大島渚が1月15日、死んだ。長い闘病の末だった。
僕の学生時代、大島は映画監督の代名詞だった。1960年代から70年代にかけての政治の季節の真っ只中、ラディカルに社会的問題を映画を通して訴えかけたのが大島だった。
映画に娯楽以外のものを見つけるなんて考えてもみなかった九州の田舎から出てきた若者にとって、映画に社会的意味を見出すことは発見で驚きだった。そこに政治や社会を投影するということは、映画へのもう一つの入口を示されたようだった。
大島の映画に、僕らは意味を見出そうと努めた。この映画で、大島が言おうとしているのは、社会の矛盾と日本の貧困だ、などと僕らは大島の映画を見たあと薄暗い喫茶店で語り合った。
それは、大江健三郎の小説に意味を見つけようとして読んだのに似ている。
公開からずっと後だが、どこかの名画座で初めて見た大島渚の「青春残酷物語」(1960年作品、松竹)は鮮烈だった。どこかに希望を含んだ日活の青春映画とは違っていた。少し投げやりな桑野みゆきが大人で、手の届かない女性に見えた。
松竹から一方的に上映中止になっていた大島渚の「日本の夜と霧」(1960年)は、すでに伝説の映画となっていた。大学祭で上映すると聞いて、固唾を呑んで見たのだが、学生運動の全容がまだおぼろげだった僕には、映画そのものが霧の中のようであった。
大島の実質的なデビュー作の「愛と希望の街」(1959年)は、当初大島が考えていたタイトルどおり、「鳩を売る少年」の物語だが、過激的な側面は抑制されていて、まだ揺籃のようであった。
大島渚は、吉田喜重、篠田正浩などとともに松竹ヌーベルバーグの旗手と称せられた。吉田の「水で書かれた物語」(1965年)や、篠田の「涙を、獅子のたて髪に」(1962年)、「乾いた花」(1964年)は大好きな作品だけど、大島が自他共に認める時代のトップランナーであった。
松竹ヌーベルバーグの若き監督たちは、女優にもてた。大島は小山明子、吉田は岡田茉莉子、篠田は岩下志麻という、当時の第一線の美人女優と結婚し、僕たちを羨ましがらせた。
松竹を退社した後も大島渚は、同志で脚本にも参加した田村孟、石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏らで独立プロの映画製作会社「創造社」を造り、刺激的な作品を意欲的に発表していった。
「ユンボギの日記」(1965年)、「日本春歌考」(1967年)などの後、ATG(アート・シアター・ギルド)で、「絞死刑」(1968年)、「新宿泥棒日記」(1969年)、「少年」(1969年)など、大島の作品を見るたびに、僕たちは彼の映画を議論したものだった。
新宿のアート・シアターで見た「新宿泥棒日記」で、不思議な雰囲気を醸し出していた映画初主演の横山リエは、僕の友人が劇団青俳の研究生だったとき同僚だった。彼女は「遠雷」(1981年)でも個性的な存在感を示していた。
その後、新宿3丁目で妹とスナックをやっていたが、今はどうしているのだろう。
「夏の妹」(1972年)では、今でいうグラビア・アイドルだった栗田ひろみの魅力を引き出した。大島がこんな映画を作るとは。僕の好きな映画だ。
ハードコア・ポルノグラフィー表現として過激な性描写で話題となった「愛のコリーダ」(1976)以降、僕は大島の映画から関心が遠のいていった。
「戦場のメリークリスマス」(1983)は、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしと異色の組み合わせで世界的に評価されたが、かつての大島を見つけることが難しかった。
しかし、大島渚と聞けば、映画に目覚めていった映画青年だった時代、そして新宿のアート・シアターを喚起させる。彼は映画で社会に何かを投げかけていたし、映画で何かをやれると思わせる時代を走っていた。
大島渚は、フランスのJ・R・ゴダールとともに、僕の青春時代の日本のヌーベルバーグ、新しい波だった。
