かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

エマニュエル・トッド……が示す、「人類の終着点」

2024-06-29 01:26:56 | 本/小説:外国
 *世界はどこへ向かっているのか?

 現在、世界がどう動き、どうなるのかは予測がつかない。
 予期せぬパンデミック(世界的感染症流行)が終息したかと思うと、ロシアのウクライナ侵攻、それにイスラエルとパレスチナ・ハマスとの戦闘状態は終息の目途を見ない。
 今まで世界をリードしてきたアメリカは、明らかにかつての強い影響力を失くしていて、前大統領トランプの出現以来、米国民の分断はより深くなっているようだ。
 ヨーロッパも、イギリスの離脱(ブレグジット)があったにせよ、EU(欧州連合)の旗のもと、国による思惑の違いを踏まえて曲がりなりにもより良い方向・世界へと連動していたはずだった。しかし、このところ各国の動きがおかしい。
 世界は、今までとは違った方向へ動いているように感じる。それは、あたかも地球の地盤が少しずつずれて地殻変動を起こすときのように。

 6月9日夜、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は欧州議会選挙でマリーヌ・ル・ペン氏率いる極右政党「国民連合」が同国で大勝する見通しとなったことを受け、議会下院を解散し総選挙を実施すると発表した。
 フランスに限らず欧州では右翼、右派政党が伸長しており、これらの勢力はEUの理念である欧州統合に疑問を投げかけ自国第一主義を唱えて、ウクライナの支援には消極的なのが特徴である。
 パリ・オリンピックを前にして総選挙を強行するという事態に、フランス現実の不透明感と焦燥を感じさせる。
 6月16日には、ロシアの全面侵攻を受けるウクライナの和平の道筋を協議する「平和サミット」が、100カ国・機関が参加してスイスでの2日間の日程を終え「共同声明」を採択し、閉幕した。
 中国が欠席したなかで、国連憲章と国際法を順守する必要性を強調したが、一部の国は同意しなかった。共同声明は幅広い支持を得るために意見が分かれる問題が一部排除されたにもかかわらず、グローバルサウスと呼ばれるインド、インドネシア、南アフリカ、サウジアラビアやBRICSを構成する国々が署名を見送った。
 ウクライナを一方的に侵略するロシアを、世界は悪者国家とみなし嫌われていると思い込んでいたが、そうとばかり言いきれないという世界状況が現れてきた。
 ここのところの世界の動きは、あるべき姿を見失ったかのようである。いや、各国が内向きの視線になっているようである。

 *「人類の終着点―戦争、AI、ヒューマニティの未来」

 このような複雑な世界情勢のさなか、「人類の終着点―戦争、AI、ヒューマニティの未来」(朝日新書)を読んだ。
 本書の主な発言は、エマニュエル・トッド、フランシス・フクヤマ、マルクス・ガブリエルの現代の知の巨匠ともいえる思想家、経済学者、哲学者である。
 私は、トッドの「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春新書、2022年)を読んで以来、彼の発言、著作に注意を払ってきた。
 ※ブログ→「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-9-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a

 本書「人類の終着点」の発売が2024年2月であるから、当然彼らの発言はそれ以前のことである。それを踏まえて読むと、「自らを自由民主主義の価値観の旗手だと考える西側諸国は完全に時代遅れだ」「アメリカのさらなる悪化に備えなければならない」と説くトッド氏の発言は、近未来を的確に見つめていると思わせる。
 トッドはこう言う。
 「当然ながら、戦争はロシアの侵攻によって始まりましたので、人々は「ロシアは悪者」「ウクライナ人は善人」と考える傾向を持っています。しかし、私が基本的に関心を持っているのは、経済的な観点から見た「現実への落とし込み」です」
 そのうえで、戦争が長引く現況を読み解く。
 圧倒的な経済力を持っていると思われた西側諸国による経済制裁によって、ロシアへの経済打撃は相当重いものでロシアがたちまち疲弊するであろうと、アメリカをはじめとする西側諸国は予想していた。が、最初の想定・想像とはかけ離れていたことは現状を見ると明らかで、そのことを数字をあげて解いていく。
 長引く戦争の疲弊や焦燥は、西側諸国の行動に表れ始めているのだ。そのことを、西側諸国以外の国々が冷静に見ているのだ。

