かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

上海への旅⑭ 蘇州の庭園「滄浪亭」をあとにして

2009-12-31 02:00:14 | * 上海への旅
 蘇州の街は、一人歩きに向いている。
 賑やかな通りと古い庭園があちこちにある一方、街中を縦横に走る掘割には古い家並みが寄り添い、郷愁を誘う風景がある。
 「蘇州夜曲」の歌を想わせる掘割の細い夜道を、そっと忍び寄る木犀の香りを感じながら歩いていると、いつしか街の明かりが灯る大通りの十全街に出た。旅舎の近くの、湖北から来た女の子のいる食堂で遅い食事をとったあと、夜の十全街を歩いた。
 十全街は、今は観前街に蘇州の目抜き通りの地位は奪われてしまったが、かつての中心的繁華街の通りである。歩いてみると、日本の地方都市の商店街のような雰囲気がある。
 消費の主な部分はスーパーマーケットやファーストフードなどが集まる国道沿いに移り、街の古くからある商店街はそれに対する対応策をとることもなく、今までの店を今までどおりに守り通しているうちに、いつのまにか昔の栄華よ今いずこという雰囲気が漂い始めている、というのが日本の地方都市の典型である。
 それでも、中国は急激な経済成長の過程だから、新商店街の目覚しい近代化があっても、まだ旧商店街の衰退の兆しはない。商店街は、まだのどかな雰囲気がある。
 夜の十全街は、普通の店は閉まっていたが、ところどころに明かりが灯っていた。扉が開いていて、奥にカウンターが見え、椅子に何人かが座っている。扉の上を見ると、「Bar」と看板がある。
 日本でもよく見かけるバーだ。立ち止まってのぞいてみると、店の女性が何やら声をかけた。疲れていることもあって店には入らずに通り過ぎたけれど、通りには何軒かこのようなバーがあった。
 中国に、こういう普通の酒場があるのが嬉しい。普通かどうかは分からないが。
 中国では、食堂と果物屋と足浴屋が夜遅くまで開いている。それに盛り場では、酒場ももちろん夜の主役になる。上海のように都会だと、酒場はカラオケ店などと同じく、雑居ビルの中に潜んでいる場合が多い。

 *

 翌10月21日、蘇州青年之家旅舎で目が覚めた。
 西部の荒野にひっそりと建つ流れ者の宿屋のような簡素なこの旅舎とも、今日でおさらばである。
 昨晩、十全街の通りの果物屋で買ったバナナとミカンで朝の腹ごしらえをする。
 この日の夕方、蘇州を発って上海へ戻るのだが、その前に蘇州の庭をいくつか見る余裕はあるだろう。昨日は、留園も見逃したし。

 地図を見ていたら、蘇州四大園林の1つのである「滄浪亭」が、十全街の北西の方向にある。
 まずは、その庭園、滄浪亭に行くことにした。十全街から旅舎の前を通って南に行くと竹輝路にぶつかる。その竹輝路をまっすぐ西へ行くと滄浪亭の近くへ行くことになる。
 竹輝路のバス停からバスに乗って、工人文化宮の前で下りて滄浪亭に向かった。ゆったりとした堀に沿って病院があり、その先に庭園はあった。
 滄浪亭は、北宋の時代(11世紀)に造られた、蘇州で最も古い庭園である。堀に沿って造られ、屈源の詩、「滄浪の水」という魚歌から名づけられたという。
 日本の城の外堀を思わせる、水をふくよかに湛えた堀に架かる石橋を渡ると、庭園の入口に連なる。
 入場料は20元。昨日最初に行った拙政園が70元で高いと思ったら、次に行った獅子園が30元で、ここ滄浪亭が20元である。同じ四大園林でも格差がある。
 入口を入ると、目の前に築山が見え、道は左右に分かれて回廊になっている。その回廊から中庭を歩くと小高い築山に出た。その頂には四阿(あずまや)風の亭が設けられている。ここで、一服しながら四方の景色を見回すといった趣だ。
 さらに前方に建物や、ところどころ木々や花々の群生が見える。それらは白い塀の回廊で結ばれている。
 ここは、他の庭園と違って起伏に富んでいる。
 回廊を歩いているとき、ふと何かが足りないような気がした。バッグも心持ち軽い気がする。ふっと気づいた。さっきまで手に持っていたガイドブックはどこに置いたのだろう。と思って、バッグを底までひっくりかえして探したのだが、ない。
 園の入口に入ったときには、手にしていたガイドブックに入場券を挟み、バッグの中にしまわなければと思った。それがバッグに入れずに、そのあと、どこかの片隅に置いたままできたのかもしれない。
 今まで歩いた道を、辺りを見回しながら駆け足で戻った。見つからないので、園内を見学している人に、「日本語の旅行ガイドブックを見ませんでしたか?」と、訊いてみる。見学者はそう多くない。しかし、誰もが知らないと言う。
 僕は、また園内をくまなく歩いた。この滄浪亭は拙政園と違ってこぢんまりとした庭園なので、隅から隅まで歩き回ったところでそう時間はかからない。それでも見つからないので、入口の係りの人にも訊いてみるが、ないとの返事である。
 三たび、庭園を周ってみる。まるでとり逃がした犯人を追う刑事のように、執拗に周りの岩陰や茂みも見て回った。それでも、出てこなかった。
 受付で、再び落し物として出てこなかったかと訊いて、ないとの返事を受けて、諦めることにした。
 諦めたところで、何だかほっとした。ガイドブックは「上海・杭州・蘇州編」で、いつも持ち歩き、ガイドブックに頼りすぎていた。それに、あと2日で旅は終わるし、上海の中国語版地図はあるので、そう不便はないだろう。
 それにしても、短時間にこれほど密度の濃い、1箇所の庭園回りをした人間はいないだろう。おかげで滄浪亭の配置が頭に刻まれて、詳しくなった。
 滄浪亭は、白い壁の回廊が続き、その回廊には様々に装飾された通し窓が刻まれていた。その飾り窓は、季節の花々も描かれていて、その先には花々や木々が植えてあった。(写真)
 とことどころにある洒落た建物の中には、テーブルと椅子が置いてあり、団体の憩いの場となるであろうし、会議ができる威厳のある雰囲気も持っていた。
 中央の小高い築山からは、庭園を囲む堀の水を眺めることができたし、外からは水に浮かぶ庭園が楽しめた。

