かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

北帰行09② 青森~秋田

2009-07-04 01:37:14 | * 東北への旅
 北国の春から初夏にかけての季節は凌ぎやすい。
 東京から青森県の八戸(はちのへ)、弘前と来た北帰行は、大鰐温泉の宿となった。
 次の日、大鰐温泉から北へ、津軽半島の根元にある太宰の古里、金木へ行くことにした。まず大鰐温泉から奥羽本線で川部に行き、川部から列車はスイッチバックして向きを変え、五能線で五所川原に向かった。
 途中、緑の木々のリンゴ園が続く。
 リンゴは「初恋」のイメージだ。
 まだあげそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき……(島崎藤村)

 列車はリンゴ園の中を進む。「リンゴ園の少女」は、今はいるのだろうか。左手の方に、リンゴ園の彼方に岩木山が見える。
 全国に郷土富士なるものがある。形が富士山に似ているものから郷土で最も誇れる山まで様々だが、この岩手山も津軽富士の異名をとる。標高1625mで、青森県では最も高い。
 岩手山は黒く、富士山より厳(いか)つい。
 
 五所川原から津軽鉄道に乗り、金木に向かった。
 津軽鉄道の電車はオレンジ色の車体で、車両の頭に、太宰の顔写真とともに「太宰治生誕百年」と書かれたプレートが張られている。やはり、ここまで来ると太宰一色だ。(写真)
 可愛い一両編成なので、てっきりワンマンカーかと思っていたら、列車の中には津軽美人の車掌さんがいる。いや、車掌ではなく「奥津軽トレインアテンダント」と呼ぶらしい。このアテンダントが、観光客のガイドをしてくれるのだ。素朴で気さくでいい感じだ。もっと乗っていたいと思うのもつかの間、金木に着いた。
 金木で降りると、太宰の生家に向かった。
 太宰治の生家津島家はこの地域の大地主で、太宰の父は政治家でもありこの地一帯の実業家でもあった。
 明治の末期に建てられた生家は和洋折衷で、当時としては贅を尽くした建物である。
 しかし、この手の建物としては、佐賀・唐津にある炭鉱王、高取伊好が建てた邸には及ばない。とはいえ、何と言っても太宰の生家である。名前も作品からとって「斜陽館」。
 斜陽館の前の津軽三味線会館では、津軽三味線の実演も行われていた。
 金木の駅の食堂で、しじみラーメンを食べた。具にシジミの身がのっかっていて、確かに出汁はシジミの味がする。東京あたりにも出回っている、この北の十三湖で採れるシジミだろう。

 *

 再び金木から五所川原に戻った。
 五所川原の駅に降りたつと、今ではどの地方の駅前もそうだが、閑散としていた。駅前の角に、不思議な雰囲気を持つ食堂がある。つげ義春のマンガに出てきそうな、何かいわくありげな食堂みたいで、どう見ても「平凡食堂」とあるが、平凡な感じがしない。
 駅前から続く繁華街とおぼしきところを回って駅に戻り、リゾートしらかみに乗って五能線で秋田に向かうことにした。
 五能線は、川部から五所川原を経て、日本海の沿岸を縫って東能代に行く路線である。リゾートしらかみは、青森あるいは弘前から東能代で奥羽本線と繋ぎ、秋田まで行く列車で、1日に3本通っている。
 朝、大鰐温泉から金木に行くときに川部から五所川原を通ったので、五能線を完走することになる。

 *

 五所川原を15時12分に発ったリゾートしらかみ「くまげら」は、秋田に約19時に着く。
 列車は、五所川原から木造駅に停まった。
 木造(きづくり)というから、このあたりでは異色の林業の盛んな森林地帯と思っていたら、やはり田んぼの広がる平地の中の駅だった。
 この木造を有名にしたのは、1982年、夏の高校野球での木造高校の甲子園出場だった。市部以外では初めての出場で、対戦相手の佐賀商業の新谷博(のちに西武ライオンズ入団)に、9回2アウトまで完全試合におさえられていた。最後の打者と思われたピンチヒッターがよもやのデッドボールで、夏の甲子園史上初の完全試合は幻となった(ノーヒットノーランは残った)。
 木造から鰺ヶ沢で日本海沿岸に出た。ここから、千畳敷、深浦と海岸線を走る。途中、景色のいいところは車内アナウンスがあり、列車もゆっくり走るサービスだ。
 十二湖の駅を通った。
 津軽半島の金木の先にあるシジミの産地は十三湖である。こちらは1湖少ないが、ブナの林に囲まれた青い湖がきれいだという。
 青森は、数字の名が多い。
 岩手の北から一戸(いちのへ)、二戸、三戸ときて五、六、七、八戸とくる。四戸があるかどうか分からないが、九戸も岩手にあるらしい。
 しかし、戸をなぜ「へ」と言うのだろう。この地方(南部)特有とも思えない。関西の神戸も濁っているが「へ」である。
 数字関連でいえば、三沢の北には六ヶ所村がある。また、五所川原に八甲田、十和田である。