 エマニュエル・トッドはフランス人である。そして、イギリス(ケンブリッジ大学)でも学んでもいる。その西洋人の視点からの発言として、「西洋人が今気づいたことは「西洋は、私たちが思っていたほど好かれていない」という事実です」と述べる。
 このことは、先にあげたウクライナ「平和サミット」における、グローバルサウスやBRICSの行動に見てとれる。

 それを踏まえて、驚くべきことだがここ数年、「世界中の人々はアメリカを嫌っている」ということが、少しずつ見えてきた。もっと一般的に言うと、西側のネガティブな動きを考慮すれば、ウクライナ戦争とは関係なく、アメリカのさらなる悪化に備えなければならないと、アメリカの動向を憂う。
 そして、アメリカの現状を語る。
 「現在のアメリカは、不平等の国です。1980年代以降、経済的不平等が増大し、世界史上、他に例を見ないほどです。2010年以降も経済格差は悪化していき、その格差は、平均寿命の差にまで転化されました。アメリカでは死亡率が上昇していないのに、です。
 つまり、アメリカにおける大規模な社会的・経済的後退は、アメリカを歴史上の何か別のものに変えてしまいました。今のアメリカはもはや、1950年代、60年代、あるいは70年代に、私たちが愛したアメリカではありません。不平等が広がり、自由民主主義が変容した結果、私が「リベラルな寡頭制」と呼ぶものに、アメリカは変わってしまいました。」
 ※寡頭制とは、国を支配する権力が少数の人や政党に握られる政治体制のことである。

 *世界の民主主義は機能しているのか?

 エマニュエル・トッドは言う。
 「西側諸国は自らを「世界における自由民主主義の価値観の旗手」だと考えているけれども、それは完全に時代遅れだということです。
 欧米はもはや民主主義の代表ではなく、少数の人や少数の集団に支配された、単なる寡頭政治になってしまったのです。
 西側諸国の民主主義は、機能不全どころか、消滅しつつあります。ヨーロッパの共同体(EU)に関しては、もはや完全に寡頭制です。一部の国が他国より強く、一部の国には力がない。ドイツがトップにいて、フランスが下士官、その一方でギリシャは存在感がないといった具合のグローバルシステムです。
 ウクライナ戦争も同様です。ヨーロッパは民主主義の価値のために戦っているふりをしているだけで、これは完全な妄想です。そして驚くべきことに、私たちはそれに気づいていません。自分たちの国について話すときには、「民主主義の危機を抱えている」と言っているにもかかわらず。」

 では、問われている「民主主義」とは何なのか?
 民主主義(democracy)とは、直接的あるいは間接的に人民(people)によって決定される統治システムである。
 古代ギリシャの都市国家で行われたのが最初といわれており、英語のdemocracy(デモクラシー)は、古代ギリシャ語の「人民」と「権力」を合わせた言葉(dēmokratía、デーモクラティアー)に由来する。
 要は、現代の民主主義国家では国民が主権者となって政治を行なう形態のことである。人々は選挙権を行使して自らの代行者を選び、選ばれた代行者は人々の意思を代行して権力を行使する。
 つまり、選挙で代表を選ぶのが民主主義であるなら、今ほど民主主義が広まった時代はないだろう。
 ロシア・ウクライナ侵略戦争に関して、民主主義対権威主義の戦いと称されてきたが、民主主義の意味合いからすれば、ロシアも民主主義国家なのである。

 現代の民主主義という政治制度は資本主義という経済制度に密接に結び付いている。
 資本主義の特徴である市場経済は、豊かさ(利潤)を求めるがゆえに格差と貧困を生み出し、民主主義そのものをも揺るがしかねない構造となっている。
 現代は、民主主義に対する失望感が増大し、民主主義そのものが問われている。それにもかかわらず、人々はその解答を見出してはいない。

 かのイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは名言を残している。
 「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」

