かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ストラディバリウスの夢

2007-08-27 18:05:57 | 歌/音楽
 ここに、ストラディバリウスがある。
 いや、最近、ストラディバリウスを手に入れた。
 あのヴァイオリンのストラディバリウスである。

 ストラディバリウスといえば、去年ニューヨークのクリスティーズの競売で354万4000ドル(約4億円)で落札されたというほどの、高価なブランド品、いや芸術品である。
 ヴァイオリンの最高傑作と言われ、イタリア人のアントニオ・ストラディバリがクレモナにおいて、17世紀後半から18世紀前半にかけて作った名品である。
 300年たっても、熟成されたワインのようにその音色は衰えを知らないどころか、ますますまろやかだと言われている(本当のところは、僕には分からない)。
 彼が制作したものは1200と言われ、約600が現存するとされるが定かではない。

 時々ヴァイオリンに触れたりレッスンに通ったりしているのであるが、長期に佐賀の実家に帰るときはこれを持っていくことにしている。それが面倒になったので、今までのものを佐賀に置いて、東京に新しいのを購入しようと思ったのである。
 そのことを先生に相談したら、先生が自ら楽器店に出向いて試弾してくれることになった。店の人が何本か持ってきて、それで、先生が選んでくれたのがこれである。
 少し縁が傷がついていたりして古いものだそうであるが、何だか優美である。

 ヴァイオリンの中央に弦が上から下に真っ直ぐ伸びている。その伸びた弦の先の瓢箪のような箱の左右に、細長いS字型が対象形に刳り抜いてある。
 その刳り抜いた穴から中を覗くと、底にラベルが貼ってあるのが見える。
 僕が買うことにしたヴァイオリンの底を覗いてみると、ラベルにどうもストラディバリウスと読める文字があるではないか。まさかと思った。
 さらに目をこすってよく見ると、確かに「Antonio Stradivarius」と書いてある。そして、その下に、「faciebat Cremona 1713」とある。クレモナで作られたのに違いない。

 いや、そんなはずはない。店の人はドイツ製だと言っていた。
 それを証明するように、その下に「Made in Western Germany」とちゃんと書いてある。
 ストラディバリウスなのに、西ドイツ製とはこれいかに、である。
 さらに、よく見ると、「Antonio Stradivarius」の上に、小さくだが「copy」の文字が見える。
 
 そうなんです。ストラディバリウスを真似てドイツで作られたものなのです。それも、年代を特定すれば、1949年から1990年の間に作成されたものなのです。
 ここにストラディバリウスがあるはずがないし(店には失礼だが)、僕が買うような予算で本物が買えるはずがない。
 店の人に訊いてみると、このようなストラディバリウスを手本にしたものが結構あると言うことだった。

 こうして、僕の手元にはストラディバリウスがあるのである(ただし、小さい声で言うとコピーであるが)。
 もちろん、音色は弾き手である技術を別にすれば、元もと持っているヴァイオリンより遥かにいい音がする。
 何しろ、ストラディバリウスである。
 やはりヴァイオリンをやっている知人にこのことを話したら、「copy」のところに、コーヒーの染みを流したらといいアイディアをくれたが、そのままでも愛着がある。

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佐賀北高の、最後のがばい試合

2007-08-22 21:28:19 | 気まぐれな日々
 暑い8月であった。
 8月19日、佐賀から東京に戻ってきたら、庭は前にも増して草ざかりであった。
 その夏草の雑草の中、1本するすると伸びた白い百合が咲いていた。佐賀の実家の庭にも勝手に伸びているのと同じだ。植えたわけではないので、どこからか種が飛んできたのだろう。留守の間に、いつしか伸びていた。
 勝手放題の雑草の夏草の中で、1本だけか弱そうだが華やかさを持っている。

 そんな暑さの中、甲子園はさらにヒートアップしていた。
 開幕戦になった佐賀北高は、初日そうそう消えていくのかと思った。1回戦でも勝ってくれればと、誰もが過剰な期待はしていないようであった。
 それが、初戦の福井商業に勝つや、次の宇治山田戦で延長15回引き分け、再試合を制し、その勢いで前橋商業、さらには優勝候補の帝京をも延長サヨナラで退けて、作日(21日)は隣の長崎県との肥前対決(長崎、佐賀はかつて同じ肥前の国であった)で長崎日大を下し、決勝進出した。
 あれよあれよの快進撃であった。
 まるで、甲子園の野球の神様に操られて、勝ちを演じているかのような展開であった。
 本日(8月22日)決勝戦の最後の相手は、夏の優勝回数7回を誇る広島県の強豪、広陵高校である。

