かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

時代を疾走した映画監督、大島渚

2013-01-16 03:10:56 | 映画:日本映画
 大島渚が1月15日、死んだ。長い闘病の末だった。
 僕の学生時代、大島は映画監督の代名詞だった。1960年代から70年代にかけての政治の季節の真っ只中、ラディカルに社会的問題を映画を通して訴えかけたのが大島だった。
 映画に娯楽以外のものを見つけるなんて考えてもみなかった九州の田舎から出てきた若者にとって、映画に社会的意味を見出すことは発見で驚きだった。そこに政治や社会を投影するということは、映画へのもう一つの入口を示されたようだった。
 大島の映画に、僕らは意味を見出そうと努めた。この映画で、大島が言おうとしているのは、社会の矛盾と日本の貧困だ、などと僕らは大島の映画を見たあと薄暗い喫茶店で語り合った。
 それは、大江健三郎の小説に意味を見つけようとして読んだのに似ている。

 公開からずっと後だが、どこかの名画座で初めて見た大島渚の「青春残酷物語」(1960年作品、松竹)は鮮烈だった。どこかに希望を含んだ日活の青春映画とは違っていた。少し投げやりな桑野みゆきが大人で、手の届かない女性に見えた。
 松竹から一方的に上映中止になっていた大島渚の「日本の夜と霧」(1960年)は、すでに伝説の映画となっていた。大学祭で上映すると聞いて、固唾を呑んで見たのだが、学生運動の全容がまだおぼろげだった僕には、映画そのものが霧の中のようであった。
 大島の実質的なデビュー作の「愛と希望の街」(1959年)は、当初大島が考えていたタイトルどおり、「鳩を売る少年」の物語だが、過激的な側面は抑制されていて、まだ揺籃のようであった。

 大島渚は、吉田喜重、篠田正浩などとともに松竹ヌーベルバーグの旗手と称せられた。吉田の「水で書かれた物語」(1965年)や、篠田の「涙を、獅子のたて髪に」(1962年)、「乾いた花」(1964年)は大好きな作品だけど、大島が自他共に認める時代のトップランナーであった。
 松竹ヌーベルバーグの若き監督たちは、女優にもてた。大島は小山明子、吉田は岡田茉莉子、篠田は岩下志麻という、当時の第一線の美人女優と結婚し、僕たちを羨ましがらせた。

 松竹を退社した後も大島渚は、同志で脚本にも参加した田村孟、石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏らで独立プロの映画製作会社「創造社」を造り、刺激的な作品を意欲的に発表していった。
 「ユンボギの日記」(1965年)、「日本春歌考」(1967年)などの後、ATG(アート・シアター・ギルド)で、「絞死刑」(1968年)、「新宿泥棒日記」(1969年)、「少年」(1969年)など、大島の作品を見るたびに、僕たちは彼の映画を議論したものだった。
 新宿のアート・シアターで見た「新宿泥棒日記」で、不思議な雰囲気を醸し出していた映画初主演の横山リエは、僕の友人が劇団青俳の研究生だったとき同僚だった。彼女は「遠雷」(1981年)でも個性的な存在感を示していた。
 その後、新宿3丁目で妹とスナックをやっていたが、今はどうしているのだろう。
 「夏の妹」(1972年)では、今でいうグラビア・アイドルだった栗田ひろみの魅力を引き出した。大島がこんな映画を作るとは。僕の好きな映画だ。

 ハードコア・ポルノグラフィー表現として過激な性描写で話題となった「愛のコリーダ」(1976)以降、僕は大島の映画から関心が遠のいていった。
 「戦場のメリークリスマス」(1983)は、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしと異色の組み合わせで世界的に評価されたが、かつての大島を見つけることが難しかった。

 しかし、大島渚と聞けば、映画に目覚めていった映画青年だった時代、そして新宿のアート・シアターを喚起させる。彼は映画で社会に何かを投げかけていたし、映画で何かをやれると思わせる時代を走っていた。
 大島渚は、フランスのJ・R・ゴダールとともに、僕の青春時代の日本のヌーベルバーグ、新しい波だった。