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西洋の没落「トッド人類史入門」

2023-10-14 03:16:49 | 本/小説:外国
 混迷する国際情勢に関する新聞・雑誌等の発言・発信において、近年頻繁に目にするフランス人の歴史・人類学者のエマニュエル・トッドである。
 彼の去年(2022年)発表した「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春新書)は、日本における西洋民主主義社会の感覚で培養された、それまでトッドを知らない私には衝撃的で新鮮であった。
 その本については、以下のブログに記した。

 ブログ「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-09-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a
 ロシアのウクライナ侵攻の戦争はなぜ始まったのか、その背景・根底にあるのは何かを、著者のエマニュエル・トッドが独自の説で論じている瞠目の書である。
 彼は「西側メディアから情報を得ているヨーロッパ人」という立場から話をしているとしたうえで、「本来、簡単に避けられたウクライナ戦争の原因と責任はプーチンではなく米国とNATOにある」と主張する。

 この書以来エマニュエル・トッドは、今、最も気になる現代の知識人の一人となった。

 *今、我々はどこまで来たのか? Où en sommes-nous ?

 「トッド人類史入門」(文春新書)は、「西洋の没落」という副題がついている。
 本書は、人類史を俯瞰しながら世界の社会情勢を、今までにない価値観である家族形態で解明しようとするトッドの主著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文芸春秋)を、「第三次世界大戦はもう始まっている」をふまえて、片山杜秀(思想史研究者・慶應義塾大学教授)と佐藤優(作家・元外務省主任分析官)が分かりやすく解説したトッド入門・案内書といえるものである。

 「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」の原書であるフランス語のタイトルは、「 Où en sommes-nous ? Une esquisse de l'histoire humaine」で、日本語に訳すれば、「私たちはどこまで来たのか? 人類の歴史の概略」ということである。
 この本の表紙の装丁の絵でわかるように、この題名がゴーギャンの有名な絵の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」( D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)に拠るものであることは言うまでもない。

 この本は、「21世紀の人文書の古典だ」(佐藤優氏)、「読めば読むほど味わい深い」(片山杜秀氏)と2氏とも高評価の書だが、日本語版は上下巻2冊という厚量もあって、私はいまだダイジェストでしか読んでいない。

 *ロシアと欧米の現状を探る、「トッド人類史入門」

 「トッド人類史入門」は、先に述べたようにエマニュエル・トッドの主著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」を根幹として、現代のロシアのウクライナ侵攻に及ぶ世界情勢を、トッド、片山杜秀、佐藤優が論じたものである。
 この本でトッドの基本的な思想・主張を紹介した後、まず佐藤優が、日本ではあまり知られていないロシアでの会議でのプーチンの発言について述べる。
 「2022年10月27日、モスクワ郊外で開催されたヴァルダイ会議で、ロシアのプーチン大統領が1時間の演説を行い、その後、3時間以上にわたる討論に参加しました」
 トッドは、佐藤が会議の内容文を読んだことへの驚きと敬意を表しつつ、こう述べている。
 「私もヴァルダイでのプーチーチン演説に注目していて、その内容に共感するものがあったからです。少なくとも「プーチンは狂っている」と繰り返すだけの西側メディアは、まずはこのテキストをきちんと読むべきだと思います」
 そして、会議でのプーチンの演説の主要部分を、佐藤の訳文によって以下のように紹介されている。
 「今起きていることは、例えばウクライナも含めて、ロシアの特別軍事作戦が始まってからの変化ではありません。これらの変化はすべて、何年も長い間、続いています。(略)これは世界秩序全体の地殻変動なのです。」
 「今、世界情勢における西洋の独壇場は終わりを告げ、一極集中の世界は過去のものになりつつあります。私たちは、第2次世界大戦後、おそらく最も危険で予測不可能な、しかし重要な10年を前にして、歴史の分岐点に立っているのです」

