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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

中島潔の、京都・清水寺の襖絵

2011-04-26 16:08:08 | 気まぐれな日々
 中島潔は、風の画家と言われている。
 そう言われれば、そよ風の中に立ち尽くす少女や女性のあどけない顔が浮かぶ。そのこましゃくれた顔の少女は、中島潔のものとすぐに分かる個性を表している。
 そして、その少女や少年やまとわる犬のいる、そよ風の吹いている土地は、野の花が咲く見慣れた田舎の風景である。
 見慣れた風景、田舎の町。
 そう、中島潔は佐賀の作家なのである。
 見慣れた風景は、忘れ去られようとしている風景と言ったほうがいいかもしれない。かつてあった、しかし今はもうないかもしれない世界を再現する、懐かしさをまぶしたファンタジーの世界を描いてきた画家なのである。

 2010年、中島による京都・清水寺成就院の襖絵が完成したと聞いた。
 テレビで放映されたその絵は、金子みすゞの詩に触発された「大漁」と題してあり、何匹もの鰯の大群が、一匹一匹克明に描かれていた。その迫力に、これがほのぼのとした絵を描く中島潔の作品かと眼を見張った。鰯の大群に向かって、その流れに逆らうように立つ、あのあどけない少女がいなかったら、中島の作品とは思わないかもしれない。
 その襖絵が、佐賀県立美術館で公開(5月8日まで)されているので、観にいった。
 隣接してある県立博物館では、近代洋画の大家、岡田三郎助の絵も展示してあった。「S.Okada」のサインを見る。

 「中島潔展」では、襖絵以外に、中島潔のそれまでの代表的な作品が展示されていた。
 そこには、やはりあのあどけない子供たちが立ちすくんだり、走り回ったりしている。
 田舎のバス停が描かれている絵がある。バス停には「厳木」とあり、その上に「唐津行き」とある。彼は、佐賀の厳木町が故郷なのだ。
 厳木町は、今は唐津市に合併されたが、大伴狭手彦と松浦佐用姫伝説の佐用姫の出生の地といわれている。その道の駅には、観音像かと見まがう巨大な作用姫像が立っている(この像は少しずつ回っている)。
 ちなみに、この地は難解呼び名で有名で、「厳木」で「きゅうらぎ」と読む。佐賀県人以外はなかなか読めない字であろう。

 中島潔の絵のなかで、珍しく少女ではない大人の絵姿の画があった。「風のたより」のなかの「ゆらめき」は、竹久夢二に通じる儚さが漂っていた。
 彼は大人の女性画も描くのだと思った。僕には、少女より大人の女の方がずっと魅力的だ。この女のシリーズのみが、サインは漢字でなく欧文だ。それも、何と書いてあるか分かりづらい。中島でも潔でもないことは明らかだ。係員に訊いたら、パリで描いたこのシリーズは、サインは「Umekichi」と書いたそうだ。

 清水寺成就院の襖絵は、4つに分かれていて46面もあった。
 まず「かぐや姫」は、満月の前に漂う華麗な天女の姿だ。ただ、天女の顔がおしなべて、あの中島潔の個性的女性顔なのだ。
 「風の故郷」では、四季の移ろいが描かれている。「紅葉」が鮮やかだ。
 最後の「大漁」は、先に書いた鰯の大群である。
 おそらく、この襖絵は彼の代表作となるだろう。
 (写真は、チラシの絵を外で撮ったもので、このように展示されているのではない。展示は、清水寺・成就院の構造配置を再現されている)
 彼は、この襖絵を描いたことで、今まで捉われていた故郷や母への思いから、一歩脱することができたと感じた、と語っていた。
 中島潔、70歳を前にしての、新しい大きな一歩である。

 夜、酔って佐賀の街を歩きながら、再び、あの岡田三郎助の幻の絵が頭をよぎった。
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佐賀の街角で見つけた、幻の絵

