goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ わが悲しき娼婦たちの思い出

2008-01-21 13:23:29 | 本/小説:外国
 G・ガルシア・マルケス著

 男というものは、いつまでたっても女に惹かれ、抱きたいと思うしょうもない生き物である。そして、年をとればとるほど相手の女の年齢が若返るという困った現象もおこる。自分の老いを感じたり、能力の衰退を感じ始めたりしたら、できなくなった分思いが膨らみ、かなわぬ愛を求めるのだ。
 作家の場合、それを小説で叶わせる。
 
 このガルシア・マルケスの小説は、次のような出だしで始まる。
 「満90歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝にしようと考えた。」
 このようなことが妄想以外ありえようかと、われわれは考える。そもそも、90歳で性愛が可能かという疑問がある。それにまして、90歳の老人に身体を与える処女がいようかと。どこぞやの王様ではないのである。
 それでも、書いているのはノーベル賞作家である。で、マルケスの妄想に少し付き合ってみようかと、ページをめくるのである。
 実は、この小説は、本文の前の最初の1ページに引用文が出ている。
 「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」
 これは、川端康成の「眠れる美女」の冒頭の文で、マルケスがこの小説からヒントを得て、この小説を書いたということを表わしている。
 南米のノーベル賞作家が東洋の島国のノーベル賞作家に着想を得たのは興味深い。二人に交流があったとは思えないので、それほどマルケスは多くの本を読んでいるということである。その学識の広さと深さは、多弁な本書の中に散在しているのですぐに分かる。

 川端の「眠れる美女」は、睡眠薬で眠り続ける娼家の少女に添い寝する老人の話である。マルケスの「わが悲しき」も、出だしはやはり娼家の少女と眠る話であるが、その後の展開は90歳の老人とは思えないほどアクティブである。
 川端が「眠れる美女」を書いたのが61歳で、小説の主人公は67歳である。一方、マルケスの「わが悲しき」は、77歳のときの作で、主人公は90歳。
 川端の「眠れる美女」が、忍び寄る死を感じさせるのに対して、マルケスの「わが悲しき」は、あくまでも生であり、死など拒絶する前向きのエネルギーが溢れている。
 琴の音に対して、サンバやルンバのメロディの違いがある。盆踊りとリオのカーニバルの温度差がある。
 結局何もしない「眠れる美女」に対して、「わが悲しき」は、二人の愛にまで引っ張っていく強引さがあるのだ。
 このことから察するに、「わが悲しき」は、出発は「眠れる美女」からであっても、ナボコフの「ロリータ」に近いかもしれない。
 しかしながら、「ロリータ」の少女は、もっと血が通っていたので、この2作の小説のように老人からの一方的な視線ではない。いや、「ロリータ」とて、中年男の一方的な視線で書かれてはいるが、少女ロリータはそれに反抗する女である。決して眠ってばかりではなく、いつの間にかほかの男を作って逃げ出すしたたかで手に負えない少女である。そこに、ナボコフの偉大さがある。

 ともあれ、90歳で少女を愛した主人公に、77歳の老作家が自分の身を重ねたとしたら、なかなかのものである。あながち妄想だとは言い切れない、半ば本気の部分があるに違いない。そのエネルギーは羨ましいばかりである。多くの77歳は、萎れ枯れるのがおちだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎の、崎戸島の遺産