 十二湖あたりから左に白神山地を眺めながら列車は南下する。
 東能代でスイッチバックして、八郎潟(ここでも数字だ)を越えて秋田へ。八郎潟は、八郎湖を干拓してできたのだ。

 *

 秋田に着いたら、ちょうど日も暮れかかっていて、すぐにホテルを決め、荷物を置いて飲食店街の川反へ出た。
 秋田に来たからには、郷土料理しょっつる鍋を食べないといけないと言って、以前秋田に来たとき行った郷土料理店へ入った。
 季節柄、テーブルの上で鍋を煮るのはさすがに暑いので、鍋は厨房で調理し、煮たものが中鉢に入って出てきた。ハタハタは冬の魚なので、代わりに鯛がはいっている。
 それに、漬け物を燻したいぶりガッコを肴に秋田の酒を飲んだ。
 地元の人も巻き込んで、この秋田地方の明治以前の旧国名は何かということになった。出羽ではないし、何だろうと考えたが、店の人もなかなか出てこない。すったもんだと言い合って、やっと羽後が出てきた。
 秋田は、食べて飲んで終わりだ。

 次の日は、朝、新幹線で秋田を発って、岩手を経て東京へと帰る。
 短い「北帰行」も終わりだ。

 夢はむなしく消えて 今日も闇をさすらう……
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北帰行09① 青森

2009-06-22 15:59:50 | * 東北への旅
 ゆきずりの海外ひとり旅の本、「かりそめの旅」もようやく発刊にこぎつけた。
 そして、5年に1度、地元佐賀で行っていた高校の同窓会を初めて今年の6月に東京で行った。その幹事のまとめ役をやったが、それも何とか無事終えた。
 ほっとしたところで、田舎の同級生が、俺は福島より北に行ったことがないから、お前東北に連れて行けというので、北帰行となった。
 
 窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく……
 高校時代の友人と会えば、心は青春時代だ。
 とりあえず北へ向かおうと、青森までの切符を買って、朝、東京駅から東北新幹線「はやて」に飛び乗った。このような成り行き任せの旅は、僕のやり方だ。
 ところが東北新幹線は、なぜかいまだ八戸までである。八戸は太平洋岸の街で、青森まではまだかなりある。
 八戸から東北本線の在来線特急「つがる」に乗り換えて、その特急が弘前行きだったので、青森を通り過ぎて真っ直ぐ弘前へ行った。
 
 弘前に着いたときは既に午後3時だったが、その日は初夏のように暖かい。弘前駅を降りて、すぐに弘前城に向かった。
 弘前城の追手門のすぐ前に、市立図書館と郷土文学館があった。
 市立図書館は、1906(明治39)年建てられた西洋式木造建築で、両側に八角形の塔を構えるロマネスク様式だ。左右対称で、赤い屋根と白い壁、四角い窓のバランスもよく、建築物として美しい。(写真)
 その隣の郷土文学館では、郷土の文学者、太宰治と石坂洋次郎の特集を行っていた。
 特に太宰は生誕一〇〇年ということもあって、人気のようだ。
 両作家とも青春時代に読まれる作家だが、内容は両極である。
 太宰は「斜陽」「人間失格」に見られるように、決して前向きでなく暗鬱としている。一方、石坂は、「青い山脈」や「若い人」「陽のあたる坂道」に見られるように、前向きに明るい。
 
 もともと青春時代は暗いものだ。将来の見えない自分をどう処していいか分からずに、内向するのが常だ。だから、高校時代、太宰の陰鬱さには辟易とした。切り傷に塩を塗るように、読めばますます心は痛み、後ろ向きになる。
 それに比べて、石坂文学は屈託なく明るい。その石坂文学は、先にあげた作品以外にも、「赤い蕾と白い花」「草を刈る娘」など次々と映画化され、演じた吉永小百合や和泉雅子の溌剌とした姿が、田舎の高校生には眩しかった。
 青春文学の象徴だった石坂文学だが、いまでは文庫からすっかり消えている。それに比し、殆ど映画化すらされなかった太宰文学が長く読み継がれ、6月19日の命日には桜桃忌などと毎年紙面を賑わす。いま、誰が石坂洋次郎の命日を知ろうか。

