かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

人生はうしろ向きに

2011-06-24 02:50:26 | 本/小説:日本
 もうずいぶん前だが、夜のタモリのテレビ番組に出演していた井上陽水がこんなことを言っていて、頷いたことがある。
 「もう過去を語っていい頃じゃないか。かつて栄光の過去を語ってもいい時代になっただろうと、最近考えるんだよ」
 実際、過去を語ったり回想するのは、人生に後ろ向きだととられて、あまりおおっぴらにははばかられる。しかし、どうして過去を振り返るのは、あまりよく受けとられていないのだろう?
 確かに若いときは、現実は辛くとも未来は輝いていた。いや、輝いている未来、いつかたどり着くあるべき将来を夢想した。
 振りかえれば、現実の楽しいとき、快楽の時間や月日はそう長くは続かず、またたく間に、もうそこにはない過去になる。だから、いつしか消え去った快楽あるいは幸福感を再び得るために、新しい快楽を求めて歩かねばならなかった。
 しかし、僕は最近は何はばかることなく、過去を礼賛し、過去の物語を再現するのに躊躇いを持たないようにしたのだった。
 別に僕の過去が栄光に輝いていたからではない。もう、未来がなくなったからでもない。

 過去を振り返るのは決して間違っていない。むしろ、その方がいいことだと言いきったのは作家で翻訳家の南條竹則だ。1958年生まれの50代前半だから、老いた偉い人の説教や道徳譚ではない。もちろん、過去の偉大な哲学者や作家や詩人でもそう説いた人はいただろうが、最近その説の本を出したという意味である。
 「人生はうしろ向きに」(南條竹則著、集英社刊)で、南條は、後ろ向きをいけないと多くの人が思う(思いこんでいる)のは、今までの間違った世界観だという。

 冒頭のエピソードで、フランス人の著者の友人が四方山(よもやま)話のなかで、ふとこう言う。
 「I think nothing changes for the better」(何事も良い方には変わらないと思うがね)
 著者は、この言葉をなるほど、と噛みしめる。
 彼の言うように、至言である。
 南條は、この「Nothing changes for the better(何事も良い方には変わらない)」という箴言のような言葉の実証をする。

 今までわれわれを支配しているのは、昨日より今日、今日より明日の方が世の中は良くなる、という思想が根源にある。この思想は暗黙のうちに、われわれの社会全体を締めあげ、尻を叩き、前へ進め、前へ進め、とけしかける。まるで馬を鞭打つように。
 進め、進め、未来へ向かって進め。未来には幸せがあるぞ。後ろを向いて過去を懐かしむのは負け犬だ。敗残者だ。頽廃した卑怯者だ。人間はいつも未来を向いて生きなければならんのだ。
 この思想が、現代の道徳であり誰もこの考えに疑ったりしていない。例え疑っている人もいるだろうが、そんなことは大きな声では言えない。
 こんな根拠のない野蛮思想に、人はいつから凝り固まってしまったのであろう?と南條は呟き、すぐさまそれへの反論と答えをたたき出す。

 この思想(うしろ向きはよくないという)の誤りは、幸福と科学技術を一緒くたにすることから始まる。確かに、科学技術は-その一部分だけは-進歩するかもしれない。 しかし、それと幸福の増進とは比例しない。
 南條は、例えば冷蔵庫のなかった時代と現代の、夏の氷の有り難さを比べてみる。また、楊貴妃が好きだった珍しい果実(茘枝ライチー)を例に、輸送機関の発達していない時代と現代の違いを例にとる。
 かつて珍重されて至福を感じていたものも、その後の科学技術の発達で簡単に手に入るようになった。そうすると、どうなるか? 珍しくもなく、簡単に手に入るとなると、有り難がる気持ちはなくなる。
 このように、人間は喜びでも快楽でも、それが常態となってしまうと、もう喜びとも快楽とも感じない。欲望は別の方向へ向かって、物欲しげにさまよい歩くのである。
 そして、南條は言う。要するに、人間の心は穴の開いたバケツである。上からいくら水を注いでも、欲望という穴がそこにどんどん広がってゆくから、バケツは決して満ちることはない。
 科学技術がいかに進歩しようと、この欲望の増殖には追いつけない。したがって、人間は決して満足しない。満足するのが幸福であるから、明日は今日よりも決して幸福にならない。

