かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大阪を経て九州へ⑥ 軍港、呉で艦艇に!

2023-12-27 02:01:00 | * 九州の祭りを追って
 *「大和」(やまと)に惹かれた少年時代の愛国心

 呉(くれ)には、一度行こうとずっと思っていた。
 呉といえば軍港である。そしてまず思うのは、戦艦大和が造られたところということである。
 私は戦艦や軍事ものが好きというわけではないが、戦艦大和だけは別格という思いがある。

 私が子供のころは、敗戦後に民主主義が導入され軍国主義が封印された直後だったにもかかわらず、たぶん、多くの少年が麻疹(はしか)に罹ったかのように愛国少年で軍事少年であった。
 今思えば不思議な感じがするが、どうしてだろうか。少年特有の感情だったのだろうか、時代がもたらしたものだったのだろうか。振り返ってみた。

 1945(昭和20)年8月、日本はポツダム宣言を受諾し降伏したことにより、第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結(終戦)。
 1947(昭和22)年5月、日本国憲法が施行され、国民主権と戦争放棄・恒久平和主義を謳う。
 1950(昭和25)年、朝鮮戦争勃発時にGHQの指令に基づくポツダム政令により、警察予備隊が発足。
 1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復する。
 1952(昭和27)年8月、保安庁が設置され、同年10月、警察予備隊は保安隊に改組。1954(昭和29)年7月、自衛隊法が施行され、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊に改組され、新たに航空自衛隊も新設され、陸海空の各自衛隊が成立した。また、保安庁は防衛庁に改組された。

 映画「戦艦大和」(監督 : 阿部豊、原作:吉田満、新東宝)が1953(昭和28)年公開され、少年たちは誰もが戦艦大和に夢中になった。小学校低学年だった私も、当然のごとく夢中になった。
 子どもの頃、漫画が大好きで漫画を描くのが得意だった私は(当時の旧友もそう言う)、ノートには戦艦大和の絵ばかり描いていた時があった。それを見たクラスの男の子たちから、俺のノートにも書いてくれという要望がひっきりなしに来たぐらいだった。
 そして漫画も卒業し中学生になったころ、「明治天皇と日露大戦争」(監督:渡辺邦男、新東宝)が1957(昭和32)年に公開された。この映画は、「鞍馬天狗」で人気のあった嵐寛寿郎が明治天皇に扮し、明治天皇が格好良く威厳に充ちた演技と演出であった。少年心に感動したのだった。
 1959(昭和34)年には「海軍兵学校物語 あゝ江田島」(監督:村山三男、東宝)が公開された(この映画は観ていないが)。
 
 中学生になり歴史少年になっていた私は、同じクラスの男の家に遊びに行ったとき、彼の高校生の姉の本棚にある歴史の教科書を見つけ、ページを開いたら中学の教科書には載っていないことが詳しく載っていたので感動して、熱中した記憶がある。特に明治から太平洋戦争までは興味をそそられて、現在施行されている日本国憲法さえちゃんと読んでいないのに、「一、広く会議を興(お)こし万機公論に決すべし……」などと、明治新政府の「五箇条の御誓文」を暗唱していた。
 
 歌でも、戦前の軍事歌謡や軍歌は流れていたし、それはみな哀愁に充ちていた。
 「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……」「若鷲の歌」(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
 「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く……」「同期の桜」(原詞:西條八十、作曲:大村能章)
 このような歌を、うたったものだ。もちろん、学校で教えられたものでないし、テレビも普及していない時代なのでラジオで聴いて覚えたのだろうか。
 また、明治生まれの祖母から教えてもらった、日露戦争の乃木大将をうたった歌も忘れられない。
 「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営…庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木……」「水師営の会見」(作詞:佐佐木信綱、作曲:岡野貞一)
 この歌は、「尋常小學読本唱歌」として戦前、子どもたちの間で歌われていたものだ。
 ※後に2015年、中国・旅順に旅行したとき、乃木大将とステッセルの会見場の水市営が写真と同じ形で残されていたのには感動したのだが、それがそっくりに復元されたものと聞いて落胆した。施設内に植えられていた棗の木も、後に植えられたものであった。

 太平洋戦争に敗れて、民主主義の教育が始まって芽生えたばかりの頃、つまり日本が復興していく昭和20年代から30年代にかけて少年時代を過ごした世代の多くの人が抱いただろう、あの言われえぬ甘酸っぱい感慨……。貧しいながら、希望や夢はどこにでも若草のように広がっていた。そして、過ぎた戦争はオブラートに包まれて描かれていた。
 それに、呉に行ってみたいと思っていたのは、そこが戦艦大和の故郷であることとともに、私の父方の祖父が、江田島で海軍兵学校の教員をしていたと聞いていたことが、心の片隅にあったことも小さな素因かもしれない。

 *呉で自衛隊の艦船に乗る

 こうして、佐賀を出発して呉に行こうと思いたった。

 明治時代に横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4港が軍港に指定された。その各港には鎮守府と海軍工廠が置かれ、艦隊や航空隊の母港・所属地となった。
 呉はその軍港の一つである。その後、呉は瀬戸内海の地理的好条件もあり、設備を増強し日本海軍艦艇建造の中心地となった。
 そして、太平洋戦争突入当時、世界最大の戦艦「大和」が建造された。
 呉の対岸の島、江田島には海軍兵学校が置かれていた。