2011-04-24 13:03:04 | 気まぐれな日々
 佐賀駅から南へ佐賀城方面に、まっすぐ中央通りが延びている。
 その中央通りをぶらぶらと歩くと、ラーメン屋や和菓子屋やファッション・ブティックや焼鳥屋など様々な店が並ぶ。
 シャッターを閉めた店もあるが、その中ほどに骨董店らしい小さな店がぽつんとある。店は大きなガラス張りの戸で、外から店内が一望できるようになっていて、絵や焼き物などが並べてあるというか、無造作に置いてある。
 その絵は、いつからあったのだろう。
 店の前面に置いてある1枚の絵が気になっていた。和服姿の若い女性を描いた油絵で、額にも入れてないでキャンパス地のままである。雰囲気のある絵である。
その絵について店の者に訊こうと思っていたのだが、いつも店の戸は鍵がかかっていて、店主の姿を見たことがないのだった。
 気になっていたのは、その絵の魅力もそうだが、何かいわくありげなのだ。最大のひっかかりは、その絵に描かれているサインだ。
 絵の下に「1934.7 S.Okada」と、描かれてあるのだ。
 まさか、あの人の絵では、そんなはずはあるまい、こんなところに無造作に置いてあるはずがない、いや、隠れたお宝かも……。
 そういえば、絵に大物の雰囲気が漂っている。
 僕は妄想した。そう、岡田三郎助の絵では、と。
 岡田三郎助といえば、黒田清輝に師事した教科書にも出てくるほどの近代洋画の大家である。そして、女性像を得意として多く描いている。
 しかも、佐賀出身の画家であるから、ここ佐賀で絵が紛れ出てきても不思議ではない。
 誰も、あの大家の絵がこんなところに無造作に置いてあるなどと思わないから、通り過ぎているのだ、と思った。

 僕はもう一度店の戸を叩いた。しかし、やはり音沙汰はない。
 すると、店に続いて隣に小さな納戸がある。そこが、出入口かもしれないと思って、その戸を叩いた。しかし、何の返事もないのでドアの取っ手をひねってみた。すると、勢いよくドアが開いて、若い女性が出てきた。僕がドアを握ったのと、その女性が内からドアを握って開いたのと同時だったのだ。
 僕が「隣の店の方ですか」と尋ねると、「いいえ」と迷惑そうな答えが間髪をいれずに返ってきた。
 僕が、「すみません」と言って引き返すと同時に、隣の店の前に中年の女性がやって来た。そして、店の戸に鍵を差し込み開けた。
 僕が、「この店の方ですか」と訊くと、そうだと答えた。
 僕は、おそるおそる訊いてみた。
 「この絵についてですが、まさか岡田三郎助の絵では…ないですよね」
 すると、その女性は、ゆっくりと答えた。
 「さあ、どうでしょう。私もよく分かりません」
 「このサインは、岡田三郎助のような気がしますが」と、僕はサインを指差した。
 「しっかりと岡田三郎助と鑑定する人がいないので、はっきりとは分からないのですよ」と彼女は言った。
 念のため、僕は値段を訊いた。岡田三郎助の絵の価格というものを僕は知らないが、値段は、岡田三郎助の絵とすると格段に安かった。

 僕は、骨董屋をあとにして、佐賀県立美術館で行われている「風の画家、中島潔展」を観に向かった。
 佐賀県立美術館に隣接している県立博物館の入口受付に来ると、「佐賀偉人伝刊行記念展示」と称して、岡田三郎助の展示も行われていて、その本(画集)も置いてあった。僕はその本を手にとって、岡田の年譜を見た。
 岡田は、1869年に生まれて1939年になくなっていた。とすると、あの絵の1936年は、彼は生きている。
 そして、岡田の絵の中のサインを探した。確かに、「S.Okada」と描かれたものがある。

 僕は、佐賀の街中に置き去りにされているようなあの女性の絵を、誰が、いつ、どこで、何を思って描いたのだろうかと夢想した。
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九重、阿蘇へ

2011-04-19 18:00:16 | ゆきずりの*旅
 4月、福岡・秋月の桜は満開であった。
 空は青く晴れ渡り、歴史に消えた悲しみは、長い年月の風にまみれてしまったようであった。もう、秋月の乱も最後の仇討ちも、思い出す人もいないだろう。

