かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 初恋

2008-12-23 01:45:32 | 映画:日本映画
 中原みすず原作 塙幸成監督 宮崎あおい 小出恵介 藤村俊二 2006年

 1960年代後半、大学は政治の季節であった。学生たちは、おしなべて反体制・反権力を標榜し、革命を語り、各大学や街では活発にデモが行われた。
 新宿では、岡林信康、高石友也、高田渡などによって、反戦フォークが歌われる一方、グループサウンズが徒花のように花咲こうとしていた。また、既成の芸術とは違ったサイケデリックやアングラ芸術が若者の間に浸透していった。
 60年代の日本は、雑草の中からいろいろな種類の花が咲こうとしていた時代であった。誰もが、大人も学生も子供も、ただ前を見ていた。それぞれが、これから来るであろう未来を、自分たちで彩るのだという思いでいた。
 夢は、目の前にあるように感じられる時代であった。例えそれが蜃気楼であろうとも、一人ひとりが夢を見ていた。

 そんな世相の中、1968(昭和43)年12月10日、東京都府中市で、銀行現金輸送車の3億円が強奪されるという事件が起こった。
 この事件は、白バイの警察官を装った男が、事故を装い現金輸送車を止め、自動車ごと持ち去るというものだった。
 3億円とは、それまでの現金強奪事件の最高額が3100万円であったので、いかに驚くような額であったかが分かろうというものである。それも、あっけない推理小説のような、トリックのようなやり方で、一人の怪我人を出すことなく現金車が持ち去られたのだ。
 すぐさま、犯人の似顔絵が全国に張り巡らされた。それは若い優男であった。
 これが、有名な3億円事件で、とっくに時効が成立しているが、いまだに伝説的な語り草となっている完全犯罪の迷宮事件である。

 その後、まことしやかに語られたのは、実際には事件は行われていなくて、現場の警察をも欺いていたというものである。当局の目的は、当時学生が多く住んでいた、事件のあった東京三多摩地域のローラー作戦により、過激派学生のアジトを徹底的につぶすのが目的だったというもの。実際、学生や若者が住んでいる地域の聞き取り調査が、何年もの間行われた。
 
 映画「初恋」は、この3億円事件の犯人は、当時女子高生だった少女だという物語である。
 ジャズ喫茶に出入りした女子高生のみすず(宮崎あおい)は、そこで東大生の男(小出恵介)を好きになる。少女はその男に秘密の共謀を持ちかけられる。
 それは、3億円を強奪するという計画だった。
 映画は、物語の間に、当時の学生運動のスナップが映し出される。
 女子高生役の宮崎あおいの演技力が光る。犯行を指示する東大生役の小出恵介が髪型といい当時の若者の雰囲気を醸し出している。
 事件から何十年か後、もう相当な年齢になった事件の実行犯の少女が、好きだった男の日記を見つけ、それを読むところで終わる。
 その日記には、こう書かれていた。
 1966年、僕は少女に出会った。その子は、真っ直ぐな目をしていた。
 彼女は僕に言った。「大人になりたくない」と。
 僕は恋をした。おそらく一生に一度の恋を。
 しかし、それを告げることはないだろう。なぜなら、僕は彼女を曇らせることしかできないのだから。
 
 事件後、男は行方不明である。
 少女はいつまでも男を待っていると言った。
 月日が過ぎていった。もう事件が、夢の出来事のように思えるようになってしまった今も、元少女は男を待っている。
 「初恋」
 それは、一生胸に深く刻まれた思い出というよりも、青春の証であり、消えることない深い傷である。いや、彼女の人生そのもののようである。
 3億円事件という有名な犯罪を手段に用いながら、60年代当時の純粋な若者像を描いた映画である。それは、現代人が忘れてしまった、甘酸っぱい恋物語である。
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◇ 華氏451

2008-12-19 01:48:49 | 映画:フランス映画
 レイ・ブラッドベリ原作 フランソワ・トリュフォー監督・脚本 オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティー 1966年英=仏

 華氏451とは、本、つまり紙が発火するときの温度である。
 本を読むことが禁止された近未来社会の出来事を、あのトリュフォーが風刺的に映像化した。つまり、焚書坑儒の世界を描いたものである。
 舞台となっている街は、閑静な住宅街。燃えないコンクリートの家が散在している。今でもよく見かけるような郊外の街である。
 家にあるテレビは、今の液晶テレビのような大画面で壁に装置されている。
 放映されている内容は、本を持っていた(法律を犯した)何名の者が逮捕されたといった、政府の一方的報道のような番組が主流のようである。討論のような番組では、視聴者も家にいながら参加できるようになっている。かといって、娯楽ではない。
 電話は、旧式のダイヤル式であるが、部屋のあちこちに置いてある。40年前には、携帯電話の普及は想像外だったようだ。
 いや、さらに未来になると携帯電話もなくなるかもしれない。
 街に車はなく、出てくるのは赤い消防車のみである。人の交通機関は、モノレールが使われている。
 モノレールは未来社会を想起させるのだろうか。映画で描かれた未来の街といえば、モノレールがしばしば登場する。

