北国の春から初夏にかけての季節は凌ぎやすい。
東京から青森県の八戸(はちのへ)、弘前と来た北帰行は、大鰐温泉の宿となった。
次の日、大鰐温泉から北へ、津軽半島の根元にある太宰の古里、金木へ行くことにした。まず大鰐温泉から奥羽本線で川部に行き、川部から列車はスイッチバックして向きを変え、五能線で五所川原に向かった。
途中、緑の木々のリンゴ園が続く。
リンゴは「初恋」のイメージだ。
まだあげそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき……(島崎藤村)
列車はリンゴ園の中を進む。「リンゴ園の少女」は、今はいるのだろうか。左手の方に、リンゴ園の彼方に岩木山が見える。
全国に郷土富士なるものがある。形が富士山に似ているものから郷土で最も誇れる山まで様々だが、この岩手山も津軽富士の異名をとる。標高1625mで、青森県では最も高い。
岩手山は黒く、富士山より厳(いか)つい。
五所川原から津軽鉄道に乗り、金木に向かった。
津軽鉄道の電車はオレンジ色の車体で、車両の頭に、太宰の顔写真とともに「太宰治生誕百年」と書かれたプレートが張られている。やはり、ここまで来ると太宰一色だ。(写真)
可愛い一両編成なので、てっきりワンマンカーかと思っていたら、列車の中には津軽美人の車掌さんがいる。いや、車掌ではなく「奥津軽トレインアテンダント」と呼ぶらしい。このアテンダントが、観光客のガイドをしてくれるのだ。素朴で気さくでいい感じだ。もっと乗っていたいと思うのもつかの間、金木に着いた。
金木で降りると、太宰の生家に向かった。
太宰治の生家津島家はこの地域の大地主で、太宰の父は政治家でもありこの地一帯の実業家でもあった。
明治の末期に建てられた生家は和洋折衷で、当時としては贅を尽くした建物である。
しかし、この手の建物としては、佐賀・唐津にある炭鉱王、高取伊好が建てた邸には及ばない。とはいえ、何と言っても太宰の生家である。名前も作品からとって「斜陽館」。
斜陽館の前の津軽三味線会館では、津軽三味線の実演も行われていた。
金木の駅の食堂で、しじみラーメンを食べた。具にシジミの身がのっかっていて、確かに出汁はシジミの味がする。東京あたりにも出回っている、この北の十三湖で採れるシジミだろう。
*
再び金木から五所川原に戻った。
五所川原の駅に降りたつと、今ではどの地方の駅前もそうだが、閑散としていた。駅前の角に、不思議な雰囲気を持つ食堂がある。つげ義春のマンガに出てきそうな、何かいわくありげな食堂みたいで、どう見ても「平凡食堂」とあるが、平凡な感じがしない。
駅前から続く繁華街とおぼしきところを回って駅に戻り、リゾートしらかみに乗って五能線で秋田に向かうことにした。
五能線は、川部から五所川原を経て、日本海の沿岸を縫って東能代に行く路線である。リゾートしらかみは、青森あるいは弘前から東能代で奥羽本線と繋ぎ、秋田まで行く列車で、1日に3本通っている。
朝、大鰐温泉から金木に行くときに川部から五所川原を通ったので、五能線を完走することになる。
*
五所川原を15時12分に発ったリゾートしらかみ「くまげら」は、秋田に約19時に着く。
列車は、五所川原から木造駅に停まった。
木造(きづくり)というから、このあたりでは異色の林業の盛んな森林地帯と思っていたら、やはり田んぼの広がる平地の中の駅だった。
この木造を有名にしたのは、1982年、夏の高校野球での木造高校の甲子園出場だった。市部以外では初めての出場で、対戦相手の佐賀商業の新谷博(のちに西武ライオンズ入団)に、9回2アウトまで完全試合におさえられていた。最後の打者と思われたピンチヒッターがよもやのデッドボールで、夏の甲子園史上初の完全試合は幻となった(ノーヒットノーランは残った)。
木造から鰺ヶ沢で日本海沿岸に出た。ここから、千畳敷、深浦と海岸線を走る。途中、景色のいいところは車内アナウンスがあり、列車もゆっくり走るサービスだ。
十二湖の駅を通った。
津軽半島の金木の先にあるシジミの産地は十三湖である。こちらは1湖少ないが、ブナの林に囲まれた青い湖がきれいだという。
青森は、数字の名が多い。
岩手の北から一戸(いちのへ)、二戸、三戸ときて五、六、七、八戸とくる。四戸があるかどうか分からないが、九戸も岩手にあるらしい。
しかし、戸をなぜ「へ」と言うのだろう。この地方(南部)特有とも思えない。関西の神戸も濁っているが「へ」である。
数字関連でいえば、三沢の北には六ヶ所村がある。また、五所川原に八甲田、十和田である。
十二湖あたりから左に白神山地を眺めながら列車は南下する。
東能代でスイッチバックして、八郎潟(ここでも数字だ)を越えて秋田へ。八郎潟は、八郎湖を干拓してできたのだ。
*
秋田に着いたら、ちょうど日も暮れかかっていて、すぐにホテルを決め、荷物を置いて飲食店街の川反へ出た。
秋田に来たからには、郷土料理しょっつる鍋を食べないといけないと言って、以前秋田に来たとき行った郷土料理店へ入った。
季節柄、テーブルの上で鍋を煮るのはさすがに暑いので、鍋は厨房で調理し、煮たものが中鉢に入って出てきた。ハタハタは冬の魚なので、代わりに鯛がはいっている。
それに、漬け物を燻したいぶりガッコを肴に秋田の酒を飲んだ。
地元の人も巻き込んで、この秋田地方の明治以前の旧国名は何かということになった。出羽ではないし、何だろうと考えたが、店の人もなかなか出てこない。すったもんだと言い合って、やっと羽後が出てきた。
秋田は、食べて飲んで終わりだ。
次の日は、朝、新幹線で秋田を発って、岩手を経て東京へと帰る。
短い「北帰行」も終わりだ。
夢はむなしく消えて 今日も闇をさすらう……
東京から青森県の八戸(はちのへ)、弘前と来た北帰行は、大鰐温泉の宿となった。
次の日、大鰐温泉から北へ、津軽半島の根元にある太宰の古里、金木へ行くことにした。まず大鰐温泉から奥羽本線で川部に行き、川部から列車はスイッチバックして向きを変え、五能線で五所川原に向かった。
途中、緑の木々のリンゴ園が続く。
リンゴは「初恋」のイメージだ。
まだあげそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき……(島崎藤村)
列車はリンゴ園の中を進む。「リンゴ園の少女」は、今はいるのだろうか。左手の方に、リンゴ園の彼方に岩木山が見える。
全国に郷土富士なるものがある。形が富士山に似ているものから郷土で最も誇れる山まで様々だが、この岩手山も津軽富士の異名をとる。標高1625mで、青森県では最も高い。
岩手山は黒く、富士山より厳(いか)つい。
五所川原から津軽鉄道に乗り、金木に向かった。
津軽鉄道の電車はオレンジ色の車体で、車両の頭に、太宰の顔写真とともに「太宰治生誕百年」と書かれたプレートが張られている。やはり、ここまで来ると太宰一色だ。(写真)
可愛い一両編成なので、てっきりワンマンカーかと思っていたら、列車の中には津軽美人の車掌さんがいる。いや、車掌ではなく「奥津軽トレインアテンダント」と呼ぶらしい。このアテンダントが、観光客のガイドをしてくれるのだ。素朴で気さくでいい感じだ。もっと乗っていたいと思うのもつかの間、金木に着いた。
金木で降りると、太宰の生家に向かった。
太宰治の生家津島家はこの地域の大地主で、太宰の父は政治家でもありこの地一帯の実業家でもあった。
明治の末期に建てられた生家は和洋折衷で、当時としては贅を尽くした建物である。
しかし、この手の建物としては、佐賀・唐津にある炭鉱王、高取伊好が建てた邸には及ばない。とはいえ、何と言っても太宰の生家である。名前も作品からとって「斜陽館」。
斜陽館の前の津軽三味線会館では、津軽三味線の実演も行われていた。
金木の駅の食堂で、しじみラーメンを食べた。具にシジミの身がのっかっていて、確かに出汁はシジミの味がする。東京あたりにも出回っている、この北の十三湖で採れるシジミだろう。
*
再び金木から五所川原に戻った。
五所川原の駅に降りたつと、今ではどの地方の駅前もそうだが、閑散としていた。駅前の角に、不思議な雰囲気を持つ食堂がある。つげ義春のマンガに出てきそうな、何かいわくありげな食堂みたいで、どう見ても「平凡食堂」とあるが、平凡な感じがしない。
駅前から続く繁華街とおぼしきところを回って駅に戻り、リゾートしらかみに乗って五能線で秋田に向かうことにした。
五能線は、川部から五所川原を経て、日本海の沿岸を縫って東能代に行く路線である。リゾートしらかみは、青森あるいは弘前から東能代で奥羽本線と繋ぎ、秋田まで行く列車で、1日に3本通っている。
朝、大鰐温泉から金木に行くときに川部から五所川原を通ったので、五能線を完走することになる。
*
五所川原を15時12分に発ったリゾートしらかみ「くまげら」は、秋田に約19時に着く。
列車は、五所川原から木造駅に停まった。
木造(きづくり)というから、このあたりでは異色の林業の盛んな森林地帯と思っていたら、やはり田んぼの広がる平地の中の駅だった。
この木造を有名にしたのは、1982年、夏の高校野球での木造高校の甲子園出場だった。市部以外では初めての出場で、対戦相手の佐賀商業の新谷博(のちに西武ライオンズ入団)に、9回2アウトまで完全試合におさえられていた。最後の打者と思われたピンチヒッターがよもやのデッドボールで、夏の甲子園史上初の完全試合は幻となった(ノーヒットノーランは残った)。
木造から鰺ヶ沢で日本海沿岸に出た。ここから、千畳敷、深浦と海岸線を走る。途中、景色のいいところは車内アナウンスがあり、列車もゆっくり走るサービスだ。
十二湖の駅を通った。
津軽半島の金木の先にあるシジミの産地は十三湖である。こちらは1湖少ないが、ブナの林に囲まれた青い湖がきれいだという。
青森は、数字の名が多い。
岩手の北から一戸(いちのへ)、二戸、三戸ときて五、六、七、八戸とくる。四戸があるかどうか分からないが、九戸も岩手にあるらしい。
しかし、戸をなぜ「へ」と言うのだろう。この地方(南部)特有とも思えない。関西の神戸も濁っているが「へ」である。
数字関連でいえば、三沢の北には六ヶ所村がある。また、五所川原に八甲田、十和田である。
十二湖あたりから左に白神山地を眺めながら列車は南下する。
東能代でスイッチバックして、八郎潟(ここでも数字だ)を越えて秋田へ。八郎潟は、八郎湖を干拓してできたのだ。
*
秋田に着いたら、ちょうど日も暮れかかっていて、すぐにホテルを決め、荷物を置いて飲食店街の川反へ出た。
秋田に来たからには、郷土料理しょっつる鍋を食べないといけないと言って、以前秋田に来たとき行った郷土料理店へ入った。
季節柄、テーブルの上で鍋を煮るのはさすがに暑いので、鍋は厨房で調理し、煮たものが中鉢に入って出てきた。ハタハタは冬の魚なので、代わりに鯛がはいっている。
それに、漬け物を燻したいぶりガッコを肴に秋田の酒を飲んだ。
地元の人も巻き込んで、この秋田地方の明治以前の旧国名は何かということになった。出羽ではないし、何だろうと考えたが、店の人もなかなか出てこない。すったもんだと言い合って、やっと羽後が出てきた。
秋田は、食べて飲んで終わりだ。
次の日は、朝、新幹線で秋田を発って、岩手を経て東京へと帰る。
短い「北帰行」も終わりだ。
夢はむなしく消えて 今日も闇をさすらう……