 佐賀県勢といえば、決して強くなく、甲子園の勝率も昨年(2006年)まで3割台である。そんな中で、1994年、ノーマークの佐賀商業が優勝した。あのときは、決勝の鹿児島・樟南戦で、佐賀商業に満塁ホームランが出て勝った。
 今年優勝するとなると、ひ弱な県勢としては異例の2度目の優勝となる。
 佐賀県勢が夏の高校野球で優勝するなんて、100年に1度の確率だと思っていたから、もうこれから生きている間に見る(経験する)ことはないだろうと、少し冷ややかで期待することもなかった。
 甲子園に出場する代表校が、各県1年ごとに優勝しても、約50年に1度である。しかし、決して順番に回っては来ない。大阪、東京、兵庫、愛知、神奈川など大都市を持つ強い都府県に偏ることになるから、佐賀のような弱小県に優勝が回ってくることは、100年に1度と言ってもあながち大げさではないのである。
 ちなみに、夏の高校野球選手権は今年で89回を数えるが、優勝回数の最多は、大阪の9回。次いで、愛知、兵庫、和歌山、広島の7回。神奈川、愛媛、東京の6回と、こちらも格差社会が行き届いているのである。

 *

 本日(8月22日)、午後3時からは、vn.音楽教室で僕が受けている先生の、最後の授業(レッスン)であった。先生は8月で退職されるのである。
 佐賀北対広陵の試合は午後1時に始まった。
 2時過ぎに、テレビのスイッチを入れると既に4回で、佐賀北は0対2で負けていた。7回、さらに2点を取られ0対4になったところで、僕は教室へ向かうために家を出ることにした。
 窓を閉めるときに庭を見ると、朝まで長い茎の先に花をつけていた百合の穂先に白い花がない。花弁は、萎れて草の中に落ちていた。力尽きたようであった。僕は、佐賀北もついに今日力尽きたか、と思った。
 もう、負けは確定的であった。ここまで、よくやった方だと思った。
 
 教室でレッスンを受けているときであった。教室に置いてある僕のバッグから軽音が鳴った。携帯の着音メロディーであった。いつもはマナーモードにしているのを今日は忘れていたのだ。
 先生に詫びて、携帯を開くと宝塚市に住む弟からであった。僕は、「また、あとでかける」と切ろうとすると、弟は「すぐ、終わるから」と話を続けた。そして、「佐賀北が勝った」と言った。
 「冗談は言うな。家を出たときは0対4で負けていたのだから」と言う僕に、「うん、そのあと、5対4で逆転した」と弟は言って携帯を切った。午後3時20分であった。
 優しい先生は、「佐賀が勝ったのですか」とにこにこ笑っていた。「どうもそうらしいです」と、僕は口ごもった。
 そのあと、今度は鹿児島出身の大学の先輩から電話がかかってきた。
 「いや、感動的な試合だったよ。それにもまして、試合後の主将や生徒のインタビューが素晴らしかった。謙虚で、九州男児の純朴さを久しぶりに見たよ」と先輩は言った。

 vn.音楽の最後の授業を終えて、日差しの強い街中を歩きながら、佐賀北高の最後の試合を想像した。逆転満塁ホームラン。何だか、あまりにも絵に描いたようで、現実的でなかった。
 野球の神様が、ストーリーを作り出したようで、僕は足取りも軽くなった。
 そして、庭に生えた首が落ちた百合の花の物語も、僕の中で作り変えなければいけないなと思った。
 そう思って歩いていたら、車道の分離帯に広く取ってある緑地帯に、夏草に混じって白い百合が何本か伸びていた。か弱そうな印象の百合だが、意外と都会の雑草にも負けずに、ひょろひょろと姿でありながらも、しぶとく生きている。
 百合はひ弱でなく、意外と野性的なのかもしれない。
 
 夏の最後の試合が終わった。
 最後の授業も終わった。あとは今週末の発表会が終われば、今年の夏は終わる。
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精霊流し

2007-08-16 20:39:51 | * 九州の祭りを追って
 夏草に 交じりて赤き彼岸花
  ふるさとの香の 匂ひ切なき
 
 実家の庭に彼岸花が咲いた。今咲いているのはピンクのナツズイセンだ。
 彼岸花は不思議な花だ。地面からいきなり茎がすっと伸びて、そして花をつける。何だか異様な風景だ。葉は花が終わったあとに出てくる。
 この花を切って、墓参りに行った。
 家に、坊さんがお経をあげにやって来た。