 弘前城に入ると公園になっていて、葉桜の弘前城だった。
 外堀、内堀、中堀と堀がめぐらされ、広い城内だ。三層と低くて小さいが、立派に天守もある。江戸時代に建てられた天守としては、東北地方では唯一現存しているものだ。
 春には、桜が一面に咲きほころぶ。

 弘前城をあとにして、武家屋敷跡を歩いて、弘前駅に向かった。
 弘前から南下し、大鰐温泉に向かった。
 森林に囲まれた内陸部なのに、なぜ鰐なのかという疑問が浮かぶ。
 もともとは、大阿弥(おおあみ)、つまり大きな阿弥陀が由来のようだ。それが王仁(わに)に繋がったのかもしれない。
 それに、かつて大鰐は、私たちが理解するアリゲーターの鰐ではなく、大きな山椒魚を表わした。この地に大山椒魚が生息していたのだろう。それに、アイヌ語で大姉、つまり姉(あね)は、森林に囲まれた谷間を意味するそうだ。
 あれやこれやで、大鰐とあいなった。
 大鰐温泉は、鄙びた温泉町だった。
 貸し切りとなった古い温泉宿で、出てきた料理は予想していた山菜料理ではなく、海鮮料理である。新鮮なホヤやウニのほか、マグロや鯛の刺身もある。食い過ぎ、少し飲み過ぎてしまったようだ。
 飲んだあとの風呂(温泉)はいけないのだが。
 大鰐温泉のお湯は、源泉の温度が高いのだろう、湯は熱く、癖のない無味・無臭だった。

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北帰行④ 山形

2007-10-30 21:01:52 | * 東北への旅
 日本は、山に覆われた国である。
 であるから、昔から人々は山に対してある特別な思いを抱いてきた。身近にある小さな山から、遠くに聳える高い山まで、各地での山に対する思いは現在より遥かに深く人々の精神に根付いたものだった。
 それらの思いは、生活の糧をもたらす親しみの感であったり、遠いところ、高いところ、奇形なものなどに対する畏敬の念であったりした。やがて、それらの思いは信仰に昇華し、各地で山の神として祭られ、拝められてきた。
 地名にしても、日本には山にまつわるところが多い。山形もその典型である。
 そもそも、古代の日本を表わす呼称は「大和」(やまと)である。これは、「山門」から由来し、山に神が宿る自然信仰、山岳信仰から来たという解釈もあるほどだ。

 10月21日、山形・天童温泉より山寺に向かった。
 山寺は宝珠山立石寺の通称で、岩山に建てられた修行場の霊山である。芭蕉が、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と謳って有名なところだ。
 JR山寺の駅前から川を隔てて前面を見上げると、こんもりとした山が見える。山の間のあちこちに岩がむき出しになっていて、そこに堂が建っていたり、石の階段が斜めに走っていたりして、山寺の全貌が見える。山はさほど高くはないが、奥の院まではかなりの急な傾斜だということがわかる。
 登山口まで来ると、子どもから杖をついたお年寄りまで、ここへ来たすべての人が石段を登り始める。なかには、赤ん坊を抱いた人までいる。山寺に来たからには、その頂まで登らないと気が済まないと言う人が殆どであろう。
 登り始めると、年のせいかやはりきつい。途中に幾つもの山堂、休憩所、展望台などがあるので、休めるようになっているのが有り難い。
 全階段、千余段。昔は、この山寺の比ではない香川・金刀比羅宮の階段を難なく登ったのにと、悔しい溜息をついた。
 奥の院、それより横に広がる五大堂からは、ふもとの里や遠くの山々が見渡せる。

 山寺をあとに、山形市内に行った。
 山形市は、JR山形駅の東側に主な公共施設や建物が集中している。山形城跡の霞城公園を見たあと、文翔館へ。
 市役所の前の道に沿って、瀟洒な建物が二つ並んでいる。
 大正5年に建てられた、旧山形市県庁舎の白いレンガ造りと県会議事堂の赤いレンガ造りで、修復作業を終え、今なお郷土館として市民に様々に活用されている。
 対のように並んで建っている、イギリス・ルネサンス様式の瀟洒な建物のこの空間は、広い庭を持っていて、特別の雰囲気が漂っている。
 この日、洋風と和風の2組の結婚式が行われていた。

