もうずいぶん前だが、夜のタモリのテレビ番組に出演していた井上陽水がこんなことを言っていて、頷いたことがある。
「もう過去を語っていい頃じゃないか。かつて栄光の過去を語ってもいい時代になっただろうと、最近考えるんだよ」
実際、過去を語ったり回想するのは、人生に後ろ向きだととられて、あまりおおっぴらにははばかられる。しかし、どうして過去を振り返るのは、あまりよく受けとられていないのだろう?
確かに若いときは、現実は辛くとも未来は輝いていた。いや、輝いている未来、いつかたどり着くあるべき将来を夢想した。
振りかえれば、現実の楽しいとき、快楽の時間や月日はそう長くは続かず、またたく間に、もうそこにはない過去になる。だから、いつしか消え去った快楽あるいは幸福感を再び得るために、新しい快楽を求めて歩かねばならなかった。
しかし、僕は最近は何はばかることなく、過去を礼賛し、過去の物語を再現するのに躊躇いを持たないようにしたのだった。
別に僕の過去が栄光に輝いていたからではない。もう、未来がなくなったからでもない。
過去を振り返るのは決して間違っていない。むしろ、その方がいいことだと言いきったのは作家で翻訳家の南條竹則だ。1958年生まれの50代前半だから、老いた偉い人の説教や道徳譚ではない。もちろん、過去の偉大な哲学者や作家や詩人でもそう説いた人はいただろうが、最近その説の本を出したという意味である。
「人生はうしろ向きに」(南條竹則著、集英社刊)で、南條は、後ろ向きをいけないと多くの人が思う(思いこんでいる)のは、今までの間違った世界観だという。
冒頭のエピソードで、フランス人の著者の友人が四方山(よもやま)話のなかで、ふとこう言う。
「I think nothing changes for the better」(何事も良い方には変わらないと思うがね)
著者は、この言葉をなるほど、と噛みしめる。
彼の言うように、至言である。
南條は、この「Nothing changes for the better(何事も良い方には変わらない)」という箴言のような言葉の実証をする。
今までわれわれを支配しているのは、昨日より今日、今日より明日の方が世の中は良くなる、という思想が根源にある。この思想は暗黙のうちに、われわれの社会全体を締めあげ、尻を叩き、前へ進め、前へ進め、とけしかける。まるで馬を鞭打つように。
進め、進め、未来へ向かって進め。未来には幸せがあるぞ。後ろを向いて過去を懐かしむのは負け犬だ。敗残者だ。頽廃した卑怯者だ。人間はいつも未来を向いて生きなければならんのだ。
この思想が、現代の道徳であり誰もこの考えに疑ったりしていない。例え疑っている人もいるだろうが、そんなことは大きな声では言えない。
こんな根拠のない野蛮思想に、人はいつから凝り固まってしまったのであろう?と南條は呟き、すぐさまそれへの反論と答えをたたき出す。
この思想(うしろ向きはよくないという)の誤りは、幸福と科学技術を一緒くたにすることから始まる。確かに、科学技術は-その一部分だけは-進歩するかもしれない。 しかし、それと幸福の増進とは比例しない。
南條は、例えば冷蔵庫のなかった時代と現代の、夏の氷の有り難さを比べてみる。また、楊貴妃が好きだった珍しい果実(茘枝ライチー)を例に、輸送機関の発達していない時代と現代の違いを例にとる。
かつて珍重されて至福を感じていたものも、その後の科学技術の発達で簡単に手に入るようになった。そうすると、どうなるか? 珍しくもなく、簡単に手に入るとなると、有り難がる気持ちはなくなる。
このように、人間は喜びでも快楽でも、それが常態となってしまうと、もう喜びとも快楽とも感じない。欲望は別の方向へ向かって、物欲しげにさまよい歩くのである。
そして、南條は言う。要するに、人間の心は穴の開いたバケツである。上からいくら水を注いでも、欲望という穴がそこにどんどん広がってゆくから、バケツは決して満ちることはない。
科学技術がいかに進歩しようと、この欲望の増殖には追いつけない。したがって、人間は決して満足しない。満足するのが幸福であるから、明日は今日よりも決して幸福にならない。
人間の際限のない欲望は、資本主義下の金(資本)に対する欲望を見れば分かるだろう。金を持ち始めると、もうこれでいいということを知らない。破滅するまで欲望は膨らむのである。
