トンネル

2021-12-19 03:50:06 | * 東京とその周辺の散策
 *知られざる「鮫河橋」

 それから、明治神宮外苑をあとにしてJR信濃町駅に出た。
 信濃町駅の北側に出て、JR中央線に並行して右(東)の四谷方面に向かう細い通りを進む。左(北)側は創価学会の建物が並ぶ。
 突然、出羽坂という表示に出くわす。なだらかな下り坂だ。坂が終わったところで左(北)へ進むと、静かな住宅街だ。
 さらになだらかな下り坂になっていて、この辺りは四谷の領域で、四谷の名前にあるように〝谷”だったことがわかる。低地なせいか都心なのにひっそりとした佇まいの通りは、昔の下町の住宅地といった風情が漂う。
 この辺り一帯は、かつて「鮫河橋」(さめがばし)と呼ばれていた。それにしても鮫河橋とは、何やらいわくありげな名前だ。昔は低湿地帯だったのだろう。今の町名は、若葉である。
 さらに上段に進むと、須賀神社に出る。境内に、六歌仙絵のレプリカが飾ってあった。

 *甲武鉄道のレガシー、「御所トンネル」

 そこから、四ツ谷駅に向かった。
 JR中央線の前身、甲武鉄道の名残である、いわゆる「御所トンネル」の入口(出口)があるので、それを見るためである。
 地下鉄の丸の内線四ツ谷駅は、地下鉄としては珍しい地上に駅がある。
 この駅の新宿方面行のホームの南端(赤坂見附寄り)から前方を見ると、赤煉瓦の縁に囲まれた古いトンネルが見える。ここを、JR中央線の各駅停車、中野行きの電車が通る。これが、「旧御所トンネル」で、現役で使われているトンネルとしては都内で最も古いものある。
 
 1889(明治22)年、甲武鉄道会社線の新宿-立川-八王子間が開業。さらに、1894(明治27)年に新宿-牛込(現・飯田橋)間を延伸開業した際に、四ツ谷駅も設けられ、赤坂御所の敷地の下を通るために造られたのが「御所トンネル」なのである。
 このトンネルが造られたのは1893~94(明治26~27)年で、日清戦争の頃である。人だけでなく物資の輸送においても、鉄道の建設が急がれていた時代なのだ。

 ところで、御所トンネルは、これ1つではない。
 JR中央線は、お茶の水駅から三鷹駅まで複々線である。快速が2本、各駅停車(総武線)が2本、合計4本である。
 先の1本と、後にこれとは別に、3本の電車が走るトンネルが造られているのだ。その電車が出入りするトンネルが見える場所が、四谷の学習院初等科のある辺りにあるはずなのだ。

 地図上では、学習院初等科の辺りで電車は地上に出てきている。学習院を横に見て四ツ谷駅が見える若葉東公園のある外堀通りまで来てしまったが、見つからない。

 *ようやく「御所トンネル」の口を発見

 四ツ谷駅近くの外堀通り「四谷中前」から、若葉東公園に向かって、迎賓館を挟んで左手には赤坂見附に向かう外堀通り、右手には外苑・権田原に向かう通りと分かれている。
 迎賓館の塀を左に見ながら、外苑・権田原の方へ緩やかな下り坂を歩いてみた。迎賓館の塀の前には監視の人が立っている。通りの迎賓館の側には、トンネルに繋がるそれらしいものは見つからない。
 坂を下りた「南元町」の信号で四ツ谷駅方面に引き返し、今度は迎賓館とは反対の左手の「みなみもとまち公園」側を注意深く見ながら歩いた。すると、公園の先に左の折れる道がある。この道だ、と確信した。
 近くに、「鮫河橋」の由来と、この坂が「鮫河橋坂」という案内説明板があった。

 折れた道を進むと、陸橋に出た。下を見ると線路が走っているではないか。橋の欄干より高く両サイドには金網が張ってある。
 これだ、ようやく発見したと心が躍った。赤坂と四谷南を結ぶ橋で、「朝日橋」とある。
 もう夕暮れで暗くなってはいたが、橋の中ほどから四ツ谷駅方面を見ると3つ並んだトンネルの口が見える。
 ほどなく明かりが見え、四ツ谷方面からの電車がトンネルから出てきた。しばらくして、今度は信濃町方面からの電車がトンネルに吸い込まれていった。そんな電車のトンネルへの往来をしばらく見ていた。
 すると、右手のやや遠くから1台の明かりを灯した電車が走ってきた。出てきた先に、最初の御所トンネルがあった。
 この朝日橋から、トンネルに出入りする電車4本が同時に見られるのだった。(写真)