 *

 このあと、昨日その場へ行ったのだが見られなかった留園に行こうと思った。
 しかし、留園は遠く、また苦労してバスを探して行ったとしても、時間がない。もうとっくに昼を過ぎている。ガイドブック探しに時間をかけすぎたようだ。
 ひとまず旅舎に戻ることにした。
 竹輝路に出て、バス停を探した。なかなか見つからないので歩いている人に尋ねたが、ちゃんとした答えが出てこない。何人目かの若いカップルが真剣に思案してくれたので、地図を見せながら大通りを歩いていると、右に細い道が延びた三叉路に出た。いったん止まって、ゆっくり足を伸ばしたらゴツンと音がした。
 何が起こったのかと顔を上げると、目の前のバイクに乗った男と目が合った。男も、何が起こったのかという顔をした。一緒にバス停を探していたカップルも、何か起こったという顔をしている。
 バイクが僕の膝に当たったのだった。
 一瞬分からなかったのだが、僕の膝にバイクがぶつかった音だった。痛くなかったので、なんの音か分からなかったのだ。でも、事態はそうだった。
 僕が、何でもないというジェスチャーをしたので、みんなの緊張がほぐれ、何でもないのだという雰囲気になり、また元の状態に収まった。バイクの運転手も表情を崩し、事故でも何でもなかった、それでいいんだという顔をした。
 中国では、道路を横断するときは注意しないといけない。みんなの意識として、車が優先なのだ。だから、信号が青でも、注意しながら渡らないといけない。信号のないところでは、尚更である。
 アジアの国では、たいていの国で信号を信頼してはいけない。例外は日本である。日本人は、世界で最も信号を守る国民であろう。

 そして、何事もないように僕は歩き出した。
 結局、一つ先のバス停まで歩いて、旅舎に着いた。さっきは何ともなかった膝が押さえると少し痛いので、ズボンをたくして見てみると、そこが赤くなっている。やはり、衝撃があったのだ、と感じた。

 *

 駅に行く前に、遅い昼食をとるために、十全街の例の食堂に入った。相変わらず、主人は入口のカウンターにいたが、湖北から来たというウエイトレスの子猫のような少女はいなかった。
 夜だけの勤めだろうか。今頃、普通の女の子のように彼氏とデイトでもしているのだろうか。それだったら、いいのだが。
 しっかり者の奥さん(想像)は店内にいたし、厨房にいた男の人も顔を出した。
 それにしても、中国の食堂は店の人が多い。厨房や裏口から顔を出したり、店内を横切ったりするので、ああこの人も店の人かと思うのだが、何人いるのか正確には分からない。大して大きくもない食堂に、結構な人がいる。なかには、何の役割か分からない人もいる。
 上海の西安食堂は主人が厨房で鍋を握って料理を作っていたが、大体が店の主人は入口のカウンターの中で、愛想笑いをしながら金の計算をするだけだ。主人は、多くの時間を横に置いてあるテレビを見て過ごしている。主人の奥さん(らしい人)も、似たようなものである。年齢も幅が広く、子供も店内をうろついたりする。
 地方から来て都会で食堂を開いた人は、地方にいる同族を呼び寄せるようなので、みんな家族のようなものなのだ。
 日本のファーストフードの店のように、ぎりぎりの人数で効率よくとは考えていない。だから、店の雰囲気は何だか和やかだ。
 食事は麺にした。店のお姉さんに説明を聞き、6種類の食材の具が入った米麺というのを頼んだ。15元。細いうどんのような麺だ。うどん好きの僕としては、さっぱりした味でちょうどいい。

 *

 15時54分の列車で上海へ戻るので、旅舎を出て3時に大通りへ出た。
 バスは駅までは分かりづらいし、どのくらい時間がかかるか知れないので、タクシーに乗ることにした。ところが、空車がなかなか来ないではないか。
 すると、僕の待ち受けている道路の前方に、つまり車が来る方に1人の女性が現れてきて、彼女もタクシーをつかまえようとしているではないか。僕が先に通りに着たが、彼女が先にタクシーをつかまえる位置にいる。
 案の定、彼女が手を振ったところに、タクシーが着て停まった。すると、後ろから男が大きなキャリーバッグを持ってタクシーのところに走ってきた。どこか旅行にでも行くカップルだったのだ。彼らは荷物をトランクに入れると、僕に向かって手を振って招いた。
 驚く僕の前にタクシーを停めて、乗れとドアを開けた。僕がタクシーに乗ると、あなたも駅に行くと分かっていたよと言わんばかりに、当然のごとく「蘇州駅」と言った。
 そして、女性が僕に切符を見せた。それは、蘇州駅発15時15分発だった。もう15時10分であるから、かなり厳しい時間だ。急ぐのは当然だ。僕も自分の切符を見せた。僕のは15時54分発なので余裕である。
 駅に着いたところで、彼らは料金を運転手に払って、僕に18元払ってと言って、走りながら駅の中に消えた。時計を見ると、15時13分だ。間に合うといいのだが。
 僕が言われるまま運転手にお金を払うと、運転手は領収書をくれた。領収書は僕の払った18元より少しだけ多い額だった。しっかりしたカップルだ。
 僕はいつになく時間に余裕があるので、ゆっくりと駅に行き、大きな待合室で列車を待った。
 そして、蘇州発上海行きの列車に乗り、再び上海へ向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上海への旅⑬ 蘇州夜曲