2008-01-16 16:22:09 | * 炭鉱の足跡
 長崎県の西彼杵半島の西海町から橋を渡り、大島町に向かった。その先に崎戸町である崎戸島がある。

 この一帯は、かつて石炭の炭鉱で栄えたところである。
 北九州は、福岡県の大牟田・三池、田川・飯塚・直方周辺の筑豊、佐賀県の唐津、多久、大町・北方・江北の杵島、それに長崎県の高島、池島、それにここ大島・崎戸の島など、大小の良質な石炭を採出する炭鉱が乱立していた。
 明治以降の日本の産業革命、富国強兵政策にも合致して、そこには街ができ、ひとつの繁栄を極めた。しかし、昭和30年代後半から40年代にかけて、エネルギー革命の波と同時に次々と閉山に見舞われた。活気に満ちていたこれら炭鉱の街は、その後は見る見るやせ細っていった。
 僕は、機会あるごとにこれらの炭鉱町を歩いたが、おしなべてそれらの町々は、落ちぶれたとはいえ、華やかなりし頃の青春時代を回顧することを堪(こら)えて生きている中年男のように見えた。
 これらの町々が、すべて指をくわえて衰退(老人になること)に身を任せていたのではない。炭鉱がなくなった後、町を何とかせんといかんとどこもが思っていたはずである。といって、労働力はあっても代わりの産業がすぐに育つわけではない。模索しながらも、多くの町は老人になっていった。
 「フラガール」で有名になった、常磐炭鉱(福島県)の転進の例もある。観光やメロン、国際映画祭と大胆に舵を取った夕張(北海道)は破産してしまったが、身の丈以上を背負ったからにすぎない。
 そもそも閉山当時は、炭鉱が佐渡金山や足尾銅山、石見銀山のように観光として成りたつとは考えられなかった(石見銀山は町の地道な努力が身を結んだといっていい)。だから、ほとんどの炭鉱は、炭鉱の象徴である抗魯や坑道や煙突やボタ山などは消滅させてしまった。中年になって放り出された男たちは、青春の情熱とエネルギーなんかくそ食らえと思ったのだ。30余年を経て、近代化遺産として注目を浴びるとは思いもよらなかったのである。
 もと炭鉱マンたちは、数少ない炭鉱の足跡である産業遺跡を見ても、それらを青春の栄光として見るのでなく、青春の傷跡として甦らせているに違いない。

 大島から崎戸に入ると、すぐに製塩所が目についた。ここでは、海水から塩を製造していた。それも、一つの地場産業の成長した姿である。
 街中を走っていると、ホテルや施設の看板、表示板が目につく。意味が分かりにくいRV村というのもある。この島には厚化粧と思うぐらい豪華なホテルは、もと国民宿舎だということだ。
 島内を巡っていて、やがて、ここは島ごと観光町として売り出していたことを知った。観光パンフレットもあったからである。
 島には、歴史民族資料館があり、館内に井上光晴文学館もあった。井上は遠藤周作ほど知名度はないが、彼と違ってこの地で文学講習会を開いていた作家である。
 しかし、「33゜(さんさん)元気ランド」には苦笑した。33℃の温泉浴場と思ったぐらいである。

 この島で、僕の目がとまった遺産が二つあった。
 一つは、北緯33°線展望台に行ったときである。ここからは、五島列島沖がよく見える。この展望台の横にあった、蔦の絡まった朽ち果てた石造りの建物である。
 格子状に窓のある高い建物で、最初は炭鉱の遺跡かと思ったが、中を見ると何もないがらんどうであった。中の資材はすべて持ち去られていたか既に遺棄されていた。友人が、これは軍の遺跡だなと言った。
 やはりその通りで、昭和13年(1938)に造られた、海底スクリュー音をキャッチするための海軍の見張り所、聴音所であった。
 ここ長崎には、人間魚雷の訓練所跡や、佐世保・針尾の巨大無線塔など、軍事遺産が多数ある。
 
 もう一つは、炭鉱の炭住(炭鉱住宅)であった。
 炭住といえば、平屋の長屋形式がほとんどであるが、ここは鉄筋の4、5階建てであった。
 長崎の離島には、鉄筋の炭住が多い。風が強いので強固な建物が必要だったのだろう。昭和初期に建てられた長崎沖の端島(軍艦島)の炭住は、鉄筋の建物が濫立していて、現代の風景のようである。
 崎戸の炭住は、窓がくりぬかれ、骨格だけが島の高台に聳えていた。かつて頻繁に人が行き来したであろうそこまでの道は、既に途中で途絶えて車では行けないようだ。
 廃墟となったそれは、取り残された建物というより、遠いギリシャやローマの神殿のように僕には厳かに見えた。