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20歳の思い、ニザン「アデン、アラビア」

2013-01-10 19:12:48 | 本/小説:外国
 「20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 20歳を過ぎたときから、僕らはこの言葉をしばしば口にした。それは、あっという間に過ぎ去った20歳という若さの象徴的年齢を嫉妬するようでもあり、20歳といえばまだ青二歳だという、自分より若い人間たちを軽くいなそうとする思いも含んでいた。
 僕らは、つまり僕の若い頃は、同世代の男たちは同じように、この20歳……という言葉を自嘲を含めて呪文のように口にした。この言葉だけで、まるでポール・ニザンという人間を知っているかのように。
 とりわけ若さをメタファーとして強調する場面では、遠のいていくそれへの逆説的言い訳のように、その台詞を口にした。僕はもう誰に出したかも忘れてしまったはるか昔に、恋文にもこの言葉を引用した。
 ポール・ニザンは、セピア色の青春の片隅に顔を出す名前だ。

 町の図書館の閑散とした棚の中から、ポール・ニザンの「アデン、アラビア」を見つけた。池澤夏樹編集による「世界文学全集」(河出書房新社刊)の1巻だ。
 それに、サルトルの研究者でフランス文学者の海老坂武の自伝にしばしば出てくる本である。
 この「アデン、アラビア」の冒頭の文が、この20歳……である。
 厳密に書けば、小野正嗣訳によるとこうである。
 「僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 そして、次のように続くのであった。
 「何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイことだ。」
いつの時代でも若さというものは、希望よりも現実に対する懐疑や否定や怒りの方が大きいものだろう。

 ニザンがフランスに生まれたのは1905年で、高等師範学校を卒業後アデンに出発したのは27年、翌年帰国。31年「アデン、アラビア」を出版している。まだ26歳のときだった。
 この本を20歳のときに読んだなら、僕はもっと熱狂しただろう。文体は若さの持つ発熱したものだし、時代と社会への懐疑と反逆の鋭敏なまなざしは、のちの実存主義の萌芽に満ちている。
 しかし、時代も僕も、時の流れのなかで移り変わってしまった。サルトルも読まれなくなった時代だ。
 それでも、この本の精神には普遍性がある。若者特有の痛ましい刃物のような精神の呟きと叫びが文章から溢れている。

 「旅って言葉にまだどんな意味があったのかって? このパンドラの箱には何が入っていたかって?
 自由、無私無欲、冒険、充実感。多くの不幸な人には届かず、カトリックの青年たちにとっての女性がそうであるように夢のなかでしか手に入らないものすべて。この言葉のなかには、平穏、喜び、世界を讃えること、おのれに満足することが含まれていた。
 崇拝の対象となった作家たちが引き合いに出された。スティーブンソン、ゴーギャン、ランボー、ルバート・ブルック。」

 1920年代、旅はまだ一般人には及ばない、自由や冒険を含んだ憧れの延長にあった。今日のように、簡単に飛行機で一飛びの物見遊山という時代ではない。わが国でいえば、永井荷風や金子光晴の旅のように遥かな人生行路だったのだ。
 そして旅とは、逃走でもあった。
 閉塞感溢れる世界からの逃走は、自由と自己変革への脱出だった。
 自閉症に苦しんでいた20歳の頃のニザンは、海外への脱出を夢み、アデンでの家庭教師の職を得る。雇い主はフランスの輸入業者の大商人であった。

 そう、20歳、それは決して美しいときではなく、今あるそこからの脱出、逃亡の季節なのである。
 20歳、まだ吉凶定かならぬ目の前に現れ始めた巨大な社会に臨むにあたって、それは精神的に最も苦しいときかもしれない。

 「ひと月の間、海の上にいて、風になぶられ、そこかしこで停泊し、風のなかでこそこそと話をしていると、この旅がどんなものからなりたっているかわかってくる。この旅に何が起こるのか?」

 古くから海運の要衝であったアデンはアラビア半島の先端に位置し、現在はイエメンに属するが、長くオスマン帝国の支配下にあった。のちにイギリスの植民地となり、スエズ運河が開通してからはさらに重要性が増した街である。
 ニザンがアデンに行った当時は、ヨーロッパ人の植民地政策によるコロニーができていた。

 「東洋と大英帝国が混じりあうここで、週ごと夜ごとに、めまいがどんどんひどくなっていったが、こんなとんでもないめまいがあるなんて思ってもみなかった。」

 「土地と顔が持っていた真新しさが失われ、さまざまな色あいにもあたり前になり、風景が色あせたものになっていけば、アデンを理解しようとすることはもう不可能ではない。
 アデンは数多くの縄をしっかり束ねる結び目である。この東洋の面白さを知りつくし、縄を引っぱりこの結び目を締めつける諸力を汲み尽くすには何か月もいらなかった。」

 ニザンがアデンで見たものは、ヨーロッパの植民地搾取の過酷な実態だった。その実情を見ながらも、彼は真剣にビジネスマンになろうかと考えたという。まるで、アデンで詩を捨て去ったランボーのように。

 ニザンはアデンから帰国後、結婚、そしてフランス共産党に入党し執筆活動を続けた。しかし、のちに独ソ不可侵条約にショックを受け党を脱退。直後、アルザスに兵士として動員され、1940年、ダンケルクから撤退の途中、戦火のなかで死亡した。35歳だった。

 戦後、いったんは文壇からも社会からも葬り去られたようなニザンだが、1960年、サルトルの序文を付した「アデン、アラビア」が再刊されるや、ニザンは復活する。時代を先取りしていたニザンに、やっと時代が追いついたと、本書の解説で澤田直(立教大教授)は書いている。
 フランスの1968年の5月革命を経て、怒れる若者のヒーローとなり、ニザンは青春の象徴的作家となった。
 「20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 「アデン、アラビア」は読まれなくとも、ニザンのこの言葉だけは生き続けるだろう。

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古都長安を偲ぶ、元旦の「屠蘇酒」

2013-01-02 00:49:11 | 気まぐれな日々
 今年(2013年)も、佐賀で一人で迎える正月である。
 九州といっても、佐賀を含めて北九州は寒い。
 早朝まだ薄暗いとき目が覚めて窓の外の庭を覗いたら、松の枝葉の上に白い綿のようなものがのっていた。雪が降ったようだ。おそらく初雪だ。
 銀世界の元旦も風情があると思ったが、再び起きて外を見てみると、空は灰色だったが雪が降ったのは夢だったかのように、雪の名残りもない元の景色がそこにあった。そのうち昼頃になると、青空が広がった。
 いい天気になったし、近くの八幡神社に初詣に行こうと玄関を出たら、今度は雨が降り出した。傘を持って出かけたが、雨は通り雨のようにすぐにやんだ。
 移り気な元旦の天気である。1日に、あらゆる天候を披露してくれた。

 正月は日本酒がよく似合う。しかも徳利熱燗がいい。
 だから、普段は日本酒を飲むことはあまりないのだが、年に一度日本酒を瓶(1升)で買う。正月に飲むためにだ。
 例年、「窓の梅」(久保田町)にするのだが、今年は年末に塩田町(現嬉野市)に行ったので、そこで塩田の地酒の「東一」(あずまいち)を買った。
 塩田町は平安の歌人、和泉式部の故郷だという伝説がある。にわかには信じがたい話だが、塩田町五町田には和泉式部公園があり、和泉式部の銅像すら建っている。
 時は平安の時代、この地の美しくて賢い女の子の噂が京の都まで伝わり、請われて京に行き、その礼として田圃を与えられたのがこの地名の五町田の謂れだというのである。
 その塩田町五町田の酒が「東一」である。
 酒を買ったら、屠蘇が付いていた。
 年の初め、元旦の酒は屠蘇酒である。

 *

 両親が生きていたときは、正月一日は、家族で屠蘇酒を飲んだ。父から始まり、母、そして息子である僕と弟と、順に屠蘇酒を朱塗りの杯(盃)に注(つ)いで、飲んでいった。ぜんぜん酒が飲めない父もこの日は、形ばかり屠蘇酒を口にした。といってもせいぜい杯1杯だが。
 それから、お節料理をつまみながら、父以外の者は、この日ばかりは朝から、といっても昼に近い朝からであるが、杯を差(注)しつ差されつ酒を飲むのであった。
 ある年のことだった。父が屠蘇酒を1杯飲んだあと、「よーし、飲んでやる」と言った。杯1杯で幾分赤くなる父を知っているので、みんなは驚いた。
 「みんなが注(つ)いだのを、飲んでやる」と父は言った。
 珍しいというより初めてのことだったので、面白がってみんな父の杯に酒を注いだ。 父は、3人が注ぐ酒を、順に一息に飲んだ。といっても、最初の屠蘇酒を加えて杯4杯なのだが、それでもみんな驚いた。
 「親父も、まあまあ飲めるんだ!」、「意外と、飲もうと思ったら飲めるかも?」と言いあいながら、こちらが飲んでいるうちに、父は真赤になって横になってしまった。その日は半日死んだように寝ていた。
 それから、父は飲むなどと口にしないし、みんなも飲ませようとはしない。
 あの日はなんだったのだろう、と思うときがある。

 *

 屠蘇酒は、中国から伝来したものである。
 「正月に屠蘇酒で祝う習慣は、平安時代に中国から伝えられ、宮中で用いられたのが始まり」と屠蘇の包み袋に由来が書いてあった。
 屠蘇酒のことで、先日そうだったのかと思う文を見つけた。
 日中の比較文化を研究している法政大講師である中国人の彭丹(ほうたん)さんの著書「中国と茶碗と日本と」(小学館)のなかの序文である。
 著者は、日本に来た最初の正月に初めて屠蘇酒を飲んだと、その驚きを書いている。そして、中国でなくなったものが日本では残っている文化を見つけて感動もしている。
 元旦に屠蘇酒を昔中国で飲んでいたということは、著者は知識で知っていた。しかし、現在の中国では、どこでも誰でも飲んでいなくて、それは歴史の資料としてあるだけだという。

 日本人の僕は、屠蘇の由来を知らなかったが、著者は本書のなかで紹介している。
 屠蘇酒を飲むのは、古代中国の習俗だった。屠蘇とは、大黄(だいおう)、白朮(びゃくじつ)、山椒、浜防風、附子(ぶし)、桔梗、桂心の7種の薬草を調合した薬の名である。元日の朝、屠蘇を浸けた酒を飲むと1年の邪気を祓うことができると信じられ、唐、宋時代に盛んに行われた。
 それが、遣唐使によって日本に伝えられたのだろう。長安から京の都へ。京の宮廷から庶民へ。京都からいつしか全国へと広がったのだ。
 また本書で、宋の詩人蘇軾(そしょく、蘇東披そとうば)の次のような、中国では有名な句が紹介されている。
 「但(ただ)窮愁をして長健に博すれば、屠蘇を飲むこと最後を辞さず」
 蘇軾の人生は波瀾に満ちていたが、どんな憂いがあろうとも、いかに貧乏であろうとも、健康であれば、私は元日の屠蘇を最後の飲むのを辞さないよ、と詩人は詠っている。
 ここで僕がもう一つ発見したのは、屠蘇は年少者から年長者へと順に飲むのが慣わしということだった。
 新しい年に若い人は1歳成長するので祝福の酒だが、老人になると1歳年をとるので懲戒の酒となる、とある。
 わが家は、屠蘇酒は年長者の父から年少者の順に飲んでいたので、誤っていたということになる。
 まあ、今年は(今年もだが)一人で飲むから、順番は関係ない。
 しかし、年をとると懲戒の思いを抱いて飲まないといけないようだ。思い勝手に生きてきた人生を、反省しながら飲まないといけないのかな。

 *

 今年のお節料理は、以下のようなものである。
 それらしいものは、黒豆と昆布巻きぐらいである。定番の田作り(ゴマメの甘露煮)の適当なのがなかったので、同じ小魚というので干乾し鰯焼きと昆布ちりめんで代替とした。
 刺身はハマチ。
 それに、九州ではスーパーに鯨が出ることは珍しくないが、こちらでも珍しい「生ウネ刺身鯨」というのがあったので買った。ウネとは鯨のどこの部分か店の人に訊いてみたら、背中あたりじゃないかなあと曖昧な返事だ。
 ベーコンのような白から桜色に続く脂身で、食べると柔らかい。ウネを辞書で調べてみると、鬚鯨(ひげくじら)類の下顎の下面から胸にかけてある数十条のヒダとあった。
 野菜煮は、カボチャとインゲン豆を煮た。ゴボウや人参、レンコンなどが入った煮染めとは違うが。
 これに、蒲鉾と竹輪を加えれば、何とかお節料理らしくなるだろう。定番の数の子は、子宝を願う年でもないので省かせてもらった。

 雑煮は、いつもの鶏のガラで出汁をとり、鶏肉と椎茸に春菊とネギで。それに、銀杏も入れてみる。もちろん、餅も。東京では角餅を売っていたが、九州は丸餅だ。

 古代中国を偲びながら、お節料理を肴に屠蘇酒を飲んでいるうちに、元旦も過ぎていく。
 1日は、そこそこ長い。しかし、人生は短い。

   花の香に 誘われまよひ いつのまに
            月のありかも 見失ひけり

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