かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

新大丸での、西村玲子展

2007-11-29 18:13:27 | 気まぐれな日々
 京橋で、映画試写を2本見た。
 1本目は東京芸術大大学院映像研究家4人による、川端康成の初期作品をオムニバスにした「夕映え少女」(公開は、08年1月下旬、渋谷ユーロスペース)。少女の美しさと儚さをちらりと掠めとった作品群である。
 2本目は、珍しいイランのアニメ映画である。1970年から90年代の激動するイランを舞台に少女の半生を描いた「ペルセポリス」。あたかも、「テヘランでロリータを読む」(アーザル・ナフィーシー著)の世界である(公開は12月下旬、シネマライズ。その後順次全国展開)。
 日本とイランでは、世界を捉える感性がまったく違ってしまったようだ。
 *上記の映画評に関しては、別途記したい

 試写が終わり、京橋から東京駅に出た。
 東京駅は、いつ来ても胸が躍り、少し切なくなる。僕にとって東京駅は、東北地方の人の「ああ、上野駅」だ。だから、僕は九州に帰るときは、今でも羽田ではなく東京駅からである(列車が好きなこともあるが)。

 ここ、東京駅も様変わりした。皇居方面の丸の内側は、新丸ビルができたりしてビジネス街から若い女性も集まるお洒落なビル街になった。日本橋寄りの八重洲側は駅前にでんと構えていた大丸デパートが、このたび新築移転した。
 新大丸は旧大丸ビルの北に移っただけであるが、内装は今流行のファッションビルになった。

 その新大丸デパートのオープンに合わせて、イラストレーター西村玲子さんの作品展が開催された。期間は、11月28日から12月4日までである。
 西村さんとは、古くからの付き合いであるからカメラマンのヤス君と見に行くことにした。10階にあるアートギャラリーは、明るくゆったりとした空間である。
 今回は、本職のイラスト以外に、小物のパースや石とビーズのアクセサリーが目に付く。
 人も、首の周りのコーヒー色に光った石のネックレスをしている。その不揃いの石の並びがいい。
 「これはね、インド人がやっている石の販売店に行って見つけたの。それを買って、その晩にネックレスに作って、次の日そのネックレスを付けてまたその販売店に行ったら、私の首周りを見て、そのインド人がとても喜んでくれたの」と、西村さんは嬉しそうに話した。
 写真から動画に着手しだしたヤス君が、カメラを動かし始めた。僕らの間で、個人的な彼女の簡単なDVDビデオを作ろうということになっていた。もちろん、市販するのではなく遊びの領域である。
 僕が、にわかインタビュアーになって質問をぶつけるが、あまり自己PRをしない西村さんらしく、ぼそぼそと話すだけだ。もう業界では大御所の域なのに、いつまでも控え目だ。
 「アクセサリーを作りだしたのは最近のことだけど、子どもの頃から絵を描いたり、裁縫したりすることが好きだったの。家に「ドレスメーキング」の本が置いてあったのを見て育ったから。作ることは何でも好きなんです」
 好きなことをやっている人は、活きいきとしている。それで成功するとも全うできるとも限らないが、人は好きなことをやっている間は苦痛ではない。人間、好きなことをやることである。

 食事をして帰ろうと、3人で新大丸のレストラン階に行った。日本食から、中華、イタリアン、フレンチと洒落た店が並び、列ができている店も多い。そのなかに、フランスでは三つ星で有名なポール・ボキューズの店も入っていた。
 僕らは待ち人のいない鰻屋に入ったが、それでも少し待たされた。
 「東京版ミシュランでは鰻屋も1店星が付いていたけど、鰻の鮮度・良し悪し以外、料理人の腕としてそんなに差がつくものだろうか」
 「そうそう。それに、ステーキの鉄板焼き屋だって、牛肉の質以外に料理の差はどうでしょう」
 話は、自然に今話題のミシュランの星のことになった。
 門外漢の僕らにしてこうであるから、料理の専門家の間では喧々ガクガクらしい。
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☆ ミシュラン、星☆の謎