 「今日の世界の問題は、「非西洋」ではなく「西洋」にこそある、とトッド氏は言っている」(片山)。
 「西洋社会では不平等が広がり、新自由主義によって貧困化が進み、未来に対する合理的な希望を人々が持てなくなり、社会が目標を失っています。この戦争は、実は西洋社会が虚無の状態から抜け出すための戦争で、ヨーロッパ社会に存在意義を与えるために、この戦争が歪んだ形で使われてしまったのではないか、と思われてくるのです。ひょっとすると、この戦争は“問題”などではなく、方向を見失った西洋社会にとって、一つの“悪しき解決策”なのかもしれません」(「第三次世界大戦はもう始まっている」より)

 *アメリカとヨーロッパの違い

 「トッド人類史入門」では、ロシアをはじめアメリカ、イギリスなど、世界を双方の価値観で見ようとする。
 エマニュエル・トッドに引き続いて、それに付随する形で佐藤優はアメリカに関して興味深いユニークな解釈を述べている。
 「アメリカが「浪費経済」なのも、「広い」からです」(佐藤)。
 「自然志願への依存性が大きいことは、米国経済の元々からの特徴である」(トッド)。
 「そうした「アメリカ人の原始性」を別の言い方で表現すれば、「一八世紀の感性で二一世紀まで生きている国だ」と言えるでしょう。第二次世界大戦中にプリンストン大学で教えていたヨゼフ・ルクル・フロマートカというチェコの神学者が自伝のなかで、{ロマン主義を理解できないのがアメリカ人だ}と言っています。一九世紀に「啓蒙主義」に対する「ロマン主義的な反動」を経験したのがヨーロッパ人ですが、アメリカには、そのプロセスがすっぽりと抜け落ちている。だから「これはどんな得になるの?」「これはいくらの金になるの?」といった剥き出しの実用主義になってしまう」(佐藤)。
 アメリカにおけるロマン主義の欠如という着眼点に、なるほどとロマン主義なるものを紐解いてみた。ヨーロッパとアメリカの違いは明確だが繊細だ。

 *エマニュエル・トッドとは?

 「第三次世界大戦はもう始まっている」は、トッドの本国フランスではなく、2022年、日本の「文芸春秋」誌で発表、そして発売された。
 「まずは、私の好きな国で理解者の多くいる国である日本からアドバルンをあげたのです。日本はフランスから距離がありますから。私は、フランスではいろいろ言われていますから」といったことを述べている。
 この本の最後に、フランス誌「フィガロ」(2023.1.12)に掲載された氏への忌憚のない紹介文も掲載している。
「ある人にとっては「お騒がせでスキャンダラスな思想家」、ある人にとっては「先見性のある知識人」、彼自身の言葉を借りれば「反逆的な破壊者」であるエマニュエル・トッドは、人々の関心を掻き立てずにはいられない」

 エマニュエル・トッドは、独自の人類史観を通して、世界情勢を解明し予想する。


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今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?

2022-09-22 00:32:48 | 本/小説:外国
 コロナによるパンデミックがいまだ収まらないのに加え、今年2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり戦争が勃発した。
 この戦争は当初の大方の予想とは違い、長期化の様相を呈している。
 そんな時、新聞の書籍広告で「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春新書、訳:大野舞)との見出しが目に入った。センセーショナルなタイトルだ。
 著者は、フランスの歴史人口学者、家族人類学者であるエマニュエル・トッド。彼の最初の書である「最後の転落」(1976年)でのソ連崩壊をはじめ、トランプ勝利、英国EU離脱など、幾多の〝予言"をした人である。
 本書は、ロシアのウクライナ侵攻の戦争はなぜ始まったのか、その背景・根底にあるのは何かを著者独自の説で論じている。