 人間の際限のない欲望は、資本主義下の金(資本)に対する欲望を見れば分かるだろう。金を持ち始めると、もうこれでいいということを知らない。破滅するまで欲望は膨らむのである。
 著者は、今日のハイテクノロジーが、未来においては人間の自由を奪う管理社会が来ると警告している。まるでかつての共産主義国家下のようであるが、科学の発達によって、厳密な情報管理のもと、個人のすべてが把握・管理される社会が来ると予測する。
 そして、味気なくなった現代社会を嘆く。ビルは建つが人間くささが消えた現代の都市計画、グローバル化による、刺身にマヨネーズをかけるような食文化の変容、今どきの日本語に見る日本語の破壊、等々。
 こうした現在と未来への失望のもと、著者はすっぱり順応をあきらめ、「昨日」を向いて暮らすことを宣言する。
 「明日は今日より幸せになろう。今より充実した日々を送ろう」そんなことばかり考えているから、人間はダメになる。望みがかないそうもないと分かると、途端にショゲかえって、病気になったり自殺する。
 「過去」を持っている人間は、未来なぞ気にすることはない。
 未来なんか、死なない程度に生きていれば十分なのだ。

 う~ん、潔い。

 「過去」は、「現在」と違って打算も欲望もない。それは、「美」に対するのと同じ感覚で、だから「過去」は美しいのだ、と著者は言う。

 「時間」という観点から世界や人生を見ると、「現在」は存在しても、「未来」や「過去」は存在するのかどうか分からない。僕らは、概念として「未来」「現在」「過去」をとらえているだけで、あるのは永遠に続く瞬間としての「現在」だけかもしれない。
 あると仮定しても、「未来」は、どのようなものか分からない。だとすると、確かにあった「過去」をひっぱりだして、それに「栄光の」という装飾を付けるのは悪くない。
 「不動の過去」を、自分の「栄光の過去」にするのである。
 栄光といっても、成功したとか輝かしいという意味ではない。どのような暗澹たる過去であったにしても、決して後悔していない、確かに生きてきたといった意味での「栄光の過去」である。
 カズオ・イシグロが言うところの、「記憶」(Memory)と「ノスタルジー」(Nostalgie)である。
 記憶が、誰にも奪えない想い出、人生を語るのである。
 潔くうしろを向きの、栄光の過去を語っていい頃である。
 
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黄金の夢の歌

2011-06-16 02:54:47 | 本/小説:日本
 見知らぬ街を旅すると、心がときめく。
 もう二度と会うこともないであろう人と行き交う。一抹の寂しさの向こうに、なぜか懐かしさが込みあげてくる土地と出合うことがある。
 片雲に誘われて旅し、大樹の下の草むらで命果てるのは、今となっては見果てぬ夢かもしれない。
 大草原を日々旅する民族がいた。
 広大なユーラシア大陸を自由に移動する狩猟民族。羊や馬やオオカミと暮らす彼らは牧歌的ではあるが、あるときは一大王国となって、戦いを繰り返したときもあった。
 今、彼らの末裔たちはどうしているのだろう。

 「なつかしい人々。なつかしい場所。だれもが胸の奥に隠し持っている。ところが、その正体をつかむことができない。それはだれなんだろう。どこなんだろう。つかもうとすればするほど、遠のいていく」
 この思いにとらわれて、一人のもう若くない女性が旅に出る。
 そこへ導いたのは「夢の歌」。
 いつの頃か語り継がれた、英雄である男の子の物語。文字もない民族の間で、歌い継がれてきた歌物語。歌われている彼の名は「マナス」。中央アジアの狩猟民族の間で歌い継がれた夢の物語だ。

 「黄金の夢の歌」(津島佑子著、講談社刊)は、この「夢の歌」を求めて旅したドキュメントといえる書だ。この歌を聴くために、キリギス人の案内人を伴って著者はキリギスに行く。
 地図を広げると、キリギスは、アジア・ユーラシア大陸の中央部の、中国・新彊ウイグル自治区の端、天山山脈の端にある。
 キリギスを知らなくとも、雄大な草原と山々が頭の中に広がる。
 旅とともに、そこに住む人たちの生活、歌われた「夢の歌」、そして遡って彼らのいにしえの姿が語られる。

 「マナスは「夢の歌」で「青いたてがみ」と必ず呼ばれることになっている。これはもちろん、オオカミの意味。モンゴル人のはじまりは、オスの「青いオオカミ」(灰色のオオカミ)、そしてメスのピンクのシカだった、とされているけれど、キリギスにも、メスのオオカミからわれわれはこの地上に生まれた、という伝承がある。」

