記憶の持続と定着いうのは難しい。
その中でも、音の記憶というのはことさら難しいのではなかろうか。
小説は、記号としての文字で物語を記述してあるにもかかわらず、いやそれだからこそと言うべきか、おのずと脳の中でイメージ化しているし、物語を頭の中で反芻、吟味することができる。気に入った文章なら暗誦しておくこともできる。あるいは、主人公はなぜあのような行動をとったのだろう、自分だったらこうしただろうという想像を働かせることもできる。
映画は、印象的な映像(シーン)が記憶に残っているし、1枚の写真やポスターで、すぐに映像の再生が可能になる。
絵画や写真となると、平面であるがゆえに記憶への定着は容易だ。
思い出せないとしたら、それは忘却、記憶の喪失である。
味(舌)はどうだろうか。
美味しいステーキを食べたことがあれば、店先で、そのステーキ(肉)を見たり匂いを嗅いだだけで、唾が出てくることがある。要するに、味の記憶が脳を刺激するのだ。
では、本題の音はどうだろう。
すばらしい演奏を聴いて、感動することはよくある。
しかし、その演奏会の写真やポスターを見ても、頭の中で音を再生することは難しい。ヴァイオリンの写真を見て、さっき聴いてきたヴァイオリンの曲目の演奏を甦らせるのは難しい。その演奏者の写真やポスターを見て、演奏会の情景を思い出すことなら容易だが。
音を再生させようとすれば、そのときの情景を思い浮かべざるを得ない。僕たちは、純粋な音だけではなく、その情景を再生させているようなのだ。
想像力は限りなく持っているように思うのだが、音へのそれは無力のように感じる。
ドレミファ…の音階オクターブは、想像だけであったら何オクターブもできそうに思える。しかし、実際頭の中で音を出してみると、上限がすぐにきて、(僕の場合)2オクターブがいいとこだ。これは人によって違うのだろう。
実際に音に出さなくて頭の中で想像するだけでいいと言い聞かせても、ある程度以上のキーになると、何度も平坦な音を繰り返しているだけである。低音についても同じである。
2001年、イタリアを旅しているとき、ヴェネツィアの古い貴族の館で、ヴェネツィア・オーケストラの弦楽奏団の音楽を聴いた。そのとき、この感動は僕のそれまでの人生の感動の中でも有数のものだと感じた。そして、それを強く心に刻もうと思った。
しかし、今は、そのときの情景は細かく思い浮かべることはできても、そのときの音楽は頭の中でも、心の中でも再現できない。ヴィバルディーの曲だったのだが、細部は霧にかき消されたようだ。
音への感動の蘇生は、その音を再び聴かないといけないのだろうか?
*
2月22日、日本フィルハーモニー交響楽団の九州公演の一環として、佐賀市で公演会が行われた。
日本フィルの指揮は、ロシア人の首席指揮者、アレクサンドル・ラザレフ。ゲストは、ヴァイオリニストの神尾真由子である。
いきなり、ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲が始まった。ラザレフ指揮、日本フィルによる演奏である。
次に、ヴァイオリニストの神尾真由子が登場。舞台は華やかになり、温度が高くなったようだった。
曲は、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」。
神尾真由子は、2007年に、日本人としては諏訪内晶子以来となる、チャイコフスキー国際コンクールで優勝して、一躍世界的に有名になったヴァイオリニストである。
日本フィルをバックにした彼女の演奏は、エネルギッシュで華麗であった。まだ若くて美しくもある彼女は、才能を持つものだけが許される高慢の高みにいた。
指揮者のラザレフは、最初から飛ばしていたという印象だったが、それは彼女を意識してのことだったのかもしれない。
ヴァイオリニストと指揮者のエネルギーがぶつかり合った演奏会だった。
神尾真由子の使用しているヴァイオリンは、1727年製作のストラディヴァリウスである。ストラディヴァリウスは数も少なくステイタスシンボルであることから、所有者や演奏者を公開している場合が多い。億単位というあまりにも高額であるため、企業や団体からの貸与という形式も多く、彼女の場合もサントリーホールディングスからの貸与である。