 10月22日、佐賀駅9時31分発特急に乗り、10時7分博多駅着。10時23分博多発新幹線特急「さくら」に乗り、11時32分広島駅着。
 呉は広島から奥まった瀬戸内海の海岸に面したところにあるので、内陸部をほぼ真っすぐに進む山陽本線、山陽新幹線は通っていない。広島駅から途中の、海田市駅からぐるりと海岸線を周って三原駅に至る呉線を利用することになる。
 広島駅で呉線(正確には海田市駅までは山陽本線)に乗り換えた。広島駅11時40分発で12時28分に呉駅に着いた。

 呉駅に着くと、駅近くの海沿いのホテルに行くため南側に歩いていくと、立体歩道(ペデストリアンデッキ)となっていた。その途中に、くれ観光情報プラザがあったので、街の地図でも貰おうと寄ってみた。
 すると、係の人がチラシをくれて、この日は「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」が海上自衛隊呉基地(呉市昭和町)で、4年ぶりに開催されているというではないか。
 海軍といえばカレーである。呉海自カレーは全店が参加する他、約50店が店を出すという。
 それに、海上自衛隊呉基地所属の艦艇見学会もあるという。開催の時間は15時まで。まだ間に合う、急ごう! ホテルに荷物を預け、すぐに飛び出した。
 この日は、駅前から会場のある海上自衛隊基地まで無料のシャトルバスが出ていると言って、係の人がバス停まで案内してくれた。

 海岸沿いにある海上自衛隊の基地に来た。この日は、フリーパスだ。基地内の会場は人でいっぱいだ。テントの店が並んでいる。その向こうに、大きな自衛隊用の艦船が停泊している。
 今まで自衛隊の船には乗ったことがないし、乗れるのならこんな機会はないと、まずは船の横腹に人が並んでいるので、そこへ並んだ。今日のような特別の日には、自衛隊の艦船に乗れる機会が設けてあるらしいが、その日によって乗れる船は異なるらしい。
 この日、乗船したのは掃海母艦「ぶんご」(MST464)である。(写真)
 掃海母艦(そうかいぼかん)とは、掃海作戦時に海域の安全を図るため、掃海用航空機や掃海艇の母艦として、燃料や物資の補給などを行うと共に、それらの司令塔としての機能を果たす艦船とある。
 「ぶんご」は1998年就役の艦船で、全長141m、最大幅22m、基準排水量5,700トン、満載排水量6,900トンと、かなり大きい。
 艦船には吊り梯子で斜めに上がって、船内に入った。中は制服を着た自衛隊の隊員が多くいたが、この日は祭りとあってみんな穏やかな表情である。
 掃海用航空機の母艦とあって甲板が長くて広い。甲尾には日章旗もはためいている。ものは試しに、船内のトイレ(公開)も入ってみた。
 下船するため甲板から下階へ降りる際は、方形の枠内に順番に(数十人が)並ぶと、合図とともに甲板が四角く抉られたように人ごと並行移降である。

 船から降りた後は、牛すじカレーを食べた。そして、別の店で広島特産の焼き牡蠣(かき)を。

 *あゝ、江田島へ

 呉の海上自衛隊基地からバスで駅前の海辺の呉港へ戻った。
 ここからは、広島港や松山港へ定期船が走っている。発着所にある看板を見ていると、江田島への航路もある。江田島に行く時間の余裕はないなと思っていたら、呉港を出発して江田島の小用湾を往復するだけの「おさんぽクルーズ」というコースがあるではないか。
 定期航路を利用した約45分の江田島までの呉湾の旅で、大人500円。1日9便で、現在15時30分だから、これから乗るとなると、16時と18時10分の便がある。
 「大和ミュージアム」(17時30分まで入館、18時閉館)を観た後、18時10分の便に乗ればちょうどいいと思った。
 窓口でその切符を買おうと申し込んで、売り場の若い人が切符を切ろうとしていたとき、奥にいた中年の女性が口を挟んだ。
 「今の季節、18時の便ではもう外の海は真っ暗で景色は見えないですよ。今からだったら、16時に乗った方がいいですよ。今日は晴れているし」と言った。
 そうだ。これからすぐの便に乗ろう。戻った後「大和ミュージアム」に行けばいいし、間に合わなければ明日の早朝観ればいいと思い、すぐに江田島行きの便に乗った。

 クルーズ便は、江田島に行く一般の人と一緒だ。乗っているほとんどの人は、呉から島へ帰る人のようだ。
 遠ざかる船からは、呉湾が全貌できる。
 呉湾の船着き場のすぐ横には「大和ミュージアム」があり、その横には、大きな鯨のような潜水艦が陸の上に横たわっている。右手には、さっき行ってきた海上自衛隊の基地があり艦船が並んでいる。
 「大和」が造られた港だ。

 江田島の小用湾は人気の少ない小さな港だった。小さな発着所にクルーズ船は着き、乗客を降ろし、新しく呉に行く客を乗せた。
 私は江田島の土を踏むことなく、それらを見ていた。ここに、かつて海軍の兵学校があったとは想像できない長閑さが漂っていた。

 *戦艦「大和」を偲ぶ、大和ミュージアム

 江田島から呉湾に戻ったのは、まだ17時前だった。
 船着き場の横は「大和ミュージアム」である。
 ミュージアムの中に入ると、いきなり戦艦「大和」が飛び込んできた。
 10分の1に再現したもので、それでも充分人が乗れるほど大きい。

 戦艦「大和」
 太平洋戦争当時、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した巨大戦艦である。
 全長263m、水線長256m、幅38.9m。排水量64,000トン(基準)、69,000トン(公試)、72,809トン(満載)。
 就役1941(昭和16)年12月、最期1945(昭和20)年4月7日沈没。