 去年の暮れに、僕の旧来の友人が死んだ。中学時代からの同級生、いわば幼馴染で大人になってからも関係は続き、親友とも腐れ縁とも言える間柄だった。
 生来の不摂生がたたっての病の果てだった。才能があったら、何かを後世に残していたら、無頼といえる生き方だっただろう。
 彼も独り身で、静かに誰に看取られるでもなく死んでいった。
 彼の初盆である。昨日(8月15日)の夜、彼の妹夫婦たちと一緒に、ふるさとで送り出した。

 盆に迎えた霊を、その終わる日に川へ帰す行事を精霊流しという。
 さだまさしの歌でも有名だ。

 まだ、夏の日も暮れない夕方6時に精霊流しは始まった。
 この町では、有明海に流れる六角川の川岸で行われている。死者を送り出す行事なのに出店が出たりして、少し祭りの雰囲気もあわせ持った不思議な空気が漂っている。
 日暮れとともに、派手やかに着飾った舟を持ってきた人が、次第に集まってくる。
 舟につけられた提灯のロウソクに灯りをともし、家人や関係者に見守られながら次々と舟は川に流される。
 いずれの舟にも、「西方丸」と名前が掲げてある。「西方浄土」、つまり西の方に極楽浄土があるということに由来しているのだ。
 日も暮れて暗くなると、灯りをともした舟は一段と艶やかに映る。川を流れる舟を見ていると、本当に極楽浄土に向かっているかのようだ。
 死者たちは、また彼の地へ帰っていく。
 こうして盆は終わるのだ。

 年々、死が身近な存在としてある。
 いつまでも生きていけるかのように振舞っていた季節は過ぎた。死は、いつ来てもおかしくないということが分かってきた。当たり前のことを知るまでに、相応の年月を経なければならなかった。
 盆は、それを知らしてくれる季節でもある。
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◇ めぐり逢い

2007-08-08 02:57:08 | 映画:外国映画
 レオ・マッケリー監督・原作・脚本 ケイリー・グラント デボラ・カー  1957年米

 好きな人、あるいは婚約者がいながら、好きになることはありうるだろう。
 片方がそうなら、それは三角関係に発展するし、新しい恋愛が勝つと、表現は悪いが略奪愛となる。
 しかし、双方が同じ立場・境遇ならどうなるのだろうか。お互いにほかに好きな人もしくは婚約者がいる二人が、恋におちると……。
 新しい恋愛がうまくいっても残された2人は不幸になる可能性が大きいし、うまくいかなくても元の鞘に収まるとは限らず、4人とも不幸になる公算が大きい。
 こう考えると、恋愛は不幸を生み出す源である。しかし、元もと恋愛は幸福を生み出す根源である(そう言われている)。
 つまり、恋愛において、幸福と不幸は隣り合わせに存在しているようだ。

 アメリカからヨーロッパに向かう豪華客船の中で、婚約者がいるスター(ケイリー・グラント)が、やはり恋人がいる元歌手(デボラ・カー)と恋におちる。
 そして、半年後にエンパイヤ・ステート・ビルの102階で落ちあって結婚しようと誓い合い、別れる。
 しかし、半年後2人は会うことはなかった。

 この映画は、すれ違い映画の原典とも言われている。
1939年に、「邂逅<めぐりあい>」というタイトルで、シャルル・ボワイエ、アイリーン・ダンで映画化されていて、この映画は同じ監督によるリメイク版である。 さらに、1994年には、ウォーレン・ベイティ、アネット・ベニングで再度リメイクされている。

 この手の恋愛映画は、美男美女が演じると本当に絵になる。ハラハラドキドキで、どうなるかと2人の行く末を案じる。しかし、恋愛の本質は甘い2人のオブラートに包まれて隠蔽もしくは取り残されたままである。
 好きな人、もしくは婚約者がいる2人が恋をするのだから、この恋物語に登場する人物は本来4人である。しかし、残された2人の心中はさほど重きがおかれていない。ほかの2人がどんなに悲しんでいるか傷ついたか嫉妬したかなどは、大したことではないかのようだ。
 アメリカ映画が、とりわけ恋愛映画が重厚にならないのは、主人公の2人の幸せ(その前に障害を設けて)を描くあまり、その後ろにあるはずの不幸を蔑ろにすることにある。美男美女の行方ばかりを追って、彼らによって少なくとも人生がくるってしまう人を描かないのである。描いても、善人でそれを甘受する人になっているか、別れても仕方ないと思わせる悪人(悪女)となっていて、彼らの存在は薄いものである。
 これがフランス映画だとそうはいかない。
 三角関係、四画関係に発展し、多くの現実がそうであるように、2人だけが幸せになるとは限らない。そして、多くの現実がそうであるように、想い出と後悔が残る。

