かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

近江・若狭の旅⑤ 天橋立から各駅停車で

2010-09-30 01:25:21 | ゆきずりの*旅
 天橋立の民宿の2階の窓から、朝の日が差してきた。
 旅の宿での目覚めだ。「浴衣の君」がいないのは寂しいが、そんな旅は慣れっこだ。
 9月12日のこの日も、窓の外の空を見ればカンカン照りの暑い日だ。まだ夏は居座っているようだ。

 1階の小さなテーブルが3つある食堂で食事をする。僕が最後のようで、1人きりだ。おばさんは、「腰を痛めてからきつくてねえ」と言いながら、せっせと動き回っている。
 「1人でやっているのですか? 毎日の食事作りも大変ですね」と僕が言うと、「ここだけでなくて、畑仕事もあるからねえ。畑も1人でやってるから」と言いながらも、決してつらそうでない。
 「昨日は何人泊まったんですか?」と訊いたら、「5人」と言った。そして、「この人数が限界だね」と付け加えたので、僕は、「最後の僕が1人余計だったかな」と言って笑った。
 「ご主人は手伝わないの?」と訊いたら、「もう、お父さんは全くノータッチだ」と、あてにしていないといった感じだ。
 昨晩、外風呂温泉から帰って、1階で食事しようと下りて、食堂の部屋の戸を開けたときのことだ。部屋を間違えたらしく、暗く大きな座敷に1人の中年というか初老の男が、座り机の前に座っていた。その男性は、白い紙を前に置いて、朱肉に何やら印を押していた。僕は「部屋を間違えたようで」と言ってすぐに戸を閉めたが、その男はちらと僕の方を振り向いただけで黙ったままだった。頑丈な体つきでまだ働けそうだったが、その男がおそらくおばさんの旦那である、お父さんなのだろう。
 そして、「この辺の畑もイノシシが出てね、被害があるんだよ。うちの畑もやられてしまった。お父さんは猟友会の理事で、朝から会議に出て行ったよ」と、おばさんは言った。お父さんは隠居といっても、何かはやっているんだ。
 昨晩間違えた部屋で見たあれは、朱肉も印も大きかったので、印章を彫る篆刻(てんこく)だったのかもしれない。篆刻が隠居後の趣味なのかもしれない。
 それにしても、九州もイノシシの被害で大変らしいが、このあたりもイノシシが出るということを知った。

 *

 食事をしたあと民宿を出て、駅の裏手の小高い丘の上の展望台があるビューランドへ行くことにした。そこからの天橋立の眺めは絶景らしい。多くの絵や写真がそこからのものだ。
 観覧車のような小さなモノレールで頂上に上る。
 見晴らしの開けた頂上から、海を見ると、空には少し雲が出ているが、それに繋がる海の中を松林がうねって進んでいる。
 これが、天橋立だ。絵に描いたようだ。いや、写真で見るのと全く同じだ。この景色は、他に類を見ないという意味で、「日本三景」と言ってもいいだろう。

 「日本三景」は、日本の美しい三大景色を指すのだろうが、あとの2つは「宮島」と「松島」である。
 世界遺産にも登録されている広島の「宮島」は、海に浮かんだ朱色の鳥居に見られる厳島神社のことと言っていい。鳥居や厳島神社の社殿は、景色ではなく建造物である。「三景」の景色は自然の美しさを適合させるべきで、建造物を中心とした「宮島」は三景に当てはまるとは思えないのだが。
 いっそ、この「宮島」(厳島神社)に、「室生寺」(あるいは「法隆寺」)、「日光東照宮」を加えて、「日本3建」とでもしたらどうだろう。
 また、「松島」は仙台の東沖の海に点在する島の景色で、確かに美しいのだが、日本にはこれに相当する海の景色はもっとあると思うのだが。
 この「日本三景」は、江戸時代に言われ始めたことだから、まだ日本全国隅々の名勝が知られていなかった時代のものだ。だからか、のちの大正時代に、実業之日本社が新しく全国応募により「新日本三景」を公表している。
 それによると、北海道の駒ヶ岳を借景とした「大沼」(ポロトー)。静岡県の富士山を借景とした「三保の松原」。大分県の「耶馬渓」である。しかし、この「新日本三景」は、広く流布しないでいる。