 昼食は、山形牛(ステーキ)を食べてみた。目の前で肉を焼いてくれたシェフに有名な米沢牛との違いを訊いて、黒毛和牛の等級の違いであると知った。5階級あり、米沢牛は上位A4、5を言い、山形牛はA3~1とのことであった。
 牛も人間も、階級や偏差値で分類される時代になっている。

 夕方、山形新幹線「つばさ」で帰京。
 新幹線といっても、座席は左右各2席で、在来線と同じ車幅である。
 山形から米沢を経て、福島にいたるところは、かつてスイッチバックで列車を登らせた傾斜の強いところである。途中在来線の駅があるが、周囲は森林で人が住んでいるのだろうかと思わせる山間を列車は走る。
 福島を通ると右手(西側)に安達太良高原、さらに進んでいくと那須高原の山々が、空になだらかな稜線を描く。夕日がうっすらと赤く雲を染めた。
 宇都宮に着いた頃は、すっかり日が落ちていた。列車は、その先から一旦地下に潜り、上野の先の西日暮里あたりで再び地上に現れ東京駅に滑り込む。
 北帰行の旅は終わった。
 山形から2時間50分で東京着。北の旅も短くなったものである。
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北帰行③ 岩手・遠野

2007-10-27 18:37:16 | * 東北への旅
 今のようにメディアが発達していない時代、言葉や情報は、文化の中心地から周辺へ円を描くように広がっていった。それは、石を水に投げると水輪が円を描いて次第に遠く広がるようなものであった。近代以前の交通機関がない時代は、それは地を這うようにしか進まなかった。
 だから、古い言葉である方言は、都(京都もしくは江戸)から離れた北と南に多く残っている。
 これは、民俗学者の柳田国男の論である。
 これと同じく、古い民話は都から遠く離れたところに残存していたのだ。岩手の山間の村、遠野がそうだったように。

 10月20日、岩手・花巻の大沢温泉から遠野に向かった。
 言うまでもなく柳田国男が採集記録して有名になった民話の里である。
 花巻から日本海・陸中海岸の釜石に向かう鉄道釜石線に沿って道は延びている。なだらかな山間を道は進む。遠野近くになると、進む前方にも山がある。振り返れば、四方が山だ。伸びやかだけれども、山に囲まれると少し閉塞感がある。山の向こうも山なのだ。
 鉄道が走る以前は、陸の孤島だったのだろう。だからここでは、消えずに語り伝えの民話が残ったのだ。

 途中、この地の特色である南部曲り屋を今なお伝えるという千葉家に寄った。鍵型に曲がった造りが特徴の茅葺きの民家である。
 それは道の脇の高段に、石垣を設えて敢然と聳えていた。平屋なのに、下の道路から見上げるとまるで中世以前の城(砦)のようである。
 しかし上に登ってみると、大きな造りであるが、厩や農具入れの小屋もある普通の農家であった。かつてのこの地の豪農の家で、約二百年近く前に建てられ、それにまだ現役の住居であった。
 裏庭には、奥から水を引いてきた、石で造られた今で言う洗面所や洗濯場がある。

 千葉家の案内所(窓口)の女の子の勧めで、「遠野ふるさと村」に行った。
 曲り屋をはじめ、この地の古い民家を集めた公園である。朝ドラ「どんと晴れ」のロケ地になったということで人気らしい。テレビの力は大きい。
 古い民家の土間の真ん中に、大きな土釜があり湯気を立てている。風呂だろうかと思ったが人が入るには少し窮屈だし、場所が場所である。聞いてみると、ここで水を沸かして、飲み水や洗い水など様々な用途に使ったという。

 「遠野ふるさと村」から町の中心部に行く途中に「カッパ渕」があった。カッパがよく出没したところらしい。こんな寂しい川にカッパは出たのであろう。
 どの地方にもこんな川があるし、こんな話は伝わっているが、今は川もコンクリートできれいになり、カッパや妖怪の話も消えつつあるのだろう。

 町の中心部にある「遠野博物館」に行った。ここでは、柳田国男の「遠野物語」に関する資料が展示してある。また、スライドで絵を見せながら、遠野の民話の語りをやっている。
 そこで、この地の民話を何話か聞いたが、「おしらさま」の話は少し衝撃的だった。それが蚕のことだとは知っていたが、その物語の内容については知らなかったのだ。

 簡単に「おしらさま」の粗筋を記すと、次のようである。
 この地に可愛い娘がいた。その娘は飼っている馬が大好きで、親(父)が勧める縁談に耳も貸さずにいつも馬と一緒にいた。そして、ついに馬と一緒に寝るようになった。心配した親がそこを覗いてみると、娘と馬は抱き合っていた(夫婦になった)。
 驚いた親は、次の日娘がいないとき馬を連れ出し桑の木に吊して殺してしまった。馬を探した娘は死んでいるのを見つけると、馬と一緒に天に昇っていった。
 そしてしばらくたった日、娘は親に白い虫を授け、桑の葉を与えるように告げた。養蚕の初めである。
 「おしらさま」の話は、馬と娘の人獣愛の話であった。一緒に寝ているところは、娘と馬は夫婦になったと語られている。つまり、異類婚姻譚である。
 子どもは、この話をどんな思いで聞いているのだろう。

 異類婚の話は、他にも全国にいくつかある。
 その中でも、中国の「白蛇伝」は有名である。上田秋成は「雨月物語」で「蛇性の婬」として物語化した。
 しかし、総じて動物が女性に姿を変えて、人間(男)と関係を結ぶ話である。
 それは動物とは限らず妖怪である場合もある。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の再録した「怪談」の「雪女」はその例であろう。
 ところが、この「おしらさま」のように、そのままの姿(動物)で性愛する、つまり夫婦になるというのは珍しいのではなかろうか。
 有名な浦島太郎の話は、浮かれた相手は竜宮城の乙姫様である。しかし本当は、つまり元の話では、相手は亀であり、明治以降子どもの話にするため倫理上、今の話に作り替えたという。

 「おしらさま」が、変形することなく馬と娘の関係として残ったのは、「浦島太郎」の話のように地方から環流して再び町に戻ることなく、つまり全国区になることなく、地方に埋もれていたからであろう。
 しかし、疑問はまだ残る。
 なぜ桑の木に馬を吊したのか。桑の木はそう大きくなく枝はしなり、馬を吊すほど強くない。
 となると、まず馬と娘の愛の話があり、それをその地方の特産であった蚕の話に結びつけるための苦肉の策ではなかったのかと思うのである。
 「鶴の恩返し」のように、悲劇に終わらせた代わりに、何か見返りの話が必要であった。米以外の価値のあるものと言えば、当時は布、それも絹であったのだろう。それ故、蚕が食する桑の木にせざるをえなかったのではなかろうか。
 
 夕方、遠野から山形へ向かった。雨の予報であったが、雲はあるものの幸運にも雨は降らなかった。(写真)
 夜は将棋の駒で有名な山形・天童温泉泊。
 天童は、山形市の北にあるこぢんまりとまとまった街だ。天童温泉街と言っても鄙びた感じはなく、街の一角に旅館やホテルが集まっているのである。ここの利点と言えば、山形市にも山寺に行くにも、近くて便利だということだろう。
 「栄屋ホテル」では、高層階に露天風呂があり、ここから天童の街が一望できる。
 夜食時は、ホテルのダイニング処で、やはり杯を傾けることに。メニューの献立に、予想していなかったのに、牛(山形牛)のしゃぶしゃぶが出た。
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北帰行② 岩手・平泉

2007-10-25 18:16:48 | * 東北への旅
 北へ。
 北へ帰るのは渡り鳥だけだろうか。
 なぜか北へ向かうと、身も心も引き締まるような気がする。特に、これから寒さが厳しくなる秋の季節となるとなおさらである。さらに冬の北国となると、辛くじっと堪える印象となる。
 逆に南に向かうと、身も心も弛緩するような気がする。南に行くと、抱えている様々な問題も何とかなるという気持ちにすらなる。それは、問題を解決するというのではなく、おそらく放置すると言った方がいいかもしれない。
 自戒し、何か決断を要するときは、北へ行くがいい。
 悩み行き詰まったら、南に行くがいい。

 10月19日、宮城・川渡(かわたび)温泉から北に向かい、岩手・平泉の東にある猊鼻渓(げいびけい)を目指した。
 つい最近、朝日新聞の「川下りベスト10」に入っていたのが強く残っていたので、川下りをやってみることにしたのだ。

 道の途中、リンゴが実をつけていたのを見つけた。
 リンゴが木になっているのを初めて見たのは、大学1年の時だった。その年の冬、同級生の長野の実家に行った時、雪の積もった土の上に鈴なりになった赤いリンゴを見て感動した。それまでは、リンゴと言えば八百屋で並んでいるのを見るのみだったからだ。

 猊鼻渓に着くと、船が留っていて、法被を着た船頭が船の上で客が乗るのを眺めながら立っていた。船は、順次客を乗せては出発した。1艘に30人近くも乗せる満杯の盛況だ。
 これがイタリア・ヴェネチアなら、流線型のゴンドラで、ボーダー柄のティーシャツにテンガロンハットを被った粋なお兄ちゃんが、首に巻いたネッカチーフをなびかせているところだ。そして、観光客を見ては「どうだい、ゴンドラに乗らないかい」とウインクでもしてくるだろう。 
 北上川の流れは緩やかで、川上に向かって船は動き出した。すぐに、大きな岩が近づいてきた。ここは川を囲む岩壁が売り物である。
 しかし、下北半島の仏ヶ浦や宮崎の高千穂峡の屹立した岩の景観には及ばない。
 船の着いたところで、客はいったん船を下りて歩くことになる。歩いた先に何があるかというと、そこに、岩壁の中程に丸く突起した岩を見ることになる。それが、「獅子の鼻」というもので、この猊鼻渓の謂われの岩だと説明書きがある。言われてみれば、の岩である。
 帰りは、船頭の舟歌を聴かされた。前の船からも歌が遠くこだまする。悪くはない。
 こうして、90分の川下りは終わる。

 猊鼻渓から平泉の中尊寺は、すぐの距離である。
 中尊寺は、緑のなかに長い参道があり、その途中に幾つもの堂や屋敷があった。鎌倉の鶴岡八幡宮をもっと古式にした感じである。この陸奥(みちのく)では、周りの環境も鎌倉より変造されることなく、より原型に近く残ったのだろう。
 中尊寺は、ゆったりとした空気が流れていた。何と言ってもここの見ものは、金色堂である。建物は、金色の堂をさらに頑強な堂で覆うという二重構造になっている。(写真)
 12世紀のこの時代、都より遠く離れた辺鄙な地に、突然このような壮麗な文化が栄えたというのは興味深いことである。しかし、藤原4代であっけなく消滅している。その後、この地が栄えることはなかった。
 金の産出がこの地に繁栄をもたらし、金の枯渇が繁栄を終焉に導いたのは疑いない。
 
 以前から、なぜ藤原氏がこの地にいたのかと疑問に思っていた。元はこの地の豪族の安倍氏の系列が、当時ブランド名であった藤原名を清衡が名乗ったのが真相のようである。
 源頼義(河内源氏2代目)によると、安倍氏は、もともとは朝廷に従った蝦夷(えみし)の俘囚長とある。つまり、源氏や平氏と同じく、荘園を土台にした揺籃期の武士である。
 さらに興味深いのは、磐井・気仙郡を中心にした豪族に、金(こん)氏の名を見つけることができる。この金氏も、安倍氏の系列であり、古代朝鮮半島の新羅の同族ではなく、この地で産出された金に関しての名であろう。

 高舘義経堂からは、北上川から流れる衣川の河川が見渡せる。ここは、武士の台頭期の前九年、後三年の役の戦場の舞台跡だ。
 芭蕉は、ここで、「夏草や 兵(つわもの)共が 夢の跡」と謳った。

 中尊寺の近くにある毛越(もうつう)寺は、歴史は中尊寺より古い。
 広い寺の構内には、中央に広い池が設えてあり中島もある。この寺も、藤原氏の繁栄と共に栄え、平安時代には貴族の遊技も行われたという。
 盛者必衰の理(ことわり)が頭をよぎる。

 夜は、花巻の北にある大沢温泉に行った。
 新しい山水閣の奥に自炊部があり、その奥の川を隔てたところに建つ古い菊水館に泊まった。こちらが料金も安いし、いかにも温泉旅館らしい。
 各館をあわせると5つの風呂があり、その中に川に接して露天の混浴風呂もある。経営が同じなので、どの風呂にも入れるのがいい。
 スリッパを履いて、各館の風呂を求めて渡り廊下を歩いていると、まるで迷路のようだ。

 秋の温泉は、北がいい。
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