 栄枯盛衰とは歴史上のみではなく、目に見える形で私たちの周りで行われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎の海辺の町、外海町の遺産

2008-01-15 20:19:56 | ゆきずりの*旅
 佐賀・有田の友人の案内で、長崎に行った。
 近代産業遺産を見るためである。
 北九州を中心とした炭鉱、製鉄、造船などの一連の近代産業遺産を世界遺産に申請する動きがあるという。
 有田から佐世保を経て、西彼杵半島の西海町に渡った。西海橋がかかっているところで、昭和30年代に橋ができたときは、大きさと、その下の急流にできる渦巻きもあってたちまち観光地となった。

 西海町から南に下り、大瀬戸町を経て外海(そとめ)町に行った。
 ここは、平戸・生月と並んで隠れキリシタンが多い街である。かつては陸の孤島といわれたほど交通の不便なところで、このようなところだからこそ、厳しいキリシタン禁止令のあとも深く潜伏できたのであろう。
 キリシタンの苦難の過去の物語を小説に結晶させたのが、この外海町を舞台にした遠藤周作の「沈黙」である。
 ここの海を見下ろす景観の地に、遠藤周作文学館がある。
 ここでは、「沈黙」に関するものだけでなく、遠藤周作を知るうえでの多くの資料が揃っている。ここで分かったのは、遠藤は「沈黙」の取材でこの外海を頻繁に訪れたが、その後もこの地を気に入って、しばしば三浦朱門などと訪れているということである。
 遠藤は、この「沈黙」のあと、晩年の70歳のときに、インドへ行き聖地ガンガーのヴァラナシを舞台に、やはり宗教をテーマにした「深い河」を書き上げた(ちなみに享年73)。
 僕はクリスチャンでもないので、この一連の遠藤の宗教をテーマにした小説には感動を覚えることもなかったが、彼のエッセイであるサービス精神溢れる「狐狸庵閑話」シリーズは好きだった。

 この外海の海を見下ろすように建っているのが、出津(しつ)教会である。この白く美しい教会は、明治15年、フランス人の宣教師、マルコ・マリ・ド・ロ神父によって建てられたものである(写真は、その後明治42年増築された教会)。
 このド・ロ神父が建てた教会をはじめ、この地に彼が残した数々の建造物・足跡がある。それらが、この時代の貴重な歴史資産として、最近再評価されている。
 というのは、ド・ロ神父は単に布教のためだけに尽力した人物ではないからである。
 ド・ロ神父は、1968年(慶応4)長崎に赴任し、長崎大浦天主堂および横須賀で、石版印刷所を設けている。その後、この外海の村に来た神父は村の窮状を見て、村を救うために生涯をかけることになる。
 どうしたかというと、私財を投じてこの地の土地を購入し、地場産業を植えつけることを行ったのである。
 救助院や保育所などの福祉施設ばかりでなく、マカロニ工場や鰯網工場を造って、産業を興すことにより、住民の生活の困窮を救おうとしたのである。さらに、防波堤や道路改修工事なども行っている。
 このマカロニ工場は、日本で初めてのパスタ製造となった。しかし、このあと日本人に馴染んだソーメンを造るようになっている。
 行政がやらねばならないことを、彼は独自の当時の先進技術を投入して行った。彼の業績は、宣教師というより実業家のごとくである。
 それは、西洋技術の日本への投入・融合であり、産業技術開発であった。
 今でも、ド・ロ神父が建てた当時の授産場や工場が残っている。ここは、先日、NHK・TVの「知る楽選/近代化遺産」で取りあげられたばかりである。

 ここをあとに、西海町の西にある大島、崎戸に向かった。ここは、かつて炭鉱があった島である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

□ 眠れる美女

2008-01-11 17:44:04 | 本/小説:日本
 川端康成著

 ガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」の第1ページをめくったら、次のような文章が記されていた。
 「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」
 そして、川端康成の「眠れる美女」よりとなっている。
 これでは、まず川端の「眠れる美女」を先に読まないといけないではないか。