 秋月を出たあと、大分自動車道に乗って東へ向かい、九重へ向かった。九州最高峰のくじゅう連山の北で、さらに東に行けば、湯布院、別府、大分へ到る。
 九重ICで一般道に下りた。ここは、大分県玖珠郡九重町で、「ここのえまち」と振り仮名はなっている。だが地図を見ると、その南は久住山、久住高原とあり、久住町(くじゅうまち)(現:竹田市)である。地図には、九重と久住が混在していて紛らわしい。
 だから、この一帯の山々はどちらにも配慮してか、ひらがな明記の「くじゅう連山」である。

 最近は、町村合併でひらがなの町名や固有名詞が多くなったが、どうも味気ない。
 歴史的地名なのに、どうして津軽市でなくて、つがる市(青森)なのか。このような例をあげれば枚挙にいとまがない。いわき市(福島)、つくば市、ひたちなか市、かすみがうら市(茨城)、さぬき市(香川)等々。
 東かがわ市(香川)や南さつま市(鹿児島)のように、漢字とかな交じりもある。
 県庁所在地でさいたま市(埼玉)とは、何と軽いことか。
 まあ、日本か外国か分からないカタカナの町名、南アルプス市(山梨)よりはましだが。
 今地図を見ていて、何かの間違いかと首をひねった。南アルプス市の横に、◎市のマークで「中央」とある。中央アルプスとか甲府盆地中央とかの駅の名前で、何か文字が欠けている誤植ではないかと探したが、そうではないようだ。浅学にして僕は知らなかったが、いつの間にか山梨県に中央市なるものが生まれていた。
 う~ん、大胆不敵な市名だ。
 甲府市の南に、南アルプス市と中央市が並んでいる。

 *

 九重ICより南に車を走らせると、九重夢吊橋に出くわす。標示板に、「日本一の大吊橋」と掲げてある。
 通常、橋は川や峡谷を渡る必要性に応えて架けられるものだが、この橋は向こうへ行く必然性のない橋である。いわゆる、生活のために造られた必要な橋ではなく、単に観光用のために、日本一というブランドを得るために架けられた橋である。
 だから、渡るための通行料(入場料ともいえる)がとられ、渡った人は向こう端に着いたらUターンして戻ってくるだけである。
 橋は、見た目は鉄筋の普通の近代的な橋と変わらず、インディー・ジョーンズの映画に出てくるようなアドベンチャー的吊橋とは程遠い。もちろん、橋の下の川にはワニがいるわけではない。
 橋に着いたときには、締め切り通行時間が過ぎて窓口が閉まっていたので、渡ることはせず、断わって橋の入口まで行って写真を撮ったにすぎないのだが、係員が橋を渡りはしないかと執拗に睨んでいた。

 橋からさらに南下すると、長者原に出る。
 ここから、三俣山、久住山、九州で最も高い中岳などの連山が望める。

 このあたりは、活火山の阿蘇の近くということもあって、小さな温泉場があちこちにある。この日は、少し山間を戻ったところの、「宝泉寺温泉」に泊まることにした。かつては芸者もいて少しは賑わったところらしいが、今は静かな温泉場だ。
 宿泊したホテルの大衆浴場に、「檀の湯」とある。檀一雄の檀である。わが愛する檀が、若いとき泊まった温泉らしい。その小説の一節が、入口に掲示されていた。
 このホテルの露天風呂に出てみると、日はまだ落ちていなくて、あたりは水彩画のような、のどかな黄昏の空気を漂わせていた。日が長くなった。
 湯に浸かって外の景色を眺めてみると、すぐのところに桜の木があった。白い花弁の山桜風だが、ここでも満開だ。

 *

 翌日、やまなみハイウェイを南下し、阿蘇へ向かった。
 阿蘇は小学校6年のときの修学旅行以来だ。
 阿蘇の煙が出ている活火山の火口を覗きたいのだ。あの小学生のときに味わった強烈な感覚の、硫黄の匂いと煙を出す地球の入口の穴を。
 このあたりは、風景が違う。山も緑の森林だけではなく、なだらかな小山のような牧草地帯が飛び込んでくる。草を食む牛を見ることもある。何となく日本離れしていて、スペインのラ・マンチャのようだ。
 やまなみハイウェイを過ぎたあたりで阿蘇神社にぶつかり、すぐ先が豊肥本線の宮地駅だ。
 宮地を東に向かうと阿蘇駅に出る。ここは、かつて坊中といっていたところで、阿蘇の中心地だったところである。
 坊中から東に杵島岳、西に米塚を見ながら南下すると、阿蘇の中岳の煙が見える。今日は、煙が多いようだ。(写真)
 阿蘇山上に着いた。山の先から煙が出ている。ここから、ロープウェイが走っていて、火口が見えるところまで行ける。胸が躍る。
 案内所のところに行ったら、なぜか入場停止になっている。説明によると、風向きが変わり(風が強く)、火山灰煙が危険なために、ただいまロープウェイの運行を中止したと言う。いつ運行を再開するか分からないらしい。
 残念だが、火口へ行くのはまたの機会にしよう。

 *

 阿蘇山麓から南阿蘇村をぐるりと周るようにして、高森町に向かった。
高森町の南は、すぐに高千穂町(宮崎県)である。
 高森町には、鉄道工事の途中、トンネルを掘っていて、そこに水が吹き出て、トンネル工事を、とどのつまりは鉄道工事を中断せざるを得なくなった、いわくのトンネルが残っているという。
 行くと、小川の先にトンネルの入口が顔を出していた。
 「高森湧水トンネル公園」という名だけあって、小川は清流で、トンネルの下にきれいな水がとうとうと流れていた。トンネル内も、来た人を楽しませる様々なライトアップの趣向を施している(入場料あり)。
 使われなくなったトンネルもアイディアしだいで名所になるという、いい手本である。

 高森から熊本のICに行くため、西に向かった。
 途中の俵山峠の展望所からは、阿蘇の外輪山が望める。
 俵山峠を越えて、益城熊本空港ICより、佐賀に向かった。
 九州の桜も、もう終わりだ。
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秋月へ

2011-04-17 01:44:16 | ゆきずりの*旅
 「秋月」というと、すぐに思い浮かべるのは「秋月の乱」であろう。
 300年近く続いた徳川幕府が倒れ、版籍奉還がなされ、明治の新政府が発足した。明治の維新は武士を中心とした無血革命であったが、同時に武士をなくすことでもあった。
 士農工商と身分は一応最も高いとされた武士だが、禄高はなくなり実質は無給となったのだった。商売による金儲けは卑しいと思われていたので、プライドの高い旧武士の多くは金儲けもままならなかった。ましてや、鍬や鎌を持って農業をするものもそういない。
 時代が変わったとはいえ、「武士は食わねど高楊枝」などといつまでも言っていられない時期が続いた。そんな旧武士である士族による不満が各地で鬱積していた。
 やがて明治7(1874)年、「佐賀の乱」を皮切りに、士族による新政府への反乱が九州・山口の各地で起こることになる。この乱で、新政府の中枢を担っていた江藤新平(前参議・初代司法卿)、島義勇(前侍従・秋田県権令)が死刑・梟首となった。
 明治9(1876)年、廃刀令が発布される。武士の魂とされた刀も取り上げられ、一般市民となんら変わらない立場になった旧武士たちは、新政府に向かって散発的に立ち上がった。
 その年、熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱が起こり、翌明治10(1877)年の鹿児島・西南の役の西郷隆盛の死によって、やっと収まることになる。

 その秋月へ、地元の友人の車で行くことにした。
 佐賀から鳥栖を過ぎるとすぐに福岡県である。小郡の先が秋月だ。秋月はかつて甘木市にあったのだが、今は朝倉市と名を変えていた。
 秋月は、秋月の乱以後衰退し、城があるわけでもないので鄙びた村として忘れ去られていた。しかし、城跡周辺やその近くの杉の馬場あたりは古(いにしえ)の風情が残っていて、筑前の小京都として、この一帯は桜の名所にもなっている。(写真)

 そして、最近この秋月を思い出させたのが、今年(2011年)2月にドラマとして放映された「遺恨あり」(出演:藤原竜也、小澤征悦、松下奈緒)であろう。この話は、「日本最後の仇討ち」というものだ。
 物語は、日本が大きく揺れ動いていた幕末の期。藩主の命を受け秋月藩の行く末を模索していた馬廻り役臼井亘理は、秋月に帰郷した日に暗殺される。その当時幼かった嫡男の六郎が、長じて父の敵を討つという実話である。既に明治13年であった。
 江戸幕府の武士の時代であれば、父の仇討ちは美談であったが、文明開化の時代、もはや単なる殺人と見なされる。
 日本最後の敵討ちは、旧秋月藩士の手でおこなわれたのだ。

 秋月の4月は、桜が満開であった。
 秋月の乱も、遺恨ありも、その面影を見つけ出せなかったが、散る桜だけが儚さを伝えていた。

 しかし、何といっても僕がこの秋月で思いつくのは、「秋月へ」である。
 丸元淑生の小説「秋月へ」である。
 1978年の芥川賞候補作になったこの小説は、1980年に出版された。著者の前作「鳥はうたって残る」を読んでいた僕は、すぐにこの本を手にしたのだった。
 と言っても、「秋月へ」は秋月が物語の舞台ではない。秋月の乱に参加した曾祖父の子、おそらく著者の、戦前から戦中、戦後を生きた少年時代の回想の話である。舞台は秋月の近くの筑豊・田川だが、秋月は伏流としてあるのだった。
 詳しい内容を忘れた後も、このタイトルがいつまでも僕の心に残っていた。
 そして、秋月へ行く前日に、町の図書館で偶然この本が置いてあるのを見つけて、再び読んでみた。30年たっても瑞々しい文体は、色あせてはいない。
 その丸元淑生は、その後文学を捨てたのか、なぜか栄養学のほうへ行ってしまい、今はもういない。

 その日、秋月を後にし、九重、阿蘇へ向かった。
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桜の木の下の一周忌

2011-04-07 23:25:23 | 気まぐれな日々
 桜が満開だ。
 思えば去年の今頃だった。
 佐賀の実家の近くの池の麓に咲く桜を眺めながら、その一輪の花弁を千切って、入院して意識も分からぬようになっていた母の枕元に持っていったのは。
 まもなくその一輪の花の下で、母は息を引き取った。

 世の中を 思えばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ
                                   (西行)
 あれから、瞬く間に1年が過ぎた。
 母の一周忌を終え、去年の今頃花を千切った桜の木の下で、花を眺めた。桜は、去年と少しも変わらない姿で咲き誇っていた。その間の1年という歳月がなかったかのように。しかし、確かに1年が過ぎたのだ。
 この1年、私は何をやったのだろう。何かをやったという手ごたえは、残ってはいない。こうして、月日は過ぎていくのだろう。今までも、そうだったように。

 「年をとると、どうして月日がたつのが速く感じるのか?」という問いに、子どもの頃と大人になってからの月日の比重が違う、といった意味の答えがあった。
 子どもの頃、例えば小学1年生、6歳のときの1年は、それまでの人生の6分の1だが、20歳の時には20分の1に、50歳の時には50分の1に値するように、人生における1年の重さが、どんどん軽くなるといった論理だ。確かに、子どものときは新しい体験と発見の連続だ。年をとるにしたがって、それらは少なくなっていく。
 なるほどと思うが、しかし、この理論は科学的に正統性があるかどうか分からない。
 毎年、年をとっても、それまでの人生に経験することのなかった新しい体験をし続ければ、年月は同じ重みで続いていくのかもしれない。
 若さの秘訣は、新しい体験をし続けることにあるのかもしれない。

 新しい発見、まだ見ぬ経験、未知の感動、これらを追い続けなければならない。できる限り。生きている限り。

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