 丘の上のビューランドの展望台には、その天橋立に向かって「股のぞき」の台がある。そこから後ろ向きになって、自分の開いた股の間から天橋立を見ると、まるで龍が天に昇っていくように見えるというものだ。若い女の子も、平気でスカートの間から頭をのぞかしている。僕もやってみて、逆さまに映った写真を撮ってみた。(写真)
 ローマのトレビの泉で、誰もが後ろ向きにコインを投げるようなものだ。謂われのあるものは何でもやった方が面白い。
 下りは、一人乗りのリフトで下りる。

 あの海に続く橋立の松林を歩こうと思い、その出発地に向かった。
 すると、その場所に人が何人も立ち止まっていた。カメラを撮っている人もいる。その先は橋のようだ。
 そうか、うねっている松林は、すべて繋がっているのではなくて、ここで途切れていて、橋が架かっているのだ。それにしても、どうしてみんな動かないのだろうと、思った。
 近くに行くと、赤い橋の胴体がすぅーと動いているのだった。そして、瞬いている間に、普通の橋になった。
 案内マップを見ると、この橋は「廻旋橋」と書いてある。そうだ、この橋はその名の通り、船が来たら中心を軸に90度回るのだった。僕がそこへ来たときは、最後の50センチぐらい回って、ちょうど元の位置に納まろうとしている寸前だったのだ。
 橋を回している係の人に訊いたら、今は1時間に1回、定期的に回していると言った。時計を見たら11時を回ったところだ。この松林を歩くと1時間ぐらいかかりそうだから、次は見ることはできないようだ。

 海の間に続く細長い松林を歩いた。
 日が真上に上がっている。すでにシャツに汗が滲む。この日も気温は30数度あるのだろう。この夏は、記録的かもしれないが、記憶にも残る暑い夏になるだろう。
 松林には、途中、様々な名前の松がある。
 最初「廻旋橋」を通ったところに、「日本三景の松」というのがあった。おい、おい、この景色全体が日本三景ではないのかい?
 人名である、「式部の松」や「(与謝野)晶子の松」。「夫婦松」や「見返りの松」。さらに「羽衣の松」というものまである。
 おい、おい、「羽衣の松」は、三保の松原にあるのではないのかい?

 やっと1時間ぐらいかけて松林を渡ったが、疲れたので帰りは船で戻ることにした。
 船から長い松林を眺める。龍が海に横たわっている図だ。
 船は、出発点の「廻旋橋」の横の船着き場に着いた。すぐ近くに智恩寺がある。
 これで、「日本三景」は全部行ったことになる。

 *

 天橋立駅に行った。13時近い時刻だ。
 ここから北近畿タンゴ鉄道で南に下りて福知山に行き、そこからJRの山陰線で京都に出ることにした。そして、京都から新幹線で東京に帰ることにした。
 窓口で福知山、京都経由、東京までの切符を頼んだ。ここ天橋立駅は北近畿タンゴ鉄道だが、JRも続きで切符が買えるのだ。
 出された切符を見ると、天橋立から京都までは、JR乗り入れの特急だった。ここから京都や大阪行きの特急列車があるのは時刻表で知っていたが、地方の旅は各駅停車に限る。僕は、窓口の駅員に京都までは各駅停車で行くからと言って、すぐに特急券抜きの乗車券に換えてもらった。
 誰もが速くて便利な直通の特急に乗るとは限らないので、切符を発券するときは、駅員はその旨確認しなければいけないはずだ。心の中で怒りながら乗車券を受けとり、構内のキオスクで昼食用の駅弁を買った。