 主人公の男(オスカー・ウェルナー)は、消防士である。かつて消防士とは、火を消す役目であったが、本を燃やすのが仕事である。政府の警官とも特高機関ともいえる職業だ。
 彼の上司である長官は、本の害毒についてことあるごとに語る。
 「本は人を不幸にする。人心を乱して、人々を反社会的にする」
 「隊員にもっとスポーツをやらせろ。忙しくしていれば、幸せに感じる」
 「本を読むと不幸になる。なかでも小説は、幻に憧れてしまうからだ」
 「本を読むと人より賢くなったと思いこむ。それがまずい。皆、同じでないとな。平等でないと、幸せを感じない」

 本を読むこともない実直な消防士が、少し本に興味を持ちだしたときから、彼の人生は変わりだす。昇進を前に、彼は本を読み始めたのだ。
 そして、反抗を、すなわち小さな反乱を起こす。
 トリュフォーの、全体主義、独裁主義への風刺作品である。
 彼は、芸術表現への規制を非常に嫌った。だから、新しい映画というものを模索した。それが、ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた。

 主人公のオスカー・ウェルナーは、トリュフォーの名作「突然炎のごとく」に出演していた男である。ハンサムではないのだが、奇妙な味がある。
 小学校の校内で、小さな生徒が出てくるシーンがある。その子は、おそらく4年前の「小さな恋のメロディー」(1970年)のマーク・レスターに違いない。
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◇ パリところどころ

2008-12-17 18:01:39 | 映画:フランス映画
 監督:ジャン・ダニエル・ポレ(1話) ジャン・ルーシュ(2話) ジャン・ドゥーシェ(3話) エリック・ロメール(4話) ジャン・リュック・ゴダール(5話) クロード・シャブロル(6話) 
 出演:ミシュリーヌ・ダクス(1話) ナディーヌ・バロー(2話) バーバラ・ウィルキンド(3話) ジャン・ミシェル・ロジェール(4話) ジョアンナ・シムカス(5話) ステファーヌ・オードラン(6話) 1965年仏

 ヌーヴェル・ヴァーグ、つまりフランスから始まった映画の新しい波は、1950年代後半から60年代の全世界の映画界を席巻したと言っていい。
 日本にもその波は押し寄せ、大島渚や吉田喜重などの松竹ヌーヴェル・ヴァーグをはじめ、篠田正浩、蔵原惟繕などが影響を受け開花させた。さらに、本家ヌーヴェル・ヴァーグに影響を及ぼしたといわれる中平康の名も付け加えなければならないだろう。
 このヌーヴェル・ヴァーグは、狭義の意味ではフランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の主催者アンドレ・バザンの思想性の影響の元に制作された、ジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメールなどの、監督たちの作品を指した。
 しかし、広くはアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダなどのモンパルナス界隈に集まっていたドキュメンタリー出身の左岸派も含めて総称されるようになった。
 この波は、映画にとどまらず、サルトルをはじめとするフランス実存主義者や、ヌーヴォー・ロマンと称せられたアラン・ロブグリエ、マルグリッド・デュラスなどの(相互)影響もあった。