2009-12-24 01:10:12 | * 上海への旅
 君がみ胸に、抱かれて聞くは
  夢の船唄、鳥の歌…

 1931(昭和6)年、満州事変が起こり、日本兵は中国東北部の満州地方に進出する。東京では、浅草にオペラ座、新宿にムーランルージュが開場した年でもある。まだ、庶民の楽しみは息づいていた。
 翌1932年に中国東北部に満州国が建国されるや、一気に日本人の目は大陸に向くことになる。そして、日本は満州国という夢を抱きながら、暗い戦争の時代へと突入していく。
 1937(昭和12)年には、廬溝橋事件より日中戦争が始まり、日本と中国の間は抜き差しならないものとなっていく。
 一方、満州国では、満州映画協会により主に国策映画を中心に映画制作を行っていた。この満映より、38年デビューした女優の李香蘭は、エキゾチックなルックスも相まって、満州の中国でも日本でも大人気となっていた。彼女は中国人ということになっていたが、日本人であった。
 1940(昭和15)年、李香蘭と日本で人気の長谷川一夫との共演映画「支那の夜」の劇中歌として発表されたのが、「蘇州夜曲」(西條八十作詞、服部良一作曲)である。
 李香蘭の歌唱を前提に作られたが、当時は作曲家のレコード会社の歌手がレコード吹き込みすることになっていたので、渡辺はま子・霧島昇歌唱でコロムビアからレコード発売された。
 戦後の1953(昭和28)年には、李香蘭こと山口淑子によるレコードが、彼女の主演の映画「抱擁」の主題歌として発売されている。

 *

 先日、近くの駅構内のCDレコード店が店仕舞いのため安売りをやっていたので覗いてみたら、偶然にも当時の「蘇州夜曲」の入っているCDを見つけた。コロムビア発売の、「懐かしの歌声」(上)の中の1曲で、幸運にも李香蘭の「夜来春」も入っている。こちらは中国語で歌っているオリジナルである。

 「蘇州夜曲」は、渡辺はま子と霧島昇のデュエットの、ノスタルジックな曲である。
 「君がみ胸に 抱かれて聞くは…」と、千切れるような渡辺はま子の歌声で始まる歌は、「夢の船唄 鳥の歌」と続いていく。
 蘇州はやはり、庭園というよりは水の街なのだ。街に網の目のように流れる堀割の沿道には、柳が植えられている。街に流れる歌は、船唄である。
 そして歌は、「水の蘇州の 花散る春を 惜しむか 柳がすすり泣く」と結ぶのである。
 今のように自動車による交通が発達していない時代には、蘇州もヴェネツィアのように堀には船が活発に走っていたに違いない。
 この歌は、メロディーもせせらぎの水ように流れるが、心をとらえるのは何といっても出だしの「君がみ胸に」の言葉だろう。
 「君がみ胸に…」という呟きのような言葉が、いきなり入ってきて、急に胸を揺らすのである。
 古代から繋がる恋歌のような、あるいは雅な相聞歌のような言い回しは、すぐさま「…抱かれて聞くは」と繋がれる。優美な出だしから一転、その大胆とも思われる表現は、ためらいや抵抗を抱くいとまも与えないで、聴く者の耳から胸に入っていく。あたかも、聴いているあなたも同犯者でしょうというように、たちどころに入って来て、知らぬ素振りで心を揺らすのだ。

 「君がみ胸に、抱かれて聞くは」とは、冷静に考えれば決して優雅とはいえない表現であり、内容である。それなのに、そう思わせないのは、「君がみ胸に」という接頭の言葉である。
 「み胸」は、もはや日常では使わない、どこか遠く古い都に埋もれた言葉である。
 確かに、例えば、「君が胸に」「君の胸に」では、いっぺんに現実的となる。
 曲が最初、「君がみ胸に…」と流れると、歌っているのが渡辺はま子なので、女性が主体だろうと思う。しかし、すぐに、相手のことを「君」と言っているから抱かれているのは男性かと迷わせる。しかし、また歌っているのはか細い柳のような声の女性であるので、やはり抱かれているのは女性だと思い、安心する。
 この歌の主体は男なのか女なのか惑わせる。
 もともと李香蘭のための歌だったのなら、女性が主体なはずだ。それなのに、なぜあえて「君」と言ったのだろう。なぜ、「あなたの胸に」としなかったのだろう。

 この歌が歌われた昭和15年頃が古い時代とは思わないが、蘇州の街が古い都を連想させるので、作詞家の西條八十は一昔前の優美な言い回しを使ったのに違いない。  「あなた」ではなくて「君」に、助詞は「の」ではなくて「が」に。
 字合わせとして「み胸」と使ったとしても、「君がみ胸に」と繋がる「抱かれて聞くは」という言葉は、奇妙な感情を発生、孕ませたまま、胸に残る言葉となっている。
 出だしのこの言葉によって、この「蘇州夜曲」は、歌謡史上に残る歌になったと言っていい。
 2番の「花をうかべて 流れる水の…」と歌うのは、男性の霧島昇である。男性が歌っても、女性が歌ってもいい内容である。
 そして、3番の歌詞である「髪にかざろか 接吻(くちづけ)しよか 君が手折りし、桃の花…」は、渡辺はま子が歌っているが、明らかに男性の言葉、台詞である。
 つまり、ここでは、男性の心を女性が歌っていることになる。だとすると、やはり1番の「君がみ胸」も、男性の台詞と考えてもいい。
 いや、この歌は、デュエットで歌っても、女性だけが歌っても、男性の歌なのだ。