 13時03分、北近畿タンゴ鉄道の天橋立駅を出発して、次の宮津駅で乗り換えて、13時27分発の福知山行きに乗った。
 山間をゆく車窓を楽しみながら、駅で買った「笹寿し」(鮭と鰯のにぎり寿しを笹の葉で包んだもの)の駅弁を堪能。旨い。
 福知山に14時25分に着いた。そこでJRに乗り換える。
 福知山14時50分発の園部行き各駅停車に乗り、園部駅に16時12分着。
 園部16時15分発に乗り京都駅へ。のどかな山間を走っていたのが、京都市街地の嵯峨嵐山に入ったあたりから車窓の風景が変わった。急に家並みが乱立してくる。しかも家と家の間が狭いのだ。それでいて等間隔に計ったようだ。いわゆる京都の町屋を思わせる家並みだ。 その家並みからビル並みを通り過ぎて、列車は京都駅に入った。
 京都駅に16時51分着。
 京都駅17時09分発、新幹線東京行きの「のぞみ」に乗り、東京駅19時30分着。
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近江・若狭の旅④ 若狭から舞鶴へ

2010-09-28 03:27:25 | ゆきずりの*旅
 9月11日、昨日の雲一つない抜けたような晴天と違って、この日は雲が多い。その分日差しが和らいで少しは凌ぎやすいだろう。
 朝みんなと別れて、米原の琵琶湖のほとりのホテルから、9時15分のシャトルバスに乗ってJR米原駅に行った。
 そこから、北の方へ列車で行こうと思いたった。若狭には行ったことがなかったので、若狭湾のどこかへその日は行こうと思った。
 さて、ここから自由気ままな、地図を片手の列車による一人旅だ。
 若狭といっても、地図を見ても町はいくつもある。そのなかでも、どの駅で降りようかと迷った。
 とりあえず米原駅で、若狭湾の中ほどにある小浜(福井県)までの切符を買って、9時38分米原発、敦賀(福井県)行きの電車に乗った。敦賀から西の若狭方面に乗り換えだ。
 列車は、米原から、長浜、姫虎を通って敦賀へ向かう。
 田舎の2両編成の各駅停車の、誰も知らない人たちに紛れて、通り過ぎる窓の外の景色を見ていると、旅をしているという浮いた思いが湧いてくる。やはり、列車の旅はいい。

 終点の敦賀駅で、若狭方面に行く10時44分発、東舞鶴(京都府)行きに乗り換えた。敦賀からの各駅停車の列車は、右手に若狭湾を見ながら進む。
 美浜を過ぎて三方へ。ここは三方五湖があり明光風靡なところらしいが、一人湖を散歩するのはやめておこう。「湖畔の宿」でもあるまいし。
 ついさっきまで、小浜で名物の鯖でも食べようと思っていた。ところが、列車の中で地図を見ていると、舞鶴の海岸近くに「引揚記念館」と小さく書いてあるのが目についた。それを見て急遽、小浜で降りずに、終点の東舞鶴まで行こうと思いを変えた。
 思えば、舞鶴は、あの「岩壁の母」(歌:菊池章子、二葉百合子)の地なのだ。

 終点の東舞鶴に12時50分に着くや、駅前に出てみると、そこへ周遊の市観光バスがやって来たので、それに乗り引揚記念館に向かった。この市内周遊観光バスは土日限定らしい。
 乗客は、僕のほかに、恋人とも思えない、村の青年団風の男と草を刈る娘風の女の若い2人組がいるだけだ。
 バスが発車するや、一番前に座った僕に、バスの運転手が、ここ舞鶴はもともと軍事港で、戦後は進駐軍が駐留していた地です、と説明を始めた。中年の運転手は、私が子どもの頃はまだ進駐軍がいまして、かすかに覚えています、と、彼はこの地を愛しているというのを伝えるかのように話を続けた。あの港に見えるのは自衛隊の船で…、あの建物が煉瓦館で…と、案内役風に観光ガイドをしてくれた。
 いつもこうやって、運転手が観光ガイドをしてくれるのか、今日は特別に前の席にいる僕だけに話しているのか分からなかったが、僕は熱心な聴者になったし、適切な質問者にもなった。あるいは、運転手は今日は誰かと話したかっただけかもしれない。
 引揚記念館に着いて、バスを降りるときに乗車賃を払おうと千円札を出すと、運転手は大きな黒いがま口を広げて、空っぽの中を手で探って、お釣りがないです、今日初めてのお客さんですから、と笑いながら言った。僕もポケットを探って、200円を探し摘んで、がま口に入れた。普通の市バスだと400円で、この観光周遊バスだと200円だった。
 後ろに乗っていた2人組も、何やら胸から紐で下げたものを見せただけで、バスを降りた。観光用の一日乗車券らしかった。
 一日乗車券以外の僕のような飛び乗りの料金(現金)を払う人間が、午後になっても1人とは少し寂しいなと思ったが、運転手が明るいのがいい。

 引揚記念館に入ると、バスの乗客は少なかったのに、意外と多くの見物客がいた。入場料金は300円。
 腹が減っていたので、まずは何か食べようと思って、館内の食堂を兼ねた喫茶店に入った。まるで学食のように、味も素っ気も洒落っ気もない喫茶兼食堂だ。いや、最近の学食は洒落ていてメニューも豊富だ。
 掲げてあるメニュー表を見ると、内容もうどん、丼もの、カレーライスと、昔のバス停留所内の食堂のようだ。
 一番上に書いてある「引揚うどん」(大580円、並480円)が目玉の売り物なのだろうと思い、並の引揚うどんを頼んだ。
 出てきたのは大きな油揚げが1枚のっているきつねうどんであった。洒落であろうか。

 第2次世界大戦が終わった1945年、海外には660万人の日本人がいたといわれている。戦後、佐世保、博多、呉、浦賀など10港で帰国、引揚げが行われた。そのなかでも舞鶴は、中国残留および旧ソ連のシベリアに抑留されていた日本人の帰国、引揚げを、もっとも遅くまで迎え入れた港である。それに、現地からの遺骨の引揚げも行った。
 記念館には、それらの記録や抑留時の服や生活品、現地(ソ連)からの抑留者からの手紙などが展示されている。
 記念館の近くの小高い丘の公園に桟橋が作られていて、舞鶴港が見渡せる。(写真)
 桟橋を出て、再び駅に戻ためにやって来た周遊バスに乗った。バスは2台が交替で周遊していて、帰りに乗ったのは、行きのバスとは違う運転手であった。
 また一番前に座ったが、今度の若い運転手はガイドをすることはなかったし、僕の質問にもそれ以上の答えは戻ってこなかった。やはり、観光ガイドは常備ではないのだ。

 東舞鶴駅に戻った。
 地図を見ると天橋立が近いと知ったので、舞鶴に泊まるのではなく、すぐに天橋立に向かうことにした。天橋立も初めだ。
 東舞鶴駅から西舞鶴駅へ出て、そこから16時08分発、豊岡行きの北近畿タンゴ鉄道に乗り換え、宮津を通り天橋立で降りた時は17時だった。
 すぐに、閉める間際の駅構内にある案内所に行き、温泉のある食事付きの安い旅館はないかと訊いた。そんな全部を揃えた都合のよい旅館はないようで、係の人はすぐにないという答えを用意していた。温泉のある食事付きの旅館はあっても僕の提案した予算よりずっと高く、それに土曜日なのですでに満室らしかった。
 それでは、温泉旅館に泊まるだけで、食事は外でするからと言ってみた。
 すると、係の人は意外なことを言った。ここ天橋立には、夜は食べるところはほとんどあいていません。昼(昼食)はあるのですが、と。食堂は夜はほとんど締まり、各旅館や民宿は泊まり客のみの食事であるという。
 外で食べたり飲んだりするのだったら、隣の駅、宮津に行かないといけないという。
 それで、係の人がいろいろ考えたあげく提案した、すぐ近くに共同の温泉がある、食事付きの民宿にすることにした。安いという条件を満たしているため、トイレも洗面も共同である。
 