 「大和ミュージアム」では、戦艦「大和」の歴史とともに軍港「呉」の歴史を知ることができる。「零戦」、人間魚雷「回転」の実物も展示してある。
 この日は、「日本海軍と航空母艦」の企画展が行われていた。
 航空母艦に興味がある人には垂涎の特別展示会であろう。

 *夜の呉の街

 この日、呉に行ったのは僥倖であった。
 たまたまであるが、「呉海自カレー・呉グルメ―—フェスタ2023」の祭りに出くわし、海上自衛隊呉基地に入れて、掃海母艦「ぶんご」に乗船できた。
 さらに、呉湾を走る船に乗り「江田島」まで行き、戦艦「大和」のミュージアムを見ることもできた。

 大和ミュージアムを出たら、街はもう暗い。
 夕食を求めて、街の繁華街の中通から本通に行った。地図を片手にアーケードを中心に碁盤の目のような街中を歩いたが、なかなか見つからない。
 いつものごとく街を歩き回って、結局駅前に来てしまった。やれやれ。

 振り返って、呉は軍港という響きとはアンバランスな雰囲気が漂う、落ち着きのある静かないい町だ。


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大阪を経て九州へ⑤ 呼子のイカ

2023-12-05 01:42:01 | * 九州の祭りを追って
 「呼子」
 「よぶこ」、と口の中で言ってみる。すると、いつも不思議な感覚にとらわれる。
 曖昧に、不確かに、女性、それも少女の名を呼んだような気になるのだ。
 その曖昧な感覚は、すぐに、絣か木綿の浴衣のような着物を着たそのおかっぱ髪の少女が、海岸で佇んでいる風景になる。そこは、小さな船が停泊している人気(ひとけ)のない漁港だ。
 鄙びた漁港、それが呼子の原風景だ。いや、想像が創った呼子の原型だ。

 まだ若かった頃のことだ。
 唐津に来たついでに、そこからバスで呼子に行った。名前に引かれてふらりと行ってみた、という程度だった。
 呼子は、唐津の虹の松原に護られている海のように浜辺が続いているのではなく、玄界灘の海に接する岸壁がずっと延びている漁港の町だ。その頃は、朝市が有名なくらいだった。
 バスを下りたら、すぐ近くの延びる海岸に行った。今ほど呼子の町が知られていなかったので、人は見あたらなかった。
 海岸といっても海の向こうには島(加部島)が広がっているので、想像していた玄界灘の大海原が広がっているという風景ではない。田舎の小さな漁港の佇まいである。
 岸壁には小さな船が何艘か並んで浮かんでいた。これがイカ釣り船かと思って、しばらく眺めていた。港は静かで、何も起こりそうになかった。着物姿の少女がいたのでもない。
 しばらく海辺を眺めていると、イカ釣り船より大きな船が停まっているのが見えた。よく見ると、その船には「壱岐」行きと書いてある。
 ここから、壱岐に行く船が出ているのを知らなかった私は、小さな驚きと同時に、壱岐の島にも行ったことがなかったので、思わずその船に跳び乗ったのだった。
 初めての呼子の旅は、初めての壱岐の旅になった。

 *武雄の巨木、「川古の大楠」

 10月20日、武雄温泉「楼門亭」に宿泊。
 翌10月21日、朝9時に、高校時代の同級生が、どこか佐賀で昼食をしようといって車で迎えに来た。
 では、「呼子でイカを食おう」と提案し、唐津の呼子に向かって出発した。

 武雄温泉楼門から北へ向かって走ると、伊万里に至る手前の若木町に、古木がある。
 ずいぶん前に行ったことがあるが、通り道なので寄ってみた。以前より、周りは整備されている。久しぶりに見たのだが、やはり、大きい。木の根元には祠も祭ってある。
 この「川古(かわご)の大楠」は、環境省自然環境局の、いわゆる「緑の国勢調査」による「巨樹・巨木林調査」にて全国で第5位にランクされる巨木で、国の天然記念物に指定されている。
 若木の「川古の大楠」は、武雄神社の「武雄の大楠」と同様にかなり大きいと知ってはいたが、全国第5位とはもっと知られていい事実であろう。
 ということで、気になる全国の巨木を調べてみたので、ベスト10を記しておこう。

 木の大きさの判断としては幹の周りを測るということになる。といっても、その計測方法に国際的な基準はない。環境省の「巨樹・巨木林データベース」の調査方法は、ヨーロッパの多くの国が採用している、地上から130cmの高さの幹周である。

 □「全国最大級の巨木」(上位10傑) 平成13年3月現在
 ――環境省自然環境局・自然環境保全基礎調査
 1.「蒲生(かもう)の大楠」 鹿児島県蒲生町 八幡神社 クスノキ 幹周2,422 cm 天然記念物等(国)
 2.静岡県熱海市 来の宮神社 クスノキ 2,390㎝ 天然記念物等(国)
 3.沖縄県島尻郡東風平町 ガジュマル 2,350㎝
 4.「北金ヶ沢のイチョウ」 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢 イチョウ 2,200 cm 天然記念物等(都道府県)
 5.「川古の大楠」佐賀県武雄市若木町川古 クスノキ 2,100 cm 天然記念物等(国)
 5.福岡県築上郡築城町 クスノキ 2,100 cm 天然記念物等(国)
 7.「武雄の大楠」 佐賀県武雄市武雄町 武雄神社 クスノキ 2,000 cm 天然記念物等(市町村)
 7.「権現山の大カツラ」 山形県最上郡最上町 カツラ 2,000 cm
 7.「蚊田の森」 福岡県糟屋郡宇美町 宇美八幡宮 クスノキ 2,000 cm 天然記念物等(国、都道府県)
 10.沖縄県島尻郡東風平町 ガジュマル 1,990 cm

 武雄市の4位の「川古の大楠」の他に、武雄神社の「武雄の大楠」が7位に入っている。先の10月19日、くんちの祭りに行った佐賀・白石町の稲佐神社の楠も、別の巨木調査でベスト50に入っている。
 なにしろ佐賀県は楠が多い。佐賀県に限らず楠は九州全般に多いのだが。
 という流れで言えば、佐賀県の“県の木”は楠である。他に、熊本県、鹿児島県、そして兵庫県が楠である。
 ここからが問題なのであるが、佐賀県の“県の花”はなにか?というと、これがまた楠なのである。
 楠も確かに花は咲くが、ほとんど目立たない。楠の花を知っている人は多くないだろう。
 う~ん…。県木、県花の両方とも楠という、県としてのアピールも、工夫も面白みも無いのである。佐賀県は何を考えているのか? 何も考えていないのか?
 楠以外に県に、木ではない花はないのか? ただただ、花が思いつかなかったのか?
 花がなければ、う~ん…。楠の花より、“みかんの花”がまだ花のイメージが湧いてくる。それに、みかんは佐賀の特産物だし、佐賀らしさもあるではないか。
 また、みかんには、「みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道…」(「みかんの花咲く丘」)という誰もが親しんでいる歌もある。

 ということで、大きな楠を後に呼子に向かった。

 *唐津の近松門左衛門の墓、「近松寺」

 武雄から伊万里をかすって唐津に入った。
 唐津市内に入って、友人の誘いであまり知られていないが面白い寺があるというので、その寺に行った。
 その寺は「近松寺」(きんしょうじ)といった。旧藩主・小笠原家の菩提寺で、江戸時代の有名な浄瑠璃・歌舞伎作家の近松門左衛門の墓石がある、臨済宗南禅寺派の寺である。
 近松門左衛門といえば、先日10月17日、大阪の御堂筋を歩いた際、人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台となった曽根崎の「お初天神」に行ってきたばかりである。
 近松門左衛門は、大阪で浄瑠璃・歌舞伎などの上方人情劇の作家として活動し、大坂・天満で72歳の生涯を閉じた。
 近松の墓と伝えられているものは、尼崎の広済寺、大阪の法妙寺に加え全国7か所を数えるという。それで、なぜ近松の墓が唐津にあるかである。境内の石碑に説明文があるが、実情は定かではない。
 境内には、小笠原家に関する資料を展示した小笠原記念館も立つ。
 しかし、この寺で見ておきたいのは枯山水の禅庭である。庭には茶室もあり、織部燈篭(キリシタン燈篭)なるものもある。

 *イカは呼子にかぎる

 唐津の市外から海辺の町・湊(みなと)を走って、呼子へ向かった。
 時刻は、もう昼の12時近くである。武雄の楼門亭の旅館は朝食がない素泊まりだったし、それに朝から何も食べなかったので、頭の中はイカでいっぱいだ。
 呼子といえばイカで、いつも行くのは老舗の「河太郎」だ。ここは、店内にある生簀の中のイカを注文を受けてから取り出して調理してくれる、“活き造り”の本家である。
 ところが、海辺にある河太郎の前に着くと、店の前にはかなりの人の行列だ。昼飯時だし、それに今日は土曜日だ。残念だが、こちらは空腹で、何時(いつ)イカにありつけるかわからないのに列に並ぶつもりはない。
 すぐに河太郎を後に海岸通りを進むと、通りに面したホテルの1階に食事の看板が目についた。店を選んでいる暇はないので、席が空いているのを確認して、中に入った。
 席について注文をしようとすると、“イカの活き造り定食”の一択だった。それで、いいのだ。
 出てきたイカは大きい。ガラス細工のような透明感。体は刺身用として切り捌かれているのに、まだ脚はくねくねと動いている。(写真)
 呼子の活き造りでは、普通ケンサキイカ(ヤリイカ)が出てくるが、日によって、つまりその日の収穫によって違うイカが出ることもある。今日はどうもアオリイカのようだ。
 刺身としての頭と体で、ご飯(これが大盛りなのだ)を1杯。そのあとゲソ(脚)を天ぷらにしてもらい、それでご飯をお替り。
 連れの友人は太っていて大食なのでこのくらい何のことはないのだが、私も空腹もあってよく食べた(もともと痩せの大食いではあるのだが)。
 佐賀に来たら、呼子のイカを食べようと思ったので、“くんち”も堪能したことだし、満足というものである。

 *
 最初に、「呼子」と呼べば少女を思い浮かべると書いたが、もう一つ女性を思い浮かべる町がある。
 それは、「松江」である。
 この島根県の町(市)は、「怪談」を書いたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が住んだ町で、私も好きな町だ。
 町(街)のイメージと関係ないが、「松江」と呼ぶと、やはり女性、呼子より少し大人の女性が浮かぶ。「抒情文芸」に投稿しているような、少女というか女性である。

 *再興する佐賀

 この日の夜は、佐賀市に宿泊。
 佐賀の駅前には、誰でも立ち寄れるフリーのテーブルや椅子を置いた広場風空間が造ってあり、駅構内の西側サイドに飲み屋などの新しい店が並び、駅前の元スーパーがあったビルには県の観光案内所ができた。
 県もやっと、何もない佐賀というイメージを払拭しようと動きだしたようだ。

 私はいつものように、駅の中央通りを南の佐賀城方面へ歩いてみる。
 手にした1枚のチラシを見ると、この日(10月21日)は、たまたま「佐賀さいこうフェス」という祭りの日だった。「佐賀の再興」と「最高の佐賀」をテーマにした音楽とアートの催しだという。
 「再興」とは、「衰えたり、滅びたりしていたものが、ふたたび興ること。また、それを興すこと…」とあるので、やはり佐賀は一度、衰えたり滅びたりしたのか?
 佐賀県人には、ひそかに、幕末・明治維新の頃は佐賀(佐賀人)は輝いていたという自覚がある。
 会場となっている県立博物館・美術館前に行ってみると、広い野天のなかに屋台が出ていて椅子の並んだ客席があり、人波の奥にはステージが設けられて演奏が行われている。いつの間にできたのか、広い原っぱの会場が出現している。
 正確な風景は思い出せないが、以前といってもごく最近まで、ここ県立博物館・美術館前に原っぱなどなかった。おそらく、宅地整理をしたのだろう。

 もうほぼ最後となる演奏を聴いて会場を後にし、中央本町に行って愛敬町から移転した中国料理店「栄志」で夕食とした。
 その帰り、久しぶりに以前より人が少なくなった佐賀の繁華街・飲み屋街を歩き、久しぶりにバーに入った。
 久しぶり、という感覚は気持ちがいい。
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大阪を経て九州へ④ 佐賀・大町町の杵島炭鉱跡

2023-11-20 02:33:57 | * 九州の祭りを追って
 *炭鉱の面影の町「大町町」

 北九州一帯は石炭の産地だった。
 石炭産業は、明治以降の日本の近代化・工業化を支えていた。
 そのなかで、佐賀県の大町町を中心に北方町、江北町にまたがった「杵島炭鉱」は県内屈指の炭鉱だった。1909(明治42)年に高取伊好により創業、1918〈大正7〉年に高取鉱業株式会社に、1929(昭和4)年に杵島炭鉱株式会社と改められた。
 杵島炭鉱の本部があった佐賀県杵島郡大町町は、かつて人口密度は県内で最も高かったであろう。
 大町町は県内で最も面積の小さい市町村だが、戦前の1941(昭和16)年には人口は2万4千人がいたといい、戦後の1950(昭和25)年には2万3340人を数えた。1958(昭和33)年時の小学校の児童数は4000人を超え、当時、全国一のマンモス校と言われたものだ。1960(昭和35)年時でも、人口は2万人を超えていた。
 しかし、日本を牽引してきた石炭産業も、時代の波とともに石油によるエネルギー革命により衰退に追い込まれていく。経営が苦しくなった杵島炭鉱は、1958年に住友石炭鉱業へ経営移行。そして、1969(昭和43)年に閉山した。

 町の土台骨だった杵島炭鉱がなくなった後の大町町は、もぬけの殻のごとく急速に過疎の町となっていった。
 現在(2023年)の大町町の人口は6047人、人口密度は525人/㎢で、最盛期の4分の1である。
 ちなみに現在、佐賀県で最も人口密度が高い市町村は、鳥栖市で1042人/㎢である。県庁所在地の佐賀市は532人/㎢で4位。衰退した大町町がそれでも佐賀市の次の5位にいるのが奇妙な感じだ。

 *
 咲いた花が萎れて枯れていく様(さま)に似て、年ごとに賑やかだった大町の街から華やかさが消えていき、活気を失っていく過程を長年見てきた。
 現在、町から炭鉱関連施設はほとんどなくなった。
 炭坑節にも歌われていると思わせた大きな2本の煙突。7階建てと称した華麗な建造物であった選炭場。通学道にもなった不思議の構造だった三段橋。映画のほかに歌や芝居も行われた娯楽の殿堂・親和館。抗夫と一緒に入った大衆浴場・炭鉱風呂。いつも買物客でごった返していた青空市場・炭鉱広場マーケット。石炭の積み出し場の六角川沿い港町・住之江港、等々。
 それに付け加えれば、街中を行きかう7トン半のトラック。時折出没する1弦の三味線を弾く伝説の人、カックンちゃん。

 *
 4年ぶりに、育った町である大町町にやってきた。
 10月19~20日、炭鉱の面影を追って、この地に住む中学時代の同級生と町なかを廻った。かつて咲き誇った花の記憶をなぞる町巡りである。
 大町銀座と称して人通りが絶えなかった本町商店街もシャッター街と化し、行き交う人もない。かつて町のどこへ行っても数え切れないほど何列も並んでいた長屋の炭住(炭鉱住宅)は、すっかり姿形を変えていて、わずかに残っている建物は人の匂いを消してひっそりと佇んでいるばかりである。
 炭鉱の象徴であるボタ山とて、「ボタ山わんぱく公園」と整備され、登ってもそこがボタ山と結びつけるのは難しい。
 そして、日本一を誇った大町小学校・中学校は、大町ひじり学園という実態不明な名前に変わった。

 *炭鉱遺産である「電車道」のトンネル

 地元の同級生が、ぜひ見せたい、多くの人に見てもらいたいと言っていたものがある。
 それは、「電車道」跡のトンネル道である。
 かつて杵島炭鉱があった時代、大町の街中に電車が走っていた。石炭および抗夫を運ぶトロッコ電車である。大町の炭鉱本部があり選炭場のある三抗から、四抗をへて江北町の五抗へ走っていた。その道は、電車道と呼んで親しまれていた。
 今、その電車道は線路跡もない。多くは普通の道となっていて、ある部分は地下に潜ってどこだか不明のところもある。
 かつてノンプロ球団があった「杵島球場」のホームベース寄りの方向に通りを上ったところは、旭町と呼んだところだ。そこへやって来て同級生は「この家の下を電車道のトンネルが通っている」と言った。家の奥は藪の繁みである。
 トンネルの出口が向こう(西側)にあるが塞がれている、と近くの民家のあったところを下った斜面を指さした。
 さっそく、繁みの下方に位置する電車道のトンネルの入り口(東側)に向かった。
 そこは、通りの横にある民家の脇の奥に位置していた。町に住んでいる人でも、普段は通り過ぎて気づかないだろう。
 繁みのなかに分け入ると、暗い洞窟の穴のようなものが見えた。これが、電車道のトンネルの入り口(出口でもある)だ。入口近辺は車のタイヤが散在している。
 出口部分は塞がれているので奥は真っ暗である。暗いトンネルの洞窟の中に懐中電灯を持って入ってみると、そこは異空間だった。
 丸い天井は何重にも奥に続く梁がむき出しに見え、時空間を超えた、忘れられた遺跡のようである。これは、きちんと整備すれば炭鉱遺跡だと思った。
 (写真は、トンネルの中から入口方向を見たもの)
 ただし、友人によると、台風や大雨などでこの土地がどこまで持つかが不安だと言う。場合によっては、トンネルの上にある家屋まで影響を及ぼすからである。どうするかは難題である。先月には町の視察も行われたという。
 残っていた電車道のトンネル。大町ではめったに見られない炭鉱の遺産、遺跡であるが、見方によっては棄産、棄跡である。
 言っておくと、トンネルは老朽化しているので気軽に中に入るのは危険である。

 ノスタルジーに駆られて大町の街中を歩いたが、考えさせられた炭鉱の足跡であった。
 炭鉱の町で育ったこともあって、おりにふれ炭鉱の町を見て歩いた。
 北は北海道の夕張、歌志内から、福岡県筑豊の田川、飯塚、志免。それに三池の大牟田。長崎県の高島、松島、崎戸、等々。
 炭鉱の鉱山以外でも、佐渡(新潟)の金山、石見(島根)の銀山、足尾(栃木)、別子(愛媛)の銅山、等も見て回った。
 どこも過去の繁栄の面影が残り、想像をかきたて、時の流れの哀愁を感じさせた。

 この日の大町は、空を見上げれば青空だ。町の北の方の頂(いただき)では、白い浮雲を従えた鬼ヶ鼻(岳)が、変わりゆく街を今も静かに見守っているかのようだ。

 *武雄温泉の夜

 日が暮れたころ、大町を発って武雄に行った。
 武雄市は3年間、高校に通ったところだ。話題の西九州新幹線(武雄温泉~長崎)が開通して、駅の構内および外観がすっかり都会の駅のように変わった。
 この夜(10月20日)、高校時代の友人3人で、武雄在住の友人が馴染みの鮨屋「まねき鮨」で久しぶりに会って飲んだ。ここの鮨屋も4年ぶりだ。魚の素材と鮮度にこだわるこの鮨屋は、県内屈指の鮨屋と言っていい。

 会食・談笑も終わり帰り際、嬉野在住の友人に、「どうやって帰るの?」と訊いたら、「新幹線で」と言う。夜の酒の席には、車で来ることはない。「ほう、そういう手があるのか」と思った。
 武雄市の南に位置する嬉野市は温泉とお茶が有名だが、鉄道が通っていないことがウィークポイントだった。
 ところが、今度開通した西九州新幹線で「嬉野温泉駅」ができ、町(塩田町との合併で市になった)に鉄道が通ったのだ。
 本来博多から長崎まで繋ぐはずだったのだが、去年(2022年)見切り発車した西九州新幹線は、武雄温泉駅から長崎駅まで全5(武雄温泉-嬉野温泉-新大村-諫早-長崎)駅、全区間の実距離66 kmという新幹線最短距離数で、所要時間は全23~32分である。列車名も、従来博多~長崎間を普通特急として走っていた「かもめ」を使用している。
 ところで、武雄温泉駅から次の嬉野温泉駅まで1駅、10.9㎞。5~6分で着く。最終発車時刻が22時02分で、適度な時間だ。
 1駅だったら各駅列車でいいではないかと思うのが普通だろう。ところが、嬉野温泉駅というのは、新幹線だけの駅なのである。普通の列車は通っていないのだ。町(市)に鉄道が通ったからといって、隣町まで気軽に列車(電車)で行けるようになった、通学にも便利になったというのではないのだ。こんな町(市)と駅も珍しい。
 料金は、武雄温泉駅~嬉野温泉駅、乗車券280円、自由席の特急料金870円、合計1,150円で、新幹線だからと思えばそう高いともいえない。とはいえ1駅区間だけ乗ることを思えば、やはり高い。

 夜は、辰野金吾設計の竜宮城のような楼門の武雄温泉内の「楼門亭」に泊まった。効率的なビジネスホテルと違って、温泉隣接の昔ながらのアナログ旅館である。
 これも、またレトロな味があっていい。
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大阪を経て九州へ③ 佐賀・白石の稲佐神社、妻山神社の「くんち」

2023-11-11 00:31:29 | * 九州の祭りを追って
 *肥前・杵島の「くんち」祭り

 あられふる 杵島が岳を峻(さか)しみと 
 草とりかねて 妹(いも)が手をとる

 杵島山は奈良時代の「肥前国風土記」に記されていて、上に記した歌は「万葉集」に出てくる、杵島の山での「歌垣」の歌である。
 古代わが国に、歌垣という若い男女が歌を詠み交わす文化・風習があった。
 この歌垣の地が、佐賀県大町から南に六角川を渡った白石平野が広がる杵島の山のふもとにあった。

 10月19日は、佐賀県白石町の稲佐神社、妻山神社で“くんち”の祭りがある。今回の九州への旅において(空き家となっていた佐賀県大町町の実家を処分したので、帰省ではなくあえて旅と言ったのだが)、とりあえずつけた今回の旅の目的が、この稲佐・妻山神社の「くんち」を見ようというのであった。
 くんちの祭りは各地で何度も見ているが、これから何度見られるかわからない。もしかしたら、今年が最後ということだってありうることだ。
 だから、行こうと思ったときに行かなければならない、と思った。

 北九州の秋の祭りを「くんち」と呼ぶ神社が多い。有名なところでは「長崎くんち」と「唐津くんち」であるが、北九州地方の様々な神社でくんちの祭りは行われている。
 「くんち」の呼び名の由縁は諸説あるが、旧暦の9月9日、重陽の節句に行われる祭りである。神社によって行われる日にちにばらつきがあるが、「九日(くんち)」であるから、新暦になったとはいえ9日、19日、29日に行われるのが正当だと思っている。

 稲佐神社、妻山神社のくんちは、10月19日である。
 私がこの神社のくんちが好きなのは、両神社とも流鏑馬が行われるからである。母の実家が白石町なので、この2つの神社は子どものころから馴染み深いのだ。それに、くんちは何度見ても、何度体験しても、その地域の風土や文化的特徴が滲み出ていて味わい深い。
 稲佐神社、妻山神社とも、万葉集にも詠われた「杵島山」の文化圏である。

 それで、10月19日の午後から、大町町に住んでいる中学時代の友人を誘って、稲佐神社、妻山神社のくんち見に行くことにした。
 大町町から六角川の大町橋を渡って南の白石町に向かうと、前方に杵島の連山が見える。白石町に入り田んぼのなかをまっすぐ進むと、通りの右手に石の鳥居が現れたところが「妻山神社」である。
 神社の鳥居の周りに祭り用の出店が2店ほど出ていて、子どもたちがたむろしている。鳥居の先の階段を上って、流鏑馬が行われるまっすぐ伸びた参道に出てもまだ関係者も観客もいない。
 まだ流鏑馬には早いようなので、もう一つの目的地の稲佐神社に向かうことにした。流鏑馬が行われる時間帯が、両神社は重なるようである。
 妻山神社を道なりに南に進んでいくと、右手に見える小高い森の丘が「水堂さん」(水堂安福寺)である。昔から「みっどうさん」と呼んで親しんでいたところだ。
 その先に、犬山岳に連なる「歌垣公園」がある。
 さらに進んだ先に「稲佐神社」がある。

 *稲佐神社のくんち

 「稲佐神社」は佐賀県の神社では最も好きな、とても趣のある神社ある。
 かつては白石町のすぐ隣の有明町辺田が地名であったが、今は町村合併で白石町となっている。
 稲佐神社の石造りの肥前鳥居から続く参道は、自然石を詰めた石畳のなだらかな坂道で、石を踏みながら歩く足の裏に歴史を感じさせる。長い石の階段を登りきったあたりに石の鳥居があり、そこで水平に土の長い馬道が横切る。
 その先に仁王門、拝殿・神殿が待ち受けている。境内には、樹齢600年という楠の巨木が2本聳えている。

 稲佐神社の創建は古く、当神社の御由緒略記(社伝)によると、飛鳥時代の推古天皇の推古時代に、百済より阿佐王子が来朝し、この地に居を定め、稲佐大神とともに両親を合祀した。阿佐王子が亡くなった後、王子も合祀された。
 また、聖徳太子により稲佐大明神の尊号を受け、平安時代に入り、空海により稲佐泰平寺が開かれ、真言寺十六坊が建立し一大霊所となった(十六坊のうち現存するのは座主坊・観音院・玉泉坊の三坊である)。
 そして、861(定観3)年は従五位下、885(仁和元)年に従五位上に叙せられたことが「三代実録」(注:平安時代に編纂された歴史書)に見られる、とある。

 長く続く馬道に行き着くと、馬道の端で馬と馬を扱う人が待機している。
 町内を廻った祭りの装束を着た人(氏子)による神輿が稲佐神社に戻ってきた。奥の神殿に行き、再びこの馬道に戻り、本殿へと行く手順だ。その後、流鏑馬が行われる。
 その前に、馬道の本殿前で獅子舞が行われた。赤と緑の2頭の獅子が舞う。
 そのあとに馬道に神輿の列が現れ、参道から本殿に行かれた後、待望の流鏑馬が行われた。華麗な衣装を着た武将を乗せた馬が、220mの馬道を走り抜ける。(写真)
 ここ稲佐神社は、流鏑馬の起源とされる馬が走り抜けるだけの「馬駆け」である。走った後に、止まった状態で的を射るという最後の形式は行われるのだが、やはり物足りなさは残る。
 妻山神社では、走りながら的を射る正統な流鏑馬が行われ迫力があるが、それはそれで各神社の慣わしだから甘受するよりほかない。

 稲佐神社のくんちが終わったあと、妻山神社の前を通ったが、やはり流鏑馬は終わっていた。
 この両神社のくんち祭りは、以前のブログに記している。
 昔と考えていることは大して変わっていない、と感じる。

 「稲佐神社のくんち②」(2006-10-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/6cc84ed33ac172a230ca9bb4168b2f4d
 「妻山神社のくんち」(2006-10-23)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/a823c06e84562f6fbb7b6075fa564e58

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大阪を経て九州へ② 世界遺産の「宗像大社」へ

2023-11-04 22:30:20 | * 九州の祭りを追って
 *神戸から九州・宗像へ

 10月18日、大阪を発って新神戸駅から新幹線で九州へ向かった。
 佐賀へ行くのが目的だが、途中行きたいところがあった。福岡県宗像市にある、世界文化遺産になった「宗像大社」である。玄海灘の「神宿る島」沖ノ島が話題になったが、島に行かなくとも、3つの神社のなかの総社(辺津宮)だけでも行ってみたかった。
 宗像大社(辺津宮)へは、小倉駅で在来線の各駅停車の鹿児島本線に乗り換えて、東郷駅で降りてバスというアクセスである。

 私は、新幹線にも乗るが各駅停車の列車が好きだ。できるだけ各駅列車に乗って移動したいぐらいだ。
 もう十余年も前だが、東京から寝台特急列車「サンライズ出雲」で出雲市へ出て、石見銀山を見て歩いたときのこと。島根県出雲市から各駅列車で、途中乗り換えながら日本海に沿って山陰本線をひたすら(カタコトと)走り、下関から九州の門司に入ってからも各駅列車で鹿児島本線から長崎・佐世保本線の佐賀県大町まで辿った、ちょっとした各駅列車の旅は忘れがたい。

 小倉駅で、各駅停車の鹿児島本線博多行きに乗り換えた。
 鹿児島本線の在来線は、地図で見るとわかるように地盤に沿って曲がりながら進んでいるが、新幹線は直線に近くしているため、トンネルを掘り続けている。
 小倉を出た列車は途中、戸畑、八幡の工業地帯を過ぎ、約1時間近くで東郷駅に着いた。
 東郷駅前は、人通りも少ない普通の田舎の街という雰囲気だ。宗像大社はここからバスで約10分のところにある。

 「宗像大社」は、天照大神の娘・三女神を祀る、沖ノ島の「沖津宮」、大島の「中津宮」、本土の「辺津宮」の3宮からなる。一般的には、総社である宗像市田島の「辺津宮」を「宗像大社」といっている。
 2017年、“「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”として世界文化遺産となった。
 宗像大社は、バス通りに沿ったところに大きな鳥居があり、その直線に伸びた道の先にもう一つの鳥居があり、それは本殿へと続く参道となっている。(写真)
 拝殿・本殿は、屋根には何本もの木の梁が並んでいて、素朴な美しさがある。
 拝殿・本殿の周りには、いくつもの辺津宮の末社が並んでいる。

 玄界灘にある沖津宮のある沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならずとされた、島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性でも上陸前には禊を行なわなければならない。
 これまでの沖ノ島の発掘調査により、4世紀から9世紀までの古代祭祀遺構や装飾品、縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器など多数の遺物が発見された。
 境内にある、その遺物を収蔵された「神宝館」の展示を観た。
 今の期は、特別展「国宝と現代の名匠 三右衛門」が開催されていた。三右衛門とは、佐賀・有田と唐津の陶工家、今泉今右衛門、酒井田柿右衛門、中里太郎右衛門のことである。
 古代遺物と現代陶工家の作品が、各々一個ずつ並べて展示されていた。この展示には、見るものとしては違和感があった。やはり、別々に展示すべきではと感じた。

 *東郷駅から佐賀へ

 宗像大社をあとに、東郷駅に戻った。
 東郷駅から博多駅を経て、鹿児島本線、長崎本線にて佐賀へ向かった。
 佐賀駅に着いたときはすっかり夜であった。もう佐賀・大町に実家はないので、ホテル泊まりである。
 駅前のホテルにバッグを置き、すぐさま中央本町の餃子「南吉」へ向かった。老夫婦がやっている、今にも崩れそうな古くて狭い店である。佐賀に来ると、ここの餃子を食べたくなる。
 行きつけだった中華料理店「夜来香」がなくなって、「JOTAKI」も移転し、店の選択肢が少なくなったこともあり、この店は私にとっては貴重な店なのだ。
 扉を開けて中をのぞくと、こちらを振り向いたおかみさんと目があった。ちょっと中途半端な目つきである。4人も座るといっぱいになるカウンターに1人客がいて、席は空いている。時間はまだ8時ちょっと過ぎなのだが、「いいですか?」と、お願いするように訊いてみる。
 おかみさんは、少し間をあけて「餃子ぐらいなら」と答える。私はホッとして中に入り、「では、餃子を」と言って、ダメもとで、いつも注文する「レバニラ炒めは?」と言ってみる。すると、「ああ、あるよ」と。「ご飯は?」と追い打ちをかけると、棚を見まわして「ああ、あるね」との返事。
 親父さんはにやにやしながら、摘まんだ具を衣で包んで餃子を作っている。
 やれ、やれ。
 こうして、ひとまず佐賀の夕食にありつけた。

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