かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

なかにし礼の世界① 歌謡曲 私的BEST 10

2020-12-31 23:59:25 | 歌/音楽
 *なかにし礼のなかの異邦人

 あの日からハルピンは消えた
 あの日から満州も消えた……

 作詞家、なかにし礼が去る2020(令和2)年12月23日他界した。享年82。人生後半は、小説にも情熱を入れた作家でもあった。
 なかにし礼は1938(昭和13)年、旧満州国の牡丹江市生まれ。ハルピンで敗戦を迎え1946(昭和21)年、日本に引き揚げ帰国した。
 1966(昭和41)年、「涙と雨にぬれて」で作詞家デビューしたあとは、数々のヒット曲を生み出し、時代の寵児となり多くの浮名を流した。映画も自作自演で撮り、小説を書いては直木賞を受賞した。
 自分に忠実で喜怒哀楽を隠すことなく出した、とても人間臭い愛すべき人間といえた。

 最初に挙げた文は、1977(昭和52)年、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌った曲のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)のなかの1曲、「ハルピン1945年」の詞の冒頭の1節である。
 この歌は、次にこう引き継がれる。

 幾年時はうつれど
 忘れ得ぬ 幻のふるさとよ

 なかにし礼にとって満州は、忘れようとも忘れられない傷跡とともに、自己形成の根幹ともなった。彼にとっての幻のふるさとは、終戦後旧満州生まれで何の記憶も残ってはいない私にも、共有できる思いが伏流水のように心底に漂っている。五木寛之がいうところの、デラシネのスピリットが心の奥にある。
 歌の詞は、さらにこう語る。

 私の死に場所はあの街だろう
 私が眠るのもあの地だろう

 私はなかにし礼に2度会ったことがある。
 彼に会いたいがために、婦人雑誌編集者時代の1991年、モーツアルト没後200年ということで「モーツアルトの快楽」という企画をたて、彼にインタビューした。彼はクラシックの愛好家でもあるのを知っていた。
 そして次に会ったのは、2007年、シャルル・アズナブールの公演時の東京国際フォーラムホールの会場で、偶然出くわした。歌謡曲の作詞家として名を売る前は、彼はシャンソンの訳詞をしていた。おそらくアズナブールが好きだっただろうし、公演を見終ったあとの会場では彼はにこやかだった。
 目が合ったとき、私を覚えてくれていたのかニコッと頬を崩した笑みが返ってきた。そのときは彼には同伴者がいて軽い会釈の挨拶だけで終わったが、それが彼を見た最後だった。
 それだけだったが、それで充分だった。

 なかにし礼は、自己の体験を基に満州を舞台にした小説をいくつか生み出している。それに関連して、私は過去いくつか書き残した。
 *なかにし礼の満州の残照、「夜の歌」(blog 2017-10-29)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201710
 *なかにし礼と「赤い月」(blog 2007-01-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/200701
 *恋愛と映画(読書)と旅が、「人生の教科書」(blog 2012-10-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201210

 *歌謡曲に文学の風を吹き込んだ、なかにし礼

 何といってもまず、先に紹介した「ハルピン1945年」が入っている、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌ったアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ、1977年)をあげねばならない。
 当時フォーライフの社長だった吉田拓郎の要請で作ったというこのアルバムは、ふだんテレビで歌われているような歌謡曲とは一線を画した、画期的な作品である。当時台頭してきたニューミュージック界の水彩画的で内向的な歌に対する反感、挑発からこのアルバムは生まれたという。
 エンターテインメントを排除した、なかにし礼の個人的な歌作りの希求と快楽から生まれた、最も彼自身を表現した曲だといえる。
 「ハルピン1945年」を除いて、男のわがままで哀しい恋のエゴイズムを歌った曲は恋愛小説を暗示させ、小説でいえば、純文学的私小説といえようか。
 例えば、表題作の「マッチ箱の火事」は、「俺が他の女と一緒にいるところを、お前に見られたあのときほど、驚いたことはないね…」という歌謡曲らしからぬ出だしである。歌い手の彼は、女同士の諍いを見ながら、「たかがマッチ箱の火事さ…」とうそぶく。
 「白い靴」では、「あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて…」という、いきなりドラマチックな出だしだ。
 このアルバムは、シングル・カットされた「時には娼婦のように」が入ったA・B面併せて12曲なので、なかにし礼作のBEST10をあげるとすると、このアルバムの曲だけで十分なのだが、以下にあげることにするが、やはりBEST10となるとシングル盤となったものとしよう。
 ちなみに、なかにし礼の作詞・作曲で自身が歌ったアルバムとして、「マッチ箱の火事」の第2段ともいえる「黒いキャンバス」(東芝EMI、1979年)も発売した。
 (写真、左「黒いキャンバス」、右「マッチ箱の火事」)