 民宿に行ってみると、駅のすぐ近くで、共同温泉場までも歩いてすぐである。
 その民宿は、元気なおばさん(あとで聞いたところによると72歳だと言った)が一人で切り盛りしていた。おばさんは忙しそうだ。鍵もない部屋だが、温かみがある。
 荷物を降ろすと、すぐ近くの共同温泉場「智恵の湯」に行った。
 おばさんの手料理の夕食も悪くなかった。
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近江・若狭の旅③ 米原での「同窓会」

2010-09-23 17:24:02 | ゆきずりの*旅
 ちょっと前に「同窓会」(ラブ・アゲイン症候群)というドラマがあった。高橋克典、三上博史、黒木瞳、斎藤由貴主演によるものだ。
 うたい文句に、「恋で人生を捨てられますか」とある。何やら、危険な同窓会の成りゆきのようだ。
 僕はこのドラマを見ていないが、同窓会に端を発した複数の織り組んだ恋物語のようだ。おそらく同窓会で再会した中年になった男女が、若いときに成就しなかった恋を復活させるか、かつて心にしまっておいた恋心を発露させて、大人の恋が展開されるのだろう。
 このドラマの脚本家の井上由美子が、「同窓会と聞いて真っ先に思い浮かべるイメージは?」という問いに、こう答えている。
 「やっぱり、初恋のイメージですね。若くてすごく純粋だったころの自分の恋心、友情みたいなものを、同窓会のあいだだけでも思い出して、浄化される。だから、皆、いくつになっても同窓会に行くんじゃないでしょうか?」

 同窓会と初恋か?

 同窓会といえば、概ね中学か高校の時のである。
 この時代に、初恋を抱く人が多いのだろう。そして、初恋とは成就しないもの。ほろ苦い感情を残したまま、卒業する時期がやってくる。
 若者には、すぐに新しい世界が待ち受けている。新しい扉を開かないといけない。少年、少女は、いつしか、否が応でも大人にならなければいけないのだ。
 多くの人間は学校を卒業したら、学生時代の出来事も友情も淡い恋も心の片隅に置いておいて、新しい目の前の世界にのめり込んでいく。社会では、新しい出来事や問題が待っている。新しい恋も生まれるだろう。
 社会人になると、夢中で年月は過ぎていく。そして、多くの人は適当な歳になったら結婚し、家庭を持つだろう。
 そんな時代を過ぎて、ほっと一息ついたときに、同窓会は行われる。
 同窓会は、年はとってもみんな昔よく見た顔ぶれだ。最初は誰だか分からない顔も、昔の残像や写真と比べていくうちに、いつしかピントが合ってくる。
 会場は、おそるおそると、徐々にではあるが当時に戻っていく。あたかも、何十年か前の世界が何かの間違いで、そこにさ迷いこんできたかのように。
 いったん時間を巻き戻してしまうと、タイムスリップしたかのように、ガキ大将はガキ大将のまま、優等生は優等生のまま、美少女はだいぶん色褪せたとしても美少女のまま、お節介はお節介のまま、おしゃべりはおしゃべりのまま、のようだ。
 会場は、過ぎた時間を一瞬に取り除く魔法がかけられたように、みんなが当時の感情に染められる。そう思わせるのだ。
 そしてそこで、同級生と対峙しながら、人はかつての自分を見つめるのだ。いまはない、遠い昔の自分を。

 どんな青春であったとて、例えそれが灰色であったとて、青春はいとおしい。
 なぜなら、もっとも純粋で、自分の原形がそこにあるからだ。
 同窓会は、その青春の想いを各々心の中で逡巡させる。
 ましてや、初恋が同級生であったなら、そして、その人がそこに現れたなら、それは過去の思い出であっても、思いもかけず再び目の前に現れた現実でもある。
 過去と現在は、その間を捨て去って、結びあえるのか?
 点と点は、線を取り除いて結びつけられるか?