 川端康成は、「雪国」や「伊豆の踊り子」などの作品が映画化されたりしてよく知られているためか、叙情的な作家と思われている。しかし、よくよく観察してみると少女趣味、ロリータ・コンプレックスの性癖が見え隠れする。
 この「眠れる美女」は、主人公の江口老人が人に紹介されて、得体の知れない中年の女が秘密裏にやっている宿に来るところから始まる。そして、この小説の出だしの文章も、ガルシア・マルケスの引用した冒頭の文で始まるのである。いや、この小説こそは、「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ、……」で始まるのである。

 その宿は人知れずひっそりと開いており、密やかな予約による老人しか客として呼ばず、体は成熟しているもののまだ少女の面影が残っている娘が眠っている部屋で、一晩その娘と一緒に眠るだけのことである。
 娘は、江口老人の観察によるとおそらくきむすめ(処女)で、睡眠薬のような薬で眠らされている。一糸まとわぬ姿の娘と、老人は一晩を過ごすのである。正確には、老人がその一晩を買うのである。ただ、冒頭の文のように、そこでは娘にいたずらをしてはいけない決まりになっている。
 それに、この宿に来る客は老人で、おそらくもう男性としての機能を失っている老人しか選ばれていないようで、娘が犯されるといった心配はないと思われている。江口老人も67歳でそう見なされているようだ。
 しかし、江口老人は他人がそう見なそうと、ここに来るほかの老人とは違い自分はまだ可能だということを知っている。だから、娘に密かに、と言ってもぐっすり眠っているのだから密かにも何もないのだが、いたずら以上のことをやろうと思えばやれると思っているのである。
 主人公の江口老人の思いと同様、男性としての機能があるものが、眠って抵抗もしない裸の女、特にきむすめに、何もしないで済ますことができようか、といったことが大きな読者の関心事となってくる。
 江口老人は、最初の日は娘の体から乳の匂いを感じて、過去の女性を思い甦らせる。そして、宿の女が言った決まりごとどおり、眠っている娘との試みは行わない。まだ、江口老人としては次の機会もあるという余裕が感じられるのだ。
 その次、宿を訪れたときは、眠っている娘は前とは違う女だった。その娘も変わった特徴を持っていた。そして、その次のときは、まったく違った特質の体の娘二人がいた。
 このように、宿の女は江口老人を引きずりこむように、毎回異なった特質の娘、女を用意する。

 この小説を書いたとき、川端は61歳である。まだまだ男性としては十分活動期であり、おそらく衰えることはあっても67歳は可能だろうと思っていただろう。しかし、彼がこのような小説を書いたのは、男性としての衰えを感じていたからに違いない。
 健康的な若さの賛歌をうたった若いときの作品から、健康的な若さを隠微にいたぶる作品への転化は、川端の美意識の熟成といっていい。
 その美意識を自分で完結したのは、彼が73歳のときであった。
 川端と対極にいるのが谷崎潤一郎だと思う。
 若くして爛熟的であった谷崎が「痴人の愛」を発表したのは何と38歳のときである。川端より13歳年上の谷崎は、この「眠れる美女」のすぐあとに「瘋癲老人日記」を発表している。
 川端は老いて、谷崎に接近してきた。というより川端の作品から、年齢とともに表がだんだん透けていって裏が見えてきた。いや、川端にとって、加齢にしたがい年齢相応の腐乱の匂いのする爛熟が待ち受けていた。すると、そこに谷崎がいたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄界灘に浮かぶ加部島の、佐用姫伝説

2008-01-08 15:55:13 | ゆきずりの*旅
 宮島・厳島神社の海から屹立している朱色の鳥居を見たとき、煌びやかではあるけれど厳かさは感じられなかった。平清盛の栄華を見せつけられたようであった。
しかし、海に聳える鳥居の発想には感心させられた。それでも、何だかいかにも観賞用に飾り置かれたように感じられた。