 現在では、「君」は男性が同等もしくは年下の者に使うことが多い。
 しかし、もともと「君」は位の高い人に使った。上代では女性が、男性に対し敬愛を込めて言ったし、万葉集などで、「…君が袖振る」などのように、多く歌われている。
 近代になると詩歌で、「君」はしばしば女性に対するほのかな敬語として使われている。島崎藤村は「君がさやけき目の色も…」とか、「…君が情けに汲みしかな」などと、頻繁に「君」を詠っている。
 この「蘇州夜曲」でも、「君」が女性への敬愛の対象表現として使われているのだ、と思う。

 「蘇州夜曲」は、現在でもカバー曲として数多くの歌手・アーチストが歌っている。やはり、その多くが女性によるものだ。
 李香蘭の面影が、どこか漂う歌なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上海への旅⑫ 蘇州の街角、観前街から平江路

2009-12-21 04:35:14 | * 上海への旅
 蘇州の4大園林の1つである留園。
 蘇州の西の郊外にある留園をあとにした僕は、街の中心街である観前街に向かうために大通りのバス停に行った。もう黄昏始めていた。
 観前街に行くにはどのバスに乗ればいいのか?
 来たときと同じく直通のバスはないようなので、近くまで行って、そこから歩けばいい。どうせ中心街は、ここから東へ真っ直ぐの道だ。そう思って、地図と見比べながらバス停の路線案内をくまなく見ていた。
 すると、僕が旅人で思案していると思ったのか、どこへ行くの?観前街へ?と訊いてくる女性がいた。振り向いた僕の戸惑う顔を見て、中国語から英語に変わった。
 僕はええ、と答えた。その若い女性は、私たちもそこへ行くの、一緒に行きましょうと言った。よく見ると2人連れだった。それに、2人とも美人であった。
 声をかけた女性は、僕を見てまるで化粧品のCMに出ているモデルのように、にっこり笑った。それは、本当なのか愛想なのか分からない中立的な笑いのように見えた。
 やってきたバスに、彼女に促されて乗った。バスは思いのほか混んでいて、僕たちは立ったまま中心街に向かった。
 バスの中でも僕と目が合うと、声をかけた女性は何の心配もいらないのよという表情をいつも用意していた。その隙のない優しさと親切心が、僕を少し臆病にさせた。
 若い女性が2人でこれから繁華街の観前街に行くのだから、ショッピングか食事と思うのだが、これからお仕事のお水の商売ではなかろうかともちらと思った。それはそれでいいのだが、初日の上海のキャッチ茶館の出来事(上海への旅③)が、僕から冒険心を損なわせていた。
 観前街の手前の人民路で、バスは右折し、そこで停車した。地図を見れば、道路を渡ればすぐに観前街の西の端で、ここで下りた方が最も近いように思われた。
 多くの人たちが下り始めた。僕は彼女たちを見たが、彼女たちは下りる気配がなかった。しかし、僕は人混みに紛れて下りてしまった。
 バスを下りて、僕は彼女たちが下りるのを待ったが、バスが発車するまでに彼女たちは下りてはこなかった。このバスは、もっと観前街の中心部まで行くのかもしれない。彼女たちは、そこで下りようと思っていたのだろう。でも、僕は観前街の西の端から東の端まで歩こうと思ったので、ここでいいのだった。
 美女2人とは再見も告げずに別れてしまった。彼女たちは、僕がバスの中からいなくなったのを見て、どう思っただろうか?
 観前街を散歩し、彼女たちがこれからビールでもどうと言ったところで、僕は、ありがとう、でも今日はやめとくよ、と言っただろう。
 あとで後悔するほど、僕は慎重になっていた。僕は君子ではないのに。

 観前街は、上海の南京路のように洒落た歩行者専用の通りだ。ブランド店をはじめ様々な店が並んでいる。遊園地を走るようなミニバスも通っている。
 蘇州で最も派手やかな観前街は意外と長く延びていて、なかなかその突き当たりまでは行かない。
 もうそろそろ通りも終りだろうと思い、観前街の通りから北に向かう路地に入ってみた。すると、小さな衣料品店や雑貨屋や食堂が不規則に幾列も並んでいて、こちらの方が僕好みだった。東京でいえば、銀座の通りから下北沢の街に入ったような感じである。
 