 *四谷でポルトガル料理

 御所トンネルは、暗闇に紛れてしまった。
 それで、四ツ谷駅に出た。歩いたあとは夕食だ。四谷にはファドを聴かせるポルトガル・レストランがあり、前から行こうと思っていた。
 ポルトガルは大好きな国だ。落ち着いた国民性がいい。世界中を番組で旅した関口知宏が「日本以外で住むとすれば、ポルトガルかなあ」と言っているのを聞いて、わかる気がした。
 かつてポルトガルを旅して美食という印象はないが、港町ナザレでは、街中で日本によく似たイワシの塩焼きを売っているのが好ましかった。
 
 四谷のこの店では、あいにく現在ファドはやっていないが、ポルトガル料理を日本で食べる機会はめったにないので「Manuel Casa De Fado」へ。細い階段を地下に降りていくと、落ち着いたいかにもヨーロッパ風のレストランが待ち構えている。
 ポルトガルの赤ワインで、料理は、バカリャウ(干し鱈)のコロッケ、イワシのオーブン焼き、アサリと豚の煮込み、鴨の炊き込みご飯……
 ポルトガル料理にしては洒落すぎている(ポルトガルに失礼か)。

 この日の夜は、アマリア・ロドリゲスの歌を聴き入った。

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東京五輪のレガシー、国立競技場を歩く

2021-12-16 03:11:07 | * 東京とその周辺の散策
 *いつにもない夏の流れ

 今年、2021(令和3)年の夏は、これまでにない異様というか不思議な夏だった。
 暑い夏、長引くコロナ・パンデミック、経済か生命か、緊急事態宣言、アクセルかブレーキか、ワクチン接種、東京五輪、自民党総裁選、衆議院選……
 民主主義の根源は自由であるという考えが根づいている欧州では、コロナ禍による行動規制・制限に反対の抗議行動がしばしば起こっている。それに比しわが国での、できるだけ規制・制限の緩和を模索・提唱する政府と、できるだけ制限・自粛を要望する世論の矛盾現象。
 自粛および緩和要請のたびにテレビの前で繰り返し弁明を余儀なくされる菅総理と、隣で補佐弁明を繰り返すコロナ対策分科会の尾身会長。コロナへの対策標示をキャッチコピーとして繰り返し提唱する小池東京都知事。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長から橋本聖子五輪相への会長交代。 Etc.

 去年2020年の初めに予期せぬ出来事として世界中に拡散・蔓延したコロナウイルスによるパンデミックが、その年内には収まるだろうという大方の予想に反して今年2021年になっても収まらず、多くの計画・予定が中止・延期・破棄されることとなった。
 去年の夏に行われるはずだった東京五輪は、今年に1年延期されたが、五輪が始まる8月直前には、五輪開催には反対という声がマスコミおよび世論では大勢を占めていた。
 本当にできるのか、という誰もが抱いた半信半疑の思いのなかで、ほとんどの競技が無観客という今までにない形で、それでも五輪は開催された。
 静かなテレビの画面の中での、それまでの人生を賭けたアスリートの汗と笑顔と涙。冷たい世論の空気の中を、吹き抜けた熱いオリンピックの風。
 東京五輪とは何だったのだろう、という思いが残った。

 東京五輪に関しては、「パンデミック下の東京五輪」(2021.9.3)参照
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b2a02d64ac5fd11060be86ce6e115e1e

 *オリンピックの足跡

 124年前、14の国と241人の参加選手で始まったオリンピック。
 近代オリンピックの第1回大会は、1896年のアテネ大会。
 日本の初参加は、1912年の第5回ストックホルム大会。28か国2407名参加で、日本人選手はマラソンの金栗四三ら2名だった。
 アジア初の東京開催は1940(昭和15)年第12回大会の予定だったが、戦争のために中止となった。
 そして、念願の東京大会は高度成長期の1964(昭和39)年第18回大会。アジアで初めての開催であった。
 2度目の東京開催が、今年2021(令和3)年のパンデミック下での第32回東京大会である。

 *五輪のレガシー、国立競技場を歩く

 11月10日、今年行われた東京五輪の陸上競技他、開催式、閉会式などが行われたメイン競技場である国立競技場を見に行った。
 設計の選考段階から紆余曲折を経て完成した国立競技場だが、実際にはまだ見たことはなかったのだ。戦いすんで日が暮れたあとの、五輪の主戦場を年度内に見ておかなければと思っていた。
 今回の東京五輪のための新しい国立競技場は、当初イギリス(国籍)の女性建築家、ザハ・ハディドによる流線的で斬新な設計案が採択された。しかし、その案が「白紙撤回」となった後に選ばれたのが今建っている、隈研吾の設計による国立競技場である。