 加部島にある田島神社の海に向かった鳥居を写真で見たとき、宮島の原型がここにあると思った。田島神社の鳥居は、今にも海に飛び込まんとしているようだったからだ。この神社を見たら、いつか鳥居を海に飛び込ませようと思っても不思議ではない。

 唐津の玄界灘に沿って北へ行くと漁港の呼子に着く。その先に加部(かべ)島がある。
 玄界灘に浮かぶ加部島にある田島神社は、平安期に著された「延喜式」に記されている古い神社である。
 この田島神社は、当時大宰府館内の主要な神社の一つとされ、中国大陸や朝鮮半島への海路の要地に当たるため、航海の守護神として信仰を集めていた。

 田島神社は、不思議な構造をしていた。
 呼子から橋を渡り、海に面した道路を歩いていくと、田島神社の入り口となる鳥居がある。写真で見たのとは違い、海に向かった階段もなくそっけないものである。
 そこから坂道を登って、島の頂きからさらに下ったところに来た頃、また海が見えた。裏の海である。地形の構造上、台形の森林を挟んで海があるのだ。
 新しい海が見えたところで、道の直角に鳥居が現れた。鳥居の先には細い参道が続いている。その参道は二股に分かれていて、一つはすぐに横に逸れてなだらかな上り坂となり、神社の境内にたどり着く。その奥は鬱蒼とした森(林)となる。
 もう一つの参道は直線に延びていて、境内から海に向かって下りた階段のところに着く。その交差したところに鳥居があり、鳥居の向かった先は海である。

 この田島神社は、別名佐用姫神社といい、石が展示されている。
 佐用姫とは、日本三大悲恋話とされる「松浦佐用姫伝説」の主人公のことである(あとの2つの悲恋話は知らないが)。
 この話が「肥前国風土記」に出ている。
 因みに、現伝する風土記は、ほぼ完全な形の出雲のほか、常陸、播磨、豊後、肥前の4か国にすぎない。他の国のものは、「釈日本紀」(鎌倉時代末)などに引用されているのを見るのみである。

 佐用姫伝説とは次のような話である。
 5世紀中頃から6世紀初め、朝鮮半島の任那は、百済の南下と新羅の侵攻で衰退の一途をたどっていた。任那に勢力を持っていた大和朝廷は、失地回復のため任那に出兵する。
 その命を受けてやってきたのが大伴狭手彦(さでひこ)で、地元の長者の娘佐用姫と恋に落ちる。やがて出兵の時となり、狭手彦は自分の身代わりに佐用姫に鏡を渡して出兵する。佐用姫は船を追って見送っていたが、泣き明かして悲しみのあまり石になったという話である。

 この物語は、「万葉集」にも松浦佐用姫伝説として一連の歌が詠われている。
 この歌の作者は諸説あるが、大伴旅人とその随行者と推察されている。当時、旅人は太宰帥として、この地に来ていたのだ。
 また、この頃筑前守であった山上憶良も、佐用姫伝説を詠っている。
 近年では、ミステリー作家の内田康夫が「佐用姫伝説殺人事件」で題材にし、テレビドラマ化された(僕は本もドラマも見ていないが)。

 この伝説に基づき、唐津市には鏡山があり、ここ加部島の田島神社には石がある。
 佐賀方面から唐津に向かう途中に厳木(きゅうらぎ)という町がある。
 呼子に向かう途中、厳木に道の駅ができていて、そこに大きな白い観音像のようなものが立っていた。最近流行の「突然、こんなところに巨大大仏・観音像」の類かと素通りしたが、あとで聞くと佐用姫像であった。ここは、佐用姫生誕の地と謳っている。

 ここまで書いて、ふと思った。
 田島神社の海に向かった鳥居は、確か朝鮮半島の方に向いている。
 大伴狭手彦が出兵した朝鮮半島の方に。
 だとすると、鳥居は佐用姫の心の象徴か? 追って見送った佐用姫が石になったというのは、石の鳥居になったということか?

 ステリー作家でもないのに、ついこんなことを考えてしまった。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする