かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

不思議、大好き! 曜変天目茶碗

2015-09-28 01:37:10 | 気まぐれな日々
 曜変天目茶碗は国宝であり、日本に3点しかなく世界にも3点しかない。
 日本の国宝なのに、いずれも作られたのは12~13世紀の中国の南宋時代、中国福建省の健窯で焼かれたとされる。中国の健窯で焼かれたものとわかっているのに、現地では1枚も残っておらず、その欠片すら殆どない。
 天目茶碗とは、鉄釉をかけて黒く焼かれた陶器製の茶碗のことである。そのなかで曜変天目茶碗とは、丸い漆黒の碗の中に、鮮やかな瑠璃色の斑紋が点在する茶碗をいう。
 これが、どのようにして焼かれたのか、なぜ3枚しか残っていないのか、それも中国で1枚もないのはどうしてか、どのような経路で日本にわたって来たのかは長い間謎であった。
 推察はあるが、現在でも謎である。
 陶磁器の不思議。それは曜変天目茶碗である。
 かつて織田信長や徳川家の天下人が、これらの茶碗をわがものとして手にしたという。ただし、足利義政から信長に所有が移ったという幻の曜変天目茶碗は、本能寺の変で焼失したと云われている。
 曜変天目茶碗は、それぞれがおそらく数奇な運命をたどったことであろう。
 現在、国宝の3点の曜変天目茶碗は静嘉堂文庫、藤田美術館、大徳寺龍光院が所蔵している。

 数年前、静嘉堂文庫所蔵の曜変天目茶碗が東京世田谷美術館で展示されたので見に行った。噂には聞いていたが、 初めて見る曜変天目茶碗であった。
 今まで見たこともない茶碗だった。何人もの陶芸家が、これを再現しようと試みているのがわかる気がした。

 先日、藤田美術館所蔵の曜変天目茶碗が東京六本木のサントリー美術館で展示されたので見に行った。
 それは、他にもまして目を奪われる、漆黒の中に浮かぶ鮮やかな瑠璃色の斑点群であった。上から見下ろせば、あたかも夜空に浮かぶ星雲の群れのよう、いや、碗そのものが小さな宇宙を表しているかのようだ。
 さらに驚いたのは、横から見た茶碗の胴の部分が、夜空に星がチラチラと光っているように小さな光が点在していて、まるでプラネタリウムの星座のようなのだ。これは静嘉堂文庫所蔵にはなかったように思う。

 こうなると、もう一つの大徳寺龍光院所蔵の曜変天目茶碗も見てみたいと思う。
 糸井重里ではないが不思議、かつ美しきもの、大好きである。

 曜変天目茶碗は、もう一つMIHO MUSEUMが所蔵するものを入れる説があるが、曜変より数も多く評価も低い油滴天目だという見方もあり、これは国宝にはなっておらず重要文化財である。

 この曜変天目の謎に、「中国と茶碗と日本」(小学館)で彭丹(ほうたん)(法政大社会学部講師)が中国人としての感性で切り込んでいる。
 *「曜変天目の謎に迫る、「中国と茶碗と日本」」――ブログ2013-04-25


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠くから見ていた、「日本国憲法」

2015-09-16 01:49:23 | 人生は記憶

 *Ⅰ

 昭和30年代、日本は「もはや戦後ではない」という時代の波に乗って、高度経済成長の途上にあった。
 今では過疎にさらされている僕の住んでいた九州・佐賀の片田舎の町も、炭鉱の町として活気に満ちていた。街中の商店街はいつも多くの人で賑わっていたし、何より僕たち少年は元気いっぱいだった。
 昭和30年代も半ばになると、石炭から石油へのエネルギー転換政策のため、石炭業界は不況による合理化が進められ、わが町にもその波は押し寄せていた。町で行われている鉢巻をまいた大人たちのデモの行進を、僕らは祭りでも見るかのように眺めていた。
 その頃、祖父や祖母の住んでいる大牟田では、当時最大規模の三井三池炭鉱の争議が起こり、そこでのデモは大々的に新聞やテレビで報じられていた。
 1960(昭和35)年の日米安保条約改定反対闘争の反対デモも、九州の片田舎に住む少年にとっては新聞やテレビの中の出来事だった。

 テレビやラジオの歌番組からは、「デモはデモでもあの子のデモは、とても歯がゆいじれったい…」と歌う守屋浩の「有難や節」(詞・曲、浜口庫之助)が流れていた。
 今考えれば、当時デモは連日ニュースを賑わしていて、歌にも歌われるように一般的だったのだろう。
 その歌詞は、「早く一緒になろうと言えば、でもでもでもと言うばかり」と続くのだった。その「早く一緒になろう」という箇所で、僕はいつも立ち止まり意味の中身を考えてしまうのだった。
 守屋はその前年、「僕の恋人、東京へ行っちっち、僕の気持ちを知りながら…」と、恋人が去って行ってしまった男の嘆きを、「僕は泣いちっち」(詞・曲、浜口庫之助)で歌っていた。
 男は女に、再三「早く一緒になろう」と言っていたにもかかわらず、女は「でも、でも、でも」と曖昧な返事ではっきりとOKを出さないまま、気がつけば田舎の町から東京へ行ってしまったのだ。この2曲に歌われた男と女の成りゆきが逆なのは、後の曲が去って行った女を男が回顧した歌だからだ、と考えた。
 それにしても、何度聴いても、男が言う「一緒になろう」が気になっていた。当時の一般的な意味では「結婚しよう」だろうが、まだ時代的には早すぎる「同棲しよう」の意味も含まれるだろう。さらに狭めれば、もっと即物的な解釈すらできる。
 この「一緒になろう」のニュアンスは素っ気ない表現なのに、内容は率直で、微妙で、曖昧で、複雑で、エロチックだ。

 *Ⅱ

 中学も3学期になると、社会科の歴史は現代に入る。
 1945(昭和20)年の第二次世界大戦におけるわが国の敗戦と、その後の民主主義の時代へと教科書は進む。
 荒廃したなかから社会は少しずつ復興し、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発を契機に警察予備隊が創設され、その後自衛隊発足へと繋がった。佐世保に近い僕らの町にも国道に自衛隊の軍用車が走っているのをたびたび目にするのだった。
 中学の社会科の授業で、初めて日本国憲法を知ることになった。そこで、日本は平和憲法で軍隊を持たないと書いてあると教師は言った。
 教師がそう言って教室に少し静かな間が空いたあと、一人の生徒が質問した。
 「先生、自衛隊は軍隊じゃなかとですか」
 今でいえば荒っぽい暴力教師といわれるかもしれないが、人情味があって人気もあるがっしりした体躯の教師は、「いい質問だ」あるいは「その質問を待っていた」と言わんばかりに、少しにやりと笑ったように見えた。
 「僕は軍隊と思うんですけど」と、質問した生徒は付け加えた。
 教師は少し上の方を見ながら、誰に言うでもなく独り言のように、「今の自衛隊が軍隊か軍隊じゃないか、オレは言わん。みんな、一人ひとりが考えろ」こう言った。
 僕は、先生が何というか期待していたのだが、少し肩すかしを食ったような気分になった。憲法の話はそれ以上深い話にはならなかった。誰も他に質問するものもいなかった。僕らの知識がまだそれを満たすほどには至っていなかったのだ。
 質問した生徒は、その年中学を卒業すると、当時通称少年自衛隊と呼んでいた自衛隊に入った。彼は、「自衛隊に入りながら高校も行けるんだ」と胸を張って話した。
 その年、都会に集団就職で田舎を発つクラスメートを何人か見送った。

 憲法は、大きくてまだ見ぬ富士山のようだと感じた。

 *Ⅲ

 成人式を、僕は田舎から上京していて、当時住んでいた東京新宿区の高田馬場で迎えた。
 大学は政治の季節で、キャンパスには熱い空気が流れていた。まだ自分が何を求めてどう生きていけばいいかもわからないでいた僕は、人生が始まったばかりのように感じていて、移ろいゆく夢の中にいた。デモにも行った。
 たった一人で過ぎていった成人式の日は、何事も起こらなかったので、僕はいくつか歌(短歌)をつくって、ノートに記した。
 成人式の日、新宿区から1通の封書が届いた。中には、成人式を迎えたお祝いの言葉と、綴じた四角い小さな書が入っていた。表紙に「日本国憲法」とあった。ぱらぱらとめくってみて、意外と憲法は短いのだなと思った。
 憲法は、改めてあれこれ考えるものではなく、漠然とであるが当然「ある」(存在する)ものであった。