 この映画「パリところどころ」は、パリの街をモチーフに、当時のヌーヴェル・ヴァーグと称される監督たちのオムニバス映画である。
 40年前のパリの街角が映し出される。
 最も瞠目すべき作品は、第2話のジャン・ルーシュ監督による「北駅」である。
 北駅近くにアパルトマン(日本ではマンション)を買った新婚夫婦が、出勤前の朝の部屋で映し出される。そこで、家(部屋)を買ったのはいいが、すぐ近くで工事が始まって煩く、買ったのは間違いだったと女性が言い出し、夫婦喧嘩になる。
 女性は、今夜は帰らないと言い放って家を飛び出し会社に向かった。女性が道路を渡ろうとした際に接触しようとした車から男が出てきて、謝った。そして、歩きながら女性に話し出す。男は真面目で金持ちそうである。
 謝っていた男性は、このまま二人でどこかへ行きませんかと誘う。そして、ついには空港へ行って、どこか遠くへ出かけないかと話は、非現実的であるが魅惑的な方向にいく。とは言っても、男は詐欺師のようではないし、金はありそうな紳士である。
 女性は、男に好感は持てたものの、これから会社があるし、一緒に行かないと断わる。
 なおも、男性は誘い、言葉を続ける。
 「何げない出会いも、運命の象徴になりえます」
 「突然どこかに行きたくなる。通りすがりの見知らぬ人と」
 「人は相手を知れば知るほど、逃げたいと思う」
 「秘密が消えると、愛は消える」
 男の言う言葉は哲学的で、多くの知己に富んでいる。
 「例えば、闘牛です」と男は言って、言葉を繋ぐ。
 「いつも牛と闘牛士が戦う。どちらかが死ぬ。同じことの繰り返しだが、戦う相手は毎回違う」
 「男女の出会いも有史以来同じことの繰り返しだ」
 女性は「どちらかが死ぬの?」と質問する。
 男は「死が怖い?」と逆に質問する。
 女性は「誰でも怖いわ」と応える。
 男は言う。
 「君は人生を愛し、秘密が好きだね」
 「じゃあ、行こう。我々は死よりも強い」
 女性は、それでも冷たく「話もあなたも魅力的よ。でも行かないわ」と答える。
 すると男は打ち明ける。
 「実は、今日、自殺しようと思っていた。しかし、あなたの笑顔に会って考えが変わった。賭けてみようと思った。もし、あなたが同意してくれたら、私に不可能はない」と。
 だから、ぜひハイと言ってほしいと頼む。
 それを聞いても、女性はハイとは言わないで、断わる。
 すると、男は、陸橋の上に登るやいなや、その向こうへ飛び落ちる。女性は叫ぶが、地面に叩きつけられた男をカメラが上から映し出す。
 この間15分ほどを、カメラはほとんどカットなしで撮り続ける。
 最もヌーヴェル・ヴァーグらしい作品と言える。

 ジャン・リュック・ゴダール監督による第5話も面白い。
 付きあっていた男を二股にかけていた女性が、速達を二人に出すが中を間違えて投函し、2人のところに行って何とか言い訳し、ごまかそうとする話である。
 主演のジョアンナ・シムカス(「冒険者たち」など)が可愛い。彼女は「招かれざる客」で共演したシドニー・ポアチエと結婚し、早々と映画界を引退してしまった。
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□ 彼女たち--性愛の歓びと苦しみ

2008-12-11 14:20:58 | 本/小説:外国
 J-B・ポンタリス著 辻由美訳 みすず書房

 最後に何か本を書きたいと思ったなら、こんな本だろう。
 この本は、フランスの精神分析学者であり編集者である著者が、自分の人生を振り返って、「彼女たち」つまり、自分に関わりあった女性=彼女たちについて語ったものだ。
 それは、著者の愛の履歴書である。この紐解かれた愛の履歴のなかには、官能的な愛、プラトニックな愛、つかのまの愛、そのほか文学のなかの彼女、妄想の中の彼女など、様々な愛が入っている。
 おそらくもう恋をすることもないだろう、そう思った頃(そんなに思えるのはいつの頃だろうか)、通り過ぎていった愛の体験を語ることほど、愉悦を味わえるものはないと思える。それは、自分の人生の情熱を、すなわち最もいい思いを反芻するに等しいからだ。
 年齢にかかわらず、過ぎ去った恋や失った恋を思いおこすと、そのときに感じた苦しみや哀しみを甘酸っぱさが上回っている。それは、時間が過ぎ去った出来事に甘さを添加してくれるからだ。

 「精神分析用語辞典」の著者でもあるポンタリスであるが、この本では専門用語を使ったり、フロイト風に恋について精神分析をしているのではない。自分の気持ちを素直に吐露しているので、すんなりと心に入り込むいい台詞が散りばめられている。

 ――女一般について語って何になろう。「ある春の晴れた日」のように現れては、去っていく現実の女たちを愛そう。恋に落ち、愛のなかで新しい命を得よう。――

 恋をすると、その恋人が他の誰よりも美しく、素晴らしく見えるものだ。
 ――誰でも自分が恋する人をつくりあげるものだ。恋とは、その本質からして過剰評価にほかならない。現実主義ではないのだ。
 どんなに近くに寄ろうと、水平線は、見えるものと見えないものとの接点にあるがごとく、遠方にあり、そして、私が抱きしめる女は、島に接近させてはくれるが、私はその島に降りたつことができないのだ。(遠方にありて)

 「通りすがりの異国の女たち」で、彼はこう言う。
 ――彼は仕事の都合で、ローマ、ロンドン、ストックホルムなど、ヨーロッパのいろいろな都市によく出かけた。ほんの数日の滞在だった。そのたびに一人の女と出会い、たちまち恋におちいった。
 それを出会いと呼びうるとすれば、そうした出会いはときにはほんのつかの間のものであった。
 この話を聞いた彼の友人で、フロイトの考えに影響を受けている男がこう言ったという。「君のリピドーは信じられないほど不安定だよ」
 「説明してください。無意味なのに、あの異国の女性たちに僕はどうして激しくひきつけられるのだろう。ただすれちがい、ちょっと顔を合わせただけで、それもほんの短い時間のことなのに」――
 この文章を読んだとき、これは僕のことかと思った。