2007-11-23 04:10:40 | ワイン/酒/グルメ
<11月19日>
 この日、11月22日発売の「ミシュランガイド」の東京版の内容が発表された。
 ミシュランガイドは、星☆印3つを最高に、以下2つ、1つとレストランを格付けする、仏タイヤメーカーにより1900年に創刊された100年以上の歴史を持つ、世界で最も権威のあるレストランおよびホテル・ガイドの本である。このミシュランガイドに星が付いただけで、その店およびそのシェフは最高の名誉とされている。
 フランス・パリ版を発端に、ヨーロッパ各版およびアメリカ・ニューヨーク版があり、アジアでは東京版が初めてである。

 東京版は、何と三つ星は8軒である。二つ星が25軒、一つ星が117軒。
 最初発表を聞いたとき、意外な星の多さに驚いた。星付き店が150軒、星の数191個というのは世界最多である。しかも、その約6割が日本料理(和食)である。その中には、寿司屋も相当含まれている。
 本場パリですら三つ星は10軒である。そして、二つ星が13軒、一つ星が42軒で、星付き店、星の数は東京の半分以下である。
 それまで、パリの三つ星に次ぐのは、スペイン・ポルトガル版およびドイツ版の6軒。イタリア版は5軒であった。
 ヨーロッパ以外で初めて2005年にニューヨーク版が作られたが、三つ星はわずか3軒で、しかもすべてがフランス人シェフの店である。アメリカの食文化の低さからして、それはそれで納得いく結果ではあるが。

 ミシュランのガイドブックは、広告を載せずに、覆面調査員が密かに訪れ食し調査するという、公平・厳密さを売り物にして人気と権威をつけた。星の格付けはあたかも絶対的で、星がなくなるもしくは減る(降格する)ということで、その店のシェフが自殺するというエピソードもいくつかあるぐらいである。
 こうした歴史的背景を見ても、自分の文化に対してプライドの高いフランスをさしおいて、東京の星の異常とも思える多さはなぜなのだろうと思った。
 想像するに、ミシュランの、和(日本)食に対する認識が欠けていたということである。
 覆面調査員は、本社のフランス人3人に日本人2人ということである。このフランス人が和食に対する免疫がなかったのに違いない。フランスはじめ海外の日本食といえば、寿司、すき焼き、天ぷらで、値段は高いのに、日本人が食べると大した味ではない店ばかりである。
 このような和食しか経験したことのないフランス人が、日本の和食店に来て、初めての和食の味に驚き、はまったのであろう。
 しかし、懐石はまだしも、寿司などは鮮度で殆ど決まるので、料理の格付けは難しいと思うのだが。
 う~ん、星の疑問は残った。

<11月22日>
 この日、ミシュラン東京版が発売された。
 僕は、多摩センターの駅近くのビルの中にある行きつけの本屋K書店に、夕方6時少し前に行ってみた。
 平積みされているコーナーを見渡しても見つからないので、レジのところに行き、「ミシュランはどこにありますか?」と訊いてみた。すると、店員の女性がレジのカウンターを指さして、「そこに、最後の1冊があります」と、にやりと笑って言った。
 僕はそれを買って、「この店は何部仕入れたのですか?」と訊いてみた。すると、店長がやってきて、「20部です。系列の八王子店では100部仕入れて開店2時間で売り切れたそうです」と答えてくれた。そして、「うちの店も、売れると思って100部請求していたのですが、系列店全店に配給された中から、この部数だけしか割り当てられなかったのですよ」と話した。そして、「版元(ミシュラン)は、今、急いで増し刷りの準備をしているんじゃないですか」と笑った。
 その足で、駅の構内にある、少し大きな書店K堂に行ってみた。
 その店も売り切れだった。やはり、売れ行き状況を定員に訊いてみると、「当店は、100部仕入れましたが、夕方5時頃には全部売れました」と言って、コンピューターのデータを見ながら、「K堂の京王沿線30チェーン店で1700部仕入れましたが、この時間ですべての店で完売していますね」と言った。

