*「大和」(やまと)に惹かれた少年時代の愛国心
呉(くれ)には、一度行こうとずっと思っていた。
呉といえば軍港である。そしてまず思うのは、戦艦大和が造られたところということである。
私は戦艦や軍事ものが好きというわけではないが、戦艦大和だけは別格という思いがある。
私が子供のころは、敗戦後に民主主義が導入され軍国主義が封印された直後だったにもかかわらず、たぶん、多くの少年が麻疹(はしか)に罹ったかのように愛国少年で軍事少年であった。
今思えば不思議な感じがするが、どうしてだろうか。少年特有の感情だったのだろうか、時代がもたらしたものだったのだろうか。振り返ってみた。
1945(昭和20)年8月、日本はポツダム宣言を受諾し降伏したことにより、第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結(終戦)。
1947(昭和22)年5月、日本国憲法が施行され、国民主権と戦争放棄・恒久平和主義を謳う。
1950(昭和25)年、朝鮮戦争勃発時にGHQの指令に基づくポツダム政令により、警察予備隊が発足。
1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復する。
1952(昭和27)年8月、保安庁が設置され、同年10月、警察予備隊は保安隊に改組。1954(昭和29)年7月、自衛隊法が施行され、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊に改組され、新たに航空自衛隊も新設され、陸海空の各自衛隊が成立した。また、保安庁は防衛庁に改組された。
映画「戦艦大和」(監督 : 阿部豊、原作:吉田満、新東宝)が1953(昭和28)年公開され、少年たちは誰もが戦艦大和に夢中になった。小学校低学年だった私も、当然のごとく夢中になった。
子どもの頃、漫画が大好きで漫画を描くのが得意だった私は(当時の旧友もそう言う)、ノートには戦艦大和の絵ばかり描いていた時があった。それを見たクラスの男の子たちから、俺のノートにも書いてくれという要望がひっきりなしに来たぐらいだった。
そして漫画も卒業し中学生になったころ、「明治天皇と日露大戦争」(監督:渡辺邦男、新東宝)が1957(昭和32)年に公開された。この映画は、「鞍馬天狗」で人気のあった嵐寛寿郎が明治天皇に扮し、明治天皇が格好良く威厳に充ちた演技と演出であった。少年心に感動したのだった。
1959(昭和34)年には「海軍兵学校物語 あゝ江田島」(監督:村山三男、東宝)が公開された(この映画は観ていないが)。
中学生になり歴史少年になっていた私は、同じクラスの男の家に遊びに行ったとき、彼の高校生の姉の本棚にある歴史の教科書を見つけ、ページを開いたら中学の教科書には載っていないことが詳しく載っていたので感動して、熱中した記憶がある。特に明治から太平洋戦争までは興味をそそられて、現在施行されている日本国憲法さえちゃんと読んでいないのに、「一、広く会議を興(お)こし万機公論に決すべし……」などと、明治新政府の「五箇条の御誓文」を暗唱していた。
歌でも、戦前の軍事歌謡や軍歌は流れていたし、それはみな哀愁に充ちていた。
「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……」「若鷲の歌」(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く……」「同期の桜」(原詞:西條八十、作曲:大村能章)
このような歌を、うたったものだ。もちろん、学校で教えられたものでないし、テレビも普及していない時代なのでラジオで聴いて覚えたのだろうか。
また、明治生まれの祖母から教えてもらった、日露戦争の乃木大将をうたった歌も忘れられない。
「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営…庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木……」「水師営の会見」(作詞:佐佐木信綱、作曲:岡野貞一)
