自分の人生を形づくったものは何だろう? と考える。
それは、「恋と映画と旅」だと、僕は答える。
本当は、「恋と本と旅」だと言いたいところだが、自分に影響を与えた本がすぐに頭に浮かんでこないし、それほど本を読んでいない。自分自身を形成する青春期、とりわけ学生時代は、本より映画の影響が大きかったと思う。
いつもそばには本があった、のだが。
*通り過ぎていった構造主義
「いつもそばには本があった」(講談社)は、哲学者・國分功一郎と人文書編集者・互盛央の対話もしくは往復書簡風な構成による本の紹介である。
タイトルからして、二人の今まで読んだ本の中でお薦めの本を取りあげるという、よくある教養書かと思った。
しかし、この「対論」(かつて五木寛之と野坂昭如でこういう本があった)ともいうべき本書は、僕のなかの遠く眠っていたアカデミズムを刺激する本であった。
この本は、彼らの学者としての出発点となる、学生時代からの自己の原点を振り返る本の紹介・遍歴に加え、のちの学者、人文書編集者としての時代背景を吐露するものであったからである。
この本は、自分の学生時代を想起させ、青春期の思考を刺激した。
本書に登場する本・雑誌は、湘南の士がリストアップしてくれたところによると、マルクス、フロイトからハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカンまで、計136冊にも及ぶ。
本書によると、大学院時代に知りあったほゞ同世代の二人の書(本)への知的邂逅は、彼らの学生時代の1990年代から始まっている。
ということは、僕の学生時代からおおよそ30年後の時代である。
1990年代は、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される東欧社会主義国の雪崩現象、そして1991年のソ連邦の解体などの政治変革により、アカデミズムの世界は当然のごとく大きく変容しつつあった。経済学や政治学、哲学などのジャンルで大きな影響力を持っていたマルキシズムも真価と評価を問われていた。
本書には、当時ヨーロッパのアカデミズムに大きな潮流を成していた構造主義、さらにポストモダンの本が数多く登場する。
しかし、その時代、そのジャンルの思想、本には、僕は涵養することなく通過させている。
有名であったロラン・バルトですら、タイトルに魅かれて「恋愛のディスクール・断章」を買ったものの、完読せずに本棚に眠っているありさまだ。
90年代、僕は何を読んでいたというのだろう。
弁解がましく言えば本書に出てくるあまたの本は未読に充ちていて、それゆえの新鮮さと発見も多くあった。
ただ、國分功一郎もしくは互盛央を知らない人間には、たとえ本好きであっても本書は退屈かもしれない。 というのも、いわゆる本の案内書や解説書ではないからだ。この本の目指しているところは、二人の個人的な知的揺籃期の再発掘と再確認、そして、本を媒体とした二人のカンバーセーションであるからである。
*國分功一郎
僕が國分功一郎を知ったのは、彼の代表作となる「暇と退屈の倫理学」である。
ずっと僕は、自由な時間の費やし方と人生の意義の関係を考えていたが、本書は現代人の時間の費やし方を暇つぶしとして哲学的に探る、極めて僕の興味に沿ったテーマであった。
その後、彼の熱心な読者とは言いがたいが、興味をひいたテーマの本を何冊か読んだ。
それについては、本ブログに記している。
※「暇と退屈の倫理学」ブログ(2013.11.23)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201311
※「来るべき民主主義」ブログ(2014.2.18)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201402
学生時代に、國分は学問に入る大きなきっかけとして柄谷行人をあげ、彼の著書を通して、マルクスの「資本論」を読む。そして、哲学者への道に踏み出すことになる。
彼は「暇と退屈の倫理学」を30代の後半に出版したのだが、本の構想の起源が学生時代のあの時、勉強会での田崎英明氏の講義だったと、ピンポイントで位置づけているのは興味深かった。
のちのその人が生成・結実する、つまり人生を形づくる種子は、どこに埋もれているかわからない。