著者は、今日のハイテクノロジーが、未来においては人間の自由を奪う管理社会が来ると警告している。まるでかつての共産主義国家下のようであるが、科学の発達によって、厳密な情報管理のもと、個人のすべてが把握・管理される社会が来ると予測する。
そして、味気なくなった現代社会を嘆く。ビルは建つが人間くささが消えた現代の都市計画、グローバル化による、刺身にマヨネーズをかけるような食文化の変容、今どきの日本語に見る日本語の破壊、等々。
こうした現在と未来への失望のもと、著者はすっぱり順応をあきらめ、「昨日」を向いて暮らすことを宣言する。
「明日は今日より幸せになろう。今より充実した日々を送ろう」そんなことばかり考えているから、人間はダメになる。望みがかないそうもないと分かると、途端にショゲかえって、病気になったり自殺する。
「過去」を持っている人間は、未来なぞ気にすることはない。
未来なんか、死なない程度に生きていれば十分なのだ。
う~ん、潔い。
「過去」は、「現在」と違って打算も欲望もない。それは、「美」に対するのと同じ感覚で、だから「過去」は美しいのだ、と著者は言う。
「時間」という観点から世界や人生を見ると、「現在」は存在しても、「未来」や「過去」は存在するのかどうか分からない。僕らは、概念として「未来」「現在」「過去」をとらえているだけで、あるのは永遠に続く瞬間としての「現在」だけかもしれない。
あると仮定しても、「未来」は、どのようなものか分からない。だとすると、確かにあった「過去」をひっぱりだして、それに「栄光の」という装飾を付けるのは悪くない。
「不動の過去」を、自分の「栄光の過去」にするのである。
栄光といっても、成功したとか輝かしいという意味ではない。どのような暗澹たる過去であったにしても、決して後悔していない、確かに生きてきたといった意味での「栄光の過去」である。
カズオ・イシグロが言うところの、「記憶」(Memory)と「ノスタルジー」(Nostalgie)である。
記憶が、誰にも奪えない想い出、人生を語るのである。
潔くうしろを向きの、栄光の過去を語っていい頃である。
「もう過去を語っていい頃じゃないか。かつて栄光の過去を語ってもいい時代になっただろうと、最近考えるんだよ」
実際、過去を語ったり回想するのは、人生に後ろ向きだととられて、あまりおおっぴらにははばかられる。しかし、どうして過去を振り返るのは、あまりよく受けとられていないのだろう?
確かに若いときは、現実は辛くとも未来は輝いていた。いや、輝いている未来、いつかたどり着くあるべき将来を夢想した。
振りかえれば、現実の楽しいとき、快楽の時間や月日はそう長くは続かず、またたく間に、もうそこにはない過去になる。だから、いつしか消え去った快楽あるいは幸福感を再び得るために、新しい快楽を求めて歩かねばならなかった。
しかし、僕は最近は何はばかることなく、過去を礼賛し、過去の物語を再現するのに躊躇いを持たないようにしたのだった。
別に僕の過去が栄光に輝いていたからではない。もう、未来がなくなったからでもない。
過去を振り返るのは決して間違っていない。むしろ、その方がいいことだと言いきったのは作家で翻訳家の南條竹則だ。1958年生まれの50代前半だから、老いた偉い人の説教や道徳譚ではない。もちろん、過去の偉大な哲学者や作家や詩人でもそう説いた人はいただろうが、最近その説の本を出したという意味である。
「人生はうしろ向きに」(南條竹則著、集英社刊)で、南條は、後ろ向きをいけないと多くの人が思う(思いこんでいる)のは、今までの間違った世界観だという。
冒頭のエピソードで、フランス人の著者の友人が四方山(よもやま)話のなかで、ふとこう言う。
「I think nothing changes for the better」(何事も良い方には変わらないと思うがね)
著者は、この言葉をなるほど、と噛みしめる。
彼の言うように、至言である。
南條は、この「Nothing changes for the better(何事も良い方には変わらない)」という箴言のような言葉の実証をする。