現在このストラディヴァリウスを使用している日本人の演奏家は、彼女のほかに諏訪内晶子、五嶋龍、庄司紗矢香、竹澤恭子、南紫音などがいて、辻久子、千住真理子、高島ちさ子などは、自己所有である。もちろん、密かに持っている人もいるに違いない。
神尾真由子の音の記憶を保つために、会場で販売していた彼女のCDを買って帰った。2枚目で最新盤の「パガニーニ:24のカプリースOp.1」である。
この曲は、自身の演奏技術が悪魔的とまで言われたパガニーニが、そのヴァイオリンの極限の音域と指の早業の技巧を求めて作曲したもので、弾く者に超絶技巧を要求した曲である。
パガニーニは発表当時、皆さん、こんな曲が弾けますか?と、弦を押さえる左指で弦をはじきながら、右手で弓を弾くという独自の「左手のピッツィカート」を披露しながら、冷ややかに見下していたのであろう。
後日、神尾真由子のCDを聴いた。
このパガニーニの「24のカプリース(奇想曲)Op.1」を、彼女は何の苦労もない曲のように弾いている。いや、超絶技巧を楽しむかのように、あるいはその演奏技巧を密やかに誇示するかのように。
あたかも、フィギュアスケートで、3回転ジャンプを涼しい顔で跳ぶように。
<追記>
2月28日の夜、テレビのバンクーバー五輪特集のフィギュアスケートのエキシビションを見ていたら、浅田真央選手が、扇を片手に飛び出して舞った。
曲は何と、パガニーニの「24のカプリース」で、その中でも最も美しい第24番であった。
ただし、ヴァイオリンのソロ演奏曲ではなかった。もちろん、神尾真由子の演奏曲ではなかったが。
その中でも、音の記憶というのはことさら難しいのではなかろうか。
小説は、記号としての文字で物語を記述してあるにもかかわらず、いやそれだからこそと言うべきか、おのずと脳の中でイメージ化しているし、物語を頭の中で反芻、吟味することができる。気に入った文章なら暗誦しておくこともできる。あるいは、主人公はなぜあのような行動をとったのだろう、自分だったらこうしただろうという想像を働かせることもできる。
映画は、印象的な映像(シーン)が記憶に残っているし、1枚の写真やポスターで、すぐに映像の再生が可能になる。
絵画や写真となると、平面であるがゆえに記憶への定着は容易だ。
思い出せないとしたら、それは忘却、記憶の喪失である。
味(舌)はどうだろうか。
美味しいステーキを食べたことがあれば、店先で、そのステーキ(肉)を見たり匂いを嗅いだだけで、唾が出てくることがある。要するに、味の記憶が脳を刺激するのだ。
では、本題の音はどうだろう。
すばらしい演奏を聴いて、感動することはよくある。
しかし、その演奏会の写真やポスターを見ても、頭の中で音を再生することは難しい。ヴァイオリンの写真を見て、さっき聴いてきたヴァイオリンの曲目の演奏を甦らせるのは難しい。その演奏者の写真やポスターを見て、演奏会の情景を思い出すことなら容易だが。
音を再生させようとすれば、そのときの情景を思い浮かべざるを得ない。僕たちは、純粋な音だけではなく、その情景を再生させているようなのだ。
想像力は限りなく持っているように思うのだが、音へのそれは無力のように感じる。
ドレミファ…の音階オクターブは、想像だけであったら何オクターブもできそうに思える。しかし、実際頭の中で音を出してみると、上限がすぐにきて、(僕の場合)2オクターブがいいとこだ。これは人によって違うのだろう。
実際に音に出さなくて頭の中で想像するだけでいいと言い聞かせても、ある程度以上のキーになると、何度も平坦な音を繰り返しているだけである。低音についても同じである。
2001年、イタリアを旅しているとき、ヴェネツィアの古い貴族の館で、ヴェネツィア・オーケストラの弦楽奏団の音楽を聴いた。そのとき、この感動は僕のそれまでの人生の感動の中でも有数のものだと感じた。そして、それを強く心に刻もうと思った。
しかし、今は、そのときの情景は細かく思い浮かべることはできても、そのときの音楽は頭の中でも、心の中でも再現できない。ヴィバルディーの曲だったのだが、細部は霧にかき消されたようだ。
音への感動の蘇生は、その音を再び聴かないといけないのだろうか?