 東京の郊外の多摩市でこの状況である。
 三つ星の大半を占め、そのグルメ度を確認させた銀座周辺の書店では、相当の数を仕入れ、そしてこの日完売したに違いない。
 
 そして、やっと気づいた。東京版の星の多さを。
 ミシュランのフランス人調査員の和食カルチャーショック論以外に、次のようなことが考えられる。
 * ミシュランが得る利益は、店の広告収入ではないので、純粋に本の販売部数による。まず、本が売れることが何よりである。あまりにも、星が少なすぎたら(厳格すぎたら)、日本人のミシュランに対する期待度が萎んでしまう。
 本が売れることでこそ、権威付けができるというものである。
 * 東京は16万店を超える食堂、レストランがあるといわれ、全世界の料理が食べられるほどバラエティに富んでいる。それに、日本人は勉強熱心である。料理も例外でない。特に最近では、本場で修行する料理人が増えている。であるからして、レストランのレベルは高い。確かに、フレンチはさておき、特にイタリアンなどは本場を超えるほどの味の追求であると思う。
 フランス料理を中心に評価してきたヨーロッパ版と違って、東京は日本食以外に世界各国の料理店があり、それを無視できないうえに、ミシュラン調査員は初年度にして、取捨選択の基準が定まらず(特に和食では)、当落線上の店に星を付けざるを得なかった。
 しかし、イタリアンは思ったほど多く星を得ていない。同じヨーロッパ食に関しては厳格なのである。それにもまして、中華料理店が少ないのと、インド料理をはじめアジアの料理店が皆無なのは解せない。
 * 日本人は格付けが好きである。大学などは、全国大学の学部別に1点差による偏差値格付けが横行している。テレビのバラエティ番組では、女性の格付けすら行っていた。
 
 ミシュラン東京版は、日本料理(和食)に重心を置いた日本人好みの特殊な本となった。
 この結果、ミシュラン東京版は、(おそらく)予想以上の売れ行きを見ることになるのである。
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ヴァイオリンの魅力

2007-11-18 00:50:25 | 歌/音楽

 最近テレビのCMで、おやっと思うものがあった。
 ロックのギタリストが1人出てきて、エレキギターでゆっくりと曲を弾き始める。次第に曲はリズミカルにテンポは速くなり、それに合わせてギタリストの数が多くなって(数十人になり)曲は終わる。曲は、「チゴイネルワイゼン」である。
 「チゴイネルワイゼン」といえば、有名なヴァイオリニストでもあったサラサーテが作曲したヴァイオリンの名曲だ。
 ギターで弾くとこんな具合になるのだと思った。
 ヴァイオリンの曲をギターで挑戦したというアイディアとチャレンジ精神は買うものの、「チゴイネルワイゼン」はヴァイオリンの持つ技巧を最大限に取り入れた超難関曲だ。このギター演奏では、この曲の持つ超絶技巧の部分は飛ばしてあるのだから、ちょっぴり拍子抜けである。
 
 このギターによる「チゴイネルワイゼン」によって、改めてヴァイオリンの奥深さを知った。

 *

 11月16日、夜、多摩センターの隣の駅にある南大沢文化会館で、第11回「アラベスク・コンサート」が行われた。
 多摩に住む大久保康明教授(フランス文学)が声楽家として出演するので、出向いた。
 大久保教授の声楽をはじめ、ピアノやフルート、ギター演奏など、ヴァラエティ豊かな演奏会である。
 「人間の声の発達は、進化による口腔の拡大によるそうですが、それを芸術にまで高めるのは大変なこと。けれどこれを通して、芸も学もたどる道は同じ。考え、試み、発見し、納得し、高みへと歩を進める過程です」と、教授の意気込みがプログラムにある。
 また、今回の演奏会は、先に頂いた案内状を見て驚いた。賛助出演、栗山安奈(ヴァイオリン)とある。
 栗山さんも多摩の隣の八王子に住んでいる人で、4年近く前に彼女の演奏を聴いたことがあり、偶然にも知り合いになった人だった。その後、彼女はイギリスに行って、帰国しているとは知っていたが、連絡も取り合わないままでいた。
 それ以来の彼女の演奏会だ。

 演奏会は、ショパンのピアノによる「子守歌」という静かなスタートで始まった。
 二人目に、大久保教授が出演した。トスティのナポリの曲、「アレキアーレ」である。ピアノは、ホームコンサートで演奏された今野恵子さん。ナポリの歌は、明るく楽しい。この曲は、教授にぴったりだ。
 その後、ギターやフルートなど、ヴァラエティに富んだ演奏が続いた。
 前半部の最後は、大久保教授のテノールと柳田るりこさんのソプラノによる、プッチーニの「トスカ」より「おお、優しい手よ」。手を取り合っての、微笑ましい歌声が会場に響く。
 休憩のあと、大久保教授の3回目の歌があった。グノーの「ロメオとジュリエット」より「恋よ、恋よ」である。
 今夜の教授は声の調子を崩したとのことだったが、それにもかかわらず、さすがと思わせる歌心があった。