今までわれわれを支配しているのは、昨日より今日、今日より明日の方が世の中は良くなる、という思想が根源にある。この思想は暗黙のうちに、われわれの社会全体を締めあげ、尻を叩き、前へ進め、前へ進め、とけしかける。まるで馬を鞭打つように。
進め、進め、未来へ向かって進め。未来には幸せがあるぞ。後ろを向いて過去を懐かしむのは負け犬だ。敗残者だ。頽廃した卑怯者だ。人間はいつも未来を向いて生きなければならんのだ。
この思想が、現代の道徳であり誰もこの考えに疑ったりしていない。例え疑っている人もいるだろうが、そんなことは大きな声では言えない。
こんな根拠のない野蛮思想に、人はいつから凝り固まってしまったのであろう?と南條は呟き、すぐさまそれへの反論と答えをたたき出す。
この思想(うしろ向きはよくないという)の誤りは、幸福と科学技術を一緒くたにすることから始まる。確かに、科学技術は-その一部分だけは-進歩するかもしれない。 しかし、それと幸福の増進とは比例しない。
南條は、例えば冷蔵庫のなかった時代と現代の、夏の氷の有り難さを比べてみる。また、楊貴妃が好きだった珍しい果実(茘枝ライチー)を例に、輸送機関の発達していない時代と現代の違いを例にとる。
かつて珍重されて至福を感じていたものも、その後の科学技術の発達で簡単に手に入るようになった。そうすると、どうなるか? 珍しくもなく、簡単に手に入るとなると、有り難がる気持ちはなくなる。
このように、人間は喜びでも快楽でも、それが常態となってしまうと、もう喜びとも快楽とも感じない。欲望は別の方向へ向かって、物欲しげにさまよい歩くのである。
そして、南條は言う。要するに、人間の心は穴の開いたバケツである。上からいくら水を注いでも、欲望という穴がそこにどんどん広がってゆくから、バケツは決して満ちることはない。
科学技術がいかに進歩しようと、この欲望の増殖には追いつけない。したがって、人間は決して満足しない。満足するのが幸福であるから、明日は今日よりも決して幸福にならない。
人間の際限のない欲望は、資本主義下の金(資本)に対する欲望を見れば分かるだろう。金を持ち始めると、もうこれでいいということを知らない。破滅するまで欲望は膨らむのである。
著者は、今日のハイテクノロジーが、未来においては人間の自由を奪う管理社会が来ると警告している。まるでかつての共産主義国家下のようであるが、科学の発達によって、厳密な情報管理のもと、個人のすべてが把握・管理される社会が来ると予測する。
そして、味気なくなった現代社会を嘆く。ビルは建つが人間くささが消えた現代の都市計画、グローバル化による、刺身にマヨネーズをかけるような食文化の変容、今どきの日本語に見る日本語の破壊、等々。
こうした現在と未来への失望のもと、著者はすっぱり順応をあきらめ、「昨日」を向いて暮らすことを宣言する。
「明日は今日より幸せになろう。今より充実した日々を送ろう」そんなことばかり考えているから、人間はダメになる。望みがかないそうもないと分かると、途端にショゲかえって、病気になったり自殺する。
「過去」を持っている人間は、未来なぞ気にすることはない。
未来なんか、死なない程度に生きていれば十分なのだ。
う~ん、潔い。
「過去」は、「現在」と違って打算も欲望もない。それは、「美」に対するのと同じ感覚で、だから「過去」は美しいのだ、と著者は言う。
「時間」という観点から世界や人生を見ると、「現在」は存在しても、「未来」や「過去」は存在するのかどうか分からない。僕らは、概念として「未来」「現在」「過去」をとらえているだけで、あるのは永遠に続く瞬間としての「現在」だけかもしれない。
あると仮定しても、「未来」は、どのようなものか分からない。だとすると、確かにあった「過去」をひっぱりだして、それに「栄光の」という装飾を付けるのは悪くない。
「不動の過去」を、自分の「栄光の過去」にするのである。
栄光といっても、成功したとか輝かしいという意味ではない。どのような暗澹たる過去であったにしても、決して後悔していない、確かに生きてきたといった意味での「栄光の過去」である。
カズオ・イシグロが言うところの、「記憶」(Memory)と「ノスタルジー」(Nostalgie)である。
記憶が、誰にも奪えない想い出、人生を語るのである。
潔くうしろを向きの、栄光の過去を語っていい頃である。