 トッドは、「西側メディアから情報を得ているヨーロッパ人」という立場から話をしているとしたうえで、国際政治学者ジョン・ミアシャイマーの指摘に基づいて、「本来、簡単に避けられたウクライナ戦争の原因と責任はプーチンではなく米国とNATOにある」と主張する。
 そして、ウクライナは正式にはNATOに加盟していないが事実上NATO加盟国だったとし、ウクライナを武装化したのは米国と英国だとする。
 ウクライナ問題は、元来はソ連崩壊後の国境の修正という「ローカルな問題」であったのだが、「グローバルな問題」でもあるという。それは、地政学的思考者ズビグネフ・ブレジンスキーの言葉を借りて「ウクライナなしではロシアは帝国になれない」という説に基づき、ロシアの目的行動を阻止するために、アメリカはウクライナを武装援助したという。
 行きつくところ、ロシアの弱体化を狙った超大国を堅持したいアメリカの思惑と狙いということである。
 著者は、そこにおけるイギリス、フランス、ドイツの立場と思惑と行動も鋭く追及している。

 *世界を家族構造で見てみると

 「西側メディアから情報を得ているアジア人」としては、この戦争は「民主主義陣営VS専制主義陣営」と捉えがちで、多くのマスコミもこの見方だろう。しかし、著者のトッドは、この戦争は政治学などよりも深い領域から検討すべきだともいう。
 それはどういうことかというと、家族構造からみる人類学的考察を引き合いに出し、「この戦争は父権制システムと核家族の双権制システムの対立」という見方である。
 彼は、「人種」「言語」「宗教」以上にその社会の在り方を根底から規定しているのは、「家族」であり、「家族構造」と「政治経済体制」(イデオロギー)は一致する、という。
 そのことに気づいた動機として、「共産主義革命は、プロレタリアート(労働者階級)の主導により成し遂げられると一般に考えられてきましたが、実は、プロレタリアートを有する先進工業国では一度も起きていません。いずれの共産主義革命も、本格的に工業化する以前の「外婚制共同体家族」の地域で起きているのです」と論調する。

 トッドは自身の著書「世界の多様性」で、世界の家族型を以下のように示している。
 「絶対核家族」=子供は成人すると独立する。親子は独立的であり、兄弟の平等に無関心である。イングランド、オランダ、デンマーク、イングランド系のアメリカ合衆国、カナダ (ケベック州を除く)、オーストラリアなど。
 「平等主義核家族」=子供は成人すると独立する。親子は独立的であり、兄弟は平等である。フランス北部、スペイン中南部、ポルトガル北東部、ギリシャ、イタリア南部、ポーランド、ルーマニア、ラテンアメリカなど。
 「直系家族」=子供のうち一人(一般に長男)は親元に残る。親は子に対し権威的であり、兄弟は不平等である。ドイツ、スウェーデン、オーストリア、スイス、ベルギー、フランス南部、スコットランド、ウェールズ南部、アイルランド、カナダ(ケベック州)、日本、朝鮮半島、台湾、ユダヤ人社会など。
 「外婚制共同体家族」=息子はすべて親元に残り、大家族を作る。親は子に対し権威的であり、兄弟は平等である。いとこ婚は禁止されるか少ない。ロシア、フィンランド、旧ユーゴスラビア、ブルガリア、ハンガリー、モンゴル、中国、インド北部、ベトナム、キューバなど。
 「内婚制共同体家族 」=息子はすべて親元に残り、大家族を作る。親の権威は形式的であり、兄弟は平等である。トルコなどの西アジア、中央アジア、北アフリカなど。
 その他、「非対称共同体家族」、「アノミー的家族」、「アフリカ・システム」などをあげている。
 このように世界を見てみると、違った世界地図が見えてくる。

 著者トッドは、このロシアによるウクライナ侵攻の戦争勃発を契機に揺れ動く世界各国の行動状勢に対して、「私はこの戦争に、まず歴史家として、そして人類学者として向きあっているが、いわば「地政=精神分析学者」として語る必要に迫られている」と述べている。
 「第三次世界大戦はもう始まっている」は、現在起こっている進行形の戦争の行く末の"予言"の書と、読み取ることもできよう。

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昨年2014年ノーベル文学賞の受賞作家による、「イヴォンヌの香り」

2015-02-19 02:30:08 | 本/小説:外国
 恋は懐古することで、より甘美になる。
 進行形の時は、その恋に対して自分がどの位置にいて、どのような方向に進んでいるのかはっきりと分からないものだ。
 その恋がもう手の届かない過去に去ってしまったときに、おぼろげに全体像が把握できるようになり、人は霧で曇った磨(す)りガラスを指で拭うように、それを懐かしくなぞることを試みる。そして、失ったものの価値を知る。
 そのとき恋は、やっと一つの物語として甦るのだ。