 教授の後、栗山安奈さんのヴァイオリン演奏が行われた。彼女は、英国王立音楽院に留学、同大学院を卒業した実力者である。
 曲は、サラサーテの「カルメン幻想曲」。
 これは、ビゼーの歌劇「カルメン」を元にした曲で、「ツゴイネルワイゼン」と並ぶサラサーテの代表曲である。
 栗山さんの演奏は、曲の持つ超絶技巧を駆使し、流麗ながらも力強く、みんな息を呑んで聴くしかなかった。「ツゴイネルワイゼン」とはまた違った魅力いっぱいの曲だ。
 指先と弦の互いに踊るようなたゆまぬ行き来を、僕は目を見張って見つめた。そして、終わったあとは、溜息をついた。
 
 ヴァイオリンの魅力を、さらに強く思い知った夜となった。
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□ 青年の完璧な幸福

2007-11-09 02:00:17 | 本/小説:日本
 片岡義男 スイッチ・パブリッシング刊

 ものを書こうと思っている人間、もしくは書いている人間の最終地点はどこかというと、小説である。
 エッセイやコラムをどのくらい書いていても、その手の本を何冊出版していたとしても、作家と自ら名乗るには憚られるのである。小説の本を1冊出版して、初めて作家と名乗れるといった暗黙の了解点が、この世界には存在する。
 コラムや雑文で名を売って小説家に移行する幸運な人もあるが、大方は正面突破の小説家を目指す。後者の方が下積みが長いのは言うまでもないが、それだけ実力を蓄える期間を要しているとも言える。
 
 片岡義男は、若いときからコラムなどを雑誌に書いて人気を得ていた稀少な人だ。やがて彼は小説を書いて作家となり、その後、小説とコラムを平行して書いてきた。
 彼がデビューした1970年代は、五木寛之の全盛時代である。つまり、旧来の作家然としたイメージとは違って、ビジュアル系の作家の到来であった。
 五木はルックスだけでなく、小説の中にも、ジャズを挿入したり(結局演歌に行ったが)、フランス五月革命を取り入れたり、当時多くが未知の世界であった東欧を舞台にしたり、新しい文学家(文学ではない)の旗手と目されていた。
 片岡も、サーフィン、ハワイ、オートバイなどを書いてアメリカ通として若者に人気があった。
 その片岡の、30数年前、つまり20代後半の時代の物語である。
 すでに雑誌に物書きとして活動していた彼が、これから小説を書こうという時の話である。もちろん、小説であるから物語の主人公は片岡そのものではないかもしれないし、そうでないと言ってもいい。
 彼は、これから小説を書くという状況の中の主人公を、4つの短編に散りばめた。
 いずれも、編集者とのやりとりが喫茶店や酒場で行われ、彼らに促され、後押しされながら、小説を書く自分を見つめるのが、この短編集の基点である。

 この本の中で、編集者が片岡とおぼしき主人公に、「小説を書け」と言う。
 「評論でもノンフィクションでもいい。しかし君は小説だろう」
 「なぜですか」という問いに、
 「書くための材料はすべて自分の中にある。というタイプのようだから」
 そうなのだ。資料を集めたり、足で書いたりという小説もあるが、材料は自分の中にあるというのが小説の本道だと、僕も思っている。