この歌は、「尋常小學読本唱歌」として戦前、子どもたちの間で歌われていたものだ。
※後に2015年、中国・旅順に旅行したとき、乃木大将とステッセルの会見場の水市営が写真と同じ形で残されていたのには感動したのだが、それがそっくりに復元されたものと聞いて落胆した。施設内に植えられていた棗の木も、後に植えられたものであった。
太平洋戦争に敗れて、民主主義の教育が始まって芽生えたばかりの頃、つまり日本が復興していく昭和20年代から30年代にかけて少年時代を過ごした世代の多くの人が抱いただろう、あの言われえぬ甘酸っぱい感慨……。貧しいながら、希望や夢はどこにでも若草のように広がっていた。そして、過ぎた戦争はオブラートに包まれて描かれていた。
それに、呉に行ってみたいと思っていたのは、そこが戦艦大和の故郷であることとともに、私の父方の祖父が、江田島で海軍兵学校の教員をしていたと聞いていたことが、心の片隅にあったことも小さな素因かもしれない。
*呉で自衛隊の艦船に乗る
こうして、佐賀を出発して呉に行こうと思いたった。
明治時代に横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4港が軍港に指定された。その各港には鎮守府と海軍工廠が置かれ、艦隊や航空隊の母港・所属地となった。
呉はその軍港の一つである。その後、呉は瀬戸内海の地理的好条件もあり、設備を増強し日本海軍艦艇建造の中心地となった。
そして、太平洋戦争突入当時、世界最大の戦艦「大和」が建造された。
呉の対岸の島、江田島には海軍兵学校が置かれていた。
10月22日、佐賀駅9時31分発特急に乗り、10時7分博多駅着。10時23分博多発新幹線特急「さくら」に乗り、11時32分広島駅着。
呉は広島から奥まった瀬戸内海の海岸に面したところにあるので、内陸部をほぼ真っすぐに進む山陽本線、山陽新幹線は通っていない。広島駅から途中の、海田市駅からぐるりと海岸線を周って三原駅に至る呉線を利用することになる。
広島駅で呉線(正確には海田市駅までは山陽本線)に乗り換えた。広島駅11時40分発で12時28分に呉駅に着いた。
呉駅に着くと、駅近くの海沿いのホテルに行くため南側に歩いていくと、立体歩道(ペデストリアンデッキ)となっていた。その途中に、くれ観光情報プラザがあったので、街の地図でも貰おうと寄ってみた。
すると、係の人がチラシをくれて、この日は「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」が海上自衛隊呉基地(呉市昭和町)で、4年ぶりに開催されているというではないか。
海軍といえばカレーである。呉海自カレーは全店が参加する他、約50店が店を出すという。
それに、海上自衛隊呉基地所属の艦艇見学会もあるという。開催の時間は15時まで。まだ間に合う、急ごう! ホテルに荷物を預け、すぐに飛び出した。
この日は、駅前から会場のある海上自衛隊基地まで無料のシャトルバスが出ていると言って、係の人がバス停まで案内してくれた。
海岸沿いにある海上自衛隊の基地に来た。この日は、フリーパスだ。基地内の会場は人でいっぱいだ。テントの店が並んでいる。その向こうに、大きな自衛隊用の艦船が停泊している。
今まで自衛隊の船には乗ったことがないし、乗れるのならこんな機会はないと、まずは船の横腹に人が並んでいるので、そこへ並んだ。今日のような特別の日には、自衛隊の艦船に乗れる機会が設けてあるらしいが、その日によって乗れる船は異なるらしい。
この日、乗船したのは掃海母艦「ぶんご」(MST464)である。(写真)
掃海母艦(そうかいぼかん)とは、掃海作戦時に海域の安全を図るため、掃海用航空機や掃海艇の母艦として、燃料や物資の補給などを行うと共に、それらの司令塔としての機能を果たす艦船とある。
「ぶんご」は1998年就役の艦船で、全長141m、最大幅22m、基準排水量5,700トン、満載排水量6,900トンと、かなり大きい。
艦船には吊り梯子で斜めに上がって、船内に入った。中は制服を着た自衛隊の隊員が多くいたが、この日は祭りとあってみんな穏やかな表情である。
掃海用航空機の母艦とあって甲板が長くて広い。甲尾には日章旗もはためいている。ものは試しに、船内のトイレ(公開)も入ってみた。
下船するため甲板から下階へ降りる際は、方形の枠内に順番に(数十人が)並ぶと、合図とともに甲板が四角く抉られたように人ごと並行移降である。
船から降りた後は、牛すじカレーを食べた。そして、別の店で広島特産の焼き牡蠣(かき)を。
*あゝ、江田島へ
呉の海上自衛隊基地からバスで駅前の海辺の呉港へ戻った。
ここからは、広島港や松山港へ定期船が走っている。発着所にある看板を見ていると、江田島への航路もある。江田島に行く時間の余裕はないなと思っていたら、呉港を出発して江田島の小用湾を往復するだけの「おさんぽクルーズ」というコースがあるではないか。
定期航路を利用した約45分の江田島までの呉湾の旅で、大人500円。1日9便で、現在15時30分だから、これから乗るとなると、16時と18時10分の便がある。
「大和ミュージアム」(17時30分まで入館、18時閉館)を観た後、18時10分の便に乗ればちょうどいいと思った。
窓口でその切符を買おうと申し込んで、売り場の若い人が切符を切ろうとしていたとき、奥にいた中年の女性が口を挟んだ。
「今の季節、18時の便ではもう外の海は真っ暗で景色は見えないですよ。今からだったら、16時に乗った方がいいですよ。今日は晴れているし」と言った。
そうだ。これからすぐの便に乗ろう。戻った後「大和ミュージアム」に行けばいいし、間に合わなければ明日の早朝観ればいいと思い、すぐに江田島行きの便に乗った。
クルーズ便は、江田島に行く一般の人と一緒だ。乗っているほとんどの人は、呉から島へ帰る人のようだ。
遠ざかる船からは、呉湾が全貌できる。
呉湾の船着き場のすぐ横には「大和ミュージアム」があり、その横には、大きな鯨のような潜水艦が陸の上に横たわっている。右手には、さっき行ってきた海上自衛隊の基地があり艦船が並んでいる。
「大和」が造られた港だ。
江田島の小用湾は人気の少ない小さな港だった。小さな発着所にクルーズ船は着き、乗客を降ろし、新しく呉に行く客を乗せた。
私は江田島の土を踏むことなく、それらを見ていた。ここに、かつて海軍の兵学校があったとは想像できない長閑さが漂っていた。
*戦艦「大和」を偲ぶ、大和ミュージアム
江田島から呉湾に戻ったのは、まだ17時前だった。
船着き場の横は「大和ミュージアム」である。
ミュージアムの中に入ると、いきなり戦艦「大和」が飛び込んできた。
10分の1に再現したもので、それでも充分人が乗れるほど大きい。
戦艦「大和」
太平洋戦争当時、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した巨大戦艦である。
全長263m、水線長256m、幅38.9m。排水量64,000トン(基準)、69,000トン(公試)、72,809トン(満載)。
就役1941(昭和16)年12月、最期1945(昭和20)年4月7日沈没。
「大和ミュージアム」では、戦艦「大和」の歴史とともに軍港「呉」の歴史を知ることができる。「零戦」、人間魚雷「回転」の実物も展示してある。
この日は、「日本海軍と航空母艦」の企画展が行われていた。
航空母艦に興味がある人には垂涎の特別展示会であろう。
*夜の呉の街
この日、呉に行ったのは僥倖であった。
たまたまであるが、「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」の祭りに出くわし、海上自衛隊呉基地に入れて、掃海母艦「ぶんご」に乗船できた。
さらに、呉湾を走る船に乗り「江田島」まで行き、戦艦「大和」のミュージアムを見ることもできた。
大和ミュージアムを出たら、街はもう暗い。
夕食を求めて、街の繁華街の中通から本通に行った。地図を片手にアーケードを中心に碁盤の目のような街中を歩いたが、なかなか見つからない。
いつものごとく街を歩き回って、結局駅前に来てしまった。やれやれ。
振り返って、呉は軍港という響きとはアンバランスな雰囲気が漂う、落ち着きのある静かないい町だ。
呉(くれ)には、一度行こうとずっと思っていた。
呉といえば軍港である。そしてまず思うのは、戦艦大和が造られたところということである。
私は戦艦や軍事ものが好きというわけではないが、戦艦大和だけは別格という思いがある。
私が子供のころは、敗戦後に民主主義が導入され軍国主義が封印された直後だったにもかかわらず、たぶん、多くの少年が麻疹(はしか)に罹ったかのように愛国少年で軍事少年であった。
今思えば不思議な感じがするが、どうしてだろうか。少年特有の感情だったのだろうか、時代がもたらしたものだったのだろうか。振り返ってみた。
1945(昭和20)年8月、日本はポツダム宣言を受諾し降伏したことにより、第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結(終戦)。
1947(昭和22)年5月、日本国憲法が施行され、国民主権と戦争放棄・恒久平和主義を謳う。
1950(昭和25)年、朝鮮戦争勃発時にGHQの指令に基づくポツダム政令により、警察予備隊が発足。
1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復する。
1952(昭和27)年8月、保安庁が設置され、同年10月、警察予備隊は保安隊に改組。1954(昭和29)年7月、自衛隊法が施行され、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊に改組され、新たに航空自衛隊も新設され、陸海空の各自衛隊が成立した。また、保安庁は防衛庁に改組された。
映画「戦艦大和」(監督 : 阿部豊、原作:吉田満、新東宝)が1953(昭和28)年公開され、少年たちは誰もが戦艦大和に夢中になった。小学校低学年だった私も、当然のごとく夢中になった。
子どもの頃、漫画が大好きで漫画を描くのが得意だった私は(当時の旧友もそう言う)、ノートには戦艦大和の絵ばかり描いていた時があった。それを見たクラスの男の子たちから、俺のノートにも書いてくれという要望がひっきりなしに来たぐらいだった。
そして漫画も卒業し中学生になったころ、「明治天皇と日露大戦争」(監督:渡辺邦男、新東宝)が1957(昭和32)年に公開された。この映画は、「鞍馬天狗」で人気のあった嵐寛寿郎が明治天皇に扮し、明治天皇が格好良く威厳に充ちた演技と演出であった。少年心に感動したのだった。
1959(昭和34)年には「海軍兵学校物語 あゝ江田島」(監督:村山三男、東宝)が公開された(この映画は観ていないが)。
中学生になり歴史少年になっていた私は、同じクラスの男の家に遊びに行ったとき、彼の高校生の姉の本棚にある歴史の教科書を見つけ、ページを開いたら中学の教科書には載っていないことが詳しく載っていたので感動して、熱中した記憶がある。特に明治から太平洋戦争までは興味をそそられて、現在施行されている日本国憲法さえちゃんと読んでいないのに、「一、広く会議を興(お)こし万機公論に決すべし……」などと、明治新政府の「五箇条の御誓文」を暗唱していた。
歌でも、戦前の軍事歌謡や軍歌は流れていたし、それはみな哀愁に充ちていた。
「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……」「若鷲の歌」(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く……」「同期の桜」(原詞:西條八十、作曲:大村能章)
このような歌を、うたったものだ。もちろん、学校で教えられたものでないし、テレビも普及していない時代なのでラジオで聴いて覚えたのだろうか。
また、明治生まれの祖母から教えてもらった、日露戦争の乃木大将をうたった歌も忘れられない。
「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営…庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木……」「水師営の会見」(作詞:佐佐木信綱、作曲:岡野貞一)
この歌は、「尋常小學読本唱歌」として戦前、子どもたちの間で歌われていたものだ。
※後に2015年、中国・旅順に旅行したとき、乃木大将とステッセルの会見場の水市営が写真と同じ形で残されていたのには感動したのだが、それがそっくりに復元されたものと聞いて落胆した。施設内に植えられていた棗の木も、後に植えられたものであった。
太平洋戦争に敗れて、民主主義の教育が始まって芽生えたばかりの頃、つまり日本が復興していく昭和20年代から30年代にかけて少年時代を過ごした世代の多くの人が抱いただろう、あの言われえぬ甘酸っぱい感慨……。貧しいながら、希望や夢はどこにでも若草のように広がっていた。そして、過ぎた戦争はオブラートに包まれて描かれていた。
それに、呉に行ってみたいと思っていたのは、そこが戦艦大和の故郷であることとともに、私の父方の祖父が、江田島で海軍兵学校の教員をしていたと聞いていたことが、心の片隅にあったことも小さな素因かもしれない。
*呉で自衛隊の艦船に乗る
こうして、佐賀を出発して呉に行こうと思いたった。
明治時代に横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4港が軍港に指定された。その各港には鎮守府と海軍工廠が置かれ、艦隊や航空隊の母港・所属地となった。
呉はその軍港の一つである。その後、呉は瀬戸内海の地理的好条件もあり、設備を増強し日本海軍艦艇建造の中心地となった。
そして、太平洋戦争突入当時、世界最大の戦艦「大和」が建造された。
呉の対岸の島、江田島には海軍兵学校が置かれていた。
10月22日、佐賀駅9時31分発特急に乗り、10時7分博多駅着。10時23分博多発新幹線特急「さくら」に乗り、11時32分広島駅着。
呉は広島から奥まった瀬戸内海の海岸に面したところにあるので、内陸部をほぼ真っすぐに進む山陽本線、山陽新幹線は通っていない。広島駅から途中の、海田市駅からぐるりと海岸線を周って三原駅に至る呉線を利用することになる。
広島駅で呉線(正確には海田市駅までは山陽本線)に乗り換えた。広島駅11時40分発で12時28分に呉駅に着いた。
呉駅に着くと、駅近くの海沿いのホテルに行くため南側に歩いていくと、立体歩道(ペデストリアンデッキ)となっていた。その途中に、くれ観光情報プラザがあったので、街の地図でも貰おうと寄ってみた。
すると、係の人がチラシをくれて、この日は「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」が海上自衛隊呉基地(呉市昭和町)で、4年ぶりに開催されているというではないか。
海軍といえばカレーである。呉海自カレーは全店が参加する他、約50店が店を出すという。
それに、海上自衛隊呉基地所属の艦艇見学会もあるという。開催の時間は15時まで。まだ間に合う、急ごう! ホテルに荷物を預け、すぐに飛び出した。
この日は、駅前から会場のある海上自衛隊基地まで無料のシャトルバスが出ていると言って、係の人がバス停まで案内してくれた。
海岸沿いにある海上自衛隊の基地に来た。この日は、フリーパスだ。基地内の会場は人でいっぱいだ。テントの店が並んでいる。その向こうに、大きな自衛隊用の艦船が停泊している。
今まで自衛隊の船には乗ったことがないし、乗れるのならこんな機会はないと、まずは船の横腹に人が並んでいるので、そこへ並んだ。今日のような特別の日には、自衛隊の艦船に乗れる機会が設けてあるらしいが、その日によって乗れる船は異なるらしい。
この日、乗船したのは掃海母艦「ぶんご」(MST464)である。(写真)
掃海母艦(そうかいぼかん)とは、掃海作戦時に海域の安全を図るため、掃海用航空機や掃海艇の母艦として、燃料や物資の補給などを行うと共に、それらの司令塔としての機能を果たす艦船とある。
「ぶんご」は1998年就役の艦船で、全長141m、最大幅22m、基準排水量5,700トン、満載排水量6,900トンと、かなり大きい。
艦船には吊り梯子で斜めに上がって、船内に入った。中は制服を着た自衛隊の隊員が多くいたが、この日は祭りとあってみんな穏やかな表情である。
掃海用航空機の母艦とあって甲板が長くて広い。甲尾には日章旗もはためいている。ものは試しに、船内のトイレ(公開)も入ってみた。
下船するため甲板から下階へ降りる際は、方形の枠内に順番に(数十人が)並ぶと、合図とともに甲板が四角く抉られたように人ごと並行移降である。
船から降りた後は、牛すじカレーを食べた。そして、別の店で広島特産の焼き牡蠣(かき)を。
*あゝ、江田島へ
呉の海上自衛隊基地からバスで駅前の海辺の呉港へ戻った。
ここからは、広島港や松山港へ定期船が走っている。発着所にある看板を見ていると、江田島への航路もある。江田島に行く時間の余裕はないなと思っていたら、呉港を出発して江田島の小用湾を往復するだけの「おさんぽクルーズ」というコースがあるではないか。
定期航路を利用した約45分の江田島までの呉湾の旅で、大人500円。1日9便で、現在15時30分だから、これから乗るとなると、16時と18時10分の便がある。
「大和ミュージアム」(17時30分まで入館、18時閉館)を観た後、18時10分の便に乗ればちょうどいいと思った。
窓口でその切符を買おうと申し込んで、売り場の若い人が切符を切ろうとしていたとき、奥にいた中年の女性が口を挟んだ。
「今の季節、18時の便ではもう外の海は真っ暗で景色は見えないですよ。今からだったら、16時に乗った方がいいですよ。今日は晴れているし」と言った。
そうだ。これからすぐの便に乗ろう。戻った後「大和ミュージアム」に行けばいいし、間に合わなければ明日の早朝観ればいいと思い、すぐに江田島行きの便に乗った。
クルーズ便は、江田島に行く一般の人と一緒だ。乗っているほとんどの人は、呉から島へ帰る人のようだ。
遠ざかる船からは、呉湾が全貌できる。
呉湾の船着き場のすぐ横には「大和ミュージアム」があり、その横には、大きな鯨のような潜水艦が陸の上に横たわっている。右手には、さっき行ってきた海上自衛隊の基地があり艦船が並んでいる。
「大和」が造られた港だ。
江田島の小用湾は人気の少ない小さな港だった。小さな発着所にクルーズ船は着き、乗客を降ろし、新しく呉に行く客を乗せた。
私は江田島の土を踏むことなく、それらを見ていた。ここに、かつて海軍の兵学校があったとは想像できない長閑さが漂っていた。
*戦艦「大和」を偲ぶ、大和ミュージアム
江田島から呉湾に戻ったのは、まだ17時前だった。
船着き場の横は「大和ミュージアム」である。
ミュージアムの中に入ると、いきなり戦艦「大和」が飛び込んできた。
10分の1に再現したもので、それでも充分人が乗れるほど大きい。
戦艦「大和」
太平洋戦争当時、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した巨大戦艦である。
全長263m、水線長256m、幅38.9m。排水量64,000トン(基準)、69,000トン(公試)、72,809トン(満載)。
就役1941(昭和16)年12月、最期1945(昭和20)年4月7日沈没。
「大和ミュージアム」では、戦艦「大和」の歴史とともに軍港「呉」の歴史を知ることができる。「零戦」、人間魚雷「回転」の実物も展示してある。
この日は、「日本海軍と航空母艦」の企画展が行われていた。
航空母艦に興味がある人には垂涎の特別展示会であろう。
*夜の呉の街
この日、呉に行ったのは僥倖であった。
たまたまであるが、「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」の祭りに出くわし、海上自衛隊呉基地に入れて、掃海母艦「ぶんご」に乗船できた。
さらに、呉湾を走る船に乗り「江田島」まで行き、戦艦「大和」のミュージアムを見ることもできた。
大和ミュージアムを出たら、街はもう暗い。
夕食を求めて、街の繁華街の中通から本通に行った。地図を片手にアーケードを中心に碁盤の目のような街中を歩いたが、なかなか見つからない。
いつものごとく街を歩き回って、結局駅前に来てしまった。やれやれ。
振り返って、呉は軍港という響きとはアンバランスな雰囲気が漂う、落ち着きのある静かないい町だ。