 *なかにし礼作詞の、私的BEST 10

<1>「涙と雨に濡れて」裕圭子とロス・インディオス、田代美代子とマヒナ・スターズ、(作曲:なかにし礼、1966年)
 涙と雨にぬれて、泣いて別れた二人……なかにし礼の、歌謡界でのデビュー曲である。それまでシャンソンの訳詞をしていたが、この曲から歌謡界に躍りでる記念すべき特別な曲といえる。
 なかにし礼、最初の結婚の新婚旅行先のこと。伊豆下田のホテルのバーで、たまたま来ていた石原裕次郎に会う。興味を持たれた石原に、シャンソンの訳詞なんかより歌謡曲を書きなよと言われて、約1年後に石原プロに持参したのがこの曲である。
 曲も自分で作り、作詞・作曲のデビュー作となった。メロディーもシンプルだが、哀愁を持った初々しさのある曲だ。石原裕次郎自身が歌ったら、大ヒットしたかもしれない。その後ヒットメーカーになったなかにし礼は、裕次郎のために多くの作品を書くが目を見張るヒット作は生まれなかった。

<2>「時には娼婦のように」なかにし礼、黒沢年男、(作曲:なかにし礼、1978年)
 なかにし礼による作詞・作曲・歌のアルバム「マッチ箱の火事」のなかのシングル・カットで、アルバムに先駆けて作られた。なかにし礼本人版と黒沢年男版との競作とした。
 なかにし礼言うところの「去勢されたような声を出して歌っていた」当時台頭するニューミュージック界の歌手に対するアンチテーゼとしてか、猥褻ともとれるエロティシズム溢れる内容は、歌謡曲にいかがわしい文学の世界を持ち込んだ画期的作品といえる。谷崎潤一郎か、はたまた吉行淳之介の小世界である。
 最初作品を見てレコード会社も危惧したというが、よく発売禁止にならなかったと思うし、それどころかカラオケでも歌われるように一般に受け入れられたのも意外であった。

<3>「恋のハレルヤ」黛ジュン、(作曲:鈴木邦彦、1967年)
 なかにし礼を歌謡界のメジャー作詞家に押し上げたのは、この黛ジュンの歌だろう。その後のヒット作、「霧のかなたに」、「天使の誘惑」(1968年、第10回日本レコード大賞受賞)、「夕月」のどれをとってもいいのだが、やはり渡辺順子から改名して再デビューした黛ジュンを一気にスター歌手にした「恋のハレルヤ」を代表作としたい。
 最初この歌を聴いたとき、「ハレルヤ」の言葉に違和感を覚えた。カトリックのミサ曲でもないのに、と。しかし、後になかにしは、この歌についてこう語っている。
 少年のとき、敗戦後満州から日本へ帰る引き揚げ船が出る中国・葫蘆(ころ)島で、長い間待たされた。そして、やっと帰れるというときの思い、叫びを、この歌の「ハレルヤ」という響きに託した。そして、歌のなかの「愛されたくて、愛したんじゃない、燃える思いを…」は、日本国に対する愛憎半ばする複雑な思いを男女の恋愛に譬えた、と。
 じゃあ、ハレルヤでいいか。いや、なかにし礼にとっては、ハレルヤでなくてはならなかったのだ。

<4>「今日でお別れ」菅原洋一、(作曲:宇井あきら、1967年)
 菅原洋一の歌では「あなたの過去など…」で有名な1965年に発売していた「知りたくないの」のヒット作があるが、この歌はなかにし礼の作詞ではなく訳詞である。
 「今日でお別れね、もう逢えない…」の方が情感があり、男女の別れの歌の代表作だろう。この歌は、1970年に第12回日本レコード大賞を受賞した。