 「イヴォンヌの香り」も、一人の男の、18歳の時の一夏の恋の物語である。
 著者は、昨年(2014年)、本命とみられていた村上春樹を破ってノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、パトリック・モディアノである。
 映画「イヴォンヌの香り」(Le parfum d’Yvonne、パトリス・ルコント監督、出演:ジャン・ピエール・マリエル、イボリット・ジラルド、1994年)はかつて観ていたのだが、原作は読んでいなかったので、改めて読んでみた。

 この映画で印象深いシーンは、主人公の男とイヴォンヌが出会って間もない時の、船のデッキでの場面である。
 抜けるような青い空に、風が吹いている。男が彼女を写真で撮っている。彼女は男に近づき、「ご褒美をあげなくてはね」と言って、おもむろに自分のスカートの中に手を入れる。そして、白いパンティーを脱いで、男に与えるのだった。風が彼女の白いスカートをめくり、形のいいお尻がちらちらと見え隠れするのだった。
 もちろん大筋は同じだが、映画では本の原作にないシーンが多くあり、映画の主旨も少しひねってあった。
 *映画「イヴォンヌの香り」ブログ2012.1.30参照

 *

 1945年にパリ郊外に生まれたパトリック・モディアノは、1968年、23歳の時に「エトワール広場」で文壇デビューする。
 1973年には、ルイ・マル監督(脚本は共同執筆)により「ルシアンの青春」(Lacombe Lucien)が映画化された。第2次世界大戦時のフランスの田舎町を舞台にした瑞々しい映画だった。
 「イヴォンヌの香り」(柴田都志子訳、集英社刊)は、彼が30歳の時の1975年、フランス・ガリマール社より発売された。原題は、映画と違って「Villa Triste」で、日本語に訳すと「哀しみの館」である。日本での出版が映画化に合わせてだったので、この題名「イヴォンヌの香り」になったのだろう。

 男は、12年前にこの地にやって来たときのこと、そして一人の女と出会ったときのことを回想する。
 その時、主人公の男は18歳。フランスのスイスに近いレマン湖のほとりの小さな避暑地の町にやって来て、ビクトール・シュマラ伯爵と名のった。
 主人公のその男ビクトールは、何者かに追われているようで、素性のわからないところがある。青春の持つ鬱陶しい焦燥感と不安感を持っていたともいえる。
 ビクトールは、その町で魅惑的なイヴォンヌという女と、彼女の古い友人であるマントという中年の男と知り合いになる。
 イヴォンヌは22歳で、映画にも出たこともあるまだ無名の女優で、摑まえどころのない女であった。マントは医師ということだった。
 ビクトールはイヴォンヌの魅力に惹かれ、すぐに二人は恋仲になり、彼女の住んでいる高級リゾート・ホテルに転がり込む。二人は、退廃にも似た享楽の生活を送る。

 イヴォンヌは、この町で行われているミス・コンテストのような「エレガンス・ウリゲン・カップ」なるコンテストに、マントの先導で出場することになる。そのコンテストに優勝して、町の時の人となる。
 ビクトールは、彼女が大女優になると確信しているが、彼女にはまるでその気がないようだし、そのための努力をする気もなさそうだ。
 ビクトールはイヴォンヌに、新しい生活を始めるために、この町を発ってアメリカに行こうと誘う。そしてビクトールは、彼女と自分の関係をマリリン・モンローとアーサー・ミラーの関係に重ねるのだった。しかし、彼女は彼の話を一向に本気にしていないようだった。
 イヴォンヌは、ビクトールが手の中に入れておける女ではなかったのだ。
 ファム・ファタールとも言える、運命の女。いつの時代でも、どこの国でも、若い情熱だけでは掴みとることのできない儚い恋がある。