 古くは、紀元前の「匈奴」が、自分たちはメスのオオカミから生まれたとする「夢の歌」を語り伝えていた。その「夢の歌」を、「突厥」が引き継いだ。また、別に「鮮卑」にも、オオカミを長とする「夢の歌」があり、その孫の一人がキリギスという国を作ったという。
 「「鮮卑」と呼ばれた、ウマをこよなく愛する人たち。どんなにその力を誇り、歌をうたい、オオカミを慕い、天に祈りを捧げていたことか」と、愛情を込めて「鮮卑」の歴史をも紐解く。
 この本では、「匈奴」や「突厥」や「鮮卑」、さらに「契丹」や「高車」、「烏孫」など、世界史の教科書で習った懐かしい(受験時代の意味だが)国が出てくる。
 また、オオカミにまつわる伝説では、ヨーロッパでもオオカミに育てられた双子がローマを作ったといわれ、ローマにはその像もある。

 堅い話ばかりではない。例えば、キリギスの興味深い「嫁さらい」の習慣も紹介している。意中の娘が家のいるときに男が忍び込み、白いずきんを被せて、その娘を連れ去る。白いずきんを被されたらもうその娘は観念するほかないという。
 現代では、この習慣はだいぶん変わったということだ。当然のことだが、これでは拉致だものね。
 日本の花嫁の白い角隠しも、ここから来たのだろうか。
 この本では、古くは日本人にも、キリギス人であるツングース系の人種が混じり合ったかも、といっている。
 もともと日本人は北方からも南方からも混じり合ったといわれているから、狩猟民族の血もどこかに入っているに違いない。
 だから、見知らぬ街にときめくのだろうか。

 著者は、中国の黒竜江から内蒙古自治区へも行く。中国北部の辺境の地だ。
 そこにも「夢の歌」の足跡がある。

 トット、トット、タン、ト
 本の中で、この馬の足音のような、「夢の歌」の調子が繰り返される。
 読みながら、思いはユーラシアの高原をさまよい、眠っている旅心を刺激し続けた。著者の思いがこんなにも強く滲み出る旅の本は珍しい。
 まだ頭の中を、馬が走り回る。
 遠くでオオカミの遠吠えが聞こえる。


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黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志

2011-06-08 01:47:20 | 本/小説:日本
 「逝きし日の面影」(平凡社)という、2000年に和辻哲郎文化賞を得た興味深い本がある。明治以降の日本の近代化とともに、一つの文明が死んだと唱える、当時日本に滞在していた外国人の書いた述回を丹念に拾って構築した日本人論である。
 この著者である渡辺京二による、その後の書が「黒船前夜」(洋泉社)で、第37回大佛次郎賞を得た。

 ペリーが浦賀にやってきて開国を迫る100年ほども前から、ロシアの船がシベリアを越えて、しばしば樺太、千島、北海道近海に出没していた。当時は、蝦夷(えぞ)地といわれたこの方面は、幕府にとってもまだ不鮮明な領域であった。
 その蝦夷地で、松前藩とアイヌとロシアの交流と軋轢があった。松前藩は幕府の了解を得て交渉・交流することになるが、アイヌと独自の交易も行っていた。
 蝦夷地を通して、ロシアは日本に交易を求める。すなはち、開国である。
 松前藩および幕府は、危機意識を持ちながらも、のらりくらりと結論を先延ばしにする。その時、蝦夷では何が行われていたのか?

 もともと、蝦夷(えみし)という記述は、歴史には古くから表われている。7世紀から9世紀にかけて大和朝廷によってしばしば討伐された蝦夷とは、どういう人たちだったのか。
 最初、「蝦夷」は「えみし」と呼んでいたが、のちに「えびす」となり、「えぞ」と呼ぶようになったのはなぜか。「えみし」は辺境の日本人だったのか、それともいわゆるアイヌの人だったのか、はっきりした記述はない。
 本書は、アイヌ民族を梅原猛の説を用いて、日本人論にまで言及している。

 話の本題は、ロシアが日本に交易を求めてきたことである。
 しかし、双方警戒して話は進展しない。しかも舞台は、いまだ全体像が掴めていない蝦夷地である。樺太(サハリン)も、間宮林蔵の樺太・海峡航海まで大陸からの半島だと考えられていた時代である。
 最大の障壁は、日本には長崎でのオランダ以外に、外国との交易を禁じているというネックがあったし、ロシアは日本の武力が不明で、リスクを犯してまで交易をするメリットがあるかどうかが不透明であった。
 そのロシア人と日本人との克明なやりとりが、アイヌという媒体を通して、蝦夷の歴史を鮮明にさせている。
 夥しい資料を基に、ロシア人の日本に対する見方や通訳の本音、ロシア人と日本人の庶民との接触など、歴史の表舞台に表われていない、興味深い内容となっている。
 まだ、ロシアも日本も領土拡張を目論んでいない、帝国主義前夜の、ある意味では良き時代の蝦夷史である。