 小説は、どうして生まれてくるか。
この本から、その例をあげてみよう。
 この小説の中の一編「アイスキャンディは小説になるか」は、次のような話である。
 小説を書こうと思っている物書きの若者がいる。ある日、にわか雨にあって、偶然出くわした女性の営む酒場に、雨宿りに入ることになる。そこで発した女性の言葉を、小説を書こうとしている青年は、創作ノートに記す。
 「ほんとにまた来なくてはいけないのよ」
 「私がいなかったら、母親と世間話をして、出直して」
 「何度も来ればいいのよ」
 「かならずまた来るのよ」
 「アイスキャンディをいっしょに食べただけでは、小説にならないのよ」
 こうして、彼はこの後、この店に通うことで愛が芽ばえるのであると続けば、単なる小説、というよりどこにでもある粗筋である。
 作者は、創作ノートに、さらにこう記す。
 「私たちは二度と会わない」
 こう記すことによって、この物語は片岡のみの小説になったのである。
 小説を書こうと思う主人公。彼の文は、30数年たってもなお瑞々しい。いや、ぎこちなく小説を書き始めた若者のような文章である。読んでいると、この主人公の若者のように、少し自分が宙に浮いているような錯覚に陥る。

 片岡は、「後書き」で、自分の小説家としてのデビュー当時を振り返り、描かれたハワイの波乗りの物語が、当時の彼の日常生活と大きく乖離している、と回顧している。そして、自分の現実から思いっきり遠いところに自分の書く物語を設定しなければならなかったと述介している。
 そう言えば、片岡義男は当初、テディ片岡と名乗っていた。これも、精いっぱい自分と乖離した表れかもしれない。

 本の題名にある意味は、これから小説を書こうと思っている青年、おそらくもうすぐ自分は小説を書くのだと胸の中で頷いている青年、それこそ幸せだと言うのである。本当に、そうなのだ。その瑞々しい思いが、文学を成り立たせている。
 そのことが分かるのは、当人にはずっと後になってのことだろうが。しかし、幸せなことである。
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◇ 大統領の理髪師

2007-11-06 00:42:01 | 映画:アジア映画
 イム・チャンサン監督 ソン・ガンホ ソン・ムリ 2004年韓国

 1960年代の韓国といえば、第二次世界大戦後勃発した朝鮮戦争後続いた独裁政権李承晩大統領の退陣後の、朴正煕大統領による長期政権の時代である。しかし、南北問題や韓国軍のベトナム戦争出兵などもあり、まだまだ政局は不安定であった。
 そんな時代、大統領官邸のある町で理髪店を営む普通の男が、ふとしたきっかけで、大統領の専属理髪師になった。
 映画は、その男と一家の物語である。

 映画の初め、男の妻が妊娠する。出産を渋る妻に対して、男は四捨五入の論理で妻を説得する。男は、「4か月目はいいとしても、5か月目に入ったら何としても生まなければいけない」と言い張る。理由は、四捨五入で決まっているのだ、憲法でもそうだろうと、分かったような分からない理屈で妻を押し切る。
 そのことより、生まれた子供は、「四捨五入のナガン」と呼ばれるようになる。
 その息子ナガンの独白で映画は進む。
 主人公の理髪師、ソン・ガンホのほのぼのとした感じの亭主役がいい。その夫を支える妻のソン・ムリの勝ち気な下町の女房役といいコンビになっている。
 
 町には情報部員が、住民を見張っている。スパイ容疑にされたり、北朝鮮の思想に感染した例えとして下痢に罹ったと言って逮捕が続く。本当の下痢に罹った理髪師の息子のナガンが逮捕されるという時代を彷彿させる冤罪逮捕の比喩もあるが、その時代の痛々しさと登場人物のユーモラスな感じが上手くミックスされて、ある種の哀感すら漂わせる。
 アメリカ・ニクソン大統領と朴大統領の共同宣言(推測だが)の歴史的映像に、理髪師の男が居並ぶなど、アメリカ映画トム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ/一期一会」を想起させる場面もある。韓国映画も懐が深くなったものだと感心させられる。
 60年代当時では決して映画化されなかっただろう映画である。しかし、政治を皮肉るばかりの映画ではなく、巧みにかつ温かく家族愛の映画に仕立てられている。
 
 中国では、60年代の文化革命下の人々の生活を描いた映画制作され始めた。粉飾のない毛沢東や周恩来の伝記も書かれている。
 やっと、戦後からの政治の混乱期を冷静に振り返ることができる時代になったのだ。
 日本でも、「ALWAYS」、「フラガール」や「佐賀のがばいばあちゃん」など、50年代、60年代を振り返る映画が脚光を浴びている。
 過去を懐古する余裕が出てきたのか、それとも現実に対する諦念であろうか。
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