 小説には、多くのフランス人の名前と、町や通り名が出てくる。
 若い時は、カタカナ表記の名前がわずらわしかった。しかし、今はその人名にしろ通り名にしろ、それらの名前からあれこれと想像を膨らませるのも楽しい。

 イヴォンヌ。フランス女らしい名前だ。初めてフランスへ行ったとき、フランスの知人の女友だちにこの名の人がいた。今はどうしているのだろう。
 ジュヌビエーブ。この名もフランス女らしい。パリの守護聖女からきている。
 ミッシェル(ミシェル)。この名の響きが好きだ。スペインやポルトガルではミゲルとなり、イギリスではマイケル。ラテン語ではミカエルで、キリスト教の大天使の名からきている。パリのメトロにサン・ミッシェル駅がある。
 ドミニック(ドミニク)もなんとも言えない。「暗殺の森」、「悲しみの青春」のドミニク・サンダは、眩いばかりの若い時の映画しか知らない。

 この小説「イヴォンヌの香り」の舞台は、ジュネーブに近いフランスのサヴォア地方のある町である。
 僕も1989年にこの地方を旅したことがある。この地方には、アルプスと湖を望む美しい街が散在している。
 レマン湖のほとりには、美しい水の町エヴィアンがある。僕も行ったムジェーヴ(メジェーブ)の町も本の中に出てきた。まるで西部劇か絵本に出てくるような町だった。シャンベリーにいたる道とあったから、アヌシーやタロワール、あるいはエクス・レ・バンの町も脳裏に浮かぶ。

 パトリック・モディアノの小説で、韓国ドラマ「冬のソナタ」に影響を与えたという「暗いブティック通り」も読まなくてはいけない。
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曜変天目の謎に迫る、「中国と茶碗と日本」

2013-04-25 03:02:12 | 本/小説:外国
 中国に「南橘北枳」(なんきつほっき)という言葉があるらしい。南の橘(たちばな)が北へ移ったら枳(からたち)に変わってしまうということである。橘も枳も同じミカン科であるが違う木である。
 中国人で日中の比較文化の研究をしている彭丹(ほうたん)(法政大社会学部講師)は、日本と中国の文化の違いをこの例えをもって説明する。

 2009年に、私が中国の上海を旅したときである。
 中国語はできないが、同じ漢字の国だから少しは分かるだろう。いざとなったら筆談でもいいわけだから。こう思っていたのは甘かった。駅や街中の表示は漢字で書かれているにもかかわらず、大半がわからなかった。中国が略字体というだけでなく、そもそも日本と違う単語が多すぎた。同じ漢字文化圏でありながら、こうも違うのかと思った。

 こう思ったのは、日本人だけでなく、日本語を勉強した中国人もそうなのだった。
 先にあげた彭丹が、中国にいたときに日本語を学び始めて、日本の漢字に驚く。
 日本の漢字に「訓読」と「音読」の2通りの読み方がある。訓読が日本のやまと言葉の読みだから中国語にはないとして、音読が中国読みかといえば、そうとは限らなかったのである。いや、現代の中国読みとは全く異なっているという。
 それだけではない。中国では、原則的には1漢字につき1音が統一されているが、日本の漢字には、音読にいくつもの読み(発音)がある。
 例えば、日本では、「青」は訓読みの「あお」以外に、音読みでは「ショウ」と「セイ」がある。それより多いのもいくつもある。例えば、「行」「明」「経」の類は、音読みだけで3通りもある。
 氏は、このことに驚く。
 なぜこうなったかというと、日本にこれらの漢字が中国からもたらされた時代によって、読み方が違ったのが原因だが、それを日本は丁寧にも残していたということである。
 例えば、「行」は、訓読みでは「いく」。音読みでは、呉音で「ギョウ」「ギャウ」、漢音で「コウ」 「カウ」、唐音で「アン」となった。
 中国では、古いものを捨てて新しいものに変えてきたというのに、日本では中国に残っていないものも残してきたという事実に、氏は驚きと感嘆の念を持つ。