 ポンタリスは1924年生まれだから、生きているとすればもう80代の半ばである。死が身近に迫っているのを感じる年であろう。
 ――私は死の横暴に屈したくない。死は、生きている者に対して情け容赦なく存在を保持する。
 少し前に、コメディー・フランセーズでラシーヌの戯曲「フェードル」を観劇した。その台詞の一つが頭に残っている。「生きることをやめるのは、それほど大きな不幸だろうか?」
 その言葉を、その日がきたとき、私自身の口から発してみたい。私なりのやり方で、死を失望させ、死の勝利と凱歌を抑制するのだ。「それほど不幸なことだろうか?」――

 僕は、死を前に、こう言い放つことができるだろうか。
 まったく自信がない。
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□ アムステルダム

2008-12-08 01:38:27 | 本/小説:外国
 イアン・マキューアン著 小山太一訳 新潮社

 才能と出世と女に恵まれた者は、やがて身を滅ぼす…
 それは、おそらく本当である。
 
 「アムステルダム」は、映画「つぐない」(原題「贖罪」)の原作者であるイギリスの作家、イアン・マキューアンによる1998年ブッカー賞受賞作である。
 本文の前に、こう序文が書かれている。
 「ここで会い、抱きあった友らはもういない、
  それぞれの過ちに戻って。
   W・H・オーデン「交叉路」 」

 一人の魅力ある女性モリー・レインが、突然死んだ。それも、彼女の生前の輝きからは想像もできないような、尊厳も自尊心もない死に方で。
 彼女の葬儀に集まった参列者のなかで、彼女に関わりのあった3人、英国屈指の作曲家クライヴと辣腕新聞編集長ヴァーノン、それに総理も狙おうかという外務大臣ガーモニーが、物語の登場人物である。いずれも活動の場は違えども、最前線で活躍する男たちだ。
 しかし、3人の男たちは彼女の死を契機に、追い込まれていく。
 
 モリーの死後しばらくして、彼女が撮ったと思われる外務大臣ガーモニーのスキャンダラスな写真が出てきた。この写真が、売れ行きが後退しているヴァーノンの新聞にチャンスをもたらす。ヴァーノンはその写真を新聞で公開することで、センセーションを巻き起こし、新聞の部数を伸ばす画策をする。そして、事態はそのように動きだす。
 しかし、結局は彼の思うようには事は運ばない。
 ヴァーノンは、昔からの友人である作曲家のクライヴに相談する。クライヴは、交響曲を発表するため、曲作りの最後の局面にきていた。
 クライヴは、自分の才能と成功を疑わない男だった。作っている曲は、後世に残る最高作になるはずだった。しかし、肝心の詰めの段階で、ヴァーノンの電話で曲作りが中断され、うまくいかなくなる。
 二人は喧嘩し、やがて事態は、二人にとって思いもよらない方向へ転げ落ちていくことになる。

 イギリスが舞台なのに、「アムステルダム」という題名はなぜだろうと訝った。 最後に、クライヴが交響曲を発表するのが、アムステルダムの有名なホール、コンセルトヘボウだからだろうか、と思った。しかし、それだけでタイトルにするのは弱すぎる。
 著者マキューアンは、このアムステルダムを、クライヴの言葉を借りて、成熟した紳士的ないい街だと書いている。
 僕は、かつてアムステルダムを旅したとき、コンセルトヘボウの近くに宿をとった(たまたまだが)ことがある。確かに静かで落ち着いたいい街だが、何の刺激もなく興味を抱く街ではなかった。

 「アムステルダム」のタイトルの由来について、訳者あとがきに、著者のインタビューの引用が載っている。
 彼と友人の精神科医がアルツハイマーの進行の速さについて話していたときのことだ。ジョークとして、二人のうちどちらかがアルツハイマーにかかったときは、アムステルダムに連れて行き、その屈辱的な最期から救うため、安楽死させるという約束である。
 そうなのだ。そう言えばこの小説の最後に、このインタビューの記事を裏付ける、物語のキーになるアムステルダムに関する文が出てくる。
 それは、オランダの安楽死法について語ったあとの、アムステルダムの窓の外を眺めながらの文である。
 ――なんと明るく、秩序のある通り。角には小ぎれいなコーヒーハウスがあるが、おそらくドラッグを売っているのだろう。
 「ああ」と最後にジョージが言った。
 「オランダ人てのは合理的な法律を作るもんだ」
 「合理的ということになると、連中は行きすぎるからなあ」――

 アムステルダムは、合理的すぎる法律がある街だったのだ。
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