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華麗なる賭け

2011-06-01 17:42:29 | 映画:外国映画
 監督・製作:ノーマン・ジェイソン 音楽:ミシェル・ルグラン 出演:スティーブ・マックィーン フェイ・ダナウェイ 1968年米

 澄みきった青い空に、黄色いグライダーが舞い上がる。男が乗った有人グライダーは旋回しながら空を舞う。危険が伴うが、贅沢な遊びだ。
 乗っているのは大金持ちの実業家のトーマス・クラウン。演じているのは、スティーブ・マックィーン。
 映画「華麗なる賭け」(原題The Thomas Crown affair)の一場面だ。
 空を舞うグライダーに、歌が重なる。軽快な曲だが、乾いた哀愁が漂う。

 Round, like a circle in a spiral
 Like a wheel within a wheel.
 Never ending or beginning,
 ………

 ミシェル・ルグランの「The windmills of your mind」(日本題名:風のささやき)だ。歌っているのは、ノエル・ハリソン。
 日本語訳(字幕:岡田壮平)がいい。

 始めも終りもなく 永遠に回る輪
 回転木馬のようにいつまでも回る
 時計の針も回る 地球も虚空の中で回る
 心の中の風車のように回っている

 トーマス(スティーブ・マックィーン)は大金持ちの実業家なのに、銀行強盗を目論見、陰で指令し、計画は成功する。
 もともと金は有り余るほどある。瀟洒な別荘に、美食に、(妻以外に)女もいる。遊びに贅を尽くす。グライダーに乗るのも遊びの一つだ。
 歌は続く……。

 なぜ夏の日々はそう早く過ぎ去るのか
 恋人たちの足跡が砂浜に点々と続く
 出会った人の名や顔も忘却の彼方へ

 When you knew that it was over
 Were you suddenly aware
 That the autumn leaves were turning
 To the color of her hair
 ……
 別れを悟ったとき ふとつぶやく
 彼女の髪が秋の葉の色と同じだと

 As the images unwind
 Like the circles that you find
 In the windmills of your mind
 ……
 心の中の風車のように
 思いが巡る

 トーマスが乗ったグライダーは、林の間の草むらに滑り込む。そこに待っていた女が走り寄って言う。
 「着地に失敗したらどうするの?」
 男は、表情を変えずに答える。
 「心配事から解放される」
 「何が心配なの?」
 「気紛れな自分が」

 何もかも自分の手にしたものは、命さえも惜しくはない。それは、成りゆきというものだ。ぎりぎりのところで、自分に賭けをする。
 銀行強盗も賭けの一つにすぎない。

 警察と保険会社に頼まれて、銀行強盗の犯人を追ってきたのが、美人の私立探偵ビッキー(演ずるはフェイ・ダナウェイ)。
 彼女は、この銀行強盗の目的は金を盗むことではない、目的は他のところにある、とすぐさま見抜き、トーマスに犯人の焦点を当てる。
 トーマスに近づき親しくなった二人の、恋にも似た駆け引きが繰り広げられる。
 銀行強盗の目的に、トーマスは答える。
 「金なんかじゃない。この俺と、腐った世の中との対決だ」

 「荒野の七人」でスターダムにのし上がったスティーブ・マクィーンと、「俺たちに明日はない」で一気に人気爆発したフェイ・ダナウェイが、華麗なる恋愛の賭けを演じる。
 レーサーとしても活躍したアクション派スティーブ・マクィーンがスーツを着こなし、悪女の香りがするフェイ・ダナウェイがオートクチュール(おそらく)のモードを着て登場する。スカートは当時最先端の超ミニだ。
 アメリカ・ハリウッドの映画ではなく、フランス映画のような内容とテーマ曲だ。
 当時のフランスの人気俳優、「勝手にしやがれ」のジャン・ポール・ベルモンドと、「太陽がいっぱい」のマリー・ラフォレ、あるいは「昼顔」のカトリーヌ・ドヌーヴだと恋愛色が強くなりすぎるか。
 「男と女」のジャン・ルイ・トランティニアンと「突然炎のごとく」のジャンヌ・モローの組み合わせでは、かなり深刻で退廃的な映画になりそうだ。

 映画は、一つの場面、一つのメロディーだけで、心に残るものとなる。
 テーマ曲、「風のささやき」(英語The windmills of your mind、仏語Les moulins de mon coeur)だけで、映画「華麗なる賭け」(The Thomas Crown affair)は、心に残るものとなった。
 この曲は、様々なアーチストによるカバー・ヴァージョンがあるし、作曲者ミシェル・ルグラン自身もジャズ風に歌っている。

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