 彭丹が日本に来て、習慣や漢字など、中国からもたらされたものでも、今では日本と中国がまったく違う形になっていたりする、多くの文化の違いに遭遇する。
 そもそも、氏は日本に留学し、日本に住むようになって、彼女が日本文化の粋とはなんですかと日本の知人に訊いてみる。すると、日本人の多くは侘び、さびと答える。日本の茶のなかに、その真髄があると言う。
 氏は、さっそく日本文化の茶道の門をたたく。そこで氏が興味が注がれたのは、茶器である。お茶にとって茶器は重要な要素で、昔から大名はじめ日本人はそれを慈しんだ。中国から輸入された貴重な陶磁器は、ことさら重宝がられてきた。
 しかし、日本人が重宝がるその茶器の陶磁器に、中国との違いを見て、氏は驚く。
 そもそも、陶磁器は中国から日本に入ってきたものである。しかし、その違いへの疑問と興味から、陶磁器を通して日本と中国の文化の違いを研究する旅に出る。
 日本や中国の多くの文献を渉猟し、ある時は現地まで訪れ、日中の様々な人から意見を聴く。
 こうして纏められたのが、「中国と茶碗と日本」(小学館)である。氏は中国人であるが、本書は翻訳でなく日本語で書かれてある労作である。
 
 この本は、今年(2013年)1月2日の本ブログ「長安を忍ぶ、元旦の屠蘇酒」で、少しふれた。屠蘇も中国では文献でしかなく、日本で元旦に屠蘇酒を飲む習慣があるのに出合い、著者の彭丹は感動したのであった。
 それを、改めて読み直したのである。

 *

 この本によって、青磁や曜変天目などがわかったし、中国人の龍紋に対する執着も理解できた。陶磁器を通して見た日本と中国の違いは、とても興味深く、それを探っていく過程は、あたかも推理小説を読むようであった。
 日本人ではたどり着かないだろうことが、中国人の目を通せば、ああこういうことかというのも、貴重な視点発見だった。

 現在、日本には8点の国宝茶碗がある。そのうち中国製が5点を占める。
 そのなかで、「曜変天目茶碗」というのがある。世界に3点しか現存しなく、その3点は中国製で、しかし3点とも日本にあり、国宝となっている。この事実は、注目すべきことだ。
 「天目茶碗」とは、宋代に中国で焼かれた、漆黒の釉色が特徴の黒磁茶碗である。「天目茶碗」とは日本での呼称で、中国では「黒盞」(こくさん)と言うらしい。盞とは茶碗の意とある。
 「曜変天目」は、漆黒の釉色のなかに、いくつかの瑠璃色の暈を持った銀色の斑点が浮かびあがった茶碗である。
 私も数年前、世田谷美術館でこの展示会をやっていたのを見に行ったことがある。黒い茶碗の底に妖しく虹色の歪んだ点が光るさまは、確かに人智を超えたもののようであった。
 「油滴天目」とは、漆黒の釉色のなかに、銀色の油滴様斑点が一面に散りばめられた茶碗である。曜変と比べて遺品が多く、曜変より評価は低い。
 その曜変天目であるが、中国で作製されたにもかかわらず、なぜか中国には1品すら残っておらず、それどころかその痕跡すらないという。なぜなのか?
 その謎が、この本では解かれていく。
 中国では、どの時代でも、天上の日月星辰、地上の陰陽五行の変化を通して、天意を推測し、吉凶を判断してきた。曜変天目と、この中国の陰陽五行が関係があると氏はいう。
 そして、おそらく「窯変」から「曜変」へと名称が変わった過程も突き詰めている。

 曜変天目の作り方はいまだ分かっていない。現代でも、多くの陶工家がこの曜変天目の再生に挑戦してきた。しかし、まだ誰も成功した人間はいないようだ。
 私の手元にある、曜変天目ではないが、「油滴天目」と「禾目(のぎめ)天目」と思われるもの(それを目指したものか)があるので、掲示してみた。(写真、右:油滴天目、左:禾目天目)
 もちろん宋時代のものではなく、今日の日本人作家のものである。
 今でも曜変天目に挑戦して、黙々と作り続けている陶工がいるに違いない、と想像するだけで胸がわくわくする。
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