 *Ⅳ

 2015年暑い夏、その季節も過ぎようとしている頃、このところ政府が提案する安全保障関連法案を巡って国会および社会が熱い。憲法に関する争議になっている。
 この際、細微はすっかり忘却の彼方に行っている、いや読んだことさえおぼろげな憲法をちゃんと読んでみることにした。
 図書館で、「日本国憲法」のほか、戦前の「大日本帝国憲法」も収載している「現代語訳 日本国憲法」(伊藤真訳、ちくま新書)を手に取る。
 いろいろな解釈は先入観になるので、まず原文だけを読んだ。
 文章は堅く回りくどいところもあるが、それが言わんとするところは簡素で明白ある。

 「日本国憲法」

 前文に続き、11章、103条からなる。
 「前文」で、日本が国際社会における平和国家としてあるべき姿の理想が謳われている。「日本国憲法」の出だしは以下の通りである。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 

 第1章は「天皇」(1-8条)で、第1条は、有名な〔天皇の地位と主権在民〕である。
 <第1条> 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 第2章に「戦争の放棄」(9条)が続く。平和憲法の争点となっている〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕の第9条は以下の通りである。
 <第9条> 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 第3章「国民の権利及び義務」(10-40条)、第4章「国会」(41-64条)、第5章「内閣」(65-75条)、第6章「司法」(76-82条)、第7章「財政」(83-91条)、第8章「地方自治」(92-95条)と続く。

 憲法を改正するための手続きは、第9章「改正」(96条)で、第96条に〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕として書かれている。
 <第96条> この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 最終章の前の、第10章に「最高法規」(97-99条)として、第97条〔基本的人権の由来特質〕、第98条〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕、第99条〔憲法尊重擁護の義務〕が謳われている。
 <第97条> この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 <第98条> この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
 <第99条> 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 最後の第11章は、「補則」(100-103条)である。
 ※各条の内容見出し文〔 〕は、「現行法規総覧」(衆議院法制局・参議院法制局共編、第一法規出版)に従っている。

 憲法は理想に燃えている。新しく生まれ変わった戦後の日本の進むべき道を、太陽のように照らしてきたのだ。

 *Ⅴ

 安全保障関連法案が参議院で審議可決されんとする最中の9月14日の夕、国会へ出向いた。グループや団体行動は苦手なので、旅と同じように一人で行く。
 国会近くの地下鉄からは混雑するであろうから、JR四谷駅から歩いて永田町の議事堂を目指した。麹町を通って、平河町を迂回して最高裁判所の脇へ出た。もう警官の人が立っていた。国会議事堂を探して歩いていくと、抗議集会の音が聴こえてきたので方向が分かった。
 すでに日も暮れかかっていた。紺色の空に白い雲が浮かんでいる。そこはすでに人でいっぱいで、その前では大勢の警官が並んで規制をしている。
 その先の大きな車道の向こうに、木々に隠れるように白く輝く国会議事堂が垣間見える。議事堂の周りは警察の車両が囲むように停車している。それは、あたかも議事堂を守っているかのようだ。
 議事堂の周りを人の波の中を歩いた。国会議事堂は、自分の偉大さを自覚してそれを誇示しているように見えた。
 抗議集会では、何人かの演説者に交じってノーベル賞作家の大江健三郎が演説した。

 憲法はかつて思い描いた富士山のように今も変わらずどっしりと「ある」が、満身創痍のように思えた。
 
 夜8時過ぎに集会はいったん解散となったので、議事堂をあとにして再び歩いて四谷に向かった。
 腹が減ったので、途中どこかで食事しようと辺りを見回しながら歩いていると、麹町で「まつら」という看板が目についた。九州の玄界灘近辺の松浦地方に由来する名前に違いないと近くに寄ってみると、やはり佐賀の九州料理店であった。
 店に入り、おかみさんの勧めで魚のすり身で作った唐津名物ギョロッケと玄海すり身揚げでビールを飲む。あと、皿うどんを食べて店を出た。
 もう街はすっかり夜になっていた。そこには、いつものような東京の夜があった。

 
 *追記

 安全保障関連法が2015年9月19日未明、参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決され、成立した。
 憲法は、血を滴らせているようだ。

 民主主義とは国によって様々な形態をとっていて、欠点だらけのように見える。理想の民主主義はどのようなものであろうか。
 イギリスの元首相のウィンストン・チャーチルは、こう言っている。
 「民主政治は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」
 参照――「曖昧な民主主義を考える「来るべき民主主義」」(ブログ、2014.2.18)







コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする