かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

佐賀・白鬚神社の田楽

2013-10-30 01:43:09 | * 九州の祭りを追って
 田楽といえば、豆腐や茄子や里芋などを串に刺して、味噌を塗って焼いた田楽刺しを思い浮かべる人が多いかもしれない。
 しかし、ここでいう田楽は古い民俗芸能のことである。田植えのときに田の神を祀るため笛、太鼓で歌い舞った平安時代から行われている農耕儀礼で、後の猿楽や能の原型と言われている。今では、数少ない地域でしか残っていない。
 その田楽が、佐賀の白鬚神社に残っているという。それも、珍しい子どもによる稚児田楽だという。佐賀県人にもあまり知られていないが、平成12年には国により重要無形文化財に指定されている。
 各地で秋祭り・くんちが行われている最中の、10月18、19日に田楽が奉納されるというので、18日に白鬚神社へ行った。

 佐賀市のバスセンターから北の久保泉町川久保方面へバスで約25分。
 佐賀平野の田園地帯の先の里山に白鬚神社はあった。すぐ横に小川が流れ、奥には森が茂り、道路沿いには人家が散在している。佐賀ののどかな田舎の町だ。
 白鬚神社は伝えによると、6世紀ごろ、近江国(現滋賀県)より移住した人により勧請された、白鬚明神である猿田彦命を祭った神社である。
 この白鬚神社の田楽は、いつから始まったかは定かではない。神社の人の話によると、古くは1665年の文献に出ているので、少なくともそれ以前から行われているという。

 正午、参道の鳥居をくぐって、舞い手の一行がやって来た。
 本殿の前には、竹で組まれた囲いの中にゴザが敷かれた玉垣の舞台が設えられていて、その中で舞いが始まった。(写真)
 正面に座った笛吹き8名は壮年で、舞い手の8名は稚児である少年たちだ。
 舞い手の構成は、「ハナカタメ」と呼ばれる、真綿の鉢巻をした幼児1名。
 「スッテンテン」と呼ばれる、金色の烏帽子をかぶり、小鼓・扇子を持つ幼児1名。
 「ササラツキ」と呼ばれる、造花を飾り、錦の女帯を垂らした花笠をかぶり、「ささら」という音を出す編み木を持った女装の少年4名。
 「カケウチ」と呼ばれる、花笠をかぶり、胸に平太鼓、両手にバチ、腰に木太刀を挟んだ少年2名。
 全員、地元の小学生および中学生で構成されている。
 左右両側に座った「カケウチ」が、「インヨー」「オハー」と掛け声を発し、太鼓でリズムをとり、舞台の進行役を行っている。
 「ササラツキ」の4人が、細長く削った何本もの木を糸で編んだ「ササラ」という編み木をジャラリ、ジャラリと鳴らしながら、女の舞いをするのである。少年たちは、頬紅に口紅をして全くの女のいでたちだ。
 時間もゆったりと流れていた時代に遡ったような、全体を通して、ゆったりとした舞いである。舞いはこの辺りの風景に溶け込み、今という時代をしばし忘れさせてくれた。
 この舞いが、休むことなく1時間半続けられた。なのに舞い手の子どもたちは、顔色変えずに舞い続けてくれた。

 白鬚神社の舞いが終わったら、一行はその足で、北へ歩いて10分ほどのところにある勝宿(かしゅく)神社へ向かった。
 そこでも、短縮した形で、田楽が奉納された。ここでは、本殿前の広い境内に直接ゴザを敷いて行われた。
 勝宿神社での奉納が終わって、再び一行は白鬚神社に帰っていった。僕が見送っていると、神社の人が、奉納のために作った花をくれた。その花は、木の枝である裂いた竹に、色紙の花弁を何枚か貼ったものである。
 僕は、その一行を見送りながら、帰りのバスに乗った。
 このような民俗芸能が、地元に長く伝えられ続けているのは貴重だ。
 願わくば、県(観光課)はもっと広くPRしてほしい。

 白鬚神社の田楽の風景を思い浮かべさせるその花は、今、わが家の玄関を入ったところに飾ってある。

 
  知らぬ世の 香りを運ぶ 祭り花
       宴のあとにも 庭草は繁げ
                     沖宿

  

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四国から九州への旅2013 ④ 雨の「SL人吉」に乗る

2013-10-25 00:54:12 | * 四国~九州への旅
 10月5日、熊本県人吉市のホテルで目が覚めたら、窓の外は雨だ。台風が近づいているらしいが、ひどい雨ではない。佐賀や長崎では降っていないようだ。
 この日は、午後2時半過ぎの人吉発のSL蒸気機関車に乗るのだ。それまで、人吉市内を散策することにした。

 ホテルで傘を貸してくれたので、雨の街中へ出た。
 まずは、10月9日にくんちの祭りをやるという青井阿蘇神社へ行った。国宝だという茅葺の楼門や本殿を持つ豪壮な神社だ。
 本殿に行くと、奥の座敷の中に多くの人がかしこまって座っていた。一番前には白い式服を着た宮司の人がいて、何やらしゃべっている。関係者が座っているなか、来(きた)るくんちの祭りのためのお払いが行われているとのことだった。通りすがりの者だけど、僕も黙って末席に座らせてもらった。

 神事が終わったところで阿蘇神社を出て、球磨川に架かる人吉橋に行った。球磨川はゆったりと流れていて、橋もゆったりとした風格が感じられた。
 橋を渡ってまっすぐ歩いていると、古い楼門の寺に出くわした。永国寺とある。西南の役の際、西郷隆盛がここに陣を構えた寺である。
 永国寺の前の通りを曲がって進むと、武家蔵があった。玄関前には、赤くなり始めた柘榴の実が雨に濡れている。僕の服も幾分濡れている。
 さらに進むと、裁判所があった。裁判所があるとは、かなりの力量の市である。
 その先に橋が架かっていて、川に沿って長い白塀が続いていて、城下町であることを知らしめてくれる。橋は大手橋といい、ここから先が城内なのだろう。
 歩き進むと、やはり城壁があった。人吉城跡だ。
 この石垣が、昨夜、料理屋のマスターが武者返しと言っていたものである。僕が、それは熊本城でしょうと突っ込むと、人吉城の方が早かったのです、熊本城がこちらをまねたのですと力説した。
 天守閣などの建物はなく、城壁だけの自然な城跡だ。

 雨脚が強くなった。城跡を後にし、球磨川を渡って繁華街に戻った。そろそろどこかで昼食をとろう。
 何本もの道が格子のようになっている。そのなかの、鍛冶屋通りを歩いた。ここは、古い店の建物が連なる情緒のある街並みだ。
 途中、ポルトガルから伝わったという「ウンスンカルタ」を紹介している建物があった。今でも、このカルタ大会を行っているようだ。
 その隣の通りに、鰻屋があった。川のあるところ、柳川と同じく人吉も鰻は名物に違いない。そうだ、鰻を食おうと思ったら、1軒挟んで鰻屋が、すぐ近くに2軒ある。迷ったが、創業100年という古い店に入った。
 店の中も歴史を感じさせる風情があり、頼んだうな重の鰻もボリュームがあり味もいい。

 濡れた服を着替えてJR人吉駅に行ったら、昨晩は気づかなかったが、駅前に小さな3層の天守の城がある。石垣もついている。城の天守は、ここにあったのだ。飛び梅ならぬ、飛び城だ。
 するとメロディーが流れて、天守の窓が開き、中で人形が動きだした。からくり時計だった。ちょうど午後2時だ。おそらく1時間ごとに、動くようになっているのだろう。

 *

 人吉駅は、雨だというのに人が多い。そわそわしている表情からも、もうすぐ動くSLを待っている人たちだと分かる。
 僕も、昨晩駅で頼んでいたチケットをもらって、ホームへ行った。全席指定だ。乗車券のほかに、指定席券は大人800円(子ども半額)である。

 「SL人吉」の蒸気機関車がホームにやって来た。(写真)
 大正11年に製造されたSL58654機で、思ったよりツヤがあり綺麗な真黒だ。運転士もにこやかで、気持ちよく写真に向かって笑顔を返してくれて、ここではちょっとしたスターだ。昔懐かしい首から胸の前に名物の食べものを下げた、駅弁売りスタイルのおじさんもいる。

 高校時代は、通学はSLだった。佐世保線の大町から武雄まで通った。
 列車(汽車と言った)が動き出して、乗り遅れそうになっても、走っていってデッキに飛び乗ったりした。それでも、注意はされても誰もが平気な顔をしていた、のどかな時代だった。今でも、インドではよく見る光景だ。

 14時38分、「SL人吉」は3両編成で、汽笛を鳴らして出発した。人吉から肥薩線で八代へ行き、そのまま熊本まで行くのだ。
 乗っているのは、鉄道オタクばかりではない。子ども連れの若い夫婦から元同級生のような仲のいいおばちゃんグループや、僕のようなリュックを持った一人旅のような者まで、様々だ。
 球磨川に沿って列車は走る。急流に乗ってカヌーを漕いでいる人もいる。
 途中、列車の左を流れていた球磨川が右に移った。列車は何度か川を交叉して進むのだ。
 人吉を出て、「一勝地」という駅で10分間の停車だ。この列車は、特徴のある駅ではしばらく停車して、乗客への観光時間もサービスするようだ。
 この一勝地は、名前からここの駅の切符を必勝祈願にするらしい。
 次に停まった「白石」は、駅舎が105歳という長寿の駅だ。みんな一旦降りて、駅を見たり写真に収めたりしている。駅舎を外から見ると、普通の平屋の家のような佇まいだ。駅舎の横に、赤いポストが立っている。かつての駅は、みんなこんな感じだったかもしれない。
 この駅で、普通列車の電車がやって来た。昔の蒸気機関車と今の電車の擦れ違いだ。
 「瀬戸口」では、「九州横断特急」との擦れ違いだ。
 急流だった球磨川も、ゆったりした流れになっている。
 「八代」駅で、肥薩線は終わりになる。
 ここから「熊本」まではノンストップの直通で、鹿児島本線だ。

 「SL人吉」は、車内は木の肌触りを味わえた。忘れていたが、昔の汽車はこんな木でできていたのかもしれない。
 車内には、展望ラウンジも図書コーナーも、何よりビュッフェもあり、そして客室乗務員が親切に案内説明してくれるので、まるで遠足みたいだ。もちろん、図書が置いてあるからと行って、この列車の中で読書しているのはもったいない話だが。
 缶ではない熱いコーヒーを飲みながらの車窓は、また格別だ。
 17時13分、熊本着。約2時間半のSLの旅は終わった。

 *

 このまま、熊本から佐賀へ帰ろう。
 まずは、鹿児島本線で鳥栖まで行こう。そう思って時刻表を見ると、何と特急や急行の列車がないのである。
 要するに、九州新幹線ができたので、新幹線に乗るか、各駅停車あるいは快速にするか、という魂胆らしい。

 熊本17時49分発、各駅列車・銀水行きに乗る。大牟田市の銀水行きで、18時34分、大牟田の手前の荒尾で降りる。
 荒尾18時37分発、快足博多行きに乗り、19時17分鳥栖駅着。
 やれやれ、やっと佐賀県鳥栖に着いた。
 鳥栖19時32分発、佐世保線肥前山口行きに乗る。

 旅は終わった。人吉で降っていた雨は、すでに止んでいた。

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四国から九州への旅2013 ③ 宿毛から佐伯、都城、人吉へ

2013-10-23 02:20:31 | * 四国~九州への旅
 この日は、高知の宿毛港から、船で九州の大分県佐伯に渡る。
 10月4日、朝起きて宿毛のビジネスホテルの窓を開けると、台風が近づいているせいか雲が出ていたが青空ものぞいていた。雨が降ることはなさそうだ。
 ホテルを出て歩いて約10分、朝7時40分ごろ、宿毛の港に着いた。宿毛発8時のフェリーに乗るためだ。
 船着き場に着いたが、予想に反して人がいない。前方にチケット売り場があったので、急いでそこへ行ったが窓口は閉まっていた。見ると、沖ノ島方面行きの市営定期船と書いてある。佐伯方面行きのチケット売り場は別のところにあるのだ。
 慌てて探したので、見逃して船舶の事務所まで行ってしまった。事務所はまだ閉まっていて、また戻って探す羽目となった。売り場を見つけチケットを買うと、乗り場はまた別のところだった。
 行先によってチケット売り場が別のところにあって、さらに乗り場も、慌てている初めての者には分かりにくい配置だ。
 いつものように2等座席に乗った。ほぼワンフロア―に1人か2人の余裕だ。家族連れもいなくて、船内は静かだ。
 船が出ると、ほとんどの人が横になった。寝ている人もいれば、雑誌を読んでいる人もいる。しばらく海を見ていたが、宿毛湾を出た頃に僕も横になった。

 船は揺れることなく、11時20分に大分県佐伯港に着いた。
 佐伯港に上陸しても、港町の空気はあまりしない。漁船がないせいか、潮の香りがしないのかもしれない。
 港を出るとすぐに駅に続く道があり、10分も歩くとJR佐伯駅に着いた。こんなに港と鉄道の駅が近い町も珍しい。
 昨日までは、佐伯から北へ行って、また別府の温泉にでも行こうかと思っていた。
 しかし、佐伯駅に着いて、考えが変わった。別府は過去2回の八幡浜からの船旅で行っているので、今度は南の方へ行こうと思いついた。
 地図を見ながら、日豊本線で宮崎を通って鹿児島まで行き、そこで泊まろうかとちらと思った。しかし、まっすぐ鹿児島に行くのも能がないなと思って鉄道路線図を見ていると、途中で横に折れた線があり、それをたどれば人吉を通って、熊本までつながっているのを見つけた。
 何度か乗り換えれば今日中に人吉まで行けそうだし、この線は乗ったことがないので、行ったこともないところを通るので面白そうだ。

 *

 佐伯発12時11分、特急「にちりん9号」宮崎空港行きに乗った。
 日向灘の海岸に沿って列車は走り、駅弁がなかったので、車内で、佐伯駅の売店で買った、雪ん子寿し、とサンドイッチを食べた。雪ん子寿しは、スライスした蕪の漬けものをおおきな寿しのネタのようにしたものである。どう見ても、九州のイメージとは程遠い、東北か北陸の雪国のネーミングである。
 宮崎に14時11分に着き、すぐに宮崎14時15分発の特急「きりしま13号」鹿児島中央行きに乗り換えた。

 途中、15時03分都城に着き、そこで降りた。ここから吉都線吉松行きに乗り換えなければならない。
 出発まで1時間あるので、都城の町を歩いた。
 都城とは美しい名前だ。城下町を思い浮かべるのだが、街の案内書を見ると、古くは荘園の地で、島津忠久という人物がこの地の地頭に着き、後の鹿児島の島津藩の始祖となったとある。
 駅のほど近いところにクラシックで優美な洋風建築の教会があった。中に入ると、結婚式をやっていて、係りの者が結婚式場もやっていると言った。館内でコーヒーも飲めるというので(有料)、庭を見ながらコーヒーを飲んでくつろいだ。

 都城発16時09分、吉都線(えびの高原線)隼人行きに乗った。
 山間に見える、黄金色の田園がきれいだ。
 途中、17時38分、吉松で降りた。人吉行きに乗り換えるためだ。
 吉松の駅舎は2階建てで、意外に立派だ。「肥薩線全線開通100周年」の幟もある。駅前には、蒸気機関車も設置してあり、鉄道の町だったことが知れる。小さな横断踏切もある。
 次の人吉行きが18時22分なので、時間がある。時刻表を見ると、思わぬことに、これが人吉行きの最終列車だ。それに、吉松から人吉行きは、1日5本しか運行していない。
 駅前の商店街を歩いたが、閉まっている店がほとんどで閑散としている。どこか食堂でも開いていたら何か食べようかと思ったが、食べ物屋は見つからなかった。
 商店街の外れに、竹細工を編んでいるおじさんがいた。僕がのぞいたら、奥さんが隣りの展示してある店の戸を開けて案内した。懐かしい竹トンボの横に、竹細工による茶筅などの茶道具が並んでいた。
 もう50年も竹細工をやっているというおじさんは、鉄道が盛んだったころは、この町も賑やかだったが、今では開いている店は、どこどこと、どこどこだけだと語りだした。哀しいかな、地方の町の疲弊・衰退はどこも一緒だ。
 この辺りに旅館もないというから、次の最終列車に乗り遅れたら大変だ。
 都城からここへ来たので、この吉松も宮崎県と思ったら、おじさんは、ここは鹿児島県ばい、と強く言った。鹿児島県湧水町となっていた。

 *

 吉松発18時22分、肥薩線人吉行きに乗った。
 1両編成のワンマンカーで、乗客は僕一人だ。バスは経験あるが、列車の貸切状態は初めてだ。運転手の横に行き、邪魔にならない程度に話しかけた。
 この電車は、朝晩の通学電車で、そのときは学生がある程度乗るんですか、と尋ねた。すると、運転手の人は、通学する学生は1人いましたが、その子が昨年卒業したので今はいません、と答えた。
 通学列車でもないとすると、この客数では列車(電車)を運行するのは苦しい。1日5本も仕方ないと思った。
 日本全国、車(自動車)依存の社会になっているのだ。特に地方でそれは顕著だ。

 外は暗く、ライトに照らされたレールの周りだけが明るく照らされて、列車は僕だけを載せて、進んでいった。(写真)
 真幸駅を過ぎると途中で列車が止まり、運転手の人が慌てて後ろの方へ走った。すると、列車は逆の方へ動き出し、しばらくすると、また列車は止まって、運転手が前の方へ走ってきて、また列車は前の方へ動き出した。スイッチバックですね、と僕が尋ねると、運転手の人は、ええ、ここは急勾配を走っているのです、スイッチバックは、この路線では2か所あります、と答えた。
 大畑駅を過ぎた後もスイッチバックは行われた。
 駅名の「真幸」を僕が「まゆき」と呼ぶと、運転手の人は「まさち」と訂正し、「大畑」は「おこば」と教えてくれた。

 大畑駅を過ぎしばらくして、運転手の人が電話を取り出して話をし出した。そして、すみません、この線路の先に、鹿がはねられて倒れているようなのです、と言って、少し速度を下げ、注意深く前方を見て走った。しばらく走った後に、列車は止まった。運転手の人は、申し訳ありませんが、しばらくお待ちください、と言って電車を降りた。
 明かりに照らされた線路の先に、鹿が横たわっていた。運転手は走ってその鹿を抱きかかえて、線路の外に出し、また戻ってきた。
 そして、もう固くなっていました、と言って、電車が遅れて申し訳ありませんと業務口調になって、再び列車を走らせた。
 いろんなことがあるものだ。
 列車は、最後まで僕の貸切状態だった。列車好きの僕は、複雑な心境だ。

 *

 熊本県の人吉駅には少し遅れて、19時半ごろ着いた。
 人吉にはかつて叔父が住んでいて、僕が大学に入学した夏休みに一度遊びに来たことがあり、球磨川下りをし、五木村まで足を延ばしたことがある。それ以来だ。そのときは、街の散策はしなかった。
 人吉駅には、SLのポスターが貼ってあった。そうか、人吉からSLが走っていたのか。SLは、毎日走っているわけではない。たまたま、明日(10月5日)も走るのだ。駅で確かめると、午後14時半過ぎに熊本まで行くのだ。
 明日どうせ熊本に行くのだから、そのSLに乗るのもいい。いや偶然とはいえ、SLに乗れる棚ボタというか、絶好の機会だと思った。

 駅前の観光協会で地図をもらって、駅前から街を見渡すと、程よい温かい空気が漂っていた。駅から駅前通り(青井トキメキ通り)を球磨川の方に向かって歩いてほどないところにある、温泉を擁したホテルに宿をとった。
 ホテルに荷物を置いて、まずは人吉を象徴する球磨川に架かる人吉橋に向かった。
 僕は、知らない街に着いたら、まずはその街の中心地か象徴的なところへ行く。すると、その街を何となく感じとることができるのだ。高知に着いたら、すぐにはりまや橋に行くようなものだ。
 人吉橋のたもとの銀行には古い時計がそびえ、情緒を醸すのに一役買っていた。
 人吉の街は、都会でもなく田舎でもない程よい街の、温かい雰囲気が一面に漂っていた。僕はすぐにこの町が気に入った。
 ホテルのカウンターの人に、人吉名物の馬肉の美味しい店を訊いていたので、その店がある飲食店が集まっている盛り場に出た。細い道が交差し、川が流れ、店が点在し、街を色っぽくしていた。
 料理は美味しく、僕は気持ちよくビールを飲み、地元の味を楽しんだ。
店の二代目の若いマスターは「何と言っても、もうすぐ来る9日の青井阿蘇神社のくんちですよ。そのとき、また来てください」と言った。
 人吉のくんちは見たことがない。来たいのはやまやまだが、その頃は、僕が行く予定の長崎のくんちがある。また別の年に、人吉のくんちを見に来るのもいい、と思った。

 九州は、くんちの季節だ。くんちは秋の祭りだが、10月だというのに夏のように暑い日が続いている。
 僕は人吉の人情味のあるくんち祭りを夢想しながら、ほろ酔いで夜の街を歩いた。

 この日は、高知県から船で九州へ渡り、大分県、宮崎県、鹿児島県、熊本県と、列車で走り周ったことになる。今話題の、九州を走り周る超豪華列車「ななつ星」の、先取りだ。
 あちらは誰が乗るのだろうと思うぐらいの高価格だが、こちらは乗り継ぎ割安列車である。しかも、食事は現地賞味だ。

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四国から九州への旅2013 ② 足摺岬から宿毛へ

2013-10-17 00:56:53 | * 四国~九州への旅
 この日は、待望の足摺岬へ行こう。
 10月3日、高知9時53分発、土讃線の特急「南風1号」で、中村へ向かった。高知から窪川までがJRで、窪川からは土佐くろしお鉄道となるのだが、直通で中村まで列車は走った。
 去年、室戸岬に行ったときから、それと対応するかのように土佐湾を挟んで存在している足摺岬にも行かないといけない、という思いに駆られていた。
 室戸岬もそうだったが、海に向かって尖ったところへは鉄道が途切れている。室戸岬で、土地の人に、どうして鉄道が切れているのか、繋がっていれば便利でしょうと訊いたら、こうした尖った海岸線は風が強いので、列車が不安定になり危険なので鉄道が敷かれない、という答えだった。
 そういうことであるから、中村から先への足摺岬に向かう足は、鉄道でなくバスである。
 足摺岬には午後には着く予定だが、足摺岬周辺を見回っていると、次の日大分・佐伯行きの船に乗る港である宿毛に行く時間的余裕がなくなる。だから、この日は岬の近くに宿泊するつもりで、昨日高知駅前の観光協会で、僕にしては珍しく予め宿を予約してあるのだ。

 *

 中村には11時32分に着いた。
 中村は四万十川の河口にあり、今では町村合併で四万十市と名前を変えている。今夏、日本最高気温41.0度を記録した江川崎も、この四万十市である。
 中村から西南交通のバスに乗った。
 バスは、やがて土佐清水市に入り、清水バスセンターで一時休憩のため停まった。このあたりが土佐清水市の中心街のようだ。
 すぐにバスは発車し、曲がりくねる海岸線を走った。海岸線の道はバス1台が通るギリギリの幅で、対向車が来たらどうするのだろうと心配した。しかも、運転手は朝ドラ「あまちゃん」を少し年配にした素朴な感じの女性である。
 案の定、対向車が来た。そこは運よく少し幅の広いところで、うまくすれ違ったので、ほっとした。
 バスは、景色のいいところでは運転手が解説して、観光バスのように見学のために少し停車するサービスもあった。

 バスの終点の足摺岬で降りた。まだ午後1時35分だ。
 歩いてすぐのところに、四国最南端である足摺岬の白い灯台があった。灯台は、燈台守もいそうになく、ひとり寂しくたたずんでいた。展望台から見ると、それは白い観音様のようで、岸壁の上から海を慈悲深く見渡しているようであった。(写真)
 室戸岬の灯台は、小高い丘の上にあり、海や下の通りを睥睨している感があったが、足摺岬のそれはいかにも灯台の見本といった様で、海にせり出た岩壁の上にあった。
 
 灯台から続く遊歩道を歩いて、白山神社の近くの予約しているホテルに行った。
 簡素なホテルで、ドアの中に入っても受け付けには誰もいない。声をあげて呼んだら、係りの男性が顔を出した。予約した者だと告げると、チェックインは3時からですが、と申し訳なさそうな顔をした。時計を見ると2時半だ。
 とりあえず、荷物だけ預けてもらって、見物に出かけることにした。
 ここに来る前に灯台は見てきましたが、歩いてかバスで身近なところで見るところはありますか、と訊いた。そのホテルの係りの男性は、う~ん、と考えて、正直に、あまりありませんね。すぐ前にある道の下の、石段を下りていくと白山洞門がありますが、と言った。
 僕も地図や観光案内書を見て、灯台以外はさほど好奇心に駆られるところがないので、半日をどう過ごすか懸念していたのだ。白山洞門は、ホテルの前の道に標示板があり、すぐ近くなので行こうと思っていた。
 足摺岬のバス停近くに,喫茶兼食堂があったが、ほかにレストランや食堂風のものもこの近くにはありそうにない。ましてやスナックなどの飲み屋は望めそうにない。
 僕もここでこれから明日まで半日過ごすのはつらいなと思い、反射的に、今日中に宿毛に行こうと思いたった。それで、係りの男性に、次の中村行きのバスの時間を訊くと2時40分である。あと10分しかない、というよりあと10分でバスがくる。これを逃すと、あと1時間後である。
 申し訳ないが、今日はこれから宿毛に行くので、宿泊をキャンセルしていいかと頼むと、あゝ、いいですよと、気軽に快諾してくれた。そして、ホテルのすぐ前にバス停がありますから、と親切に教えてくれた。本当に人がいい。
 珍しくホテルを予約などすると、こんなことになってしまう。やはり、旅はなりゆき任せが一番だ。
 僕は、謝りながらホテルを出て、まだ10分あると言い聞かせ、標示に従って白山洞門への小道を走るように下りた。間に合いそうになければ、途中で引き返せばいい。
 石段を降りたところに岩道が途絶え、向かい側の岩まで白い橋が架かっていて、その橋のたもとに白い鳥居があった。その橋を渡った向かい側に岩の穴があった。慌ただしく洞門を見て、汗にまみれてバス停に戻ってきたときに、バスがやって来た。

 バスは、もと来た道を再び中村へ走った。
 中村へは16時25分に着いた。土佐くろしお鉄道による宿毛行きは、17時32分でまだ1時間以上ある。
 中村駅前に立ったが、駅前は店らしいものはない。観光協会も、駅から離れた国道沿いにあった。繁華街も離れたところにありそうだ。

 *

 中村から土佐くろしお鉄道で宿毛に向かった。
 宿毛は高知県の南西にある港町で、日本地図や時刻表の地図を見ると、ここから九州の大分県の佐伯まで海の中を線が引いてあり、四国~九州間の船が通っていることは知っていた。一度はこの路線の船に乗りたいと思っていたのだ。
 ずっと宿毛はどう読むのだろうと思っていたが、「すくも」である。

 宿毛駅に着いたのは、18時02分だった。駅を出ると、外はもう暗く、店も明かりも見当たらない。駅員に訊こうと思ったが、窓口も閉まっていて、構内は無人であった。
 町の地図を見ると、港の方に行く道にビジネスホテルがあるので、とりあえずその方に歩こう、食事もしなければいけないが途中に食堂があるだろう、と思った。しかし地図を見ても、どっちへ行けばいいか全く見当がつかない。外は暗いこともあって、大きな道が見当たらないのだ。
 途方に暮れていると、前方の家に車がやって来て人が降りた。僕は近寄って、港の方へ行く道と、この辺りに食堂かレストランはないかと訊いた。
 その人は、駅の反対側を指さし、港はあちらの方で、歩けば30分近くかかり、その途中にビジネスホテルがあると言った。そして、居酒屋はあるが食堂はないなぁ、途中にあるビジネスホテルが1階でレストランもやっている、と教えてくれた。
 僕が礼を言って、駅の反対側に出て道を探していると、1台の車がやって来て止まり、男の人が出てきた。先ほどの人で、あそこに明かりが見えるのがレストランのあるホテルです。そこまで案内しますから、車に乗って下さい、と言い、車でそのホテルの前まで連れて行ってくれた。まったく高知の人は、人がいい。
 そのビジネスホテルのレストランで食事をし、ここから港まで歩くと何分かかりますか、と訊いたら、20分と言う。もう少し港に近いところのホテルにしようと、その先にあるホテルに向かった。
 というのは、船の出発時刻が朝8時と早いので、港には少しでも近いところに泊まりたい。船の出発は、8時の後は16時なので、何としても8時に乗りたいのだった。
 10分ほど歩くと、港に続く道沿いにビジネスホテルがあり、そこに泊まることにした。そこからは、港までは歩いて10分だと言う。

 ビジネスホテルの窓から見渡す宿毛の夜景は、港町の情緒は感じられず、遠くへ道路が延びるアメリカン・カントリーのような乾いた街の印象だ。
 しかし、見知らぬ遠い町へ来たのだという実感を味わった。
 明日は早いので、早く寝ることにした。梟(フクロウ)のような生活をしている僕には、旅は早寝早起きで健康的だ。
 明日は、船で九州へ渡ろう。

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四国から九州への旅2013 ① 「サンライズ瀬戸」で、四国・高松、金刀比羅宮へ

2013-10-15 00:41:38 | * 四国~九州への旅
 九州の佐賀に帰るのに、寝台特急「サンライズ瀬戸」による四国経由で行くことにした。
 この方法による四国経由九州行きは3回目になる。
 3年前の1回目は、岡山から瀬戸大橋を渡って四国に入ると、香川県の坂出から西の方へ向かい、丸亀を経て、愛媛県へ入り、新居浜、松山、大洲、宇和島。そして八幡浜から船で大分県の別府へ渡った。
 2回目は去年の秋で、四国に入ると前回とは逆方向の東に向かって、香川県の高松から、徳島を経て南下し、南の突端、高知県の室戸岬に行き、そこから高知、愛媛県の宇和島を経て、八幡浜から船で別府へ渡った。
 今回は、香川県の金刀比羅宮から四国の中央を縦断する形で高知へ出て、土佐湾を挟んで室戸岬の反対側に尖っている足摺岬に行き、高知県の宿毛から船で大分県の佐伯に渡ろうと思った。

 10月1日夜22時発の寝台特急「サンライズ瀬戸」で、四国へ向かった。
 列車が少し遅れて、朝の8時近くに終点高松駅に着き、そこで降りた。香川は金刀比羅宮を詣でて、すぐに高知に向かうつもりだったが、高松市在住の学生時代の同級生が駅に迎えに来ていて、高松を案内してくれるという。
 彼の車で屋島に行った。屋島は初めてである。
 高台からは高松市街や瀬戸内海が見渡せる。かつて那須与一で有名な源平の戦場の跡は、埋め立てられて宅地になっていた。
 次に行った栗林公園は2度目である。実は若いときに、一度香川県へは足を踏み入れているのだ。
 栗林公園は、広く綺麗な公園だ。栗林は見当たらなく、松が多く目についた。春は桜が咲くという。

 栗林公園を後にして、金刀比羅宮に行く前に昼食をとろうということになった。香川といえばうどん県であるように、当然讃岐うどんである。
 僕がうどんは具がいっぱい入った鍋焼きうどんのようなのがいいと言うと、友人は、うどんはうどんの味を楽しむものだ、素うどん、釜揚げうどんのような、シンプルなのがいいと言った。
 そこで、友人が金刀比羅宮に行く途中にある、美味いうどんの店に連れて行ってくれた。それは高松市街から相当離れた、国道沿いでも何でもない鄙びた通りにあった。店も、店らしくない自由な休憩所のような造りだ。それでも、店はいっぱいだ。住所を訊いたら、綾川町だという。
 釜揚げうどんで、別に自分の好みでテンプラや卵などを自由にトッピングすることができた。讃岐うどんはコシと言うが、さほどコシが強いわけではなく、僕の好みののびやかさがあった。確かに美味かった。

 僕の今回の目的のひとつである金刀比羅宮に行った。
 金刀比羅宮は忘れられないところだ。かつて若いとき、初めての四国への旅で、高松から金刀比羅宮・琴平を経て、土讃線で高知へ行く傷心の旅をした。
 その時、金刀比羅宮の参道の石段の左右には浅草の仲見世のように店が並び、登る人も降りる人も皆はしゃいでいるようで、駕篭かきもいて賑やかだった。かつては、四国へ行くからにはまずは金刀比羅宮参りを、という共通の思いのようなものがあった。
 しかし、この日は平日だからか、店並みも静かで石段を登る人もそう多くない。それだけに哀愁が漂う。(写真)
 それでも、氏子の祭りだとかで、参道入口の交差点では神輿が練り歩いていた。
 ここの長い石段は、想い出に滲んでいる。といっても、同級生と一緒だから、感傷に浸る暇もない。
 かつては奥社まで登ったが、785段の本宮までで良しとした。

 友人とは金刀比羅宮で別れて、僕はひとり旅に戻った。
 琴平駅16時02分発高知行きの土讃線、特急「南風15号」に乗った。途中、小歩危、大歩危の峡谷を経て、高知駅に17時42分着。
 1年ぶりの高知駅前では、3人の幕末土佐藩士がライトアップに照らされて、旅人を迎えてくれた。駅前に、街に向かって立つこの銅像とイベント広場を造った、高知のアイディアは素晴らしい。
 駅からほど近いところにホテルをとり、すぐにカツオのたたきの美味い漁師のやっている店へ直行した。去年行っているから、分かっているのだ。
 そのあとは、アルチュウの女の子のいるスナックへ。高知の女は酒が強い。強くない僕は、ほどほどに退散だ。
 高知の街は酒とともに更けていく。

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