<5>「石狩挽歌」北原ミレイ 、(作曲:浜圭介、1975年)
 「海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると…」石狩の海のニシン漁を舞台にした曲で、これぞ、まさに文学的作品である。
 満州から引き揚げてきたなかにし一家は、その後北海道の小樽で暮らす。その時、なかにしの兄はニシン漁に博奕的に金をつぎ込み、結局すべてを失い一家離散の結果になる。そんな兄に対する複雑な思いが、ニシン漁の情景として結実した。
 最後の歌詞は、何と言っていいだろうか。「変わらぬものは古代文字、わたしゃ涙で、娘ざかりの夢を見る」
 兄には金銭をたかられ生涯悩まされたなかにし礼だが、1998年にその兄を描いた小説「兄弟」で、本格的な作家の道を歩くことになる。

<6>「手紙」由紀さおり、(作曲:川口真、1970年)
 前年に出した「夜明けのスキャット」の大ヒットに続き、由紀を確固たる歌手に確立させた曲。
 「…何が悪いのか今もわからない、だれのせいなのか今もわからない」。こんな恋の別れもある。かつては、恋の最良の伝達手段は恋文だった。リフレンされる「…涙で綴りかけた、お別れの手紙」が切ない。

<7>「エメラルドの伝説」ザ・テンプターズ、(作曲:村井邦彦、1968年)
 1966年頃から始まったグループ・サウンズ(GS)ブームの最後の輝きを放っていた時期の、テンプターズ最大のヒット曲。ギリシャ神話のナルシス(ナルキッソス)伝説を想起させるロマンティシズム溢れる曲で、少女たちを熱狂させた曲群の代表だといえよう。
 歌謡史に一時代を築いたGSブームだが、翌年には急速に衰退化していくことになる。

<8>「いとしのジザベル」ザ・ゴールデン・カップス、(作曲:鈴木邦彦、1967年)
 翌年「長い髪の少女」が大ヒットした、横浜で活動していたGS、ゴールデン・カップスの最初のシングル盤。
 最初聴いたとき、「ジザベル」は「イザベル」の聴き間違いではないかと思った。というのも、シャルル・アズナブールの歌に「イザベル」があるからだ。
 「…愛していたのに、愛していたのに」そして、「ジザベル、ジザベル、ジザベル」と繰り返す。この歌は、きっとアズナブールへのオマージュだ。
 「イザベル」はフランスで多く見られる女性の名前で、ちなみにジザベルは旧約聖書に登場する古代イスラエルの王妃で、イザベル、イゼベルともいう。

<9>「恋のフーガ」ザ・ピーナッツ、 (作曲:すぎやまこういち、1967年)
 ん?バッハを持ってきたか、と思った。「トッカータとフーガ」である。この曲自体は楽曲形式のフーガ(追走曲)と関係ないが、あえて言えば「追いかけて、追いかけて…」と、繰り返すことだろう。
 翌年、シリーズを暗示させる「恋のオフェリア」を出すが、次の「恋のロンド」では作詞は橋本淳となった。

<10>「花の首飾り」ザ・タイガース、(作詞:菅原房子、補作詞:なかにし礼、作曲:すぎやまこういち、1968年)
   「港町ブルース」森進一、(作詞:深津武志、補作詞:なかにし礼、作曲:猪俣公章、1969年)
 この2曲はいい曲で好きな曲だが、なかにし礼は補作詞なので、あえて最後に補足風に入れた。「花の首飾り」は雑誌「明星」の募集歌で、「港町ブルース」は雑誌「平凡」の募集歌である。
 
 この後方を見ると、「あなたならどうする」いしだあゆみ(1970年)、「夜と朝のあいだに」ピーター(1969年)、「愛のさざなみ」島倉千代子(1968年)が、はるか彼方に見えるが届きはしない。

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裏高尾の「八王子城跡」を歩く

2020-12-02 02:43:01 | * 東京とその周辺の散策
 いくら独り暮らしに慣れているとはいえ自粛生活も長期化してくると、これではいかんという気持ちが芽生えてくるものだ。先に掲げた「コロナ時代の哲学」で指摘されたように、人は誰かと接触したい、移動したいという本質を持っている。
 最近はことさら月日が過ぎるのが速いのだが、去る10月28日のこと、秋も深まってきたので、街の散策友人たちと密を避けるように、都心ではなく奥八王子の高尾方面に行くことにした。
 