 初恋でなくとも、男にとっては、当時の憧れのマドンナ(こういう呼び方をしたものだ)が、どんな姿で現れるのかは気になるところであろう。
 もう4年も前であろうか。オダギリジョーと桜井幸子が同窓会で再会するストーリー性のCMがあった。二人きりで会う場面で、男(オダギリ)がかつての憧れのマドンナ(桜井)から3枚のカードを見せられて、どれを選ぶかと迫られる。そのカードには、「冒険」「友情」「封印」とある。
 さあ、どれを選ぶのだろうか?と気を持たせる、意味深なCMであった。
 そして見ている方も、自分ならどれを選ぶだろうと考えたものだ。
 印象に残っているのは、女の桜井が余裕たっぷりの笑顔で、さあ、君はどうする? 私は、どれでも受けて立つわよという表情だったことだ。それに比べて、男のオダギリは、どうしょうかと明らかにドギマギしているのだった。

 「冒険」を手にした途端、物語は初恋の淡い純白なものから、真っ赤な爛熟したものへ変わっていく。そして、物語が生まれる。

 *

 9月10日、米原の琵琶湖のほとりのホテルでの同窓会は、本会、ホテル内での隣接した会場での2次会と、つつがなく行われた。
 陰で物語が進行しているかどうかは知らない。
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近江・若狭の旅② 草津から安土城跡、彦根城へ

2010-09-21 17:08:04 | ゆきずりの*旅
 9月10日朝、大津から琵琶湖に沿って、米原に向かって北へ。
 この日も晴天で、外へ出れば朝から暑さが待ちかまえている。このところ、9月も半ばになるというのに猛暑日が続く。少しは天気が曇ってほしいし、雨でも降ればと思う。
 こんなに暑い日が長く続くのは珍しい。

 大津から、すぐに「草津市」に入った。ここは東海道と中山道が結びつく交通の要で、かつて草津宿があったところだ。
 かつて旅人が歩いた通りは、過ぎ去ったいにしえの面影をここかしこに見つけることができ、界隈には乾いた空気が漂っている。
 本陣跡は、当時の台所から風呂、厠まできちんと残されていて、大名や高貴な人の宿場としての形態、機能が知れる。和宮も立ち寄り休憩したと記録がある。

 草津をさらに北へ向かうとすぐに「近江八幡市」だ。
 近江八幡といえば、近江兄弟社の名が思い浮かぶ。近江兄弟社といえば懐かしい軟膏のメンソレータムだが、今はメンソレータムはロート製薬に移り、同社は似たようなメンタームを作っている。
 すぐに市の北にある日牟禮八幡宮に向かう。この辺りの八幡堀周辺は、独特の風情を残している。
 八幡宮の前の新町通りを歩けば、古い家並みが並ぶ。古く大きな家の表札は西川名が目につく。あの布団や家具の西川産業も、この地の出身だ。近江商人の中でも最右翼とも思われる西川家の旧宅は、豪商の邸宅らしく名所となっている。
 その近くに、扇子などの小物を売っている店に入ると、ここも西川名だと女主人らしき人が言った。でも、前の西川産業の西川さんとは関係ありませんとすぐに付け加えた。