 この映画は、1950年代のハリウッドを代表する典型的な美男、美女のスター、ケイリー・グラントとデボラ・カーの主演作。
 デボラ・カーの知性的な美貌は、今の女優に見つけ出すことは困難だ。
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◇ 錆びたナイフ

2007-08-02 02:07:50 | 映画:日本映画
 舛田利雄監督 石原慎太郎原作 石原裕次郎 北原三枝 小林旭 杉浦直樹 白木真理 安井昌二 宍戸錠 1958年日活

 子どもの頃、ジャックナイフという響きを聞いただけで何やら違った世界にいけた。あのパチンとバネで飛び出すやつ、小さなナイフだ。そこには、知らない大人の世界があった。
 どこかの少しいかれたお兄さんがそのナイフを持っていて、時々見せびらかしていたのを、そっとのぞいてみた。お兄さんはどうということはなかったが、ジャックナイフは何かを語っているようであった。
 まだ、石原裕次郎の映画は見たことはなかったが、「錆びたナイフ」の歌は少年の心に残っていたのだ。

 砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたよ

 1956年「狂った果実」「太陽の季節」でスターダムを駆け上がっていった石原裕次郎と、後に日活ダイヤモンド(アクション)ラインを組むことになる、小林旭、宍戸錠の初の3人の共演作である。石原裕次郎23歳、小林旭20歳、宍戸錠24歳の時である。
 
 物語は、地方都市の市長選に絡んで自殺と見せかけた殺人を3人が目撃する。それが、裕次郎、旭、錠である。
 3人は、元チンピラの仲間という設定である。共演といっても錠は最初にあっけなく死んでしまう(暴力団に殺される)。だから、本質は裕次郎、旭の共演ということになる。
 そして、旭も最後は死んでしまう(同じく暴力団に殺される)。残る裕次郎が仲間の仇を討つという、アクションがらみミステリー仕立ての物語である。
 裕次郎の相手役は、既定路線になっていた北原三枝で、旭の相手役は後にアクション映画においてダンサー役として欠かせない白木マリである。
 
 「俺は待ってるぜ」や「嵐を呼ぶ男」などで、アクション路線でスターの地位を築いていた裕次郎は、この年「陽のあたる坂道」の文芸ものを撮り、後に「あじさいの歌」「青年の樹」など、アクションと文芸の2本路線を進むことになる。
 一方、1956年「飢える魂」でデビューした小林旭は、方向が定まらないままアクション、文芸、青春ものと様々な映画に出て模索状態が続く。
 裕次郎の弟分として出演しているこの「錆びたナイフ」では、まだスターになっていなかった旭は、やはり役でも格下のチンピラである。しかし、この年の1958年、旭は文芸名作「絶唱」で浅丘ルリ子と共演している(後にこの映画は舟木一夫・和泉雅子、三浦友和・山口百恵でリメイク版が作られた)。小林旭・浅丘ルリ子のコンビは、その後「渡り鳥シリーズ」へと続くことになる。
 小林旭の運命を変えたのは、翌年の1959年である。
 この年、「渡り鳥シリーズ」の原型「南国土佐を後にして」が大ヒットする。すぐその後に「銀座旋風児」が封切られ、旭のアクションスターとしての人気が爆発する。「渡り鳥」「流れ者」「銀座旋風児」が揃ってシリーズとなり、次々と新作が発表されていく。
 旭主演の映画は、1959年13本、1960年、1961年12本、1962年10本封切られる。今では考えられない月1本のペースである。この頃の旭の人気は裕次郎を凌ぐものであった。
 
 日活ダイヤモンドラインは、その後赤木圭一郎、和田浩二が入り、裕次郎の骨折、赤木の急逝などにより宍戸錠、二谷英明の昇格(主演一本立ち)を図るが、徐々に衰退していった。

 「錆びたナイフ」は、日活ダイヤモンドラインの到来を予感させる記念碑的作品と言えるだろう。
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