 行く先は、「八王子城跡」である。
 高尾山のある高尾は、都心からさほど遠くない距離であることと程よい山歩きとあって、近年人気が高いちょっとした観光地である。八王子城はその高尾の近くにあり、まださほど注目されていないが、東京では珍しい石垣の残る山城跡である。
 私は、この一帯を「奥八王子」あるいは「裏高尾」と勝手に呼んでいる。

 *秀吉によって落城された、北条氏の最大支城「八王子城」

 八王子城は、小田原に本拠を置いた北条氏の3代目北条氏康の3男氏照によって築かれた。氏照は当初、同じ現在の八王子市北東部に滝山城を築いていたが、北条氏の支配拡張と甲斐氏ら西方の脅威を防ぐために、滝山を離れ、その南西部に築いた山城が八王子城である。
 1582(天正10)年頃に築城が開始され、1587(天正15)年頃には滝山城から拠点を移したとされているので、時期としては豊臣秀吉の全国統一が始まった頃である。
 八王子城は北条氏最大の支城であったが、豊臣秀吉の小田原城攻めの際、1590(天正18)年、前田利家・上杉景勝軍に攻められ1日にして落城し、北条氏滅亡のきっかけとなった。
 八王子城下は、その後徳川家康によって現在の市中心部に移され、八王子城はその後深い森に覆い隠され、長く忘れられていたのである。

 それにしても、八王子とは興味深い名前だ。八人の王子か?
 JR京浜東北線に「王子」という駅が、東京都北区にある。各地に王子信仰に因んだ王子という地名があるようだ。しかし、窪んだ地である「凹地」(あふち、おうち)に由来する名もあるという。
 「王子」は何となくわかっても、「八王子」の由来は何だろうと思っていた。

 *きれいな石垣が整う、八王子城の跡

 朝11時、JR高尾駅着。駅そばのパン屋で昼食用のパンを買って出発。
 北口から出発のバスに乗り、「霊園前・八王子城跡入口」で降りる。ここから城跡まで歩きである。本丸跡のある城山(深沢山)は標高460mとあるから、高尾山の599mよりやや低い。
 まずは、途中にある「八王子城跡ガイダンス施設」に行こう。
 「霊園前」バス停から、進行方向のすぐにある信号で交差する道を左に入る。その道が八王子城跡に続く道で、そこはもう東京都内とは思えない風景の田舎の道である。
 ポツンポツンと人家があり、時折柿の木が目に入る。枝にはオレンジ色の実がなっていて、つい手を伸ばしたくなる。行き交う人とも、めったに出会わない。
 バス停から15分ほど歩いた田舎道の先に、ガイダンス施設がある。
 ここは、八王子城に登る拠点ともいうべきところで、八王子城に関する資料、展示の他に、ゆったりと寛げるスペースがある。ここで昼食用として、駅で買ってきたパンの軽食をとる。

 施設で入手したパンフレットを片手に今来た道をさらに進むと、大手門跡があり、さらに古道の先に、道に沿って流れる城山川に架かる大きな橋が見える。
 新しく木で作られたその曳橋(ひきはし)を渡ると、石垣と石畳の階段が続いている。その先に鳥居を思わせる冠木門(かぶきもん)という大きな木の門が待ち構えており、門をくぐり中に入ると、氏照の館などがあった「御主殿跡」が広がる。
 この辺りは石垣もきれいに組まれているし、曳橋は新しく造られ、門や遺構も復元整備されていて、さらに発掘調査進行中ということもあって、見た目も美しい。(写真)