 近江八幡を北東に行くとすぐに、「安土城跡」だ。
 安土城は、言わずとしれた織田信長の居城で、わが国初めての本格的な天守閣(天主閣)を持った城である。岐阜城もそうだが、織田信長の城は、現地案内書でも、天守を天主と書かせている。
 信長が威厳を込めて造った安土城は、本能寺の変のあと跡形もなく全焼した。原因は不明だ。設計図はもちろん、当時の絵図すら残っていないので、詳しい構造は想像を駆使するのみだ。
 だから、安土城の跡は、どのようなところだろうかと興味があった。何も残っていなくとも、夏草とともに、兵(つわもの)どもの夢のあとの空気は感じられるだろう。
 行くと、石垣があり、その奥に木が茂った小高い山がある。遠くから見ると、平凡な低い山だ。夏草も木々も生い茂っている。ゆるやかな山の頂上に天守閣があったのだろう。
 山の麓に行くと、頂上を目指しているであろう石段が見え、その入口近くに受付がある。天守閣跡には、この受付を通らなければならないようだ。(写真)
 時計は正午過ぎで、澄みきった青空に日差しは強く、いまだ真夏のように暑い。じっとしていても汗が滲む。もう二度と来ることはないかもしれないので上ろうと言うことで、仕方なく上ることに。低い山と行っても199mあるし、硬い不規則な石段だ。
 汗だくで、やっとのことで頂上に到着。
 天守(天主)跡には石が嵌め込まれていたが、面積は以外に小さい。ここから、琵琶湖が見渡せ、信長はその湖を見ながら、すぐ手の届くところまで来ていた天下統一を夢想したに違いない。
 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり…」
 山頂からの下りは、城の横に建てられた見寺を回って出発点の受付まで戻る。
 炎天下での、往復1時間の山道はきつい。
 安土城はおそらく、それを見た秀吉の大阪城や伏見城の造城に影響を与えたに違いない。

 安土城から、さらに北の「彦根城」に。
 彦根城は、徳川譜代大名の伊井家の居城である。
 それに、現存している天守を持った数少ない城である。現存天守は、修復・復元などいろいろな解釈があるが、この彦根城のほかに姫路、犬山、松本城の4城は国宝で、ほかに高知、松江城など全部で12城といわれている。
 彦根城はまとまった城である。
 表門から入ると、すぐにアーチ城の廊下橋があり、その先が天秤のようだと形容される天秤櫓である。その先の太鼓門櫓をさらに進むと、本丸天守閣に着く。天守は3重3階、地下1階である。
 平城だから、上るのにきつくはない。
 やはり、天守の上からは琵琶湖が見える。
 城の麓には庭園があり、ここからは天守閣がよく見える。昔から、天守閣を眺めながら、お茶を点てたのであろう。

 彦根城を出て北へ行くとすぐに米原だ。
 そろそろ米原の会場に行く時間だ。夜は、米原の琵琶湖の麓の会場で同窓会だ。
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近江・若狭の旅① 大津から比叡山へ

2010-09-18 18:23:43 | ゆきずりの*旅
 旅に出る動機はどこにでもある。
 何かの触媒で、旅は実行に移される。言い換えれば、ふとしたきっかけがあればいい。

 5年に1度行われている九州・佐賀の中学時代の同窓会をなぜか滋賀県の米原でやるというので、この機会に滋賀を歩いてみようと思いたった。
 滋賀県・近江に降りたつのは初めてのことである。滋賀県域は、もう悠に百回以上も東京-九州間の往き来の時に列車で通っているのだが、一度も降りたったことはなかった。通り過ぎるだけであった。
 であるから、同窓生である友人と話しあって、前日東京を出ることにした。
 東京から京都まで新幹線で行き、これまたなぜか在来線で大津の先の膳所(ぜぜ)でレンタカーを借り(詳しく話せばここで借りる理由というのはあるのだが、省くとして)、佐賀から合流した男も含めて3人で滋賀散策となった。

 これで、日本の都道府県で降りたったことがないところは、富山と愛媛県だけとなった。この2県もいずれ行かないといけない。
 「いつか」などと言ってはいけない。いつかと幽霊は出たためしがない、と言うではないか。いつか会おう、いつか飲もう、と言って、そのいつかが雲散霧消してしまったことは数限りないだろう。