僕の学生時代、大島は映画監督の代名詞だった。1960年代から70年代にかけての政治の季節の真っ只中、ラディカルに社会的問題を映画を通して訴えかけたのが大島だった。
映画に娯楽以外のものを見つけるなんて考えてもみなかった九州の田舎から出てきた若者にとって、映画に社会的意味を見出すことは発見で驚きだった。そこに政治や社会を投影するということは、映画へのもう一つの入口を示されたようだった。
大島の映画に、僕らは意味を見出そうと努めた。この映画で、大島が言おうとしているのは、社会の矛盾と日本の貧困だ、などと僕らは大島の映画を見たあと薄暗い喫茶店で語り合った。
それは、大江健三郎の小説に意味を見つけようとして読んだのに似ている。
公開からずっと後だが、どこかの名画座で初めて見た大島渚の「青春残酷物語」(1960年作品、松竹)は鮮烈だった。どこかに希望を含んだ日活の青春映画とは違っていた。少し投げやりな桑野みゆきが大人で、手の届かない女性に見えた。
松竹から一方的に上映中止になっていた大島渚の「日本の夜と霧」(1960年)は、すでに伝説の映画となっていた。大学祭で上映すると聞いて、固唾を呑んで見たのだが、学生運動の全容がまだおぼろげだった僕には、映画そのものが霧の中のようであった。
大島の実質的なデビュー作の「愛と希望の街」(1959年)は、当初大島が考えていたタイトルどおり、「鳩を売る少年」の物語だが、過激的な側面は抑制されていて、まだ揺籃のようであった。
大島渚は、吉田喜重、篠田正浩などとともに松竹ヌーベルバーグの旗手と称せられた。吉田の「水で書かれた物語」(1965年)や、篠田の「涙を、獅子のたて髪に」(1962年)、「乾いた花」(1964年)は大好きな作品だけど、大島が自他共に認める時代のトップランナーであった。
松竹ヌーベルバーグの若き監督たちは、女優にもてた。大島は小山明子、吉田は岡田茉莉子、篠田は岩下志麻という、当時の第一線の美人女優と結婚し、僕たちを羨ましがらせた。
松竹を退社した後も大島渚は、同志で脚本にも参加した田村孟、石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏らで独立プロの映画製作会社「創造社」を造り、刺激的な作品を意欲的に発表していった。
「ユンボギの日記」(1965年)、「日本春歌考」(1967年)などの後、ATG(アート・シアター・ギルド)で、「絞死刑」(1968年)、「新宿泥棒日記」(1969年)、「少年」(1969年)など、大島の作品を見るたびに、僕たちは彼の映画を議論したものだった。
新宿のアート・シアターで見た「新宿泥棒日記」で、不思議な雰囲気を醸し出していた映画初主演の横山リエは、僕の友人が劇団青俳の研究生だったとき同僚だった。彼女は「遠雷」(1981年)でも個性的な存在感を示していた。
その後、新宿3丁目で妹とスナックをやっていたが、今はどうしているのだろう。
「夏の妹」(1972年)では、今でいうグラビア・アイドルだった栗田ひろみの魅力を引き出した。大島がこんな映画を作るとは。僕の好きな映画だ。
ハードコア・ポルノグラフィー表現として過激な性描写で話題となった「愛のコリーダ」(1976)以降、僕は大島の映画から関心が遠のいていった。
「戦場のメリークリスマス」(1983)は、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしと異色の組み合わせで世界的に評価されたが、かつての大島を見つけることが難しかった。
しかし、大島渚と聞けば、映画に目覚めていった映画青年だった時代、そして新宿のアート・シアターを喚起させる。彼は映画で社会に何かを投げかけていたし、映画で何かをやれると思わせる時代を走っていた。
大島渚は、フランスのJ・R・ゴダールとともに、僕の青春時代の日本のヌーベルバーグ、新しい波だった。