それは、「恋と映画と旅」だと、僕は答える。
本当は、「恋と本と旅」だと言いたいところだが、自分に影響を与えた本がすぐに頭に浮かんでこないし、それほど本を読んでいない。自分自身を形成する青春期、とりわけ学生時代は、本より映画の影響が大きかったと思う。
いつもそばには本があった、のだが。
*通り過ぎていった構造主義
「いつもそばには本があった」(講談社)は、哲学者・國分功一郎と人文書編集者・互盛央の対話もしくは往復書簡風な構成による本の紹介である。
タイトルからして、二人の今まで読んだ本の中でお薦めの本を取りあげるという、よくある教養書かと思った。
しかし、この「対論」(かつて五木寛之と野坂昭如でこういう本があった)ともいうべき本書は、僕のなかの遠く眠っていたアカデミズムを刺激する本であった。
この本は、彼らの学者としての出発点となる、学生時代からの自己の原点を振り返る本の紹介・遍歴に加え、のちの学者、人文書編集者としての時代背景を吐露するものであったからである。
この本は、自分の学生時代を想起させ、青春期の思考を刺激した。
本書に登場する本・雑誌は、湘南の士がリストアップしてくれたところによると、マルクス、フロイトからハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカンまで、計136冊にも及ぶ。
本書によると、大学院時代に知りあったほゞ同世代の二人の書(本)への知的邂逅は、彼らの学生時代の1990年代から始まっている。
ということは、僕の学生時代からおおよそ30年後の時代である。
1990年代は、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される東欧社会主義国の雪崩現象、そして1991年のソ連邦の解体などの政治変革により、アカデミズムの世界は当然のごとく大きく変容しつつあった。経済学や政治学、哲学などのジャンルで大きな影響力を持っていたマルキシズムも真価と評価を問われていた。
本書には、当時ヨーロッパのアカデミズムに大きな潮流を成していた構造主義、さらにポストモダンの本が数多く登場する。
しかし、その時代、そのジャンルの思想、本には、僕は涵養することなく通過させている。
有名であったロラン・バルトですら、タイトルに魅かれて「恋愛のディスクール・断章」を買ったものの、完読せずに本棚に眠っているありさまだ。
90年代、僕は何を読んでいたというのだろう。
弁解がましく言えば本書に出てくるあまたの本は未読に充ちていて、それゆえの新鮮さと発見も多くあった。
ただ、國分功一郎もしくは互盛央を知らない人間には、たとえ本好きであっても本書は退屈かもしれない。 というのも、いわゆる本の案内書や解説書ではないからだ。この本の目指しているところは、二人の個人的な知的揺籃期の再発掘と再確認、そして、本を媒体とした二人のカンバーセーションであるからである。
*國分功一郎
僕が國分功一郎を知ったのは、彼の代表作となる「暇と退屈の倫理学」である。
ずっと僕は、自由な時間の費やし方と人生の意義の関係を考えていたが、本書は現代人の時間の費やし方を暇つぶしとして哲学的に探る、極めて僕の興味に沿ったテーマであった。
その後、彼の熱心な読者とは言いがたいが、興味をひいたテーマの本を何冊か読んだ。
それについては、本ブログに記している。
※「暇と退屈の倫理学」ブログ(2013.11.23)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201311
※「来るべき民主主義」ブログ(2014.2.18)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201402
学生時代に、國分は学問に入る大きなきっかけとして柄谷行人をあげ、彼の著書を通して、マルクスの「資本論」を読む。そして、哲学者への道に踏み出すことになる。
彼は「暇と退屈の倫理学」を30代の後半に出版したのだが、本の構想の起源が学生時代のあの時、勉強会での田崎英明氏の講義だったと、ピンポイントで位置づけているのは興味深かった。
のちのその人が生成・結実する、つまり人生を形づくる種子は、どこに埋もれているかわからない。