 *城山(本丸跡)への道は、ハイキングというより登山感覚だ

 御主殿跡を見た後、本道に戻り、これから登る八王子城の城山(山頂)を見上げる。以前登った安土城の城山に、雰囲気が少し似ていると感じた。
 城山への入口に鳥居があり、その先の道はハイキング気分から登山の様相を帯びてくる。道はいかにも狭い山道で、見上げると一面木の茂みだ。
 その登山入り口とおぼしき道の脇に、木の棒が何本も転がっている。一瞬、台風か何かで折れた枝木を積んであるのかと思った。しかし、どれも同じ位の大きさ・長さなので、それらがこれから登る山道のための杖で、自由に持って行ってもよく、帰りにまた置いていくのだと理解した。もちろん、1本拝借した。
 道はすぐに「新道」と「旧道」に分かれている。いずれも柵門跡(8合目)で合流するので、当時の山道である旧道を進んだ。帰りに新道にするとよいだろう
 歩き進むと、道は整備されていないところも多く、石がゴロゴロしたところもあり、やはり杖が助かった。予め自分の登山用の杖を持参してくる人もいるようだ。高尾山より距離は短いが、登るのはきつく靴は登山靴でもいい(私は持っていないが)。
 9合目辺りで、八王子の市街とさらに遠く都心まで、視界が広がるところがある。しばし、遠く広がる東京の街の風景を眺めた。

 *頂上の「本丸」手前にある「八王子神社」

 さらにせっせと登っていくと、見落としそうだが「頂上」と書かれた小さな石碑が目につく。その先の階段を上がると、古ぼけた神社がある。それが、北条氏家が築城にあたり建てた「八王子神社」である。八王子にあるから八王子神社というわけではない。
 パンフレットの解説によると、牛頭天王(ごずてんのう)の眷属神(主神につき従う神々)である八人の王子神「八王子権現」を城の守護神として祀ったのが神社の名の由来だとある。ここから、城の名や八王子の地名が生まれたということだ。
 それにしても私が浅学ゆえか、そもそもの「牛頭天王」とは耳慣れない言葉だ。何なのだろう?
 調べてみると、牛頭天王とは日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされている。そして、京都の感神院祇園社(八坂神社)の祭神である。
 日本にこのような神があるとは知らなかった。

 八王子神社、ここまで来たら、ほゞ頂上だ。
 神社の裏手の坂道をさらに登ると、ほどなく「本丸跡」に到着する。
 やっと、本丸到着。そこには小さな祠と石碑が建っているだけで、天守閣があったわけではないので小さなスペースだ。
 時計を見ると、午後3時。御主殿跡を出て大手門より、ハイキングというより軽い登山感覚でもって、山道を約1時間ぐらいだ。
 到着した八王子神社や本丸跡には、そのときには他の登頂者はいない。ウィークデーということもあってか、途中、行き交った人やグループは4、5組という少なさだった。何でこんなところをと、ゼイゼイ息を吐きながら迷惑そうに凸凹の山道を登っている大型犬を連れた、派手な中年のカップルが目についたくらいだ。

 下山へ。途中の二股では今度は新道で下りる。
 麓に着くのは午後4時ぐらいだろう。この日の日没時間は午後4時50分ぐらいだから、ちょうどいい頃合いだ。この時間ではさすがに誰とも行き交わないなあと思っていたら、下りている途中、中年の男性と行き交った。これからだと頂上まで行けるだろうか、行ったとしても帰りは暗闇だぞと、他人事ながら困ったやつだと思いやった。
 登山口で、十分に利用させてもらった木の杖(枝)を置いて、ようやく山を出た。

 再び、元来た道をバス停に向かって歩いた。
 途中、人家のある道端で無人の露天販売所が目についた。決して売りものにならないビニール袋に入ったガサツな柿を買った。どう見ても野柿だが、それもいい。
 「霊園前」より、バスで高尾駅へ出た。ちょうど日が暮れだした。次の、夕食の目的地に向かおう。

 *夕食は、裏高尾の隠れ料亭へ

 高尾駅から京王線で一つ目の「高尾山口」へ行く。
 夕食は、高尾の山里に佇む和食屋「うかい鳥山」を予約してある。高尾山口の駅前から送迎バスで人里を離れ、陽が落ち暗くなったなか高尾の裏へ入っていく。
 着いた先は、林のなかに建物が散在していて、敷地内に水も流れている。ここは、数寄屋造りの離れ屋のゆったりとした和室は貸し切りなので、「密」にはならない。
 料理のコースは、突き出しに、メインは地鶏炭火焼きにヤマメの塩焼き、それに牛串を。そして麦とろご飯にけんちん椀。
 秘かに漂う裏高尾の静けさ…

 ずっと昔、若いとき、女性とここに一度来たことがある。あの時、どうして、どのような状況で、ここへ来たのだろう。甘美な記憶は霧のように曖昧だ。

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