 まず、地下鉄大江戸線「国立競技場」駅のA3の出口に出た。目の前に外苑西通りが走っていて、その横に円形の競技場が見える。(写真)
 目の前の国立競技場の第一印象は、”大きい”ということだ。
 すぐに競技場のところに行った。もちろん入口は閉まっていて、外から仰ぎ見るだけだが、私のように見物に来たのだろうか、今でも競技場の周りには何人か見上げている人が見うけられる。
 ぐるりと首を回して見渡してみると、何本もの柱が上に向かって立っていて、最上層の屋根が柱で突き上げられている感じだ。地上と屋根の間には、円い(正確には楕円形だが)建物に沿って3層に庇が水平にそり出している。
 隈研吾は日本の木を意識して設計したと言っていたので、競技場を取り囲むように各層に樹木が並んでいるのがすぐに目に入る。
 それに、仰ぎ見る庇の裏は、細長く切った木材が等間隔に並んでいるルーバー仕様だ。これは日本建築を意識したものだと思われるが、これで張りとして天井を支えているものではなくデザインとして用いたものだろう。日本全国から集めた木と言っていたのは、このことだろうか。
 競技場は、大きな平べったい円盤状のものを、屋根と庇による水平の横の線と、柱やルーバーの縦の線でデザインした、日本の格子感覚を味付けした建築物という印象だ。
 
 大きさを体感しながら、競技場の周りをゆっくり一周した。
 なんだか、できたばかりの競技場なのに、ローマのコロッセオに行ったときに似た感情が沸いてきた。もう偉大なる遺跡か?
 あまりにもオリンピック関連で、レガシーと言われたので、見る目がすっかり遺産という言葉に染色されているではないか。もうしばらくは現役でいてくれよ!

 *懐かしの千駄ヶ谷から神宮外苑へ

 国立競技場から千駄ヶ谷駅へ出た。昔はこの駅をよく利用したが、駅前はすっかり変わっている。
 駅前の津田塾大のビルは、かつては同大学関連の英語のビジネス・会話の専門学校だった。
 かつて仕事が終わった夜に、学生時代に勉強しなかったので少しは英語でもと思い通ったことがあるが、高校の教室みたいなのですぐに辞めてしまった。

 千駄ヶ谷駅を背に、まっすぐ進むと鳩森八幡神社に出る。久しぶりに歩いてみた。
 鳩森八幡神社に着くちょっと手前のビルの2階に、まだメジャーな作家になる前の村上春樹がここでジャズ喫茶をやっていた。
 1980年のある日、私はある事情でこの道のあたりで時間をつぶしていた。ビルの2階にある「ピーター・キャット」という名前に惹かれて、中に入らなかったが店を眺めていた。この年、「1973年のピンボール」で、村上春樹は芥川賞を受賞した。
 この話は、それだけのことだが。

 鳩森八幡神社を出て、再び国立競技場の南縁を周りながら、隣の明治神宮外苑に出た。ここも、懐かしいところである。
 国会議事堂の屋根を丸くしたような絵画館は、外苑全体を睥睨しているかのように威厳のある建物だ。
 絵画館を背に外苑を見渡すと、正面に青山通りに続くイチョウ並木が見える。日比谷高校の名前を染めたジャージ姿の女子高生が、ランニングの後の脚を休めている。

 私の初めての社会人としてのスタートは、出版社での服飾雑誌の編集者だった。流行のファッション、新しい服・デザインを紹介するのが主要な内容なので、多くは写真掲載ページが占めていた。
 グラビアページでは、モデルに新しい服を着てもらいカメラマンに写真を撮ってもらう、いわゆる「撮影」が主たる仕事になる。室内のスタジオ撮影だけでは変化に乏しく味気ないので、多くは外のロケ撮影を必要とする。だから、そのロケ場所にも苦慮した。
 そのロケ撮影の場所として、しばしばここ神宮外苑を利用させてもらった。事前に撮影許可をもらうのは、あの厳かな絵画館内の少し暗い事務所においてだった。
 神宮外苑に懐かしさが漂っているのは、初めて社会人になった頃の言いようのない甘酸っぱい風が吹いているからである。
 あゝ、「風の歌を聴け」

 次には、神宮外苑を出て、信濃町から四谷方面に向かうことにした。

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