 この滋賀県は、真ん中に大きな琵琶湖がある。いや、琵琶湖の周りが滋賀県と言っていい。琵琶湖とは、きっと形が琵琶法師の持つ琵琶に似ているから付いた名だろう。果実の枇杷と書いても、間違いではないように思える。
 この日本一の淡水湖である琵琶湖抜きでは、滋賀県は語れないのである。
 だから、昔から言われていた「淡海」(あはうみ)が、つまり「おうみ」(近江)となった。
 それに滋賀は、名にしおう近江商人の町である。「近江泥棒伊勢乞食」と江戸っ子に妬まれたほどの商才の長けたところだ。

 大津の膳所から、まずは近くの石山寺に行こうとしたら、国道1号線に出た。つまり、東海道がここを通っているのだ。すぐ近くに琵琶湖がある。この辺りは琵琶湖といっても末端らしく、大きな川のようだ。
 琵琶湖と瀬田川の分岐点はどこなのだろう。
 この琵琶湖の末端、あるいはすでに川と呼ばれているところに架けられた、古い橋で有名な「瀬田唐橋」を通ってみた。彼方には、もう少し大きな近江大橋が見える。
 唐橋というから中国式かと思ったがそのような特徴はない。造りもコンクリートで新しく造り替えたようである。古いと思えるのは、等間隔で並んでいる擬宝珠(ぎぼし)ぐらいか。

 瀬田唐橋のすぐ近くに石山寺があった。
 「石山寺」は、聖武天皇の希願で造られたというから歴史は古い。それより、この寺を有名にしているのは、紫式部がこの寺で「源氏物語」の稿を練った、あるいはここで書いたとされていることである。
 堂内では、紫式部の座っている人形の像が置いてある。

 石山寺から琵琶湖の西側に沿って北上すると、「園城寺」、俗にいう「三井寺」(みいでら)へ出る。
 この寺の謂われは、この寺から湧き出た泉が、天智、天武、持統の3代の天皇の産湯に使われたので、「御井(みい)の寺」と呼ばれたことによるらしい。いわゆる井戸の寺である。
 しかし、ここの売りは、「三井の晩鐘」と呼ばれる鐘楼である。
 鐘楼は木の枠で囲われていた。重要文化財なので立ち入り禁止かと思ったら、そうでもない。鐘を突くための出入り口がある。それに、誰でも鐘は突かせてくれる。ただし、1回(1突き)300円。う~ん、やはり近江の寺だ。

 三井寺をあとにし、さらに北の方にある「比叡山延暦寺」に向かった。
 地図を見ると京都はすぐそこである。そういうことで、ここ比叡山延暦寺は滋賀県にあるが、「古都京都の文化財」の世界遺産に入っている。しかし、寺の案内書を見ると、比叡山延暦寺の頭に世界遺産と書いてはあるが、どこにも京都の京の字も書いてない。
 比叡山延暦寺は、名前のように山の上にあった。山を上るドライブウェイを蛇行しながら、車は寺に向かって走った。途中に料金所があり、そこを通らないと寺には着けないようなっていると、道を訊いた人が教えてくれた。う~ん、やはり近江だ。
 最澄が起こした延暦寺は、様々な名僧が修行したこと以外に、武装した僧兵により、寺が一大勢力を持ったことでも有名である。その結果、織田信長によって焼き討ちにもあっている。
 地形を見ても、平地にある寺と違って山城とも言える。寺は東塔、西塔、横川と3か所に別れていて、山間にあるので、戦になっても攻略するには苦労するだろうと思わせた。
 そのなかでも、東塔の境内のほぼ中央にある根本中堂がいい。(写真)
 堂内の一段下がった修行のための室内は、奥の中央に本尊が置かれており、薄暗い中、絶えず蝋の灯りがともされていて、幽玄の世界を醸し出している。

 比叡山を下りて、再び大津の琵琶湖の末端瀬田川近くに戻った。
 暑さは引かず、日はまだ暮れていなかった。
 この日は大津で泊。

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