*
2月22日、日本フィルハーモニー交響楽団の九州公演の一環として、佐賀市で公演会が行われた。
日本フィルの指揮は、ロシア人の首席指揮者、アレクサンドル・ラザレフ。ゲストは、ヴァイオリニストの神尾真由子である。
いきなり、ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲が始まった。ラザレフ指揮、日本フィルによる演奏である。
次に、ヴァイオリニストの神尾真由子が登場。舞台は華やかになり、温度が高くなったようだった。
曲は、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」。
神尾真由子は、2007年に、日本人としては諏訪内晶子以来となる、チャイコフスキー国際コンクールで優勝して、一躍世界的に有名になったヴァイオリニストである。
日本フィルをバックにした彼女の演奏は、エネルギッシュで華麗であった。まだ若くて美しくもある彼女は、才能を持つものだけが許される高慢の高みにいた。
指揮者のラザレフは、最初から飛ばしていたという印象だったが、それは彼女を意識してのことだったのかもしれない。
ヴァイオリニストと指揮者のエネルギーがぶつかり合った演奏会だった。
神尾真由子の使用しているヴァイオリンは、1727年製作のストラディヴァリウスである。ストラディヴァリウスは数も少なくステイタスシンボルであることから、所有者や演奏者を公開している場合が多い。億単位というあまりにも高額であるため、企業や団体からの貸与という形式も多く、彼女の場合もサントリーホールディングスからの貸与である。
現在このストラディヴァリウスを使用している日本人の演奏家は、彼女のほかに諏訪内晶子、五嶋龍、庄司紗矢香、竹澤恭子、南紫音などがいて、辻久子、千住真理子、高島ちさ子などは、自己所有である。もちろん、密かに持っている人もいるに違いない。
神尾真由子の音の記憶を保つために、会場で販売していた彼女のCDを買って帰った。2枚目で最新盤の「パガニーニ:24のカプリースOp.1」である。
この曲は、自身の演奏技術が悪魔的とまで言われたパガニーニが、そのヴァイオリンの極限の音域と指の早業の技巧を求めて作曲したもので、弾く者に超絶技巧を要求した曲である。
パガニーニは発表当時、皆さん、こんな曲が弾けますか?と、弦を押さえる左指で弦をはじきながら、右手で弓を弾くという独自の「左手のピッツィカート」を披露しながら、冷ややかに見下していたのであろう。
後日、神尾真由子のCDを聴いた。
このパガニーニの「24のカプリース(奇想曲)Op.1」を、彼女は何の苦労もない曲のように弾いている。いや、超絶技巧を楽しむかのように、あるいはその演奏技巧を密やかに誇示するかのように。
あたかも、フィギュアスケートで、3回転ジャンプを涼しい顔で跳ぶように。
<追記>
2月28日の夜、テレビのバンクーバー五輪特集のフィギュアスケートのエキシビションを見ていたら、浅田真央選手が、扇を片手に飛び出して舞った。
曲は何と、パガニーニの「24のカプリース」で、その中でも最も美しい第24番であった。
ただし、ヴァイオリンのソロ演奏曲ではなかった。もちろん、神尾真由子の演奏曲ではなかったが。