 この近くにある、古い道並である平江路に行ってみようと思った。最近は観光客にも隠れた人気だという。店の人に訊いたら、もう少し東のようだ。
 歩いていたら、人通りのない細い道に来た。暗い道で、このまま行っていいものか不安になったので、前を歩いている人に地図にある平江路への道を訊いた。振り向いたその人は若い女性で、こちらですと言って歩き始めた。
 暗い夜道は、やけに長く続いている。行き交う人もいない。途中車が擦れ違うことすらできないような道に、ポツンと忘れ去られたようにホンダの車が停まっていた。
 しかし、1人では心細い暗い夜道も、女性と2人では心地よく感じてしまうから不思議だ。
 黙ったままの時間がどのくらいか過ぎた。その時間は30秒だったのか3分だったのか今となっては不確かだが、そっと、さりげなく無難に英語で訊いてみた。蘇州へ住んでいるのですかと。
 そうですと英語が戻ってきた。そして、日本人ですかと、意外にも日本語の質問が、こちらもさりげなくなされてきた。それは、構えた風でもぎこちなくでもない、ごく自然の言葉として存在した。
 僕は、驚いた。あなたは日本語を話せるのですか?いつ勉強したのですか? 
久しぶりの日本語に、僕は嬉しくなった。
 彼女は学生時代に日本語を勉強し、つい最近までこちらの日本の会社に勤めていたと言った。しかし、英語を勉強しようと思い、その会社を辞めて英会話の学校へ通っていて、今その学校へ行く途中だと言った。
 ビジネスの世界と同じように、関心が日本からアメリカに移ったようだ。それでも日本には興味があると、決してお世辞ではないと思える言葉で話した。流暢ではないにしても、正確な言葉遣いだ。
 話が尽きないと思いだした頃に、小さな川(堀)にかかった丸い橋に出た。堀沿いには柳が植えてあり、細い枝が垂れていた。ここが平江路ですと彼女が言った。 橋の先には、丸い提灯の街灯が飾ってある、木の紅色の格子で構成された中国式の館があった。急に別世界に来たようだった。そして、左右を見ると、堀に沿って細い路地とも言える石畳の道が延びていた。
 夜の闇に浮かんだ、静かに水を湛えた堀。その堀により添うように並ぶ古い家並みと石畳の道は、あえて幻想的に設営された景色のように思えた。(写真)
 2人でその平江路を歩いた。通りには、カフェやバーがぽつりぽつりとあった。それらは薄明かりの中で、いかにも西洋人が好みそうなエキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
 彼女が僕に付きあって歩いているようなので、僕が学校に遅れるからもうここでいいよと言うと、彼女は1人で大丈夫ですかと心遣ってくれた。いや、もう彼女は学校に遅れたていたのかもしれないのに。
 礼を言って彼女と別れたあと、1人平江路を南に歩いた。
 細い平江路は、古い街並みを残したまま長く続いた。
 やっと大きな通り千将東路に出たところで、平江路は終わった。出たところの道沿いに白い石膏の銅像があり、見覚えがあった。
 地図を見ると、やはり昨晩旅舎の近くの十全街から歩いてやって来た道のところではないか。とすると、このまま堀沿いに歩いて行けば30分ぐらいで十全街に出るはずだ。
 昨晩と逆のコースで、堀の反対の道を歩いた。
 誰も通らない道には、白い塀の家が並んでいる。途中、やはり木犀の香りがした。
 堀は静かに水を湛えて、白い淡い光を映している。
 「蘇州夜曲」という古い歌があったなぁと思いだした。

 十全街に出たところで、昨晩行った食堂へ入った。大分歩いたので、すっかり腹が減っていた。
 カウンターの中にいる主人が、おやまた来たねとばかり、にっこりと微笑んだ。奥に立っている猫のようなウエイトレスの女の子も、久しぶりに会った同郷の友のような顔をした。しっかり者の奥さん(多分想像だが)もいる。
 また、いつものようにメニューを見ながら、日中会話帳を広げてしかめっ面で見ていると、好奇心の強いウエイトレスの女の子が、また僕の会話帳をにやにやしながらのぞき込んだ。
 中国では初めての、麻辨(婆)豆腐をまず頼む。10元。
 それに、古老肉。いわゆる酢豚、22元。
 それに、睥(似字)酒、ビール。
 メニューを見ながら野菜がないかと探していたが、よく分からない。すると、調理をやっているふくよかで美人の愛人(妄想だが)が、何が欲しいのかと僕のそばに来た。僕が、野菜と肉の炒めとメモ用紙に書くと、彼女は、奥から細い枝とも葉ともいえる青野菜を手に掴んで、これでどうと見せてくれた。
 僕は直ちにOKのサインを出した。
 出てきた料理は、この野菜と肉の細切り炒めだった。しゃきっとしてとても美味しい。
 この野菜の名前は何かと訊くと、「金花菜」と美人の愛人はメモ用紙に書いた。初めて聞く名前で、初めて食べた。
 それと、麻辨豆腐が絶品だ。やわらかい絹豆腐で唐辛子がぴりりと効いていて、この店に似合わず繊細で洒落た味だ。
 ウエイトレスの女の子が、僕のそばにやってきて、メモ用紙に何やら書き出した。なついている子猫のようだ。かまってもらいたいのかもしれない。
 中国文字(漢字)はまったく日本の漢字と違うので、完全に理解できないが、どうも1人で旅行しているのか?と書いているようだ。僕が、そうだと頷くと、よくまあといった感じで目を丸めた。
 そして、僕が「一人」と書き、その横に1人歩いている人の絵を描くと、笑ったあと、もの珍しそうに改めて僕の顔を見て、またもや何やら書いた。
 何日ここにいるのか?という意味だと想像し、漢字で旅の日程を書いた。そして、中国と日本の地図を書いて、ここが東京だと言った。
 彼女は、うん、うんと頷いていた。
 僕が、君の故郷はどこだと訊くと、彼女はフーペイとか言ったが、僕が訊き返すと、漢字で「湖北」と書いた。蘇州から相当遠いところだということが分かった。
 やはり、僕が想像した通り、集団就職ではないにしろ、遠く田舎からつてを頼りに就職してきたのだろう。
 何歳?と、女性には失礼かなと思ったが、まだ若いからいいだろうと思って訊いてみると、20歳と答えた。ローティーンかハイティーンと思っていたら、意外と大人だった。
 もう大人だね。ビールを勧めると、笑いながら断わった。仕事中だものね。

 蘇州の夜は、こうして暮れていった。

 旅に出ると、勤勉になる。
 夜、旅舎に帰ると、共同炊事場で、下着と靴下を洗濯した。もう、深夜だ。旅には身軽にするために衣類は極力少なく持っていくので、大体1日おきに洗濯している。
 日中は歩きまわっているので、夜は疲れて、普段のように夜更かしせずに早く寝る。すると、普段と違って早く起きる。
 
 この旅舎の共同シャワーは、お湯の温度の調節が効かなくて、冷たい水か火傷するかのような高温度のお湯かのどちらかで、始末に悪い。
 どうやら、この日の旅舎の2階の宿泊客は、僕1人のようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上海への旅⑪ 蘇州の庭園

2009-12-18 03:15:26 | * 上海への旅
 杭州から蘇州へやってきた。
 10月20日、蘇州の旅舎で目を覚ます。
 窓のない部屋は、朝かどうか分からない。時計を見て、朝を確認する。
 こんな若者が泊まる味気ないホテルも、海外ひとり旅には格好の舞台と思えば心が晴れる。ただベッドがあるだけの単純な空間が、未知へのエネルギーを孕んでいるのだ。冒険を目指すには年をとりすぎたが、若いときは、こんな部屋にも言いしれぬ夢が満ちていたものだ。そして、そこから未知へ旅が始まった。

 蘇州は、長江(揚子江)の南、つまり江南の主要都市として古くから栄えた古都である。
 春秋時代(紀元前6世紀)の呉の都から出発し、隋の時代(6世紀)に呉州より蘇州となった。
 古くから、「杭州には西湖の美があり、蘇州には園林の景勝がある」と言われてきた。つまり、蘇州は運河が縦横に張り巡らしてあるので、東洋のヴェネティアと呼ばれているが、それより有名なのは数多くの庭園なのである。
 現在、蘇州にある拙政園、留園など9庭園が世界遺産となっている。なかでも、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つを、「蘇州四大園林」ともいう。

 窓のない旅舎の部屋で、昨晩、街を歩いている途中のスーパーマーケットで買った牛乳と菓子パン、それに洋梨とミカン1個を食べて外へ出る。
 まずは、最も有名で大きいと言われている「拙政園」を見ようと出かけた。
 地図を見ると、拙政園は街の北にあり、南にある旅舎のある十全街からは街を縦断するほど遠く、歩ける距離でない。
 バス停を探して、バスで向かうことにした。
 中国のバスは、数字で行き先が分かれていて、バスは頻繁に走っているのだが、行き先に行き着くバスナンバーを見つけるのが大変である。やっと近くの蘇州博物館に行くバスを見つけて、そこから拙政園に着いた。
 この庭は、明の高官王献臣が、中央で失脚後にこの地に造ったものだ。
 「拙政園」という名前が面白い。この名は、藩岳の詩「閑居賦」の一節の、「拙(つたな)い者が政(まつりごと)をするは、悠々自適、閑居を楽しむことなり」から来ているとされる。
 また、収賄で溜めた金で造ったのを自嘲的につけたという説もある。
 彼を皮肉って言った言葉が名として残ったとなると、それこそ皮肉なものだが、それはそれで面白い。
 庭は広大で、緑の散歩道が続く。面積は5万㎡とあるから、東京ドームより大きいことになる。行く先々に、堀があり、池があって、水が存分にあるのが、この庭が落ち着く源になっている。
 堀には木の小船がひっそりと浮かべてあり、ことさら情緒を誘う。(写真)
 庭園の持ち主は、この小船に楊貴妃のような美女の愛人を乗せて、庭の花々を見ながら戯れの余生を送ったのであろうか。
 庭は、いくつかに分かれていて、そこには仕切の白塀があり、その塀に刳り抜かれた出入り口が丸いのも、足を止めた。遊び心もある。
 藤棚のような一角があった。それは、薔薇科の白木香と書かれていた。頭の上に、屋根状に白い薔薇の花が咲き誇っていたらと想像し、その季節でないのを惜しんだ。それに、薔薇科なのに枝に棘がないので、その蔦状の小枝が垂れてきて、身体にまとわりついたところで痛くなく、もし美女と寄り添ってでもいたら、逆に白い花が二人の仲を後押しし、心地いいに違いない。
 樹齢120年と書かれている。新しいとは思わないが、相当古いと言えるのだろうか。分からない樹齢だ。その葉を千切って、本に挟んだ。いけないことだ。

 *

 拙政園のすぐ近くに「獅子林」の庭園がある。歩いて数分ぐらいで行ける距離だ。
 獅子林は元代の庭園だ。太湖から引き揚げられた、ごつごつした白い石で造られている。園内の石が獅子に似ているから名づけられたようだ。
 石の庭は情緒的でないので、僕の好みではない。日本の枯山水も、このあたりからきたのだろうか。この石の庭を、物語的に、はたまた怪奇的に装飾したら、香港のタイガーバーム・ガーデンに行き着くのだろう。

 獅子林を出て、通りの食堂に入った。
 主人が1人出てきた。昼食の時間帯を過ぎていたので、客は誰もいない。ここは、無難な料理を頼んだ。
 青椒肉絲飯。ピーマンと肉の細切り炒めとご飯、10元。
 僕が食事をしている間、店の主人はカウンターの中で熱心にテレビを見ていた。そのとき、「はい」と言う甲高い声が、画面の中から続けざまに聞こえた。テレビを覗くと、戦争ドラマであった。第2次世界大戦時のドラマのようで、日本兵が上官に向かって直立不動で返事しているのであった。
 上海の仲よくなった西安食堂で、筆談で、僕が日本人だと書いたときに、食堂のお父さんが、「日本人ですか、ハイ、ハイ」、と直立して、大きな声で返事をしたのを思い出した。そのハイに、僕も、みんなと一緒に笑った。そのときは単に、日本人は几帳面にハイと返事するものと一般的な中国人は思っているのだ、と解釈していた。
 あのときのハイという甲高い言葉は、このドラマでの日本人の言葉だったのかと、僕は少し嫌な気分になった。中国の戦争ドラマで、日本の兵隊がいい描かれ方をされているはずはないと思ったからだ。
 まあ、仕方がない。確かに戦前に日本は中国でいいことをしたとは思えないから。
 食堂を出て、留園に行こうと思った。

 「留園」は、明代に造園し、清代に改造されて今日の庭園になった。
 地図を見ると、留園は、外堀である外城河の西の郊外にあった。とにかく行ってみよう。夕方5時頃には着くだろう。
 留園には、どのバスに乗ったらいいか分からない。とにかく、最寄りのバス停に行って、待っている人にガイドブックを見せながら、乗るバス路線を訊いてみた。しかし、何人かに訊いたが、答えが出てこない。一生懸命に考えてはくれているのだが。
 やっと1人の若者が、自分の詳しい地図帳を取り出して、留園の直行ではないが、最寄りのバス停に行くバス路線を教えてくれた。そこで降りれば、留園までは歩いてすぐですよと言った。そして、自分もその先に行くので、僕が乗るバスに乗ればいいと言って、乗るバスを教えてくれた。
 つまり、留園行きの直行バスは、そのバス停からは出ていなかった。そんなことはよくあることで、バスの乗り継ぎをしないといけないのだが、地元の人でもこの乗り継ぎは簡単には分からないのだろう。これだから、バスはやっかいだ。
 若者に言われた楓橋路で下りたところは、郊外といっても意外と開けていた。蘇州は、奥行きが広い。
 そこから歩いて、やっと留園にたどり着いた。すると、庭の入口の門は閉まっていた。受付の案内板には、閉園は夏5時30分、冬5時と書いてある。時計を見ると、すでに5時半である。
 仕方ない。バスを見つけるのに時間を取ってしまった。
 閉園後の留園の周りは、寂しい空気が漂っている。再び、大通りのバス停に向かうことにした。
 歩きながら思った。僕の旅は、目的地に着くのではなく、その過程にあるのだと。目的地に行くのが目的であれば、タクシーに乗ればよかった。そうすると、きっと閉園前に着き、慌ただしくても庭の中を見て回れただろう。
 でも、目的地に行く過程を僕は旅しているのだと、自分を納得させた。留園は明日また来ればいい。
 僕は、再び蘇州の中心街へ戻ることにした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上海への旅⑩ 列車の旅で、蘇州

2009-12-11 01:08:56 | * 上海への旅
 10月19日夕刻、列車で杭州から蘇州に着いた。
 蘇州駅に着いたときは、日が暮れかかっていた。蘇州には2泊するつもりだったので、21日の上海行きの切符を買っておこうと思い、切符売場である售票処を探した。切符売場は、やはり乗降口より大分離れたところにあった。
 行くと、どの窓口にも行列ができていた。どこの駅もそうだ。
 夕方発の列車がないかと探していたら、掲示板に上海行き15時54分発のがあったので、2日後のそれにした。窓口で切符を買うと、15元であった。あまりにも安い。
 切符には、K182次の車両で、真空調硬座快速で天座とある。(写真)
 切符の写真を見ると、蘇州の蘇の字が、芬に似たまったく違った中国字になっているのが分かるだろう。
 列車は硬座で天座であるから、硬い木の座席で天空が見える、屋根のない無蓋車のようなものなのだろうか。終戦直後であるまいし、そんなことはあるまい。もしそうだとしたら、そのまま中国東北地方の旧満州、長春(新京)まで行ってみたいものだ。
 「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」のように、屋根も庇もないトロッコ列車に乗るのもいい。あの映画も、インディ(ハリソン・フォード)が上海で美女と知りあって、中国人少年とインドの奥地に行く話だった。「天座、魔宮行、単票」なんてのがあれば、いいなぁ。
 それはさておき、天座とは、おそらく自由席なのだろう。硬座があるとすれば、軟座もあって、座席の椅子に格差があるのだろう。硬座が格下であるのは言うまでもない。

 蘇州の駅前に立って、地図を見た。
 蘇州の街は、四角く堀(外城河)で囲まれていて、さらに堀割である細い運河が縦横に張り巡らされていた。周囲が海ではないが、ヴェネツィアを思わせた。
 駅はこの堀の北にあり、予約してある蘇州青年之家旅舎は、南の十全街(通り)から南脇に下ったところにあった。
 すでに日も暮れていた。ここからバスを探してそこへ行くには、かなり困難を要しそうだ。中国のバス路線がやっかいなのを知っていた。それに、チェックインも急がないといけない。などと、言い訳しながら、タクシーに乗ることにした。
 僕は極力タクシーを使わない、地元の人の利用する公共の交通機関(電車、バスなど)での旅を目指しているが、たまにはこういうこともある。
 タクシー乗り場には、そこも行列ができていた。

 タクシーに乗ると、運転手に地図を見せながら旅舎の住所と、近くにある有名ホテルらしい蘇州ホテル近くと言った。運転手は老眼らしく見えにくい仕草で地図をながめていたが、分かったのか発進させた。
 車は、駅から街を囲む外城河に沿った外側の道を走った。空はダークブルーに染まって、まさに夜のとばりが下りようとしていた。堀に沿って、城の櫓のように中国式の建物があり、そこがイルミネーションで縁取られて輝いている。さらに、その輝きを長く続く堀割の水に映していた。それを見て、やはりこの街が水の都だと知った
 運転手は近くに来たのだろうか、外を右左に注意深く見ながら走った。そして、大通りから脇の道に入ったので、僕は違うところへ行っているのではと疑心暗鬼になった。
 それで、おもわず運転手に「蘇州飯店」と言った。そこなら有名ホテルらしいから知っているだろう。そこからは大した距離ではなさそうだし、そのホテルから歩こうと思ったのだ。
 運転手は、「蘇州飯店?」と聞き返し、僕が「そうだ」と言うと、車をUターンして、また大通りに出た。そして、蘇州飯店と書いてある入口前に出た。
 大通りの蘇州飯店入口は車が擦れ違う程度の間口だが、中の方に専用の道が続いていて、大きなホテルであることがすぐに推測できた。僕は、入口を入ったところで、「ストップ」と言った。
 しかし、運転手は僕のストップを無視して、敷地に入った。そこには燦々と光り輝く立派な建物が構えていた。タクシーは、そのホテルの入口まで行き、そこで車を止めた。
 玄関前には制服を着たホテルマンが立っていて、素早く僕に近づいてきて会釈した。僕はまずいなと思ったが、仕方ない。僕を案内するホテルマンに、車を出て、「ソーリー、僕はこのホテルに泊まるのではない」と言った。
 すると、ホテルマンは運転手に何か言った。小言を言っているようだった。運転手は、自分が勝手にこのホテルに連れてきたと疑われているようで、必死になって弁解していた。
 そう、運転手に罪はない。僕が勝手にこのホテルを指定したのだ。
 僕が顔を真っ赤にしている運転手に、メーター料金の21元を渡すと、運転手はむっとしたまま20元しか受けとらなかった。僕は、21元をしっかり運転手の手に押し返し、蘇州飯店の玄関を背にして、歩き始めた。
 運転手もホテルマンも不満を持ったままだった。僕が運転手を信用しなかったばかりに、本当に悪いことをした。
 蘇州ホテルを出て、地図を見ながら蘇州青年之家旅舎を探した。それらしいところが見つからない。行きすぎて引き返し、土地の人に聞いてやっと見つけたそこは、大通りから脇に入った、先ほどタクシーがUターンしたところだった。
 ホテルには見えない、通り過ぎてしまうのが当然の、普通のうらぶれた建物だった。それは、ホテルであることを隠す擬態のように、街の並んでいる建物の中に潜んでいた。

 旅舎の中では、若い中国人の男女と、西洋人が2人、ロビーらしき空間に座っていた。髪の長い西洋人が、ギターをつま弾いていた。後ろ姿だったので女性かと思ったが、ロックミュージシャンのような風貌の男性だった。
 中国人の男女は旅舎のスタッフだった。男がすぐに僕に対応した。
 宿泊料は、何と90元だ。
 部屋の鍵を渡された。それまでのカード式とは違って、古い差し込み式の金属のキーだ。
 2階の部屋に行くと、戸の部分の鍵のところがすり減っていて、鍵をかけても強く押すと開くのだった。誰かが、力ずくでギシギシと開いたのだろう。
 部屋の中に入ると、窓がない、ベッドが置いてあるだけの空間だ。洗面所もトイレ、バスもない。廊下の先の奥に、洗面所とトイレとシャワー室があった。
 この料金では仕方ない。

 部屋に荷物を置いて、ホテルを出た。
 十全街の通りに、大衆的な食堂があったので、すぐに入った。店の名前は、「○名米綫館」といかめしいが街の人が入る庶民的な食堂だ。
 入口のカウンターの中に、親父が構えていて、店の中はテーブルが6つある。若い女の子が、ウエイトレスとして立っていたが、手持ちぶさたそうだった。彼女以外にも、店の人らしい人が顔を出す。
 メニューと日・中会話帳の食材図をながめていると、立っているウエイトレスが近づいてきて会話帳をのぞき込む。好奇心旺盛な年頃で、それが顔に出ている。僕を見て、にっと笑う。何だか、集団就職(中国でもあるかどうか知らないが)で地方から出てきた少女のようだ。
 時々顔を出すおばさんも、受付にどんと座っている親父も、僕が何を注文するか、興味深げに見守っている。
 散々メニューをながめていても、無難な線を注文してしまう。
 咸菜肉絲。高菜と肉の細切り炒め。
 皮蛋。ピータン卵。
 水餃。水ギョーザ。
 四種面。4種の具の入ったうどんのような麺。
 睥(似字)酒。ビール。
 計35元。
 味はいい。僕は、再見と挨拶して店を出た。

 地図を見ながら、堀割に沿って北の方の繁華街に向かって歩いた。
白い塀の古い家が並ぶ。その道の堀沿いには柳や灌木が植えてあり、木々の先には水が明かりを照らしている。
 甘い匂いが夜に紛れて漂ってきた。その匂いに近づくと、木犀だった。夜の街灯に照らされた小さな花は、日本の黄色と違って白っぽい。かといって銀木犀ほどではない。うっすらと黄色なのだ。
 日本の金木犀は終わったばかりだったのに、中国では少し遅いようだ。こちらが寒いのでもないのに。
 人通りのない夜の運河沿いの小道は、寂しい。しかし、落ち着きのある街だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする