かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

夜霧の日比谷と、千鳥ヶ淵の満開の桜

2013-03-28 02:01:34 | * 東京とその周辺の散策
 3年ぶりの東京の桜である。
 この日(3月27日)は、午前中は小雨が降っていた。
 銀座では、歌舞伎座の再開場を記念して、午前に歌舞伎俳優が銀座通りを練り歩く姿がテレビで映し出されていた。
 今日は夕方から古い友人たちと、千鳥ヶ淵の桜を見に行く予定だったが、窓の外の雨を見て少し億劫になっていた。しかし、銀座通りを、周りに傘が散乱しているなか、傘をささずに歩く歌舞伎俳優がいるのを見て、小雨を気にもせず歩く姿は粋だなあと感じた。月形半平太じゃないが、「春雨じゃ、濡れてまいろう」の洒落心である。
 そして、雨に桜もいいものだと思い直した。

 3年前の桜の満開の季節、佐賀に住んでいた母が逝って、翌年が一周忌、昨年が三回忌で佐賀に帰っていたので、佐賀の桜を見ていた。そういえば、1昨年は、秋月(福岡県朝倉市)の桜を見に行ったことを思い出した。「秋月の乱」の秋月である。風情のある桜であった。

 雨は、午後にはやんだ。
 夕方、いつものコースで、靖国神社から千鳥ヶ淵に向かった。
 今年は桜の開花が早く、まだ3月だというのに、すでに満開の盛りである。今週末もまだ3月末だが、最後の花吹雪か葉桜かだろう。
 午前中雨だったこともあって、千鳥ヶ淵は例年に比べて人が少なく、ゆったりと桜を見ることができた。堀のボートも、今日は出ていない。
 雨上がりで少し霞がかかったような千鳥ヶ淵は、対岸の皇居の桜が堀にぼんやりと映って、青空の下とは違って、心なしか幽玄な雰囲気を漂わせている。なんだか、風景がモノトーンのようだ。(写真)
 千鳥ヶ淵を出たら、皇居の堀の周りをなぞるように続く内堀通りを歩いて、日比谷に向かった。この通りも桜が植えてあり、引き続き花見を楽しむことができる。
 半蔵門を過ぎて、三宅坂にさしかかると社会民主党の看板が見えた。日本社会党時代からあるこのビルは、古くなって近々取り壊されると聞く。さらに進むと、国会議事堂の頭が見える。そして、桜田門を過ぎるともう日比谷である。
 ちょうど薄暗くなった頃である。この日は、日比谷の中華食堂に入って、まずはビールで花見を祝った。
 花は、雨であろうと、見られるときに見ておかないといけない。明日、見られるとは限らないから。

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漢字の持つ意味を考えさせる、「韓国が漢字を復活できない理由」

2013-03-21 03:30:41 | ことば、言語について
 僕が初めて韓国に行ったのは1985(昭和60)年のことだった。
 李成愛が歌う「釜山港へ帰れ」のメロディーをくちずさみながら、下関から船に乗って釜山へ向かった。当時の両国の関係は、まだ戦前時代の日韓併合の歴史的遺恨感情も色濃く残っていて、近くて遠い国と言われていた。お互いの国同士の文化の交流もほとんどなく、今みたいに活発に観光客が行き来していた時代ではなかった。
 しかし、韓国へは一度は行ってみたいと思っていた。
 韓国語を勉強したわけでもなかったが、韓国も元々は漢字の国だから何とかなるだろうと思って、ホテルも予約せずに一人で船に乗ったのだった。下関を夕方出発した船は、翌早朝釜山に着いた。
 釜山へ着いたら、僕のあてはまったく外れた。そこには、どこにも漢字の表示はなく、英語表示もなく、わけのわからない記号のようなハングルだけの世界が待っていた。
 それでも、日本語が話せる地元の人に出会ったりして、釜山から慶州、そしてソウルと楽しく旅することができたのは幸いだった。帰りは、逆のコースで、釜山から下関に船で帰ってきた。

 かつては韓国も、日本が漢字と仮名を混ぜて活用しているように、漢字とハングルを混ぜて活用していた。新聞も、漢字とハングルを併用していた。それが、いつしかハングルだけの世界になっていたのだ。
 ハングルだけの文といえば、日本語でいえば平仮名(ひらがな)だけの文と同じである。平仮名だけの文は、簡単で易しい文だったら問題ないが、複雑な文や専門書だとかえって分からなくなる。
 極端に平仮名を多用した小説である今年の芥川賞の黒田夏子作「a b さんご」は、必要以上に漢字を使わない日本語がいかに読みづらいかを教えてくれた。日本語には、漢字は適度に必要なのである。
 漢字を追放してハングルだけにした韓国だが、韓国人は、ハングルだけの文で意味がすぐにわかるのだろうか、かえって不便でないのだろうかという疑問がずっと残っていた。

 *

 「韓国が漢字を復活できない理由」(豊田有恒著、祥伝社刊)は、日本語と韓国語の違いを解説しながら、韓国語およびハングル文字の過去と現状を述べたものである。そして、韓国語がいかに漢字を下敷きにした言葉かを解説したものである。

 ご存知のように、ハングルは15世紀に作られた文字である。
 それまで韓国は、かつて日本が中国から借用した漢字のみで文字、文章を書いていたように、文字は漢字のみだった。新しく作られたハングルは、計算された合理的な文字である。しかし、ハングルは「諺文」(オンムン)と呼ばれ、長い間普及しなかった。特に、関学、儒学に素養のある人からは蔑まされていたという。
 韓国の歴史ドラマを見ても、ドラマに出てくる文書は漢字だけの漢文である。
 そして近代に入り、日韓併合下の時代に日本語を強要される。ということは、日本語は漢字を多用しているので、日本語漢字を使用することになる。
 そういう経過もあって、韓国は戦後独立した後、占領していた日本を根本から払拭するために、漢字の使用を禁じるようになり、それが今日まで続いているのだった。日本を否定することが、漢字を使わない国策になったのだ。

 今日、急速な日韓交流のおかげで、われわれは、「こんにちは」という挨拶が、「アンニョン・ハシムニカ」ということぐらい知っている。これは直訳すれば、「安寧(アンニョン)、していらっしゃいますか」ということらしい。
 日本語の漢字にも「安寧」はあり、「あんねい」と読み、辞書を見れば「社会が穏やかで平和なこと」とあるように、日本では挨拶では使わない硬い表現であるが意味深い言葉である。
 このように、「アンニョン・ハシムニカ」は、漢字にすればとてもわかりやすい。「安寧、していらっしゃいますか」は、なかなかあいさつとしてはいいではないか。このアンニョンは、朝、昼、晩の挨拶にも使われる。いわゆる英語の「good morningグッド・モーニング」や「good nightグッド・ナイト」のようなものだ。

 日本の漢字は、音と訓があって、字によっては伝達の時代の違いによって、さまざまな読み方がある。例えば「京」を例にとると、呉音だと「キョウ」、漢音だと「ケイ」、唐音だと「キン」となるように複雑だ。
 韓国では、李朝時代に漢字の訓を廃止し、音も数少ない例外を除いて統一した。だから、1字1音が原則となっている。
 日本の漢字が様々に読み替えられるのを何て無駄な、統一すればいいのにと僕も思ったこともあった。しかし、同音異義語を区別するという効果もあるのだ。
 ところで、東京と横浜をつなぐ路線を京浜(ケイヒン)と呼ぶのはどのような裏付けがあるのだろう。キョウハマだと無理に結びつけた重箱読みだし、キョウヒンだと響きがよくないからか。おそらく漢音で統一したのだろう。こうした後で作られた漢字熟語の呼び方は、国語学者に相談して決めるのだろうか。

 ところで、韓国のように1音1字にすると多くの同音異義語が出てくる。しかも表記をハングルだけにすると、その裏付けとなっている漢字が表に出てこなくなる。もっとも漢字を教育されていない若い人は、出てこないのは当然のこととなる。
 漢字は表意文字であるから、それを見ると意味がわかる。漢字による言葉・熟語だと初めて見る単語でも、何となく意味が読みとれる。
 ハングルは表音文字だから、それだけではアルファベットの文字と同じで意味はない。ハングル文字を見てすぐに漢字が出てこないと、意味が出てこなくなるのではないかと、余計なお世話かもしれないが危惧してしまう。

 日本でも、明治と戦後の一時期、漢字の縮小・廃止や日本語のローマ字化を唱える人がいたが、そうはならなかった。
 日本語の生い立ちからして、漢字は日本語に必用なのである。平仮名だけでは生きられない。ましてや、ローマ字だけでは意味をなさないだろう。

 表意文字の漢字と表音文字のアルファベットを比べると、言語の幹がまったく違うので、その発生と結果を見るのは非常に興味深い研究課題だが、日本人が漢字と仮名混じり文を工夫発展させたことは、大きな文化革命だったと思う。仮名にしても、平仮名と片仮名がありその役割を使い分けている。外国人には、難しいという印象が強いが。
 確かに、こんなに難しい言語(国語)はないかもしれない。長い歴史のなかで、日本人は文法化することなく、さまざまな要素を言語表現として、器用に、悪く言えば無節操に取り汲んで、活用してきた。今でも、省略したり、意味を変えたり、良いか悪いか、日本語は無自覚に変容し続けている。
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楽しくも切ない、君の友だち「横道世之介」

2013-03-14 03:43:30 | 映画:日本映画
 その日の朝方、夢の中に世之介が出てきた。
 井原西鶴の「好色一代男」の世之介ではなく、そう、横道世之介がである。高良健吾の世之介である。
 夢の内容は、場所は野球場だった。その野球場は、外野がどこまでも遠く広がっているのに、内野のダイヤモンドが子どもの頃の原っぱでやった三角ベースボールのように極端に狭く小さいのだ。僕ら(数人いた)は「なんだ、なんだ」と言いながら、その狭い内野を拡げようと、なぜかバケツに水を汲んできて水をグランドに流しているという、夢らしく辻褄の合わないものだった。
 夢の中で、世之助は首を大きく振りながら、「うん、うん」と頷いていた。
 
 僕は、その日、映画「横道世之介」を観に行こうと思っていた。夜、布団に入ったまま「横道世之介」の本を読みながら、途中で眠ったのだった。
 まだ映画を観ていないのに、夢の中のその男が世之介だと知っていたのは、テレビで流れる「横道世之介」の映画宣伝を見ていたのと、数日前に観た映画「南極料理人」(監督:沖田修一)で、高良健吾が出ていて、この男が世之介を演じるのかと思って観ていたから、世之介イコール高良健吾と知っていたのである。
 それに、野球場が出てきたのは、最近WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の試合に熱中していたからかもしれない。
 世之介とWBC、よくできた夢とはいえ、われながら単純な潜在脳思考だ。

 去年のことだが、「横道世之介」が映画化されるという情報記事で、監督が沖田修一とあったのを見て、映画「悪人」(監督:李相日)では脚本に参加しているので、原作者の吉田修一が監督をやるのだと思った。というのは、吉田修一が実名では照れくさいので、一字変えた名前にしたに違いないと勝手に思ったのだ。れっきとした監督の沖田修一に失礼な思いをしてしまった。
 それにしても、原作、吉田修一、監督、沖田修一とは、よくできている。
 映画で、世之介が祥子に初めて会ったとき、「横道世之介」と名を名乗ると、祥子は「素敵なお名前、韻を踏んでらっしゃるのね」と爆笑する。原作者と監督も、祥子に倣えば韻を踏んでいる。

 映画「横道世之介」を観るにあたり、最初に原作が発売された時は本を手にしながら読まなかったので、急いで文庫本を買って原作を読み始めた。
 映画は、「新宿ピカデリー」に観に行った。新宿で映画を観るのは久しぶりだ。
 原作はまだ読み終わっていなかったので、新宿に向かう京王線の中で、最後の数十ページを読んだ。

 新宿駅東口を降りて、「ルミネ」の入っている駅ビルはかつて「マイシティ」と言っていたなあと思って歩いた。駅から伊勢丹方面に向かう途中、さっき読み終えた世之介のことで頭がいっぱいになったまま、新宿ピカデリーを探した。新宿ピカデリーは、新宿松竹会館のときと違ってまったくあか抜けていて、近くにあるテアトル新宿と間違えてしまった。
 1階の入り口からエスカレーターで3階の受付ロビーに行くと、待合所があり、何人もの男女が椅子に座って飲み物を飲んだりしていて、人がいっぱいだ。チケット売り場と、ドリンク・フード売り場がカウンター式に並んでいて、上映会場入口が別にある。何だか空港ロビーのようだ。
 10スクリーンもあるシネコンで、11階で観ることになった。

 *

 1987年春、横道世之介は大学入学のため、長崎から東京へやってくる。
 冒頭、新宿駅東口に出てきた世之介の前に、斎藤由貴のCM看板が目に入ってくる。彼女は、この時代のアイドルだったのだ。最初ちらと見たときまさかアイドルの本人が踊っているとは思わなかった世之介だが、実物の本人が踊っている。この何気ない情景に、世之介は長崎の地方と東京の違いを見る。
 「横道世之介」(原作:吉田修一、監督:沖田修一、出演:高良健吾、吉高由里子、池松壮亮、伊藤歩、阿久津唯、綾野剛)は、地方から上京した大学1年生の1年間の物語である。
 映画は原作に忠実に描かれていると言っていい。
 往々にして、映画より原作の方がイマジネーションがわくので、映画には物足りなさを抱くのが多いのだが、この物語に関しては原作の世之介と映画の世之介(高良健吾)があまりにもマッチしているので全く違和感がない。それどころか、彼以外にこの役に合うのはいないのではないか、吉田修一は高良健吾を頭に描いてこの主人公を描いたのではないかとさえ思うほどである。

 桜の咲く季節、武道館で行われた入学式。原作者である吉田修一の母校である法政大学が世之介が入学した大学だ。
 この入学式から、世之介の大学生活が始まる。会場で、偶然隣に座った倉持一平(池松壮亮)が話しかけてきたことで、最初の友だちになる。
 市ヶ谷のキャンパス。教室で、ガイダンスのとき、横に座った朝倉あき(阿久津唯)、勘違いから友だちになる加藤雄介(綾野剛)と、友好関係は広がる。
 なりゆきで倉持や朝倉と一緒にサンバサークルに入った世之介だが、自動車教習所通いやホテルでのアルバイトと忙しい学生生活を送る。貧乏な学生生活だが、世の中はバブル最盛期だ。
 そんななかで、謎の魅惑的な年上の女性片瀬千春(伊藤歩)に憧れる世之介だが、お嬢さまである与謝野祥子(吉高由里子)と付きあうことになる。

 どこにもないようで、どこにでもあるような学生生活。
 初めて体験する都会の華やかさと、ついこの前まで暮らしていた素朴な田舎とを行き来する、ほのかなバランス。
 確かに、あのように恋は始まったなあと思いだす、学生時代の切なさとあやふやさが織り交ざった恋。
 設計図など全くなかったそれまでの人生に、これから自分はどのような道を進むのかの蕾が生まれた十代の慌ただしく過ぎていく生活が、生きいきと描かれている。
 確かに学生時代は、このように生き生きしていたし、苦しくとも、おそらく楽しかったのだ。

 大学入学から16年後の2003年。
 みんな、30代のいい大人になっているし、各々違った道を歩いている。
 同級生の朝倉あきと「できちゃった婚」をした倉持は、娘の恋愛で悩んでいて、あきは「今日近くに行ったので大学に行ってみたら、大きなビルが建っていた」と驚く。そして、2人で、世之介のいたサンバサークルの清里合宿のことを思い出す。
 友人か恋人かと思える男とワインを飲んでいる同性愛者の加藤は、今日ふと雑踏のなかで世之介のことを思い出したと言って、語りだす。「あいつと知り合っただけで、だいぶ人生得してる気がするよ」と。
 長崎にいる世之助の母から、祥子に手紙が届く。そこには、「与謝野祥子以外、開封厳禁」と書いてある別の包みが同封してあり、開けると数枚の写真が入っていた。

 2003年の祥子は、発展途上国を飛び回ってNPO活動を行っている。
 友だちの娘から、初めて好きになった人は、と訊かれて、「普通。普通すぎて笑っちゃうぐらい」と答える祥子は笑いながら思い出す。そして、その帰り道、祥子は雑草の中で、ぎこちなく慌てふためいている2人の姿を見つけ出す。それは、スキーで骨折して入院していた祥子が退院した日に、松葉杖で世之介と初めてホテルに行く姿だった。
 その姿を見つめる祥子の目には、涙がたまっていた。

 世之介の大学生活に、ときおり現在である16年後の2003年の映像が挿入される。
 原作も映画も、すべて巧みに布石が打ってある。
 全編、楽しいのだが、それは哀しみに集約される。それは、青春とはそういう意味だからだろうか。
 ダルビッシュから筋肉をそぎ落とし、少し小さくしたような感じの高良健吾が、明るく前向きな学生、横道世之介にぴったりとはまっている。
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3.11に聴くシャンソン

2013-03-12 01:01:01 | 歌/音楽
 東日本大震災から2年がたった。
 震災と津波の被害は、経験のない大きなものだった。震災直後の復興支援への熱意と日本人の勤勉さから、復興は時間がかかったとしても着実に目に見えるものになるだろうと思った。しかし現実は、思ったものよりはるかに遅い。いまだ、荒廃した風景が映し出される。原発の影響で故郷に帰れない人が大勢いる。
 2年前の震災直後、文化人やタレントやスポーツ選手等の支援、寄付の静かだが熱い声が広がった。韓国の俳優・タレントをはじめとする外国人の寄付・義捐金も広範な波になって広がり、今は領土問題で諍いが絶えない中国や台湾の人からも寄付が寄せられ、日本人として感謝の念に堪えなかった。自分も何かをしなければと思った。
 「見せましょう、野球の底力を」と、東北楽天ゴールデンイーグルスの嶋基宏が、復興支援のために行われた慈善試合にて力強く宣言し、その年の流行語大賞の候補としてノミネートされた。
 震災を契機に、文学者のドナルド・キーンさんは鬼怒鳴門(キーンドナルド)と日本人になった。
 一般市民による脱原発の国会前のデモも起きた。

 震災の復興もままならないなか、無力を痛感するまま2年が過ぎた。

 そんな3月11日、多摩市のパルテノン多摩で「午後のシャンソン」発表会コンサートが行われ、知人のシャンソン歌手の日野美子さんがゲスト出演されたので聴きに行った。
 主催者の小原晴美さんはじめ、会の人たちによるシャンソンが次々と会場に響く。僕の好きな歌「桜んぼの実る頃」、「サンジャンの私の恋人」、「ドミノ」など、久しぶりに聴く歌だ。
 最後に、日野さんが登場した。
 3.11への思いを語った後、「ある古い歌の伝説」を皮切りに、「人生は美しい」、「地下鉄の切符切り」、「アコーディオン弾き」、「愛の賛歌」と続き、最後は日野さんの持ち歌「星に祈ろう」で幕を閉じた。
 日野さんの熱の入った歌を聴くのも久しぶりだ。(写真)

 外へ出ると、日は暮れようとしていた。
 こうして、3回目の3.11は過ぎていった。
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芥川賞とは? 受賞作「abさんご」

2013-03-03 02:13:59 | 本/小説:日本
 先月発表された第148回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)で、芥川賞は黒田夏子の「abさんご」に、直木賞は朝井リョウの「何者」と安部龍太郎の「等伯」の2作受賞が決まった。
 芥川賞の黒田夏子は75歳で、史上最年長である。芥川賞が純文学の登竜門であること、直木賞がある程度作家としての実績が認められた人であることを考えれば、芥川賞は若い人で、直木賞はある程度年輩になるのも当然と考えるのが普通であろう。
 ということから鑑みても、直木賞の朝井リョウが23歳であるから、年齢だけで見たら、黒田、朝井の2人の賞は逆ではないかと思うのが一般的だ。

 芥川賞は、時々というかしばしばというか、やはり話題を狙ったものだろうという考えを起こさせる。 賞を創設した文芸春秋の菊池寛も、当初より、この芥川・直木賞は半分は雑誌の宣伝のためだと、商業主義であることを公言しているので、そのことでとやかく言うことはない。

 これまで芥川賞の最年長者は、1974年受賞(73年後期作品)の森敦だった。
 このとき文壇には、61歳の受賞に少し驚きとともに、ときめきがあった。というのも、森は旧制一高を中退した後、若いとき「酩酊舟」(よいどれぶね)でその才能を注目され、太宰治や壇一雄などと交友があった、知る人ぞ知る人物だった。その後、文壇からも姿を消し、放浪に出ていたとか、ダム現場で働いていたとか、東北・庄内の寺にいたとかいわれている幻の作家だったからである。
 そして、森はある程度年をとってからか東京に戻ってきて、印刷所で働きながら、出勤前にぐるぐる回る山手線の電車のなかで、「月山」を書いたという話が伝わってきた。
 長い沈黙を破って彼が世に問うた「月山」は、新人作としては突出したものだった。いや新人の作品と言えば失礼にあたる、文学史に残る質の高い作品だと僕は思った。
 受賞後に、「ずっと、書けば(書こうと思えば)、そこそこのものは書けると思っていた」といった意味のことを森が語ったのが、過信ではなく納得させる実力を表していた。
 僕は当時、文芸誌とは無縁の、というよりは正反対の若者向けの雑誌の編集をしていた。しかし、僕は森敦の人間味に惹かれ、彼の芥川賞受賞後、すぐに彼に家に取材に行った。僕はまだ20代で、怖いもの知らずだったのだ。
 森は当時、京王線の調布市・布田のアパートに住んでいた。彼は、人なつっこい笑顔で迎えてくれ、別の部屋からコーヒーを出してくれた。そして、僕が見本でもってきた雑誌を見ながら、ほうこんな本か、面白いねと言って、軽薄そうなヌードなんかの載っている雑誌を貶(けな)すことなく、面白がってくれた。
 その後、森は市ヶ谷の一軒屋に居を移したが、たまに話を聞きに訪ねても、いつもにこやかに対応してくれた。体も大きかったが、懐(ふところ)も深い人だった。

 その森敦の年齢を大幅に超えて、最高齢で芥川賞を受賞した黒田夏子の「a b さんご」である。
 横書きと平仮名多用が話題となっている。作品についての文学的な質を語る立場ではないのでそれは書かないが、選評を読んでもおおむね評価の高い、この特徴と言われている2点について、僕は次のように感じた。
 横書きについては、ワープロ、パソコンの使用以来、当たり前にみんなが横書きで書いているはずだから、別に新しくも前衛的でもない。欧文や数字を多用する文章ならならなおさらだ。
 現在、科学書や実用書などはその機能的利便性から多くが縦・横書き併用か横書きだ。文芸作品も、過去にも稀に横書きが出版されている。
 ただ、漢字も含めて日本語の文字は、元来筆順も含めて縦書きとして作られている。だから、小説を含めて文学作品は縦書きがほとんどとなっている。今後横書きが増えるとしても、日本語の文字の宿命のようなものは背負っていると言える。

 問題は、なぜ横書きに固執しているのかだろう。
 黒田は芥川賞作品発表誌の「文芸春秋」のなかの、下重暁子によるインタビューで、「情緒的で湿った感じを避けたかった。横書きだと数字やアルファベットがすんなり入るし、とても機能的」と発言している。
 横書きの利点はまさにそうである。
 しかし、彼女の作品を読んでみると、数字やアルファベットがすんなり入るような機能を目指した文体とは思えない。数字は漢数字であり、アルファベットは単字としてa とb を使っているのみで、機能を重視したための横書きであるのなら機能していないといえる。
 いや逆に、彼女は本来漢字で書くべきところをあえて平仮名で書いているように、機能的でない文章を作ることを意図しているとしか思えない。
 選考委員で一人、山田詠美が疑問を呈していたが、「蚊帳」のことを「へやの中のへやのようなやわらかい檻」と書いていたり、「傘」のことを「天からふるものをしのぐどうぐ」と書くことは、機能的なる表現に逆らっていて、情緒的なのではないかと思った。
 僕は、このような大和言葉を多用した文こそ、縦書きの、それこそ筆書きの草書体あたりで読ませる文だと思ったのだが。

 芥川賞も直木賞も、選考委員はすべて作家である。僕も、大森望、豊崎由美が唱えているように、現在自分で辞めると言うまで続けられる終身制である選考委員の4年程度の任期制と、選考委員に半数ぐらい文芸評論家を入れるようにすべきだと思う。
 そうすると、ずいぶん賞も変わるだろうし、白熱した議論がたたかわされるに違いない。

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